勇猛精進

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2022年1月7日

第1854回

永遠に前進!永遠に革命!

 

 戸田先生のご指導を拝したい。

 「大宇宙の法則に合致して、明るい自由な新天地を、そして人生行路を、自信と希望に燃えて乱舞していけ!

 「ともに、『本当の戦いは、これからだ!』と起ち上がり、敢然と突き進もう!

 最後の最後まで、前へ、前へと、すさまじい気迫で戦いぬいた戸田先生であられた。

 先生は、あるとき、こう叫ばれた。

 「私は進むぞ! 君も進め! 永遠に前へ!

 この呼びかけにお応えして、私はつねに、「永遠に前進!」の気概で戦い続けている。

 思えば、中国の周恩来総理は、「永遠に革命」の精神で生きぬかれた人物であった。

 私が、お会いしたとき、総理のお体は、すでに重い病に侵されていた。(=1974年12月5日に会見。1976年1月に逝去)

 しかし、″愛する民を必ず幸福にしてみせる! 発展の軌道を厳然と敷いておく!″との烈々たる気迫が、全身から発せられていた。

 その眼光は鋭かった。ぴんと張りつめた精神で、国家のあらゆる分野に目を配り、指揮を執っておられた。ほんの少しでも気をぬけば、一瞬にして崩壊が始まってしまうことを、周総理は、深く知悉しておられた。まさしく、「永遠に革命」の精神を体現しておられた。

 私もまた、この気迫で進んできた。責任あるリーダーの皆さんも、同じ精神でなければならない。そうでなければ、会員の皆さまがかわいそうである。

2006年1月2日 第二総東京最高協議

2021年11月8日

第1776回

第三代会長の大生命力

 

<勇猛精進>

 

 山本伸一の行動は、日を追うごとに激しさを増していった。

 甲信、北陸方面への旅では、宿舎に帰っても、決裁を要する膨大な書類の山が待っていたし、打ち合わせは、しばしば深夜にまで及んだ。しかも、移動の車中も、彼は個人指導の時間にあてていた。しかし、そのなかで、伸一は、ますます活力をみなぎらせ、日々、元気になっていくのである。

 その動きに目を見張り、舌を巻いたのは、側近の幹部たちであった。ことに海外指導に同行した幹部は、彼が病魔と闘い、死力を振り絞るようにして指導を続けた様子を、目の当たりにしてきた。その後のスケジュールを考えれば、伸一の疲労の度は、さらに増しているはずである。それだけに不思議でならなかった。

 伸一が甲信、北陸の指導から戻った翌日、首脳幹部と打ち合わせを行った折、幹部の一人が思いきって尋ねた。

 「私は、海外での先生の激闘に驚嘆しておりましたが、帰国後の動きは、それをはるかに超えています。そして、動くにつれて、お疲れを見せるどころか、お元気になられる。先生のその力は、いったいどこから出るのでしょうか

 伸一は笑みを浮かべて答えた。

 「私は十年余にわたって戸田先生のもとで仕えた。それはそれは、激しい戦いの歳月だった。緊張の連続だった。弱い体と闘いながら、そのうえに、先生の事業のいっさいの責任を担ってきたそのなかで私は、精神的にも、肉体的にも、すっかり訓練されてしまった。それが生命力というものだよ。

 大切なのは、自身の責任と使命の自覚だ。そして、その一念が唱題となって御本尊に結びつく時、泉のようにこんこんと生命力がわくだから私は、飛行機や自動車のなかでも、いつも、お題目を唱えようとしているんです

 「はあ……」

 頼りない返事である。伸一は、さらに言葉をついだ。

 「また、生命力というのは、ただ体力のことだけをいうのではない。知恵も含まれるものだ。だから、肝心なことを忘れてしまったり、大事なところで失敗したりすることはない。いざという時に力が出せなかったり、しくじってしまうのは、真剣でないからだ。自分が全部やるのだと思ったら、ポイントを外すわけがないではないか

 幹部にとっては、耳の痛い話でもあった。

 同じことをするにも、喜び勇んで行うのと、義務感でいやいやながらやるのとでは、結果は大きく異なってくる。

 仏道修行の要諦は〝勇猛精進〟にある。「依義判文抄」には「敢んで為すを勇と言い、智を竭すを猛と言う」との釈が引かれている。勇んで挑戦するところに生命の躍動があり、知恵も生まれる。そこには、歓喜があり、さわやかな充実感と希望がみなぎる。決して暗い疲労はない。

 山本伸一は、皆の顔を見ながら言った。

 「私はこれから、ますます元気になっていく! みんなついてこられるかい?

