日めくり一週間

9月10日

第1693回

「未来は昔の未来にあらず」

「核兵器の禁止と廃絶」を21世紀の基軸に、

青年による「行動の連帯」を!

 

<中心軸こそ、わが創価の青年>

 

 若き世界市民の英知を結集する、新時代の青年不戦サミット、おめでとう! 異体を同心とする日本全国、さらにイギリス、マレーシアの俊才の皆さん、誠に御苦労さまです。

 戦後75年の節目を迎える中、世界は今、気候変動に伴う猛烈な熱波などの異常気象に加えて、新型コロナウイルスの感染拡大という未曽有の試練に直面しています。その深刻な打撃は、経済や医療、教育や文化など、あらゆる分野に及び、多くの人々の生命と生活と尊厳とを脅かしています。

 この危機的な状況下にあって私が思い起こすのは、ローマクラブの創設者であるペッチェイ博士が述べられていた「未来は昔の未来ならず」(大来佐武郎監訳、読売新聞外報部訳『未来のための100ページ――ローマ・クラブ会長の省察』読売新聞社)との警句です。

 ――すなわち、人類の歴史は数々の変化を経てきたものの、現代に至るまでは、変化のペースがある程度、予想が立つ状態が続いてきた。しかし、グローバル化が急速に進み、さまざまな問題が絡み合って複合化するにつれて、変化の様相を見通すことは困難になってしまった。

 その結果、どの国であっても「同じ運命へ向かって押し流されてゆく」ことは避けられず、軍事力、経済力などを持ちあわせている超大国にしても、「これに抗することはできない」(前掲書)と、警鐘を鳴らされていたのです。

 それゆえに、博士が“希望の未来”を託されていたのが、青年でありました。

 一人一人の人間には、「悪化しつつある人類の状態を是正するために発揮し、活用することのできる資質や能力が、本然的に備わっている」のであり、その最大の担い手が、青年による「行動の連帯」であると期待されたのであります。

 まさに今、人類の危機を乗り越えるために、国と国との垣根を越えた「行動の連帯」を築くべき待ったなしの局面を迎えているといってよいでしょう。そして、その中心軸こそ、わが創価の青年であると、私は確信してやみません。

 なかんずく、皆さんがICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などと協力して、国際的な機運を後押しする中で採択された核兵器禁止条約が、あと6カ国(6日現在)の批准で発効される段階まで前進してきたことを共に喜び合い、さらに支持したいと思います。

 日蓮大聖人は、「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(御書761ページ)と仰せになられました。世界を覆う不安と分断の闇も、青年による智慧と慈悲の喜びの光を放つことこそが、遠回りのように見えて、最も確かな、自他共の幸福の未来を開くことを、私は皆さんと高らかに宣言したいのであります。

 本日のサミットを新たな誓いの場として、戸田先生が遺訓の第一とされた「核兵器の禁止と廃絶」を21世紀の基軸に据えゆく皆さんの「行動の連帯」が、いやまして広がりゆくことを念願し、私のメッセージといたします

 

2020.9.10聖教新聞2面青年不戦サミットへのメッセージ

8月20日

第1692回

戦いは、攻撃精神

 

 戸田先生は、「戦いは、あくまでも攻撃だよ。攻撃精神だよ」とおっしゃった。

 また、人材育成について「大事にするのは、そっとして置くこことは違う。うんと働かせるほうがいいぞ」とも訴えられた。

 学会の師弟の世界が、心ない中傷にさらされ、同志が馬鹿にされた時、「本気で怒る人」「死にものぐるいで戦う人」こそ、本物のリーダーである。それを、真剣に怒らず、高みの見物をしているような人間は、偽物である。絶対に信用してはならない。とくに、未来のために、若い世代を育てるために、本当のことを言っておきたいのである。

 純粋な学会員の皆さまのおかげで、創価学会は世界に広がった。大発展した。だからこそ、最高幹部の責任は重い。懸命に広布に励んでくださる、大切な同志が苦しむようなことがあってはならない。尊き民衆の城を護りゆくために、リーダーはみずからが矢面に立って邪悪と戦っていくのだ

 イギリスの詩人シェリーは「肩書は虚飾、権力は堕落」(『飛び立つ鷲』阿部美春・上野和廣・浦壁寿子・杉野徹・宮北恵子訳、南雲堂)

 外から、内から、和合の団結を破壊しようとする動き。慈愛のかけらもなく、己の醜い欲のために、うるわしい世界を食い物にしようとする魔性――。そうした魔の蠢動を打ち破るのは、「信心の剣」である。戸田先生が、おっしゃっていた「攻撃精神」なのである。

 

2006.3.29「5・3」記念協議会

8月5日

第1691回

高め合う「創造家族」に

 

 社会といっても、

 その基盤は、

 一つ一つの家庭にある。

 ゆえに、盤石な家庭の

 建設なくしては、

 社会の繁栄もないし、

 社会の平和なくしては、

 家庭の幸福もありえない。

 そこに世界平和への

 方程式もある。

  

 身近な家族同士では、

 意外に

 不平や欠点の指摘に、

 終始していることも多い。

 そうした中で

 ほんのちょっとした、

 励ましの言葉が

 相手の心をほぐし、

 会話を円滑に

 するものである。

 こうした繰り返しが、

 自然のうちに

 家族の絆を確かなものに

 つくり上げていく。

  

 家族になるのも

 深い宿縁である。

 互いが互いの幸福を

 増進させる「善き友」で

 ありたいものだ。

 広宣流布という

 高い目標に向かって、

 支え合い、補い合い、

 磨き合っていけば、

 それは「創造家族」とも

 言えるし、

 「成長家族」とも言える。

  

 親の信心は、

 必ず子に伝わる。

 たとえ、時間がかかっても、

 回り道を重ねても、

 絶対に伝わる。

 飾る必要はない。

 失敗を恐れなくてよい。

 信念を曲げず、

 自ら決めた道を

 朗らかに進む。

 その親の生き方こそ、

 子に贈る

 「最上の宝」なのだ。

  

 家族が信心していなくても

 何の心配もいらない。

 その中で信心を貫いて

 いること自体が全部、

 家族の大功徳に変わる。

 一人が

 信心に立ち上がれば、

 わが家に太陽が昇る。

 全員を幸福の方向へ、

 成仏の方向へ

 導いていけるのが、

 妙法の功力なのである。

 

2020年8月2日〈池田大作先生 四季の励まし〉

7月20日

第1690回

ナポレオン補佐の将軍たちは、

ナポレオン直接指揮のもとに部隊を動かすときは優秀であるが、

自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった

 

「師匠ならば、どうされるか」

 

 ナポレオンは、奥が深い。その「光」と「影」、「栄光」と「悲劇」、「勝利」と「敗北」から、じつに多くの教訓を引き出すことができる。

 

 たとえば、「ワーテルローの戦い」で、ナポレオンは、なぜ敗れたか?

 当然、さまざまな角度から分析できるが、一つの要因として、ナポレオンの側近や部下たちの多くが命じられなければ動けない、動かないという、いわば「指示待ち」の体質になってしまっていたことが指摘される。

 一人一人が″ナポレオンだったら、どうするか″を考え、責任を担って行動する、一騎当千の獅子の集団ではなくなった。「保身」と「事なかれ主義」が横行する、硬直した組織になってしまったというのである。

 ある将軍は、こう記している。

 「ナポレオン補佐の将軍たちは、ナポレオン直接指揮のもとに二万五千の部隊を動かすときは優秀であるが、自分たち自身の着想で大軍を指揮するだけの力量はなかった」(長塚隆二『ナポレオン』下、読売新聞社)

 著名な作家ツヴアイクも、そうした視点から「ワーテルローの戦い」の敗因を論じている。

 すなわち、ナポレオン軍の勝敗の帰趨を握った将軍(グルーシー)が、他人の命令に従うことに慣れ、自分で決断できない人物だったために、いたずらに命令を待つだけで、突入する時を逸し、勝てるチャンスを逃してしまった。

 肝心の、ナポレオンの″突入せよ″との命令も、伝令が遅れ、その将軍のもとに届いたときには、一切が手遅れになっていたというのである。(『人類の星の時間』片山俊彦訳、みすず書房、参照)

 もしも、その将軍が、ナポレオンと同じ責任感に立って、決断し、行動しゆく勇気をもっていたなら、歴史は変わっていたかもしれない。これは、あらゆる組織に当てはまる示唆をはらんでいると言えよう。

 いわんや、広宣流布の組織において、指示待ちゃ受け身の心があれば、前進を阻んでしまう。その行き詰まりを打開しゆく根本の力が、「師弟」なのである。

 私は、若き日から、つねに″戸田先生なら、どうされるか″を念頭に置き、先生と同じ責任感に立って、思索し、動き、戦っていった。三障四魔、三類の強敵と戦い、難を受けきられながら、広宣流布の指揮を執られる先生の「境地」を、私は信じぬいて、先生にお仕えした。

 私が音楽隊や鼓笛隊をつくり、文化祭を推進し、新しい文化運動の流れを起こしたのも、戸田先生の遠望を拝察して、その具現化のために、絶対に必要であると着想したからである。当時の幹部はだれもが反対したが、戸田先生は、「大作がやりたいように、やってみなさい」と、応援してくださった。

 今日の創価学会の「平和」「文化」「教育」の世界的な運動の広がりは、すべて、この「師弟不二」の一念によって成し遂げられてきたものである。このことを、深く知っていただきたい。

 

2006.3.29「5・3」記念協議会

7月12日

第1689回

目標を定めて一歩前へ

 

<挑戦しないと人格はできない>

 

 人生は、挑戦である。

 挑戦しないと、

 人格はできない。

 自分を鍛えるのは、

 自分だ。

 自分を大きくするのは、

 自分の努力である。

  

 本来、人間は

 自分に挑戦している時は、

 伸び続ける。

 他人と比較しはじめると、

 成長は止まる場合がある。

 何か一つでも、

 自分が打ち込めるものを

 もっているならば、

 それはおのずから

 自分の心の大地を耕し、

 育てることになる。

  

 目標をもつことは、

 希望をもつことである。

 目標が定まれば、

 一足一足の歩みにも

 力がこもる。

  

 何があっても、

 太陽は昇る。

 暗い夜のような、

 さみしく、つらい時が

 ずっと

 続くように思えても、

 朝は必ずやってくる。

 だから、

 うまくいくかどうか

 心配するよりも、

 思い切って

 やってみることである。

  

 背伸びをする必要はない。

 地道に忍耐強く、

 前へ進むことだ。

 一歩でもいい。

 ありのままの自分で、

 今やれることを

 着実にやり切ることだ。

 まず腹を決める。

 その強き一念が、

 自分のもてる力を

 十全に発揮させるのだ。

 いわんや、

 我らには「祈りとして

 叶わざるなし」の

 御本尊がある。

 何ものにも勝る

 「法華経の兵法」という

 信心がある。

  

 日々前進だ!

 日々向上だ!

 昨日の自分を

 断じて越えよ!

 そして、

 今日という日を、

 断固として勝て!

 

2020.7.5〈池田大作先生 四季の励まし〉 

7月6日

第1688回

今いるところが「幸福の都」

 

 さらに、御聖訓を拝したい。

 「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都(仏が住む国土)となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(インド)の霊鷲山(仏が住して法華経を説いたところ)を見、本有の(永遠存在する)寂光土へ昼夜に往復されるのである」(御書1343㌻、通解)

 今、戦っている、その場所で、「平和の文化」の都を築きあげていくことだ。また、必ず築いていけるのである。この思想、この行動に、世界宗教の最も進んだ、最も理想的な姿があると、多くの知性が刮目している。

 大聖人は、熱原の法難で外護の戦いをした南条時光に対して、こう、おっしゃっている。

 「しばらく苦しみが続いたとしても、最後には必ず楽しい境涯になる。たとえば、国王のたった一人の王子のようなものである。どうして国王の位につかないことがあるだろうかと、確信していきなさい」(御書1565㌻、通解)

 大聖人は、つねに「一人の生命」「一人の幸福」を根本にされ、徹底して勇気と希望を送られた。

 ゆえに学会も、まったく同じ軌道を歩む。信心を貫いた人が、最後には必ず勝つ。それを証明していくのが「人間革命」の大道である。

 

2006.2.27婦人部代表者会議

 

7月1日

第1687回

青年の心で価値ある人生を

 

 青年とは先駆者である。

 挑戦者である。

 開拓者である。

 すでに、

 でき上がった土台の上に、

 自分が

 花を咲かせるのではない。

 人のため、社会のため、

 あとに続く

 後輩たちのために、

 自分が礎となる――。

 この青年の

 誇り高き闘魂によって、

 道なき道が開かれる。

  

 価値ある人生、なかんずく

 「価値ある青春」を

 開くもの――。

 それは「今まで、

 どうであったか」ではない。

 「これから、

 どう生きるか」。

 この力強い

 前向きの一念である。

 そこに勝利の道がある。

 今の自分を超える労作業に

 絶えず挑戦していく。

 その「向上する心」にこそ、

 青年の魂がある。

  

 青年の力は無限である。

 たとえ

 逆境に突き落とされても、

 ピンチを

 チャンスに変える。

 最後に勝つ

 ドラマをつくる。

 それが青年の強さである。

 偉大な使命に生き抜けば、

 偉大な自分を

 築いていける。

  

 青年の証しとは何か。

 それは年齢ではない。

 年老いても

 「心は青年」の人がいる。

 心が生きているか

 死んでいるか。

 わが胸に

 「戦う心」が燃えているか

 どうかである。

  

 さあ、いよいよ、

 太陽輝く7月へ!

 躍動する「青年の月」へ!

 偉大なる創価の師弟は、

 断固と全てに

 勝ちまくっていくのだ。

 人類の幸福と平和という、

 世界広宣流布の

 大願を高く掲げ、

 さらに壮大なる

 創価の「師弟の物語」を、

 来る日も来る日も、

 綴り築こうではないか!

 

2020年6月28日〈池田大作先生 四季の励まし〉

 

6月25日

第1686回

「父」

 

<信頼広げる人間王者に>

 

 家庭や地域にあっても、

 厳しい経済闘争に

 あっても、

 宿命転換の激戦に

 あっても、

 一家の柱、

 広布の要として、

 辛抱強く

 頑張ってくれている

 創価の父に、

 感謝と労いの笑顔を

 贈っていただきたい。

 

 波瀾万丈の苦労をしてこそ

 「人間」はできる。

 苦労もせず、

 思い通りにいけば、

 よいように思える

 かもしれないが、

 結局は、

 傲慢で小さな人間に

 なってしまうものだ。

 やりづらくとも、

 耐えて、努力し、

 乗り越えていく。

 その積み重ねのなかで

 「人格」はできる。

 

 偉い人の仕事は、

 「自分のため」の

 次元ではない。

 「人のため」

 「社会のため」である。 

 後輩のため、そして

 後継の友のために戦い、

 道を残していく――

 ここに偉大な

 「父」の心がある。

 

 人生は長い。

 勝つ時もあれば、

 負ける時もある。

 行き詰まり、

 七転八倒する時も

 あるだろう。

 だが、人生の勝敗は

 途中で決まらない。

 栄光は、粘り抜いた

 逆転劇によって

 勝ち取るものだ。

 だからこそ

 心は負けてはならない。

 あきらめてはならない。

 

 父が厳然としていれば、

 どれほど

 安心と喜びが広がるか。

 一騎当千である。

 その「一人」を

 大切にする。

 粘り強く通い、

 信頼を育み、

 励まし続ける。

 熱い男の友情と連帯を、

 私は最大に讃えたい。

 

2020年6月21日〈池田大作先生 四季の励まし〉

6月25日

第1685回

緑の地球を守る世界市民に

 

<自然を壊すのは人間を壊す>

 

 地球では、

 生きものの誕生は

 40億年前という。

 それ以来、

 連綿と、

 命が命を育み、

 命が命を支えて、

 私たちを生んだのだ。

 この“生命の輪”が、

 一つでも欠けていたら、

 あなたは今、

 ここにいない。

  

 自然を壊すのは、

 人間を壊すことになる。

 なぜなら自然は、

 人類の

 「ふるさと」だからだ。

 あらゆる生命も人類も、

 大自然の中から誕生した。

 自然という

 環境の中から

 誕生したものである。

  

 自然を愛する人は、

 人を清らかに愛せる。

 平和を大切にする。

 損得の計算の世界を

 超越した、

 情緒豊かな人生である。

  

 戦争やテロは、

 人間への暴力である。

 環境の破壊は、

 自然への暴力である。

 それぞれ

 別の問題ではない。

 根は一つである。

 その根とは、人間、

 そして

 人間を支える自然・環境、

 全ての

 生命の尊厳の軽視である。

 その根本を

 正さなくてはならない。

  

 人間がそこにいる限り、

 同じ地球に生を営む

 仲間がそこにいる限り、

 全てのことに

 断じて無縁ではないのだ。

 私はそうやって、

 国家や体制の壁や

 価値観の違いを超え、

 信仰を持っている、

 いないにかかわらず、

 地球民族として

 友情を結び、

 世界市民の信頼を

 広げてきた。

 今こそ“母なる地球”を、

 生命尊厳と人間尊敬という

 精神の宝で、

 いやまして

 輝かせていきたい。

 

2020年6月14日〈池田大作先生 四季の励まし〉

6月13日

第1684回

子どもは「人類の未来」

 

 子どもたちは

 「未来の宝」である。

 かけがえのない

 「地球の財産」である。

 その貴重な生命を守ることは、

 人類の未来を

 守ることにつながる。

  

 未来部の皆さんにとって、

 学ぶことは、

 かけがえのない権利だ。

 特権である。

 勉強をすれば、

 自分の視野が広がる。

 活躍の舞台が大きくなる。

 今まで見えなかった世界が、

 はっきりと

 見えてくるようになる。

 大空から大地を見渡す「翼」を

 手に入れるようなものだ。

 ゆえに、

 今は大いに学んでもらいたい。

  

 決意した通りに

 勉強できる場合もある。

 できない場合も

 多いかもしれない。

 調子がいい時も、

 悪い時もある。

 しかし、

 どんな時も、へこたれないで、

 「また頑張ろう」と決意する。

 あきらめない。

 その人が最後には伸びていく。

  

 栄養を与えるほど、

 木は大きく育つ。

 同じように、

 魂にも「滋養」を

 与えることである。

 そのためには読書である。

 十代、二十代に読んだ本は

 一生の財産となる。

  

 皆さん方のお父さん、お母さんは、

 偉大な民衆の歴史を

 切り開いている。

 そして後継の皆さんは、

 若き正義の英雄なのである。

 世界広布の先頭を走る、

 若き後継の未来部を、

 皆で応援しよう!

 皆さん方の成長を、

 世界が待っている。

 勉学第一を、

 そして

 親孝行を頼みます。

 

2020年6月7日〈池田大作先生 四季の励まし〉

6月5日

第1683回

強い心

 

<題目>

 

 古代ギリシャの教育者・弁論家のイソクラテス。彼は、こういう言葉を伝えている。「最小のものの内にある最大のもの、それは人間の身体に宿るすぐれた精神である」(『弁論集』1、小池澄夫訳、京都大学学術出版会)

 人間の精神ほど偉大なものはない。人間の心ほど、巨大な可能性を秘めたものはない。

 心が強ければ、どんな困難も乗り越えていくことができる。現実を大きく変えていくことができる。その原動力が妙法である。題目なのである。どうか一人一人が自身の人間革命に挑戦しながら、新たな広布拡大の歴史を築いていただきたい。

 

2006.3.21春季彼岸勤行法要

6月1日

第1682回

女性が社会を輝かせる

 

<モノや効率の時代から心の通う時代へ>

 

 時代は、

 女性のもつ

 しなやかな創造力、

 優しさ、温かさ、

 人間味などが

 社会に反映されることを

 求めている。

 物や効率ばかりを

 追うような社会から、

 心の通う人間らしい

 社会に戻していくには、

 女性の力が

 不可欠なのである。

  

 女性の聡明な笑顔、

 生き生きとした

 声の響きこそ、

 皆に勝ち進む活力を

 みなぎらせていく

 源泉である。

  

 女性こそ

 平和の担い手であり、

 生命尊厳の世界を築きゆく

 偉大な使命をもっている。

 女性を大切にし、

 女性の意見を尊重する――

 そうすれば、

 世界は、

 より良い方向へと

 変わっていく。

  

 女性は、

 いくつになっても、

 自分らしく花を

 開かせることができる。

 心にしっかりとした芯を

 もっている人は、

 時とともに輝いていく。

 そのためにも、

 何か、自分を進歩させる

 目標をもつこと、

 さらに人のため、

 社会のために

 尽くしていくことが

 大切である。

  

 女性には命を育む

 「慈悲」がある。

 生活に根差した

 「智慧」が光り、

 堅実に生きる

 「忍耐」があり、

 一歩も退かぬ

 「信念」が燃えている。

 世界一、宇宙一の妙法を

 持ち弘めゆく女性は、

 この社会で

 最高に尊貴なる

 宝の方々だ。

 「法華経の師子王」を

 持った女性こそ、

 時代・社会の最先端をいく

 一人一人なのである。

 

2020年5月31日〈池田大作先生 四季の励まし〉

5月30日

第1681回

学会の三指針

 

<悪と戦うがゆえに難が起こる>

 

 「戸田先生は、『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』という、三つの指針を示されました。

 広宣流布といっても、その縮図は家庭のなかにあります。一家が仲良く、楽しく、誰からも羨まれるような家庭になってこそ、信心の証といえます。

 また、皆様方が『自分はこんなに幸福である』と、胸を張って言い切れるようになるための信心であります。最終的には、広宣流布も、仏道修行も、人のためではなく、自分の幸福のためです。

 そして、その幸福をつかむには、難を乗り越えなくてはならない。

 正法には、必ず難があります。悪と戦うがゆえに、難が競い起こるのです。

 しかし、風がなければ、凧も揚がりません。私どもも、悪と戦い、難を受けてこそ、磨き鍛えられ、人格の光彩を増していきます。

 難に負けず、邪悪と戦い続ける人生こそ、最も崇高であり、そこに湧きいずる無限の生命力が、使命の躍動が、幸福の大空へと自らを飛翔させる活力となるのであります。

 自分を幸福にするのは、他人ではありません。科学でも、また、政治でもありません。自己自身の一念であり、自らの生命を開きゆく尊き信心にあります。

 

新・人間革命 8巻 布陣

5月29日

第1680回
冥益(みょうやく)

 

<崩れざる幸福境涯を築くこと>

 

 伸一は、日蓮大聖人の仏法こそ、経文のうえからも、法理のうえからも、最高の教えであることを訴えるとともに、その功徳は、「冥益」となって現れることを述べていった。
 「功徳には、祈りの結果が、直ちに目に見える利益、つまり顕益と、目には見えない利益である、冥益とがあります。
 大聖人の仏法は、このうち、冥益が主となって、私たちに幸福をもたらしてくれます。
 ある場合には、信心してすぐに病気が治るということもありますが、本当の功徳とは、信心をしたら大金が手に入ったとかいうものではありません。
 『棚からボタモチ』のような、自分は何もせずに、どこかから幸運が舞い込んで来るのが功徳だとしたら、かえって、人間を堕落させてしまいます。
 では、冥益とは何か。
 たとえば、木というものは、毎日、見ていても、何も変化していないように見えますが、五年、十年、二十年とたつうちに、大きく生長していきます。
 それと同様に、五年、十年、二十年と信心に励むうちに、次第に、罪障を消滅し、宿命を転換し、福運を積み、大利益を得ることができるのが冥益であり、それが大聖人の仏法の真実の功徳なのであります」
 多くのメンバーは、功徳といえば、「顕益」と思い込んできた。それだけに、山本伸一の話を聞いて、驚いた人もいた。
 伸一は、皆に、正しい信仰観を確立してほしかったのである。
 彼は話を続けた。
 「冥益とは、言い換えれば、信仰によって、生命力と智慧を涌現し、人格を磨き、自らを人間革命して、崩れざる幸福境涯を築くということでもあります。
 したがって、焦らず、弛まず、木が大地に深く根を張って、大樹に育っていくように、学会とともに、広布とともに生き抜き、自らの生命を、磨き、鍛えていっていただきたいのであります。
 そうして、十年、二十年、三十年とたった時には、考えもしなかった幸福境涯になることは間違いないと、断言しておきます」

