栄光の共戦譜

2024年4月5日

〈栄光の共戦譜〉

第26回

1983年(昭和58年)「建設の年」

 

平和のために文化運動を!

 

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第26回は、「建設の年」と銘打たれた1983年(昭和58年)を掲載する。

 

1・26記念 初のSGI提言を発表

 東西冷戦下の1983年(昭和58年)、米ソ関係の緊張で軍拡競争が激化し、核戦争の脅威が高まっていた。

 池田先生は、同年1月25日、1・26「SGIの日」に寄せて、「平和と軍縮への新たな提言」を発表。以来、2022年(令和4年)まで、「SGIの日」記念提言の発表が行われることになる。

 先生は、提言発表を続けてきた信念の支えになったものとして、戸田先生の言葉に言及している。

 「たとえ、すぐには実現できなくとも、やがてそれが“火種”となり、平和の炎が広がっていく。空理空論はどこまでも虚しいが、具体的な提案は、実現への“柱”となり、人類を守る“屋根”ともなっていく」

 第1回の提言で先生は、米ソ首脳会談の早期実現と核兵器の現状凍結の合意などを提案。「大事なことは、相互の不信感、恐怖が次々にエスカレートし、螺旋状に軍拡競争が続いていく悪循環を断ち切ることである」と訴えた。

 提言は、平和を希求する国連関係者や世界の識者の間で共感を呼んだ。ノーベル平和賞受賞者であるライナス・ポーリング博士は、「核凍結から始めて確実に軍縮を進めるという池田氏の考え方に完全に同意します」と声を寄せている。

 この時、先生が訴えた米ソ首脳会談は85年(昭和60年)11月、スイス・ジュネーブにおいて実現。やがて冷戦は終結へと動いていくことになる。

 通算40回に及ぶ「SGI提言」では、紛争防止や人権、環境や人道問題などについて論じられてきた。先生は、こうした地球的問題群の解決の最大の原動力を「グローバルな民衆の連帯」と述べている。私たちの対話は、その連帯を築き、未来を開く礎である。

 

3・20~24 9年ぶりの沖縄訪問

 池田先生を乗せた飛行機が那覇空港に到着した。1983年(昭和58年)3月20日、先生は9年ぶりに沖縄を訪問。友の歓喜が弾けた。

 先生は車で一路、恩納村の沖縄研修道場へ向かった。研修道場の敷地内にはかつて、核弾頭が装備できる中距離弾道ミサイル「メースB」を配備した、米軍のミサイル基地があった。計画では、全て取り壊し、研修施設に変わることになっていた。

 先生は、ミサイルの格納庫の内部も視察し、翌日、ある着想を伝えた。

 「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証しとして」

 さらに先生は、“発射台の上には、平和の象徴になるようなブロンズ像を”“この場所を「世界平和の碑」にしよう”と提案。翌年の4月には、「世界平和の碑」が除幕され、かつてのミサイル基地は平和を発信する場所へと生まれ変わることになる。

 3月21日、先生は「’83沖縄平和文化祭」に出席。途中から雨が降り出すが、待ちに待った師を迎えての文化祭に、若人たちの顔は皆、晴れやかだった。

 先生は同志をたたえ、「あゝ平和 あゝ沖縄と 文化祭 語り残さむ 慈雨のこの日を」など、3首の歌を詠んだ。

 文化祭から2日後の23日は、沖縄広布第2幕を告げる第1回記念総会だった。席上、先生は、「地涌の同志の唱題と信心の連帯の輪が、沖縄の天地に拡大されていくとき、沖縄は、世界模範の『永遠平和の象徴の道』を築いていくことができるに違いない」と強調した。

 この訪問で先生が訴えた平和の魂は、沖縄の原点となり、今の青年たちに受け継がれている。

 

11・3 東京富士美術館が開館

 東京富士美術館が開館したのは、1983年(昭和58年)11月3日。前日の2日、創立者・池田先生が出席して、開館式が行われた。

 先生が美術館の設立構想を示したのは61年(同36年)10月のこと。ヨーロッパを初訪問した先生は、パリのルーブル美術館などに足を運び、語った。

 「芸術の創造のためにも、また、民族、国境を超えて、民衆と民衆の相互理解を深める交流のためにも、いつの日か、美術館をつくりたい」

 東京富士美術館は、81年(同56年)に設立準備委員会が設置され、本格的に準備を開始。先生は激務の合間を縫って、スタッフと懇談し、「世界を語るような美術館になっていくんだ」と励ました。

 同館のオープニングを飾ったのは、「近世フランス絵画展」。世界的な美術史家ルネ・ユイグ氏の協力のもと、ルーブル、ベルサイユ、プチ・パレなど、フランスを代表する八つの美術館が出品。美術研究者らをうならせた。

 現在、東京富士美術館のコレクションは、重要文化財を含め、約3万点に及ぶ。なかでも西洋絵画の数々は「日本屈指」と評されるほどだ。

 これまで国内で海外文化交流特別展を50回、世界20カ国・地域で日本美術や西洋絵画等の所蔵品展を50回開催してきた。90年には、その功績をたたえ、同館に「外務大臣表彰」が贈られた。先生はつづっている。

 「芸術は、人々の魂を鼓舞する。心を豊かにし、前進への力を漲らせる」「平和だから文化運動をするのではない。平和のために文化運動を断行するのだ」

 昨年、開館40周年を数えた東京富士美術館。文化運動を広く推進し、人類を結ぶその使命は輝きを増している。

 


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2023年9月20日

〈栄光の共戦譜〉

第20回

1979年(昭和54年)

「人材育成の年」

 

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第20回は、「人材育成の年」と銘打たれた1979年(昭和54年)を掲載する。

 

わが友よ嵐に不動の信心たれ

 

「2月3~20日」香港・インド訪問

インド独立の父・ガンジーの遺体を荼毘に付した聖地「ラージ・ガート」を訪問。献花の後、署名した(1979年2月8日)

 1979年(昭和54年)2月3日、池田先生は、18日間の香港・インド訪問に出発。同日、先生を団長とする訪印団は、最初の訪問地である香港に到着した。

 先生がアジア広布の第一歩を印した61年(同36年)、香港の座談会に集ったのはわずか十数人だった。18年間で香港の連帯は大きく広がり、5本部の陣容に発展。そして79年2月、先生は、香港広布18周年を記念する勤行会や本部長会に出席し、万感の励ましを送ったのである。

 6日、インドに到着した先生は、11日間の滞在の中で、大学や障がい者を支援する学校の訪問、指導者との会談、史跡や博物館の訪問など、友好と平和の橋を架けるための交流を重ねていった。

 61年の初訪印の際、現地にメンバーはいなかったが、7日に行われた懇談では、約40人の同志が勇んで駆け付けてきた。先生は、悠久のガンジス川に言及し、呼びかけた。

 「皆さんは、インド広布の大河をつくる、源流の一滴、一滴となる方々です。洋々たる未来を信じて前進していっていただきたい」

 戸田先生の生誕の日である11日、池田先生はガンジス河畔に立つと、東洋広布を願い続けた恩師を思い、世界広布の大道を開き続ける誓いを心で叫んだ。

 この訪印は「七つの鐘」の掉尾を飾り、21世紀への新しい旅立ちを意義付ける海外指導として、同志の原点となった。

 2015年(平成27年)、インド創価学会は10万人の陣列を達成。79年の訪印の模様が、小説『新・人間革命』第29巻「源流」の章でつづられた翌16年には、15万人の連帯を成し遂げている。

 「アイ アム シンイチ・ヤマモト!(私は山本伸一だ!)」との合言葉を胸に、インドの同志は、師弟の誓願に生き抜く。

 

「4月12日」鄧穎超氏と会談

池田先生は5度目の訪中の折、北京・北海公園で、鄧穎超氏と世々代々の日中友好について語らう(1980年4月24日)

 池田先生が、周恩来総理の夫人である鄧穎超氏と中国・北京で初めて会見したのは、1978年(昭和53年)9月だった。先生と周総理との一期一会の出会い(74年)から4年、総理の逝去(76年)から2年がたっていた。