 「はい!」

 一斉に決意のこもった声が返ってきた。

 「よし、勇んで戦うよ」

 皆、緊張した顔を伸一に向けた。

 「そんなに堅苦しい顔をし、しゃちこ張らなくてもいいんだよ。真剣ななかにも、心のゆとりが必要だ。それもまた生命力なんだ

 こう言うと、伸一は傍らにあった新聞紙の包みを、テーブルの上に置いた。

 「これは折鶴蘭なんだけど、ずいぶん増えてしまったので、みんなに分けようと思って持ってきたんだ。百八十円で買ったものなんだけどね」

 伸一が新聞紙を開くと、婦人部長の清原が言った。「かわいいですね!」

 「どんなに忙しくても、花を愛し、生命の神秘に感嘆し、自然の美しさに心和ませる精神の余裕を忘れてはいけない。また、音楽を聴き、文学に親しみ、詩や俳句を詠むぐらいのゆとりが必要だ

 ただ忙しいばかりでは、学会は殺伐としたものになってしまう。『忙しい』の『忙』の字は、『心』を意味するリッシンベンに『亡ぶ』と書くじゃないか。心が亡んでしまっては、文化なんて育ちはしないよ」

 忙中閑あり」である。動中にも静はある。何ごとにも〝めりはり〟が必要であり、リズム、切り替えが大切だ。それによって心も一新され、新たな活力も生まれてこよう。いかに一生懸命であっても、伸びきったゴムのようになってしまえば、価値の創造はない。仏法は即生活法である。

 伸一が激しいスケジュールのなかで、日々活力を増していった一つの源泉は、この「動」と「静」の緩急自在な躍動のリズムを体得していたことにあった。そして、何よりも、勇んで広宣流布の天地を走り舞う、〝勇舞〟の気概にあったのである。

 

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 242頁~246頁

2019年12月1日

第1633回
執念をもって戦いぬいたほうが勝つ

 

 法華経には「猶多怨嫉」「悪口罵詈」とある。迫害は法華経の行者の証明である。
 しかし、それは悪意の中傷を放置するということでは決してない。「一つの暴論」には「十の正論」で徹底して反撃し、完全に打ち破るまで戦うのは当然である。
 フランスの文豪エミール・ゾラは叫んだ。
 「沈黙は共犯に等しいから、どしどし発言せねば」ならない。(稲葉三千男『ドレフェス事件とエミール・ゾラ』創風社)
 また、「真実は前進し、何ものも止めることはできはしない。悪意の妨害がもろもろあったにしても、厳密に決められたとおりの歩調で、一歩一歩前進していく。真実には、あらゆる障害を乗り越える力が内在している」(同前)
 イギリスの宰相チャーチルは、ナテスとの激闘の渦中にあって、「正義の戦いの完全勝利を獲得するには、時期をを逃してはなりません」(前掲''THE WAR SPEECHES'' vol.3)と母たちに設りかけた。
 そのとおりである。時を逸してはならない。勝った時こそ、次の勝利の因をつくることだ。
 戦いは、執念をもって戦いぬいたほうが勝つ。
12  日蓮大聖人は、暴悪の権力者・平左衛門尉に対して言われた。
 「(日蓮が)仏法を知り、国を思う志は、最も賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しく大忠を懐いていても、いまだその望みのわずかさえも成就することができないでいる」(御書183㌻、通解)
 今、私たちは、大聖人が悲願とされた「立正安国」の大理想を、世界への平和・文化・教育の運動として実現してきた。
 仏意仏勅のSGIに世界から寄せられている賞讃を、大聖人は、いかばかりお喜びであろうか。
 末法は悪世であり、三類の強敵もいる。広宣流布の戦いは激しく「今に至るまで軍やむ事なし」と大聖人は仰せである。仏法は勝負である。断じて、戦いまくり、勝ちまくっていかねばならない。
 広布に戦えば、生命は健康になる。法のため、同志のために行動した人は、生死を超えて、無上の「心の宝」を積んでいけるのだ。
 御聖訓に仰せである。
 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
 来年も、希望に燃えて、勇敢に、そして、仲良く愉快に、断じて勝ち進みましょう!

2019年9月16日

第1620回

「向上の人」こそ偉大!