 

新・人間革命 8巻 布陣

5月28日

第1679回

一番むずかしいところから始めよ

 

 君よ、正義の剣で悪を打ち破れ

 御書には、「火に対しては水をもって消す。悪に対しては善をもって打ち破る」(1466㌻、通解)と記されている。

 妙法の利剣で、悪を打ち破っていくのだ。

 また、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と示されている。悪と戦い、悪を打ち破ってこそ、自身の無明が消え、真の功徳が顕れる。大きく境涯を開いていける。とくにリーダーは、先陣をきって戦うことだ。

 青年時代、私は学会や戸田先生へのデマの中傷は、絶対に許さなかった。庶民をいじめる横暴な権力とは、言論の剣で徹底して戦った。

 戸田先生は、よく、おっしゃった。

 「一番むずかしいところから始めよ。そうすれば、あとは、やさしい

 最も困難なところへ、「一歩」を踏み出す。苦手な分野に挑む。そこで突破口を開けば、さらに勢いも増す。「一番いやなところ」「一番大変なところ」に行くのが、本当の戦いである。仏道修行である。

 私はいつも、「一番大変なところ」へ乗り込んだ。勇んで指揮を執り、断じて勝った。それが私の最高の誇りである。

 

2006.3.24各部合同協議

5月26日

第1678回

正義の師を求めよ、悪師を見ぬけ

 

法華経のとおりに「難」を受けているかどうか

 

 ここで御聖訓を拝したい。「師弟契約御書」と言われる「最蓮房御返事」の一節である。

 「今の時代は、師に正師と邪師、善師と悪師がいる。その違いがあることを知って、邪悪の師を遠ざけ、正善の師に近づき親しむべきである」(御書1340㌻、通解)

 師匠といっても、正義の師匠もいれば、邪悪の師匠もいる。

 正義の師を求めよ! 邪悪の師を避けよ! その違いを、鋭く見ぬけ!決して、だまされるな!――これが、蓮祖の峻厳なる戒めである。

 邪悪な師には、従つてはならない。従えば、皆が悪に染まってしまうからだ。日顕がそうである。宗門が、あれほど腐敗し、堕落したのも、誤った指導者に従ったゆえである。邪悪な人間は、たとえ師であっても、それを遠ざけ、叩き出していかねばならない。どこの世界でも、同じことである。わが学会も、断じて油断してはいけない。

 役職や立場を利用してインチキをしたり、同志を苦しめる人間が出たならば、絶対に許してはならない。「あなたは、間違っている!」「おかしいではないか!」と厳しく責めぬいて、その悪を暴いていくのだ。そうでなければ、学会を破壊し、同志を不幸にしてしまうからだ。

 その点を厳しく見極めていかねばならない。これが大聖人の厳命であり、私の遺言であると申し上げておきたい。

 

「日蓮こそが、正義の師匠」

 

 それでは求めるべき「正義の師」とは、だれか? それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず、妙法を唱え広めていく人である。

 つまり、法華経のとおりに「難」を受けているかどうか。それを大聖人は、最大の眼目とされた。そして、「自分こそ法華経を知り、法華経を修行している者である」と思いあがっている輩に対しては、「日蓮が受けたような難にあっていないではないか」と厳しく切り返し、責め返しておられる。(=「最蓮房御返事」のなかで、大聖人は「先に挙げた諸宗の人々は、自分とそ法華経の意を心得て、法華経を修行する者であると名乗っているけれども、日蓮が受けたような難にあっていない」〈御書一三四一ページ、趣意〉と仰せになっている)

 大聖人の御生涯は、まさしく迫害の連続であられた。卑劣な讒言などによって二度、流罪された。頸の座にもつかれた。種々の難は数知れない。すべて経文どおりであられる。

 ゆえに大聖人は、「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪な師である。難を受けきってきた日蓮こそが、正義の師である」と厳然と宣言されたのである。(=「日蓮は弘長元年には、伊豆の固に流され、文永八年には、佐渡の島に流され、あるいは竜の口で頸の座にすえられる等の難を受け、このほか種々の難は数え切れないほどである。経文のとおりであるならば、自分こそ正師であり、善師である。諸宗の学者は、ことごとく邪師であり、悪師であるとお考えなさい」〈御書1341㌻、通解)

 

創価三代の師弟こそ広宣流布の礎

 

 それでは、御本仏であられる大聖人に直結して、「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の難を受けながら、末法の五濁悪世の現代に、世界広宣流布の道を聞いてきたのは、いったいだれか?

 初代、二代、三代の創価の師弟しかいない。

 初代の牧口先生は、大聖人の正法正義の命脈を守られて牢獄につながれた。そして、獄中で殉教である。

 第二代の戸田先生も同じく牢に入った。そして圧迫に耐え、寿命を削りながら、二年間におよぶ獄中闘争を生きぬかれたのである。

 第三代の私も、広宣流布のゆえに、無実の罪で牢獄に入った。反逆者に乗せられた、売らんがための卑劣なマスコミのウソ八百によって、数限りない悪口罵詈を浴びせられた。

 すべては、法華経のとおり、御書のとおりである。

 この初代、二代、三代の会長だけが、御聖訓にいささかも違わず、一切の矢面に立って三障四魔、三類の強敵と戦いぬいてきた。それはだれよりも、皆さんがご存じのとおりである。

 

青年よ「闘う魂」を受け継げ

 

 戸田先生がどれだけ、私を訓練したか。どれだけ、私を大事にしてくださったか。

 戸田先生が事業に失敗され、生きるか、死ぬか――その時も、私が一人で奔走して、先生をお守りした。莫大な借金もすべて清算した。

 先生を誹謗中傷する人間がいれば、ただ一人で飛んでいった。相手がだれであろうと、青年らしく、勇敢に、誠実に、まっすぐに語りぬいて、師の真実を認めさせていったのである。

 難と戦う師匠を断じて守る。その祈り、その行動に、「仏法の師弟」の真髄がある。

 牧口先生と戸田先生は「不二」であった。戸田先生と私もまた「不二」であった。「生死不二」の師弟であった

 戸田先生の本当のご精神を受け継いで、私は、三類の強敵と戦い、創価学会を、ここまでつくりあげてきた。

 創価の師弟は、牧口先生、戸田先生、そして私で決まったのである。

 根本は、三代の師弟である。三代の「師弟の精神」を守りぬいていくかぎり、創価学会は永遠に発展する。世界広宣流布は、必ず実現できる。

 この三代の広宣流布へ「戦う魂」を、後継の青年部は、断じて受け継いでいっていただきたい。勝っていただきたい。よろしく頼みます!

 私自身のことにもなって恐縮だが、万年の未来のために、本当のことを残させていただきたい。

 

2006.3.9第五十八回本部幹部会、全国壮年部幹部会、第三回九州総会

 

5月26日

第1677回

青年を糾合せよ

 

<まずは題目からでもかまわない>

 

 青年の糾合こそ、あらゆる団体の発展の方程式である。心広々とスクラムを広げていきたい。

 新しい青年に、最初から完壁に勤行・唱題をといっても、むずかしいかもしれない。まずは題目からでもかまわない。一遍の題目にも無量の功徳があると、大聖人は仰せである。要は、信心の確信を伝えることである。

 青年がいなければ、未来はない。師弟も、正義も、勝利も、すべて観念になってしまう。大切な広布の戦に負けてしまう。青年を仲間に!――学会は、これで未来を開こう!

 

2006.3.9第五十八回本部幹部会、全国壮年部幹部会、第三回九州総会

 

5月25日

第1676回

心の結び付きが地域を潤す

 

<相手を理解する>

 

 人間が

 人間らしくあること、

 本当の意味での

 充足感、幸福感は、

 “結び付き”を通してしか

 得られない。

  

 一度結んだ友情は

 絶対に裏切らない。

 その人が

 大変になればなるほど

 守り抜いていく。

 これが私の生き方である。

 真の人間として、

 人格と人格で結ばれていく――

 その友情は

 人生の宝である。

  

 友人の影響は、

 ある時には、

 親よりもだれよりも強い。

 いい友達、

 向上しようとしている人と

 付き合えば、自分も向上する。

 「いい友人をつくる」には、

 「自分がいい友人になる」

 以外にない。

  

 大切なことは、

 相手に同情する――あわれむ――

 ということではなく、

 「わかってあげる」

 ということである。

 「理解」することだ。

 人間は、

 自分のことを

 「わかってくれる人がいる」、

 それだけで生きる力が

 湧いてくるものだ。

  

 自分さえよければという

 エゴが渦巻けば、

 地域も社会も壊れてしまう。

 この“分断の魔力”を

 はね返して、

 人と人の麗しい

 励まし合いの世界を

 蘇生させてきたのが、

 わが創価の同志だ。

  

 大山も

 一つの塵から成る。

 大海も

 一滴の露から始まる。

 一人から始まる。

 一人を大切にすることが、

 社会を変え、

 やがて世界を変えていく。

 そして世代を超え、

 永遠の平和を実現する道が、

 広宣流布である。

 

2020年5月24日〈池田大作先生 四季の励まし〉

5月24日

第1675回

組織は「上」から腐る

 

<同志に「ありがとう」と心から感謝を>

 

 以前も申し上げたが、組織は「上」から腐る。上の幹部が要領を使い、威張ってばかりいたら、全体が腐ってしまう。人材も育たない。

 それでは皆がかわいそうだ。そういう幹部は、下から声をあげて突き動かしていくことだ。

 権威を笠に着るのは″魔物″の存在だ。

 学会は最高の「人間の世界」である。清らかな信心の世界である。全員が平等である。

 学会のため、広宣流布のため、同志のために、どれだけ働いたか――ただ、それだけが、その人の「偉さ」を決める。不惜身命の行動をした人を、日蓮大聖人は御賞讃くださるのである。

 会員のために尽くすのが学会の本当のリーダーである。会員に尽くすことが、御本尊に尽くすことになる。それが広宣流布に尽くすことになるのである。

 自分は偉くない。偉いのは、広布へ戦う同志である――そう心から思って、「ご苦労さまです」「ありがとうございます」と讃え、感謝していくのだ。

 

2006.3.4本部代表者会議

5月23日

第1674回

 広布とは外交戦

 

<大切なのは本気で戦う一人>

 

 きょうは、忙しいなか、ご苦労さま!

 あらゆる団体にとって重要なことは何か――それは、「渉外」であり、「外交」である。

 いかにして味方を増やしていくか。いかにして敵と戦い、勝っか。ここに、その団体の盛衰を分ける重要なポイントがある。きょうはこの点について、学会の未来のために、戸田先生の指導にもふれながら、スピーチをさせていただきたい。

 先生は、「外交のできない人間は信頼してはならない」と言われた。

 私は戸田先生のもとで、学会の初代渉外部長を務めた。徹底して訓練を受けた。

 「誠実」と「智慧」、そして正義のために戦う「勇気」――これが渉外の要諦である。外交の基本中の基本だ。これがあれば大丈夫である。

 もしこの精神が失われたとすれば、それは、その団体が滅びていく兆候と言えよう。

 強く、また誠実に、情熱をもって進むのだ。

 渉外部長だった私は、戸田先生や学会に対し、事実無根の中傷を行う雑誌社や新聞社があれば、即座に飛んでいって厳重抗議した。相手が非を認めるまで許さなかった。

 悪質なデマや誹謗をまき散らす連中とも言論で戦った。臆することなどなかった。単身、乗り込んでいった。交通費がなければ、歩いてでも行った。

 大切なのは、本気で戦う一人である。だらしのない、意気地のない人間が大勢いても、何の役にも立たない。本気で立ち上がる人間がいなければ、何も変わらない。

2006.3.4本部代表者会議

5月22日

第1673回

『青年訓』

 

 

 新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。

 

 吾人らは、政治を論じ、教育を勘うる者ではないが、世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い人世の苦を救って各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめん事を願う者である。

 

 この事業は、過去においては釈迦の教団が実行し、近くは日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。

 釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、皆若き学徒であった。

 日蓮大聖人の門下も、また、皆若き学徒によって、固められていたのである。

 日興上人は、大聖人より24歳も若く、日朗もまた、21歳の年の開きを持っていた。

 西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。

 

 吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に没在せる東洋の浄土化を、弘宣せんとする者である。

 

 諸兄らは、この偉大なる過去の青年学徒群と、同じ目的、同じ道程にある事を自覚し、これに劣らぬ覚悟がなくてはならぬ。 霊鷲山会に、共々座を同じうした時、『末法の青年は、だらしがないな』と、舎利弗尊者や大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書きが泣く事を知らなくてはならない。

 

 奮起せよ! 青年諸氏よ。

 

 闘おうではないか! 青年諸氏よ。

 

 しからば、誰人と、如何なる戦を、吾人らは、為すものであろうか。

 

 第一は、無智の者に永遠の生命を教え、創価学会の本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯する、自在の境涯を会得せしむる為に、忍辱の鎧を着、慈悲の利剣を引っさげて戦うのである。

 

 第二は、邪智邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗邪義は一切この世の中の不幸の原因であり、それが為に、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世は皆乱るるなりと教え、邪智邪宗を飜えす様、智慧の鎧を身に纏い、彼らが執着の片意地を、精進勇気の利剣を持って、断ち切るの戦いである。

 

 第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。 しかるに青年は、親をも愛さぬ様な者も多いのに、どうして他人を愛せようか。 その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである。

 

 思考して、吾人は更に、諸兄らの行動について、望む処を持つ者である。

 

 第一に、絶対的確信に満ちたる信仰の境地に立脚し、信行において微動だにする事なく唯一無二の御本尊を、主・師・親と仰ぎ、日蓮大聖人と共に居ますの有難さに溢れ、地涌の菩薩の後身を確信する事である。

 

 第二には、行学に励み、御書を心肝に染め、大聖人の仏法に通達して迷いなく、今は如何なる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし、日興上人のご遺誡を我が命として、努むべきである。

 

 第三に、その行動の態度たるや、真摯にして暴言を用いず、理を尽くして指導の任に当たり、威厳と寛容の姿の中に、邪義、邪宗、邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべき事である。

 

 第四には、部隊長及び班長の命を奉じて、学会精神を会得して、同志の士気を鼓舞し、広宣流布大願の中心人物たる事を、自覚せられたき事である。

 しかも、広宣流布の時は近く、創価学会の御本尊流布の機は、今まさにこの時である。

 故に、三類の強敵は、当に現れんとし、三障四魔は勢いを増し、外には邪宗邪義に憎まれ、内には誹謗の声漸く高し、驚く事勿れ、この世相を。

 こは、これ、聖師の金言なり。

 

 されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御覚えに愛でたからんと願うべきである。

 愚人に褒むらるるは、智者の恥辱なり。

 大聖に褒むらるるは、一生の名誉なり。

 心してご本尊の馬前に屍を晒さん事を。

 

戸田先生の巻頭言『青年訓』

◆5月21日

第1672回

学会の代表

 

 ここで、戸田先生のご指導を紹介したい。先生は言われた。

 「外へ出れば、一人であっても、学会全体を代表しているのである。個人ではない。学会の代表という責務に立たねばいけない

 この自覚が大切だ。

 また、先生は「貧相な姿では、立派な外交の仕事はできない」とも言われていた。戸田先生は、こういうところにも気を使われた。貧相では、バカにされる。それだけで負けてしまう。

 先生は叫ばれた。

 「臆病者は学会から去れ! 意気地なしは学会から去れ! 学会と生死を共にする者だけが真実の同志だ

 そのとおりだ。臆病者の集まりでは広宣流布はできない。世界広布はできない。

 今、私は全生命を賭して世界広布のために戦っている。ただ広宣流布のため――その責任を担う私の人生には、自分の楽しみなどはなかった。

 第三代会長に就任した時に住んでいた小林町(東京都大田区)のわが家は、たいへんに質素だった。私の家を訪ねてきた人が、気付かずに通り過ぎてしまう。それくらいの小さな家だった。

 昭和四十一年(一九六六年)に、信濃町に引っ越しをした。その自宅もまた、質素なものである。

 私は、私財もなげうって広布を支えた。血のにじむような努力をして、恩師の教えのままに、すべてを学会に捧げてきた。これほど尽くしてきた弟子は、ほかにいない。

 

2006.3.4本部代表者会議

5月20日

第1671回

 「声の力」で新しい前進を 

 

<ありのままの自分で>

 

 

 声は力である。

 声の響きこそが、

 人に勇気を送る。

 いざというときの

 「信頼の一言」

 「励ましの一言」

 「確信の一言」が、

 どれほど皆に

 力と勢いを与えることか。

  

 大事なのは、

 励ましである。

 励ましの声である。

 仏典には、

 「声仏事を為す」と

 仰せである。

 現実に生きゆく人々に、

 希望と勇気を送るのは、

 真心からの

 「励ましの声」である。

  

 自分を

 よく見せようとすると、

 しゃべるのが苦痛になる。

 ありのままの

 あなたでいい。

 背伸びせず、

 自分の短所も長所も

 正直に知ってもらえば

 いいのである。

  

 親身になって、

 話を聞くことである。

 悩みを「聞いてもらう」

 だけでも、ぐっと心が

 軽くなるものだ。

 前へ進む力になる。

 今、手を差し伸べれば、

 全ての人を

 輝かせていける。

  

 一本の電話の持つ力は

 計り知れない。

 顔が見えない分だけ、

 声や話し方が大事である。

 一本一本の電話、

 そして一回一回の対話が

 仏縁を結び、福運を広げる

 仏道修行と思い、

 深き祈りを込めて、

 声を響かせていくことだ。

  

 「声」を

 惜しんではならない。

 「声」の限りを尽くして、

 語りまくり、

 しゃべりまくって

 いくことだ。

 「新しい前進」――

 それは

 特別なことではない。

 「新しい息吹」で、

 「新しい声」を

 発するところから

 始まるのだ。 

 

2020年5月17日〈池田大作先生 四季の励まし〉

5月19日

第1670回

「真実を語れ!」

市民の恩を忘れなかった

真実をこよなく愛したモンテーニュ

 

<嘘をつくことは下劣な悪徳だ、社会への裏切りだ>

 

絶えざる人間革命を!

 

 モンテーニュは『随想録』のなかで、「最初の選挙の時以上に骨を折ってくれた市民諸君に対して、感謝を欠き恩義を忘れるものと考えてはいけない。わたしはこれらの市民諸君のために、ありうる限りの幸いを願っている」(『モンテーニュ全集』3所収、関根秀雄訳、白水社)と述べている。

 また、「実際その機会さえあったら、わたしは彼らのためにどんな苦労をもおしまなかったであろう」(同前)とつづっている。応援してくれた人々の恩に報いる。これは、人間として当然の道である。この道を踏み外した者は、人間の道を踏み外した者といってよい。

 さらに、「自惚は我々の持って生れた病である」「高慢からはあらゆる罪悪が生れる」(『随想録』同全集2所収)などと、人間の傲慢にも警鐘を鳴らしている。

 モンテーニュは真実をこよなく愛した。真実を愛するがゆえに、それ以上の強さで虚偽を憎んだ。彼は「嘘をつくことは下劣な悪徳だ」「言葉を偽る者はおおやけの社会を裏切る者だ」(荒木昭太郎責任編集・訳『世界の名著19 モンテーニュ』中央公論社)と、激しい言葉で虚偽を責めている。

 「言葉」を通して、私たち人間は心を通わせ、意思を表し、生活を営んでいる。われわれの社会は、言葉によって成り立っているといっても過言ではない。だから、ウソがはびこるようになると、その社会の基礎は、大きく揺らいでしまうことになる。

 「もしそれ(=言葉)がわれわれをあざむくならば、それはわれわれの交わりのすべてを断ち切り、われわれの国家のつながりのすべてを解いてしまう」(同前)と、モンテーニュが喝破したとおりである。

 ゆえに私たちは、恐れることなく、どんどん「真実」を語ってまいりたい。勇気の「声」をあげることだ。御書には「声仏事を為す」とある。「声」には偉大な力があるのだ。

 黙っていてはいけない。沈黙すれば、その分、ウソが浸透し、社会がむしばまれてしまう。

 私は、ありのままに、真実を語る。戸田先生はよく、「大作は、なんでも本当のことを言うからいいな」と、おっしゃってくださっていた。

 率直に、オープンに、真実を語るから、皆が安心してついてこられる。″秘密主義″や″密室主義″はよくない。「虚偽」の支配する世界は腐敗する。「真実」の君臨する世界は繁栄する。いかなる国であれ、組織・団体であれ、同様である。

 モンテーニュは、「残忍と不誠実こそ、わたしの考えでは不徳の中で最も悪いやつである」(『随想録』、前掲「モンテーニュ全集」3所収)との一節も残している。

 広布の歴史にあっても、民衆を食い物にする残忍な人間、私たちの信頼を裏切った不誠実な人間が現れた。そうした輩が、無残な結末を迎えていくことは間違いない。

 ベルギーの作家メーテルリンクは言った。

 「悪行の結末は張り裂ける叫びを伴う破局である」(『限りなき幸福へ』山崎剛訳、平河出版社)

 悪に対して怒る。それは、当たり前のことだ。この当たり前のことをやらなければ、悪を助長してしまうことになる。悪を責めぬく、勇気と闘争心を失つてはならない。

 学会は、どこまでも正義の団体である。未来永遠に、そうであらねばならない。私利私欲の卑しい人間に学会が利用され、純粋な学会員が苦しむようなことは、絶対にあってはならない。

 正義と真実の世界を築いていくには、絶えざる革命が必要である。

 さあ、革命していこう! 今までの百倍、千倍の勢いで! 戦おうじゃないか!