 鄧氏は冒頭、先生に語った。

 「私は来年、『桜が満開のころ』に日本に行きたいと思います」

 それは、先生と周総理との「会話の続き」であった。先生は、総理との会見の際、「桜の咲くころに日本へ来てください」と伝えた。その願望は総理にもあったが、病のため実現することはなかった。

 翌79年(同54年)、鄧氏は全国人民代表大会(全人代)代表団の団長として来日。桜花の季節の4月12日に、東京の迎賓館で先生と再会した。“総理の分身”として、総理の願いを果たした。

 約40分間の和やかな語らいが終わり、席を立つと、先生は、第3代会長を辞する決心であることを告げた。

 「それは、いけません。まだまだ、若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります」――鄧氏は真剣な目で語った。「一歩も引いてはいけません!」

 その時、先生は、いかなる立場であろうと、生涯、日中友好への歩みを貫き通そうと決意を新たにしたのである。

 2人の語らいは8度に及んだ。最後の会談は、氏が亡くなる2年前の90年(平成2年)5月。氏は「先生と総理の友情の形見として」と、総理愛用のペーパーナイフなどを先生に贈った。

 79年4月、先生は、鄧氏の来日に合わせ、創価大学のキャンパスに、「周夫婦桜」を自ら植樹した。毎年春を迎えると、75年(同50年)に植えられた「周桜」と共に「周夫婦桜」がらんまんと咲き、友情の輝きを放っている。

 

「5月5日」「正義」と書を記す

2004年10月の各部代表者会議で、1979年5月5日に神奈川の地で認めた「正義」の書を掲げ、峻厳なる師弟の精神を語った

 1979年(昭和54年)4月14日、池田先生は、神奈川文化会館の開館記念勤行会で語った。「いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」

 この頃、宗門の悪僧らによる理不尽な学会攻撃は激しさを増していた。背後で暗躍する卑劣な反逆者もいた。先生は自ら一切の矢面に立ち、会員を守るため、4月24日、第3代会長を辞任する。

 5月3日に開催された本部総会は、宗門僧の“衣の権威”の監視下に置かれたような重苦しい雰囲気となった。

 総会の終了後、会場の外では、健気な同志たちが「先生!」と叫びながら手を振り、先生も真心で応じた。いかなる魔の蠢動も、創価の師弟の金剛の絆を、断ち切ることはできなかった。

 この日、先生は、自らの誓いと弟子への思いを、書として認める。「大山」「大桜」――と。脇書にはそれぞれ、「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」と加えた。

 先生は同日、神奈川文化会館で再び筆を執り、「共戦」とつづった。さらに5日には「正義」と揮毫し、右下には、「われ一人正義の旗持つ也」と書きとどめた。

 そして、休む暇もなく、世界広布の雄飛のため、新たな行動を開始した。

 小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「大山」の章には、「正義」と認めた真情が記されている。

 “いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!”

 嵐に敢然と向かう一人立つ行動――そこに創価の不二の魂が脈打つ。

 

◆年表◆

1979年

 〈1月9日〉

 東北指導(~16日。宮城、岩手、青森)

 宮城県新年記念幹部会(10日)。岩手県新年記念代表幹部会(11日)。青森、秋田両県の合同代表幹部会(14日、青森)

  

 〈1月31日〉

 九州指導(~2月3日。鹿児島)

  

 〈2月3日〉

 香港・インド訪問(~20日)

 香港広布18周年記念勤行会(4日)

 東南アジア代表者懇談会(18日、香港)

 インドのM・R・デサイ首相と首相官邸で会談。インドのメンバー40人と懇談し、記念撮影(7日)

 ガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートで献花し、ガンジー博物館を訪問(8日)

 カラン・シンICCR(インド文化関係評議会)副会長と会談(8日)、後に対談集『内なる世界――インドと日本』を発刊

 ネルー記念館を訪問(9日)

 “インドの良心”と敬愛されるJ・P・ナラヤン氏と会談(11日)

 帰国後、『悠久の大地に立って――私のインド紀行』を発刊

  

 〈4月12日〉

 中国全国人民代表大会常務委員会副委員長の鄧穎超氏(周恩来夫人)と迎賓館で会談。会長辞任の意向を伝える(東京)

  

 〈4月22日〉

 宗門との問題に終止符を打ち、会員を守るために法華講総講頭辞任の意向を表明(静岡)

  

 〈4月24日〉

 聖教新聞に所感「『七つの鐘』終了にあたって」を寄稿

 創価学会第3代会長を辞任。名誉会長に就任

 ※退転・反逆者や宗門僧は創価の師弟の分断を謀り、池田先生の会合での指導や、その新聞掲載等を禁ずる

  

 〈4月25日〉

 聖教新聞に「全国会員の皆様へ」とのメッセージを寄稿

 「七つの鐘」総仕上げ記念第235回本部幹部会(東京)

  

 〈5月3日〉

 「七つの鐘」総仕上げ記念第40回本部総会。「大山」「大桜」と揮毫(創価大学)

 神奈川文化会館を訪問。「共戦」と揮毫し、「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と脇書を記す

  

 〈5月5日〉

 「正義」と揮毫。「われ一人正義の旗持つ也」と脇書を記す(神奈川)

  

 〈8月13日〉

 国際親善友好の集いでSGIのメンバーを激励

 41カ国・3地域の友が参加(神奈川)

  

 〈8月15日〉

 世界平和祈願勤行会(東京)

  

 〈8月20日〉

 長野指導(~28日)

 長野研修道場を訪問(20日)。会員約3000人と記念撮影(26日)

  

 〈11月16日〉

 学会創立49周年記念の第242回本部幹部会で「威風堂々の歌」の指揮を執る(東京)

  

 〈12月26日〉

 第3回鼓笛隊総会(東京)


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2023年8月18日

〈栄光の共戦譜〉

第19回

1978年(昭和53年)

「教学の年」第2年

 

一人一人が太陽の存在に!

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第19回は、「教学の年」第2年と銘打たれた1978年(昭和53年)を掲載する。

 

「1・6」「支部制」の発表

東京・杉並の方南支部結成大会で、老婦人に花束を手渡す。「ご長寿を祈っております」と(1978年1月27日、杉並文化会館で)

 1978年(昭和53年)1月6日に行われた本部幹部会で、広布第2章の「支部制」の実施が発表され、従来の「総ブロック」が、「支部」へと移行することになった。

 戸田先生が第2代会長に就任する直前の51年(同26年)4月、学会は12支部の陣容で出発し、広布拡大の火ぶたが切られた。池田先生は、広布第2章の「支部制」を設置することで、草創の支部のような“清新の息吹”を巻き起こそうと深く決意していたのである。

 78年1月21日の本部幹部会で、新支部体制がスタート。池田先生は、「支部制」を軌道に乗せるため、松山支部結成18周年記念勤行会(1月18日)、奈良支部結成17周年記念幹部会(25日)などに足を運び、励ましを送る。

 さらに、27日、全国に先駆けて開催された東京・杉並の方南支部結成大会に出席し、「支部」の意義について語った。

 「支部は地域における学会本部であると決めて、各人が地域に仏法を打ち立て、展開していただきたい」

 30日の第2東京支部長会では、支部長代理として奔走した当時を思い起こしながら、同志の奮闘をねぎらった。

 「広布第2章の『支部制』にあたり、“折伏精神”を、学会の隅々にまで燃え上がらせなければならない」――現在へと続く「支部制」の発足に当たって、先生が心に期したのは、学会の根本精神に立ち返ることだった。

 “折伏精神”の意義について、先生はつづる。「周囲の人びとに真実の仏法を教え、必ず幸せになってもらおうという一念を燃え上がらせてこそ、すべての活動に魂が込められ、歓喜が湧く。そして、人との触れ合いは、そのまま、仏縁の拡大となるのである」

 

「4・15」埼玉文化合唱祭

「4・23」三重文化合唱祭

三重文化合唱祭での同志の熱演をたたえ、ピアノを演奏する池田先生(1978年4月23日、三重研修道場で)

 「どんな宿命の試練にさらされようが、“希望の歌”“勇気の歌”“喜びの歌”を、さわやかに、さっそうと口ずさみながら、幸せの航路を、勇躍、進んでまいろうではありませんか!」

 1978年(昭和53年)4月15日、大宮市(現・さいたま市)で行われた埼玉文化合唱祭で、池田先生は力強く呼びかけた。

 この年、第1次宗門事件によって、宗門の僧らによる学会攻撃が激しさを増していた。そんな中、全国各地で“師弟共戦の合唱祭”が開催されていく。

 同月23日、先生は三重文化合唱祭に出席。当初、宗門を刺激しないようにと、婦人部の愛唱歌「今日も元気で」は歌わない方向に決まっていた。明るく軽快なこの歌は、“いつも師と共に広宣流布に進もう”との心を託した学会歌だ。

 「師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!」――三重婦人部の強い求道心によって、「今日も元気で」は歌われることに。会場の三重研修道場に、正義の歌声が轟いたのである。

 この78年は、6月以降、先生が30曲に及ぶ学会歌を制作した年でもあった。

 学生部の「広布に走れ」、白蓮グループの「星は光りて」、未来部の「正義の走者」、そして各方面・県の歌などを手がけ、次々と発表していった。

 当時の思いについて、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章で、こう述べている。

 「学会歌は決意と共にある。ゆえに、その歌声の轟くところに、勝利の太陽が昇るのだ」

 正義の合唱祭と歴史に輝く各学会歌の誕生から45星霜――広宣流布大誓堂完成10周年の勝利を呼ぶ、創価の声が響く。

 

「10・7」勝利島部の日

徹底して同志と共に――島の地域交流の場となった「八重山祭」で、池田先生は踊りの輪の中へ(1974年2月3日、石垣島で)

 第3代会長に就任した池田先生は、離島の友の激励に駆け巡ることを念願としてきた。「最も苦しんできた同志を、最大に励まし、最高に讃えなくてはならない」――その思いが、先生の信条だった。

 島には、それぞれの風俗や伝統、習わしがある。それゆえ、学会に対する誤解や偏見が生じ、弾圧を受けた地域もあった。しかし、迫害の嵐が吹き荒れた島でも、先生からの励ましを胸に信頼の輪を広げる中で、学会への「非難」は「称賛」へと変わっていった。

 1974年(昭和49年)1月14日、離島本部の発足が発表され、離島の同志は、さらなる地域貢献へと力を注いだ。

 78年(同53年)10月7日、離島本部の第1回となる総会が、信濃町の創価文化会館(当時)で開催された。北海道の礼文島や沖縄の与那国島など、全国約120の島々から“広布の勇者”が集った。

 先生は会場に入ると、「ようこそ!」と参加者の中を進み、場内を一巡。ほとんどの友が学会本部を訪れるのも、先生に会うのも初めてだった。

 先生は、各島の苦労をたたえるとともに、離島広布の要諦を語った。

 「信心強盛な一人の学会員がいれば、島全体が希望に包まれ、歓喜に満たされていきます。どうか皆さんは、一人ひとりが、その太陽の存在になっていただきたい」

 師の言葉は、不滅の指針として、同志の心に刻まれた。

 2015年(平成27年)、小説『新・人間革命』で「勝利島」の章が連載される。同年11月、部の名称を「勝利島部」として新出発を切り、「10・7」も「勝利島部の日」に。「10・7」45周年を刻む本年、友は“世界一の幸福島”を目指し、それぞれの島で、さらに献身を重ねている。

 

◆年表◆

1978年

 〈1月6日〉

 第219回本部幹部会で広布第2章の支部制を発表(東京)

 「総ブロック」が「支部」となる

  

 〈1月8日〉

 第10回教学部大会(東京)

  

 〈1月12日〉

 アメリカのエドワード・M・ケネディ上院議員と会談(東京)

  

 〈1月14日〉

 「第2東京婦人部の日」記念勤行会(東京)

  

 〈1月16日〉

 四国指導(~23日。愛媛、香川)

  

 〈1月23日〉

 関西指導(~26日。大阪、奈良)

  

 〈1月27日〉

 杉並・方南支部結成大会(東京)

  

 〈1月30日〉

 広布第2章初の第2東京支部長会(東京)

  

 〈2月19日〉

 第1回信越男子部幹部会(東京)

 ホイットマンの詩を通して指導。「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(『詩集 草の葉』富田砕花訳)は、青年部の合言葉となる

  

 〈4月9日〉

 東京創価小学校第1回入学式を祝し、全新入生と記念撮影(東京)

  

 〈4月15日〉

 第1回埼玉文化合唱祭

  

 〈4月21日〉

 中部・関西指導(~29日。愛知、三重、大阪、兵庫)

 三重県第1回文化合唱祭(23日)

  

 〈5月3日〉

 創価功労賞ならびに広布功労賞表彰式典(創価大学)

  

 〈5月13日〉

 九州・中国指導(~22日。鹿児島、福岡、山口、広島、岡山)

  

 〈5月27日〉

 東北・栃木指導(~31日。宮城、福島、栃木)

  

 〈5月――〉

 5月に始まった初の国連軍縮特別総会にあたり、核軍縮、核廃絶へ10項目の提言を行う

  

 〈6月8日〉

 北海道指導(~23日)

  

 〈6月25日〉

 第1回団地部東日本大会(東京)

  

 〈6月30日〉

 学生部結成21周年記念幹部会(東京)

  

 〈7月17日〉

 関西・中国・四国・中部指導(~29日。大阪、京都、岡山、鳥取、香川、愛知、岐阜)

  

 〈8月9日〉

 九州指導(~17日。宮崎、鹿児島)

  

 〈8月22日〉

 長野指導(~25日)

  

 〈9月9日〉

 関西指導(~11日。大阪)

  

 〈9月11日〉

 中国訪問(第4次。~20日)

 南京の雨花台烈士陵園で献花。新中国建設や日中戦争の中で犠牲となった人々の冥福を祈る(16日)。故・周恩来総理夫人の鄧穎超氏と懇談(17日)。上海、蘇州、無錫、南京、北京などを訪問

  

 〈10月7日〉

 第1回離島本部総会(東京)。同本部は後に勝利島部となる

  

 〈10月10日〉

 アメリカの経済学者、ハーバード大学のジョン・ケネス・ガルブレイス博士と会談(東京)。後に対談集『人間主義の大世紀を――わが人生を飾れ』を発刊

  

 〈11月7日〉

 創価学会創立48周年記念代表幹部会(静岡)

  

 〈11月9日〉

 関西指導(~15日。大阪、兵庫)

  

 〈11月18日〉

 第230回創価学会創立48周年記念本部幹部会(東京)

  

 〈11月19日〉

 創立48周年記念提言「環境問題は全人類的な課題」を発表

  

 〈11月29日〉

 関西・中部指導(~12月4日。大阪、三重)

  

 〈12月4日〉

 四国指導(~13日。高知、香川)

  

 〈12月25日〉

 国際宗教社会学会初代会長でイギリス・オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授と会談(東京)。後に対談集『社会と宗教』を発刊

  

 ※この年、多くの学会歌等の作詞や作曲を手がけ、相次ぎ発表した


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2023年7月21日

〈栄光の共戦譜〉

第18回

1977年(昭和52年)

「教学の年」

 

学会は社会を照らす“黄金の灯台”

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第18回は、「教学の年」と銘打たれた1977年(昭和52年)を掲載する。

 

「1・6」第1回創価班総会

東京・八王子市の牧口記念庭園にある「創価班の碑」を訪れ、全メンバーの成長と無事故を祈念する(1996年5月)

 創価班の前身である「輸送班」の歴史は、学会が登山会を開始した1952年(昭和27年)10月に始まる。その後、輸送班は発展・拡充していく。

 76年(同51年)11月2日、池田先生は「一にも、二にも、十にも、ともかく学会を守っていくんだ」と、創価の名前をそのまま冠した「創価班」と名付けた。

 記念すべき第1回の創価班総会の日程は、先生の提案により、翌77年(同52年)1月6日と決まった。

 「『創価班』の本格的な出発となる総会を開こうよ」「日にちは、年明けの1月6日――この日しかない。私も出席します」

 この日は、51年(同26年)、23歳の若き池田先生が、事業の苦境にあった戸田先生から、公私にわたる一切の後事を託された日だった。

 「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、一切、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」――そう語る恩師に、池田先生は答えた。「私の一生は、先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております」

