日めくり一週間

2020年3月22日

第1655回

「母」の信心は、子の「発心」の縁となり、

悩み」は広布のバネとなる

 

 〈7月の婦人部大会で婦人部長の清原かつは、婦人の信心の在り方を訴える〉
 「女子部の幹部の方たちに、どういう動機で信心をしたのかを尋ねてみました。すると、七人いた女子部員全員が、生活も大変ななかで、グチも文句も言わずに、いつも笑顔で頑張っている母親の姿を見て、信心をしてみようという気になったと言うのです。
 つまり、お母さんの強さや優しさ、また、すばらしさの源泉が、信心にあることに気づき、若い娘さんが信心を始めているのです。(中略)
 もう一つ申し上げておきたいことは、皆、それぞれに悩みを抱えていますが、その克服を自分の課題として、学会活動に励んでいこうということであります。たとえば、夫の仕事がうまくいかずに悩んでいるなら、今月は、それを願って一人の友人に信心を教えよう、何遍の唱題に挑戦しようというように、悩みを広宣流布の活動のバネにしていくことが大事ではないかと思います。
 広宣流布のために働き、祈るならば、必ず功徳があります。したがって、一つ一つの活動に自分の悩みをかけて、幸福へのステップとしていくことです。個人としての活動の意味が明確になれば、張り合いも生まれ、力も出ます。私たちは、全員が幸福という確かな道を、堂々と歩んでまいりましょう」

 新・人間革命 2巻 錬磨 

2020年3月21日

第1654回

学会の強さの秘密は

師との強い「心」の絆である


 〈1960年(昭和35年)5月の女子部幹部会で、山本伸一は恩師・戸田城聖について語る〉
 「(戸田)先生が、一人ひとりを励ますために、陰でどれほど心を砕いていたか計り知れない。生涯を通じて、連日、個人指導に何時間も時間を費やし、また、手紙で、電話で、あるいは人を介して、さまざまな指導、激励の手を差し伸べられた。先生に、直接、指導を受け、幸せになっていった人は、何万人にものぼります。
 つまり、一人ひとりが先生につながり、人間として、師匠として、敬愛していたから、皆が自主的に、喜び勇んで、広宣流布に挺身してきた。だからこそ、学会は、花のような明るい笑顔に包まれ、ここまで発展を遂げたんです。それが学会の強さの秘密です。学会は、信心を根本に、戸田先生との人間の絆で結ばれた、自立と調和の共同体であるといえましょう。
 その学会の真実を見極めようとせず、戸田先生のことを、命令一つで組織を動かすカリスマのように思っている。なかには、敢えてそのように喧伝し、学会の悪印象を植えつけようとするマスコミも一部にありました。
 戸田先生は、そうしたなかで、自分は凡夫であると言い切られた。それは、宗教の神秘主義、権威主義への挑戦です。また、大聖人の人間仏法の本義もそこにあります。
 戸田先生が、ご自身を“立派な凡夫”と言われた意味は、仏法のうえでも、深いものがあります。
 現実の振る舞いに即して“立派な凡夫”ということを論じれば、それは自己の人間完成に向かって、常に学び、磨き高めていく、向上、求道の生き方といえます」

 

新・人間革命 2巻 先駆 

2020年3月18日

第1653回

「仏」は自身の中に

 

 〈ニューヨークの座談会を訪れた伸一は、信心の確信を持てない婦人たちを温かく包み込むように指導〉
 「信心を貫くならば、一人も漏れなく、幸福になれます。現に、日本では、百万人を超える同志が幸せになっています。それが最大の証明ではないですか。仏典には、こんな話が説かれています。
 昔、ある男が、親友の家で酒を振る舞われ、酔って眠ってしまった。親友は、この男が決して生活に困り、嘆くことのないように、寝ている間に、最高の高価な宝石を衣服の裏に縫いつけてあげた」
 参加者は、吸い込まれるように、伸一の話に聞き入っていった。
 「……やがて、男は別の土地に行き、おちぶれて食べるにも事欠くほど貧乏になってしまった。しかし、自分の衣服に、そんな高価な宝石が縫いつけられていることなど、全く気づかなかった。おちぶれた果てに、男は親友と再会する。親友は、男の衣服に、高価な宝石を縫いつけたことを教える。その宝石のことを知った男が、幸せになったのはいうまでもありません。
 これは、法華経に説かれた『衣裏珠の譬』という説話です。最高の宝石とは、皆さんの心にある『仏』の生命のことです。御本尊に唱題し、広宣流布のために戦うことによって、その『仏』の生命を引き出し、最高の幸福境涯を築くことができる。
 しかし、せっかく信心をしながら、それがわからずに、ただ悲しみに沈んでいるとしたなら、この説話の男と同じようなものです」

 

新・人間革命 第1巻 慈光

2020年3月17日

 

第1652回

誓願の祈りは決意の唱題


 〈ブラジルのサンパウロの座談会で伸一は、農業を営み、不作に悩む壮年の質問に答える〉
 「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも“誓願”の唱題でなければならない」
 「セイガンですか……」
 壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
 伸一が答えた。
 「“誓願”というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。
 日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です。
 つまり、“私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください”という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです」

 

新・人間革命 第1巻 開拓者

2020年3月16日

第1651回
「地涌の菩薩」こそ、
我等の究極のルーツ

 

 〈シカゴの座談会で伸一は、人種差別に苦しみ、自分のルーツに縛られてきた黒人の青年に、「地涌の菩薩」の自覚に立つよう促す〉
 「仏法では、私たちは皆、『地涌の菩薩』であると教えています。
 『地涌の菩薩』とは、久遠の昔からの仏の弟子で、末法のすべての民衆を救うために、広宣流布の使命を担って、生命の大地から自らの願望で出現した、最高の菩薩のことです。
 もし、ルーツと言うならば、これこそが、私たちの究極のルーツです。つまり、私たちは、いや、人間は本来、誰もが社会の平和と幸福を実現していく使命をもった久遠の兄弟なんです。
 自己自身の立脚点をどこに置くかによって、人生の意味は、まったく異なってきます。たとえば、緑の枝を広げた大樹は、砂漠や岩の上には育ちません。それは、肥沃な大地にこそ育つものです。
 同じように、豊かな人間性を開花させ、人生の栄冠が実る人間の大樹になるには、いかなる大地に立って生きていくかが大事になります。その立脚点こそ、『地涌の菩薩』という自覚なんです。
 この大地は普遍であり、人種や民族や国籍を超え、すべての人間を蘇生させ、文化を繁茂させます。その地中には、慈悲という清らかな利他の生命の泉が湧いています。皆がこの『地涌の菩薩』の使命を自覚し、行動していくならば、真実の世界の平和と人間の共和が築かれていくことは間違いありません」

 

新・人間革命 1巻 錦秋

2020年3月15日

第1650回

平和の原点、それは、
どこまでも「人間」に帰着する

 

 〈1960年(昭和35年)10月、山本伸一はハワイの座談会で、アメリカ人と結婚し、孤独を抱えながら暮らす日本人女性を励ます〉
 「あなた以外にも、このハワイには、同じような境遇の日本女性がたくさんいると思います。
 あなたが、ご家族から愛され、慕われ、太陽のような存在になって、見事な家庭を築いていけば、日本からやってきた婦人たちの最高の希望となり、模範となります。みんなが勇気をもてます。
 あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。
 だから、悲しみになんか負けてはいけません。強く、強く生きることですよ。そして、どこまでも朗らかに、堂々と胸を張って、幸せの大道を歩いていってください。さあ、さあ、涙を拭いて」
 伸一の指導は、婦人の心を、激しく揺さぶらずにはおかなかった。慈愛ともいうべき彼の思いが、婦人の胸に熱く染みた。彼女は、ハンカチで涙をぬぐい、深く頷くと、ニッコリと微笑んだ。
 「はい、負けません」
 その目に、また涙が光った。それは、新たな決意に燃える、熱い誓いの涙であった。
 伸一の平和旅は、生きる希望を失い、人生の悲哀に打ちひしがれた人びとに、勇気の灯を点じることから始まったのである。それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。
 しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人ひとりの人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はないことを、伸一は知悉していたのである。

新・人間革命 1巻 旭日

◆3月15日

第1649回
祈りは、
人間の人間たる証し

 

<祈りから希望が生まれる>

 

①人間革命の祈り

自他共の幸福の祈り

誓願の祈り

 

 祈りは、
 人間の人間たる
 崇高な証しである。
  
 無宗教だという人も、
 何か祈っている。
 「苦境を脱したい」
 「よりよく生きたい」
 「家族を守りたい」などと
 強く欲するのは、
 人間として
 本然的な心である。
  
 思いやりも、
 友情も、
 祈りから始まる。
 祈りこそ、
 人間と人間を
 結びゆく力である。
  
 我らの祈りは、
 「人間革命の祈り」だ。
 人や周囲が
 変わってくれるのを
 待つのではない。
 強盛な一念で
 自分自身が変わり、
 その波動を広げるのだ。
 我らの祈りは、
 「自他共の幸福の祈り」だ。
 あの友も、この友も、
 共々に
 仏の生命を開きながら、
 絶対に幸福を
 つかんでいくための
 原動力なのだ。
 我らの祈りは、
 「誓願の祈り」である。
 広宣流布の大願へ、
 拡大と勝利を誓い、
 自ら行動を起こし、
 実現していくのだ。
  
 希望を自ら生み出す
 原動力こそ、
 「南無妙法蓮華経」の
 唱題行である。
 題目の力は無限だからだ。
 題目を唱えた瞬間から、
 自身の一念を変革し、
 希望の明日を
 創り開いていけるのだ。
  
 日々、自分のなすべき
 具体的な目標を
 明確に定めて、
 一つ一つの成就を祈り、
 挑戦していくことだ。
 その真剣な一念から、
 智慧が湧き、
 創意工夫が生まれ、
 そこに成功がある。
 つまり、「決意」と「祈り」、
 そして、「努力」と「工夫」が
 揃ってこそ、
 人生の勝利がある。

 

2020.3.15付聖教新聞 〈池田大作先生 四季の励まし〉

2020年3月14日

第1648回
信心をしているか否かで
人を決めつけてはならない!


 〈サンフランシスコで伸一は、信心に励む妻を支える未入会の夫への感謝を語る〉
 「信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。私は、その尽力に、最大の敬意を表したいんです。
 みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
 信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。また、逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。
 だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや、人権問題でさえあると私は思っているんです」
 伸一の思考のなかには、学会と社会の間の垣根はなかった。仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である。
 また、たとえば広い裾野をもつ大山は容易に崩れないが、断崖絶壁はもろく、崩れやすいものだ。同様に、盤石な広布の建設のためには、大山の裾野のように、社会のさまざまな立場で、周囲から学会を支援してくれる人びとの存在が大切になってくる。
 更に、そうした友の存在こそが、人間のための宗教としての正しさの証明にほかならないことを、彼は痛感していたのである。

 

新・人間革命 1巻 新世界

2020年3月2日

第1647回
「善の根本」は法性、
「悪の根本」とは無明

 

<三災七難は一国謗法が原因>

 

 大聖人は「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」と仰せです。大聖人は、この仏の智慧によって予言をされたのです。
 「善の根本」とは法性(妙法の悟り)、「悪の根本」とは無明(根本的な迷い、妙法に対する迷い・不信)です。無明が「悪の根本」であるのに対して、先ほどの貪欲・愚癡・瞋恚の三毒や、三毒から起こる飢饉・疫病・戦乱の三災、さらにはそれらが複合して起こる五濁などは「悪の枝葉」に当たるでしょう。
 大聖人は「立正安国論」で、当時の三災七難の根本原因は一国の「謗法」にあると仰せです。謗法は、妙法への不信・誹謗ですから、悪の根本である無明に等しい。この一国の謗法を放置する限り、あらゆる悪の枝葉が起こってくるのです。善悪の根本を悟り、当時の社会に悪の根本である謗法が盛んであることを洞察された大聖人は、経典に説かれた三災七難という悪の種種相のうち、当時、まだ起こっていない戦乱、すなわち他国侵逼難と自界叛逆難が必ず起こると予言されたのです。
 日蓮大聖人は、言うならば「妙法の智慧」に基づき、打ち続く災難の根本原因を解明し、民衆を苦悩から解放しようとされたのです。

 

「御書の世界」(下)

2020年3月2日

第1646回
妙法に背いた罪による病は、
妙法に帰することによってしか治らない

 

<広布の時、三災七難は逆次に起こる>

 

「実相」は必ず「諸法」に顕れる

 

 〇〇 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」(『淮南子』)とあります。「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。
 池田 見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。
 〇〇 諸法を見て実相を知る智慧は、学者や芸術家、商売上手な人、家庭をきりもりする聡明な母など、それぞれ一面的には持っているのではないでしょうか。
 池田 当然、そうでしょう。法眼・仏眼にいたらなくとも、慧眼・天眼がある。
 何と言っても、戸田先生は鋭かった。現象を通して本質を見抜く天才だった。先生ほどの指導者は、ほかにいないでしょう。
 はじめに話題になった、日本の敗戦と荒廃の姿──これは「諸法」です。それを見て、先生は、「大仏法興隆の時」であると叫ばれた。これこそ諸法実相の智慧ではないだろうか。
 逝去された年(一九五八年〈昭和三十三年〉)の「年頭の言葉」にも書かれていた。
 「政治、労働、文化、経済、教育等々、各界がみな自界叛逆の相を呈して、五濁悪世の名にもれず、泥沼にうごめくがごとき状態を続けている。そして、これが一国謗法の総罰のすがたであるとは、だれも考えおよぶ者がいない」(『戸田城聖全集』3)と。
 〇〇 具体的には何をさして、おっしゃったのでしょうか。
 池田 政界では、組閣や閣僚ポストをめぐる内部分裂。労働界では、指導者層の、一般組合員層からの遊離。文化面では、健全な文化の育成を阻む学閥抗争──等々を挙げられていた。
 〇〇 そうした傾向は、今も変わっていません。問題は、なぜこうなるのかだと思いますが。
 池田 そう。戸田先生は、指摘された。
 「もともと、あらゆる機構は相争うために生みだされたものではない。それは人類福祉のために考えられ、採用されたものであったはずである」(同前)
 〇〇 まったく、その通りです。
 池田 そして結論的に、こう言われた。
 「それにもかかわらず、いま、まったく反対機能の場となってしまった理由は、一国こぞって正法に反対し、これを説く者を迫害し、こぞって誹謗正法の罪をつくっているところにある。
 すなわち、日蓮大聖人の立正安国のお教えに背いているためなのである」(同前)と。
 〇〇 「立正安国論」で大聖人は、経文に照らして警告されました。人間の根本である思想・宗教が乱れ、それを放任したまま正法に目覚めないならば、その乱れは必ず国土・社会に反映するであろうと。
 池田 思想・宗教の乱れとは、「諸法の実相」を見られない智慧の乱れであり、ひいては生命の乱れです。依正不二が実相であるゆえに、その「正報」の乱れが、「依報」である社会・国土にも不調和を起こすのです。
 〇〇 三災七難ですね。
 池田 大聖人の当時は、軽い難から重い難へと、順次、起こった。数々の天変地夭。権力抗争による内乱(自界叛逆難)。そして最後は、蒙古襲来という最大の難「他国侵逼難」です。
 時移り、戸田先生は「いま広宣流布の時をむかえて、難の出方が大聖人御在世と逆次にでてきている」と指摘された。つまり最初に、未曾有の大敗戦という「他国侵逼難」。そして、各界の分裂・抗争に見られる「自界叛逆難」にさしかかっていった。
 妙法に背いた罪による病は、妙法に帰することによってしか治らない。だから全民衆の幸福のためには、妙法の広宣流布しかないのだと叫ばれたのです。
 〇〇 戸田先生は、経典と大聖人の仰せに照らし、民衆のゆく末を憂えて、戦後社会という諸法の実相を洞察されたのですね。
 池田 そう。身近なことでは、広宣流布の大進展が、まちがいないという一つの証拠(諸法)として、「交通の便」の発達をよく挙げられていた。多くの人が集まれること自体、すごいことなのだと。その通りであった。
 ともあれ、諸法実相は、どこまでも「現実を変革」する哲理です。苦悩に満ち満ちた現実を絶対に離れない。逃げない。その現実のなかから、人々の仏界の生命を開発し、世界の安穏を実現していく智慧なのです。