 私は、人生のすべて、生活のすべてを捧げて、皆さんのために戦ってきた。世界のために戦ってきた。いかなる権威・権力に対しても一歩も引かず、ただ一人、一切の迫害の矢面に立って、学会を護りぬいてきた。だれが何と言おうと、「真実」は、絶対に揺るがない

 

2006.4.13「5・3」記念各部協議会

5月18日

第1669回

勝利こそ使命

 

<立ち上がらなければ道は開けない>

 

 ロシアの教育学の父ウシンスキーは述べている。

 「悪人を根っ子から焼きつくす火は、強い精神のなかにのみ生まれる」(『ウシンスキー教育学全集』4、柴田義松訳、明治図書出版)

 悪をどう打ち破り、改悛させるか。それは、強い精神があるかどうかで決まる。結局、問題は、自分自身である。弱くてはいけない。意気地なしではいけない。卑怯者ではいけない。

 悪に対しては、強く責めぬくことが、慈悲である。それが、その人を救うことになるからだ。

 スペインの哲学者オルテガは言った。

 「生きるためには、常にわれわれは、何かしていなければならない、さもなければへたばることになろう。さよう、人生は仕事である」(「司書の使命」会田由訳、生松敬三・桑名一博編『オルテガ著作集』8所収、白水社)

 大事なのは格好ではない。「何をしたか」だ。実力がどうかである。

 人からよく見られよう――そんなととばかり考えるのは、虚飾の世界だ。われらは革命の世界、正義の世界、戦いの世界である。

 とくに青年は、「勝利こそ使命」と決め、敢然と、先頭をきって、戦って戦って戦いぬくのだ。その覇気がなければ、心はすでに老人である。悪人が吹き飛ぶような闘魂をもつのだ。

 創価の青年を温かく見守ってくださった、ゴルバチョフ元ソ連大統領夫人であるライサさんが、こう述べていた。

 「建設的であることでしか人間は幸せになれない、と私は確信します」(『ゴルバチョフとともに』山口瑞彦訳、読売新聞社)

 破壊は一瞬。建設は、苦闘また苦闘の連続だ。しかし、建設に挑んでこそ、何があっても微動だにしない強い自分になれる。青年が本気になって立ち上がるのだ。そうでなければ道は開けない。

 広宣流布の新しい時代をつくるのは、今である。

 新しい決意で、異体同心でがっちりと団結し、学会の発展のために尽くしぬく。大切な同志を守りに守る。それがリーダーの使命である。

 われらの前進は、一部の人間のためではない。

 慈悲。共生。生命の尊厳。人間革命――そうした仏法の哲理を、広く社会に開花させるのだ。

 すなわち、立正安国のためであり、世界平和のためである。新しい前進は、もう始まっている。

 戦いには、遠慮があってはならない。好き嫌いで人を見たら、戦いはできない。

 「断じて勝つ」という一点に立ち、同じ目的に向かって呼吸を合わせ、心を一致させるのだ。

 勝つために祈りを! 勝つために団結を!

 痛快なる勝利のドラマを、きょうから一緒に、楽しく、堂々と開始しようではないか!

 (東京牧口記念会館)

 

2006.4.5 「5・3」記念最高協議会

5月17日

第1668回

嵐の時こそ師とともに

 

「猛然たる祈り」と「勇気の師子吼」で邪悪を打ち砕け>

 

 広布の途上には、必ず難がある。法華経に、御書に仰せのとおりだ。

 昭和三十二年(一九五七年)の「大阪事件」も、そうであった。私は、まったくの事実無根の容疑で投獄された。法廷で四年半、戦いぬき、師弟の勝利を満天下に示した。

 その間、責任ある立場にもかかわらず、卑劣にも、裁判のゆくえは分からないなどとうそぶいた、臆病な人間もいた。いざという時に、その人の真価が分かる。

 昭和五十四年(一九七九年)四月二十四日。私が会長を辞任した時、驚きと怒りに燃えて、駆けつけた同志がいた。

 「先生、会長を辞めないでください!」

 「どうして辞められるのですか!」

 「だれが辞めさせたのですか!」――その真剣な紅涙したたる叫びを、私は生涯、忘れることはできない。

 嵐のときこそ、師とともに殉じていこう! それこそ、真の弟子の道である。そこに魂の劇が光っていくものだ。

 正義なるがゆえに迫害される。これが歴史の常であった。人権の世紀、真の民主主義を築くためには、民衆が、もっと強く、もっと賢明にならなければならない。

 

 私がお会いした、南米チリの哲人政治家エイルウィン大統領は、こう語っていた。

 「権力には『倫理』が伴う必要があります。権力は人々を『善』に近づけるためにあります。『悪』に近づけるためではありません

 そのとおりだ。軍事独裁を倒し、民主化を成し遂げた大統領ならではの警句である。

 大統領が師と仰ぐ、フランスの哲学者ジャック・マリタンは言う。

 「善い政治の第一の政治的要件として、政治が正義にかなうものでなければならない、ということは真理である」(『人間と国家』久保正幡・稲垣良典訳、創文社)

 正義といい、倫理といい、善といい、要するに「深い精神性」がなければ、よき指導者にはなれない。権力欲に毒され、堕落してしまう。もう、そこには、信念も、理想もない。良識のかけらもない。本来、指導者は民衆に尽くすためにいるのだ。

 それに反して、自己の名声や一家の栄華のみを追いかけ、尊い同志を小バカにし、最後には裏切る。そういう非道な忘思の人間は、絶対に許してはならない

 民衆をじゅうりんする者とは断固、戦いぬく。それが創価の三代の会長の魂である。

 「悪は悪」だと叫びきる。全知全能を注いで、民衆を守りぬく。気迫みなぎる智勇の人こそ、真の仏弟子である。「猛然たる祈り」と「勇気の師子吼」で邪悪を打ち砕くのだ

 

2006.4.5 「5・3」記念最高協議会

5月16日

第1667回

自分は師によって救われた。

師があって自分の一生がある。

 

 人と会い、人と語る。そうやって私は、友情を結び、英知を集め、平和への道を開いた。

 イギリスの大歴史家トインビー博士との出会いは忘れられない。

 博士は、子息に、こう語っておられる。

 「人生は闘争なのだ」「安閑としていてはなにも得られない」(フィリップ・トインビーとの共著『現代人の疑問』黒沢英二訳、毎日新聞社)

 戦いなのだ。戦う人がいなければ、何一つ、つくれない。

 私は、だれよりも、一番、試練を受け、一番、悪人から憎まれ、それを乗り越えて、今日の盤石な学会を築いた。死にものぐるいで、恩師戸田先生に仕えた。

 最大の苦境のなか、やっかいな渉外に体当たりでぶつかった。なかには、「あなたの誠実さには、頭がさがりました」と言って、味方になってくださる方もいた。今も心に残る思い出である。

 私は、すべてを恩師から学んだ。

 「自分なんかは、まだまだだ。仏法の『ぶ』の字も分かっていない。だから学ぼう。勉強しよう

 ひたぶるに、師を求め、最高の哲学を求めていった。

 若き日から愛読してきた武者小路実篤の小説にこういう言葉があった。

 「自分は師によって救はれたものだ。師があって自分の一生があるのだ」(『幸福者』、『武者小路実篤全集』4所収、小学館)

 これが弟子の心だ。

 わが人生は、師とともに! 師のために!――ことに永遠の勝利の軌道がある。

 反対に、謙虚な気持ちを忘れたら、成長はとまる。立場が上になるほど、厳しく自身を戒めなければならない。幹部だからといって、人の意見も聞かない。胸襟を聞いて、相手の懐に飛び込んでもいけない。それでは独善だ。

 「あの人に本当の大事な話はできない」と思われるようでは、幹部失格といわざるをえない。

 真に広布の責任者としての自覚に立つならば、わが地域の全同志を抱きかかえ、勇気と希望を贈っていく。たとえ一人でも、少しでも苦しんでいる人がいれば、駆けつけて支え、励まし続ける。その慈愛がなければならない。

 一人も残らず幸福に! その祈りこそ、仏法の指導者の根幹である

 虚栄や権勢に、とらわれてはならない。

 広布の同志を大事にすることだ。自分がどうあれ、学会員が幸福になればいい。こう決めて私は生きてきた。このことを、若き皆さんは、よく覚えておいてもらいたい。

 

2006.4.5 「5・3」記念最高協議会

5月10日

第1666回

「母」の幸福こそ

世界平和の第一歩

 

 この世に、

 最大限の平和の光を

 贈り続けている太陽、

 それは「母」である。

 その母たちが、

 最大限の

 栄光と幸福に包まれ

 報われゆく時代こそ、

 「女性の世紀」では

 ないだろうか。

  

 歴史を振り返れば、

 どれほど多く、

 母たちの悲しみの涙が

 流されてきたか。

 海よりも深い

 母の慈愛には、

 人々を正しき軌道へと

 導く力がある。

  

 家族のため、

 近隣のために、

 自分らしく、

 誠実に精一杯の努力をして

 生きてきた女性の一生は、

 平凡であっても、

 尊く美しい。

  

 完璧な母親などいない。

 欠点も長所もあるから、

 人間なのだ。

 そこに人間らしさがある。

 だからこそ、

 子どもも安心できる。

 自分らしくて

 よいのである。

  

 「母の慈悲」は、

 人間に、そして

 生きとし生けるものに、

 自然に与えられている

 「仏の心」であると

 言ってよい。

 子を思う「母の慈悲」は

 万人を思う「仏の心」に

 直結する。

 それゆえに、

 人間は誰もが

 「母の慈悲」に

 触れることによって、

 「仏の心」を直接に

 体験することができる。

 「母の慈悲」は、

 全ての人間に開かれた

 大いなる

 精神的恩恵なのである。

  

 私たちは、

 この健気な母を幸福にする

 「責任」がある。

 いな「使命」がある。

 これが「人生」だ。

 この平凡にして偉大な母を

 幸福にしていくことこそ、

 全世界の平和への

 第一歩なのである。 

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉平和の太陽に感謝 2020年5月10日

2020年5月4日

 

第1665回

立正安国

 

 

 青年部は、七月三十一日の男子部幹部会、八月一日の女子部幹部会をもって、勇躍、八月度へのスタートを切った。

 この男子部幹部会で、男子部は部員三十万を突破したことが発表された。

 女子部幹部会の翌日にあたる八月二日から十日にかけて、総本山大石寺で、恒例の夏季講習会が、四期に分かれて行われた。

 山本伸一は、今回の講習会では、日蓮大聖人の重書中の重書である「立正安国論」を中心に、御書講義をすることになっていた。

 彼が、そう決めたのは、七月初旬のことであった。

 学会が二百万世帯を達成したことから、ここで、立正安国という仏法者の目的と使命を、再確認しておきたかったのである。

 「立正」とは「正を立てる」、つまり、正法の流布であり、生命の尊厳、人間の尊重という哲理を、人びとの胸中に確立し、社会の基本原理としていくことといってよい。そして、その目的は「安国」、すなわち「国を安んずる」ことであり、社会の繁栄と平和にほかならない。

 創価学会の使命は、日蓮大聖人が示された、この立正安国の実現にある。

 宗教が、現実社会の人間の苦悩の解決から目を背けるならば、もはや、それは宗教の死といえる。

 敗戦の焼け野原に、広宣流布の旗を掲げて一人立った戸田城聖の願いも、悲嘆に暮れる民衆に、永遠の幸福と平和の光を注ぐことにあった。

 また、伸一が、会長に就任して以来、日々、祈り念じてきたことも、世界の平和であり、大地震などの災害がなくなり、穀物が豊作になることであった。

 そして、戸田も、伸一も、社会の繁栄と平和のために、何をなすべきか、何ができるのかを、常に問い、考え続けてきた。

 戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を行い、たとえ戦争に勝ったとしても、原水爆を使用するものはサタンであると断じ、この思想を世界に広めることを青年たちに託したのも、その思索の結果であった。

 更に、同志のなかから有為な人材を、地方議会、参議院に送り出したのも、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの生活を向上させ、日本という国の、恒久平和の道を開くためであった

 今後、学会が、社会のため、平和のために、着手すべき課題は、ますます増え続けていくに違いない。

 その時、立正安国の原理を正しく理解できずにいれば、混乱を生じかねないことを憂慮し、伸一は、今回の夏季講習会で、「立正安国論」を講義することにしたのである。

 

 夏季講習会を前にして、山本伸一は、寸暇をさいて「立正安国論」の研鑽に励んできた

 ある時は、学会本部の執務室で、ある時は、深夜の自宅で、また、ある時は、旅先の宿舎で、御書を拝しては思索を重ねた。

 「立正安国論」は、これまでに、何度となく学んだ御書であった。しかし、伸一は、新たな気持ちで、御述作の由来から、丹念に研鑽していった。

 「立正安国論奥書」には「正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る」とあり、正嘉元年(一二五七年)八月二十三日の夜、鎌倉一帯を襲った大地震を見て、「立正安国論」を著されるに至ったことが記されている

 大聖人が、この地震に遭遇されたのは三十六歳。鎌倉の松葉ケ谷の草庵におられたころであった。

 四年前の建長五年(一二五三年)の立教開宗以来、地頭に命を狙われ、故郷の安房の国を追われた大聖人は、政都・鎌倉に出て、ここで広宣流布の旗を掲げられていたのである。

 このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。

 『吾妻鏡』などの記録によれば、この年から文応元年(一二六〇年)までの四年間に限っても、数々の天変地夭が起こっている。

 この正嘉元年の八月の大地震の後も、余震は長く続き、十一月にも、再び大地震が起こる

 翌正嘉二年(一二五八年)六月には、真冬のような冷え込みが続き、八月には、鎌倉に大風京都に暴風雨が襲い、穀類に大被害が出る。そして、十月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。

 更に、疫病が流行し諸国に大飢饉が広がっていった。

 正嘉三年の三月、災いを転じようと改元が行われ、「正元」となるが、疫病は年が明けても終息せず、四月には、また、改元され、「文応」となる。しかし、その四月に鎌倉で大火があり、六月には大風と洪水が起こっている。

 大聖人は、鎌倉にあって、地震による避難民などの悲惨な姿に接し、胸を痛めてきた。

 飢えに苦しみ、傷ついた体で、あてもなくさまよう人。泣き叫ぶ子供。乳飲み子を抱え、途方に暮れる母親……。

 路上に倒れても助ける人さえなく、夥しい「死」が眼前に横たわっていた。

 幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈などを命じていたが、なんの効果もなかった。

 

 ″なぜ、これほど苦しまなければならないのか?″

 それが、人びとの共通の思いであった。しかし、それに答えられる人は、誰もいなかった。

 この地獄絵さながらの事態を、いかに転換していくか、日蓮大聖人は、悩み、考え抜かれたに違いない。

 山本伸一は、御書を拝しながら、大聖人の御姿を思い描いた。民衆の苦悩を目の当たりにし、ともに悩み、苦しむ、大聖人の御振る舞いが、彼の胸に、ありありと浮かんだ。

 ──正嘉二年(一二五八年)ごろ、鎌倉から駿河に向かう、一人の僧がいた。

 彼の目は、深い憂いをたたえていた。日蓮である。

 彼は、天台宗の寺院である、岩本実相寺を訪ねた。そこには、一切経が整えられていた。

 日蓮は、この寺の経蔵で一切経をひもとき、人間の根本をなす宗教の乱れに、天変地夭、飢饉疫癘の根本原因があることを、経文のうえからも、また、道理のうえからも、明らかにしようと心に決めていた

 経蔵に篭ると、彼は、来る日も、来る日も、一心に経典に眼を注いだ。

 大集経を手にした時、日蓮の目は、鋭く光った。そこには、仏法が隠没した時に起こる、天変地夭などの様相が克明に書かれてあった。それは、ことごとく、正嘉の大地震以来の世の中の姿に符合していた。

 ″この通りだ!″

 「仏法の隠没」は、日蓮自身、最も痛感し、憂慮してきたことであった。

 仏教各派の寺院は、鎌倉にあっても甍を連ね、むしろ、ますます隆昌を誇っているかに見えた。しかし、釈尊が説こうとした、真実の仏法も、その精神も、もはや、そこにはなかった。

 経文には、何が釈尊の真実の法かは明瞭である。

 たとえば、法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」(四十余年には未だ真実を顕さず)とある。

 釈尊の五十年の説法のうち、前の四十余年の説法は爾前権教の教えであり、真実を顕していないことが明言されているのだ。

 なぜなら、法華経が生命の真実の姿、全体像を説いているのに対して、法華経以前の教えは、譬えなどによって示した仮の教えであり、生命の部分観を説いたにすぎないからである。

 そして、法華経の譬喩品には「不受余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)とある。根本となるべき教えは、どこまでも法華経であるとの御指南である。

 

 当時、仏教界には、天台、倶舎、成実、律、法相、三論、華厳、真言の八宗があり、更に、新興の宗派として念仏や禅があった。

 このうち、天台宗のほかは、爾前権教の経典を拠り所としていた。また、法華経を根本としていた天台宗さえも、伝教亡き後、真言密教や念仏に染まり、本来の釈尊の教えに背いて久しかったのである。

 譬えや部分観でしかない教えに執着し、それが全体像であり、真実であると信じればどうなるか。

 たとえば、虎の尻尾を見て、これが虎というものかと思い、無防備に近づいていけば、襲われてしまうことになろう。

 それゆえに、日蓮は、建長五年(一二五三年)四月二十八日の立教開宗以来、そうした諸宗の、教えの誤りを指摘してきたのである。

 このころ、民衆の間に、最も浸透していたのは、法然の浄土宗であったが、これは爾前権教の浄土三部経をもととしていた。

 法然は、娑婆世界は穢土であり、ただ、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることによって、死んだ後に、阿弥陀仏のいる西方極楽世界に生まれることができると説いた。そして、浄土宗の依経である浄土三部経以外の、法華経をはじめとするいっさいの諸経を否定したのである。

 釈尊が阿弥陀仏の西方極楽世界等、他の世界に仏土があると説いたのは、方便であり、譬えであった。娑婆世界の苦悩に沈む人びとを励ますために、仮に彼方の世界の話として、仏国土を描いたのである。

 釈尊の真意は、この娑婆世界こそ、本来、浄土であると示すことにあった。娑婆即寂光土であり、衆生の心が汚れていれば、住む世界も穢土となり、心が清浄であるならば浄土となる。衆生の一念の転換によって、この娑婆世界に浄土を現出させることができるのである。それを説き示したのが法華経であった。

 彼方の世界に救いを求める、念仏の教えは、穢土である現実社会への諦めと無気力と逃避をもたらしていくことになる。

 しかも、天変地夭、飢饉疫癘の相次ぐ、物情騒然たる世相である。この念仏の思想に、一種の終末観として広まっていた末法思想が重なり、人びとの不安や絶望は深まっていった。

 まさに、「念仏の哀音」といわれるように、その厭世的な響きは、疲れ切った人心を、ますます衰弱化させていったのである。

 

 日蓮は、岩本実相寺で、寝食を忘れ、経文を次々と精読していった。

 それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。

 人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。

 ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。

 それは、当然、人間の営みである社会に、争いや混乱、停滞を招いていくことになる。

 更に、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも、必ず波及していく本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連し合っていると教えているのが仏法である。

 人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にない──それが日蓮の結論であった。

 しかも、経文に照らして見れば、三災七難のうち、更に、まだ、起こっていない、内乱を意味する自界叛逆難と、他国の襲来をさす他国侵逼難が競い起こることは間違いなかった。

 思えば、他宗の僧らも、これらの経文を目にしていたはずである。しかし、彼らは、そこに、世の中の不幸の根本原因を探り当てることはできなかった。

 それは、既に、彼らが、経文を根幹とすることもなければ、民衆の苦悩を直視し、その解決の道を探ろうとする姿勢も失っていたことを裏付けている。

 当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。

 そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなかった

 つまり、本来、宗教的信念も、信条も異なる者同士が、互いに馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていたのである。もはや、民衆の救済という宗教の大使命は、全く忘れられていた。

 また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。

 

 日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、時頼の側近である宿屋入道を通して、この書を上呈した。文応元年(一二六〇年)の七月十六日のことである。

 時頼は、寛元四年(一二四六年)、二十歳で執権になると、次々に敵対者を退け、北条家の権力を固めていった。だが、一方では、政道を模索し、武士の綱紀粛正を進めていた。

 また、禅を信奉し、三十歳の若さで、病気を理由に執権職を譲って入道すると、臨済宗の最明寺に退いてしまった。

 だが、彼の威光は、衰えることなく、幕府内に隠然たる影響力をもっていたのである。しかも、正嘉の大地震以来、打ち続く災害、飢饉、疫病を、為政者として深刻に受け止めていた。

 彼は、ある時、こう嘆いたと言われる。

 「……政道に誤りがあるのか。政治に私心があるからであろうか。天が怒り、地が恨むような過ちがどこにあるのか。いかなる罪のゆえに、これほど民が苦しまねばならないのか

 日蓮は、時頼のこの嘆きを、人づてに聞いていたであろう。また、「立正安国論」を上呈する以前にも、時頼と対面して、話もしていた。

 こうした経緯から、日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。

 「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。

 「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり……

 <旅客が来て嘆いて言うには、近年から近日にいたるまで、天変や地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬は街の通りに死んでおり、その骸骨が路上に満ちている……>

 この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。

 日蓮は、同書で「くに」を表現する際に、「国構え」に「玉(王の意)」と書く「国」や、「或(戈を手にして国境と土地を守る意)」と書く「國」という字よりも、主に「国構え」に「民」と書く「■」の字を用いた。

 現存する御真筆では、「くに」を表す全七十一文字のうち、約八割に当たる五十六文字に、「■」が使われている。

 そこには、「民」に、より重きを置く考え方が、象徴的に表れているといえよう。

 

 「立正安国論」で、日蓮は、世の中の惨状を嘆く客と、仏法を奉ずる主人との問答形式を用いた。

 それは、正法流布と言っても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の、条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。

 日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。更に、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、″民のための政治″を行っていくことを願ってのことであった。

 日蓮は、決して、幕府の庇護を求めようとしていたのではない。

 たとえば、幕府は、日蓮の佐渡流罪の後、彼の予言した他国侵逼の難が現実となりつつあることに恐れをいだき、御堂の寄進を条件に国家安泰の祈願を依頼してきた。しかし、この時、彼は厳然と、それを断っている

 もし、権力に与(くみ)することを考えるなら、この幕府の依頼は、またとない好機であったといってよい。

 また、「立正安国論」には次のような記述もある。

 ──天下の泰平を願うならば、国中の謗法を断絶しなければならないとの、主人の言葉に、客は、謗法を犯し、仏法の戒めに違背する人びと、すなわち、他宗の僧らを斬罪にしなければならないのか、と尋ねる。

 その問いに対して、主人は「布施を止める」ことであると答えている。

 それは、念仏や禅などへの幕府の保護をやめさせ、国家権力とそれらの宗教との癒着を断とうとするものといえる。その意味では、現代的な視点でとらえるならば、″政教分離″に通ずる考え方であると見ることもできよう。

 日蓮は、国家権力の威光によって、宗教の盛衰が左右されることを拒否したのだ。そのうえで宗教対宗教の法論、対話によって、教えの正邪を決して、正法を流布しようとしていたのである。

 もし、宗教が権力の庇護を求めるなら、宗教の堕落以外の何ものでもない。

 また、この書のなかで、日蓮は、誤った教えを断絶しなければ、三災七難のうち、まだ現れていない自界叛逆と他国侵逼の二難が必ず起こるであろうと述べている。

 しかし、それは、単に、未来の終末を占うといった類いの予言ではない。経文を通して生命の法理を洞察し、導き出された、深き知恵の発露であった。

 そして、何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。

 

 「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。

 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ

 <あなたは、早く信仰の寸心を改めて、速やかに、実乗の一善である、真実の法に帰依しなさい>

 不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か。日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。

 「実乗の一善」とは、実大乗教たる法華経であり、一切衆生は本来、仏なりと教える、最高の人間尊厳の大法である。そして、一人一人の人間が、この妙法に則って、胸中の仏の生命を開いていく時、その人の住む場所も、仏国土と輝いていくのである。

 つまり、時代、社会の創造の主体である、一人一人の人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。

 そして、その原理を説き明かしたのが、この「立正安国論」であった。

 衆生に仏を見る仏法は、すべての人間に絶対の尊厳性と無限の可能性を見いだす。それは、揺るがざる民主の基盤を形成する哲理となるに違いない。

 また、自らに内在する仏の生命を顕していくということは、他者への慈悲の心を育むことでもある。

 いわば、「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。

 ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。

 ところで、「立正安国論」は、北条時頼のもとに届けられはしたが、時頼はそれを黙殺してしまった。

 一説によれば、「立正安国論」を時頼が手にしたところ、周囲の者が、日蓮は慢心し、他を軽んじ、一宗を興そうとして、この書を書いたものであると告げたことから、放置されたともいわれている。

 いずれにしても、時頼は日蓮の主張に、真摯に耳を傾けることはなかった

 しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられた。

 鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。

 そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。

 日蓮の身に、危険が迫りつつあった。

 

 日蓮は、「立正安国論」を北条時頼に上呈すれば、激しい迫害にさらされることは十分に予測していた。

 しかし、彼は、大難を覚悟で、この書を上呈し、国主を諫暁したのである。

 それは、民衆の苦しみをわが苦とする、同苦ゆえの行動であった。

 真実の同苦は、ただ、苦悩を分かち合い、ともに嘆き悲しむことだけでは終わらない。また、単に、同情と慰めの言葉だけに終わるものでもない。

 まことの同苦の人には、人びとの苦悩の解決のための果敢な行動がある。慈悲から発する、何ものをも恐れぬ勇気がある。そして、不屈の信念の持続がある。

 この「立正安国論」の上呈から四十日が過ぎた、八月二十七日の夜のことである。鎌倉の松葉ケ谷にあった日の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。

 松葉ケ谷の法難である。

 日の予測は現実となった。それは、彼の、本格的な迫害につぐ迫害の人生の始まりであった。

 

 山本伸一は、「立正安国論」を拝しながら、深い感動を覚えた。

 この一九六一年(昭和三十六年)という年も、自然災害や疫病が猛威をふるった年でもあった。

 五月末には、台風四号の影響によるフェーン現象のため、東北・北海道で火災が発した。

 更に、梅雨期に入ると、六月二十四日から一週間以上にわたって、豪雨に見舞われた。長野県の伊方面をはじめ、本州、四国で大きな被害が出て、死者・行方不明者は、全国で三百五十人を超えた。

 また、当時、ポリオ(小児マヒ)が大流行し、幼い子を持つ親たちを、恐怖に陥れていた。

 ソ連などには、ポリオに効く生ワクチンがあり、既に、前年、ソ連から日本に十万人分の寄贈の話が進んでいたが、日本政府は、それにストップをかけた。

 そこには、反ソ的な政治勢力の意向や、法律(薬事法)をタテにした硬直した役所の姿勢、自社の薬が売れなくなることを恐れた一部の製薬会社の反対などもあったようだ。

 国民の生命よりも、国家の立場や権威、企業の利害が優先されていたのだ。

 しかし、子供たちを救おうと、生ワクチンを求める人びとの声は、国民運動となって広がった。

 その民衆の力の前に、ようやく政府は重い腰を上げ、生ワクチン千三百万人分の緊急輸入を決定。この年の七月、カナダから三百万人分、ソ連からは実に一千万人分の生ワクチンが届けられたのである。

 

 国際情勢を見ても、東西冷戦の暗雲が影を落とし、世界のあちこちで、対立と分断のキナ臭い硝煙が漂っていた。

 四月には、社会主義化を進めるキューバに危機感をいだいたアメリカが、亡命キューバ人部隊を後押しして軍事侵攻を企て、あえなく失敗する事件があった。

 いわゆる″キューバ侵攻事件″である。アメリカの前政権が計画していたものとはいえ、平和への希望を担って登場したケネディ新政権は、初めて、国際的な批判を浴びることになる。

 また、インドシナ半島のラオスでは、アメリカの支援を受けた右派、そして、中立派、左派の三派が入り乱れての内戦状態にあった。五月ごろから、ようやく、停戦と連合政権の樹立へ向けて、具体的な交渉が進められるが、その後も混乱は収まらなかった。

 更に、北緯一七度線を境にして、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されたベトナムでも、統合への民衆の素朴な願いをよそに、対立のは、一層、深まろうとしていた。

 アジアの共産主義化を恐れるアメリカは、南ベトナムを支援する一方、北ベトナムと南ベトナム国内の共産主義勢力の排除に腐心してきた。前年末に結成された南ベトナム解放民族戦線に対しても、アメリカは″北からの侵略″と敵視し、一段と南ベトナム政府への軍事援助を強めていくことになる。

 こうして世界が激動を続けるなか、六月の三日、四日の両日、ケネディが大統領に就任して以来、初の米ソ首脳会談がオーストリアのウィーンで開催された。世界の目は、東西の緊張緩和への期待をもって、この会談に注がれた。

 四十四歳の若き力にあふれたケネディと、六十七歳の熟達した手腕のフルシチョフは、白熱した議論を展開した。

 しかし、ベルリン問題、核実験停止の問題で、フルシチョフが強硬姿勢を崩さなかったこともあり、両国の対立を浮き彫りにする結果に終わった。

 山本伸一は、混迷する世界の動向に、切実な思いをいだいていた。

 立正安国の「国」とは、単に一国に限ったものではない。一閻浮提であり、現代でいえば、広く世界を指すものといえる。

 その世界に、恒久平和の楽園を築き上げるために、人間主義の哲学をもって、人びとの生命の大地を耕していくことが、立正安国の実践であり、そこに創価学会の使命がある。

 彼は、それを、この夏季講習会で、訴え抜いていかねばならないと決心した。

 

 夏の講習会が始まった。

 その中心となったのが、山本伸一の「立正安国論」講義であった。

 講義の範囲は、御書の三十ページ十六行目の「主人の云く、客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか……」から、本文の最後までであった。「立正安国論」の結論部分である。

 総本山の大講堂に集った参加者に、伸一は、気迫と情熱を込めて、講義していった。

 「立正安国とは、わかりやすく言えば、ヒューマニズムの哲理を根本に、一人一人が自らの人間革命を行い、社会の繁栄と、世界の平和を創造する主体者となっていくということです。

 大聖人の御一代の弘法は『立正安国論に始まり、立正安国論に終わる』と言われております。

 大聖人が、この『立正安国論』をお認めになった目的は、地震や洪水、飢餓、疫病などに苦しみ喘ぐ、民衆の救済にありました。

 そして、そのために、まことの人間の道を説く、仏法という生命の哲理を流布し、人間自身の革命を目指されたのです。つまり、一人一人の悪の心を滅し、善の心を生じさせ、知恵の眼を開かせて、利己から利他へ、破壊から創造へと、人間の一念を転換する戦いを起こされた。

 なぜなら、人間こそが、いっさいの根本であるからです。肥沃な大地には、草木が繁茂する。同様に、人間の生命の大地が耕されれば、そこには、平和、文化の豊かな実りが生まれるからであります……」

 彼は、初めに「立正安国論」の概要について語った後、御文に即して、講義していった。

 仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」の個所では、三災七難の原因について論じた。

 「鬼神というのは、目に見えない超自然的な働きをもつものですが、現代的に言えば、思想も、その一つといえます。

 つまり、国土、社会が乱れる時には、まず、思想の乱れが生じていきます。そして、この思想の混乱が、人びとの生命をみ、意識や思考を歪め、それが、社会の混乱をもたらす原因となっていくのです。

 たとえば、人びとが、利己主義に陥って、私利私欲のみを追い求め、刹那主義や快楽主義などに走れば、当然、社会は荒廃していってしまう。

 また、別の例をあげれば、ドイツの独裁者ヒトラーの、ナチズムという思想に、人びとが狂わされてしまった悲惨な結果が、あのナチスによる侵略戦争であり、大量殺戮でした」

 

 山本伸一は、流れ出る汗を拭おうともせずに、講義を続けた。

 「社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に、皆が心を奪われていくことにあります。

 現在、日本にあっては、昨年の新安保条約の成立以来、政治不信、政治離れが起こり、人びとの関心は、経済に向かっている。

 確かに、党利党略に終始し、実力行使や強行採決など、議会制民主主義を踏みにじる現在の政治を見ていれば、国民が失望し、不信をいだくのも当然かもしれない。それも、政治家が民衆の幸福を、人間という原点を忘れているからです。

 しかし、だからといって国民が政治に無関心になって、監視を怠れば、政治の腐敗は更に進んでいく。

 また、人間を忘れた経済も冷酷です。ただ利潤第一主義、経済第一主義に走れば、社会はどうなるか。豊かにはなっても、人心はすさみ、自然環境の破壊も起こり、結局、人びとが苦しむことになります。

 科学の世界にあっても、科学万能主義に陥れば、その進歩は、かえって、人間性を奪い、人間を脅かすものになっていきます。

 ヒューマニズムに帰れ─これが、現代的に言えば日蓮大聖人の主張です。そして、政治や経済、科学に限らず、教育も、芸術も、社会のすべての営みを、人間の幸福のために生かしていく原理が、立正安国なのであります

 更に、伸一は「須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」の御文では、仏法者の社会的使命について論じていった。四表とは、東西南北の四方であり、社会をさす。

 「この意味は、『当然のこととして、一身の安堵、つまり、個人の安泰を願うならば、まず、四表、すなわち、社会の安定、平和を祈るべきである』ということです。

 ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。

 自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。

 社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。本当の意味での人間のための宗教ではありません。

 ところが、日本にあっては、それが宗教であるかのような認識がある。宗教が権力によって、骨抜きにされてきたからです

 

 参加者の目は、求道に燃えていた。

 山本伸一は、更に、講義を続け、こう訴えた。

 「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人一人の生命の変革による″個″の確立にあります。

 そして、社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるをえない。

 創価学会の目的は、この『立正安国論』に示されているように、平和な社会の実現にあります。この地上から、戦争を、貧困を、飢餓を、病苦を、差別を、あらゆる″悲惨″の二字を根絶していくことが、私たちの使命なのです。

 そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては、夢物語であり、観念です。

 具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。

 また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人一人が政治を監視していくことも必要です。

 しかし、その場合も、学会の役割は、誕生のための母体であって、それぞれの機関などが、主体的に活動を展開していかなくてはならない。その目的は、教団のためといった偏狭なものではなく、民衆の幸福と世界の平和の実現です。

 また、そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。

 根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。

 更に、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです」

 伸一の講義を通し、各地から集った講習会の参加者は、仏法者の社会的使命に目覚めていった。それは、社会の平和建設への自覚を促し、新たな前進の活力をもたらしたのである。

 八月三十日には、東京体育館で本部幹部会が行われた。その席上、発表された八月度の本尊流布は、なんと八万七百二十五世帯であった。学会始まって以来の成果である。

 

新・人間革命 4巻 立正安国

4月29日

第1664回

「庶民」に人生の姿勢の原点を

 

<秀吉と光秀>

 

 第三に“男”という文字は“田”に“力”と書く。田畑を自らの力で開拓していくというのであります。すなわち、自分の仕事、組織活動等々、あらゆる分野で、どれだけ新しい価値を創造し、開拓していくか――ここに男子の生命、本懐、本源がある。開拓精神を旺盛に燃やし、おのおのの立場で、忍耐強く社会に貢献し、広宣流布に貢献していっていただきたいのであります。

 御書に「しかるに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」云云とあるように、大聖人ご自身、当時の文化の中心から遠く離れた地に、貧しい、庶民の子としてお生まれになった。

 男というものは、身分や家柄等によってうんぬんされるものでは絶対にない。自分自身の力で、どれだけ物事を切り開いたかが、価値を決定づけるのであります。

 豊臣秀吉と明智光秀に関して有名な話がある。秀吉と光秀は、ともに戦国時代を代表する有名な武将でありますが、その性格はまったく異なっていた。その違いがもっとも顕著にあらわれていたのが、主君・織田信長に対する仕え方であったと論じられている。信長は、非常に短気で気むずかしく、また合理主義者であった。そのため、家臣の失敗に対しては、たとえ過去に功績があったとしても、即刻、所領没収など厳格な態度で臨んだ。そのやり方が徹底していたため、家臣は、つねに内心ビクビクしていたといわれる。秀吉と光秀も信長の重臣であったが、同じく主君に対しては恐怖心をいだいていた。

 しかし、秀吉についていえば、たとえ信長が極度に気むずかしい性格の主君であっても、自分の過去の困窮時代に比べれば、まだまだ信長に仕えるほうがましだと思ってがまんしていた。

 これに対し、光秀は、戦国武将のなかでは珍しく詩歌にたけるなど、教養も当代一流で、最高の文化人の一人であったといわれる。また、武将としての手腕も優れ、智勇兼備の人であった。

 ところが、光秀には、その手腕と教養を鼻にかけるところがあり、いつもうぬぼれていた。出身も貴族であったため、信長のやり方に対し、ことごとく批判的な目で見ていたわけだ。

 光秀の念頭には、自分は貴族の出身で、信長より偉いのだという、強い自意識がつねにあった。そのため、どうしても本心から信長につききることができない。その不満と反感が心のなかでくすぶり続け、ついに本能寺の反逆となって、諸君がよくごぞんじのように、あの悲惨な最期を遂げたというのであります。

 つまり、秀吉と光秀の違いは、教養や武将としての手腕にあったのではなく、根本的に両者の人生に対する姿勢という、原点からくる相違であった。秀吉は“庶民”にその人生の姿勢の原点をおいた。光秀は“貴族”にその原点をおいた。この“庶民”と“貴族”の体質の差が、戦国乱世を生きぬく武将の“明”と“暗”を分けたのであります。

 いま、乱世のなかにあって戦う男子部は、断じて貴族になってはならない。あくまでも庶民のなかの学会っ子として、庶民の味方として、生涯、泥まみれになって戦っていっていただきたい。その人が真実の、最後の大勝利者となることを確信してほしいのであります。

 

1970.8.6 男子部全国幹部会 

4月28日

第1663回

地球民族の揺るがぬ宝塔を

 

  

 心一つに、苦難を共に乗り越えてきた師弟の絆ほど、尊く、深く、強いものがあろうか。
 御本仏は、竜の口の法難、佐渡流罪にも負けなかった門下たちにこそ「まことの大事」を示していかれた。
 この「佐後(佐渡流罪以後)の法門」の意義を明かされた三沢抄には、『但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし』(1489頁)と記されている。
 創価学会は創立より90年、三類の強敵に打ち勝ち、日蓮大聖人の未来記の通り、一閻浮提に大法弘通を成し遂げてきた。どれほど大きな福徳が積まれていることか。
 『宿縁深き人なのだから、頼もしく思われなさい』とは、そのまま、わが尊き学会員への仰せと拝したい。

 戦後、経済苦や病苦、災害や争乱が渦巻く時代相に、恩師は胸を痛めつつ、しみじみと私に言われた。
 ーーー大聖人は『当世は世みだれて民の力よわし』(1595頁)と嘆かれた。「民の力」を強くして、世の乱れを治められる地球民族の連帯を、必ずや築くのだ、と。
 今、新型コロナウィルスの感染拡大をはじめ、厳しい試練に直面する世界で、創価の宝友は「立正安国論」を体し、国を超えて共に、「四表の静」と「変毒為薬」を祈り抜き、社会へ誠心誠意の貢献を貫いている。
 妙法の大音声は宇宙まで遍満する。もはや、いかなる三災七難にも屈しない。地涌の民衆のネットワークが結ばれた。『一切衆生に仏性あり』(1382頁)という人間への尊敬と信頼の絆を、未来へ遠大に広げていくのだ。
 『四相(生老病死)を以て我等が一身の塔を荘厳するなり』(740頁)―ーー英知の殿堂・ハーバード大学での二度目の講演を、私はこの「御義口伝」を引いて結んだ。
 創価の師弟は、「生老病死」の苦悩をも「常楽我浄」という希望へと転ずる人間革命の実証を無数に重ねている。
 一人一人が今一重、生命の光を強く放ちながら、地球民族の揺るがぬ宝塔を荘厳していこうではないか!
 
 頼もしき
  創価の友の
   宝光かな
  苦難を転じて
   人類照らせや

 

 2020年大百蓮華5月号№847 巻頭言

4月28日

第1662回

必ず、なんとかしてみせる

 

<青年の使命>

 

 青年は、常に、「皆が、困っている問題は何か」「地域発展のために何が必要か」を考え、柔軟な発想で打開策を探っていくんです。
 不可能だと思ってしまえば、何も変えることはできない。
 “必ず、なんとかしてみせる”と決めて、思索に思索を重ね、何度も何度も挑戦し、粘り強く試行錯誤を重ねていく情熱があってこそ、時代を変えることができる。
 これが青年の使命です。

 

小説『新・人間革命』第30巻〈下〉勝ち鬨

 

4月25日

第1661回

大転換期は必然!

 

<創価一貫教育の目指すもの>

 

 創価一貫教育完成の祝賀会は、参加者全員の万歳三唱をもって終了した。山本伸一は、再び東京創価小学校に戻り、幼稚園から大学までの教員の代表と懇談会をもった。
 彼は、ここでも、創価中学・高校の開校から十年、建設期の苦闘を共に担い、人間教育の土台を築いてくれた教員たちに、心から御礼と感謝の気持ちを伝えた。
 そして、教育にかける自分の真情を語っていった。
 「人類の未来のために、最も大切なものは何か。それは、経済でも政治でもなく、教育であるというのが、私の持論です。
 人類の前途は、希望に満ちているとは言いがたい現実があります。長い目で見た時、今日の繁栄の延長線上に、そのまま二十一世紀という未来があると考えるのは間違いです。社会の在り方、さらには、文明の在り方そのものが問われる大転換期を迎えざるを得ないのではないかと、私は見ています。
 したがって、深い哲学と広い視野をもち、人類のため、世界の平和のために貢献できる人間を、腰をすえて育て上げていく以外に未来はありません。そのための一貫教育です」
 伸一は、教員たちに、一貫教育を行うことの、本当の意味をわかってほしかった。
 教育は、未来を見すえることから始まる。
 「いよいよ創価教育の流れは、二十一世紀を開く人間教育の第二期に入ります。各校を盤石なものにしていくうえで、いちばん大切なことは団結です。団結には、中心となる心棒が必要です。
 どうか校長や学長など、中心者を団結の心棒とし、力を合わせて前進し、発展、向上させていくよう、よろしくお願いします」
 ここで彼は、教職員は、中心者を守り、支えるように望む一方で、中心者には、教職員が、どんなことでも言える、和気あいあいとした場をつくっていくように要望した。
 さらに、平和と文化を推進する二十一世紀の指導者を育てるという、″創立の原点″を忘れないでほしいと、訴えたのである。

 

 新・人間革命 27巻 若芽

4月21日

第1660回
仏意仏勅

 

<立正安国の挑戦>

 

 学会の前進は、仏意仏勅なるゆえに、不思議なリズムに則っている。
 思えば、初代・牧口常三郎先生が新潟県に誕生された

 1871年(明治四年)は、日蓮大聖人の佐渡流罪(文永八年)から六百年であった。
 二代・戸田城聖先生が発願され、大聖人の御書が発刊された

 1952年(昭和二十七年)は、立宗宣言(建長五年)から七百年の慶祝の年である。
 後継の私が青年を代表し、第三代として前進の指揮を執り始めた

 1960年(昭和三十五年)は「立正安国論」による諌暁(文応元年)から七百年であった。
 大聖人は「天変地夭・飢饉疫癘」に憤悱され、「立正」すなわち生命尊厳の大哲理を打ち立て、「安国」すなわち全民衆の幸福と世界平和の宝土の建設を願われた。
 その人類の宿命転換へ、いよいよの挑戦を開始したのだ。それは、何よりも正義と真実を師子吼する「言論戦」であり「思想戦」であった。
 ゆえに、第三代会長就任と時を合わせ、私は聖教新聞の躍進に全力を尽くすとともに、小説『人間革命』の執筆を深く心に期した。
 「立正安国論」では、「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31ページ)と示されている。
 “自分だけの幸福や安全もなければ、他人だけの不幸や危険もない”。この生命観に立って、社会と世界全体の安穏を祈り、尽くしていく人間主義の究極の哲学を、我らは聖教新聞に掲げ、平和・文化・教育の対話と連帯を広げてきたのだ。

 

2020.4.20付聖教新聞〈随筆「人間革命」光あれ 池田大作〉

4月18日

第1659回

「家庭」は地域社会の灯台

 

<家庭革命のそのままの姿で!>

 

 家族は人間にとって、

 常に返るべき

 「原点」であり

 「大地」といってよい。

 仲良く温かな家庭は

 幸福である。

 どんなに苦労があっても、

 家族で互いに励まし合い、

 団結して

 勝利の城を築いていける。

  

 人間は、一人で

 成長できるものではない。

 親をはじめとして、

 数え切れないほどの

 多くの人たちの支え、

 励ましがあればこそ、

 大成できるのである。

 そのことを、

 絶対に忘れてはならない。

 感謝の心がある人には、

 常に喜びがあり、

 歓喜がある。

  

 子どもに接する時は、

 一個の人格として

 尊重することが大事だ。

 「これくらい、

 いいだろう」と、

 安易に思っては失敗する。

 子どもの中には

 大人がいる。

 その大人に向かって

 対等に語りかけていけば、

 子どもの「人格」が

 育っていく。

  

 問題のない家庭などない。

 悩みや、つまずきも、

 大いにけっこうと、

 どこまでも、

 たくましい「楽観主義」で

 悠々と人生を

 切り開いていけばよい。

 苦労や試練に、

 一喜一憂せず

 乗り越えていくならば、

 崩れない「心の強さ」を、

 子どもだけでなく、

 親自身も

 培うことができる。

 根本は祈りである。

 親が子どものために祈り、

 子どもも応える、

 それで、ともに成長する。

  

 信心を根本とした

 健康的な生活のリズムを

 確立することから、

 “家庭革命”の

 大きな前進が始まる。

 そして、和楽と幸福の

 光彩を放つ家庭は、

 地域社会を照らす

 灯台となる。

 

2020年4月12日 聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉

4月8日

第1658回

心は工なる画師の如し

 

不動の自身を富士のごとく


 きょうは、ここ「牧口城」(東京牧口記念会館)から、見事な白雪の富士が一日中、見えた。美しき富士。素晴らしき富士。富士の姿を見ると、自然に合掌したくなる。ちなみに、合掌には「十界互具」の意義がある。(十の指が十界を表し、十指を合わせるのが十界互具を表す)
 富士と言えば、小説『宮本武蔵』(吉川英治著)を思い出す。小学五年生の時、恩師の檜山浩平先生が、授業で読んでくださった書である。その『宮本武蔵』の次の一節が、当時から私の脳裏を離れない。これまでも幾度となく申し上げてきた、あまりにも正しい言葉である。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心あせるより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚こびずに世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」(『吉川英治全集』19、講談社)
 何があろうと、だれが何を言おうと揺るがない。あせらない。迷わない。これが本当の人生である。人間の証である。
 いわんや日蓮大聖人の仏法の真髄は「殉教」である。自分が決めた、その場で生ききっていくのである。使命の場所で死んでいくのである。
 戸田先生も、富士を仰いで言われた。青年部時代、先生と私の二人だけの時であった。
 「大作、静かに見えるようだが、富士山のてっぺんは烈風だよ。頂点に立つ人間は、烈風を受けなければならない」と。
 この言葉を、私は生涯、忘れることはない。
 ともあれ、この『宮本武蔵』の一節を、きょう、私は皆さまに贈りたい。
 

 戸田先生は、言われた。
 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」と。
 あと数年で二十一世紀。創価学会も、いよいよ青年部が広宣流布の一切を引き継ぐ儀式の時代に入ってきた。青年部の存在が、決定的に大事になってきた。時代は変わる。変わらざるを得ない。変わらなければ、新しき世紀は開けない。
 ゆえに、壮年部、婦人部の皆さまも、青年部を最大に守り、鍛え、「後継の道」を立派につくっていくよう、応援をお願いしたい。
 また、青年部も、その決意で進んでいただきたい。そして「世界第一の仏意仏勅の団体」「尊き広宣流布の団体」である創価学会を、見事に引き継いでいただきたい。
 さらに、その意味から提案したい。二十一世紀に向けて、明年から毎月、新たに青年部の幹部会を開催してはどうだろうか。
 「第一回全国男子部幹部会」「第一回全国女子部幹部会」(明年一月は男女合同の予定)と、今再びの陣列で、出発してはどうだろうか!(賛同の大拍手)
 できれば会長はじめ全幹部が出席し、全力で応援していきたい。どうか、この幹部会を前進の節目としながら、二十一世紀への盤石な伝統を築き、人材の大河をつくり上げていってほしい。そして青年部の力で、新しき「創価の時代」を、見事に切り開いていただきたい。