 池田先生は、創価の師匠に連なって、学会の全責任を担い、先頭に立って広布を開いていくことを期待し、1月6日に総会を行うことを呼びかけたのである。

 迎えた第1回の創価班総会の席上、先生は、創価学会は混沌とする社会を照らす、“黄金の灯台”であり、創価班は、いわば“創価灯”であると、その使命を強調した。その後、「1・6」は、「創価班 師弟誓願の日」として定められ、不滅の原点の日となっている。

 師弟直結の創価班のネットワークは、世界へと広がり、メンバーは青年部の中核として活躍。“創価灯”が各地で光明を放つ時代を迎えている。

 

「2・6」東京教育部勤行集会

「教育本部原点の日」の淵源となる教育部の夏季講習会で先生は、「私の人生における最終の事業は教育」との信念を語った(1975年8月12日、創価大学で)

 創価学会は、1930年(昭和5年)11月18日に創価教育学会として産声を上げた。初代会長・牧口先生、第2代会長・戸田先生はともに教育者であり、教育部は、創価学会の源流を継承する部だ。

 牧口先生は、「教育の改造における根底は教師」と記している。池田先生も、教育に携わる教育部員は、「一騎当千の勇者であり、社会を変革する大きな使命をもっている」と考えていた。それだけに、教育部への激励に全力を注いだ。

 「教育・家庭の年」と銘打たれた75年(同50年)の8月12日、先生は教育部夏季講習会に出席し、講演を行った。

 「“よく聞くこと”とは、学生のなかにあるものを引き出していくという意味でもあります。つまり、言葉による表現から、その奥にある精神の心音を、よく聞いていくということです。今ほど、それが、教育界に必要な時はない」

 この日は、後に「教育本部原点の日」として刻まれた。

 77年(同52年)2月6日、先生は東京教育部の勤行集会で訴えている。「決してあきらめずに、命の限り突き進む執念――それこそが、成功の母であり、勝利の原動力となっていきます」

 教育部の友は、先生の激励を胸に、教育現場で粘り強く子どもに寄り添ってきた。「教育実践記録運動」や、伝統の「人間教育実践報告大会」など、友の努力の結晶が社会の大きな力となっている。

 2002年(平成14年)3月31日、教育部は現在の教育本部へと発展し、「学校教育」「幼児・家庭教育」「社会教育」の分野を担う3部体制で出発。

 特に近年、教育本部は「家庭教育懇談会」に力を入れ、昨年はオンラインも活用して全国2486カ所で開催。1万8553人が参加した。

 

「10・2」戸田墓園の開園式

池田先生が恩師・戸田先生の故郷である厚田の風景をカメラに収めた。有縁の天地の発展を願いながら(1982年6月)

 1977年(昭和52年)9月30日、池田先生は北海道・厚田を訪問した。創価学会初の墓園である戸田記念墓地公園(当時は戸田記念墓苑)の完成を記念する諸行事が予定されていた。

 かつて戸田先生は、「この末法の現実の世界で、波瀾万丈の戦いをしきって一生を生き、あとは、わが同志と一緒に、どこかで静かに眠りに就きたいものだな」と語った。池田先生は、戸田先生の故郷に、その名を冠する墓園を建設し、恩師の願いを実現させたのである。

 10月1日に行われた記念の勤行会で、先生は墓地公園の意義に言及した。

 「永遠の広布旅、師弟旅の象徴ともいうべきものが、この墓地公園であります」「創価学会の基盤も、これで完璧に出来上がったと言っても過言ではありません!」

 さらに、翌2日の開園式では、北海道の同志に呼びかけた。「地域を大切にし、学会員であるなしにかかわらず、厚田の人びとを守り、友情と信頼の強い生命の絆を結んでいってください」

 墓園のある厚田をはじめ、北海道の同志は、この言葉の通り、地域に信頼の輪を広げた。その後、同園は、約8000本の桜が咲く、道内屈指の桜の名所として、多くの人々に親しまれている。

 現在、学会の墓園・納骨堂は全国20カ所に広がる。そこには、三つの基本理念が設けられている。

 第一に、永遠の生命観に立脚し、質の高い維持、管理を行う「恒久性」。第二に、皆が仏性を具えているという平等観に立ち、墓の大小を競うような風潮を排した「平等性」。第三に、妙法の生死不二を象徴する、親しみやすい「明るさ」。

 学会の墓園は、三世永遠の福徳の宮殿として、それぞれの地域で輝いている。

 

◆年表◆

1977年

 〈1月6日〉

 第1回創価班総会(東京)

  

 〈1月14日〉

 関西指導(~23日。大阪、和歌山)

 第9回教学部大会の記念講演で仏教史観を語る(15日、大阪)

 ※次第に宗門僧による学会攻撃が始まる(第1次宗門事件)

  

 〈2月2日〉

 第1回社会部勤行集会

 生活・職場・社会を大切に「信心即生活」「信心即社会」の賢明な日々を送るよう語る(東京)

  

 〈2月6日〉

 第1回東京教育部勤行集会(東京)

  

 〈2月17日〉

 第1回農村・団地部勤行集会

 妙法の下種に励みゆく地域の灯台・農村部たれ、団地という“船舶”の船長、機関長となって住民を大きく包容しゆく模範の団地部たれ、と指針を示す(東京)

  

 〈3月11日〉

 福島・栃木指導(~14日)

 福島文化会館開館記念勤行会(11日)

  

 〈3月19日〉

 第1回創価学会先祖代々追善供養春季彼岸法要勤行会(東京)

  

 〈5月10日〉

 関西指導(~14日。京都、滋賀)

 滋賀文化会館開館記念勤行会(11日)

  

 〈5月17日〉

 九州・山口指導(~29日。福岡、山口、佐賀、熊本)

 創価九州平和会館開館記念勤行会(17日、福岡)

 山口文化会館開館記念勤行会(20日)

 北九州市の個人会館を訪問(24日)

 佐賀文化会館開館記念勤行会(26日)

 熊本文化会館開館記念勤行会(28日)

  

 〈9月29日〉

 北海道指導(~10月9日)

厚田戸田講堂開館記念勤行会(10月1日)

 戸田記念墓苑の開苑式

 「“法華経は冬の信心である。冬は必ず春となるのだ”と確信し実践する中に人生を豊かにする根本方軌がある」と語り、墓苑が位置する厚田を同志の“心の故郷”“生死不二の永遠の都”としていこうと提案する(2日)

  

 〈11月3日〉

 第1回鼓笛隊総会(創価大学)

  

 〈12月2日〉

 宮崎指導(~4日)

  

 〈12月10日〉

 北海道・厚田村から「栄誉村民」の称号が贈られる(代理 厚田村)

  

 〈12月23日〉

 立川文化会館開館記念勤行会

 「人生の真実の勝利は、広宣流布の信心を貫く以外にない。そのために、生きた信心の団体である創価学会員として、誇り高く生き抜いていただきたい」と語る(東京)


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2023年5月17日

〈栄光の共戦譜〉

第16回

1975年(昭和50年)「教育・家庭の年」

 

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第16回は、「教育・家庭の年」と銘打たれた1975年(昭和50年)を掲載する。

 

 

妙法という平和の種を蒔く

「1・26」SGIの結成

グアムで行われた「世界平和会議」でSGI会長に就任し、スピーチする池田先生(1975年1月26日)

 

 1975年(昭和50年)1月26日、米グアムの国際貿易センタービルに世界51カ国・地域の代表158人が集い、第1回「世界平和会議」が開かれた。

 池田先生ご夫妻は、午前11時過ぎに会場に到着。先生は、入り口に置かれていた署名簿に氏名を書いた後、国籍欄に「世界」と記す。

 先生の心は、恩師が示した“人々は皆、地球民族である”との「地球民族主義」の理想に燃えていた。

 グアムは戦時中、残酷な犠牲を強いられてきた悲劇の舞台だった。先生は、“このグアムを世界平和の発信地に”と、同地で平和会議を開くことなどを提唱。そして、「世界平和会議」の開催が実現したのである。