 

 法華経の智慧 方便品(第二章)

3月1日

第1645回
 どうすれば、

皆が元気に喜んで進んでいけるか

 

<大切なのは、

心を「軽く」してあげることだ>

 

 どうすれば、
 皆が元気に喜んで
 進んでいけるか。
 具体的に手を打つことだ。
 何があろうと、
 妙法の力で
 変毒為薬していく。
 共に祈り、
 苦難を乗り越える。
 これが、
 我ら創価家族だ。
 分け隔てなく、
 励まし合い、支え合う。
 心と心の絆が
 安心社会をつくるのだ。
  
 「大丈夫?」「元気?」
 「頑張ってね」と、
 常に励ましの言葉を
 かけ合っていきたい。
 「心」が通えば、
 「力」に変わる。
 「力」を出せば、
 必ず「道」は開けてくる。
 また人を励ますことは、
 自分自身をも勇気づける。
 「励まし」は人を変え、
 自分を変えるのである。
  
 大切なのは、
 心を「軽く」して
 あげることだ。
 「強く」「明るく」して
 あげることだ。
 たとえ会えなくても、
 電話の一言で、
 目の前の壁が
 破れることもある。
 一通の置き手紙が、
 その人の人生を
 変える場合だってある。
  
 相手の言うことに、
 じっと耳を傾ける。
 じっくりと
 話を聞いてあげる。
 それだけで、
 スッキリする。
 心が軽くなる場合が多い。
 聞いてあげること自体が、
 仏法で説く慈悲の実践、
 「抜苦与楽(苦を抜き、
 楽を与える)」の
 「抜苦」となるのだ。
  
 励ましとは、
 安心と希望と勇気を
 与えることである。
 相手の生命を
 燃え上がらせ、
 何ものにも
 負けない力を引き出す、
 精神の触発作業である。
 励ましの本義は、
 相手の
 幸福を願う心にある。

 

2020.3.1 聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉

2020年2月25日

第1644回

なぜ次から次へ、

三災七難が打ち続くのか?

 

<大聖人(創価学会)に

前代未聞の大瞋恚を起こしているから>

 

正法の人を憎む故に三災七難が

 御書の「治病大小権実違目」に、こう仰せである。
 「此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚しんにを起せり(中略)結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし
 ──この三十数年間の三災・七難等の原因は全く他のことではない。日本一同に日蓮をあだみ、国ごと、郡ごと、郷ごと、村ごと、人ごとに、上一人より下万民にいたるまで(大聖人に対して)前代未聞の大瞋恚(怒り、うらみ)を起こしているからである。(中略)結局は、勝負を決する以外に、この災難を止めることはできない──。
 自然の災害、悪賊による騒乱、また内乱、他国からの攻撃、飢饉など深刻な経済の不況、身の病・心の病の蔓延など……。なぜ次から次へ、三災七難が打ち続くのか?
 その根本原因が、この御文に明快に示されている。そして、この苦悩の流転を止めんがために、大聖人は、権威・権力の魔性と戦い、三類の強敵に真っ向から挑まれたのである。
 この正義の大闘争こそが広宣流布である。

 時代の混迷を目の当たりにしながら、何もせず、ただ傍観している──それほど無責任な、卑怯なことはない。
 今、創価学会が立ち上がり、全力で、誠実に行動している。これこそ大聖人の御心に適っていると確信する。
 「仏法は勝負」である。ひとたび戦いを開始したからには、断じて負けるわけにはいかない。師子として仏敵を打ち破り、勝ち抜いていく以外ない。すべては、ただ民衆の安穏のためである。

 

「幸福の種をまく人」

 

 ここで、大聖人が婦人門下の妙法尼に送られた「法華初心成仏抄」の一節を拝したい。
 この御書でも「女人成仏」の法理が明快に示されている。
 ご存じのように、法華経以前の仏典や仏教以外の多くの教えでは、女性は不当に差別されてきた。しかし、大聖人は、女性が「やすやすと仏になるべし」──やすやすと仏になれる──と高らかに宣言なされている。
 この一点から見ても、日蓮大聖人の仏法こそ、女性の時代たる二十一世紀をリードしゆく「平等」と「調和」の哲理なのである。
 大聖人は、妙法尼に、こう語りかけておられる。
 「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり
 ──とにもかくにも法華経を、あえて説き聞かせるべきである。(それを聞いて)信ずる人は仏になる。謗る者も、それが″毒鼓の縁″となって仏になるのである。どちらにしても仏の種は法華経よりほかにはないのである──。
 (「毒鼓の縁」とは、毒薬を塗った太鼓(毒鼓)の音を聞けば、聞くつもりがなくても死に至るとされていることから、不信の者でも正法を「聞く」ことによって成仏に至ることを譬えたもの)

 皆さまが勇気をもって、仏法を語れば語るほど、人々の心の奥に、最高の「幸福の種」をまくことができる。たとえ、今は相手が反対したとしても、必ず花開く時が来る。
 なかんずく、婦人部の確信の弁舌は、観念論ではない。言葉だけの空まわりでもない。強き一念、深き体験より発する、我が婦人部の一言一言には、人々の心を打つ響きがあり、心を動かしていく力がある。
 皆さまが祈り、しゃべった分、仏縁を結び、広宣流布のすそ野は広がっていく。
 ところで、大聖人は御書のさまざまなことろで、よき僧侶の条件を明確に挙げておられる。
 すなわち、(1)これといった世間的な罪がない(2)権力などに、いささかもへつらわない(3)少欲知足(4)慈悲がある(5)経文の通りに法華経を読み持つ(自ら修行する)(6)人にも勧めて法華経を持たせる(布教する)──である。
 この基準に、ことごとく違背しているのが、日顕宗の悪僧なのである。
 (1)世間的な罪、反社会的な行為(2)権力に迎合(3)貪欲(4)無慈悲(5)修行しない(6)布教しない。
 ゆえに、御聖訓に照らして、厳然たる仏罰、なかんずく冥罰みょうばち(すぐに表面には出ないが、後々に必ずあらわれる罰)は絶対にまぬかれない。

 

一切衆生の仏性を妙法の一音が呼び顕す

 

 大聖人は、この御書の結びにこう仰せである。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 ──ひとたび妙法華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・太陽と月・星々・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界という一切衆生の心の中の仏性を、ただ一声で呼びあらわせる、その功徳は無量無辺である──。
 妙法の音声に、どれほどの力が秘められていることか。
 それは、全宇宙のあらゆる衆生が具えている尊極の仏性を呼び覚ましていく。ゆえにすべてを仏天の加護に変え、味方へと転じられるのである。
 功徳の「功」とは、「悪を滅する」こと。功徳の「徳」とは、「善を生ずる」ことである。
 学会の正義が、このように堂々と証明されゆくのも、学会員なかんずく婦人部の皆さまの懸命な祈りと戦いの功徳なのである。
 皆さま方の大闘争に呼応して、今、諸天善神もグングン勢いを増し、働いている。
 さらに朗々と、妙法を世界へ宇宙へ響かせながら、人々の心に「希望の種」をまく一日一日でありたい。

 

1995.10.8 滋賀県最高協議会

2月23日

第1643回
 青年とは「誓願に立つ人」

< 我々には何一つ、差別はないのである。>

 

 青年には未来がある。
 青年には、
 無限の力がある。
 ゆえに、青年を育成し、
 青年を大事にし、
 青年に
 バトンタッチしていく
 流れを
 着実につくったところは、
 会社も、社会も、国も、
 全部、成功する。
 あらゆる世界で、
 未来を決定づけるのは、
 すべて後継者である。
  
 青年には
 進取の気性がある。
 活力が溢れ、
 柔軟性に富んでいる。
 新しい歴史を開くのは、
 断じて青年だ。
 戸田先生、
 そして私の思いは、
 この青年を愛し、
 信ずる一心である。
  
 先輩は、
 伸びゆく後輩を
 大切にすることだ。
 後輩は、
 先輩のよいところを
 見習って、
 大いに
 力をつけていくことだ。
 全員が
 尊き使命を持った
 地涌の菩薩である。
 全員が偉大なる
 広宣流布の同志である。
 我々には何一つ、
 差別はないのである。
  
 若さは、
 いかなる苦難も
 悩みも失敗も、
 前進の力に変えていける。
 若さには、
 人生の至宝の
 勇気と情熱がある。
 誠実と真剣さがある。
 ゆえに、
 勇敢なる信心で
 偉大な誓願に立つ人は皆、
 青年といってよい。
  
 いよいよ、これからだ。
 心まで老けてはいけない。
 たとえ、年をとっても、
 皆が青年らしく進めば、
 未来は盤石だ。
 日本中、世界中に、
 青年が躍り出ている。
 青年を増やすことが
 広宣流布である。

 

2020年2月23日聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉

2月22日

第1642回
下から上を動かせ!

 

<幹部は同志のためにいるのだ!>

 

  幹部は同志のためにいる。誠意を尽くせば、皆、気持ちがいい。反対に、つんとして、人の意見も聞かず、威張ってばかりでは、まるで″独裁者″だといわれでも仕方がない。
 もしも、将来、堕落の幹部が出たら、皆が厳しく正すことだ。
 初代会長牧口先生は「下から上を動かせ」と教えられた。
 正しいことは正しい、おかしいことはおかしいと言いきる。建設的な声をあげることである。
 最も大事なのは学会員である。
 私は十九歳の時から、戸田先生と学会を、守りに守ってきた。「師弟不二」を貫いてきた。
 これが、初代、二代、三代と続いてきた、純粋な学会の伝統である。
 この精神を、いかに永遠たらしめるか――広布のリーダーの皆さんは、この一点を真剣に考え、会員の幸福のために、「不惜身命」の決心で戦っていただきたい。


2006年2月23日全国代表協議会

2月22日

第1641回
『前進』が合言葉だ!

 

 私は先月、ロシアの文豪の名を冠したA・M・ゴーリキー記念ウラル国立大学から名誉博士号を受章した。
 このゴーリキーはつづっている。
 「前進への意欲――これこそ人生の目的なり。生涯、前進し続けるのだ。そこに、気高くすばらしい時がある」(Алексей Максимович Горький, Полное собрание сочинений, Том.3, Наука.)
 「前進」といえば、若き日の文京支部での戦いを思い出す。当時、文京支部の折伏成果は、全国で最下位クラスであった。支部長は女性だった。
 彼女から支部の窮状を訴えられた戸田先生は、こう言われた。
 「僕の懐刀を送ることにしよう」
 私が文京支部長代理の任命を受けたのは、昭和二十八年(一九五三年)の四月であった。
 私は最初の班長会で申し上げた。
 「人生は前進です。限りない前進です。英雄ナポレオンの合言葉は『前進』でした。私たちは、広宣流布の英雄です。破邪顕正の英雄です。
 わが文京支部は、『前進』の魂を断固と燃やそう! 『前進』を合言葉としよう!
 そこから文京の大前進が始まった。私は具体的な目標を掲げ、各地区を駆けた。一人一人と誠実の対話を重ねていった。そして、この年の十二月には、文京は第一級の支部へと発展を遂げたのである。
 私は、どこに行っても連戦連勝で勝利の歴史を築いてきた。昭和三十一年(一九五六年)、大阪では、「まさかが実現」とマスコミが驚嘆するほどの大勝利の金字塔を打ち立てた。
 当時、大阪よりも東京のほうが、はるかに情勢はよかった。「勝てる」と多くの人が思っていた東京が負けてしまった。そして、劣勢だった大阪が勝利した――皆、本当に驚いた。
 関西は、私が手づくりで築いた「常勝の天地」である。だからこそ私は関西を信頼する。関西を大事にする。


2006年2月23日全国代表協議会

2月9日

第1640回

「必ずできる!」

 

 冬は、鍛えの季節である。
 試練に負けないで
 力をつける時だ。
 草花や木々たちも、
 動物や昆虫たちも、
 凍てつく
 寒さに耐えながら、
 春を迎えるために、
 一生懸命に
 準備をしている。
 未来に、どのような
 才能の芽を伸ばし、
 そして勝利の花を
 咲かせていくか。
 そのための芽生えは、
 自分自身の心の中にある。
  
 「自分には無理だ」などと
 決めつけては
 絶対にいけない。
 生命には
 宇宙大の力がある。
 それを引き出すのが
 妙法である。
 「必ずできる!」と
 固く心に決めるのだ。
 一心不乱の祈りと行動が、
 限界の壁をつき破る。
  
 苦労しているから、
 人に寄り添える。
 悲哀に負けないから、
 嘆きの友を励ませる。
 悩める人を
 幸福にするために、
 自らが悩みを乗り越え、
 勝利の実証を!――
 これが広布に生きる
 師弟の誓願である。
  
 「自分のことを
 思ってくれる人がいる」
 ――その手応えが、
 苦悩の人の生命空間を、
 すっと広げてくれる。
 他人や世界と
 “共にある”という
 実感があれば、
 必ず
 立ち上がることができる。
 それが
 生命のもっている力だ。
  
 強盛な祈りで立ち上がれ!
 題目は師子吼だ。
 滾々と勇気が湧き、
 満々と生命力が漲る。
 さあ、いよいよ、
 これからだ! 
 人間の中へ、
 民衆の中へ、
 勇んで飛び込み、
 大誠実の力で、
 我らは勝利していくのだ。

 

2020.2.2〈池田大作先生 四季の励まし〉「生命の力」に限界なし

2月1日

第1639回

夢物語が現実に!

 

<生きていること自体が楽しい>

 

 今、あらためて思い起こされる恩師の宣言がある。

 「我々はこの世に楽しむために生まれてきたのだ」と。

 戦後の苦悩渦巻く大混乱の時代の只中にありながら、

 戸田先生は、信心の力で一人一人が「生きていること、それ自体が楽しい」という人生を開いていけると断言された。

 そして、「日本中、世界中の人をみんな楽しい笑顔にしようではないか」と呼び掛けられたのである。

 夢物語のように聞いた人も少なくなかった。しかし、御聖訓に深く裏付けされた大確信の叫びであった。

 

 日蓮大聖人は、苦難と戦う四条金吾夫妻に仰せである。

 「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云々、此の文・あに自受法楽にあらずや」(1143頁)

 

 それは、富や名声など、儚く移ろう楽しみではない。自らの生命の中から込み上げてくる大歓喜である。

 大聖人は、「衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり」遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」(同頁)とも示された。

 「一切衆生」がもれなく、「一閻浮提」のいずこでも、題目を唱えれば、妙法の当体として必ず「遊楽」の境涯と国土を創造していけると、約束くださっている。

 

 現実の苦しみは賢人・聖人も逃れることはできない。

 だからこそ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて」(同頁)題目を唱え、前進するのである。

 ここに、いかなる人生の宿命も社会の難題も、一つ一つ打開し、未来を照らしていく「絶対勝利」の道がある。

 その何より雄弁な実証は、共戦の旅を勝ち越えた多宝の父母たちのいぶし銀の笑顔ではないだろうか。うれしいことに今、聖教新聞を通し、全世界へ発信されている。

 

 修羅の命が噴出する時代であればこそ、一段と異体同心の結合を強め、我らは「歓喜の中の大歓喜」の妙法を人類へ伝え弘めようではないか!