 人間の幸福といっても、
 自分の臆病や
 怠惰などの弱さと戦い、
 勝つことから始まる。
 人間革命とは、
 自己自身に
 勝利していくことである。
 大事なことは、
 強盛な信心に励み、
 大功徳を受け、
 生活も豊かになり、
 幸福に満ち満ちた
 悠々たる大境涯に
 なっていくことである。
 そのための
 学会の活動である。

 

 「人と比べる」よりも、
 「きのうの自分」と
 比べてどうか。
 「きのうの自分」より
 「きょうの自分」、
 「きょうの自分」より
 「あすの自分」を見よ――
 そう生き抜く
 「向上の人」こそ、
 偉大なる人生の山を
 登りきれる人である。
 「栄光の旗」は
 「努力の風」にこそ
 悠々と、はためく。

 

 人間革命とは、
 一面からいえば
 「一流の人間」に
 成長することでもある。
 一流の人は、
 「力」とともに
 「人格」も立派だ。
 誠実である。
 何ごとも、
 薄っぺらな策ではなく、
 自分の全人格で
 ぶつかっていくことだ。

 

 「勇気」が
 「慈悲」に通ずる――
 戸田先生の至言である。
 真実を語り、
 正義を叫び抜く。
 折伏の功徳は、
 限りなく大きい。
 自分が得をする。
 相手も得をする。
 そして一家一族へ、
 社会へと、福運は
 幾重にも広がっていく。
 広宣流布のために動こう
 ――その心が功徳を生む。
 対話の秋である。
 にこやかな笑顔で、
 陽気に
 歌を口ずさむように、
 快活に進もう!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉  2019年9月15日

2019年5月19日

第1607回
どこまでも勇猛精進の前進を!


ともあれ、折伏が止まれば、学会の前進はない。広宣流布は、後退してしまう。「進まざるは退転」であるからだ。
「勇猛精進」の信心こそ、創価学会の伝統精神である。
日寛上人は、「勇猛精進」について、「依義判文抄」の中で、釈を引いて、大要、次のように述べておられる。
「勇」とは、「勇んで行動すること」。
すなわち、状況がどうであろうが、「さあ頑張ろう!」「さあ前進しよう!」と勇んで立ち向かっていくことだ。
「猛」とは、「智慧の限りを尽くすこと」。
「どうすれば、あの人を納得させられるのか」「どうすれば、あの人を救っていけるのか」――そう祈りに祈り、最高の智慧を発揮していくのが「猛」である。
「精」とは、「一点の混じり気もないこと」。
「精米」(米から皮や胚などを取り除くこと)の「精」である。私たちの実践にあてはめれば、心に一点の曇りもなく、「よし、題目を唱えよう!」「よし、仏法対話をしよう!」と、まっすぐに幸福の大道を進んでいる姿ともいえるであろうか。
最後に「進」とは、「間断なく前進すること」。
「たえまなく」――簡単なようで、これがいちばんむずかしい。ここに大聖人の仏法の実践がある。
牧口先生は、ある青年に言われた。
「勇猛精進し給え! 仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」
どこまでも、偉大な先生であられた。強い先生であられた。
第一にも「勇猛精進」である。
第二にも「勇猛精進」である。
この六月、私たちは、ともに生き生きと、若々しく、そして、はつらつと、大きく打って出てまいりたい。

 

 2002年5月31日第十七回本部幹部会、第七回常勝関西青年部総会

2019年4月27日

第1602回
不屈の反撃精神こそ
言論戦の方程式

 

<「一」言われたら「三」言い返す。
 「三」言われたら「十」言い返す>

 

 勢い――。
 それは、
 “断じて成し遂げよう!”という、
 強き決意と闘魂から生まれる。
 自ら勇んでなそうとする、
 自主、自発の行動から生まれる。
 間髪を容れぬ
 迅速な実践によって生まれる。
 皆が互いに競い合い、
 触発し合う切磋琢磨から生まれる。
 そして、
 戦いは、勢いのある方が勝つ。
  
 「一」言われたら「三」言い返す。
 「三」言われたら「十」言い返す
 ――この不屈の反撃精神こそ
 言論戦の方程式である。
 言うべきときに言わなければ、
 悪が増長するだけである。
 語らなければ、心は伝わらない。
 心で思っていても、
 それだけでは相手にはわからない。
 真実を叫ぶのだ。
 そうすれば、
 敵をも味方に変えることができる。
  
 信心とは――
 断じてあきらめない勇気である。
 自分と友の生命の可能性を
 あきらめない。
 幸福の拡大をあきらめない。
 正義の勝利をあきらめない。
 平和の創造をあきらめない。
 大法弘通を、
 断じてあきらめない勇気なのだ。
   
 何が起ころうが、
 私には信心がある!
 わが家には信心がある!
 我らには偉大な信心がある!
 だから何ものも恐れない。
 だから絶対に
 乗り越えられない苦難はない。
 真面目に、誠実に、勇敢に、
 信心をやり切って、
 最後は必ず勝つのだ!
 この合言葉で、
 いよいよこれからと、
 「強盛の信心」で、
 威風も堂々、進みゆこう!