 

「内面の豊かさ」こそが美しい

 

 私は今年(一九九六年六月)、キューバを訪問した(六月)。思い出深いキューバ。その「救国の父」「キューバ共和国の父」と言われるのがホセ・マルティである。
 彼は、おもに亡くなる前の二年間(一八九四年〜九五年)、ある少女に励ましの手紙を書き送った。その一部を紹介したい。
 「内面的な豊かさを持つ人は、外面的に着飾る必要はないのです。外面にこだわる人ほど、内面世界が乏しく、着飾ることによって、その乏しさを隠そうとするのです。自らの内面的な美しさを自覚する者は、借り物の美しさなど、外に求めないのです。美しさを自覚しているがゆえに光を放っているのです。そして他人を明るくし、楽しくさせるよう、つとめるでしょう。なぜならば、他人に悲嘆ではなく、歓喜をもたらすことが、人間としての義務だからです。そして美を認識している人は、他人にも美しさを見いだすことができます。それゆえ他人と自分を尊び、大切にすることができるのです」(スペイン語版『ホセ・マルティ書簡集』社会科学出版)
 また彼は、次のようにつづっている。
 「お母さんを慈しみ、包んでいきなさい。母親という、その女性から(=あなたが)この世にやってきたこと自体、大いなる誇りなのです。自らの内面を見つめた時、そして今の行いを振り返った時に、朝の光に照らされた大地のような自分があればよいのです。朝の光の素早さと清らかさを感じればよいのです。
 軽薄な世界など他の人間に任せればよいのです。あなたは、それ以上に価値ある人間です。微笑みを浮かべて、(=軽薄な世界を)通り抜けていきなさい」(同前)
 ″何があろうと、微笑みを浮かべて、軽薄な世界を通り抜けていきなさい″――正しき真理の言葉である。
 私どもが見ているのも、目先の「軽薄な世界」などではない。深く尊き「永遠の世界」である。「永遠の幸福の追求」が仏法なのである。うつろいゆく世相を悠然と見おろしながら、「わが信念の道」に生ききってまいりたい。
 我らは我らの道を行く。堂々と「永遠の幸福」の大道を、そして「永遠の発展」の大道を進んでまいりましょう。


サーツ女史の信念の戦い

 

 先日、金秋のモスクワから一冊の本が届けられた。それは、ロシアの「児童芸術の母」として世界の子どもたちから愛されたナターリア・サーツ女史の自叙伝(ロシア語版『人生――縞模様』、ノーボスチ出版社)である。
 女史は三年前(九三年)、九十歳で亡くなられた。女史の遺作を、彼女が創立したモスクワ児童音楽劇場の会長(V・プロフォロフ氏)が贈ってくださったのである。
 女史と築いた友情の絆は、このように、今でも固く結ばれている。私には、そして創価学会には、そうした友情で結ばれた人々が世界中にいる。
 自叙伝には、女史と私との出会いの思い出もつづられている。
 (名誉会長と女史との出会いは八一年五月、モスクワで。以来、七回にわたり語らいを。また、モスクワ児童音楽劇場は、民音の招聘で二度、来日公演を行っている)
 女史は生前、″池田先生から学んだ仏法の永遠の生命観が、人生に限りない希望を与えてくれた″と語っていた。
 今、ロシアでは、二年前に出発した、わがロシアSGIの友が、元気に「行学の二道」に励んでいる。女史が生きておられれば、必ずや、よき理解者になられたにちがいない。
 女史は若き日に、何の罪もない夫を、独裁者スターリンによって銃殺された。さらに、自らも、いわれのない罪をでっちあげられて、シベリアなどで五年間も投獄された。そんな目にあいながらも、「信念」のためには自分を曲げず、戦ったのである。
 自伝では、この収容所での体験も回想されている。取り調べは、あまりにも卑劣であった。″早く家族のもとに帰してほしければ、友人を陥れるウソの証言をせよ″と迫られたのである。しかし、彼女はきっぱりと断った。
 「私は子どものころから、ウソをついてはいけないと教わってきました。親しい人(家族)の幸せをウソで買いとるなんて、私にはできません!
 女史は人間としての尊厳を、誇り高く守り通した。堂々たる人生であった。立派な人生であった。
 私たちは信仰者である。信仰とは究極の「信念」である。少々の難くらいで、文句を言ったり、引いてしまうならば、あまりにも、なさけない。あまりにも、愚かである。
 御書には「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」――賢いのを「人間」といい、愚かなのを「畜生」というのである――と仰せである。
 愚かであってはならない。賢明な「信念の人」でなければ仏法者ではない。
 女史が投獄された部屋には、他にも冤罪(無実の罪)で捕われた女性が何人かいた。皆、恐怖におびえ、悲しみに打ちのめされていた。
 サーツ女史は、自分も絶望的な状況にありながら、それでも自分のことだけに心を閉ざしてはいなかった。″生きる希望をなくした同室の人々が、どうすれば立ち上がれるか″を、女史は考え始めたのである。他者のことを思いやることによって、彼女の心に再び太陽が昇りはじめた。
 女性は強い。やはり婦人は「太陽」である。「元始、女性は太陽であった」(平塚らいてう)という言葉があるが、これは世界共通の真理と思う。
 女史は思った。「何とか皆が生き抜いていけるよう助けなければならない。そして自分も生き抜いていこう。頭を切り替えよう。そして信じよう。『今この時が決して終末ではない』ことを
 姿は敗北者のようであっても、これで人生が終わったわけではない! これで戦いが終わったわけではない!――これが女史の信念であった。


 戸田先生は言われていた。「負けた時に、勝つ原因をつくることができる。勝った時に負ける原因をつくることもある」と。
 日蓮大聖人の仏法は「本因妙」の仏法である。「現当二世」の仏法である。過去を振り返るのではない。常に「現在」から「未来」への挑戦を始める。永遠に「これから!」「これから!」である。ゆえに行き詰まりがない。
 創価学会は、御本仏がつくられた仏意仏勅の教団である。末法万年尽未来際までの行進である。目先のことに右往左往するのではいけない。世の毀誉褒貶をはるかに見おろしながら、永遠に「これから!」の決心で進んでいただきたい。

 

その場で輝け! その場を変えよ


 「心」を変えれば、「環境」も変わる。仏法でも「依正不二」「一念三千」と説く。
 周りを見渡せば、獄中にも多彩な人材が集まっていた。いつまでも嘆いていてもしかたがない。女史は思った。
 ″それぞれの持ち味を生かして、学び合う機会をつくろう。学校をつくろう″
 ″あの人は化学の講義ができるだろう。あの人には医学の講義をしてもらおう″
 女史自身は、見事な歌声を披露した。ある時は、よく響く澄んだ声で、プーシキンの詩を朗読した。皆、感動した。勇気がわいてきた。
 暗く閉ざされた牢獄。だからこそ、静かに勉強できる学校となった。芸術を存分に味わう劇場ともなった。心一つで何でも変えられる。
 ″さあ、今いるこの場所で、楽しく有意義な一日一日を送ろう″と。
 本当に賢明な人は、どんな状況でも価値を創造する。
 いわんや仏法では「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」と説く。「心」は名画家のごとく、一切を自在に描き出していく。したがって、人生そのものが、「心」の描く「名画」である。「心」が創り上げる芸術である。
 また、指導にあたっても、こちらの「心」次第で、いくらでも美しいドラマを描いていける。おなかがすいている人にはパンをあげよう。パンがなければ″言葉のごちそう″だけでもあげよう、と。顔色の悪い人、体が心配な人には、心が軽くなり、「よし健康になろう」と希望を出せるような話をしてあげる。
 会ったら「何か」を与えなければいけない。喜びを、勇気を、希望を、安心を、また哲学を、知恵を、展望を――何かを与えてあげることである。
 また、花を見る余裕もない女性がいる。うちに帰っても、花を見て楽しむどころか、お母さんに文句だけ言って、寝てしまう。そういう人には、ちょっと角度を変えて、美しい花や芸術に心が向くようにしてあげる。それだけで、ぱっと開ける場合がある。
 わが「心」を絵筆のごとく自在に使える名指導者であっていただきたい。


喜びの″一波″を起こせ、友の心に


 サーツ女史の牢獄は小さかった。しかし、そこで偉大な歴史はつくられた。
 ″小さな集い″が大切なのである。大きな会合で、大勢の人に拍手されて話すことが偉いのではない。人目につかない小さな集い――座談会が、また家庭指導が大事なのである。個人指導が大事なのである。
 大きな会合だけでは一方通行になる。それでは皆の本当の力を引き出すことはできない。
 一対一で、いい味のある対話ができ、人間味のある励ましで人を発心させられる人が本物である。その発心こそ長続きする。その決意が起爆剤になる。
 その「一波」から「万波」が広がる。丹念に一軒一軒を回る。真心で一人一人と語る。この苦労でつくった一波こそが万波に広がっていくのである。創価学会のこれまでの発展の秘けつもここにある。
 したがって、もう一度これに徹していけば、また再び「万波」を起こせる。そこに末法万年の広宣流布の発展の道が開かれていく。


 サーツ女史は、皆と決めていた。「人間は一人きりで悲しんではいけない」と。
 一人では悲しみが余計に深まる。救いがなくなる。
 ″人の間″と書いて、人間と読む。人間と人間の切磋琢磨のなかでこそ、「人間」ができていく。「自分」が豊かになっていく。
 時には、組織がわずらわしく、「一人きり」になりたいと思う場合もあるかもしれない。しかし実際に一人きりになり、退転してしまえば、どれほど寂しいか。どれほど、わびしいか。同志とともに、喜怒哀楽を繰り返しながら、にぎやかな″人間の世界″で生き抜いてこそ、成長できるのである。
 このように、サーツ女史は優れた哲学者であり、人間主義者であった。
 人間主義とは、何も高尚な理論である必要はない。どこまでも人間を信ずること、人間と人間を結ぼうとすること。ここに人間主義がある。つまり「友情」をつくっていくことである。
 友情は強い。学会も、根底は友情である。同志愛である。異体同心の信心の団結である。それがあって、組織の機構がある。それを反対にしてはいけない。
 組織は、友情を、同志愛を、そして信心を深めるための手段である。それをあべこべにしたら大変である。組織を目的にした場合には、権威主義の組織悪になってしまう。
 ともあれ、友情を地域に社会に広げゆく学会活動は、毎日毎日、「人生の宝」を積んでいるのである。
 私どもは信仰者である。「あの人は素晴らしい!」「ああいう人間に、なりたいな!」――人々から、そう思われる人生を生きていただきたい。人生の「人間革命の劇」を自分らしく、つくっていただきたい。


 「人間革命」とは何か

 

 きのうまで遊んでばかりいた人間が、きょうから勉強を始めた。これも、ひとつの人間革命である。
 きのうまで、あまり御書を読まなかった人間が、きょうから御書を読み始めた。きのうまで、あまり働かなかった人間が、きょうから朝早く起きて働き始めた。
 これも人間革命である。何でもいい、自分らしく自分自身を革命していくことである。″自分が変わる″ことである。
 日々、自分らしく、自分の人間革命の劇をつづっていくのが最高の人生である。その成長の姿それ自体が、偉大な折伏なのである


「まことのとき」に戦う人が賢者


 ここで御書を拝したい。これまで繰り返し拝してきた「開目抄」の一節である。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたな(拙)き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 ――我ならびに我が弟子は、諸難があろうとも、疑う心がなければ、必ず自然に仏界にいたるのである。諸天の加護がないからといって、(法華経の大利益を)疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない。我が弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、(大難が起こってみると)疑いを起こして、皆、信心を捨ててしまったのであろう。愚かな者の常として、約束した事を、(まさに、その約束を守るべき)本当の時には忘れるのである――。
 「自然に仏界にいたる」――この一生を戦い通せば、必ず、仏になると仰せである。だからこそ、どんなにつらいことがあっても、「一生成仏」をとげなさい、と。
 「一生はゆめ(夢)の上・明日をご(期)せず」である。一生は夢のようなものである。明日さえ、どうなるかわからない。自分でどうすることもできない。そのなかで、永遠に自由自在に生き抜ける自分をつくるのが「一生成仏」である。そのための信心である。そういう境涯を、つくれるかどうかが″今世の勝負″である。
 生命の境涯を変える――これは科学でも経済でも政治の次元でも、どうしようもない。仏法しかない。その仏法に、私どもは今世でめぐりあったのである。
 いったん、この地球で一生成仏すれば、次は、地球以外の仏国土に生まれることもできる。この地球だけが人間の住むところではない。宇宙には無数の国土がある。そのなかでとくに悪い国土が、この裟婆世界なのである。
 たとえば「四恩抄」には「此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず」云々とある。
 「法華経の大利益を疑ってはならない」――長い目で見れば「大利益」は必ずある。一時は悪く見えても、絶対に「変毒為薬(毒を変じて薬となす)」できる。
 「現世が安穏でないと嘆いてはならない」――安穏であれば、生命は鍛えられない。食べたい時に食べ、寝たい時に寝ていれば堕落しかない。
 難と戦ってこそ、生命の金剛の大境涯はできる。ゆえに大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。
 仏道修行に苦労は多いけれども、安穏なだけの人生では、とうてい得られない「人間革命」という大歓喜がある。だから大聖人は「まことの時にこそ、信心の約束を忘れてはなりませんよ」と、厳しく仰せになっているのである。

 

1996.12.16第6回本部幹部会

2020年4月4日

第1657回

我々は、戦おうじゃないか!

 

いっさいの戦い>

 

 〈1961年(昭和36年)3月16日、山本伸一は青年部の音楽祭で、3年前の同日に行われた広宣流布の記念式典での恩師・戸田城聖との思い出を振り返り、指導〉 
 「(戸田)先生は、その式典が終わって、帰られる直前に、一言、こう言われました。
 『我々は、戦おうじゃないか!』
 その意味は、限りなく深いと思います。
 不幸な民衆を救っていく戦い、誤った宗教との戦い、不当な権力との戦い、自己自身との戦いなど、いっさいを含んだうえでの、戸田先生のお言葉であったにちがいありません。
 ともあれ、衰弱しきったお体でありながら、眼光鋭く、毅然として言われた、『我々は、戦おうじゃないか!』との先生のお言葉を、私は、電撃に打たれた思いで、聞いておりました。
 そして、何ものをも恐れず、広宣流布に向かって戦うことを、私は、その時、再び決意いたしました。
 これは、先生の魂の叫びであります。命の言葉であります。私たちは、このお言葉を深く胸に刻み、広宣流布の日まで、断固、戦い抜こうではありませんか」
 伸一のこの日のあいさつは、聖教新聞に掲載され、これを目にした全国の会員は、決然と奮い立った。
 「我々は、戦おうじゃないか!」との言葉は、同志の合言葉ともなった。

新・人間革命 4巻 春嵐 

2020年3月25日

第1656回

新入会の友が、

一人の自立した信仰者として、

仏道修行に励めるようになってこそ、

弘教は完結

 

 〈10月の本部幹部会で、伸一は折伏の目的と個人指導の重要性を確認〉
 「折伏の目的は相手を幸せにすることであり、それには、入会後の個人指導が何よりも大切になります。皆さんが担当した地区、班、組のなかで、何人の人が信心に奮い立ち、御本尊の功徳に浴したか。それこそ、常に心しなければならない最重要のテーマです。
 本年は十二月まで折伏に励み、明年一月は『個人指導の月』とし、人材の育成に力を注いでいくことを発表して、私の本日の話といたします」
 弘教が広がれば広がるほど、新たに入会した友にも、信心指導の手が差し伸べられなければならない。
 信心をした友が、一人の自立した信仰者として、仏道修行に励めるようになってこそ、初めて弘教は完結するといってよい。
 三百万世帯に向かう“怒濤の前進”のなかで、その基本が見失われ、砂上の楼閣のような組織となってしまうことを、伸一は最も心配していたのである。
 また、世界広布といっても、今はその第一歩を踏み出したばかりであり、広漠たる大草原に、豆粒ほどの火がともされた状態にすぎない。それが燎原の火となって燃え広がるか、あるいは、雨に打たれて一夜にして消えてしまうかは、ひとえに今後の展開にかかっている。そのためにも、今なすべきことは、一人ひとりに信心指導の手を差し伸べ、世界広布を担う真金の人材に育て上げることにほかならなかった。

新・人間革命 2巻 勇舞 

2020年3月22日

第1655回

「母」の信心は、子の「発心」の縁となり、

悩み」は広布のバネとなる

 

 〈7月の婦人部大会で婦人部長の清原かつは、婦人の信心の在り方を訴える〉
 「女子部の幹部の方たちに、どういう動機で信心をしたのかを尋ねてみました。すると、七人いた女子部員全員が、生活も大変ななかで、グチも文句も言わずに、いつも笑顔で頑張っている母親の姿を見て、信心をしてみようという気になったと言うのです。
 つまり、お母さんの強さや優しさ、また、すばらしさの源泉が、信心にあることに気づき、若い娘さんが信心を始めているのです。(中略)
 もう一つ申し上げておきたいことは、皆、それぞれに悩みを抱えていますが、その克服を自分の課題として、学会活動に励んでいこうということであります。たとえば、夫の仕事がうまくいかずに悩んでいるなら、今月は、それを願って一人の友人に信心を教えよう、何遍の唱題に挑戦しようというように、悩みを広宣流布の活動のバネにしていくことが大事ではないかと思います。
 広宣流布のために働き、祈るならば、必ず功徳があります。したがって、一つ一つの活動に自分の悩みをかけて、幸福へのステップとしていくことです。個人としての活動の意味が明確になれば、張り合いも生まれ、力も出ます。私たちは、全員が幸福という確かな道を、堂々と歩んでまいりましょう」

 新・人間革命 2巻 錬磨 

2020年3月21日

第1654回

学会の強さの秘密は

師との強い「心」の絆である


 〈1960年(昭和35年)5月の女子部幹部会で、山本伸一は恩師・戸田城聖について語る〉
 「(戸田)先生が、一人ひとりを励ますために、陰でどれほど心を砕いていたか計り知れない。生涯を通じて、連日、個人指導に何時間も時間を費やし、また、手紙で、電話で、あるいは人を介して、さまざまな指導、激励の手を差し伸べられた。先生に、直接、指導を受け、幸せになっていった人は、何万人にものぼります。
 つまり、一人ひとりが先生につながり、人間として、師匠として、敬愛していたから、皆が自主的に、喜び勇んで、広宣流布に挺身してきた。だからこそ、学会は、花のような明るい笑顔に包まれ、ここまで発展を遂げたんです。それが学会の強さの秘密です。学会は、信心を根本に、戸田先生との人間の絆で結ばれた、自立と調和の共同体であるといえましょう。
 その学会の真実を見極めようとせず、戸田先生のことを、命令一つで組織を動かすカリスマのように思っている。なかには、敢えてそのように喧伝し、学会の悪印象を植えつけようとするマスコミも一部にありました。
 戸田先生は、そうしたなかで、自分は凡夫であると言い切られた。それは、宗教の神秘主義、権威主義への挑戦です。また、大聖人の人間仏法の本義もそこにあります。
 戸田先生が、ご自身を“立派な凡夫”と言われた意味は、仏法のうえでも、深いものがあります。
 現実の振る舞いに即して“立派な凡夫”ということを論じれば、それは自己の人間完成に向かって、常に学び、磨き高めていく、向上、求道の生き方といえます」

 

新・人間革命 2巻 先駆 

2020年3月18日

第1653回

「仏」は自身の中に

 

 〈ニューヨークの座談会を訪れた伸一は、信心の確信を持てない婦人たちを温かく包み込むように指導〉
 「信心を貫くならば、一人も漏れなく、幸福になれます。現に、日本では、百万人を超える同志が幸せになっています。それが最大の証明ではないですか。仏典には、こんな話が説かれています。
 昔、ある男が、親友の家で酒を振る舞われ、酔って眠ってしまった。親友は、この男が決して生活に困り、嘆くことのないように、寝ている間に、最高の高価な宝石を衣服の裏に縫いつけてあげた」
 参加者は、吸い込まれるように、伸一の話に聞き入っていった。
 「……やがて、男は別の土地に行き、おちぶれて食べるにも事欠くほど貧乏になってしまった。しかし、自分の衣服に、そんな高価な宝石が縫いつけられていることなど、全く気づかなかった。おちぶれた果てに、男は親友と再会する。親友は、男の衣服に、高価な宝石を縫いつけたことを教える。その宝石のことを知った男が、幸せになったのはいうまでもありません。
 これは、法華経に説かれた『衣裏珠の譬』という説話です。最高の宝石とは、皆さんの心にある『仏』の生命のことです。御本尊に唱題し、広宣流布のために戦うことによって、その『仏』の生命を引き出し、最高の幸福境涯を築くことができる。
 しかし、せっかく信心をしながら、それがわからずに、ただ悲しみに沈んでいるとしたなら、この説話の男と同じようなものです」

 

新・人間革命 第1巻 慈光

2020年3月17日

 

第1652回

誓願の祈りは決意の唱題


 〈ブラジルのサンパウロの座談会で伸一は、農業を営み、不作に悩む壮年の質問に答える〉
 「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも“誓願”の唱題でなければならない」
 「セイガンですか……」
 壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
 伸一が答えた。
 「“誓願”というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。
 日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です。
 つまり、“私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください”という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです」

 

新・人間革命 第1巻 開拓者

2020年3月16日

第1651回
「地涌の菩薩」こそ、
我等の究極のルーツ

 

 〈シカゴの座談会で伸一は、人種差別に苦しみ、自分のルーツに縛られてきた黒人の青年に、「地涌の菩薩」の自覚に立つよう促す〉
 「仏法では、私たちは皆、『地涌の菩薩』であると教えています。
 『地涌の菩薩』とは、久遠の昔からの仏の弟子で、末法のすべての民衆を救うために、広宣流布の使命を担って、生命の大地から自らの願望で出現した、最高の菩薩のことです。
 もし、ルーツと言うならば、これこそが、私たちの究極のルーツです。つまり、私たちは、いや、人間は本来、誰もが社会の平和と幸福を実現していく使命をもった久遠の兄弟なんです。
 自己自身の立脚点をどこに置くかによって、人生の意味は、まったく異なってきます。たとえば、緑の枝を広げた大樹は、砂漠や岩の上には育ちません。それは、肥沃な大地にこそ育つものです。
 同じように、豊かな人間性を開花させ、人生の栄冠が実る人間の大樹になるには、いかなる大地に立って生きていくかが大事になります。その立脚点こそ、『地涌の菩薩』という自覚なんです。
 この大地は普遍であり、人種や民族や国籍を超え、すべての人間を蘇生させ、文化を繁茂させます。その地中には、慈悲という清らかな利他の生命の泉が湧いています。皆がこの『地涌の菩薩』の使命を自覚し、行動していくならば、真実の世界の平和と人間の共和が築かれていくことは間違いありません」

 

新・人間革命 1巻 錦秋

2020年3月15日

第1650回

平和の原点、それは、
どこまでも「人間」に帰着する

 

 〈1960年(昭和35年)10月、山本伸一はハワイの座談会で、アメリカ人と結婚し、孤独を抱えながら暮らす日本人女性を励ます〉
 「あなた以外にも、このハワイには、同じような境遇の日本女性がたくさんいると思います。
 あなたが、ご家族から愛され、慕われ、太陽のような存在になって、見事な家庭を築いていけば、日本からやってきた婦人たちの最高の希望となり、模範となります。みんなが勇気をもてます。
 あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。
 だから、悲しみになんか負けてはいけません。強く、強く生きることですよ。そして、どこまでも朗らかに、堂々と胸を張って、幸せの大道を歩いていってください。さあ、さあ、涙を拭いて」
 伸一の指導は、婦人の心を、激しく揺さぶらずにはおかなかった。慈愛ともいうべき彼の思いが、婦人の胸に熱く染みた。彼女は、ハンカチで涙をぬぐい、深く頷くと、ニッコリと微笑んだ。
 「はい、負けません」
 その目に、また涙が光った。それは、新たな決意に燃える、熱い誓いの涙であった。
 伸一の平和旅は、生きる希望を失い、人生の悲哀に打ちひしがれた人びとに、勇気の灯を点じることから始まったのである。それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。
 しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人ひとりの人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はないことを、伸一は知悉していたのである。

新・人間革命 1巻 旭日

◆3月15日

第1649回
祈りは、
人間の人間たる証し

 

<祈りから希望が生まれる>

 

①人間革命の祈り

自他共の幸福の祈り

誓願の祈り

 

 祈りは、
 人間の人間たる
 崇高な証しである。
  
 無宗教だという人も、
 何か祈っている。
 「苦境を脱したい」
 「よりよく生きたい」
 「家族を守りたい」などと
 強く欲するのは、
 人間として
 本然的な心である。
  
 思いやりも、
 友情も、
 祈りから始まる。
 祈りこそ、
 人間と人間を
 結びゆく力である。
  
 我らの祈りは、
 「人間革命の祈り」だ。
 人や周囲が
 変わってくれるのを
 待つのではない。
 強盛な一念で
 自分自身が変わり、
 その波動を広げるのだ。
 我らの祈りは、
 「自他共の幸福の祈り」だ。
 あの友も、この友も、
 共々に
 仏の生命を開きながら、
 絶対に幸福を
 つかんでいくための
 原動力なのだ。
 我らの祈りは、
 「誓願の祈り」である。
 広宣流布の大願へ、
 拡大と勝利を誓い、
 自ら行動を起こし、
 実現していくのだ。
  
 希望を自ら生み出す
 原動力こそ、
 「南無妙法蓮華経」の
 唱題行である。
 題目の力は無限だからだ。
 題目を唱えた瞬間から、
 自身の一念を変革し、
 希望の明日を
 創り開いていけるのだ。
  
 日々、自分のなすべき
 具体的な目標を
 明確に定めて、
 一つ一つの成就を祈り、
 挑戦していくことだ。
 その真剣な一念から、
 智慧が湧き、
 創意工夫が生まれ、
 そこに成功がある。
 つまり、「決意」と「祈り」、
 そして、「努力」と「工夫」が
 揃ってこそ、
 人生の勝利がある。

 

2020.3.15付聖教新聞 〈池田大作先生 四季の励まし〉

2020年3月14日

第1648回
信心をしているか否かで
人を決めつけてはならない!


 〈サンフランシスコで伸一は、信心に励む妻を支える未入会の夫への感謝を語る〉
 「信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。私は、その尽力に、最大の敬意を表したいんです。
 みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
 信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。また、逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。
 だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや、人権問題でさえあると私は思っているんです」
 伸一の思考のなかには、学会と社会の間の垣根はなかった。仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である。
 また、たとえば広い裾野をもつ大山は容易に崩れないが、断崖絶壁はもろく、崩れやすいものだ。同様に、盤石な広布の建設のためには、大山の裾野のように、社会のさまざまな立場で、周囲から学会を支援してくれる人びとの存在が大切になってくる。
 更に、そうした友の存在こそが、人間のための宗教としての正しさの証明にほかならないことを、彼は痛感していたのである。

 

新・人間革命 1巻 新世界

2020年3月2日

第1647回
「善の根本」は法性、
「悪の根本」とは無明

 

<三災七難は一国謗法が原因>

 

 大聖人は「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」と仰せです。大聖人は、この仏の智慧によって予言をされたのです。
 「善の根本」とは法性(妙法の悟り)、「悪の根本」とは無明(根本的な迷い、妙法に対する迷い・不信)です。無明が「悪の根本」であるのに対して、先ほどの貪欲・愚癡・瞋恚の三毒や、三毒から起こる飢饉・疫病・戦乱の三災、さらにはそれらが複合して起こる五濁などは「悪の枝葉」に当たるでしょう。
 大聖人は「立正安国論」で、当時の三災七難の根本原因は一国の「謗法」にあると仰せです。謗法は、妙法への不信・誹謗ですから、悪の根本である無明に等しい。この一国の謗法を放置する限り、あらゆる悪の枝葉が起こってくるのです。善悪の根本を悟り、当時の社会に悪の根本である謗法が盛んであることを洞察された大聖人は、経典に説かれた三災七難という悪の種種相のうち、当時、まだ起こっていない戦乱、すなわち他国侵逼難と自界叛逆難が必ず起こると予言されたのです。
 日蓮大聖人は、言うならば「妙法の智慧」に基づき、打ち続く災難の根本原因を解明し、民衆を苦悩から解放しようとされたのです。

 

「御書の世界」(下)

2020年3月2日

第1646回
妙法に背いた罪による病は、
妙法に帰することによってしか治らない

 

<広布の時、三災七難は逆次に起こる>

 

「実相」は必ず「諸法」に顕れる

 

 〇〇 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」(『淮南子』)とあります。「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。
 池田 見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。
 〇〇 諸法を見て実相を知る智慧は、学者や芸術家、商売上手な人、家庭をきりもりする聡明な母など、それぞれ一面的には持っているのではないでしょうか。
 池田 当然、そうでしょう。法眼・仏眼にいたらなくとも、慧眼・天眼がある。
 何と言っても、戸田先生は鋭かった。現象を通して本質を見抜く天才だった。先生ほどの指導者は、ほかにいないでしょう。
 はじめに話題になった、日本の敗戦と荒廃の姿──これは「諸法」です。それを見て、先生は、「大仏法興隆の時」であると叫ばれた。これこそ諸法実相の智慧ではないだろうか。
 逝去された年(一九五八年〈昭和三十三年〉)の「年頭の言葉」にも書かれていた。
 「政治、労働、文化、経済、教育等々、各界がみな自界叛逆の相を呈して、五濁悪世の名にもれず、泥沼にうごめくがごとき状態を続けている。そして、これが一国謗法の総罰のすがたであるとは、だれも考えおよぶ者がいない」(『戸田城聖全集』3)と。
 〇〇 具体的には何をさして、おっしゃったのでしょうか。
 池田 政界では、組閣や閣僚ポストをめぐる内部分裂。労働界では、指導者層の、一般組合員層からの遊離。文化面では、健全な文化の育成を阻む学閥抗争──等々を挙げられていた。
 〇〇 そうした傾向は、今も変わっていません。問題は、なぜこうなるのかだと思いますが。
 池田 そう。戸田先生は、指摘された。
 「もともと、あらゆる機構は相争うために生みだされたものではない。それは人類福祉のために考えられ、採用されたものであったはずである」(同前)
 〇〇 まったく、その通りです。
 池田 そして結論的に、こう言われた。
 「それにもかかわらず、いま、まったく反対機能の場となってしまった理由は、一国こぞって正法に反対し、これを説く者を迫害し、こぞって誹謗正法の罪をつくっているところにある。
 すなわち、日蓮大聖人の立正安国のお教えに背いているためなのである」(同前)と。
 〇〇 「立正安国論」で大聖人は、経文に照らして警告されました。人間の根本である思想・宗教が乱れ、それを放任したまま正法に目覚めないならば、その乱れは必ず国土・社会に反映するであろうと。
 池田 思想・宗教の乱れとは、「諸法の実相」を見られない智慧の乱れであり、ひいては生命の乱れです。依正不二が実相であるゆえに、その「正報」の乱れが、「依報」である社会・国土にも不調和を起こすのです。
 〇〇 三災七難ですね。
 池田 大聖人の当時は、軽い難から重い難へと、順次、起こった。数々の天変地夭。権力抗争による内乱(自界叛逆難)。そして最後は、蒙古襲来という最大の難「他国侵逼難」です。
 時移り、戸田先生は「いま広宣流布の時をむかえて、難の出方が大聖人御在世と逆次にでてきている」と指摘された。つまり最初に、未曾有の大敗戦という「他国侵逼難」。そして、各界の分裂・抗争に見られる「自界叛逆難」にさしかかっていった。
 妙法に背いた罪による病は、妙法に帰することによってしか治らない。だから全民衆の幸福のためには、妙法の広宣流布しかないのだと叫ばれたのです。
 〇〇 戸田先生は、経典と大聖人の仰せに照らし、民衆のゆく末を憂えて、戦後社会という諸法の実相を洞察されたのですね。
 池田 そう。身近なことでは、広宣流布の大進展が、まちがいないという一つの証拠(諸法)として、「交通の便」の発達をよく挙げられていた。多くの人が集まれること自体、すごいことなのだと。その通りであった。
 ともあれ、諸法実相は、どこまでも「現実を変革」する哲理です。苦悩に満ち満ちた現実を絶対に離れない。逃げない。その現実のなかから、人々の仏界の生命を開発し、世界の安穏を実現していく智慧なのです。

 

 法華経の智慧 方便品(第二章)

3月1日

第1645回
 どうすれば、

皆が元気に喜んで進んでいけるか

 

<大切なのは、

心を「軽く」してあげることだ>

 

 どうすれば、
 皆が元気に喜んで
 進んでいけるか。
 具体的に手を打つことだ。
 何があろうと、
 妙法の力で
 変毒為薬していく。
 共に祈り、
 苦難を乗り越える。
 これが、
 我ら創価家族だ。
 分け隔てなく、
 励まし合い、支え合う。
 心と心の絆が
 安心社会をつくるのだ。
  
 「大丈夫?」「元気?」
 「頑張ってね」と、
 常に励ましの言葉を
 かけ合っていきたい。
 「心」が通えば、
 「力」に変わる。
 「力」を出せば、
 必ず「道」は開けてくる。
 また人を励ますことは、
 自分自身をも勇気づける。
 「励まし」は人を変え、
 自分を変えるのである。
  
 大切なのは、
 心を「軽く」して
 あげることだ。
 「強く」「明るく」して
 あげることだ。
 たとえ会えなくても、
 電話の一言で、
 目の前の壁が
 破れることもある。
 一通の置き手紙が、
 その人の人生を
 変える場合だってある。
  
 相手の言うことに、
 じっと耳を傾ける。
 じっくりと
 話を聞いてあげる。
 それだけで、
 スッキリする。
 心が軽くなる場合が多い。
 聞いてあげること自体が、
 仏法で説く慈悲の実践、
 「抜苦与楽(苦を抜き、
 楽を与える)」の
 「抜苦」となるのだ。
  
 励ましとは、
 安心と希望と勇気を
 与えることである。
 相手の生命を
 燃え上がらせ、
 何ものにも
 負けない力を引き出す、
 精神の触発作業である。
 励ましの本義は、
 相手の
 幸福を願う心にある。

 

2020.3.1 聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉

2020年2月25日

第1644回

なぜ次から次へ、

三災七難が打ち続くのか?

 

<大聖人(創価学会)に

前代未聞の大瞋恚を起こしているから>

 

正法の人を憎む故に三災七難が

 御書の「治病大小権実違目」に、こう仰せである。
 「此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚しんにを起せり(中略)結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし
 ──この三十数年間の三災・七難等の原因は全く他のことではない。日本一同に日蓮をあだみ、国ごと、郡ごと、郷ごと、村ごと、人ごとに、上一人より下万民にいたるまで(大聖人に対して)前代未聞の大瞋恚(怒り、うらみ)を起こしているからである。(中略)結局は、勝負を決する以外に、この災難を止めることはできない──。
 自然の災害、悪賊による騒乱、また内乱、他国からの攻撃、飢饉など深刻な経済の不況、身の病・心の病の蔓延など……。なぜ次から次へ、三災七難が打ち続くのか?
 その根本原因が、この御文に明快に示されている。そして、この苦悩の流転を止めんがために、大聖人は、権威・権力の魔性と戦い、三類の強敵に真っ向から挑まれたのである。
 この正義の大闘争こそが広宣流布である。

 時代の混迷を目の当たりにしながら、何もせず、ただ傍観している──それほど無責任な、卑怯なことはない。
 今、創価学会が立ち上がり、全力で、誠実に行動している。これこそ大聖人の御心に適っていると確信する。
 「仏法は勝負」である。ひとたび戦いを開始したからには、断じて負けるわけにはいかない。師子として仏敵を打ち破り、勝ち抜いていく以外ない。すべては、ただ民衆の安穏のためである。

 

「幸福の種をまく人」

 

 ここで、大聖人が婦人門下の妙法尼に送られた「法華初心成仏抄」の一節を拝したい。
 この御書でも「女人成仏」の法理が明快に示されている。
 ご存じのように、法華経以前の仏典や仏教以外の多くの教えでは、女性は不当に差別されてきた。しかし、大聖人は、女性が「やすやすと仏になるべし」──やすやすと仏になれる──と高らかに宣言なされている。
 この一点から見ても、日蓮大聖人の仏法こそ、女性の時代たる二十一世紀をリードしゆく「平等」と「調和」の哲理なのである。
 大聖人は、妙法尼に、こう語りかけておられる。
 「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり
 ──とにもかくにも法華経を、あえて説き聞かせるべきである。(それを聞いて)信ずる人は仏になる。謗る者も、それが″毒鼓の縁″となって仏になるのである。どちらにしても仏の種は法華経よりほかにはないのである──。
 (「毒鼓の縁」とは、毒薬を塗った太鼓(毒鼓)の音を聞けば、聞くつもりがなくても死に至るとされていることから、不信の者でも正法を「聞く」ことによって成仏に至ることを譬えたもの)

 皆さまが勇気をもって、仏法を語れば語るほど、人々の心の奥に、最高の「幸福の種」をまくことができる。たとえ、今は相手が反対したとしても、必ず花開く時が来る。
 なかんずく、婦人部の確信の弁舌は、観念論ではない。言葉だけの空まわりでもない。強き一念、深き体験より発する、我が婦人部の一言一言には、人々の心を打つ響きがあり、心を動かしていく力がある。
 皆さまが祈り、しゃべった分、仏縁を結び、広宣流布のすそ野は広がっていく。
 ところで、大聖人は御書のさまざまなことろで、よき僧侶の条件を明確に挙げておられる。
 すなわち、(1)これといった世間的な罪がない(2)権力などに、いささかもへつらわない(3)少欲知足(4)慈悲がある(5)経文の通りに法華経を読み持つ(自ら修行する)(6)人にも勧めて法華経を持たせる(布教する)──である。
 この基準に、ことごとく違背しているのが、日顕宗の悪僧なのである。
 (1)世間的な罪、反社会的な行為(2)権力に迎合(3)貪欲(4)無慈悲(5)修行しない(6)布教しない。
 ゆえに、御聖訓に照らして、厳然たる仏罰、なかんずく冥罰みょうばち(すぐに表面には出ないが、後々に必ずあらわれる罰)は絶対にまぬかれない。

 

一切衆生の仏性を妙法の一音が呼び顕す

 

 大聖人は、この御書の結びにこう仰せである。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 ──ひとたび妙法華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・太陽と月・星々・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界という一切衆生の心の中の仏性を、ただ一声で呼びあらわせる、その功徳は無量無辺である──。
 妙法の音声に、どれほどの力が秘められていることか。
 それは、全宇宙のあらゆる衆生が具えている尊極の仏性を呼び覚ましていく。ゆえにすべてを仏天の加護に変え、味方へと転じられるのである。
 功徳の「功」とは、「悪を滅する」こと。功徳の「徳」とは、「善を生ずる」ことである。
 学会の正義が、このように堂々と証明されゆくのも、学会員なかんずく婦人部の皆さまの懸命な祈りと戦いの功徳なのである。
 皆さま方の大闘争に呼応して、今、諸天善神もグングン勢いを増し、働いている。
 さらに朗々と、妙法を世界へ宇宙へ響かせながら、人々の心に「希望の種」をまく一日一日でありたい。

 

1995.10.8 滋賀県最高協議会

2月23日

第1643回
 青年とは「誓願に立つ人」

< 我々には何一つ、差別はないのである。>

 

 青年には未来がある。
 青年には、
 無限の力がある。
 ゆえに、青年を育成し、
 青年を大事にし、
 青年に
 バトンタッチしていく
 流れを
 着実につくったところは、
 会社も、社会も、国も、
 全部、成功する。
 あらゆる世界で、
 未来を決定づけるのは、
 すべて後継者である。
  
 青年には
 進取の気性がある。
 活力が溢れ、
 柔軟性に富んでいる。
 新しい歴史を開くのは、
 断じて青年だ。
 戸田先生、
 そして私の思いは、
 この青年を愛し、
 信ずる一心である。
  
 先輩は、
 伸びゆく後輩を
 大切にすることだ。
 後輩は、
 先輩のよいところを
 見習って、
 大いに
 力をつけていくことだ。
 全員が
 尊き使命を持った
 地涌の菩薩である。
 全員が偉大なる
 広宣流布の同志である。
 我々には何一つ、
 差別はないのである。
  
 若さは、
 いかなる苦難も
 悩みも失敗も、
 前進の力に変えていける。
 若さには、
 人生の至宝の
 勇気と情熱がある。
 誠実と真剣さがある。
 ゆえに、
 勇敢なる信心で
 偉大な誓願に立つ人は皆、
 青年といってよい。
  
 いよいよ、これからだ。
 心まで老けてはいけない。
 たとえ、年をとっても、
 皆が青年らしく進めば、
 未来は盤石だ。
 日本中、世界中に、
 青年が躍り出ている。
 青年を増やすことが
 広宣流布である。

 

2020年2月23日聖教新聞〈池田大作先生 四季の励まし〉

2月22日

第1642回
下から上を動かせ!

 

<幹部は同志のためにいるのだ!>

 

  幹部は同志のためにいる。誠意を尽くせば、皆、気持ちがいい。反対に、つんとして、人の意見も聞かず、威張ってばかりでは、まるで″独裁者″だといわれでも仕方がない。
 もしも、将来、堕落の幹部が出たら、皆が厳しく正すことだ。
 初代会長牧口先生は「下から上を動かせ」と教えられた。
 正しいことは正しい、おかしいことはおかしいと言いきる。建設的な声をあげることである。
 最も大事なのは学会員である。
 私は十九歳の時から、戸田先生と学会を、守りに守ってきた。「師弟不二」を貫いてきた。
 これが、初代、二代、三代と続いてきた、純粋な学会の伝統である。
 この精神を、いかに永遠たらしめるか――広布のリーダーの皆さんは、この一点を真剣に考え、会員の幸福のために、「不惜身命」の決心で戦っていただきたい。


2006年2月23日全国代表協議会

2月22日

第1641回
『前進』が合言葉だ!

 

 私は先月、ロシアの文豪の名を冠したA・M・ゴーリキー記念ウラル国立大学から名誉博士号を受章した。
 このゴーリキーはつづっている。
 「前進への意欲――これこそ人生の目的なり。生涯、前進し続けるのだ。そこに、気高くすばらしい時がある」(Алексей Максимович Горький, Полное собрание сочинений, Том.3, Наука.)
 「前進」といえば、若き日の文京支部での戦いを思い出す。当時、文京支部の折伏成果は、全国で最下位クラスであった。支部長は女性だった。
 彼女から支部の窮状を訴えられた戸田先生は、こう言われた。
 「僕の懐刀を送ることにしよう」
 私が文京支部長代理の任命を受けたのは、昭和二十八年(一九五三年)の四月であった。
 私は最初の班長会で申し上げた。
 「人生は前進です。限りない前進です。英雄ナポレオンの合言葉は『前進』でした。私たちは、広宣流布の英雄です。破邪顕正の英雄です。
 わが文京支部は、『前進』の魂を断固と燃やそう! 『前進』を合言葉としよう!
 そこから文京の大前進が始まった。私は具体的な目標を掲げ、各地区を駆けた。一人一人と誠実の対話を重ねていった。そして、この年の十二月には、文京は第一級の支部へと発展を遂げたのである。
 私は、どこに行っても連戦連勝で勝利の歴史を築いてきた。昭和三十一年(一九五六年)、大阪では、「まさかが実現」とマスコミが驚嘆するほどの大勝利の金字塔を打ち立てた。
 当時、大阪よりも東京のほうが、はるかに情勢はよかった。「勝てる」と多くの人が思っていた東京が負けてしまった。そして、劣勢だった大阪が勝利した――皆、本当に驚いた。
 関西は、私が手づくりで築いた「常勝の天地」である。だからこそ私は関西を信頼する。関西を大事にする。


2006年2月23日全国代表協議会

2月9日

第1640回

「必ずできる!」

 

 冬は、鍛えの季節である。
 試練に負けないで
 力をつける時だ。
 草花や木々たちも、
 動物や昆虫たちも、
 凍てつく
 寒さに耐えながら、
 春を迎えるために、
 一生懸命に
 準備をしている。
 未来に、どのような
 才能の芽を伸ばし、
 そして勝利の花を
 咲かせていくか。
 そのための芽生えは、
 自分自身の心の中にある。
  
 「自分には無理だ」などと
 決めつけては
 絶対にいけない。
 生命には
 宇宙大の力がある。
 それを引き出すのが
 妙法である。
 「必ずできる!」と
 固く心に決めるのだ。
 一心不乱の祈りと行動が、
 限界の壁をつき破る。
  
 苦労しているから、
 人に寄り添える。
 悲哀に負けないから、
 嘆きの友を励ませる。
 悩める人を
 幸福にするために、
 自らが悩みを乗り越え、
 勝利の実証を!――
 これが広布に生きる
 師弟の誓願である。
  
 「自分のことを
 思ってくれる人がいる」
 ――その手応えが、
 苦悩の人の生命空間を、
 すっと広げてくれる。
 他人や世界と
 “共にある”という
 実感があれば、
 必ず
 立ち上がることができる。
 それが
 生命のもっている力だ。
  
 強盛な祈りで立ち上がれ!
 題目は師子吼だ。
 滾々と勇気が湧き、
 満々と生命力が漲る。
 さあ、いよいよ、
 これからだ! 
 人間の中へ、
 民衆の中へ、
 勇んで飛び込み、
 大誠実の力で、
 我らは勝利していくのだ。

 

2020.2.2〈池田大作先生 四季の励まし〉「生命の力」に限界なし

2月1日

第1639回

夢物語が現実に!