 「いよいよ強盛の信心をいたし給へ」(同頁)との仰せのままに。

 

 苦楽をば

  分けあう縁の

    我らかな

   永遠に進まむ

       遊楽道を

 

 大白蓮華2020年2月号№844 巻頭言より

1月24日

第1638回

真の覚り

 

人々の幸福のために行動する


 平和は
 彼方にあるのではない。
 自分のいるその場所に、
 信頼と友情の世界を
 築き上げるのだ。
 その輪の広がるところに、
 世界の平和があるのだ。
 
 一方的に話すのは
 対話ではない。
 まず、相手を尊敬し、
 耳を傾けることだ。
 聞く、話す、また聞く。
 その胸襟を開いた応答が
 「思い込み」や「先入観」という
 心の壁を破っていく。
 相手も人間、
 こちらも人間である。
 そこに
 なんの差別もないと知れば、
 心と心が通い、信頼が生まれる。
 
 創価学会は、どこまでも、
 民衆の幸福と
 世界の平和のために、
 現実社会の変革に
 挑戦しゆく使命を貫く。
 そこに、
 「人間のための宗教」の
 精髄があるからだ。
 それは、
 仏教の根本精神でもある。
 仏教は、本来、
 自分一人が覚って、
 それで満足して終わる
 宗教ではない。
 「人々の幸福のために行動する」
 ――この実践があってこそ、
 真の覚りといえる。
 
 「暴力」か「対話」か――。
 世界の各地では、
 今なお熾烈な紛争が続き、
 憎悪と暴力の連鎖が続いている。
 だからこそ、
 私たちは「対話」を
 決して手放してはならない。
 断固たる「対話の選択」こそ、
 「平和の選択」となり、
 必ずや人類の
 「生への選択」に通じていくと、
 私は信じている。
 
 人が人を殺戮することのない、
 平和と不戦の世界を創っていく――
 それが、私たち創価の悲願だ。
 SGIの使命である。

 

2020.1.19 〈池田大作先生 四季の励まし〉

1月18日

第1637回

励ましの金言

 

<大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ>


 御聖訓には、「法華経の功徳はほむれば弥いよいよ功徳まさる」と仰せである。
 妙法のすばらしさを讃えれば、いよいよ、功徳は大きくなる。
 リーダーは、妙法を弘める同志の活躍を、真心から讃え、ねぎらい、そして、励ましていくことだ。その分だけ、妙法の功徳はいちだんと輝き、いちだんと広がっていく。
 大聖人の御書も「励ましの金言」である。
 人間の世界は励まし続ける以外にない。家庭でも、学校でも、団体でも、社会でも、励ましがなくなれば発展はない。
 励ましから、前進への勢いが生まれる。人間としての生きがいが広がる。
 励まさない幹部は、もはや幹部とはいえない。それでは、自分自身も成長しない。
 「善をなす力を持ちながら、善をなさぎる者は、一層の罪人である」(Heineich Pestalozzi, ''THE EDUCATION OF MAN,'' translated from German to English by Heinz and Ruth Norden, Philosophical Libary, Inc., New York, 1951)とは、スイスの大教育者ペスタロッチの戒めであった。
 「声仏事を為す」である。声の力で、仏の仕事ができるのである。
 ゆえに、リーダーは、一人一人と会い、声を惜しまず、同志を、後輩を、青年を徹底して激励しぬいていくことだ。
 そして邪悪に対しては厳しく破折していくことだ。
 経済苦や病苦と格闘している友もいる。また人生は、だれしも悩みとの戦いだ。
 フランスの作家シャトーブリアンがつづったように、「大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ」(『アタラ ルネ』畠中敏郎訳、岩波文庫)ものであろう。
 なかんずく、広宣流布の使命に生きゆく人生は「煩悩即菩提」であり、大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がり、大きく福運が積まれる。
 仏法は「変毒為薬」の大法である。何があろうとも、必ず乗り越えていくことができる。また一つずつ絶対に打開できるように試練が現れてくるのが、「転重軽受」の甚深の法門である。
 ゆえに、宿命転換の戦いに、断じて負けてはならない。
 どんなに大変なことがあろうと、妙法を唱え、仏意仏勅の学会とともに生きぬく人は、厳として守護され、必ずや良い方向へ向かっていく。所願満足の幸福の軌道を歩んでいけることは、御聖訓に照らして、間違いない。

2002.12.25全国最高協議会

1月15日

第1636回
青年が盤石なら次の50年も勝利

 

 これからの一つの重大なポイントは、「青年の育成」である。
 学会の未来は、青年部で決まる。すべては青年部に託していくしかない時代だ。
 これまでの学会の五十年は、戸田先生のもとに集った青年部が広宣流布の一切を担い、切り開いてきた。
 しかし、時代は、大きな転換期に入っている。今の青年部を、皆で真心から激励し、鍛え、育てながら、「新しい力」で「新しい大波」を起こしていくことである。
 大事なのは、青年を信頼し、青年を尊敬し、青年の若い力、若い頭脳、若い息吹、若い考え方を上手に引き出していくことだ。若い人が伸び伸びと活躍できる舞台をつくっていくことだ。その点に、全幹部が総力をあげて取り組んでいっていただきたい。
 青年部が盤石にできあがれば、学会の「次の五十年の勝利」は決まるからである。
 青年部の諸君は、明年、一人ももれなく、最前線に立って戦い、一切の勝利の突破口を開いていっていただきたい。
 広宣流布とは、革命である。戸田先生は「革命は死なり」と、炎のごとく指導された。これが、偉大なる恩師の決心であった。
 私もまた、同じ心で、一人の革命児として生きぬいてきた。
 本当の戦いは、気取りや見栄があってはできない。格好ではない。行動である。執念である。勝つか、負けるかである。


2002.12.25全国最高協議会

1月6日

第1635回
生まれ変わった

みずみずしい心で前へ!

 

自分には、これほどの力が あったのか!

 

 壮大な世界広布は、
 いよいよ
 これからが本番である。
 戸田先生は、
 よく語られた。
 「大作、
 学会の本当の
 偉大さが分かるのは
 二百年後だ。
 二百年先まで考えて、
 広布の盤石な路線を
 つくっておくのだ」
 後継の師子が、
 いよいよ躍り出ている。
 宗教革命を受け継ぎ、
 民衆仏法の新時代を築く
 「本門の青年」の活躍こそ、
 新時代の希望である。

 

 前を見よ!
 我らの
 開拓すべき天地は広い。
 君よ、
 今日の責務を
 決然と果たしながら、
 今日より明日へ、
 日々新たに、
 また、日に日に新たに
 前進し抜いていくのだ!
 その執念の行動に、
 栄光の勝利があり、
 幸福がある。

 

 一日の勝利は、
 まず朝の出発で決まる。
 断じて
 「朝に勝つ」ことだ。
 すがすがしい心で、
 生き生きと
 仕事を開始することだ。
 ここに、
 連続勝利の
 秘訣があることを
 忘れてはならない。

 

 「新しい年がめぐってきて
 新しいわれらを
 発見するのです」――と、
 大文豪ゲーテは歌った。
 万年にわたる
 広宣流布の未来を開く
 重要な一年だ。
 その「新しい年」に
 ふさわしい
 「新しい自分自身」の
 人間革命の劇が、
 いよいよ始まったのだ。
 「自分には、
 これほどの力が
 あったのか!」と、
 自らも目を瞠るような、
 生まれ変わった
 みずみずしい息吹で
 戦おうではないか!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2020年1月5日

12月1日

第1633回
執念をもって戦いぬいたほうが勝つ

 

 法華経には「猶多怨嫉」「悪口罵詈」とある。迫害は法華経の行者の証明である。
 しかし、それは悪意の中傷を放置するということでは決してない。「一つの暴論」には「十の正論」で徹底して反撃し、完全に打ち破るまで戦うのは当然である。
 フランスの文豪エミール・ゾラは叫んだ。
 「沈黙は共犯に等しいから、どしどし発言せねば」ならない。(稲葉三千男『ドレフェス事件とエミール・ゾラ』創風社)
 また、「真実は前進し、何ものも止めることはできはしない。悪意の妨害がもろもろあったにしても、厳密に決められたとおりの歩調で、一歩一歩前進していく。真実には、あらゆる障害を乗り越える力が内在している」(同前)
 イギリスの宰相チャーチルは、ナテスとの激闘の渦中にあって、「正義の戦いの完全勝利を獲得するには、時期をを逃してはなりません」(前掲''THE WAR SPEECHES'' vol.3)と母たちに設りかけた。
 そのとおりである。時を逸してはならない。勝った時こそ、次の勝利の因をつくることだ。
 戦いは、執念をもって戦いぬいたほうが勝つ。
12  日蓮大聖人は、暴悪の権力者・平左衛門尉に対して言われた。
 「(日蓮が)仏法を知り、国を思う志は、最も賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しく大忠を懐いていても、いまだその望みのわずかさえも成就することができないでいる」(御書183㌻、通解)
 今、私たちは、大聖人が悲願とされた「立正安国」の大理想を、世界への平和・文化・教育の運動として実現してきた。
 仏意仏勅のSGIに世界から寄せられている賞讃を、大聖人は、いかばかりお喜びであろうか。
 末法は悪世であり、三類の強敵もいる。広宣流布の戦いは激しく「今に至るまで軍やむ事なし」と大聖人は仰せである。仏法は勝負である。断じて、戦いまくり、勝ちまくっていかねばならない。
 広布に戦えば、生命は健康になる。法のため、同志のために行動した人は、生死を超えて、無上の「心の宝」を積んでいけるのだ。
 御聖訓に仰せである。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 来年も、希望に燃えて、勇敢に、そして、仲良く愉快に、断じて勝ち進みましょう!

 

2002.12.25全国最高協議会

12月1日

第1632回

自分のいる場所で、自分の使命に徹せよ


 ヘンダーソン博士は、自身の行動哲学を次のように語っておられる。
 「人間が成長を続けるために大切なものは何か。それは″希望″であると私は思います。
 それでは、希望を持ち続ける秘訣は何か。それは″自分が決めた道を、どこまでも進みぬく″ことです。″自分のいる場所で、自分の使命に徹しきる″ということです。
 ただ漫然と危機の去ることを祈ったり、いたずらに心配するのではなく、今、自分ができることをやりきることです」
 「行動だけしても、方向性を持たなければ、逆に混乱をもたらしてしまいます。真の行動は、精神的な目覚めを通して行うものでなければならないのです」
 自分のいる場所で自分の使命に徹しきる――その人生こそ崇高である。そこに普遍性と永遠性が輝く。仏法で説く「本有常住・常寂光土」の法理にも通じよう。
 日蓮大聖人は、門下に「其の国の仏法は貴辺にまか任せたてまつり候ぞ」と仰せである。創価のリーダーの皆さまは、わが地域、わが方面の広宣流布を大聖人から託された、誉れの使命の方々なのである。

 

2002.12.25全国最高協議会

12月1日

第1631回
善と悪

 

「南無妙法蓮華経」こそ善のなかの善


 ――善と悪を、どのように判断していけばよいのでしょうか。(アメリカ、男子部)
 非常にむずかしい問題です。国際的な問題、個人間の問題、そしてまた、家庭内の問題、その他さまざまな次元で、争いや、対立や、利害の衝突があるが、「こちらが善で、あちらが悪」と、明快に判別できないことが、あまりにも多い。卑近な譬えかもしれないが、夫婦げんかだって、どっちが善か悪か、よくわからないでしょう。(笑い)
 日本に「勝てば官軍」という言葉があるように、「勝ったほうが正義で、負けたほうが悪」という考え方もある。しかしそれは、矛盾が大きい。現実には、正義が負けて、邪義が勝ってしまう場合がある。歴史を見、世間を見ても、悪人が強く、善人は弱いというのは、よくあることです。
 では、何が善で、何が悪なのか。そもそも、善悪とは何か――人類にとって、永遠にわたる、重大な問題といってよい。そうしたなかにあって、ただ一つ、明快に言えることは、「南無妙法蓮華経」こそ善のなかの善だということです。
 南無妙法蓮華経は、宇宙を貫く、永久不変の大法則です。「法則」であるゆえに、だれかがつくったものではない。変えようもない。「真理」です。森羅万象は、すべて妙法にのっとっている
 生命には十界がある。私たちの生命には、仏界がそなわっている。仏界は「つくる」ものではありません。自分の生命から「涌現」するのです。そのために御本尊があるのです。
 そして、妙法を信受して、広布に生きる人生こそが、最高の善――極善なのです。
 以上、少しむずかしかったかもしれないが、本源的な次元、そして宇宙的な次元から、善悪の根本について述べました。
 そのうえで私が申し上げたいのは、「人を殺すことは、絶対に悪だ」ということである。どんなことがあっても、人を殺すことは、あってはならない。反対に、「人を救っていこう。世界を平和の方向にもっていこう」と行動することは、正義であり、善なのです。

 

2002.9.8世界平和祈念勤行会

11月25日

第1630回

人材を育てる人が真の人材

 

 個人も、団体も、国家も、
 どれだけ人材を見つけ、
 どれだけ人材を育てたか
 ――それで
 歴史の真価が決まる。
 民衆のため、社会のため、
 人間のために貢献する
 指導者を育てゆくことだ。
 これが
 世界平和の波動を広げる。
 これが
 創価学会の実践である。

 

 人材とは人格の人である。
 人への思いやり、包容力、
 自分を律する精神の力、
 正義への信念と意志等々、
 人格の輝きこそ、
 人間として最も大事だ。
 それには、
 精神闘争が必要である。
 自分の弱さに挑み、
 苦労に苦労を重ねて、
 自己の精神を
 磨き上げていくことだ。

 

 自分が偉くなるのでなく、
 人を偉くする。
 幸福にする。
 その人が
 本当に偉い人である。
 先輩は後輩を守ることだ。
 後輩に
 尽くしていくことだ。
 後輩を
 自分以上の大人材に
 していくことである。

 

 「一人」が大事である。
 本物の「一人」が立てば、
 「万人」の
 勝利と幸福につながる。
 人数が
 多いかどうかではない。
 一人でも、二人でも、
 真剣な人がいれば、
 全体に大きな波動を
 起こすことができるのだ。
 目の前の「一人」、
 自分が縁した「一人」を、
 全力で励まし、
 伸ばしゆくことだ。

 

 人間の一切の力、
 可能性を
 引き出していくカギは、
 ひとえに信心にある。
 「信心」の二字には、
 すべてが
 納まっているのだ。
 ゆえに人材の根本要件は、
 一言すれば、
 強盛な信心に
 立つことに尽きる。

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2019年11月24日

11月10日

第1629回

「信念の一人」

 

 大聖人のご生涯は、命にもおよぶ大難の連続であった。「開目抄」には、「波に波をたたみ難に難を加へ」と仰せである。押し寄せる大波のように、次々と大難が襲いかかった。
 大聖人は、なぜ、その一切を勝ち越えることができたのか。御聖訓には仰せである。
 「一人なれども心のつよき故なるべし
 信念がある! 信仰がある! 強き心がある! だから一人であっても勝てたのである。信念をもった一人ほど強いものはない。どんなに迫害されようと断じて負けない。負けないということが、「妙法蓮華経」である。法華経の精神であり、日蓮仏法の魂である。
 わが学会には、大聖人に直結した「心の強さ」の真髄がある。
 だからこそ、これだけの難を受けながら、「仏法を基調とした、世界第一の平和と文化と教育の団体」を築き上げることができたのである。
 大事なのは、「信念の一人」である。立場でもない。役職でもない。人数でもない。私も、一人、立ち上がった。戸田先生をお守りし、悪意の言論と敢然と戦った。何ものをも恐れなかった。
 一人、立ち上がることだ。なかんずく、青年が自覚することだ。だらしのない臆病な先輩は放っておけばいいのである。青年部が、二十一世紀の創価学会の原動力になっていただきたい。
 「後継」こそ青年の使命である。広宣流布の一切の勝利は青年部で決まる。決然と、一人、立ち上がっていただきたい!
 釈尊が、幾多の苦境を乗り越えて、出世の本懐たる「妙法蓮華経」を説き始めたのは、何歳からであったか。大聖人は、「御年七十二歳」と記しておられる。釈尊の人生の最終章である。
 どうか、皆さまも、「不老不死の大生命力」を輝かせながら、健康で長生きしていただきたい。荘厳なる夕日のごとき、人生の総仕上げをお願いしたい。

 

2002.11.14 第二十七回SGI総会、第二十二回本部幹部会

11月10日

第1628回

創価学会の永遠の原点

 

「広宣流布の柱」は、永遠に「創価の三代」


 このたび、学会創立七十二周年を記念して、新たに創価学会版の『法華経』(『妙法蓮華経並開結』)が完成した。これは、日蓮大聖人がご生涯にわたって所持され、みずから注記を書き込まれた、最重要の法華経をもとに、学会が新しく編纂したものである。その意義は、たいへんに深く、重い。
 ご存じのように、法華経の法師品には「猶多怨嫉。況滅度後(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)」(法華経三六二ページ)と説かれている。
 つまり、「釈尊の在世でさえ、怨嫉(うらみ、ねたみ)が多かった。いわんや滅後、なかんずく末法において(法華経を弘める人は)より多くの怨嫉を受け、難にあうのは当然である」と予言されている。
 さらにまた、勧持品には「諸の無智の人の悪口罵詈等し」(法華経四一八ページ)云々と、明確に記されている。
 つまり、釈尊の滅後に、法華経を広宣流布しゆく人は、「三類の強敵」(俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖上慢)による迫害を受ける。すなわち、仏法に無知な人々や、邪知・慢心の坊主、さらにニセ聖者――そうした増上慢の人間から悪口罵詈され、讒言を浴びせられ、権力を使った弾圧を受ける。これが正義の人の証である。
 「三類の強敵」と勇敢に戦わなければ、真の法華経の行者ではない、偽りの信心であると、大聖人は厳しく戒めておられる。
 現代において、権力による大難を受けたのは、牧口初代会長、戸田第二代会長、その直系中の直系の第三代の私である。この三代で、創価学会は、世界一の広宣流布の団体となった。
 仏法を弘めたゆえに、牧口先生は牢獄に入られた。戸田先生も入られた。私も入った。いわれなき中傷、誹謗、迫害を一身に受けた。「三類の強敵」と戦いぬき、大聖人の仰せどおりの実践を、寸分も違わず、不惜身命で貫いてきた。ここに、創価学会の永遠の原点があり、栄光がある。
 真実の日蓮仏法を弘めゆく中心、「広宣流布の柱」は、永遠に「創価の三代」である。
 皆さんは、これを忘れないでいただきたい。未来のために、絶対に正しい軌道をはずれないために、明快に申し残しておきたい。

 

2002.11.14 第二十七回SGI総会、第二十二回本部幹部会

11月3日

第1627回
大事なのは、一人一人の内なる心の進歩である

 

<一人の偉大なる人間革命を!>

 

 新しい前進のために、世界の指導者、哲学者の言葉を贈りたい。
 アメリカのケネディ大統領は述べている。
 「いまや、新しい世代の指導力が、新しい問題、新しい機会に対処する新しい人間が、出現すべき時なのである」(「ケネディの言葉」細野軍治訳、『永遠の言葉とその背景』所収、自由国民社)
 人材で決まる。「人間をつくる」ことが「未来をつくる」ことである。
 ラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリバルは叫んだ。
 「団結、団結、団結こそ、私たちの合言葉でなければなりません」(神代修『シモン・ボリーバル』行路社)
 団結に勝る力はない。
 スイスの思想家ヒルティの洞察は鋭い。
 「本当の人類の進歩というものは決して大がかりに成就するものではなく、個々人においてのみ行なわれるのである」(『希望と幸福』秋山英夫訳、社会思想社)
 大事なのは、一人一人の内なる心の進歩である。そして、一人の偉大なる人間革命が、一家を変え、社会を変え、全人類の宿命転換を必ず成し遂げていくのである。

 広宣流布は即、世界平和である。広宣流布に戦う功徳は、三世にわたって永遠に崩れることはない。
 釈尊は、法華経の「法師功徳品」において、妙法を持つ人は、その功徳として、生命が清浄になることを説いている。
 また日蓮大聖人は、功徳について、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せである。
 功徳の「功」は、悪を滅するとの意義がある。生命の濁りを滅し、清らかな生命を得る――これほど本源的な功徳はない。
 生命の悪、濁りを滅しなければ、本当の幸福はつかめない。だからこそ、悪とは戦わなければならない。
 大聖人は破邪顕正、魔性との対決に、先駆を切って大言論戦を展開された。今、皆さまは、世界の中で、平和と正義の大運動をリードしてくださっている。その尊き青春の労苦のなかから、無限の功徳がわき出ずることは、経文に照らし、御書に照らして絶対に間違いない。

 

2002.9.8 世界平和祈念勤行会

11月3日

第1626回


一騎当千の獅子たれ

 

信念と誠実を貫け

 

 日蓮大聖人は、門下の四条金吾を励まされて、こう仰せである。
 「強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の上下万民、さらには日本国の一切衆生にほめ讃えられなさい」(御書1118ページ、通解)
 「『四条金吾は、主君の御ためにも、仏法の御ためにも、世間に対する心がけも立派であった、立派であった』と鎌倉の人々からほめえられなさい」(御書1173ページ、通解)
 正義だからこそ嫉妬もある。迫害もある。しかし、信念と誠実を貫けば、最後に必ず勝利する。
 いかなる苦難にも断じて負けてはならない。苦難は人間革命のチャンスなのである。
 圧迫されればされるほど、「挑戦」に「応戦」して、それに倍する力を発揮していくことだ。自分自身を、断固として、強くまた強く、賢くまた賢く、鍛え上げていくことだ。何ものにも負けない実力をつけていくことだ。
 「殉教の父」である牧口先生は、「羊千匹より獅子一匹たれ!」と言われた。
 きょう、お集まりの皆さんは、一人も残らず、一騎当千」の獅子に育っていただきたい。自分自身が「一騎当千」の力をつけることは、千倍の広宣流布の拡大に通じていくのである。

 

2002.9.8 世界平和祈念勤行会

10月21日

第1625回
自分らしく自分の歴史を

 

 自分自身に生きぬくことだ。
 今が、どんなに大変であっても、たいしたことはないのだ。自分自身が強くなれば。
 たとえ今、経済的に厳しくても、努力さえ忘れなければ、時がくれば、必要なお金は自然にできるものだ。
 どんな苦しいことも、後になってみれば、全部、夢の中の出来事のようなものである。
 何があっても、生きて生きて生きぬくことだ。自分らしく、自分の歴史を堂々と築くことだ。
 人を恨んだり、焼きもちを焼く必要などない。私たちには、世界最高の御本尊がある。無量の宝を、自在に引き出していけるのである。

 

2002年9月5日 第20回本部幹部会

10月21日

第1624回
大願とは何か?

 

 大聖人は、青年門下に叫ばれた。
 「願わくは、わが弟子たちよ、大願を起こせ」(御書一五六一ページ、通解)
 大願とは何か。人間として、青年として、最も大きな願い――それは「世界平和」ではないだろうか。国境を超え、すべての民衆が幸福になることである。
 一人きりになって、自分を偽り、ただ安逸をむさぼるだけの人生でいいのか。悔いはないか。
 ならば君よ、大願を起こせ! 大いなる希望をもて! 理想をもて!
 大聖人は、「大願とは法華弘通なり」と仰せである。
 平和のため、幸福のために、世界の連帯を築くためには、人間主義しか道はない。広宣流布しか道はないのである。

 

2002年9月5日 第20回本部幹部会

10月19日

第1623回
君よ一人立て、後は必ず続く

 

一人立つ者こそ、真実の勇者であり、本物の指導者


 世界の偉人の箴言を皆さまに贈りたい。偉大なる先哲の言葉は、苦難を越えて、正義に生きゆく光源となるからだ。
 インド創価学会のヒマーチャル・プラデーシュ州の同志が、この地でマハトマ・ガンジーが記した箴言を届けてくださった。
 ガンジーいわく。
 「虚偽は精神を蝕み、真理は滋養となる
 虚偽は精神を腐らせる。人間を不幸にする。真理は精神を豊かにする。人間を幸福にする。
 ゆえに、徹して、虚偽を打ち破り、真理を広めなければならない。
 またガンジーは言う。
 「人が生きた信仰を持つならば、あたかも薔薇が香りを放つように、その芳香は広がっていく
 「生きた信仰」とは、観念でも、号令でもない。行動である。実践である。その人の振る舞いが、信仰そのものなのである。
 さらに、こうも言っている。
 「私は、紙の上の団結のことを言っているのではない。紙に協定を書き出したところで、団結が生まれるわけではない。私が望む団結とは、心の団結であり、私は、いつも、それを祈っている。
 そのような団結が打ち立てられれば、勝利を勝ち取る力を得るであろう」
 どんなに立派な言葉を並べても、それだけでは団結は生まれない。勝利はつかめない。
 心が一つになってこそ団結である。異体同心が真の団結なのである。
 ガンジーは、力強く訴えた。
 「非暴力は、地球上のいかなる権力をもってしても、消し去ることができない、世界の偉大な原理である
 この「非暴力」の思想を広めるために、ガンジーは、一人立った。「勇気ある一人が立てば、世界は変わる」ことを証明していった。
 ガンジーは「たとえ、その集まりの中に、純粋さを持つ人が、たった一人しかいなかったとしても、その人物の純粋さは、他の全員に影響を与えるのである」と語っている。
 大事なのは、一人である。一人が立ち上がれば、二人、二人と後に必ず続いていくものだ。
 一人立つ者こそ、真実の勇者であり、本物の指導者なのである。

 

2002.8.2全国最高協議会

◆10月6日

第1622回
創価学会が進める広宣流布とは

 

<人類の幸福と世界の平和の確立

を目指す民衆運動>
 

 創価学会が進める
 広宣流布は、
 決して宗派の拡大が
 目的ではない。
 法華経の生命尊厳と
 万人尊敬の哲学を基調に、
 人類の幸福と
 世界の平和の確立を目指す
 民衆運動である。
 対話を根幹として、
 人と人とを結び、
 世界市民の「希望の連帯」
 「善の連帯」を築き上げ、
 地球民族の共生の理想を
 実現していく精神闘争に
 ほかならない。

 

 利害による結合は、
 もろく、はかない。
 真の友情は、
 苦難にあうほど深められ、
 強められていくものだ。
 「真実の友情」を
 結ぶことこそ、
 最高の人生の宝である。

 

 ダイヤモンドは
 ダイヤモンドでしか
 磨けないように、
 人間対人間の、
 全人格的な
 打ち合いによってこそ、
 人は自らを鍛え、
 さらなる高みへと
 登攀していけるのだ。

 

 力強い声は、
 皆の心を大きく広げる。
 温かい声は、
 友の心を開かせる。
 久しぶりに会う友には、
 「しばらくでしたね」と、
 こちらから声を掛ける。
 失意の友には
 「祈っています」と
 励ましの声を贈る。
 にこやかに、
 明るい笑顔で語るのだ。
 自信に満ちて、
 正々堂々と対話するのだ。

 

 目の前の一人を
 大事にすることから
 平和は始まる。
 性格や好みが
 合わない人もいるだろう。
 でも自分と違うからこそ、
 学ぶことも多い。
 勇気を出して語らい、
 友情を結ぼうと
 聡明に努力していく。
 ここに、
 人類を一つに結びゆく
 「世界市民」の
 誇り高き一歩がある。

 

2019年10月6日〈池田大作先生 四季の励まし〉 

9月22日

第1621回
今こそ自身を鍛えに鍛えよ

 

<人を頼る心は捨てよ!>

 

 今や創価の舞台は世界である。道は開かれた。あとは青年に一切を託す以外ない。
 今こそ青年は自身を鍛えに鍛えることである。
 振り返ってみれば、草創の青年部は仕事を終えて会合に行くにも、駅から「駆け足」だった。そういう勢いがあった。
 青年は自分を甘やかしてはならない。それは滅びの道だからである。


 人を頼る心は捨てよ。自分たちの力で、信心で立ち上がるしかない。祈って祈って祈りきって、敵も味方も、すべての人を揺り動かして、大いなる民衆の連帯を、新しい広宣流布の旋風を巻き起こしていくことだ。


 「女子部は、一人も残らず、幸福に」――それが恩師の深き心であった。
 女子部が大事である。女子部を育てたい。
 一人の毅然たる女性がいれば、どれだけ周囲に希望の光を送れるか。
 女子部が伸びれば、創価学会が輝く。広布の未来は大きく開いていく。
 女子部の大発展を、皆で祈り、皆で支え、全力で応援していきたい。
 広布の組織には、つねに、フレッシュな「新しい力」「新しい息吹」を吹きこむことだ。
 使命深き、すべての人を、どう生かすか。
 どうしたら、皆が守られ、皆が喜び、いちばん、広宣流布が進んでいくか。
 この一点に全魂を注ぎ、人知れず苦労して、陰の陰で支えていくのが、指導者の責務である。
 力ある人材を大胆に登用し、がっちりと核をつくり、皆が心を一致させて、「異体同心」で進んでいくことだ。
 また、新しい責任を担う人は、これまで以上に動き、語り、力を出し、わが地域を民衆の理想郷の国土に変えていくことだ。
 大聖人は、「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せである。
 「一念三千」の法理が示すとおり、社会をも変えゆく力が、人間の「一念」にはあるのである。
 ともあれ、人ではない。自分である。みずからの一念と行動こそが″百万言の書″に勝る波動となる。行動した自分自身が、生きがいと喜びと福運を味わっていけるのである。

 

2002.8.2全国最高協議会

9月16日

第1620回

「向上の人」こそ偉大!