 

〈池田大作先生 四季の励まし〉「いよいよの心」で堂々と 2019年4月14日

2018年元旦

勇猛精進

 

 <この御書だけは命に刻んでおきなさい>

 

 『一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり』(御義口伝、790頁)

 私がまだ入信してまもない頃、戸田先生から、
 「この御書だけは命に刻んでおきなさい。学会の闘士になるためには、この御書は忘れてはならない」と、厳とした声で教えていただいた御文でもあります。
 難解な一節です。しかし、師匠から「命に刻め」と教えられた御文である。何としても会得したいと、私は深く心に期しました。
 戦後の経済不況のため、事業が破綻して、最大の苦境にあった戸田先生を支え抜いて戦った厳冬の時代も、あの不可能を可能にした「大阪の戦い」の中でも、私はこの御文を命から離さず真剣に拝し続けました。そして、「今この瞬間」を勝ち切るために、「眼前の壁」を破るために祈り、走り抜きました。
 その中で、滾々と「随縁真如の智」を湧き出しながら、一切の暗雲を突き抜け、厳然と創価の勝利の旗を掲げてきたのです。
 今、わが愛する世界の青年たちに、この一節を贈りたい。不二の命に刻み、創価の闘士の魂を受け継いでもらいたいからです。
 「億劫の辛労」とは、“長遠なる時間にわたる辛く苦しい努力”です。いつ終わるとも知れない無限の労苦とも、受け止められるかもしれない。
 しかし、大聖人は、この「億劫の辛労」は、妙法を唱え戦う、瞬間瞬間のわが一念に尽くせるのだと大転換して教えてくださっています。言い換えれば、いかに「今この瞬間」を勝ち切るかを離れて、「億劫の辛労」を尽くす道はないのです。
 御書に『師子王の剛弱を嫌わずして大力を出す』(諸経と法華経と難易の事、992頁)と仰せのように、師子王は、いかなる相手、いかなる時であっても全力を奮い起こすといいます。相手を侮って力を出し惜しみすることなどしません。
 だからこそ、目の前の瞬間瞬間を逃さず、全力を尽くす。題目を唱えて、懸命に戦い抜く――この精進行こそ、仏法の「勇猛精進」、すなわち勇気の真髄があると拝したい。
 「勇猛精進」によって、「無作三身」という本来、わが生命に具わる、仏の慈悲と智慧、そして真実の力が泉の如く湧き上がってくるのです。

 

 大白蓮華2018年1月号№819 37~39頁

2016年8月22日

「勇猛精進」こそ実戦の魂

 

<弘教の功徳は大生命力となり大歓喜となる>

  

 御聖訓には仰せである。
 『かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり』(御書903ページ)
 たとえ、どんな財宝を贈っても、その人を永久に幸せにすることはできない。妙法を説き弘めることこそ、三世永遠の幸福の軌道に導くことなのである。
 戸田先生は弘教の功徳について言われた。
 「その生命には大聖人の生命が脈々とうってきて、いいしれない偉大な生命力が涌出するとともに、いうことのできない歓喜が身内にみなぎり、生きる喜びにうちふるえるのである
 この大歓喜と大功徳を限りなく広げていくのが、我らの仏法対話なのである。
 日々、読誦する勤行には「勇猛精進」とある。
 「勇」とは「敢(いさん)で為す」こと。勇気、勇敢である。
 「猛」とは「智、すなわち信力を励み竭(つく)す」こと。
 「精」とは「無雑(むざつ)」――純一で混じりけもないこと。
 「進」とは「無間(むげん)」――間断なく広布に進むこと。
 ここに実践の魂がある。

 

 2016年8月21日付聖教新聞 SGI会長と共に 新時代を創る 22(抜粋) 

2015年8月26日27日

“勇猛精進”、

自行化他の題目こそ精進行

 

<異体同心で、創立85周年へ出発だ!>

 

 創立85周年の秋へ、広布と人生の大いなる飛躍のために、いよいよの出発である。
 有名な御聖訓に仰せである。『軍(いくさ)には大将軍を魂とす大将軍おく(臆)しぬれば歩兵(つわもの)臆病なり』(御書1219頁)
 リーダーは自身が生まれ変わった決意で立つことだ。皆の力で、今こそ黄金の歴史を飾ろう。わが愛する天地に、永遠に輝く人材城を威風堂々と築くのだ。
 法華経方便品「勇猛精進」とある。勇猛とは信心である。自行化他の題目は、精進行である法のため、人のため、真剣に悩み、祈り、勇敢に戦い続ける人こそ、無量の智慧と慈悲が湧いてくる
 創価学会は、いかなる時代にも「勇猛精進」を貫いてきた。苦しむ友の味方になって、勇気ある信心で勝ち開いている。
 どこまでも異体を同心とする「信心の団結」で進むのだ。そこに一切の勝利の源泉がある。(後略)

2015.8.22聖教新聞 新時代を駆ける26

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.5.10

第2301回

 

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL