人物

◆あ行

アタイデ総裁

アウストレジェジロ・デ・アタイデ(Austregésilo de Athayde、ブラジル、1898年9月25日 - 1993年9月13日)

2015年3月16日

 <ブラジルの人権の闘士アタイデ氏(4)>

 

本来、人間は『改革者』である

 

 「ブラジルのことわざに『権威主義は母となり、師となる』とある。
 これは一種の皮肉である。つまり権威主義というものは、(わがままな)母のように、すべての愛情を欲しがり、(わがままな)師のように、すべてを意のままに従わせたいのだという意味である。

 しかし、本来、人間は、権威を否定する『改革者』なのである」と。
 創価学会は、宗教の悪(あ)しき権威を一切否定する。これが、初代・二代会長以来の信念である。
 何より、最高にして根本的な「改革者」であられた大聖人の御精神も、ここに脈々と流れていることを強く確信する。
 そしてこれこそ、人間が最も人間らしく、正しく生きる道であると宣言しておきたい。

 また氏は、「破門」について、次のように語っておられる。
 「宗教のドグマに反対したために追放されたとしても、なんら恐れることはない。
 私は『破門』という言葉ほど嫌いなものはない。破門と聞くと、怒りが込み上げてくる。破門は一つの価値も生むことはない。
 もし、神の名を利用して″地獄に堕ちる″と言うなら、その宗教はもはや正しい宗教ではない。

 神に人を救う力があるなら、神は人を助けるはずだ。決して地獄に堕としたりはしない。

 仏に慈悲があるなら、人を救うはずではないのか。仏の名を借り、私物化するものがいるとすれば、それはもはや正しい宗教ではなくなってしまった証拠ではないか」──と。
 さらに、九十三歳という高齢になっても、休まず戦い続ける同氏に、その「精神」について尋ねたところ、「大事なのは、自分の決意の深さである。自分が決めた仕事を最後まで果たすことである。『世界人権宣言』についても、私は最後の最後まで信念を貫いた」と答えておられたという。
 ″私には誇りがある。私は勝利者である″との心の鼓動が聞こえてくる。
 いかなる世界であれ、最後まで戦い続けた人が「最後の勝利」を手にする。その原動力は、不屈の「決意」「責任感」であると、氏は結論されている。
 皆さまもまた、最後の最後に「私は世界一、幸福だ」「我が家は世界一、幸福だ」と誇れる勝利の人生であっていただきたい


1991.12.14婦人部幹部会、江戸川、葛飾、足立 文化音楽祭

 

2015年3月15日

 <ブラジルの人権の闘士アタイデ氏(3)>


 独裁者の性格

 

   またアタイデ氏は、独裁者の性格について、鋭く分析しておられる。
 「すべての権力者は、必ず堕落する。手に入れる権力が大きければ大きいほど、その堕落も大きい。独裁者は、その権力の目的を正当化するために″仲間づくり″をするものだ
 悪の″仲間づくり″は、独裁者自らが、最大の″憶病者″であることの裏返しであろう。皆さまもよくご存じの、民衆への反逆者たちは、反逆者同士で″憶病者″の仲間をつくっているようである。
 「しかし、その仲間の目的にも、だんだん違いが生じてきて分裂し、やがて独裁者は、孤独になる運命にある。ブラジルの独裁者・バルガスも、結局、最後は孤独な姿で、自殺の道を選んだ」
 ヒトラーも自殺、イタリアのファシスト・ムッソリーニは銃殺刑。歴史の目から見るとき、独裁者の末路は、あまりに哀れである。

宗教の独善性が人間を奴隷に

 

 更にアタイデ氏は、″宗教の権威″を、人間の敵として、厳しく弾劾しておられる。
 「(聖職者という)宗教的権力者は、宗教のドグマ性(たとえ事実に反しても教義を押し通すこと)によって、人間を精神的に逮捕したい、また奴隷にしたいと考えている。そしてドグマの道から離れようとすると″異端″だと決めつける
 今で言えば、誤りを指摘する人に対し、″謗法だ″とか、″地獄に堕ちるぞ″″破門だぞ″などと脅迫することであろうか。
 「ドグマに従うことは人生の視野を狭くするだけである。独善や権威は、無限であるはずの、人間の知性に、有限の黒い壁を造ってしまう。要するに、人間の創造的知性を全部、打ち砕いてしまうのである。
 それはなぜか。『宗教的権威への盲従』は、人間の堕落であり、惰性であり、怠け根性である。狂信的に従うことは、自分の意見を失い、ついには人間でなくなってしまうことだからだ
(つづく)

2015年3月14日

 <ブラジルの人権の闘士アタイデ氏(2)>


 黙っていては権力に勝てぬ

 

 アタイデ氏はインタビューのなかで、こう語っておられたという。
 「安直な日常の状態では、人間の力は育成されない。民衆を圧迫する権力との戦いを経験する以外に、人間自身が、真に強くなる方法はない。
 その苦境のなかで、いかに自分自身を磨いていくか。そこに、権力との闘争に打ち勝つ、人間としての力が培(つちか)われていく」
 「権力との戦いは、黙っていては、勝つことはできない。黙っていれば、民衆は、いつしか権力者の側にだまされ、いいように利用されるだけである。人権も、人間の尊厳も、黙っていては権力に屈服してしまう。

 ゆえに、叫ばねばならない。権力に対する民主の勢力は、絶対に黙っていてはならない。真の自由と幸福を得るためには、力を尽くして戦うことだ。権力との戦いは、ある意味で永遠である。どこまでもどこまでも戦い抜かねばならない」と。
 権力の魔手は、黒い策謀と悪意。民衆の武器は「声」と「言葉」である。自由を守るための戦いに、何を遠慮する必要があろうか。
 叫ばねば戦いではない。戦わねば幸福にはなれない。立つべき時に立ち、叫び切ることが、人間としての証なのである

 

民衆に『事実』を知らせることが大切だ

 

   また、こうも述べておられたという。
 「何より、民衆に『事実』を知らせることが大切だ。それは民衆の権利である。我々は、事実を訴え抜いていかねばならない。事実、実態をわかってこそ、正邪を見極めることができるからだ
 その通りだと、私も思う。

 真実を真実として、事実を事実として言える世界。学会員一人一人が、魂の自由を謳歌できる世界──。その幸福の時代をつくるために、私は時を待った。時をつくった。
 しゃべるなと言われても、書くことができる。書くなと言われれば、音楽を弾(ひ)いてでも激励できる。また、あらゆる角度からのスピーチで、正邪を見わける力を皆に与えることもできる。どんな立場になろうと、私は私である。どんな圧迫があろうとも、私は愛する学会員のために働き続ける。それが、この十数年間の私の決意であり、戦いであった
 そして今や、世界中に、学会同志の「真実」と「正義」の声は、堂々と響きわたっている。まさに″時はきたり!″。創価の友の「自由」は満開である。
(つづく)

2015年3月13日

 <ブラジルの人権の闘士アタイデ氏(1)>


 「世界人権宣言」の推進者の一人

 

 さて、聖教新聞でも報道されていたように、明年(当時1992年)、ブラジルのサンパウロで、私の撮影した写真展が開かれることになった(1月22日から2月16日まで)。海外での開催は、これで8都市目。光栄なことである。
 今回の写真展の名誉実行委員には、ブラジルを代表する8人の文化人の方々に、就任していただいている。先日、その一人であるアタイデ氏に、青年部の代表がインタビューする機会があった。その内容について報告をいただいたので、ご紹介したい。
 インタビューの際、アタイデ氏は、私に著書を贈りたいと、献辞をしたため託してくださった。そこには、私のことを「現代における日本文化の最高の名士」とまで書かれていた。

 過分なお言葉であり、恐縮しているが、同氏の温かい友情に、深く感動した。
 アタイデ氏は、現在(当時1991年)九十三歳。″ブラジルの良心″″南米の良識″とも呼ばれる、最高峰の文化人である。
 インタビューによれば、今なお、一日に16時間は働き、この70年間、一日も休まず、新聞にコラムを書き続けておられるという。そして、必要であれば、どこへでも出向いて行ってスピーチをされる。驚くべきバイタリティーである。
 またアタイデ氏は、1948年、第三回国連総会で採択された「世界人権宣言」の起草者の一人。しかも、唯一の存命者であられる(当時1991年)。

 そして″人権の闘士″としての不滅の足跡は、世界的に知られている。
 <ヒトラーが独裁政権を握るなど、ファシズムが台頭してきた1930年代、ブラジルでも、憲法を無視した一人の独裁者・バルガスによって、多くの民衆が抑圧され苦しめられていた。

 その時に、敢然と独裁に挑み、護憲革命運動を推進した一人がアタイデ氏であった。

 しかし、弾圧の魔の手は容赦なく襲いかかり、陰謀によって訴えられたアタイデ氏は、ついに投獄。15日間、拘留されたあと、3年間にわたって国外追放に処され、各地を転々とした>

 アタイデ氏は、現在(当時1991年)、ブラジルを代表する知性の府・文学アカデミーの総裁であられる。
(つづく)

アリアス元大統領

(オスカル・アリアス・サンチェス、コスタリカ、1940年9月13日~)

2014年5月11日

強い意志で、断じて成し遂げよ! 

  

・「私は、軍隊を撤廃した国からまいりました。コスタリカにとっては、最大の国防戦略は、軍隊を持たないことです」

 「軍隊を持たないことは、夢物語ではないと、私たちは世界に証明することができた――そう深く確信しています」

・「差異を越える意志です。暴力を使わないための方法を何としても探し出す、強い意志が必要です」

・1994年の初会見で元大統領は、SGI等が主催する“核の脅威展”の母国開催を、強く要請した。(SGI会長は)
 「核全廃は、何十年来の創価学会の主張です。行動です。悲願です。貴国での開催に、私は大賛成です」と快諾。
 元大統領らの招聘により、コスタリカを訪問し、首都サンホセでの同展開幕式に臨んだのは、96年6月28日のことだった。
・(元大統領は)「類いまれな大学を卒業される皆さんは、『非現実的だ』『純粋すぎる』などと周りから見なされるでしょう」「学生仲間との輝く親交から、今でも戦争を評価する世界で、平和推進者の孤独へと進まれるでありましょう」
 「しかし恐れる理由は全くありません。決して怯まずに、挫けずに、断じて成し遂げてください。今この時に感じている決意を、これからの人生の中で日々、思い起こし、必要な強さをそこからまた引き出して、前に前に進んでいかれることを私は熱望します」(2014.3.20創価大学卒業式にて)


聖教新聞2014.5.5付響き合う魂第34回 アリアス元大統領

2014年5月10日

 『民の声』こそ『天の声』

 (つづき)
 ・ついに和平案の合意ができた時、中米の全民衆の喝采の中で、大統領は語った。
 「今日は私の人生で最も幸せな日です。本当に、夢を見続けてきたかいがありました。大多数の人々にとって、私の見てきた夢は実現不可能であり、ドン・キホーテ的ユートピア、幻想にすぎませんでした。しかし、人間は夢を一生懸命見続けていますと、それが実現する時がやって来るものです」
・「悲観的な人は、ただの傍観者で終わる。世界を変えるのは楽観主義者である。」(仏:政治家ギゾー)
・「核を持った国が、持たない国に『持つな』と言っても、道徳的に何の権威もありません」
 コスタリカには、核兵器どころか軍隊がない。
・「必要なのは、軍備への投資ではありません。人間への投資です。教育、環境、医療への投資です。安全保障の概念を変えなければなりません。必要なのは『国家の安全保障』ではなく、より根本的な『人間の安全保障』なのです」
・日本も、あの敗戦の時、皆で誓ったはずである。もう二度と過ちを繰り返さないために、世界から尊敬される「文化国家」を作ろう! 力を合わせて!
 その初心を、どこで忘れてしまったのだろうか。今、「詩心」も「哲学」も「人情」も「倫理」もなく、市民の人権を平気で蹂躙して恥じない国になってしまった。
・アリアス元大統領は語っていた。
 「自国の市民を不当に扱う国は、近隣の国をも不当に扱う傾向にあります」
 「貧しい国々が日本に期待しているのは、『軍事大国』になることではなく『道徳大国』になることなのです」


世界の指導者と語る アリアス元大統領

2014年5月9日

 『民の声』こそ『天の声』

 
 軍隊なき国・コスタリカ アリアス元大統領。
・一人立つ精神。
 アリアス氏が来日された時に、私は称えた。
 「人間は人間を殺してはならない。だから武器を捨てよ――あまりにも当然の訴えです。
 しかし、人類はその当然のことを、いまだ実現しておりません。そのためには、勇気をもって、だれかが立ち上がらなければならない。
 旧来の思考や既得権益に、しがみつく人々からは総攻撃されるかもしれない。しかし、立つべきです。その人が歴史をつくります」
・うち続く戦乱に、足を失い、手を失った男たち。父も、夫も、兄弟も亡くした女たち。明日を信じられなくなった子供たち。

 「もう絶望の涙は、たくさんです! もう政治家の二枚舌は、うんざりなのです!」
 氏は、そう叫んで「アリアス・プラン」と呼ばれる平和構想を練り上げ、各国を回りに回って、賛同の輪を広げていった。ヨーロッパにも行った。アメリカにも行った。国連にも行った。
 しかし、中米の当事者との対話は何度も暗礁に乗り上げた。神経は擦り減った。現実の壁は厚かった。
 エルサルバドルで、ある首脳会議を終えて出てきた大統領は、疲れ果てていた。
 そこに、身なりの貧しい女性が近づいてきた。子どもを連れていた。
 彼女は大統領の手を握りしめて言った。
 「大統領、この子たちの未来のための平和構想を、ありがとうございます・・・・・」。彼女は泣いていた。
 「よし、この期待を裏切るまい」。勇気がわいた。

(つづく)


世界の指導者と語る アリアス元大統領

◆か行

ゲーテ

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)1749年8月28日 - 1832年3月22日

2018年12月13日

第1569回
ゲーテ

 

<「自由な土地に自由な民とともに生きたい」>

 

最後に勝つのは人道主義


 ところで、「はじめに行動ありき」とは、ゲーテの、あまりにも有名な傑作『ファウスト』の一節である。ゲーテ自身、行動の人であった。
 ドイツのワイマール公国で、若き日から政治に身を投じ、不滅の実績を次々に挙げていったことも名高い。その足跡は、政治に「人道主義の精神を導入した」と、歴史に高く評価されている。
 いつの世も、望まれるのは、人間の心の通った政治である。私たちの強い願いも、ここにある。
 ゲーテは、青年リーダーとして、″物事は上から見おろしていては、真実はつかめない。下のほうから見ていかねばならない″との信条に立っていた。
 彼は、庶民の目線に立ち、庶民のための政治をめざして、当時としては進歩的な福祉を整備していった。庶民の生活のため、雇用の創出をはかった。国民の生命の安全確保に心を砕いた。災害ヘの迅速な対応に全力を注いだことでも知られる。
 ひとたび、火災や洪水が起これば、彼は即刻、現場へ駆けつけて、救援にあたった。ある災害では、彼の奔走のおかげで、一人の犠牲者も出さずにすんだという感謝の声も残されている。
 ゲーテは、民衆と苦楽をともにすることを喜びとし、誇りとした
 当時、国の財政は完全に疲弊し、多くの庶民があえぎ、苦しんでいた。その実態に深く胸を痛めた彼は、大臣として、また宰相として、断固たる「改革」に取り組む。
 彼は、何よりもまず改革すべきは政治家自身であるとした。虚栄の為政者の贅沢や、見栄っ張りな過度の接待を戒め、有力者の「特権」の廃止に挑んだ。さらに行政の無駄を整理し、乱脈財政を正し、軍縮を進めながら捻出した経費を、貧しい人々への援助にあてた。
 また彼が、できうるかぎり尽力したのが「教育」であり、「芸術」であり、「文化」であった
 ゲーテの情熱と献身は、ワイマール公国の都市を、古代ギリシャのアテネにも比せられる、世界への教育と文化の一大発信地に築き上げた。戦乱による荒廃のなかでも、大学、劇場などを厳として復興させていった。国家も、時代によって変化はまぬかれない。しかし、何があろうとも、人間をつくる「教育」を守り、人間を豊かにする「文化」を守れば、必ず希望の未来が開ける。そうゲーテは展望していたのである
 こうした彼の戦いは、既存の勢力の根強い抵抗にあい、妬みの声、悪意の中傷をあびせられた。世の常である。
 しかし、「高貴なものが悪いものに打ち勝つ」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)。これがゲーテの信念であった。彼は「人道主義が最後の勝利を占めるというのは真実であろうと思う」(『イタリア紀行』相良守峯訳、岩波文庫)とも書き残している。
 友人のなかには、ゲーテのことを思いやり、政治権力の世界から離れるよう忠告する者もいた。
 しかし、彼はひかなかった。いな、ひけなかった。もしも、当時、彼が離れたなら、時の君主は歯止めを失って軍事化を指し進め、国を破綻させてしまう危険があつたからである。
 だから、ゲーテはあえて政治の世界にとどまった。軍事化への、いわば抑止力となって貢献し、外交による平和の保持に尽くした。そして、国民の生活を守ることを第一義として改革の推進力となり、次々に仕事を進めていったのである。
 ゲーテは言う。
 「悪はその結果において個人の幸福も全体の幸福も破壊するものであり、それに対して、気高いもの、正しいものは個人の幸福と全体の幸福をもたらし、これを確実なものにする」(山下肇訳、前掲書)
 日本も、あらゆる次元で、人間主義へと改革すべきだという機運が、大きく高まっている。
 今こそ、民衆が連帯して、気高く正しい力を、断固として強める時である。反動的な、歴史の逆行は厳然と防いでいかねばならない。そして、二十一世紀の日本の進路を、「人道」へ、「平和」の方向へと向けていきたい。「幸福」の軌道を確実につくり、広げ、固めてまいりたい。
 皆さま方の、たゆみない日々の行動こそ、その根本の力である。民衆の叫びほど、強いものはないのである。
 ゲーテが、じつに六十年の歳月をかけて完成させた、世界文学の最高峰の一つが『ファウスト』である。このライフワークの書に、彼が死を前にして手を入れた一行がある。それは何か。
自由な土地に自由な民とともに生きたい」(『フアウスト』手塚富雄訳、中公文庫)という一節であった。
 「自由な土地」「自由な民」――ここに彼の深い理想があった。
 いかなる権力の魔性にも屈しない。民衆とともに、民衆のなかで、民衆のために生きぬいていく。精神の自由と幸福な生活を、皆が日々、雄々しく勝ち取りながら、理想の国土を築き上げていく。
 ここに、ゲーテが心に描いた人生の至高の活動があるといえよう。

 

 2001年5月26日 総神奈川最高協議会

R・N・ゴエンカ

2016年10月29日

建設的であれ
 <インディアン・エクスプレス社の R・N・ゴエンカ会長に学ぶ>

 

 二月九日の午後八時から、インディアン・エクスプレス社のR・N・ゴエンカ会長が主催する訪印団一行の歓迎宴が、ニューデリーのホテルで行われた。「インディアン・エクスプレス」は、インド屈指の日刊紙である。
 歓迎宴には、訪中を前にしたバジパイ外相、L・K・アドバニー情報・放送相をはじめ、多数の識者らが参加し、真心に包まれた語らいの一夜となった。
 ゴエンカ会長は豪放磊落で精悍な新聞人であった。七十代半ばとは思えないほど、快活で、哄笑が絶えず、エネルギッシュな話し方には不屈の闘志があふれていた。インドに到着した折も、真夜中にもかかわらず、空港まで出迎えに来てくれた。
 彼は、一九〇四年(明治三十七年)四月に、インド東部のビハール州に生まれた。青年時代に、イギリスからのインド独立を勝ち取ろうと、ガンジーの運動に加わった。
 自身の発行する「インディアン・エクスプレス」を武器に、イギリスが行っている数々の偽りを暴き、戦い抜いた。
 インドが独立したあとも、政府による新聞への激しい圧迫の時代があった。しかし彼は、それに屈することなく、言論人としての主義主張を貫いていった。
 伸一は、その苦境を突き破ったバネは何かを尋ねた。ゴエンカ会長は胸を張った。
 「人びとに対する義務です! 新聞は私個人に属するのではなく、人びとのためにあります。私は、単に人びとの委託、信任を受けた、いわば代理人です。ゆえに、人びとに応えるために、私は支配者に屈服、服従することはできませんでした」
 言論人の使命は、民衆の声を汲み上げ、その見えざる心に応え、戦うことにある。
 精神の自由を剝奪しようとする権力は、まず表現・言論の自由を奪おうとする。それを手放すことは、人間の魂を捨てることだ。
 また、人生の処世訓を問うと、こう答えた。
 「決して破壊してはいけない。建設的であれ。これが、私の人生の主義です」

小説新・人間革命 源流 四十七

◆さ行

西郷隆盛

(年)

2018年12月17日

第1571回

西郷隆盛

 

主君の遺志継ぐ「無私」

 