 人間の幸福といっても、
 自分の臆病や
 怠惰などの弱さと戦い、
 勝つことから始まる。
 人間革命とは、
 自己自身に
 勝利していくことである。
 大事なことは、
 強盛な信心に励み、
 大功徳を受け、
 生活も豊かになり、
 幸福に満ち満ちた
 悠々たる大境涯に
 なっていくことである。
 そのための
 学会の活動である。

 

 「人と比べる」よりも、
 「きのうの自分」と
 比べてどうか。
 「きのうの自分」より
 「きょうの自分」、
 「きょうの自分」より
 「あすの自分」を見よ――
 そう生き抜く
 「向上の人」こそ、
 偉大なる人生の山を
 登りきれる人である。
 「栄光の旗」は
 「努力の風」にこそ
 悠々と、はためく。

 

 人間革命とは、
 一面からいえば
 「一流の人間」に
 成長することでもある。
 一流の人は、
 「力」とともに
 「人格」も立派だ。
 誠実である。
 何ごとも、
 薄っぺらな策ではなく、
 自分の全人格で
 ぶつかっていくことだ。

 

 「勇気」が
 「慈悲」に通ずる――
 戸田先生の至言である。
 真実を語り、
 正義を叫び抜く。
 折伏の功徳は、
 限りなく大きい。
 自分が得をする。
 相手も得をする。
 そして一家一族へ、
 社会へと、福運は
 幾重にも広がっていく。
 広宣流布のために動こう
 ――その心が功徳を生む。
 対話の秋である。
 にこやかな笑顔で、
 陽気に
 歌を口ずさむように、
 快活に進もう!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉  2019年9月15日

8月17日

第1619回
正義を叫ベ! 悪の傍観者になるな

 

 牧口先生は、正義を貶める悪を厳しく呵責された。
 「嫉妬排擠はいせい(=人をねたみ、陥れること)の様な忌まわしい現象を如何に小さくとも、根本的に駆逐せねば、百の改革も徒労に帰する」(『牧口常三郎全集』6、第三文明社)
 どんな小さな悪も放置するな! 悪の芽を根本から断ち切っていけ! それなくしては、何をやってもむだになる――これが、牧口先生の信念であった。
 また牧口先生は、「仲間の大多数に平和な生活を得しめんが為にはあくまで悪人を排除しなければならぬ」(同全集9)ともつねに言われている。
 悪を見ていながら、自分には関係ないから、関わると損だから――そういう卑しい心で、自分だけ、いい子になって、要領よく立ち回る――こうした卑劣な人間には、絶対になってはいけない。
 傍観主義は敵である。悪を見て見ぬふりをする者は、悪と同じである。
 正義を陥れる、どんな小さな嘘も、絶対に、ほうっておかない。悪意のデマや中傷は、徹底して、破邪顕正の言論で打ち破っていく。そういう青年であってこそ、「善の社会」は守られる。

 

2002.8.2全国最高協議会

8月5日

第1618回
苦難がなければ充実はない。
充実がなければ幸福ではない。

 

<悩みに負けない生命力を>

 
 人生の目的は何か。
 「勝利者」になること、
 「幸福」になることだ。
 では「幸福」とは何か。
 その中身は「充実」である。
 では「充実」とは何か。
 「苦難」と戦うことだ。
 苦難がなければ充実はない。
 充実がなければ幸福ではない。
 何の苦労もない幸福など、
 どこにもない。

 

 信心したからといって、
 悩みの「汚泥」が
 なくなるわけではない。
 「悩みに負けない生命力」が出る
 ということだ。
 むしろ、
 悩みをいっぱいもっていくことだ。
 それらの悩みに
 どれだけ挑戦できるかを
 楽しみにできるような
 境涯になることである。

 

 大いなる境涯の人は幸福である。
 広々とした心で、
 毎日を生きぬいていける。
 強き境涯の人は幸せである。
 苦しみにも負けることなく、
 悠々と一生を楽しんでいける。
 清らかな境涯の人は幸せである。
 その人のまわりには、
 常に爽やかな喜びが広がっていく。

 

 希望に満ちて、
 自己の課題に
 挑戦している人は強い。
 どんな困難に直面しても、
 希望を失わないことだ。
 希望の火が消えない限り、
 やがて、いかなる闇をも
 燃やし尽くすことができる。
 いのちある限り、希望はあり、
 希望ある限り、道は開ける。
 その強靱な
 “希望の一念”を育む根源の力が、
 信仰なのである。
 信仰こそ“永遠の希望”である。

 

池田大作先生 四季の励まし  2019年8月4日

8月5日

 第1617回
指導者の真価

 

<民衆のために、どれだけ尽くしたか>

 

 指導者の真価は、どこにあるか。
 人気ではない。格好でもない。「民衆のために、どれだけ尽くしたか」。その信念と行動で決まる。
 指導者は、哲学をもつべきである。人類を幸福にし、平和の方向に向けていく、正しい哲学がなければならない。
 われらは妙法という人間主義の大哲学をもっている。それを実行し、広めている。世界最高の指導者の存在なのである。
 ユゴーは喝破した。
 「総ての偉人は諸君以上に侮辱されて居る」(「追放」神津道一訳、『ユーゴー全集』9所収、ユーゴー全集刊行会)
 しかし――正義なればこそ断じて勝て! われらの最後の勝利を見よ! これが巌窟王の精神である。
10  勝利は、必死の祈りから始まる。師弟不二の誓いから始まる。
 「荘厳にして偉大なる仏の軍勢である創価学会を、未来永遠に守り、発展させていこう」
 「どこまでも、広宣流布のために!」
 この心で、リーダーは前進することだ。
 一家の太陽は母親である。創価学会の太陽は婦人部である。
 友に勇気を送り、社会に希望を広げる「偉大なる光」は女性である。
 男性の幹部は、婦人部の皆さまを徹して大事にしていただきたい。
戸田先生は、大難の獄中で、「我、地涌の菩薩なり!」と覚知された。その体験を通し、こう語られた。
 「心の底から人生に惑わず、真の天命を知った姿こそ、人間革命の真髄である」(『戸田城聖全集』1)
 「真の天命」。それは広宣流布である。私たちの信心の究極の目的である。
 戸田先生は、「青年ならば、この天命に生きぬけ!」と叱咤された。
 すなわち、「真に国家を憂い、民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すべきではなかろうか」(同前)と叫ばれたのである。
 広宣流布に進めば、三類の強敵、三障四魔が競い起こるのは当たり前である。そのときこそ、青年は、わが正義を叫ぶべきである。堂々と師子吼すべきである。
 「勇猛精進」こそ、学会青年部の魂でなければならない。

 

2002.8.2全国最高協議会

7月21日

 第1616回
 “私は勝った”と誇れる歴史を

 
 全国の同志が、
 日夜、広布のために、
 懸命に戦ってくださっている。
 仕事や家庭など大変ななか、
 本当に、頑張ってくださっている。
 その功徳は絶大である。
 自己の宿命転換が
 できるだけでなく、
 一家、一族が
 大福徳で包まれていくことは
 間違いない。
 
 全人類を幸福に――
 それが我らの祈りである。
 そのために力を尽くしている。
 しかし、それは、
 一足飛びにはできない。
 自分自身が幸福になり、
 縁した人々をも幸福にしていく。
 この積み重ねのなかに、
 世界平和の大道が開ける。
 
 広宣流布とは「声の戦い」である。
 いかなる悪口罵詈があろうが、
 三類の強敵の迫害があろうが、
 臆病になって、
 沈黙しては絶対にならない。
 正義が勝つか、讒言が増長するか。
 真実が勝つか、デマが蔓延するか。
 広宣流布は、
 言論戦そのものである。
 
 正義の前進が勢いを増せば、
 反動の魔も、当然、競い起こる。
 ゆえに、一日一日、
 一瞬一瞬に勝負がある。
 「今」を勝つことが、
 一切の勝利の出発点である。
 自分の心に噓はつけない。
 今いる場所で
 「本当にやりきった!」と
 誇れる勝利を飾るのだ。
 その気概で挑戦を続ける人こそが、
 本当の勇者である。
 わが親愛なる友よ!
 民衆勝利の凱歌を、
 日本全土に、世界の隅々に
 轟かせようではないか!

 

2019年7月20日 〈池田大作先生 四季の励まし〉

7月14日

第1615回
信心がなければ、
仏の生命は湧現しない

 

最後に勝つのが真の勝利者

 

 妙法は宇宙の根本法則である。永遠の幸福と平和の軌道である。
 その妙法の具現化が御本尊である。
 日蓮大聖人は、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(1244頁)と仰せである。
 外にあるのではない。特別な場所にあるのでもない。「信心」の二字にある。信心がなければ、仏の生命は湧現しない。妙法を信じ、唱え、広宣流布しゆく皆さまの胸中に御本尊はおわします。
 「全宇宙の宝」が集まっているのである。
 皆さまは願って、この地球に生まれてきた。人類が望んだ平和を実現するのは皆さましかいない。
 人生は劇である。波瀾万丈を越え、最後に勝つのが真の勝利者である。
 偉大なる妙法に生きぬき、苦労を喜びに変え、悩みを成長への糧にしながら、深き使命の人生を晴ればれと生きぬいていただきたい。

 

2002.7.27海外代表協議会

7月12日

第1614回

「日本人さえよければ」のエゴを捨てよ!

 

<「日本があって、世界がある」のではない。

「世界があって、日本がある」。>

 

世界全体を平和にするために、

働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいてこそ!

 

 池田 こんなに情報は豊かに見えるが、日本にいると「世界の現実が見えなくなる」傾向がある。
 ―― はい。マスコミの情報も、偏っていますから。
 池田 今(2000年当時)も、インドネシアでは、東部の島で、死者三千人を超す宗教対立が起こっている。避難している人は四十万人にも、のぼっている。国際的な援助を求める声も高まっている。しかし、日本では、あまり伝えられていない。(=インドネシア・マルク諸島でのイスラム教とキリスト教の対立。2002年2月に和平協定が合意された)
 昔も、日本人の多くは、韓・朝鮮半島の人たちが、日本の圧制下で、どれほどひどい目にあっているか、わかっていなかった。「知らされていなかった」とも言えるし、「知ろうとしなかった」とも言える。
 しかし、「日本のことしか考えない」……じつは、そこに「戦争の根っこ」があるのです。″日本だけ″なんて世界はない。「日本があって、世界がある」のではない。「世界があって、日本がある」。日本が大事なように、世界も、もっともっと大事です。
 「日本だけよければ」「日本人だけよければ」という利己主義は、捨てなければならない。それが二十一世紀です。世界全体を平和にするために、働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいて、そうしてこそ、初めて日本が、日本人が、世界から感謝される。尊敬される。そのとき、初めて日本が本当に「平和」になるのです。「平和の心」が、美しく光る国になるのです。

希望対話 296頁

7月7日

第1613回
”青年”

<新しき時代を、新しき挑戦によって開け!>

 

 師弟の月・7月!
 青年の月・7月!
 それは、青年部が
 “創価三代”の精神を継ぎ、
 人類の宿命転換の戦いに
 挑みゆく月である。
 民衆の勝利の大旗を、
 威風も堂々と
 打ち立てゆく月なのだ。

 

 歴史を創るのは人間だ。
 その主役は君自身、あなた自身だ。
 人を頼むな。
 君が、あなたが、
 痛快な創造のドラマを演ずるのだ。
 猛然と立ち上がれ!
 自身の殻を打ち破れ!
 新しき時代は、
 新しき挑戦によって開かれる。

 

 「戦いを起こす」――
 この一点に、
 日蓮仏法の精髄が脈動している。
 戦いがあるから、
 人は自己の建設と、
 境涯を開くことができる。
 戦いがなければ、
 よどんだ水が腐るように、
 自分で自分の成長を止めてしまう。
 ゆえに、どこまでも、月々日々、
 汝自身の戦いを起こし続けよ!

 

 はつらつと戦えば、
 いつも若々しい。
 生命が鍛えられ、強くなる。
 そして、強い人は、
 いっさいを善知識とし、
 勝利と成長の糧にしていける。
 わが人生を深く味わい、
 感謝していける。

 

 大いなる目標に向かう途上には、
 必ず大いなる壁が立ちはだかる。
 たとえ失敗したとしても、
 嘆かず、恐れず、また挑めばよい。
 昨日より今日、
 今日から明日へと、
 たゆみなく前へ前へ
 朗らかに進み続ける――
 その人こそが青年なのだ。

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2019年7月7日

7月7日

第1612回
弟子の使命

 

<師の心を現実社会に実現して行くこと>

 

 また韓国SGIは、いよいよ11月には、地上13階、地下五階建ての堂々たる新本部が完成する予定である。おめでとう!(=新本部は2003年4月に完成。開館式には池田SGI会長がメッセージを寄せた)
 これまで私は、「韓日友好」を願い、国立済州チェジュ大学の前総長である趙文富チョウー・ムンブ博士と対談を続けてきた。その対談集も、本年、発刊されることになっている。韓国の方との対談集は、これが初めてである。(=対談集は『希望の世紀へ 宝の架け橋――韓日の万代友好を求めて』とのタイトルで2002年11月に徳間書店から発刊された。その後、2冊目の対談集が『文化と人間の宝の橋――韓日の万代友好のために』と題し、03年9月より04年7月まで教育月刊誌「灯台」誌上で連載され、『人間と文化の虹の架け橋』として05年3月に徳間書店から発刊された。両書は、『池田大作全集』第112巻に収録

 趙博士は、韓国の模範の教育者として尊敬される指導者である。今回の来日中、こう語ってくださった。
 「池田先生は、韓国のことを一貫して『文化大恩の国』と讃えてくださいました。だからこそ、日本人のみならず、韓国人も、相手の国の人に感謝できる『価値創造の人間』へ成長する方途に、気づくことができたのです。
 また池田先生は、日本人であるとか、韓国人であるとかに関係なく、全人類が、そのような価値創造の人間になることを切に願っておられる。これが私の結論となったのです
 ご寛大な、深い理解に感謝を申し上げたい。また博士は、真剣な面もちで語られていた。
 「池田先生のお弟子さんたちも、まだまだ池田先生の理想と思想に対する、本当の意味での理解が足りません。私たちは、池田先生から学び、そのことを現実社会で実現していく使命があるはずです。ところが、私たちは、先生についていくことさえできないでいるのです
 韓国の大教育者の言であり、ありのままに紹介させていただいた。

 

2002.7.25第十九回本部幹部会、第二回信越総会 文化大恩の国

7月1日

第1611回
「人間対人間」のつながりを、

どうつくるか。
ここに発展のカギがある。

 

<「一対一の膝づめの対話」>

 

 仏法のリーダーは、ともかく「人に会うこと」である。とくに、新しく入会された方々に、どんどん会っていただきたい。人間と人間の出会いのなかにこそ、仏法は脈動するからである。
 御書にも、「直接、会うこと」の大切さが種々、示されている。
 「人間対人間」のつながりを、どうつくるか。ここに発展のカギがある。あらゆる国家も、企業も、団体も、この一点に注目して、今、しのぎを削っている。
 それには「会う」以外にない。会ってこそ、人はつながる。心は結ばれる。人材も育っていく。
 学会は、一対一の膝づめで対話してきたからこそ、今日の世界的な発展がある。これが鉄則である。
 観念論や空想論ではない。戸田先生ご自身が、徹して会員と会われた。一人の人と会い、心から励まし、ともに広宣流布に進んでいく。その行動のなかにしか、創価の魂はないのである。
 わざわざ会いに来てくれれば、人は「自分を認めてくれた」と思う。「会えてうれしい」「あの人と一緒にがんばろう」となるものである。
 また、会合が終わっても、「一人で、さっさと帰る」のではなく(笑い)、帰る道々、後輩の話を聞いてあげることだ。会合で話せないことでも、一対一になれば話せることもあるだろう。
 一緒に語り、一緒に動くのが学会の根本精神である。策でも、方法でもない。
 いわんや青年部は、決して偉ぶってはいけない。真心こめて、後輩を大切にしていくことである。友に尽くしていくことである。
 仕事や家事で忙しい時もある。それでもなお、やりくりして、時間をつくって会っていく。それが慈悲である。仏の振る舞いに通ずる。これしか道はない。
 「人間対人間」のつながりが仏法の組織であり、広宣流布の組織なのである。それを失ったなら、組織は″お役所仕事″になってしまう。もはや仏法ではなくなってしまう。

