五月三日

2020年4月30日

 

第3代会長就任60周年記念

「師弟凱歌の記憶」

 特別編「1960年5月3日」への道 

2020年4月30日

永遠なれ! 我らの五月三日 

 

「一歩前進への指揮を執らせていただきます!」――第3代会長就任のあいさつに立つ池田先生

 

 「我らの五月三日」よ、永遠なれ!――池田大作先生の第3代会長就任から、5月3日で60周年を迎える。「師弟凱歌の記憶」特別編として、1960年(昭和35年)5月3日の会長就任式に参加した友の手記や証言等を交え、「5月3日への道」をたどる。 

 1960年(昭和35年)の「5月3日」は日本晴れだった。

 夜来の雨は上がり、青く広い空に新緑が映える。東京・両国の日大講堂が、ひときわ輝いて見えた。

 新会長の池田先生がタクシーから降りると同志の歓声が上がる。

 香峯子夫人が、「會長」と書かれた菊花の胸章を胸に挿した。

 第3代会長就任式となる第22回春季総会は、正午に開会した。

 音楽隊による学会歌の演奏が轟く中、池田先生が入場。恩師・戸田城聖先生の形見のモーニングをまとっている。

 途中、先生は歩みを止め、前方に高く掲げられた、師の遺影を見上げた。

 壇上に立った池田先生は、力強く就任の第一声を放った。

 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」

 会場を埋め尽くした同志が、頰を紅潮させ、雷鳴のような拍手で応える。

 世界広宣流布の使命を帯びて出現した不思議なる教団は、この日、この瞬間から、青年会長のもと、怒濤のごとき、本門の前進を開始したのである。 

 第3代会長の誕生を、同志がどれほど待ち望み、どれほど喜んだか。

 参加者は振り返る。

 「両国駅から会場までの役員は、どの顔も、今日の喜びが満面にあふれて『おはようございます。ご苦労さまです』と元気いっぱい。言葉を掛けられただけで、ただ感激で、もう涙でした」(婦人部員=当時)

 「ろくな着物も持っていなかったので、私は長男の入学式でやっと作った黒のスーツ、主人は色あせたグレーの上下別々の背広を着て参加しました。でも心の中は金襴緞子の錦を着飾っているようでした」(同)

 「池田先生が真ん中の通路より入場されました。今までの興奮がいっぺんに爆発し、拍手と歓声で鉄傘(鉄骨の丸屋根)が吹き飛ぶようなすごいものでした」(壮年部員=当時)

 ◇◆◇ 

 第2代会長・戸田城聖先生の逝去から2年。「ゆらぐ創価学会の屋台骨」「壊滅寸前の創価学会」等と一部マスコミが書き立てる中、学会を支え、前進の推進力となってきたのは若き池田先生だった。

 1958年(昭和33年)5月3日、戸田先生亡き後、初めての春季総会で先生は“七つの鐘”の構想を示した。当時は学会創立から28年。7年を一つの節として前進してきた学会が「第四の鐘」を経て、「第五の鐘となる、新たな七年」へ出発するとの宣言である。

 6月には、ただ一人の総務に就任。学会の運営の、実質的責任を担うことになった。翌59年(同34年)を「黎明の年」とすることを提案したのも先生である。今日まで続く年間テーマの始まりである。

 同年には、戸田先生の御書講義などの音声をレコードにして残すことを決定。

 夏の参院選では、主戦場の東京を激励に駆け巡り、前回は苦杯をなめた東京地方区をトップ当選、全国区5人を全員当選に導いた。

 ◇◆◇ 

 当時、先生は大田区小林町の自宅から国電(現JR)で信濃町の学会本部に通っていた。

 「先生が到着されるや、本部は偉大なモーターが動き始めるように、回転を始める」――会長就任直前の本部の模様を、当時の女子職員が証言している。

 先生は午前中、机上に積まれた手紙や書類の山に向かい、どんどん処理した。午後は、訪れる同志の激励に当たるのが常だった。

 「先生は1階の応接などで、一人一人、懇切丁寧に指導されていました。部屋に入り切れず、廊下まであふれた方々が、必死で先生の言葉に耳を傾けている情景が毎日のように見られました。夕方には必ず、座談会や御書講義に、青年部の会合にと出掛けられ、まさに休む間もない、戦いの毎日であられました」

 とりわけ先生は、青年を大切にした。

 以下は、当時の一男子部員の述懐である。

 59年秋のある日。父から継いだ事業の借財に悩んでいた彼は、先輩に“池田総務に相談しては”と勧められ、本部に向かった。

 いつも指導を受ける人でいっぱいと聞いていたが、応接の扉を勢い込んで開けると、2、3人しかいない。

 あわてて出ようとすると「やあ、どうした、いいんだよ」の声。池田先生だった。

 先生は、経済の苦境、仕事と活動の両立の悩みに耳を傾けると、師のもとで苦闘した体験を語り、こう激励してくれたという。

 「若いうちに苦労することは、それがそのまま、人生の財産になるのだよ。負けちゃいけない。歯を食いしばって頑張るんだ」「ところで、友達はいるかい。信心を貫き通すには良い友達を持つことだ」

 指導を受けたいと、小林町の自宅を夜遅く訪ねる同志もいた。先生は、仕事に個人指導に会合に精魂を使い果たし、疲労困ぱいのはずだが、「どうしたんだい」と温かく迎え入れてくれた。団らんの場であるはずの自宅もまた、広布の“戦場”となったのである。

 ◇◆◇ 

 先生は戸田先生の膝下で、誰よりも厳しい薫陶を受けてきた。

 蒲田の二月闘争、札幌夏の陣、大阪の戦い、山口開拓指導と、ひとたび広布の戦の庭に立てば、必ず師匠の期待に応え、勝利の歓喜の渦を巻き起こした。

 そして師匠亡き後も、命を削って同志に希望を送り続けてきた。事実の上から、戸田先生を継ぐ指導者は、先生以外にあり得ないと誰もが思った。

 60年を迎える頃には、青年部を中心に、第3代会長推戴の声が澎湃とわき起こってきた。何より同志は、「信心の師匠」を求めていたのである。

 4月の戸田先生の三回忌を機に、当時の首脳は会長推戴で一致。3月末から繰り返し就任が要請された。

 先生はその都度、固辞した。当時の真情が随筆につづられている。

 「せめて、戸田先生の七回忌までは、との思いであった。また、当時、私は、大阪の事件の被告の身であった。会長になって、万が一にも、有罪判決となれば、学会に傷をつけてしまう。断じて無罪を勝ち取るまでは、お受けできないと、私は決めていた」

 それでも首脳は引かなかった。

 4月13日に重ねての要請。先生は一晩、回答を保留したが、14日午前、本部の応接室でさらに就任を懇請されると、ついに受諾した。

 午前10時10分。壁にある牧口先生と戸田先生の写真が、じっと見守っていた。

 この日の日記に、先生はつづった。「万事休す。この日――わが人生の大転換の日となれり。やむをえず。やむをえざるなり。戸田先生のことを、ひとり偲ぶ。ひとり決意す」

 15日にはこう記した。「戸田会長に、直弟子として育てられたわれだ。訓練に訓練をされてきたわれだ。なんで戦いが恐ろしかろう――ご恩を返す時が来たのだ。日本の歴史、世界の歴史を創りゆく戦いなのだ」

 19日、学会本部で全国代表幹部会が開かれ、第3代会長就任が発表。週刊だった本紙は4月22日付で報じている。

 喜びは大波となって、全国へ広がっていった。 

長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」

我ら創価の友はいかなる試練に直面しても

常に原点の五月三日から元初の太陽を心に燃やして

勝利へ出発するのだ。 

 当時、年2回開かれていた本部総会は、各支部の持ち回りで運営され、この年の春季総会は、川崎支部が担当することになっていた。2月から準備を進めていた同支部の友にとって、総会が会長就任式になることは予想外の出来事であった。

 “一つの支部に任せて大丈夫か”と懸念の声も上がったが、池田先生の「今まで、一生懸命やってきているのだから」との一声で、そのまま運営を託されることになった。

 “とんでもない使命だ! 一生に一度あるかないかだ!”――準備に一段と力が注がれていった。

 支部拠点で、講堂正面に掲げる総会の大看板、戸田先生の和歌を大書した垂れ幕、新会長が上る特設階段などが次々と出来上がる。

 女子部員は先生の胸章にするため、季節外れの菊花を探し求め、婦人部と青年部は、日大講堂の柱や床を懸命に磨き上げた。

 ◇◆◇ 

 5月3日は、美しい五月晴れとなった。多くの人が、はやる気持ちを抑え切れない。始発電車で吉祥寺駅を出た人は、両国の日大講堂に着くと、既に長い列ができていたと話す。

 午前7時15分に入場開始。整理役員の証言によれば、“8時にはもう整理もほぼ終わり、開会を待つばかり”だった。開会は正午だが、午前9時頃に到着した人はもう、場外から耳を傾けるしかなかった。

 同志は全国から集い、日本返還前の沖縄からも、59人が船で駆け付けた。鼓笛隊や音楽隊の演奏などの晴れがましい光景に、旅の疲れも吹き飛んだという。

 正午。学会歌のトランペットが高らかに鳴った。

 正面には戸田先生の遺影と共に、2首の和歌が掲げられた。

 「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」

 「一度は 死する命ぞ 恐れずに 佛の敵を 一人あますな」

 力強い手拍子と歌声に包まれて、就任式が始まった。

 池田先生は、就任の第一声に続き、戸田先生の七回忌までに、恩師から託された会員300万世帯を達成する決意を語った。新しき時代の黎明を告げる大師子吼であった。

 感動と決意のうちに就任式の幕は閉じ、続いて行われた祝賀会も終わって、先生が退場しようとした時のことである。

 青年たちがワーッと歓声を上げながら駆け寄った。

 「万歳! 万歳!」

 胴上げが始まった。池田先生の体は、高窓から注ぐ光を浴びて、何度も宙に躍った。小説『人間革命』第12巻「新・黎明」の章の最後を飾る名場面である。

 ◇◆◇

 ――その夜。「大阪の戦い」を共に勝ち抜いた白木義一郎・文夫妻が、ひと言だけでもお祝いをと、小林町の先生宅を訪れた。日中の興奮と打って変わって、留守かと思うほど静かだったという。玄関先だけで辞去しようとする夫妻を、先生が招き入れた。

 「いいじゃないか。誰か来ないかなあと思っていたんだよ。よく来たね。本当によく来たね」

 「今日は、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ。(香峯子夫人を指して)この人がね。今日は池田家のお葬式の日だといって……」

 白木夫人が語っている。「いつどんな時でも笑顔をくずされない奥さまが、この日に限って笑顔をお見せになりませんでした。その奥さまの姿と、先生の言葉に、何か胸をつかれる想いでした」

 ◇◆◇

 あの歴史的な一日から60年。池田先生は、戸田先生に託された構想を全て実現し、創価の連帯は192カ国・地域に広がった。創価学会は世界宗教として、全地球の平和と民衆の幸福に貢献する時代に入った。

 今、池田門下の我々は、いかなる決意で「2020年5月3日」を迎えるのか。

 先生は呼び掛けている。

 「おお/我らの五月三日!/永遠に忘れ得ぬ/五月の三日よ!」

 「我ら創価の友は/いかなる試練に直面しても/常に原点の五月三日から/元初の太陽を心に燃やして/勝利へ出発するのだ。/目標と定めた/新たな五月の三日へ/完勝の旗を打ち立てゆくのだ」(長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」) 

 

2020.4.30付聖教新聞1面~2面

 

2017年4月16日

 輝き光れ!
我らの五月三日
(2)

 

<世界広宣流布への旅立ち>


 おお
 勝利に輝きわたる
 我らの五月三日よ!
 未来永劫に光りゆく
 師弟の五月三日よ!


 めぐり来る
  五月三日の
    嬉しさに
  同志の笑顔と
    決意の歴史は


 世界の歴史には
 数多の祝賀の日がある。
 しかし民衆と遊離して
 形骸化してしまった
 死せる記念日も少なくないと
 ある学者は叫んだ。


 広布に生きゆく
 我らの五月三日は
 なんと晴れやかで明るく
 なんと生き生きと
 朝日の昇りゆく
 心爽やかな
 大歓喜の一日であろうか。


 天高く澄みわたる
 昭和三十五年の五月三日
 三十二歳の若き指導者は
 尊き晴れ姿の民衆と共に
 新たな大遠征に旅立った。
 それは
 世界の広宣流布である。


 前人未到の峰を一歩一歩と
 登り続けて五十年(当時)――。
 今や我らの眼前には
 壮大な眺望が開かれている。
 はるか地球を包みゆく
 平和と幸福の大連帯の隊列だ。


 「報恩抄」に曰く
 「小失なくとも
  大難に度度 値う人をこそ
  滅後の法華経の行者とは
  しり候はめ」


 正法正義に生き抜く
 我らには
 荒れ狂う嵐が幾たびもあった。
 みな断固と勝ち越えてきた。
 険難な山があり谷があった。
 みな敢然と踏み越えてきた。


 「法華経を信ずる人は
  冬のごとし
  冬は必ず春となる」
 この御金言を胸に
 あの友も この友も
 皆が歓喜しながら
 変毒為薬の劇を演じてきた。


(つづく)

 

2017年4月12日

輝き光れ!

我らの五月三日

(1)

 

<光は闇を恐れない>

 

 おお
 我らの五月三日!
 永遠に忘れ得ぬ
 五月の三日よ!

 

 それは
 恩師・戸田城聖先生が
 会長になられた日である。
 そして
 師弟不二の境涯の上から
 私が第三代として
 立ち上がった日である。

 

 寒風の二月と三月を
 乗り越え
 桜の咲く四月を見つめつつ
 遂に迎えた輝ける新緑の朝!
 五月は一年で
 最も晴れがましい季節だ。

 

 尊貴な光に包まれた
 我らの五月三日よ!
 光とは正義であり
 闇とは邪悪である。

 

 光は闇を恐れない。
 光を持つ人は
 何も恐れない。
 光は永遠に輝く勝利だ。

 

 闇に生きぬく人は
 心も暗い。
 創価とは
 あらゆる人々の心を
 強く正しくする
 勇気の光だ。

 

 闇は光を塞がんとする。
 しかし
 光は立ち止まらない。
 創価とは
 限りない希望の未来を
 照らしゆく前進の光だ!


(つづく)

世界広布新時代

創立90周年へ

前進・人材の年

(2020年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2020.10.10

第1695回

  

日天月天ワンショット

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