凡夫即極

2016年1月7日

凡夫が本仏、仏は迹仏(働き)

 

<人間のための宗教>

 

凡夫があって仏がある

 

 「凡夫こそが仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 『
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(御書1358頁)
 『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(御書1359頁)
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、じつは凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない──こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。

 

法華経の智慧 如来神力品 第二十一章

2015年8月12日

凡夫即極(完)

 

<庶民が強くなるとは、どういうことか? 

それは、わが創価学会が強くなることである>

 
 戸田先生の事業の苦境を打開し、恩師をお護りするために、私は進学も断念しました。
 ある日ある時、大学生たちとの懇談のあと、先生は、私に言われました。
 「君も、悠々と大学へ行きたいだろうな。君の予定を全部わしが壊してしまった」
 私は即座にお答えしました。
 「とんでもありません。私は先生の側で働いているだけで最大に幸せです」
 私は栄えある「戸田大学」の卒業生です。師弟こそ「人間の大学」です。正しく強い人に学ぶことが、正しく強くなる直道です。
 学会は、人間として最高の力をつける全人格の総合大学です。全民衆に開かれた、学びの広場です。この“民衆学会”を、今や世界の知性が尊敬し、讃嘆する時代に入りました。
 私は世界からの二百五十に及ぶ名誉学術称号も、すべて「戸田大学」の卒業生として、そして庶民の代表として、拝受しております。
 諸法実相です。戸田先生の愛(まな)弟子は勝ちました。そして、この大福徳は、私とともに戦ってくださっている幾百万の尊き庶民の皆様に、子々孫々までも及んでいくことは間違いありません。これらは、光り輝く「信行学の勝利」であり、「庶民の栄光」の証しなのです。
 この人類の希望である創価の民衆城を守り、栄えさせるために、強靭な知性と人格をもつ一級の指導者を輩出しなくてはならない。
 学問を重ね、学歴がある人は、その分、正義のため、同志のために力を出しきっていくのが当然です。
 仏法は「賢人」にならなければいけない。「才能ある畜生」になってはならない。学歴を鼻にかけるような空気は、いささかも許してはならない。
 戸田先生は遺言されました。
 「学会のおかげで偉くなり、皆に守られながら、いい気になり、増上慢になって弓を引く恩知らずは厳然と追い出せ
 そもそも大学は、大学に行けなかった人々に尽くすためにこそあります。
 “庶民が庶民を守る”ために、多くの俊英たちが「民衆のための学問」を身につけてもらいたい。友の幸福と社会の繁栄のために、各界へ勇んで躍り出てもらいたい。
 進学も、そうした本物のリーダーに育つための挑戦です。(中略)
 大詩人ホイットマンは、高らかに歌っている。
 「おお! 様々な状況のもと、いかなる人生の天候のもとにあっても、決して挫折することなく、脇目もふらず道を歩む、かけがえのない民衆。彼ら以上に大切で尊く、そして必要とされる人々はいないだろう」
 庶民こそ人間の王者であり、幸福と平和の博士です。
 戸田先生は厳として師子吼されました。
 「庶民が強くなるとは、どういうことか? それは、わが創価学会が強くなることである!」
 仏法の人間学・生命学を、わが敬する同志の皆様が晴れ晴れと語りながら、「師弟の宝光」に包まれた人間勝利の大道を、胸を張って歩んでいかれることを念願してやみません。

 

御書と師弟(2009.1.22聖教)

2015年8月11日

凡夫即極(4)

 

<虚栄は師弟を破滅する>

 
 大聖人の弟子の三位房は、師の慈愛と期待に包まれて、比叡山に遊学させていただいた。しかし、名聞名利の心が強い三位房は、師の深い御本意がわからなかった。京の都に上って、公家の面前で説法したことを、得意満面で、名前まで貴族風に変えて報告してきたのです。
 大聖人は烈火のごとく三位房を叱咤されています。
 『おまえは、師匠の日蓮を卑しんで、このようなことを書いてきたのか』(御書1268頁、趣意)――。
 “見栄を張る人間は、必ず天魔がついて狂ってしまうのだ”“言葉も田舎なまりのままでよいのだ”“自分を見失い権威に媚びるさまは、まるでネズミがコウモリになったようで、どっちつかずの姿ではないか”と烈々と誡めておられます。
 師弟の正道を全うさせゆかんとする、厳愛の指導であられました。
 かつて、最澄(伝教大師)は他宗の者たちから『最澄未だ唐都を見ず』(同237頁)と誹謗された歴史があります。
 “最澄は、唐の都に留学していない”――名門の教えを受けていないではないか、というのです。今でいう学歴主義に通じる傲慢にして卑劣な中傷です。
 大聖人は『万里をわた(渡)て宋(=中国)に入らずとも』『一代の勝劣はこれをしれるなるべし』(同222頁)――留学などしなくとも、仏法の正邪を明確に学び究めることができるのだ、と悠然と仰せです。
 信心の世界には、信心の道があります。信心の志の深い人こそが尊い。学歴で重用したり、学歴がないから軽視したりするようになってしまえば、もはや信心ではない。仏法ではない。学会ではない。恐いのは虚栄です。増上慢です。
 『ただ心こそ大切なれ』(御書1192頁)です。坊主でもなければ、権力者でもない。ただただ広宣流布のため、正義のためにと、ひたぶるに信心に励む庶民こそ「無作三身」「凡夫即極」の仏様です。これが日蓮仏法の極意です。そして創価学会の永遠不滅の大精神です。
 庶民の方々が、傲慢不遜な人間たちからの嘲笑を跳ね返しながら、悩める友のために、真剣に祈り、励ましてこられた。
 「貧乏人と病人の集まり」と悪口されることも誉れとし、庶民の真実の味方となって創り上げた、平等と尊敬の人間共和の世界――これが創価学会です。
 したがって、大学を出ていないからなどと、卑下するようなことは絶対にあってはなりません。青年は「実力」です。「虚飾」ではない。「実力」で勝つことです。「智慧」と「人格」で光ることです。
 人の何倍も苦労し、実力で道を開いてきたリーダーであればこそ、多くの庶民が心から共感し、信頼するのです。
 『法自ら弘まらず・法を弘むる故に人法ともに尊し』(同856頁)です。信心に励む人、令法久住に尽くす人こそ、大聖人は何よりも大事にされている。御書は、厳正にして公平です。人間性の真髄を説かれた御金言です。
(つづく)

2015年8月10日

凡夫即極(3)

 

<庶民を尊敬する人間哲学>

 
 こうした「諸法実相」の法門を究めるならば、庶民を尊敬する人間哲学に帰着する。これが「凡夫即極」の人間学です。
 私もこの精神を胸に、庶民の一人として、庶民とともに、徹して庶民のために、戦い抜いてきました。
 戸田先生は「本物の人間でなければ広宣流布はできない」と言われました。格好ではない。妙法を弘めるために行動し、広宣流布のために苦労して戦い、民衆の幸福のために貢献している人こそ、人間として最も高貴である。どんな大学者も、どんな大権力者も絶対に敵わない。
 学歴も肩書もない、無名にして尊極な庶民が築いてきたからこそ、学会は崇高なのです。
 インドの詩聖タゴールは、「人間の歴史は 虐げられた者の勝利を忍耐づよく待っている」(山室静訳)と歌った。
 最もいじめられ、苦しんできた庶民が強くなり、勝ち栄え、人間尊厳の社会を創っていく。その新時代に入ったのです。
 日蓮大聖人は、「民の子」であると言い切っておられた。
 『日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子』(御書1332頁)、『日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり』(同883頁)等と仰せです。
 日蓮仏法は、貴族仏教ではない。どこまでも民衆仏教です。
 牧口先生は、ご自身を「素と之れ荒浜の一寒民」と言われた。戸田先生も「私も北海道の貧乏な漁師の忰だよ」「それを何よりも誇りとしているのだ」とおっしゃっていました。
 私も、大田の貧しい海苔屋の息子です。庶民であることを誉れとする心こそ、創価の三代を貫く精神なのです。
(つづく)

2015年8月5日

凡夫即極(2)

 