 会議の席上、創価学会インタナショナル(SGI)が発足し、世界広布の新章節が開かれた。参加者の総意によってSGI会長に就任した先生は、スピーチの中で呼びかけた。

 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」

 83年(同58年)から、先生は1・26「SGIの日」に合わせ、平和提言を世界に発信してきた。人類が直面する諸課題に対し、仏法の人間主義思想に立脚した提言を続け、「持続可能な開発のための教育の10年」等、多くの提案が実を結んでいる。

 「SGI――それは、世界を結ぶ異体同心の絆である。それは、世界平和の赫々たる光源である」(小説『新・人間革命』第21巻「SGI」の章)。この精神を胸に、192カ国・地域に広がる創価の友は、使命の地で友情の絆を広げる。

 

 

 

「5・16」ペッチェイ博士と対談

アウレリオ・ペッチェイ博士と4度目の会談。再会を喜び合った(1982年1月、都内で)

 

 世界的なシンクタンクであるローマクラブのリポート『成長の限界』は、1972年(昭和47年)に出版され、世界に衝撃を与えた。“このまま経済成長が続けば、環境汚染等によって人類は破局を迎える”との警告を発する一書だ。

 同書の出版から3年後、75年(同50年)5月16日、ローマクラブの創立者、アウレリオ・ペッチェイ博士と池田先生との会談が、フランス・パリで実現した。博士と会うことを池田先生に勧めたのは、歴史学者のトインビー博士だった。

 ペッチェイ博士は戦時中、ファシズムへの抵抗運動の中で投獄され、激しい拷問を耐え抜いた経験を持っていた。戦後は、人類が直面する地球的問題群を研究し、「人間性の革命」を訴えてきた。

 生命の根源的な変革に取り組む学会の「人間革命」運動に深い共感を示す博士は、小説『人間革命』(英語版)を携え、先生との対談に臨んだ。そしてこう述べた――「私は、今まで、『人間性の革命』を唱え、行動してきましたが、それをさらに深く追究していくならば、究極は『人間革命』に帰着する」。

 多くの点で共鳴し合った2人は、計5度の語らいを重ね、対談集「21世紀への警鐘」が発刊される。

 ローマクラブの現・共同会長であるマンペラ・ランペレ博士は、今置かれている地球的な危機を乗り越えるには、ペッチェイ博士と池田先生が提唱し続けてきた「人間革命」を推進するしかないと強調。一人一人が、自分自身と向き合うことが大切であり、「『新たな人類文明』とは『人間革命』を実践する人間が築く文明なのです」と語っている。

 不安の闇が深まる世界にあって、私たちの「人間革命」の行動こそが、人類を照らす希望の光となろう。

 

「11・8」原爆慰霊碑に献花

広島の平和記念公園で、原爆死没者慰霊碑に献花する池田先生(1975年11月8日、広島で)

 

 原爆投下から30年となる1975年(昭和50年)、池田先生は11月8日に、広島市にある平和記念公園を訪問。被爆2世の代表と共に、原爆死没者慰霊碑に献花し、反戦平和への深い祈りを捧げた。そして、同行する青年たちに語りかけた。「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています」

 先生は、東西冷戦の真っただ中にあって、前年の74年(同49年)から、わずか1年半のうちに、中国を3度、ソ連を2度訪問。両国の要人との対話を重ねる。

 75年1月には、アメリカを訪れ、国連本部で国連事務総長と会談。その席上、青年部が展開し、日本全国の1000万人以上から集めた、戦争の絶滅と核廃絶を訴える署名簿を手渡した。この訪米の際、キッシンジャー米国務長官とも初めて会談する。分断された世界を、友情の対話で結びながら、75年11月の広島訪問を迎えたのである。

 慰霊碑訪問の翌9日、広島市内での本部総会で、先生は“核兵器廃絶には、核兵器を絶対悪とする、揺るがざる根本の哲学が不可欠である”ことを力説。

 さらに、核保有国が「核兵器の先制不使用」を宣言することや、広島の地で、核廃絶に向けての国際平和会議を開催することなどを提案した。

 “広島こそ平和原点の地”との先生の思いは変わらない。

 今月19日から行われるG7(主要7カ国)広島サミットに向け、「危機を打開する“希望への処方箋”を」と題する提言を発表し、こう述べている。

 「民衆の力で『歴史のコース』を変え、『核兵器のない世界』、そして『戦争のない世界』への道を切り開くことを、私は強く呼びかけたい」

 

◆年表◆

1975年

 〈1月6日〉

 アメリカ訪問(~28日)

 国連本部で核廃絶1000万署名簿を国連事務総長に提出(10日)

 ヘンリー・A・キッシンジャー米国務長官と国務省で会談。中東問題、米中問題、SALT(米ソ戦略兵器制限交渉)などについて語り合う(13日)。対話の継続を約し、後に対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』を発刊

  

 〈1月26日〉

 世界51カ国・地域の代表が集い、グアムで第1回世界平和会議

 創価学会インタナショナル(SGI)が発足し、SGI会長に推挙され就任(アメリカ)

  

 〈2月1日〉

 日本経済新聞に「私の履歴書」が連載される(~3月4日)

 後に単行本として刊行

  

 〈4月7日〉

 創価大学の滝山寮入寮式

 新寮生となる日中国交正常化後初の中国からの国費留学生6人を歓迎。広く日本文化を学び、人格の完成を目指し、有意義な学生生活を送るように語る

  

 〈4月14日〉

 中国訪問(第3次。~22日)

 北京大学を訪問(15日)。亡命中のカンボジアのシアヌーク殿下と北京で会見(18日)。武漢大学(19日)、復旦大学(21日、上海)へ図書贈呈

  

 〈5月13日〉

 欧州・ソ連訪問(~30日。フランス、イギリス、ソ連〈第2次〉)

 イタリアの実業家でローマクラブの創立者アウレリオ・ペッチェイ氏と対談(16日、フランス)。後に対談集『21世紀への警鐘』を発刊

 ソ連婦人委員会議長で、初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワ氏と懇談(26日、ソ連)

 モスクワ大学から名誉博士号を受ける。名誉学術称号の第1号となる。「東西文化交流の新しい道」と題し記念講演(27日)

  

 〈7月22日〉

 ハワイ訪問(~31日)

 第12回全米総会(26日)

  

 〈8月7日〉

 外国航路の船員らの人材グループ「波濤会」のメンバーと記念撮影(創価大学)

  

 〈8月12日〉

 教育部夏季講習会の全体集会(創価大学)

  

 〈8月26日〉

 第1回二部学生大会にメッセージを贈り、二部学生の人材育成グループ「飛翔会」を結成

  

 〈9月9日〉

 女子部学生局の幹部会(東京)

  

 〈9月15日〉

 第3回ドクター部総会(東京)

  

 〈9月28日〉

 女子部の人材育成グループ「青春会」を結成(神奈川)

  

 〈11月2日〉

 池田先生の提案により、中国からの留学生と創大生の手で周総理の偉業をたたえ「周桜」が創価大学のキャンパスに植樹される

  

 〈11月6日〉

 京都・広島指導(~12日)

 平和記念公園を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花(8日、広島)

 第38回本部総会(9日、広島)


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2023年4月20日

〈栄光の共戦譜〉

第15回

1974年(昭和49年)「社会の年」

 

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第15回は、「社会の年」と銘打たれた1974年(昭和49年)を掲載する。

 

生命尊厳の世紀を開け

「4・1」初の海外学術講演

米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で講演する池田先生。場内は大拍手に包まれ、多くの学生が握手を求めた(1974年4月1日)

 1974年(昭和49年)4月1日、アメリカの名門・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で、池田先生の講演が行われた。海外の大学・学術機関で初の講演である。

 当時、東西冷戦が続く中、オイルショックによって世界的なインフレと不況に突入。激動の時代にあって、新たな哲学が求められていた。

 「21世紀への提言」と題する池田先生の講演が始まったのは、日本時間では、戸田先生の祥月命日である4月2日の朝だった。会場は教授や学生などで満員だった。

 講演に際し、池田先生は心の中で恩師に語りかけた。“これから先生に代わって、先生にお教えいただいた仏法の生命論の一端を語ってまいります。世界に向かって、創価思想の叫びを放ちます”

 先生は講演の中で訴えた。

 「きたるべき21世紀は、結論して言うならば、生命というものの本源に、光が当てられる世紀であると思っております。否、そうあらねばならないと信じています」

 さらに、生命尊厳の世紀を築くためには、欲望に振り回される「小我」の生き方から、大宇宙の根本法に則った「大我」の生き方への転換が必要であると強調したのである。

 1時間15分の歴史的な講演に対し、「人類の未来開拓へ、根本的な道標を示した、重要な意義をもつもの」(ネイサン・サビラ教授)など、数多くの称賛の声が寄せられた。

 人類の未来のため、世界平和のため、先生が重ねてきた海外での学術講演は32回に及ぶ。仏法の人間主義思想が示す道標は、混迷の闇を深める世界にあって、光彩を放っている。

 

「4・19」ルネ・ユイグ氏と初会談

ユイグ氏㊨が館長を務めるジャックマール・アンドレ美術館を訪問し、語らう(1983年6月22日、フランス・パリで)

 世界的な名画「モナ・リザ」の日本展のために来日していた、フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏が、池田先生と初めて会見したのは1974年(昭和49年)4月19日。氏は、第2次世界大戦の際、ルーブル美術館の芸術品をナチスから守り抜いた文化の闘士である。

 東京の旧聖教新聞本社で行われた約1時間半の対談で、2人は意気投合。

 氏は、「(池田先生は)芸術を愛し、私のように芸術を分かち合いたいと思っている人だ」と感想を述べた。同席したリディ夫人は、“一目惚れの友情が生まれた”と振り返っている。

 以来、2人は10度を超える会見を重ね、対談集『闇は暁を求めて』が発刊された。

 対談の中で、氏は「物質だけを追い求める」物質主義の克服を訴え、精神の復興を希求。さらに、「池田会長と私との友情は、『精神の復興』のための精神の共同戦線です」と呼びかけている。

 「眼で詠まれた詩」――氏は、先生が撮った写真を高く評価していた。88年(同63年)5月、氏が館長を務めるパリのジャックマール・アンドレ美術館で、「自然との対話――池田大作写真展」の、初の海外展が開催された。この時、写真の選定からレイアウトまで、すべてを手がけたのが氏だった。氏は、東京富士美術館の開館を力強く支え、コレクションの形成にも尽力した。

 ある時、先生と語り合った氏は、こう力説した。

 「結局、私が最も要請しているのは『人間革命』です。私は、この人間革命の夜明けへ、一人の『ヨーロッパの義勇兵』として戦います!」「精神の闘争なき文明は滅びる。今こそ精神のための闘いを始めましょう」

 

「12・5」周恩来総理と会見

周恩来総理㊧は日中友好の未来を、自身より30歳も若い池田先生に託した(1974年12月5日、中国・北京で)

 1974年(昭和49年)、池田先生は世界各地に平和旅の足跡を刻んでいった。

 5月30日には中国への第一歩をしるし、9月8日には、モスクワ大学の招待を受けて、ソ連(当時)を初訪問。ノーベル賞作家のショーロホフ氏、コスイギン首相らと相次いで対談した。

 そして12月、先生は2度目の訪中を果たす。滞在最後の夜となる5日、中日友好協会の廖承志会長が先生に告げた。

 「実は周恩来総理が待っておられます」

 その日の午前に会談した鄧小平副総理の話では、総理は半年ほど入院が続いており、病状は重いとのことだった。先生は丁重に辞退した。しかし、廖会長が、“総理は万難を排しても池田先生と会う決心である”と伝えると、こう答えた。

 「わかりました。お会いさせていただきます。しかし、ひと目、お会いしたら失礼させてください」

 先生の一行は、総理が入院している305病院に向かった。先生が車を降りて中に入ると、周総理が待っていた。痩せていたが、全身から気迫を感じた。

 総理は、先生が日中友好に尽力してきたことを高く評価し、全世界が平等な立場で助け合い、努力することの大切さを訴えた。先生は、一つ一つの言葉を受け止めていった。病を押しての約30分の会見は、2人の最初で最後の語らいとなったが、永遠の友情の絆が結ばれたのである。

 昨年は日中国交正常化50周年。記念行事として、総理の生涯をたどる写真展「桜よ海棠よ永遠に――周恩来と日中友好」が、両国の各都市を巡回した。

 本年、「日中平和友好条約」締結45周年、先生の「日中国交正常化提言」発表55周年の佳節を刻む。先生が誠実の対話で友誼を結び、築き上げた日中の「金の橋」――その輝きが変わることはない。

 

◆年表◆

1974年

 〈1月19日〉

 九州指導(~25日。福岡、鹿児島)

 第171回本部幹部会(22日、福岡)

 公害で苦しみながら戦い抜いた友と記念撮影(初の「水俣友の集い」。24日、鹿児島)

  

 〈1月26日〉

 香港訪問(~31日)

 香港広布13周年記念撮影会(27日)

 香港大学(29日)、香港中文大学(30日)を訪問

 東南アジア仏教者文化会議第1回代表者会議(30日)

  

 〈2月2日〉

 沖縄指導(~10日)

 八重山祭り。西表島の竹富町立大原中学校への図書贈呈式、創価学会の第1回の図書贈呈となる(3日、石垣島)

 宮古伝統文化祭(5日、宮古島)

 沖縄広布20周年記念総会(8日)

  

 〈2月15日〉

 千葉指導(~16日)。千葉県大会(16日)

  

 〈3月7日〉

 北・中南米訪問(~4月13日。アメリカ、パナマ、ペルー)

 アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言――ヒューマニティーの世紀に」と題し記念講演(4月1日)

 ※当初、ブラジルを訪問する予定であったが、ビザが発給されないため、予定を変更し、パナマ初訪問となる(3月18日)

  

 〈4月18日〉

 創価大学の第4回入学式。「創造的生命の開花を」と題し講演

  

 〈4月19日〉

 フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏と会談(東京)

  

 〈4月25日〉

 信越・北陸指導(~29日。長野、石川)

 長野県伝統文化祭ならびに長野県総会(26日)。

 北陸伝統文化祭ならびに北陸広布20周年記念総会(28日、石川)

  

 〈5月18日〉

 フランスの作家、元文化相のアンドレ・マルロー氏と会談(東京)。後に対談集『人間革命と人間の条件』を発刊

  

 〈5月19日〉

 山口県総会にメッセージを贈る

  

 〈5月30日〉

 中国訪問(第1次。~6月16日)

香港から列車に乗り、羅湖駅から徒歩で中国への境界線を渡る(5月30日)

 中国仏教協会の趙樸初副会長(後に会長)と会談(6月4日)

 周恩来総理が病気療養中のため、李先念副総理と会見(6日)

 北京、西安、上海などを訪問。各地で歓迎を受け、市民とも交流

  

 〈8月22日〉

 創価大学の第2回夏季大学講座。「人生と学問」と題し講演

  

 〈9月8日〉

 ソ連訪問(第1次。~18日)

 モスクワ大学のレム・ホフロフ総長と懇談(11日)

 レニングラード(現・サンクトペテルブルク)のピスカリョフ墓地で献花し戦没者を追悼(13日)

 モスクワ大学と創価大学との教育交流に関する議定書の調印式

 ノーベル賞作家のミハイル・ショーロホフ氏と対談(16日)

 アレクセイ・コスイギン首相とクレムリンで会見(17日)

  

 〈9月24日〉

 東北指導(~28日。宮城、山形)

 第179回本部幹部会で、創価学会は“常に中道を進む”“広宣流布の団体であり、大仏法を基調とした平和と文化の推進の団体である”等、広宣流布への指針を示す(27日、宮城)

  

 〈9月28日〉

 北海道指導(~29日)

  

 〈10月6日〉

 中部指導(~8日。三重、愛知)

 第1回三重県総会(6日)

  

 〈10月13日〉

 山梨広布20周年記念総会

  

 〈11月10日〉

 香川県総会にメッセージを贈る

  

 〈12月2日〉

 中国訪問(第2次。~6日)

 鄧小平副総理と会談(5日午前)。周恩来総理と会見(5日夜)


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2022年2月15日

〈栄光の共戦譜〉

第2回

1961年(昭和36年)

「躍進の年(青年の年)」

 

広布の伸展は青年の飛躍とともに

 

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を一年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第2回は、「躍進の年(別名・青年の年)」と銘打たれた1961年(昭和36年)を掲載する。

 

1・28~2・14 アジアへ平和旅

1961年1月28日、池田先生は香港の地にアジアの平和旅の第一歩をしるした

 1961年(昭和36年)元日、学会本部で池田先生が新年のあいさつを行った後、戸田先生の和歌が紹介された。

 「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」

 翌日、池田先生は、恩師の墓前で、アジア訪問への決意を報告。そして1月28日、東洋広布を熱願した戸田先生の思いを実現するため、アジアへの平和旅に出発した。

 2月14日までの18日間で、香港、セイロン(現・スリランカ)、インド、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、カンボジアの5カ国1地域を訪れる行程だった。当時、香港に10世帯の学会員がいたが、他の訪問地には、ほとんどいなかった。

 1月28日、香港に降り立った先生は、早速、海外ではアジア初となる地区を結成。31日には、初めてインドの地を踏む。そして、幾万、幾十万の地涌の人材が誕生することを深く祈念する。さらに、ビルマを訪れ、この地で戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行い、恒久平和を誓う。

 この訪問では、先生の“一対一”の激励行によって、アジア各地に平和の種が植えられていくとともに、重要な平和・文化構想も語られた。

 「私は、必死になって、平和と文化の道を開こうとしているんです。私が東洋の哲学や民族、文化の研究機関をつくろうというのも、また、音楽の財団を設立しようというのも、そのためです」

 その展望はやがて、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)や民主音楽協会などの設立につながっていく。

 日蓮大聖人は、“仏法西還”の未来記を御予言された。先生のアジア訪問は、仏の未来記を実現し、平和と文化の道を開く歴史的な第一歩となった。

 

10・4~23 初の欧州訪問

イギリスのウィンザー城を見学する池田先生(1961年10月14日)

 池田先生が初の欧州訪問に旅立ったのは、1961年(昭和36年)10月4日。翌5日、デンマークのコペンハーゲンにその第一歩をしるした。東西冷戦の対立の溝が深まり、ドイツのベルリンが「壁」で分断された直後だった。

 8日、先生は西ベルリン(当時)を訪れると、建造されたばかりの「ベルリンの壁」へ。「ブランデンブルク門」を仰ぎながら同行の友に語った。

 「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう……」

 先生の言葉は、単なる願望ではなかった。“分断の壁”を取り除き、平和のために戦おうとの、断固たる決意にほかならなかった。

 その後、先生は民族やイデオロギーを超えて、世界の指導者と粘り強い対話を重ねながら、「平和」と「連帯」の潮流を広げていった。そして、28年後の89年(平成元年)11月、「ベルリンの壁」は、東西ベルリン市民の手によって壊されたのである。

 61年の初の欧州訪問では、先生は20日間で、デンマーク、西ドイツ(当時)、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリアの9カ国を歴訪。パリの凱旋門、ウィンザー城、ベートーベンの墓碑、サン・ピエトロ大聖堂などの歴史的建造物も視察した。

 2度の世界大戦をはじめ、絶えず戦火の舞台となってきた欧州に“ヒューマニズム”の種子をまく開道の旅路だった。

 先生は古代ローマの遺跡を訪れた際、「ローマの 廃墟に立ちて 吾思う 妙法の国 とわにくずれじ」と詠んだ。

 今、欧州では16万人を超える地涌の陣列が、仏法のヒューマニズムの輪を広げ、一人一人の心に、崩れざる“人間共和の永遠の都”の建設に挑んでいる。

 

11・5 男子部総会 11・12 女子部総会

10万人が一堂に会した第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)

 「躍進の年」と銘打たれた1961年(昭和36年)5月3日、池田先生は男女青年部の幹部と懇談し、こう語った。

 「青年の大飛躍の節にするために、今日を出発点として、今年を『青年の年』としたいと思うが、どうだろうか」

 先生は自らが、“青年の一人”との思いで、青年部の真っただ中に入り、若人たちに激励を送り続けた。

 11月5日、先生が「青年部の室長としての最後の仕事」と位置付けていた“10万結集”の男子部総会が開催された。

 “10万結集”は、54年(同29年)に戸田先生が「国士訓」を発表し、「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」と呼び掛けて以来、青年部の室長だった池田先生の大きな誓いであった。

 恩師との誓いを果たし、男子部総会の会場となった東京・国立競技場で、先生は力説した。「諸君が、それぞれの立場で、全民衆の幸福のため、広宣流布のために、大仏法の正義を証明する、人生の勝利者になっていただきたい」

 11月12日には、「原水爆禁止宣言」の発表の場である神奈川・三ツ沢の競技場で、8万5千人の女子部総会が行われ、「次の時代の女性指導者は、最高の哲学をもった皆さんである」と訴えた。

 先生は、当時の総会を振り返りながら、「青年の魂とは何か。偉大な目標に挑む気概だ。自ら求めて、新たな戦いを起こす覇気と行動力だ」と述べている。

 学会が飛躍する時、そこには必ず青年の躍進がある――。それは、戸田先生の弟子として、さらには第3代会長就任後も、池田先生が示してきた広布の不変の方程式である。

 

◆年表◆

1961年

 <1月8日>

 九州3総支部結成大会(福岡)

  

 <1月28日>

 アジア訪問(~2月14日。香港、セイロン、インド、ビルマ、タイ、カンボジア)

 香港でアジア初の地区を結成(28日)

 仏法西還の意義をとどめ、インド・ブッダガヤで「東洋広布」の石碑を埋納(2月4日)

  

 <2月19日>

 東北方面の支部結成大会(~23日。宮城、青森、秋田)

  

 <3月8日>

 関西3総支部合同幹部会(大阪)

  

 <3月16日>

 青年部第1回音楽祭(東京)

  

 <4月2日>

 戸田先生の四回忌法要(東京)

  

 <4月3日>

 上越指導(~4日。群馬、新潟)

  

 <4月12日>

 関西・中部指導(~16日。大阪、三重、愛知、岐阜)

  

 <4月22日>

 中国指導(~24日。岡山、島根、広島)

  

 <5月3日>

 第23回本部総会(東京)

 会長就任1年で61支部から139支部に発展・拡大

  

 <5月7日>

 九州・関西指導(~11日。福岡、京都、奈良、兵庫)

  

 <5月14日>

 沖縄総支部結成大会

  

 <5月17日>

 東北3総支部合同結成大会(福島)

  

 <5月19日>

 言論部結成式

 正義の言論を展開する使命を語る(東京)

  

 <6月10日>

 教育部の結成式が行われる(東京)

 中部指導(~12日。愛知)

  

 <6月17日>

 関西指導(~18日。京都、大阪)

  

 <6月27日>

 第14回本部幹部会で200万世帯の達成を発表(東京)

  

 <10月4日>

 初の欧州訪問(~23日。デンマーク、西ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、オーストリア、イタリア)

 東西対立の象徴であるベルリンの壁を視察(8日)

  

 <11月5日>

 第10回男子部総会で、戸田先生の遺訓である「国士10万」の結集(東京・国立競技場)

  

 <11月12日>

 第9回女子部総会で8万5千人が結集(神奈川・三ツ沢の競技場)

  

 <11月20日>

 東北本部の落成入仏式。「新世紀の歌」が発表される(宮城)

  

 <12月16日>

 大阪事件裁判の第83回公判で最終陳述を行う(大阪)

 

 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

 


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2022年1月19日

〈栄光の共戦譜〉

第1回

1960年(昭和35年)

「前進の年」

 

師弟の「闘魂」を青年に託したい

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を一年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第1回は、「前進の年」と銘打たれた1960年(昭和35年)を掲載する。