 

<生きていること自体が楽しい>

 

 今、あらためて思い起こされる恩師の宣言がある。

 「我々はこの世に楽しむために生まれてきたのだ」と。

 戦後の苦悩渦巻く大混乱の時代の只中にありながら、

 戸田先生は、信心の力で一人一人が「生きていること、それ自体が楽しい」という人生を開いていけると断言された。

 そして、「日本中、世界中の人をみんな楽しい笑顔にしようではないか」と呼び掛けられたのである。

 夢物語のように聞いた人も少なくなかった。しかし、御聖訓に深く裏付けされた大確信の叫びであった。

 

 日蓮大聖人は、苦難と戦う四条金吾夫妻に仰せである。

 「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云々、此の文・あに自受法楽にあらずや」(1143頁)

 

 それは、富や名声など、儚く移ろう楽しみではない。自らの生命の中から込み上げてくる大歓喜である。

 大聖人は、「衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり」遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」(同頁)とも示された。

 「一切衆生」がもれなく、「一閻浮提」のいずこでも、題目を唱えれば、妙法の当体として必ず「遊楽」の境涯と国土を創造していけると、約束くださっている。

 

 現実の苦しみは賢人・聖人も逃れることはできない。

 だからこそ、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて」(同頁)題目を唱え、前進するのである。

 ここに、いかなる人生の宿命も社会の難題も、一つ一つ打開し、未来を照らしていく「絶対勝利」の道がある。

 その何より雄弁な実証は、共戦の旅を勝ち越えた多宝の父母たちのいぶし銀の笑顔ではないだろうか。うれしいことに今、聖教新聞を通し、全世界へ発信されている。

 

 修羅の命が噴出する時代であればこそ、一段と異体同心の結合を強め、我らは「歓喜の中の大歓喜」の妙法を人類へ伝え弘めようではないか!

 「いよいよ強盛の信心をいたし給へ」(同頁)との仰せのままに。

 

 苦楽をば

  分けあう縁の

    我らかな

   永遠に進まむ

       遊楽道を

 

 大白蓮華2020年2月号№844 巻頭言より

1月24日

第1638回

真の覚り

 

人々の幸福のために行動する


 平和は
 彼方にあるのではない。
 自分のいるその場所に、
 信頼と友情の世界を
 築き上げるのだ。
 その輪の広がるところに、
 世界の平和があるのだ。
 
 一方的に話すのは
 対話ではない。
 まず、相手を尊敬し、
 耳を傾けることだ。
 聞く、話す、また聞く。
 その胸襟を開いた応答が
 「思い込み」や「先入観」という
 心の壁を破っていく。
 相手も人間、
 こちらも人間である。
 そこに
 なんの差別もないと知れば、
 心と心が通い、信頼が生まれる。
 
 創価学会は、どこまでも、
 民衆の幸福と
 世界の平和のために、
 現実社会の変革に
 挑戦しゆく使命を貫く。
 そこに、
 「人間のための宗教」の
 精髄があるからだ。
 それは、
 仏教の根本精神でもある。
 仏教は、本来、
 自分一人が覚って、
 それで満足して終わる
 宗教ではない。
 「人々の幸福のために行動する」
 ――この実践があってこそ、
 真の覚りといえる。
 
 「暴力」か「対話」か――。
 世界の各地では、
 今なお熾烈な紛争が続き、
 憎悪と暴力の連鎖が続いている。
 だからこそ、
 私たちは「対話」を
 決して手放してはならない。
 断固たる「対話の選択」こそ、
 「平和の選択」となり、
 必ずや人類の
 「生への選択」に通じていくと、
 私は信じている。
 
 人が人を殺戮することのない、
 平和と不戦の世界を創っていく――
 それが、私たち創価の悲願だ。
 SGIの使命である。

 

2020.1.19 〈池田大作先生 四季の励まし〉

1月18日

第1637回

励ましの金言

 

<大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ>


 御聖訓には、「法華経の功徳はほむれば弥いよいよ功徳まさる」と仰せである。
 妙法のすばらしさを讃えれば、いよいよ、功徳は大きくなる。
 リーダーは、妙法を弘める同志の活躍を、真心から讃え、ねぎらい、そして、励ましていくことだ。その分だけ、妙法の功徳はいちだんと輝き、いちだんと広がっていく。
 大聖人の御書も「励ましの金言」である。
 人間の世界は励まし続ける以外にない。家庭でも、学校でも、団体でも、社会でも、励ましがなくなれば発展はない。
 励ましから、前進への勢いが生まれる。人間としての生きがいが広がる。
 励まさない幹部は、もはや幹部とはいえない。それでは、自分自身も成長しない。
 「善をなす力を持ちながら、善をなさぎる者は、一層の罪人である」(Heineich Pestalozzi, ''THE EDUCATION OF MAN,'' translated from German to English by Heinz and Ruth Norden, Philosophical Libary, Inc., New York, 1951)とは、スイスの大教育者ペスタロッチの戒めであった。
 「声仏事を為す」である。声の力で、仏の仕事ができるのである。
 ゆえに、リーダーは、一人一人と会い、声を惜しまず、同志を、後輩を、青年を徹底して激励しぬいていくことだ。
 そして邪悪に対しては厳しく破折していくことだ。
 経済苦や病苦と格闘している友もいる。また人生は、だれしも悩みとの戦いだ。
 フランスの作家シャトーブリアンがつづったように、「大きな心の人は小さい心の人よりも多くの悩みを持つ」(『アタラ ルネ』畠中敏郎訳、岩波文庫)ものであろう。
 なかんずく、広宣流布の使命に生きゆく人生は「煩悩即菩提」であり、大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がり、大きく福運が積まれる。
 仏法は「変毒為薬」の大法である。何があろうとも、必ず乗り越えていくことができる。また一つずつ絶対に打開できるように試練が現れてくるのが、「転重軽受」の甚深の法門である。
 ゆえに、宿命転換の戦いに、断じて負けてはならない。
 どんなに大変なことがあろうと、妙法を唱え、仏意仏勅の学会とともに生きぬく人は、厳として守護され、必ずや良い方向へ向かっていく。所願満足の幸福の軌道を歩んでいけることは、御聖訓に照らして、間違いない。

2002.12.25全国最高協議会

1月15日

第1636回
青年が盤石なら次の50年も勝利

 

 これからの一つの重大なポイントは、「青年の育成」である。
 学会の未来は、青年部で決まる。すべては青年部に託していくしかない時代だ。
 これまでの学会の五十年は、戸田先生のもとに集った青年部が広宣流布の一切を担い、切り開いてきた。
 しかし、時代は、大きな転換期に入っている。今の青年部を、皆で真心から激励し、鍛え、育てながら、「新しい力」で「新しい大波」を起こしていくことである。
 大事なのは、青年を信頼し、青年を尊敬し、青年の若い力、若い頭脳、若い息吹、若い考え方を上手に引き出していくことだ。若い人が伸び伸びと活躍できる舞台をつくっていくことだ。その点に、全幹部が総力をあげて取り組んでいっていただきたい。
 青年部が盤石にできあがれば、学会の「次の五十年の勝利」は決まるからである。
 青年部の諸君は、明年、一人ももれなく、最前線に立って戦い、一切の勝利の突破口を開いていっていただきたい。
 広宣流布とは、革命である。戸田先生は「革命は死なり」と、炎のごとく指導された。これが、偉大なる恩師の決心であった。
 私もまた、同じ心で、一人の革命児として生きぬいてきた。
 本当の戦いは、気取りや見栄があってはできない。格好ではない。行動である。執念である。勝つか、負けるかである。


2002.12.25全国最高協議会

1月6日

第1635回
生まれ変わった

みずみずしい心で前へ!

 

自分には、これほどの力が あったのか!

 

 壮大な世界広布は、
 いよいよ
 これからが本番である。
 戸田先生は、
 よく語られた。
 「大作、
 学会の本当の
 偉大さが分かるのは
 二百年後だ。
 二百年先まで考えて、
 広布の盤石な路線を
 つくっておくのだ」
 後継の師子が、
 いよいよ躍り出ている。
 宗教革命を受け継ぎ、
 民衆仏法の新時代を築く
 「本門の青年」の活躍こそ、
 新時代の希望である。

 

 前を見よ!
 我らの
 開拓すべき天地は広い。
 君よ、
 今日の責務を
 決然と果たしながら、
 今日より明日へ、
 日々新たに、
 また、日に日に新たに
 前進し抜いていくのだ!
 その執念の行動に、
 栄光の勝利があり、
 幸福がある。

 

 一日の勝利は、
 まず朝の出発で決まる。
 断じて
 「朝に勝つ」ことだ。
 すがすがしい心で、
 生き生きと
 仕事を開始することだ。
 ここに、
 連続勝利の
 秘訣があることを
 忘れてはならない。

 

 「新しい年がめぐってきて
 新しいわれらを
 発見するのです」――と、
 大文豪ゲーテは歌った。
 万年にわたる
 広宣流布の未来を開く
 重要な一年だ。
 その「新しい年」に
 ふさわしい
 「新しい自分自身」の
 人間革命の劇が、
 いよいよ始まったのだ。
 「自分には、
 これほどの力が
 あったのか!」と、
 自らも目を瞠るような、
 生まれ変わった
 みずみずしい息吹で
 戦おうではないか!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2020年1月5日

12月1日

第1633回
執念をもって戦いぬいたほうが勝つ

 

 法華経には「猶多怨嫉」「悪口罵詈」とある。迫害は法華経の行者の証明である。
 しかし、それは悪意の中傷を放置するということでは決してない。「一つの暴論」には「十の正論」で徹底して反撃し、完全に打ち破るまで戦うのは当然である。
 フランスの文豪エミール・ゾラは叫んだ。
 「沈黙は共犯に等しいから、どしどし発言せねば」ならない。(稲葉三千男『ドレフェス事件とエミール・ゾラ』創風社)
 また、「真実は前進し、何ものも止めることはできはしない。悪意の妨害がもろもろあったにしても、厳密に決められたとおりの歩調で、一歩一歩前進していく。真実には、あらゆる障害を乗り越える力が内在している」(同前)
 イギリスの宰相チャーチルは、ナテスとの激闘の渦中にあって、「正義の戦いの完全勝利を獲得するには、時期をを逃してはなりません」(前掲''THE WAR SPEECHES'' vol.3)と母たちに設りかけた。
 そのとおりである。時を逸してはならない。勝った時こそ、次の勝利の因をつくることだ。
 戦いは、執念をもって戦いぬいたほうが勝つ。
12  日蓮大聖人は、暴悪の権力者・平左衛門尉に対して言われた。
 「(日蓮が)仏法を知り、国を思う志は、最も賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しく大忠を懐いていても、いまだその望みのわずかさえも成就することができないでいる」(御書183㌻、通解)
 今、私たちは、大聖人が悲願とされた「立正安国」の大理想を、世界への平和・文化・教育の運動として実現してきた。
 仏意仏勅のSGIに世界から寄せられている賞讃を、大聖人は、いかばかりお喜びであろうか。
 末法は悪世であり、三類の強敵もいる。広宣流布の戦いは激しく「今に至るまで軍やむ事なし」と大聖人は仰せである。仏法は勝負である。断じて、戦いまくり、勝ちまくっていかねばならない。
 広布に戦えば、生命は健康になる。法のため、同志のために行動した人は、生死を超えて、無上の「心の宝」を積んでいけるのだ。
 御聖訓に仰せである。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 来年も、希望に燃えて、勇敢に、そして、仲良く愉快に、断じて勝ち進みましょう!

 

2002.12.25全国最高協議会

12月1日

第1632回

自分のいる場所で、自分の使命に徹せよ


 ヘンダーソン博士は、自身の行動哲学を次のように語っておられる。
 「人間が成長を続けるために大切なものは何か。それは″希望″であると私は思います。
 それでは、希望を持ち続ける秘訣は何か。それは″自分が決めた道を、どこまでも進みぬく″ことです。″自分のいる場所で、自分の使命に徹しきる″ということです。
 ただ漫然と危機の去ることを祈ったり、いたずらに心配するのではなく、今、自分ができることをやりきることです」
 「行動だけしても、方向性を持たなければ、逆に混乱をもたらしてしまいます。真の行動は、精神的な目覚めを通して行うものでなければならないのです」
 自分のいる場所で自分の使命に徹しきる――その人生こそ崇高である。そこに普遍性と永遠性が輝く。仏法で説く「本有常住・常寂光土」の法理にも通じよう。
 日蓮大聖人は、門下に「其の国の仏法は貴辺にまか任せたてまつり候ぞ」と仰せである。創価のリーダーの皆さまは、わが地域、わが方面の広宣流布を大聖人から託された、誉れの使命の方々なのである。

 

2002.12.25全国最高協議会

12月1日

第1631回
善と悪

 

「南無妙法蓮華経」こそ善のなかの善


 ――善と悪を、どのように判断していけばよいのでしょうか。(アメリカ、男子部)
 非常にむずかしい問題です。国際的な問題、個人間の問題、そしてまた、家庭内の問題、その他さまざまな次元で、争いや、対立や、利害の衝突があるが、「こちらが善で、あちらが悪」と、明快に判別できないことが、あまりにも多い。卑近な譬えかもしれないが、夫婦げんかだって、どっちが善か悪か、よくわからないでしょう。(笑い)
 日本に「勝てば官軍」という言葉があるように、「勝ったほうが正義で、負けたほうが悪」という考え方もある。しかしそれは、矛盾が大きい。現実には、正義が負けて、邪義が勝ってしまう場合がある。歴史を見、世間を見ても、悪人が強く、善人は弱いというのは、よくあることです。
 では、何が善で、何が悪なのか。そもそも、善悪とは何か――人類にとって、永遠にわたる、重大な問題といってよい。そうしたなかにあって、ただ一つ、明快に言えることは、「南無妙法蓮華経」こそ善のなかの善だということです。
 南無妙法蓮華経は、宇宙を貫く、永久不変の大法則です。「法則」であるゆえに、だれかがつくったものではない。変えようもない。「真理」です。森羅万象は、すべて妙法にのっとっている
 生命には十界がある。私たちの生命には、仏界がそなわっている。仏界は「つくる」ものではありません。自分の生命から「涌現」するのです。そのために御本尊があるのです。
 そして、妙法を信受して、広布に生きる人生こそが、最高の善――極善なのです。
 以上、少しむずかしかったかもしれないが、本源的な次元、そして宇宙的な次元から、善悪の根本について述べました。
 そのうえで私が申し上げたいのは、「人を殺すことは、絶対に悪だ」ということである。どんなことがあっても、人を殺すことは、あってはならない。反対に、「人を救っていこう。世界を平和の方向にもっていこう」と行動することは、正義であり、善なのです。

 

2002.9.8世界平和祈念勤行会

11月25日

第1630回

人材を育てる人が真の人材

 

 個人も、団体も、国家も、
 どれだけ人材を見つけ、
 どれだけ人材を育てたか
 ――それで
 歴史の真価が決まる。
 民衆のため、社会のため、
 人間のために貢献する
 指導者を育てゆくことだ。
 これが
 世界平和の波動を広げる。
 これが
 創価学会の実践である。

 

 人材とは人格の人である。
 人への思いやり、包容力、
 自分を律する精神の力、
 正義への信念と意志等々、
 人格の輝きこそ、
 人間として最も大事だ。
 それには、
 精神闘争が必要である。
 自分の弱さに挑み、
 苦労に苦労を重ねて、
 自己の精神を
 磨き上げていくことだ。

 

 自分が偉くなるのでなく、
 人を偉くする。
 幸福にする。
 その人が
 本当に偉い人である。
 先輩は後輩を守ることだ。
 後輩に
 尽くしていくことだ。
 後輩を
 自分以上の大人材に
 していくことである。

 

 「一人」が大事である。
 本物の「一人」が立てば、
 「万人」の
 勝利と幸福につながる。
 人数が
 多いかどうかではない。
 一人でも、二人でも、
 真剣な人がいれば、
 全体に大きな波動を
 起こすことができるのだ。
 目の前の「一人」、
 自分が縁した「一人」を、
 全力で励まし、
 伸ばしゆくことだ。

 

 人間の一切の力、
 可能性を
 引き出していくカギは、
 ひとえに信心にある。
 「信心」の二字には、
 すべてが
 納まっているのだ。
 ゆえに人材の根本要件は、
 一言すれば、
 強盛な信心に
 立つことに尽きる。

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2019年11月24日

11月10日

第1629回

「信念の一人」

 

 大聖人のご生涯は、命にもおよぶ大難の連続であった。「開目抄」には、「波に波をたたみ難に難を加へ」と仰せである。押し寄せる大波のように、次々と大難が襲いかかった。
 大聖人は、なぜ、その一切を勝ち越えることができたのか。御聖訓には仰せである。
 「一人なれども心のつよき故なるべし
 信念がある! 信仰がある! 強き心がある! だから一人であっても勝てたのである。信念をもった一人ほど強いものはない。どんなに迫害されようと断じて負けない。負けないということが、「妙法蓮華経」である。法華経の精神であり、日蓮仏法の魂である。
 わが学会には、大聖人に直結した「心の強さ」の真髄がある。
 だからこそ、これだけの難を受けながら、「仏法を基調とした、世界第一の平和と文化と教育の団体」を築き上げることができたのである。
 大事なのは、「信念の一人」である。立場でもない。役職でもない。人数でもない。私も、一人、立ち上がった。戸田先生をお守りし、悪意の言論と敢然と戦った。何ものをも恐れなかった。
 一人、立ち上がることだ。なかんずく、青年が自覚することだ。だらしのない臆病な先輩は放っておけばいいのである。青年部が、二十一世紀の創価学会の原動力になっていただきたい。
 「後継」こそ青年の使命である。広宣流布の一切の勝利は青年部で決まる。決然と、一人、立ち上がっていただきたい!
 釈尊が、幾多の苦境を乗り越えて、出世の本懐たる「妙法蓮華経」を説き始めたのは、何歳からであったか。大聖人は、「御年七十二歳」と記しておられる。釈尊の人生の最終章である。
 どうか、皆さまも、「不老不死の大生命力」を輝かせながら、健康で長生きしていただきたい。荘厳なる夕日のごとき、人生の総仕上げをお願いしたい。

 

2002.11.14 第二十七回SGI総会、第二十二回本部幹部会

11月10日

第1628回

創価学会の永遠の原点

 

「広宣流布の柱」は、永遠に「創価の三代」


 このたび、学会創立七十二周年を記念して、新たに創価学会版の『法華経』(『妙法蓮華経並開結』)が完成した。これは、日蓮大聖人がご生涯にわたって所持され、みずから注記を書き込まれた、最重要の法華経をもとに、学会が新しく編纂したものである。その意義は、たいへんに深く、重い。
 ご存じのように、法華経の法師品には「猶多怨嫉。況滅度後(猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや)」(法華経三六二ページ)と説かれている。
 つまり、「釈尊の在世でさえ、怨嫉(うらみ、ねたみ)が多かった。いわんや滅後、なかんずく末法において(法華経を弘める人は)より多くの怨嫉を受け、難にあうのは当然である」と予言されている。
 さらにまた、勧持品には「諸の無智の人の悪口罵詈等し」(法華経四一八ページ)云々と、明確に記されている。
 つまり、釈尊の滅後に、法華経を広宣流布しゆく人は、「三類の強敵」(俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖上慢)による迫害を受ける。すなわち、仏法に無知な人々や、邪知・慢心の坊主、さらにニセ聖者――そうした増上慢の人間から悪口罵詈され、讒言を浴びせられ、権力を使った弾圧を受ける。これが正義の人の証である。
 「三類の強敵」と勇敢に戦わなければ、真の法華経の行者ではない、偽りの信心であると、大聖人は厳しく戒めておられる。
 現代において、権力による大難を受けたのは、牧口初代会長、戸田第二代会長、その直系中の直系の第三代の私である。この三代で、創価学会は、世界一の広宣流布の団体となった。
 仏法を弘めたゆえに、牧口先生は牢獄に入られた。戸田先生も入られた。私も入った。いわれなき中傷、誹謗、迫害を一身に受けた。「三類の強敵」と戦いぬき、大聖人の仰せどおりの実践を、寸分も違わず、不惜身命で貫いてきた。ここに、創価学会の永遠の原点があり、栄光がある。
 真実の日蓮仏法を弘めゆく中心、「広宣流布の柱」は、永遠に「創価の三代」である。
 皆さんは、これを忘れないでいただきたい。未来のために、絶対に正しい軌道をはずれないために、明快に申し残しておきたい。

 

2002.11.14 第二十七回SGI総会、第二十二回本部幹部会

11月3日

第1627回
大事なのは、一人一人の内なる心の進歩である

 

<一人の偉大なる人間革命を!>

 

 新しい前進のために、世界の指導者、哲学者の言葉を贈りたい。
 アメリカのケネディ大統領は述べている。
 「いまや、新しい世代の指導力が、新しい問題、新しい機会に対処する新しい人間が、出現すべき時なのである」(「ケネディの言葉」細野軍治訳、『永遠の言葉とその背景』所収、自由国民社)
 人材で決まる。「人間をつくる」ことが「未来をつくる」ことである。
 ラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリバルは叫んだ。
 「団結、団結、団結こそ、私たちの合言葉でなければなりません」(神代修『シモン・ボリーバル』行路社)
 団結に勝る力はない。
 スイスの思想家ヒルティの洞察は鋭い。
 「本当の人類の進歩というものは決して大がかりに成就するものではなく、個々人においてのみ行なわれるのである」(『希望と幸福』秋山英夫訳、社会思想社)
 大事なのは、一人一人の内なる心の進歩である。そして、一人の偉大なる人間革命が、一家を変え、社会を変え、全人類の宿命転換を必ず成し遂げていくのである。

 広宣流布は即、世界平和である。広宣流布に戦う功徳は、三世にわたって永遠に崩れることはない。
 釈尊は、法華経の「法師功徳品」において、妙法を持つ人は、その功徳として、生命が清浄になることを説いている。
 また日蓮大聖人は、功徳について、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せである。
 功徳の「功」は、悪を滅するとの意義がある。生命の濁りを滅し、清らかな生命を得る――これほど本源的な功徳はない。
 生命の悪、濁りを滅しなければ、本当の幸福はつかめない。だからこそ、悪とは戦わなければならない。
 大聖人は破邪顕正、魔性との対決に、先駆を切って大言論戦を展開された。今、皆さまは、世界の中で、平和と正義の大運動をリードしてくださっている。その尊き青春の労苦のなかから、無限の功徳がわき出ずることは、経文に照らし、御書に照らして絶対に間違いない。

 

2002.9.8 世界平和祈念勤行会

11月3日

第1626回


一騎当千の獅子たれ

 

信念と誠実を貫け

 

 日蓮大聖人は、門下の四条金吾を励まされて、こう仰せである。
 「強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の上下万民、さらには日本国の一切衆生にほめ讃えられなさい」(御書1118ページ、通解)
 「『四条金吾は、主君の御ためにも、仏法の御ためにも、世間に対する心がけも立派であった、立派であった』と鎌倉の人々からほめえられなさい」(御書1173ページ、通解)
 正義だからこそ嫉妬もある。迫害もある。しかし、信念と誠実を貫けば、最後に必ず勝利する。
 いかなる苦難にも断じて負けてはならない。苦難は人間革命のチャンスなのである。
 圧迫されればされるほど、「挑戦」に「応戦」して、それに倍する力を発揮していくことだ。自分自身を、断固として、強くまた強く、賢くまた賢く、鍛え上げていくことだ。何ものにも負けない実力をつけていくことだ。
 「殉教の父」である牧口先生は、「羊千匹より獅子一匹たれ!」と言われた。
 きょう、お集まりの皆さんは、一人も残らず、一騎当千」の獅子に育っていただきたい。自分自身が「一騎当千」の力をつけることは、千倍の広宣流布の拡大に通じていくのである。

 

2002.9.8 世界平和祈念勤行会

10月21日

第1625回
自分らしく自分の歴史を

 

 自分自身に生きぬくことだ。
 今が、どんなに大変であっても、たいしたことはないのだ。自分自身が強くなれば。
 たとえ今、経済的に厳しくても、努力さえ忘れなければ、時がくれば、必要なお金は自然にできるものだ。
 どんな苦しいことも、後になってみれば、全部、夢の中の出来事のようなものである。
 何があっても、生きて生きて生きぬくことだ。自分らしく、自分の歴史を堂々と築くことだ。
 人を恨んだり、焼きもちを焼く必要などない。私たちには、世界最高の御本尊がある。無量の宝を、自在に引き出していけるのである。

 

2002年9月5日 第20回本部幹部会

10月21日

第1624回
大願とは何か?