<人間が人間として、最も人間らしく光り輝く>

 
 ここでいう凡夫とは、大聖人御自身の御事です。大聖人は、一人の凡夫として一身に大難を受けられながら、法華経の経文を身で読まれ、仏の金言が真実であることを証明されました。
 大聖人の御生涯そのものが、「凡夫即極」を示された宗教革命の偉大な勝利劇であられたのです。
 そして、この大聖人に連なって立ち上がり、妙法を唱え弘める門下もまた「凡夫即極」の実践者となることは、御聖訓に照らして絶対に間違いありません。
 本来、仏教は「人間釈尊」から出発した教えであった。それがいつしか、色相荘厳の仏とされ、それを聖職者らが自分たちの権威づけに利用し、民衆と隔絶してしまった。この仏教の歴史を大転換したのが、大聖人の「凡夫即極」の法門です。
 仏に照らされて衆生が輝くのではない。むしろ凡夫こそが、仏を仏たらしめている″主役″なのだ――このように「仏と凡夫」の考え方を逆転させたのです。
 その裏づけとなるのが「諸法実相」という甚深の法理です。
 本抄の冒頭では、「諸法」(あらゆる存在・現象)はことごとく「実相」(真実の姿)であるとして、一切の現象は「一法ものこさず妙法蓮華経のすがた」であると説かれています。
 宇宙の森羅万象、ありとあらゆる事象が「妙法」の現れである――。ゆえに、その実相である「妙法」そのものを唱え弘めゆく凡夫こそ、最極の法に生きる尊貴な仏なのであります。
 大聖人は本抄で、凡夫こそ「本仏」であると力強く仰せです。凡夫は妙法の当体(体の仏)だからです
 これに対し、経典に説かれるさまざまな仏は、すべて妙法の働きを示した姿(用の仏)であり、「迹仏」(仮の仏)にすぎないとされています。


 万人に仏の生命が


 大宇宙の普遍の法である妙法蓮華経という仏の大生命は、万人の中に実在します。このことに気づき、強い信心で、自らの生命を開き顕していけるかどうか。「仏」と「凡夫」の違いといっても、結局は、ただこの一点だけなのです。
 戸田先生は言われました。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」
 人間は、人間以上に偉くはなれない。人間以上の特別な存在になる必要もない。人間が人間として、最も人間らしく光り輝いていく。これが一番、大事なことではないでしょうか。
(つづく)

2015年8月4日

凡夫即極(1)

 

<「庶民こそ偉大!」の大宣言>

 
 御聖訓『釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(諸法実相抄、1358頁)


 もう四十年ほど前でしょうか。ある著名な評論家と会った折のことです。先方からは延々と自己紹介がありました。名門の家柄であること、有名大学の出身であること......。
 私は一言だけ申し上げました。
 「私は戸田城聖先生の直弟子です。これが最高の誇りです

 日蓮仏法は、全民衆を照らす「太陽の仏法」です。
 創価学会は、この大仏法を広宣流布しゆく「民衆の教団」です。庶民を守り、庶民を励まし、庶民の底力を引き出して、大きく社会を変えてきました。民衆の力ほど強いものはありません
 今、大変な経済危機にある社会も、庶民を最大に励まし、心を奮い立たせることによって、必ず未来への活路を開くことができる
 政治にせよ、経済にせよ、指導者たちが、庶民への「感謝」と「献身」に徹していけば、社会は必ず良くなります。
 反対に、庶民の力を生かせない社会は必ず行き詰まります。「地位」や「学歴」を鼻にかけて、庶民を見下し、利用し、犠牲にするようであれば、社会の闇は深まるばかりでしょう。
 日蓮大聖人の仏法は、こうした傲慢と虚栄と差別の風潮を真っ向から諌め正す「人間主義」「民衆主義」の大哲学です。
 今回、拝読する「諸法実相抄」の御文は、凡夫こそ最も尊い仏であるという「凡夫即極」の哲理を示された重要な御聖訓です。
 『釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(諸法実相抄、1358頁)
 釈迦仏が我ら衆生を成仏に導くために主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではない。反対に、仏に三徳を被らせているのは凡夫である──。仏の偉大な徳も、凡夫がいればこそ輝くのだ、との仰せです。
 すごい御金言です。「権威のための宗教」を「人間のための宗教」に一大転換させた、人類史に燦たる人間主義の大師子吼です
(つづく) 

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