 

2002.8.2 全国最高協議会

 

6月22日

第1610回

牧口先生、

獄中の崇高なる最期

 

<師の正義を証明するのが弟子>

 

 先日、牧口先生の三男・洋三さんの夫人である金子貞子さんが、牧口先生の最期の様子について、貴重な証言をしてくださった。きょうは、歴史に残す意味でも、そのお話を皆さんに紹介させていただきたい。
 貞子さんのご主人の洋三さんは、昭和十九年八月に戦死された。残された貞子さんは、当時、獄中におられた義父の牧口先生を最後までお世話された。先生の精神を受け継いで、今日まで、しっかりと信心を貫いてこられた立派な方である。
 貞子さんは、こう語っておられる。
 「じつは、牧口先生が亡くなられた(昭和十九年の)十一月十八日の前日、東京拘置所から、先生の危篤を知らせる電報がまいりました。その電報は、夕方、薄暗くなったころに届きました。私は、すぐに拘置所に向かいました」(この日、貞子さんは、牧口先生への差し入れの準備のため、疎開先から目自の先生の自宅に戻っていて、この電報を受け取った)
 「拘置所に着くと、看守の方が、その日の牧口先生の様子を語ってくださいました。すでに真っ暗になっていたので、おそらく、時間は、午後七時くらいではなかったでしょうか」(看守は、重体の牧口先生に、再三にわたって病監に移ることを勧めたが、先生は頑として拒否し続けていた。ようやく、この日、牧口先生は、病監に移りたい旨を申し出て、午後三時ごろ、歩いて病監に移動した。七十三歳の高齢の体は、長期の独房生活で、すでに極限の状態にあったのである)
 「看守の方によると、病監に移るとき、看守が『おぶってさしあげましょう』と言うと、牧口先生は『とんでもありません。私は歩いて行きます』と、ふらふら、途中、何回か転びそうになりながらも、みずから歩いて病監に行き、そこで眠りにつかれたそうです」
 貞子さんは、病監で眠っている牧口先生と対面された。
 「私は、何回か『おとうさん』と呼びかけましたが、返事はありませんでした。私は心配になって、足袋や下着をそっと確認したところ、いずれも、きれいなものに着替えていらっしゃったので、牧口先生は、覚悟のうえで、ここにいらっしゃったのだと思いました。
 枕の下には、きちんと手紙が重ねて置いてありました。ご立派なその姿を通して、いろいろと教えていただいたことが忘れられません」(この日、貞子さんは終電車で自宅に戻った。そして、翌十八日の午前六時ごろ、牧口先生は静かに息を引き取り、偉大なる生涯の幕を閉じた)
 「拘置所から、日自の自宅まで、牧口先生のご遺体を背負って歩いてきた方が、『背中がとてもあたたかかった。そして柔らかかった』と言ったことを、たいへん印象深く覚えています」

 これが、創価の父である牧口先生の崇高なる殉教のお姿である。牧口先生は、傲慢な国家権力によって、非道にも獄死させられた。
 戸田先生は、そのことを、片時も忘れられなかった。そして、その話になると、いつも涙し、怒りに全身を震わせて、「おれは絶対に師の仇を討つ。師の正義を証明してみせる。それが弟子ではないか!」と叫ばれたのであった。
 私も、牧口先生、戸田先生のおっしゃったことは、どんなことも実現してきた。そして、厳然と師匠の仇を討ち、事実のうえで、師匠の正義を世界に宣揚してきた。それが、本当の「師弟の道」であり、「人間の道」であると確信するからである。(拍手)
 貞子さんは、こうも語ってくださった。
 「ともかく、牧口先生は『自分は小さいときから、学校教育にはたいへんに苦労した。だから行きたくても行けない人のために、奨学金を出してあげて、大学まで行けるようにしてあげたい』と言っていました。
 ですから、牧口記念教育基金会が奨学金制度を始めたときには、『おとうさんのおっしゃったとおりの制度ができた』と感動しました」
 「牧口先生が念願されていた、幼稚園から創価大学まで、それもアメリカ創価大学まで、池田先生がつくってくださったことが、うれしくて、うれしくて、こんなにうれしいことはありません」

 

2002.7.25 第十九回本部幹部会、第二回信越総会

6月9日

第1609回
表面に出ないところで、
100%頑張れる人が、
偉大な人である。

 

<挑戦目標を明確に!>

 

 何事も
 漫然とした歩みでは前進はない。
 地域広布の実現のためには、
 まず、未来展望を広げ、
 必ず、こうすると決めることだ。
 それに向かって、
 年ごと、月ごとの具体的な
 挑戦目標を明らかにしていくのだ。
 その目標のもとに、
 皆が今日の課題に勇んで挑み、
 一日一日を
 勝利していくことである。
  
 御義口伝には、
 「妙法蓮華経」の五字を
 人間の体に即して説かれている。
 「経」とは「足」にあたる。
 いわば広布のために行動してこそ、
 真の妙法の実践となるのだ。
 学会活動は、動けば動くほど、
 身も軽くなる。
 心も晴れやかになる。
 功徳もある。仏になれる。
  
 常に祈りから出発するのだ。
 祈って戦った人は、
 聡明になる。福運がつく。
 人の見ていないところで、
 表面に出ないところで、
 100%頑張れる人が、
 偉大な人である。
 だれが見ていなくとも、
 戦った足跡は、
 わが生命に厳然と残る。
 御本尊が全てお見通しなのである。
  
 世界広布は、
 決して遠くにあるのではない。
 自分の足元にあるのだ。
 ゆえに今、ここで勝つことが勝利だ。
 わが青春に、
 悔いがあってはならない。
 わが人生に、
 敗北があっては断じてならない。
 この一生に、絶対の崩れざる
 「幸福の城」を築かねばならない。
 幸福は、
 戦い抜いた人の心にあるのだ。

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉永遠に輝く「幸福の城」を 2019年6月9日

 

5月25日

第1608回
正真正銘の仏法者であり
勇者とは


<民衆のため、青年のため、
正義のために、
一身に難を受け、悪口を言われ、迫害されながら、
勇敢に戦いぬいている人>

 

 ここで、日蓮大聖人の御書を拝したい。
 「釈尊の在世でさえ、なお法華経には怨嫉が多かった。まして像法・末法において、また(日本のような)遠く離れた国においては、なおさらのことである。山に山を重ね、波に波をたたむように、難に難を加え、非に非を増すであろう」(二〇二ページ、通解)
 有名な「開目抄」の一節である。
 釈尊も、仏法のゆえに妬まれ、数々の難にあわれた。
 中国の南京で法華経を講説した天台大師も、南三北七の諸宗――つまり、中国の仏教界から批判され、迫害された。
 そして、大聖人の御一生も、「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をます」という、大難の連続であられたのである。広宣流布の道程においては、難があって当たり前である。難がなければ、日蓮大聖人の仰せのとおりの仏法ではなくなってしまう。
 広宣流布のために戦っているからこそ、難を受ける。これが日蓮仏法の法則といっていい。
 牧口初代会長も戸田第二代会長も、そのことを徹して弟子たちに教えられた。ここに、日蓮仏法の″急所″があることを知っておられたのである。
 ″創価の父″である牧口先生も、平和と正義の行動ゆえに、幾多の難を受けられた。
 戦時中、牧口先生は戸田先生とともに、軍部権力に反対して神札を受けることを拒否し、治安維持法違反および不敬罪で逮捕。投獄された。牧口先生は、一年四カ月に及ぶ獄中闘争の末に獄死。戸田先生は、逮捕から約二年後、敗戦間近の一九四五年〈昭和二十年〉七月二日に出獄した
 牧口先生は、あの過酷な牢獄にあっても、悠然と「災難と云ふても、大聖人様の九牛の一毛(=比較できないほどわずかであること)です」(「獄中書簡」、『牧口常三郎全集』10所収、第三文明社)と言われた。 本当に偉大な先生であられた。
 古今東西の英雄も皆、難を受けてきた。権力から難を受けていない英雄など一人もいない。
 大聖人は「賢人、聖人は、罵詈して試みるものである」(御書九五八ページ、通解)と仰せである。
 難を受けたときこそ、その人物の真実の偉大さがわかる。
 世間から、悪口を言われ、非難されて、それでも耐えぬいて、勝ってこそ英雄である。
 要領よく難を避け、戦っている格好をしているだけでは、英雄とはいえない。指導者とはいえない。ただ上手に泳いでいるにすぎない。
ひとたび、大聖人の仏法を持ったならば、要領の小才子にだけは、絶対になってはいけない。
 また、虚栄の権力者などに、崇高な使命に生きゆく人生の真髄が、わかるはずがないのである。
 「嘘つき」は「敗北者」の異名である。
 「真実」は「勝利」の実体である。
 民衆のため、青年のため、正義のために、一身に難を受け、悪口を言われ、迫害されながら、勇敢に戦いぬいている人こそが、正真正銘の仏法者であり、賢者であり、勇者である――私は、声を大にして、こう宣言したい。

 2002年7月3日第十八回本部幹部会、第二回東北総会、第二回千葉県総会

 

5月19日

第1607回
どこまでも勇猛精進の前進を!


ともあれ、折伏が止まれば、学会の前進はない。広宣流布は、後退してしまう。「進まざるは退転」であるからだ。
「勇猛精進」の信心こそ、創価学会の伝統精神である。
日寛上人は、「勇猛精進」について、「依義判文抄」の中で、釈を引いて、大要、次のように述べておられる。
「勇」とは、「勇んで行動すること」。
すなわち、状況がどうであろうが、「さあ頑張ろう!」「さあ前進しよう!」と勇んで立ち向かっていくことだ。
「猛」とは、「智慧の限りを尽くすこと」。
「どうすれば、あの人を納得させられるのか」「どうすれば、あの人を救っていけるのか」――そう祈りに祈り、最高の智慧を発揮していくのが「猛」である。
「精」とは、「一点の混じり気もないこと」。
「精米」(米から皮や胚などを取り除くこと)の「精」である。私たちの実践にあてはめれば、心に一点の曇りもなく、「よし、題目を唱えよう!」「よし、仏法対話をしよう!」と、まっすぐに幸福の大道を進んでいる姿ともいえるであろうか。
最後に「進」とは、「間断なく前進すること」。
「たえまなく」――簡単なようで、これがいちばんむずかしい。ここに大聖人の仏法の実践がある。
牧口先生は、ある青年に言われた。
「勇猛精進し給え! 仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」
どこまでも、偉大な先生であられた。強い先生であられた。
第一にも「勇猛精進」である。
第二にも「勇猛精進」である。
この六月、私たちは、ともに生き生きと、若々しく、そして、はつらつと、大きく打って出てまいりたい。

 

 2002年5月31日第十七回本部幹部会、第七回常勝関西青年部総会

5月11日

第1606回
慈愛と責任感あふれる幹部に

 

<自分のこと以上に同志のことを祈る>

 

 幹部は、「一騎当千」の広宣流布の指導者たれ!
 これが戸田先生の永遠の指針であった。
 幹部は広宣流布の先駆者である。模範である。
 仏意仏勅の創価学会が「勝利また勝利」の前進をしゆく活力であり、推進力であり、原動力であらねばならない。
 自分のこと以上に同志のことを祈る。全同志が無事故で、幸福で、人生を勝利していけるよう祈りに祈っていく。そういう慈愛と責任感あふれる幹部であっていただきたい。

 

 会合は、異体同心の前進のためにある。広宣流布という大目的に向かって、社会で勝利し、人間革命しながら、団結して前進するためにある。
会合は、生き生きと、つねに新しい息吹が燃えていなければならない。
それには、まず幹部が自分自身を鍛えることだ。人格を磨き、信心を深め、だれよりも苦労していくことである。鍛えのない人生は、堕落であり、敗北である。

 

 スペインの哲学者オルテガは強調した。
 「最も重大な人間の欠点は忘恩である」(「観念と信念」桑名一博訳、 『オルテガ著作集』8所収、白水社)
 作家のセルバンテスも『ドン・キホーテ』に書いた。
 「地獄は恩知らずでいっぱいだ」(牛島信明訳、岩波文庫)
 忘恩は「畜生の道」である。
 報恩が「人間の道」である。「仏法の道」である。

 

 三十年前、イギリスの大歴史学者トインビー博士と対談した。
 博士は「次の仕事にとりかかる適切な時は、明日でもなければ来週でもない。今すぐなのである」(『回想録』1、山口光朔・増田英夫訳、社会思想社)と言われている。
 大事なのは、きょうである。「今」である。博士は、生涯、その心で、 「さあ、仕事を続けよう!」をモットーに、最高の仕事を残されたのであった。
 皆さんも、広宣流布という偉大な歴史を残していっていただきたい。
 「さあ、きょうも折伏しよう!」「今すぐ、友のもとへ行こう!」―― その「戦う心」に永遠の福徳が薫るのである。

 大詩人ミルトンいわく。「我々の信仰も知識も、手足や身体と同じように、働かすことによって健やかになる」(『言論の自由』石田憲次・上野精一・吉田新吾訳、岩波書店)
 行動である。働くことである。それが信仰の真髄である。
また、大詩人バイロンは、「知識は幸福にあらず」(「マンフレッド」、『バイロン詩集』〈世界詩人選4〉阿部知二訳、小沢書店)と喝破した。
 知識のあることが必ずしも幸福ではない。また、学歴があるから、役職があるから偉いのでもない。
 学会は、信心が根本である。「行動の人」「実践の人」が最高に尊く、最高に偉大なのである。
 世界広布といっても、究極は、「一人が一人を折伏する」ことにつきる。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり』(諸法実相抄、1360頁)と仰せられているとおりだ。
声仏事を為す』(御義口伝、708頁等)である。声は命であり、心である。
相手の心に響く、生き生きとした声で、「仏法の正義」を語りぬいていっていただきたい。

 

2002年6月26日第十八回各部代表者会議

5月4日

第1605回

最も身近なことを、的確に行うのが、
仏法者の生き方だ

 

<創価学会母の日を祝う>

 

 我らの五月三日は、「創価学会母の日」である。
 『母の恩の深き事大海還つて浅し』(上野殿御消息、1527頁)――
 自分を支えてくれている尊き母、また地域の婦人部の方々に、心からの感謝を伝えてもらいたい。
 日蓮大聖人は、『唯我一人のみ成仏するに非ず父母もまた即身成仏せん此れ第一の孝養なり』(始聞仏乗義、984頁)と仰せである。
 最も身近なことを、最も的確に行うのが、仏法者の生き方だ。
 周囲の支えがあるからこそ、充実と成長の青春を歩みゆけることを、決して忘れまい。
 心を込めた聡明な言葉で、皆が朗らかになる、和楽を広げる報恩と孝養の人たれ。

 

創価新法2019年5月1日号 青春勝利の大道

5月1日

第1604回

「第三代がいれば、広宣流布は必ずできる。

その第三代会長を厳然と守れ」

 

<第三代の指導に透徹し、

死に物狂いで、実践せよ!>

 

 戸田先生の遺言「第三代がいれば広宣流布は必ずできる
きょう「五月三日」は、戸田先生が、そして私が、創価学会の会長に就任した日である。
その意義をこめて、一言申し上げたい。
 「第三代がいれば、広宣流布は必ずできる。その第三代会長を厳然と守れ」――それが、戸田先生の遺言であった。これは、秋谷会長や森田理事長など、皆が知っていることだ。
 創価学会は、戸田先生がおっしゃったとおり、断固として、広宣流布を進めてきた。現実のうえで、世界に仏法を広げてきた。そして今、激動の時代にあって、他の多くの団体や組織が衰退していくなかで、わが創価学会は精神界の王者として、大山のごとく、そびえ立っている。
 まさに、戸田先生の遺言どおりの学会になったと、私は、申し上げたい。
 広宣流布は大聖人の御遺命である。それを実践しているのは、創価学会以外にはない。
 この仏意仏勅の学会を迫害することは、大聖人を迫害し、広宣流布を破壊することに通じる。
 ゆえに、その罪悪に対して、厳しい罰があらわれることは、御聖訓に照らして間違いない。
 これまでも、お世話になった同志を裏切り、仏法を破壊しようと画策した人間が何人か出た。しかし、その全員が落ちぶれ、だれにも相手にされない、惨めな末路をたどっていることは、皆さんもご存じのとおりである。仏法の「因果の裁き」からは、だれ人も逃れられない
 どんなに卑劣な攻撃であろうとも、また、権威をかさにきた陰険な弾圧であろうとも、恐れるような学会ではない。
 極悪の陰謀や策謀を木っ端微塵にするまで戦い、勇んで広宣流布の大進撃を開始しようではないか。(拍手)
 婦人部も、草創の婦人部のように、総立ちとなって、題目をあげぬき、正義の勝利の歴史を開いていただきたい。法華経に勝る兵法はないのである。
 「臆病者は創価学会から去れ」とは、戸田先生の厳しき遺言であった。
 先生は、こうも言われていた。
 「虚栄を張って、学会を利用しようとする増上慢の輩は、学会から、たたき出せ
 「臆病で、足手まといになるような存在ではいけない。お世辞を使ってもらえば、何とか活動する――それでは、死身弘法ではない。

 広宣流布を進める創価学会を、何よりも大事にし、守りきっていく。これが地涌の菩薩である。そうでない幹部は、学会から出ていってもらいたい
 これが戸田先生の叱咤激励であった。この学会の大精神を永久に忘れてはならない。

 

2002年5月1日5・3祝賀第十六回本部幹部会、新世紀第二回未来部総会

5月1日

第1603回

迫害は日蓮仏法の正統の証明

 

 御聖訓には、経文を引かれて、末法において妙法を弘める者は必ず迫害にあうことが厳然と示されている。
悪口罵詈」は当然のことである。
猶多怨嫉」は当然のことなのである。
(法華経勧持品に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し」〈法華経四一八ページ〉とある。また法師品に「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」〈法華経362頁〉とある)
 第六天の魔王が支配する世界で、ヤキモチを焼かれ、怨嫉されることは、日蓮大聖人の仏法を、まつたく完璧に、御聖訓どおりに実践し、戦い進んでいる証拠なのである。
 広布へ戦う学会の同志は、一人ももれなく、永遠の勝利と栄光と福運に満ち満ちた「金剛不壊の生命」となっていく。そして、三世にわたって、それぞれの国々で、必ず大指導者となり、その国のため、その国の人々のため、生々世々、偉大な歴史をつくりゆくことは、絶対に、間違いない。
皆さまこそ「地涌の菩薩」なのである。

 

 2002年5月1日5・3祝賀第十六回本部幹部会、新世紀第二回未来部総会

4月27日

第1602回
不屈の反撃精神こそ
言論戦の方程式

 

<「一」言われたら「三」言い返す。
 「三」言われたら「十」言い返す>

 

 勢い――。
 それは、
 “断じて成し遂げよう!”という、
 強き決意と闘魂から生まれる。
 自ら勇んでなそうとする、
 自主、自発の行動から生まれる。
 間髪を容れぬ
 迅速な実践によって生まれる。
 皆が互いに競い合い、
 触発し合う切磋琢磨から生まれる。
 そして、
 戦いは、勢いのある方が勝つ。
  
 「一」言われたら「三」言い返す。
 「三」言われたら「十」言い返す
 ――この不屈の反撃精神こそ
 言論戦の方程式である。
 言うべきときに言わなければ、
 悪が増長するだけである。
 語らなければ、心は伝わらない。
 心で思っていても、
 それだけでは相手にはわからない。
 真実を叫ぶのだ。
 そうすれば、
 敵をも味方に変えることができる。
  
 信心とは――
 断じてあきらめない勇気である。
 自分と友の生命の可能性を
 あきらめない。
 幸福の拡大をあきらめない。
 正義の勝利をあきらめない。
 平和の創造をあきらめない。
 大法弘通を、
 断じてあきらめない勇気なのだ。
   
 何が起ころうが、
 私には信心がある!
 わが家には信心がある!
 我らには偉大な信心がある!
 だから何ものも恐れない。
 だから絶対に
 乗り越えられない苦難はない。
 真面目に、誠実に、勇敢に、
 信心をやり切って、
 最後は必ず勝つのだ!
 この合言葉で、
 いよいよこれからと、
 「強盛の信心」で、
 威風も堂々、進みゆこう!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉「いよいよの心」で堂々と 2019年4月14日

4月20日

第1601回
広布の自覚こそ
功徳と歓喜の源泉

 

<使命と責任>

 

 食事をしながら、十条が伸一に尋ねた。
 「沖縄の同志は、本当にはつらつとしているし、功徳と歓喜にあふれている。また、大変な発展をしています。海外ということで、本部の指導の手もあまり入らなかったのに、どうしてなんでしょうか」
 「沖縄のメンバーは、沖縄を幸福にするのは、自分たちしかいないと自覚して頑張ってきた。人に言われてやっているのではなく、それぞれが広宣流布の主体者の使命と責任を感じている。だから、歓喜がわき、功徳も受け、発展もするんだよ
 「なるほど。主体者の自覚の如何ですね」
 相を打ちながら、十条が語り始めた。
 「実は、海軍兵学校におりました時に、よくカッターの帆走をやりましたが、どうしても舟に酔うものが出ます。ところが、カジをとらせると酔わないのです。
 自分がやるしかないという責任感と緊張感によるものと思えます。結局、舟に酔うのは、自ら舟を操ろうというのではなく、舟に乗せられているという、受け身の感覚でいるからだということを学びました」
 伸一は十条の話を聞くと、面白そうに頷いた。
 「そうかもしれない。広布の活動を推進するうえでも、自らが責任をもってカジをとろうとするのか、それとも、ただ舟に乗せられている乗客になろうとするのかによって、自覚も行動も全く違ってくる。
 乗客のつもりでいれば、何かあるたびに舟が悪い、カジ取りが悪いということになって、グチと文句ばかりが出る。それでは、自分を磨くことはできない。
 私は戸田先生の会社に勤めた時から、先生の会社も、学会のことも、すべて自分が責任をもつのだと決意した。当時は、職場でも一介の社員に過ぎなかったし、学会でも役職はなかった。しかし、立場の問題ではない。自覚の問題です。
 そう決意した私には、給料が遅配になっても不平など微塵もなかった。また、自分の部署を完璧なものにするだけでなく、常に全体のことを考えてきた。それが現在の私の、大きな力になっていると思う」
 それから伸一は、青年部長の秋月英介を見て、話を続けた。
 「戸田先生が、こんな話をされたことがある。
 ──ある工場が倒産し、機械が差し押さえられ、競売に出された。そして、落札者が機械を運び出すことになった時、その工場で働いていた一人の職人が必死になって叫んだ。
 『この機械は、俺が何年も可愛がってきた機械なんだ。この機械を持っていくんなら、俺も一緒に連れていってくれ』
 戸田先生は、この話をされて、こう言われた。
 『見上げたものじゃないか。職人魂がある。月給いくらで雇われているというような根性ではなく、機械と心中しようというのだ。機械に対する彼の愛情は、仕事に対する情熱の表れにほかならないだろう』
 先生は″雇われ根性″を最も醜いものとされた。特に青年で、そういう根性のあるものは、将来は見込みがないと断定された。これは、広宣流布という″仕事″にも通じることだよ。
 何ごとも″雇われ根性″では、習得などできない。青年は、万事、自分が主人のつもりで、何事にもぶつかっていくことだ
 『習得する』ことを『マスター』と言うが、英語の『マスター』には『主人』の意味があるじゃないか」
 伸一は、愉快そうに笑った。彼は、学会の後継者となる青年部に、まず広宣流布の「主体者」「主人公」の自覚を植えつけておきたかったのである。
 創価学会の会長としての山本伸一の責務は、人々を学会丸という大船に乗せ、幸福と平和の広宣流布の大陸まで、無事に運ぶことにあった。
 それには彼とともに、濃霧の日も、波浪すさぶ嵐の夜も、友を幸の港に運ぶために船を守る、さまざまな乗組員が必要である。
 いな、船長ともいうべき自分が、いつ倒れても不思議ではないだけに、彼と同じ決意、同じ自覚に立ち、大船を担える人材を、彼は必死になって育成しようとしていたのである
 しかし、そんな彼の胸中を、正しく理解する幹部はいなかった。
 彼らには、伸一の考える壮大な広布の構想が理解できずにいたし、三十二歳という彼の年齢から、まだ先のことは何も心配はいらないという、安易な安心感があった。
 ましてや、戦いに臨む烈々たる伸一の気迫に触れると、すべて伸一に任せてさえおけば、大丈夫だとの思いを強くするのであった。

 

新・人間革命第2巻 先駆の章59頁

4月14日

第1600回
日興遺誡置文(3)

 

<いかに大聖人直結の信心を継承していくか

そのための規範とは何か>

 

 牧口常三郎は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との、この遺誡置文の御精神のうえから、「神札は絶対に受けません」と答えたのである。
 当時、牧口は国民の塗炭の苦しみに胸を痛め、国家神道を精神の支柱として、戦争の泥沼に突き進む軍部政府に対して、国家諫暁する好機ととらえていた。
 しかし、それは、牧口個人ではなく、日蓮大聖人の法灯を受け継ぐ門流の代表者である法主がなすべきであり、そのことを僧侶が進言するのが筋であると考えていた。
 だが、宗門の僧侶に、その気はなかった。牧口はやむなく、六月二十八日再度、登山すると、時の日恭法主に、国家諫暁に立ち上がるべきであることを直諫したのである。
 しかし、軍部政府の権力を、ひたすら恐れる法主には、国家諫暁など思いもよらなかったにちがいない。牧口の至誠の言が受け入れられることはなかった。
 そして、その直後の七月六日、牧口、戸田をはじめとする学会の幹部が、次々と逮捕されていったのである。大法難が学会を襲ったのだ。
 牧口の一門が逮捕されると、宗門は、慌てて学会を登山停止とした。関わりを恐れてのことである。
 まさに「貫首」自らの手で、正法正義はねじ曲げられ、大白法は滅せんとしたのだ。だが、正法護持の勇者・創価学会によって、大聖人の信心の血脈が保たれたのである。
 山本伸一は、「貫首」でありながら正法に背き、我見の邪説を立てる人間が出ることを、既に日興上人が予見されていたと思うと、深い感慨にとらわれた。
 彼は、未来もまた同じ事態が起こるかもしれないことを憂慮した。しかし、この日の講義では、多くは語らなかった。
 「……時の法主上人であっても、大聖人の教えに、仏法に相違して、己義、すなわち自分勝手な教義を説くならば、それを用いてはならないとの仰せです」
 彼は意義だけを簡潔に述べた。宗門が二度と法滅の過ちを繰り返さぬことを、深く願いながら。
 ──衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
 「これは、前の御文と対をなしております。今度は反対に、『衆議』、たとえみんなで決めたことであったとしても、それが仏法に相違するならば、これを打ち破っていきなさいとの御指南です
 山本伸一は、コップの水を口にすると、力強い声で講義を続けた。
 「つまり教えの根本は、どこまでも日蓮大聖人の御言葉です。御書でなければならないということです。
 学会は牧口先生以来、御書が根本です。その仰せのままに実践してきたがゆえに、数々の法難も競い起こりました。それによって御書を身で読むことができ、法華経の行者としての、信心の正道を進むことができたのです。
 だからこそ、学会の信心の功徳は無量なのです。永遠の福徳を積むことができるのです。私たちは、これからも、御書を心肝に染めて、広宣流布に邁進していこうではありませんか」
 講義は順調に進み、やがて二十六箇条が終わった。
 時間はあっという間に過ぎていった。伸一は、チラリと腕時計を見た。既に八時半近かった。
 「皆さん、あと、もう少しいいですか。疲れていませんか」
 伸一が聞くと、即座に、「はい」「大丈夫です!」と声が返ってきた。
 「そうですか。あと最後の、御言葉だけですから」
 ──万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。
 「……末法万年の衆生を救護、救済するために、二十六箇条を書き置く。後の世の僧侶は疑いをいだくことなく、これを守り、実践していきなさい。このうち一箇条でも破る者は、日興上人の門流ではないとの仰せです。それは、同時に大聖人の弟子でもないことになります。
 この二十六箇条の精神を守り、実践した人こそが真実の大聖人の弟子であり、日興上人の門流です。儀式や形式ではなく、そこにこそ、信心のまことの血脈があるのです。
 私たちは、本日より、この御遺誡を胸に刻み、大聖人の弟子たる誇りと使命をもって、勇んで広宣流布を推進していこうではありませんか!」

 

新・人間革命2巻 練磨の章 134頁~

4月6日

第1597回
悪を断じて放置するな!