 

 大聖人は、青年門下に叫ばれた。
 「願わくは、わが弟子たちよ、大願を起こせ」(御書一五六一ページ、通解)
 大願とは何か。人間として、青年として、最も大きな願い――それは「世界平和」ではないだろうか。国境を超え、すべての民衆が幸福になることである。
 一人きりになって、自分を偽り、ただ安逸をむさぼるだけの人生でいいのか。悔いはないか。
 ならば君よ、大願を起こせ! 大いなる希望をもて! 理想をもて!
 大聖人は、「大願とは法華弘通なり」と仰せである。
 平和のため、幸福のために、世界の連帯を築くためには、人間主義しか道はない。広宣流布しか道はないのである。

 

2002年9月5日 第20回本部幹部会

10月19日

第1623回
君よ一人立て、後は必ず続く

 

一人立つ者こそ、真実の勇者であり、本物の指導者


 世界の偉人の箴言を皆さまに贈りたい。偉大なる先哲の言葉は、苦難を越えて、正義に生きゆく光源となるからだ。
 インド創価学会のヒマーチャル・プラデーシュ州の同志が、この地でマハトマ・ガンジーが記した箴言を届けてくださった。
 ガンジーいわく。
 「虚偽は精神を蝕み、真理は滋養となる
 虚偽は精神を腐らせる。人間を不幸にする。真理は精神を豊かにする。人間を幸福にする。
 ゆえに、徹して、虚偽を打ち破り、真理を広めなければならない。
 またガンジーは言う。
 「人が生きた信仰を持つならば、あたかも薔薇が香りを放つように、その芳香は広がっていく
 「生きた信仰」とは、観念でも、号令でもない。行動である。実践である。その人の振る舞いが、信仰そのものなのである。
 さらに、こうも言っている。
 「私は、紙の上の団結のことを言っているのではない。紙に協定を書き出したところで、団結が生まれるわけではない。私が望む団結とは、心の団結であり、私は、いつも、それを祈っている。
 そのような団結が打ち立てられれば、勝利を勝ち取る力を得るであろう」
 どんなに立派な言葉を並べても、それだけでは団結は生まれない。勝利はつかめない。
 心が一つになってこそ団結である。異体同心が真の団結なのである。
 ガンジーは、力強く訴えた。
 「非暴力は、地球上のいかなる権力をもってしても、消し去ることができない、世界の偉大な原理である
 この「非暴力」の思想を広めるために、ガンジーは、一人立った。「勇気ある一人が立てば、世界は変わる」ことを証明していった。
 ガンジーは「たとえ、その集まりの中に、純粋さを持つ人が、たった一人しかいなかったとしても、その人物の純粋さは、他の全員に影響を与えるのである」と語っている。
 大事なのは、一人である。一人が立ち上がれば、二人、二人と後に必ず続いていくものだ。
 一人立つ者こそ、真実の勇者であり、本物の指導者なのである。

 

2002.8.2全国最高協議会

◆10月6日

第1622回
創価学会が進める広宣流布とは

 

<人類の幸福と世界の平和の確立

を目指す民衆運動>
 

 創価学会が進める
 広宣流布は、
 決して宗派の拡大が
 目的ではない。
 法華経の生命尊厳と
 万人尊敬の哲学を基調に、
 人類の幸福と
 世界の平和の確立を目指す
 民衆運動である。
 対話を根幹として、
 人と人とを結び、
 世界市民の「希望の連帯」
 「善の連帯」を築き上げ、
 地球民族の共生の理想を
 実現していく精神闘争に
 ほかならない。

 

 利害による結合は、
 もろく、はかない。
 真の友情は、
 苦難にあうほど深められ、
 強められていくものだ。
 「真実の友情」を
 結ぶことこそ、
 最高の人生の宝である。

 

 ダイヤモンドは
 ダイヤモンドでしか
 磨けないように、
 人間対人間の、
 全人格的な
 打ち合いによってこそ、
 人は自らを鍛え、
 さらなる高みへと
 登攀していけるのだ。

 

 力強い声は、
 皆の心を大きく広げる。
 温かい声は、
 友の心を開かせる。
 久しぶりに会う友には、
 「しばらくでしたね」と、
 こちらから声を掛ける。
 失意の友には
 「祈っています」と
 励ましの声を贈る。
 にこやかに、
 明るい笑顔で語るのだ。
 自信に満ちて、
 正々堂々と対話するのだ。

 

 目の前の一人を
 大事にすることから
 平和は始まる。
 性格や好みが
 合わない人もいるだろう。
 でも自分と違うからこそ、
 学ぶことも多い。
 勇気を出して語らい、
 友情を結ぼうと
 聡明に努力していく。
 ここに、
 人類を一つに結びゆく
 「世界市民」の
 誇り高き一歩がある。

 

2019年10月6日〈池田大作先生 四季の励まし〉 

9月22日

第1621回
今こそ自身を鍛えに鍛えよ

 

<人を頼る心は捨てよ!>

 

 今や創価の舞台は世界である。道は開かれた。あとは青年に一切を託す以外ない。
 今こそ青年は自身を鍛えに鍛えることである。
 振り返ってみれば、草創の青年部は仕事を終えて会合に行くにも、駅から「駆け足」だった。そういう勢いがあった。
 青年は自分を甘やかしてはならない。それは滅びの道だからである。


 人を頼る心は捨てよ。自分たちの力で、信心で立ち上がるしかない。祈って祈って祈りきって、敵も味方も、すべての人を揺り動かして、大いなる民衆の連帯を、新しい広宣流布の旋風を巻き起こしていくことだ。


 「女子部は、一人も残らず、幸福に」――それが恩師の深き心であった。
 女子部が大事である。女子部を育てたい。
 一人の毅然たる女性がいれば、どれだけ周囲に希望の光を送れるか。
 女子部が伸びれば、創価学会が輝く。広布の未来は大きく開いていく。
 女子部の大発展を、皆で祈り、皆で支え、全力で応援していきたい。
 広布の組織には、つねに、フレッシュな「新しい力」「新しい息吹」を吹きこむことだ。
 使命深き、すべての人を、どう生かすか。
 どうしたら、皆が守られ、皆が喜び、いちばん、広宣流布が進んでいくか。
 この一点に全魂を注ぎ、人知れず苦労して、陰の陰で支えていくのが、指導者の責務である。
 力ある人材を大胆に登用し、がっちりと核をつくり、皆が心を一致させて、「異体同心」で進んでいくことだ。
 また、新しい責任を担う人は、これまで以上に動き、語り、力を出し、わが地域を民衆の理想郷の国土に変えていくことだ。
 大聖人は、「心の一法より国土世間も出来する事なり」と仰せである。
 「一念三千」の法理が示すとおり、社会をも変えゆく力が、人間の「一念」にはあるのである。
 ともあれ、人ではない。自分である。みずからの一念と行動こそが″百万言の書″に勝る波動となる。行動した自分自身が、生きがいと喜びと福運を味わっていけるのである。

 

2002.8.2全国最高協議会

9月16日

第1620回

「向上の人」こそ偉大!


 人間の幸福といっても、
 自分の臆病や
 怠惰などの弱さと戦い、
 勝つことから始まる。
 人間革命とは、
 自己自身に
 勝利していくことである。
 大事なことは、
 強盛な信心に励み、
 大功徳を受け、
 生活も豊かになり、
 幸福に満ち満ちた
 悠々たる大境涯に
 なっていくことである。
 そのための
 学会の活動である。

 

 「人と比べる」よりも、
 「きのうの自分」と
 比べてどうか。
 「きのうの自分」より
 「きょうの自分」、
 「きょうの自分」より
 「あすの自分」を見よ――
 そう生き抜く
 「向上の人」こそ、
 偉大なる人生の山を
 登りきれる人である。
 「栄光の旗」は
 「努力の風」にこそ
 悠々と、はためく。

 

 人間革命とは、
 一面からいえば
 「一流の人間」に
 成長することでもある。
 一流の人は、
 「力」とともに
 「人格」も立派だ。
 誠実である。
 何ごとも、
 薄っぺらな策ではなく、
 自分の全人格で
 ぶつかっていくことだ。

 

 「勇気」が
 「慈悲」に通ずる――
 戸田先生の至言である。
 真実を語り、
 正義を叫び抜く。
 折伏の功徳は、
 限りなく大きい。
 自分が得をする。
 相手も得をする。
 そして一家一族へ、
 社会へと、福運は
 幾重にも広がっていく。
 広宣流布のために動こう
 ――その心が功徳を生む。
 対話の秋である。
 にこやかな笑顔で、
 陽気に
 歌を口ずさむように、
 快活に進もう!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉  2019年9月15日

8月17日

第1619回
正義を叫ベ! 悪の傍観者になるな

 

 牧口先生は、正義を貶める悪を厳しく呵責された。
 「嫉妬排擠はいせい(=人をねたみ、陥れること)の様な忌まわしい現象を如何に小さくとも、根本的に駆逐せねば、百の改革も徒労に帰する」(『牧口常三郎全集』6、第三文明社)
 どんな小さな悪も放置するな! 悪の芽を根本から断ち切っていけ! それなくしては、何をやってもむだになる――これが、牧口先生の信念であった。
 また牧口先生は、「仲間の大多数に平和な生活を得しめんが為にはあくまで悪人を排除しなければならぬ」(同全集9)ともつねに言われている。
 悪を見ていながら、自分には関係ないから、関わると損だから――そういう卑しい心で、自分だけ、いい子になって、要領よく立ち回る――こうした卑劣な人間には、絶対になってはいけない。
 傍観主義は敵である。悪を見て見ぬふりをする者は、悪と同じである。
 正義を陥れる、どんな小さな嘘も、絶対に、ほうっておかない。悪意のデマや中傷は、徹底して、破邪顕正の言論で打ち破っていく。そういう青年であってこそ、「善の社会」は守られる。

 

2002.8.2全国最高協議会

8月5日

第1618回
苦難がなければ充実はない。
充実がなければ幸福ではない。

 

<悩みに負けない生命力を>

 
 人生の目的は何か。
 「勝利者」になること、
 「幸福」になることだ。
 では「幸福」とは何か。
 その中身は「充実」である。
 では「充実」とは何か。
 「苦難」と戦うことだ。
 苦難がなければ充実はない。
 充実がなければ幸福ではない。
 何の苦労もない幸福など、
 どこにもない。

 

 信心したからといって、
 悩みの「汚泥」が
 なくなるわけではない。
 「悩みに負けない生命力」が出る
 ということだ。
 むしろ、
 悩みをいっぱいもっていくことだ。
 それらの悩みに
 どれだけ挑戦できるかを
 楽しみにできるような
 境涯になることである。

 

 大いなる境涯の人は幸福である。
 広々とした心で、
 毎日を生きぬいていける。
 強き境涯の人は幸せである。
 苦しみにも負けることなく、
 悠々と一生を楽しんでいける。
 清らかな境涯の人は幸せである。
 その人のまわりには、
 常に爽やかな喜びが広がっていく。

 

 希望に満ちて、
 自己の課題に
 挑戦している人は強い。
 どんな困難に直面しても、
 希望を失わないことだ。
 希望の火が消えない限り、
 やがて、いかなる闇をも
 燃やし尽くすことができる。
 いのちある限り、希望はあり、
 希望ある限り、道は開ける。
 その強靱な
 “希望の一念”を育む根源の力が、
 信仰なのである。
 信仰こそ“永遠の希望”である。

 

池田大作先生 四季の励まし  2019年8月4日

8月5日

 第1617回
指導者の真価

 

<民衆のために、どれだけ尽くしたか>

 

 指導者の真価は、どこにあるか。
 人気ではない。格好でもない。「民衆のために、どれだけ尽くしたか」。その信念と行動で決まる。
 指導者は、哲学をもつべきである。人類を幸福にし、平和の方向に向けていく、正しい哲学がなければならない。
 われらは妙法という人間主義の大哲学をもっている。それを実行し、広めている。世界最高の指導者の存在なのである。
 ユゴーは喝破した。
 「総ての偉人は諸君以上に侮辱されて居る」(「追放」神津道一訳、『ユーゴー全集』9所収、ユーゴー全集刊行会)
 しかし――正義なればこそ断じて勝て! われらの最後の勝利を見よ! これが巌窟王の精神である。
10  勝利は、必死の祈りから始まる。師弟不二の誓いから始まる。
 「荘厳にして偉大なる仏の軍勢である創価学会を、未来永遠に守り、発展させていこう」
 「どこまでも、広宣流布のために!」
 この心で、リーダーは前進することだ。
 一家の太陽は母親である。創価学会の太陽は婦人部である。
 友に勇気を送り、社会に希望を広げる「偉大なる光」は女性である。
 男性の幹部は、婦人部の皆さまを徹して大事にしていただきたい。
戸田先生は、大難の獄中で、「我、地涌の菩薩なり!」と覚知された。その体験を通し、こう語られた。
 「心の底から人生に惑わず、真の天命を知った姿こそ、人間革命の真髄である」(『戸田城聖全集』1)
 「真の天命」。それは広宣流布である。私たちの信心の究極の目的である。
 戸田先生は、「青年ならば、この天命に生きぬけ!」と叱咤された。
 すなわち、「真に国家を憂い、民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すべきではなかろうか」(同前)と叫ばれたのである。
 広宣流布に進めば、三類の強敵、三障四魔が競い起こるのは当たり前である。そのときこそ、青年は、わが正義を叫ぶべきである。堂々と師子吼すべきである。
 「勇猛精進」こそ、学会青年部の魂でなければならない。

 

2002.8.2全国最高協議会

7月21日

 第1616回
 “私は勝った”と誇れる歴史を

 
 全国の同志が、
 日夜、広布のために、
 懸命に戦ってくださっている。
 仕事や家庭など大変ななか、
 本当に、頑張ってくださっている。
 その功徳は絶大である。
 自己の宿命転換が
 できるだけでなく、
 一家、一族が
 大福徳で包まれていくことは
 間違いない。
 
 全人類を幸福に――
 それが我らの祈りである。
 そのために力を尽くしている。
 しかし、それは、
 一足飛びにはできない。
 自分自身が幸福になり、
 縁した人々をも幸福にしていく。
 この積み重ねのなかに、
 世界平和の大道が開ける。
 
 広宣流布とは「声の戦い」である。
 いかなる悪口罵詈があろうが、
 三類の強敵の迫害があろうが、
 臆病になって、
 沈黙しては絶対にならない。
 正義が勝つか、讒言が増長するか。
 真実が勝つか、デマが蔓延するか。
 広宣流布は、
 言論戦そのものである。
 
 正義の前進が勢いを増せば、
 反動の魔も、当然、競い起こる。
 ゆえに、一日一日、
 一瞬一瞬に勝負がある。
 「今」を勝つことが、
 一切の勝利の出発点である。
 自分の心に噓はつけない。
 今いる場所で
 「本当にやりきった!」と
 誇れる勝利を飾るのだ。
 その気概で挑戦を続ける人こそが、
 本当の勇者である。
 わが親愛なる友よ!
 民衆勝利の凱歌を、
 日本全土に、世界の隅々に
 轟かせようではないか!

 

2019年7月20日 〈池田大作先生 四季の励まし〉

7月14日

第1615回
信心がなければ、
仏の生命は湧現しない

 

最後に勝つのが真の勝利者

 

 妙法は宇宙の根本法則である。永遠の幸福と平和の軌道である。
 その妙法の具現化が御本尊である。
 日蓮大聖人は、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(1244頁)と仰せである。
 外にあるのではない。特別な場所にあるのでもない。「信心」の二字にある。信心がなければ、仏の生命は湧現しない。妙法を信じ、唱え、広宣流布しゆく皆さまの胸中に御本尊はおわします。
 「全宇宙の宝」が集まっているのである。
 皆さまは願って、この地球に生まれてきた。人類が望んだ平和を実現するのは皆さましかいない。
 人生は劇である。波瀾万丈を越え、最後に勝つのが真の勝利者である。
 偉大なる妙法に生きぬき、苦労を喜びに変え、悩みを成長への糧にしながら、深き使命の人生を晴ればれと生きぬいていただきたい。

 

2002.7.27海外代表協議会

7月12日

第1614回

「日本人さえよければ」のエゴを捨てよ!

 

<「日本があって、世界がある」のではない。

「世界があって、日本がある」。>

 

世界全体を平和にするために、

働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいてこそ!

 

 池田 こんなに情報は豊かに見えるが、日本にいると「世界の現実が見えなくなる」傾向がある。
 ―― はい。マスコミの情報も、偏っていますから。
 池田 今(2000年当時)も、インドネシアでは、東部の島で、死者三千人を超す宗教対立が起こっている。避難している人は四十万人にも、のぼっている。国際的な援助を求める声も高まっている。しかし、日本では、あまり伝えられていない。(=インドネシア・マルク諸島でのイスラム教とキリスト教の対立。2002年2月に和平協定が合意された)
 昔も、日本人の多くは、韓・朝鮮半島の人たちが、日本の圧制下で、どれほどひどい目にあっているか、わかっていなかった。「知らされていなかった」とも言えるし、「知ろうとしなかった」とも言える。
 しかし、「日本のことしか考えない」……じつは、そこに「戦争の根っこ」があるのです。″日本だけ″なんて世界はない。「日本があって、世界がある」のではない。「世界があって、日本がある」。日本が大事なように、世界も、もっともっと大事です。
 「日本だけよければ」「日本人だけよければ」という利己主義は、捨てなければならない。それが二十一世紀です。世界全体を平和にするために、働いて、働いて、尽くして、尽くしぬいて、そうしてこそ、初めて日本が、日本人が、世界から感謝される。尊敬される。そのとき、初めて日本が本当に「平和」になるのです。「平和の心」が、美しく光る国になるのです。

希望対話 296頁

7月7日

第1613回
”青年”

<新しき時代を、新しき挑戦によって開け!>

 

 師弟の月・7月!
 青年の月・7月!
 それは、青年部が
 “創価三代”の精神を継ぎ、
 人類の宿命転換の戦いに
 挑みゆく月である。
 民衆の勝利の大旗を、
 威風も堂々と
 打ち立てゆく月なのだ。

 

 歴史を創るのは人間だ。
 その主役は君自身、あなた自身だ。
 人を頼むな。
 君が、あなたが、
 痛快な創造のドラマを演ずるのだ。
 猛然と立ち上がれ!
 自身の殻を打ち破れ!
 新しき時代は、
 新しき挑戦によって開かれる。

 

 「戦いを起こす」――
 この一点に、
 日蓮仏法の精髄が脈動している。
 戦いがあるから、
 人は自己の建設と、
 境涯を開くことができる。
 戦いがなければ、
 よどんだ水が腐るように、
 自分で自分の成長を止めてしまう。
 ゆえに、どこまでも、月々日々、
 汝自身の戦いを起こし続けよ!

 

 はつらつと戦えば、
 いつも若々しい。
 生命が鍛えられ、強くなる。
 そして、強い人は、
 いっさいを善知識とし、
 勝利と成長の糧にしていける。
 わが人生を深く味わい、
 感謝していける。

 

 大いなる目標に向かう途上には、
 必ず大いなる壁が立ちはだかる。
 たとえ失敗したとしても、
 嘆かず、恐れず、また挑めばよい。
 昨日より今日、
 今日から明日へと、
 たゆみなく前へ前へ
 朗らかに進み続ける――
 その人こそが青年なのだ。

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉 2019年7月7日

7月7日

第1612回
弟子の使命

 

<師の心を現実社会に実現して行くこと>

 

 また韓国SGIは、いよいよ11月には、地上13階、地下五階建ての堂々たる新本部が完成する予定である。おめでとう!(=新本部は2003年4月に完成。開館式には池田SGI会長がメッセージを寄せた)
 これまで私は、「韓日友好」を願い、国立済州チェジュ大学の前総長である趙文富チョウー・ムンブ博士と対談を続けてきた。その対談集も、本年、発刊されることになっている。韓国の方との対談集は、これが初めてである。(=対談集は『希望の世紀へ 宝の架け橋――韓日の万代友好を求めて』とのタイトルで2002年11月に徳間書店から発刊された。その後、2冊目の対談集が『文化と人間の宝の橋――韓日の万代友好のために』と題し、03年9月より04年7月まで教育月刊誌「灯台」誌上で連載され、『人間と文化の虹の架け橋』として05年3月に徳間書店から発刊された。両書は、『池田大作全集』第112巻に収録

 趙博士は、韓国の模範の教育者として尊敬される指導者である。今回の来日中、こう語ってくださった。
 「池田先生は、韓国のことを一貫して『文化大恩の国』と讃えてくださいました。だからこそ、日本人のみならず、韓国人も、相手の国の人に感謝できる『価値創造の人間』へ成長する方途に、気づくことができたのです。
 また池田先生は、日本人であるとか、韓国人であるとかに関係なく、全人類が、そのような価値創造の人間になることを切に願っておられる。これが私の結論となったのです
 ご寛大な、深い理解に感謝を申し上げたい。また博士は、真剣な面もちで語られていた。
 「池田先生のお弟子さんたちも、まだまだ池田先生の理想と思想に対する、本当の意味での理解が足りません。私たちは、池田先生から学び、そのことを現実社会で実現していく使命があるはずです。ところが、私たちは、先生についていくことさえできないでいるのです
 韓国の大教育者の言であり、ありのままに紹介させていただいた。

 

2002.7.25第十九回本部幹部会、第二回信越総会 文化大恩の国

7月1日

第1611回
「人間対人間」のつながりを、

どうつくるか。
ここに発展のカギがある。

 

<「一対一の膝づめの対話」>

 

 仏法のリーダーは、ともかく「人に会うこと」である。とくに、新しく入会された方々に、どんどん会っていただきたい。人間と人間の出会いのなかにこそ、仏法は脈動するからである。
 御書にも、「直接、会うこと」の大切さが種々、示されている。
 「人間対人間」のつながりを、どうつくるか。ここに発展のカギがある。あらゆる国家も、企業も、団体も、この一点に注目して、今、しのぎを削っている。
 それには「会う」以外にない。会ってこそ、人はつながる。心は結ばれる。人材も育っていく。
 学会は、一対一の膝づめで対話してきたからこそ、今日の世界的な発展がある。これが鉄則である。
 観念論や空想論ではない。戸田先生ご自身が、徹して会員と会われた。一人の人と会い、心から励まし、ともに広宣流布に進んでいく。その行動のなかにしか、創価の魂はないのである。
 わざわざ会いに来てくれれば、人は「自分を認めてくれた」と思う。「会えてうれしい」「あの人と一緒にがんばろう」となるものである。
 また、会合が終わっても、「一人で、さっさと帰る」のではなく(笑い)、帰る道々、後輩の話を聞いてあげることだ。会合で話せないことでも、一対一になれば話せることもあるだろう。
 一緒に語り、一緒に動くのが学会の根本精神である。策でも、方法でもない。
 いわんや青年部は、決して偉ぶってはいけない。真心こめて、後輩を大切にしていくことである。友に尽くしていくことである。
 仕事や家事で忙しい時もある。それでもなお、やりくりして、時間をつくって会っていく。それが慈悲である。仏の振る舞いに通ずる。これしか道はない。
 「人間対人間」のつながりが仏法の組織であり、広宣流布の組織なのである。それを失ったなら、組織は″お役所仕事″になってしまう。もはや仏法ではなくなってしまう。

 

2002.8.2 全国最高協議会

 

6月22日

第1610回

牧口先生、

獄中の崇高なる最期