 

「5・3」第3代会長就任

第3代会長に就任する池田先生(1960年5月3日、東京・日大講堂で)

 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」

 1960年(昭和35年)5月3日、32歳の池田先生の師子吼が、東京・両国の日大講堂に轟いた。第3代会長が誕生し、広布の新たな幕が開けた。

 51年(同26年)5月3日、戸田先生は第2代会長就任に際し、「私は、広宣流布のために、この身を捨てます! 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします」と宣言した。「われわれ」ではなく「私の手で」との“一人立つ誓い”を叫んだ。

 師匠に呼応する池田先生の大闘争によって、恩師の生涯の願業である75万世帯を成就。戸田先生が58年(同33年)4月2日に逝去し、世間が“学会は空中分解する”と騒ぐ中にあっても、池田先生は、ただ一人の総務として立ち、学会の実質的な舵取りを担いながら、友の心に希望の灯をともし続けた。

 第3代会長就任式で、池田先生は、戸田先生の七回忌までに300万世帯の折伏を成し遂げることを誓った。

 それからわずか2年後の62年(同37年)11月には300万世帯が達成され、その後も創価学会は仏法を根底とした平和・文化・教育の団体として発展を遂げていく。

 創価の師匠が示してきた“広布の魂”は、人に頼むのではなく、一人立つ誓いを燃やし、誓願を果たすために徹し抜く不惜身命の実践であった。

 第3代会長就任60周年を刻んだ2020年(令和2年)、先生は池田門下の青年部に呼び掛けた。

 「地涌の師弟にみなぎる闘魂を、時代の荒波に敢然と立ち向かう頼もしき後継の青年たちに、私は託したいのだ」

 

「7・16」沖縄初訪問

1960年7月18日、池田先生㊥は「ひめゆりの塔」を訪れ、追善の祈りをささげた

 会長就任の以前から、池田先生が心に期していたのは、戦争の不幸の歴史を刻む沖縄をいち早く訪れ、沖縄から世界平和の潮流を起こしていくことだった。

 先生が初めて沖縄の地を踏んだのは、1960年(昭和35年)7月16日のこと。この日は、日蓮大聖人の「立正安国論」提出から、ちょうど700年の日に当たっていた。

 「私は、沖縄を『立正安国』の模範の天地に築き上げたかった。もっとも苦しみをなめたところが、もっとも幸せにならねばならない。なる資格があるし、必ずなっていく――これが仏法である」と、初訪問の思いを述べている。

 7月17日、沖縄支部結成大会に出席した先生は、「日本、世界の幸福と繁栄に貢献するのが学会の使命」と強調。

 「文証」「理証」「現証」の三証に言及し、「この三つのなかで、一番大切なのは現証です。現実の生活のうえに、功徳の実証を示し、皆さんが幸福になることが、最大の証明です」と沖縄の同志に指針を示した。

 さらに、支部結成を祝う寄せ書きには、「沖縄の同志よ団結せよ」と書きとどめた。

 18日には、南部戦跡を視察し、友に語り掛けた。

 「沖縄は広宣流布の“要石”だ。この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしていこう」「最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ」

 先生の初来島以来、沖縄の同志は故郷を“平和の要塞”に転じる闘争を展開してきた。

 その原点である7月16日は、師弟の平和の精神が輝く「沖縄原点の日」となっている。

 

「10・2」世界広布の第一歩

東京・羽田の空港からハワイに向けて出発する池田先生(1960年10月2日)

 10月2日は「世界平和の日」。池田先生が初めて海外訪問に出発した日だ。

 この日、先生は羽田の東京国際空港から、最初の訪問地ハワイへ出発。上着の内ポケットには、第2代会長・戸田先生の写真が納められていた。

 戸田先生は逝去の直前、池田先生にメキシコに行った夢を語った。

 「行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」「君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ」「世界に征くんだ」

 初の海外訪問の日を「2日」としたのは、戸田先生の命日に当たるからだ。池田先生は恩師の分身として、世界広布の第一歩をハワイの地に印したのである。

 当時はまだ、日常生活の中で“世界”を実感できる場面は少なかったが、池田先生は「世界広布」の理想を同志に訴えてきた。同年10月5日付の聖教新聞1面に初めて「世界広布の第一陣」との見出しが大きく紙面を飾り、全同志に新たな広布の息吹が送られた。

 先生はアメリカ、カナダ、ブラジルの3カ国9都市を歴訪。移動距離は地球一周余りに当たる4万数千キロに及んだ。行く先々で、目の前の一人を全魂を注いで励ました。24日間の訪問で、2支部17地区が結成され、先生の手によって、世界広布の種子が植えられた。

 以来62星霜――。先生はこれまで54カ国・地域を訪問。現在、広布の大河は世界192カ国・地域へと広がり、地涌の連帯は全地球に希望を届けている。

 先生は、初の海外訪問を振り返りながら、“世界広布の要諦”を述べている。

 「一人でも同志がいるならば、万里の彼方であろうと、草の根を分けても尋ね当て、励ましたかった。一つの泉から川が生まれるように、その一人から世界平和の大河がつくられる」

 

◆年表◆

1960年

 〈5月3日〉

 創価学会第3代会長就任式(東京・日大講堂)

 戸田先生の遺言である300万世帯達成を4年後の七回忌までの目標として掲げる

  

 〈5月8日〉

 関西総支部幹部会(大阪)

 以後、北海道(22日)、九州(29日、福岡)、東北(6月4日、福島)、中部(10日、愛知)、中国(12日、岡山)の総支部幹部会に相次ぎ出席

 新会長誕生による歓喜のなか、弘教の大波を起こす

  

 〈6月26日〉

 第3回学生部総会(東京)

 「恩師・戸田先生の思想を世界に宣揚、実現してほしい」と期待

  

 〈7月16日〉

 沖縄指導(~18日)

 沖縄支部結成大会(17日)

 沖縄戦の戦跡を訪ね、犠牲者に追善の題目を送る(18日)

  

 〈7月22日〉

 第2回婦人部大会(東京)

 「信心とは行き詰まりとの戦いであり、唱題第一で幸福境涯を築こう」と語る

  

 〈7月30日〉

 男子部の人材育成グループ「水滸会」の野外研修(千葉)

  

 〈7月31日〉

 女子部の人材育成グループ「華陽会」の野外研修(千葉)

  

 〈8月5日〉

 夏季講習会(~8日。静岡)

 以後、夏の伝統行事として御書講義、質問会等を通し、人材育成に取り組む

  

 〈8月26日〉

 北海道指導(~29日)

 会長就任後初めて戸田先生の故郷・厚田村を訪問

  

 〈9月23日〉

 青年部第3回全国体育大会「若人の祭典」(東京・国立競技場)

  

 〈10月2日〉

 北・南米訪問(~25日。アメリカ、カナダ、ブラジル)

 初の海外歴訪。ニューヨークで国連本部を視察(14日)

 移住者として北南米の各地に点在し、差別や貧困に悩む草創の友を励ます

 24日間で3カ国9都市を巡る激闘により、アメリカ総支部、ブラジル、ロサンゼルス支部をはじめ、ハワイ、サンフランシスコなどに17地区を結成

  

 〈11月1日〉

 千葉支部結成大会

 以後、前橋(4日)、沼津(7日)、甲府(9日)、松本(10日)、長野(11日)、富山(12日)、金沢(13日)、山形(22日)、南秋田(23日)、岩手(24日)、水戸(26日)などの支部結成大会へと全国を駆ける

  

 〈11月6日〉

 第9回男子部総会

 「男子部の発展が平和実現の力であり、苦楽を共にし前進を」と語る(神奈川)

  

 〈11月18日〉

 牧口先生の十七回忌法要(東京)

  

 〈11月20日〉

 第8回女子部総会(東京)

 「真実の幸福は生涯、自行化他の信心を貫くなかにある」と語る

  

 〈12月3日〉

 九州・関西・四国・中国指導(~8日。大分、大阪、徳島、岡山)

 大分(4日)、徳島(6日)で支部を結成

 中国本部落成入仏式(7日、岡山)

 

 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.5.27

第2301回

 

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