 

<悪は、放っておけば、いつしかはびこり、多くの人を不幸にする。
それで苦しむのは、未来の世代である。>

 

 日蓮大聖人は四条金吾に、こう仰せである。
 「釈尊が言われるには、『わが滅後、末法に入って、尊げな姿をして五法という戒律を行ずる提婆達多のような者が国土に充満して、悪王を味方にして、正法を弘めるただ一人の智者を、あるいはののしり、あるいは打ち、あるいは流罪にし、あるいは死にいたらせようとする。この時、昔にも増してより以上の、天変、地夭、大風、飢饉、疫病が年々に起こり、他国からその国を攻めるであろう』と説かれている」「この経文の示すところは、今の世と少しも違わない。そして日蓮は『ただ一人の智者』の一分に当たっている」(御書1149ページ、通解)
 有名な御文である。謀略者と権力者という悪の結託――大聖人に対する迫害の構図が、明快に説き明かされている。
 そして、この大聖人に直結して、御聖訓どおりの難を一身に受けきりながら、同志を守り、学会を守りぬいて、広宣流布の道を開いてきたのが、学会の初代会長、第二代会長であり、第三代の私である。そのことを、後世のために、あえて明確に語り残しておきたい。
 大聖人は続けて、こう仰せである。
 「この日蓮を助けようと志す人々は少々いるけれども、あるいは志が薄い。あるいは志が厚くても、身がそれに伴わない。さまざまな人がおられるなかに、あなた(四条金吾)は、その一分に当たっている。日蓮を助けようという志が人よりすぐれておられるうえ、日蓮がわずかの身命をここまで支えることができたのも、あなたのおかげである。このことは、天も必ず知っておられるし、地もご存じであろう」(御書1149ページ、通解)
 この御文を拝し、私は、日夜、身命を惜しまず広布に邁進されている皆さまを、大聖人が讃えておられることは間違いないと信ずる。皆さまの活躍は、天も知り、地も知っている。この確信と誇りを忘れないでいただきたい。
 大聖人が仰せの「志」とは、「勇気」とも言えよう。
 いざというときに、どのような「勇気」で、どのような「心」で、どのように師弟の「共戦」の歴史を刻むか。これが、人生の究極の勝敗を決していく。ここに、大聖人の仏法の根幹がある。
 そして、関西創価学会は、永遠に、その模範のなかの模範であっていただきたい!
関西は、創価学会の心臓部である。関西は、私が鍛え、築いた組織であるからだ。
 大聖人は、こうも仰せである。
 「いかなる大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、それだけで成仏はないのである。
 たとえば、朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら、主君に報告もせず、個人としても敵として怒ることがなければ、長年の奉公の功績も、みな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである」(御書1494ページ、通解)
 まことに峻厳な御言葉である。広布を阻む敵を見ながら、それと戦えない。戦わない――こういう人間は、いくら仏法を知っていても、成仏はできない。どんな高い立場があっても、砂上の楼閣である。
 私は、この御聖訓を胸に刻み、ただ一人、迫害の矢面に立って、正義を叫びぬいてきた。悪と戦ってきた。
 悪は、放っておけば、いつしかはびこり、多くの人を不幸にする。それで苦しむのは、未来の世代である。
 どうか皆さんは、悪を放置せず、勇気をもって、徹して戦っていただきたい。

 2002年5月31日第十七回本部幹部会、第七回常勝関西青年部総会

4月5日

大転換時代到来!
脱炭素社会を我らが先駆!


<特別寄稿>

脱炭素化への五つの原則

 

国連気候変動枠組条約

 クリスティアナ・フィゲレス前事務局長

2019年4月4日


“持続可能な未来”を見据え皆が責任ある一人に 


 東京・信濃町の総本部を訪問し、学会の代表と和やかに語り合うフィゲレス前事務局長(2月11日、学会本部別館で)
 2月に東京・信濃町の総本部を訪れた国連気候変動枠組条約(UNFCCC)前事務局長のクリスティアナ・フィゲレス氏から、論考が寄せられた。氏はコスタリカの外交官として長年活躍し、2010年にUNFCCCの事務局長に就任。温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」の採択に尽力するなど、気候変動対策をけん引してきた。現在は国際的な気候変動行動キャンペーン「ミッション2020」の議長を務め、温室効果ガス排出削減に向けてネットワークを広げている。
 グローバルな気候変動交渉の責任を担うように要請された当初、私は世界各国の政府をまとめることは不可能だと思っていました。
 しかしその後、心を入れ替え、世界の気候変動への取り組みを変える手伝いをしようと決心しました。楽観主義なしに勝利をもたらす道はないからです。
 その後、パリ協定が採択されるまでの数年間、私は積極的に世界の宗教団体に働き掛けをしました。
 宗教組織はコミュニティー(共同体)において、大きな影響力を持っています。私どもが受けた最も重要な支援の一つは「ラウダート・シ」という回勅を発表したローマ教皇からのものでした。これはカトリック教会だけではなく、政治的にも影響力を持ちました。
 驚いたことに、2012年以来、多くの宗教コミュニティーが、炭素関連、特に石炭に関連する産業から資金を引き上げる決定をしているのです。
 こうした宗教コミュニティーは宗教的な信仰と科学との間に矛盾がないことを理解しています。私たちは皆、“共通の家”に暮らしています。人類が地球上で平和に暮らしていけるか否かという挑戦を共有しています。暴力を引き起こすような対立を避けるよう努める責任があるのです。
 ◆◇◆ 
 私は、移民を通じて各国が現在受けているプレッシャーについても憂慮しています。
 今日、世界には6800万人を超える難民がいます。そのうち2200万人以上が自国の外に出ています。戦争に加え、環境の変化も、その原因となっています。
 環境や気候変動の問題は、日本にとって何を意味するのでしょうか。私の視点では、二つの全く異なる未来が考えられます。
 一つは、世界の取り組みをリードすることです。
 日本には自然資源、労働力、技術、資本がそろっています。より多くの機会に恵まれ、安定した世界を構築するために先頭に立つべきです。
 もう一つは、逆に国際社会から“置いてきぼり”にされ、前世紀の技術に支配され続ける事態です。
 先導するか、置いてきぼりになるか――世界の脱炭素化のスピードを考えれば、日本にはこの二つ以外に選択肢はないと思います。
 難しい政治や経済状況を抱えているのは、どの国も同じです。太陽光、地熱、風力の発電を通じて経済成長を継続させるための機会は、日本にも開かれています。日本は傑出した労働力と技術を持っています。この機会を捉えて、何かを生み出していくことを願っています。
 ◆◇◆ 
 脱炭素化に向けて、私は五つの原則、社会からの要請を確認したいと思います。一点目は、倫理的原則です。
 パリ協定で示されている“産業革命前からの平均気温の上昇幅を1・5度にとどめる”ことができず、2度上昇させてしまうと、水不足や飢餓を原因とする死亡者数が2~3倍になると予測されています。
 異常気象が原因で強制的に移住しなければならない人々の数も、2~3倍になるでしょう。
 私たちはグローバル経済の針路を変更し、気温上昇を1・5度、最悪でも2度未満に抑えることを目指していかねばなりません。
 日本では昨年、豪雨災害や熱中症によって多くの方が犠牲になりました。しかし、これらは私たちが向かっている未来像の一部分にすぎないのです。
 皆が責任ある一人として、災害が頻発しない未来を確かなものにしていく必要があります。
 災害は弱い立場にある人々に最も被害を及ぼします。最も弱く責任のない人々に悪影響を及ぼさないよう、行動を起こしていかなければいけません。
 二つ目の原則は科学技術の主流化についてです。昨年、世界の発電量における新規増加分の3分の2が、再生可能エネルギーによるものと発表されました。わずか3分の1が化石燃料によるものでした。
 エネルギー技術の主流が再生可能エネルギーに向かっていることは議論の余地がなく、化石燃料には向かっていません。
 三つ目の要請は金融リスクの認識が高まっていることです。
 高炭素資産、石炭や石油ガスの金融リスクへの認識が芽生えています。実際、“もはや石炭関連の事業に対する投資はしない”と決定した金融機関もあるようです。
 四つ目に「社会的許容」です。農村部に住んでいる人々、都市部に住んでいる人々が“もう自分たちの健康について妥協したくない”と言い始めています。彼らは実際に「きれいな空気を吸いたい」と主張しているのです。
 石炭火力発電は大気に二酸化炭素を排出するだけでなく、地域レベルで大気汚染の原因となる粒子状物質も排出します。輸送のための液体化石燃料の燃焼も、粒子状物質による地域の大気汚染を引き起こします。全ての化石燃料が社会的に許容されるかどうかという圧力を受けています。
 つまり、従来の発電や車などのままでは、もう社会から許してもらえなくなるということです。
 五つ目は「世代間の公正」の要請です。
 地球という惑星全体で、過去150年間と同じだけ「温室効果ガス」を排出すると、気温上昇は2度を超えてしまいます。
 未来の世代は、不安定な世界、つまり、彼らが自分たちの人生における“予見可能性”を持つことが難しい暮らしをすることになります。
 例えば、保険会社が保険を掛けられない世界になります。破壊の度合いがひどくなるためにリスク管理ができず、保険をこれ以上は引き受けられなくなるのです。それだけの大きなリスクが発生することを意味します。
 ◆◇◆ 
 以上の五つの原則、要請全てが互いに積み重なり合っています。互いが互いを強め合うような要請なのです。私たちは他に選択肢がないのです。
 ただ、これにより私たちはチャンスが増えるともいえます。というのも、すでに脱炭素化の道を進んでいる個人や企業が示しているのは「脱炭素化が実行されればチャンスが開かれる」ということです。
 炭素利用の抑制というのは大きなチャンスでもあるわけです。これは全ての企業、都市、国にも当てはまります。私たちは、この方向に進むべきであると思います。 

 2019年4月4日付聖教新聞2面

4月4日

第1596回
我らの前進は
全民衆を幸福に!

 

<どこまでも信仰を根幹に>

 

 出会いは人生の花だ。
 信じ合える絆は宝だ。
 私も、正義に生きる
 恩師・戸田先生との出会いが
 人生を決めた。
 苦悩渦巻く社会で、
 この流転から人々を解放し、
 困難を打開しゆく仏法ならば、
 一生をかけてみよう――
 こう決意して、
 師弟の道を歩み始めた。
 わが一念を定めれば、
 全てが開けていく。
 信心根本の軌道ほど、
 強く、充実した人生はない。

 

 正義の戦いを起こすならば、
 断じて勝つことだ。
 異体同心で進むことである。
 我らの目的は
 広宣流布 即 世界平和である。
 我らの前進は、
 どこまでも信仰を根幹に、
 全民衆を幸福にしていくのである。
 民衆を利用し、
 民衆を苦しめる動きは、
 断じて許さない。
 まじめな庶民が馬鹿を見ない社会。
 一番、苦しんできた人が、
 一番、幸福になる世界。
 それを築くための戦いだ。

 

 まず張り切って、
 一歩を踏み出すことだ。
 たとえ、つまずいても、
 朗らかに、たくましく、
 次の一歩を踏み出せばよい。
 今日一日を勝つことだ。

 桜の生命と同じように、
 我々も力の限り、
 生きて生きて生き抜いて、
 己の使命の花を
 咲き薫らせていくことだ。
 これが本然の法則だ。
 我らに春が来た!
 勝利の春が来た!
 創価の同志の春が来た!

 

2019年3月31日 <池田大作先生 四季の励まし> 我ら創価の春が来た!

3月30日

第1595回
すべて青年部が先頭に立つことだ。

 

<全員が会長、理事長の自覚で!>

 

 今年、創価学会は創立七十二周年(2002年当時)である。人間でいえば、七十二歳。これからが総仕上げである。
 学会の正真正銘の真価を、人類史の本舞台でいちだんと発揮し、偉大な歴史を残しゆく、まことに意義深き時代に入った。われらの舞台は全世界である。
 現代文明は、権力主義や物質主義に覆われてしまった。人間のいちばん清らかな魂の流れを、みずみずしく蘇らせていく精神性は、どこにあるのか。
 それは仏法である。二十一世紀こそ、創価の人間主義が、歴史の舞台に本格的に登場する時のである。
 新しき世紀の主役は、瞳も涼やかに、未来への使命と希望を胸に抱く、青年部の諸君である。
 偉大なる使命のバトンを握りしめた若き諸君に、私は創価学会の万事を託したい。そのことを、きょうの「決議」としたい。(拍手)
 すべて青年部が先頭に立つことだ。先輩に遠慮する必要はない。きょう、この瞬間から、全員が会長、理事長の自覚で、創価学会の一切を担っていただきたい。
「五月三日」は、広宣流布への新たな出発の日である。

 

 2002年5月1日五・三祝賀第十六回本部幹部会、新世紀第二回未来部総会

3月30日

第1594回
思いきってやってみろ!

<自分自身が、広宣流布の指導者として立つ時である>

 

 平和を願ってやまなかった、アメリカの若き教育思想家ボーンは、語っている。
 「青春の哲学のいっさいは、思いきってやってみろ! という言葉に要約される」(「青春」井上謙治訳、『社会的批評』所収、研究社出版)
そのとおりである。
 「青春の命」は、正義のために、思いきって行動を開始する勇気にこそある。
 さらにまた、この真摯な教育思想家は、「詭弁やいい抜けを嫌い、あるがままのものを主張する青年の抑えがたい活動がなかったら、社会はまったく衰弱して滅びてしまうであろう」(同前)とも強く訴えている。ウソを許さぬ、青年の熱血の叫びこそ、健全な社会を築く「力」であるからだ。
 まさに、わが青年部の勇敢なる姿そのものである。皆さんの活躍を、私は心から讃えたい。
 今、「新しき世紀の大地」から、「新しき息吹の青年たち」が勇み立ち、きら星のごとく、光り始めた。そう私は直感し、期待している。
 若い君たちこそ「新しい光」だ。「新しい人材」である。いつまでも、だれかに頼る心ではいけない。もう傍観者のように眺めている時代ではない。自分自身が、広宣流布の指導者として立つ時であると自覚していただきたい。

 

 2002年4月13日第三回全国青年部幹部会、オレゴン州立大学「特別栄誉賞」授与式

3月24日

第1593回
人の胸を打つのは「真剣さ」だ。
 「必死の一念」だ!

 

 人間の価値は、
 財産でもなければ、地位でもない。
 どのような哲学を持ち、
 どのような
 実践をしているかで決まる。
 ゆえに、最高無上の妙法を持ち、
 行じ、弘めゆく創価の同志こそ、
 男女はきらわず、
 最高無上の大人材なのである。
 
 たとえ不遇な状況におちいっても、
 笑われても、けなされ、
 謗られ、迫害されても――
 いかなる苦難にあっても、
 決して屈しない。
 まったく動じない。
 そのような、
 堂々たる「人格」を鍛え、
 自分自身として輝き続ける。
 そのための信仰である。
 それが真の学会員の誇りなのだ。
 
 人の胸を打つのは「真剣さ」だ。
 「必死の一念」である。
 そこから、勝つための智慧も
 わき出てくるものだ。
 「もういいだろう」
 「このへんでやめておこう」と
 手を抜いてしまえば、
 それ以上は絶対に前に進まない。
 妙法の力は、無限である。
 もう一歩、あと一歩の執念で、
 わが目標の完遂へ
 勇んで突き進んでまいりたい。
 
 仏は
 対話に臨んで逡巡しない。
 遠慮もしない。
 いかなる違いや葛藤があっても、
 相手の仏の生命を呼び覚まし、
 広宣流布の味方に変えていける。
 誰に対しても
 臆さずに真実を訴える。
 悩める友を真心から励ます。
 この同志の声ほど、尊く強く、
 妙なる生命の名曲があろうか。
 信念と希望と決意の声を響かせ、
 前進だ!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉勇気と信念の声を高らかに 2019年3月24日

3月23日

第1591回
青年よ!

力をつけよ!

 

韓国を心から尊敬し、

ともに力を合わせて進もう!

 

 ″韓国のガンジー″と讃えられる独立運動の父・安昌浩(アン・チャンホ)先生は語った。
 「力を求めようとするならば、その力は、どこで求めることができるでしょうか。力は健全な人格と、固い団結から出てくることを私は確信しています」
 一人一人が、人間として輝いていくことだ。団結することだ。そこに大いなる前進の力は生まれる。(中略)
 先ほども紹介した韓国の安昌浩先生は、青年にこう呼びかける。
 「世の中、すべては力の産物です。力が小さければ小さいことを成就し、力が大きければ大きいことを成就し、力がまったくなければ何も成し遂げることはできない」