 南洲西郷隆盛は、多くの維新の顕官のなかでも、ひときわ大きい光芒の、輝く明星であったといってよい。
  「慶応の功臣」といわれた彼は、維新史の功業を一身に体現して、絶大なる人気を博した一人でもあったろう。彼は明治元年(一八六八年)の秋、北越に連なる諸藩を平定し、薩摩に帰藩するや、文字、どおり「凱旋将軍」として迎えられたのであった。
  だが、驕れる者、久しからずか。──西郷とその一党、はやくも明治六年の「征韓」論争に敗れ、土佐の板垣退助らとともに下野していく。そして、運命の明治十年(一八七七年)、西郷は「明治の賊臣」に身をやつし、苔むす城山の露と消えていった。
 享年五十──まさに、波澗万丈の生涯であった。
 ちょうど一九七七年(昭和五十二年)は、西郷死して百年にあたる。勝海舟とおなじく、彼もまた百年ののちに知己を待つ人であったが、いまだにその評価は定まらない。それほどスケールの大きい人物であったということかもしれない。
 私は敗戦直後一切の価値観が未曾有の混乱を呈していたころ、たまたま山田済斎編の『西郷南洲遺訓』を読んだ。
 当時は西郷に対する評価も極端に低かった。戦前の軍国主義教育では、彼は武人の鑑にされていたが、むしろ、それが裏目に出たのであろうか。戦後になってからは、とくに若い人びとには見向きもされなかったようだ。
 ところが『南洲遺訓』を読みすすめるにつれ、私の胸中には、諸家の西郷論とは違うイメージが、くっきりと浮かび上がっていた。そこには、世間の毀誉褒貶など意に介さない西郷の、淡々として赤裸な人生観、処世訓、そして死生観が述べられている。
 事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用ふ可からず。人多くは事の指支さしつかゆる時に臨み、作略さりゃくを用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗る』ものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる様なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。 
 これらの遺訓は、明治三年(一八七〇年)、奥羽の荘内藩主酒井忠篤とともに鹿児島を訪れた、菅実秀、三矢藤太郎、石川静正らが、西郷の言行録を荘内に持ち帰って編んだものである。
 維新までは徳川方であった荘内藩にとって、西郷は敵軍の将である。やがて、世は明治の代となり、荘内藩が奥羽征討の官軍に降伏したとき、きわめて寛大な処置をとってくれたのが、西郷であった。そのため、荘内藩は一藩をあげて西郷の崇拝者となっていったのである。
 なるほど、かつての西郷は「詐謀」を用いたかもしれない。維新回天の事業を達成するまでには、京・大坂(当時)において、あるいは江戸市中に、おいて、西郷や大久保利通が機略縦横の策を多彩に展開したことは、周知のとおりである。
 しかし西郷は、荘内藩士の眼には、まさに正道の人、至誠の大人として映じていたのである。ここに西郷という人物の、不思議な魅力の一端がひそんでいたにちがいない。明治十年の西南戦争には、はるばる東北の旧荘内藩からも、西郷の陣列に馳せ参じた者がいたと記されている


  主君の遺志継ぐ「無私」

 

 西郷は文政十年(一八二七年)十二月七日、鹿児島城下の下加治屋町において、平士西郷吉兵衛の長男として生まれた。おなじ町内からは、のちに維新史の群像として並びたつ大久保利通をはじめ、大山巌、村田新八、さらに東郷平八郎といった錚々たる面々を輩出している。十七歳のとき、西郷は郡方書役助こおりがたかきやくたすくとして初めて役に就き、以後十年間、孜々として農政に従事する下役人であった。
 無名の西郷を歴史の檜舞台に引き上げたのは、英邁な開明藩主島津斉彬である。彼は江戸への参観出府のとき、初めて西郷を見て、その非凡な才を発掘したのである。
  南洲守庭吏しゅていりと為る。島津斉彬公其の眼光炯々として人を射るを見て凡人に非ずと以為おもひ、抜擢して之を用ふ。公かつて書を作り、南洲に命じて之を水戸の烈公に致さしめ、初めより封緘を加へず。烈公の答書たふしょも亦然り。
 これは南洲の『手抄言志録』中、第二十八の「信を人に取るは難し。人は口を信ぜずして躬を信ず。躬を信ぜずして心を信ず。是を以て難し」とある条に対して、秋月古香が加えた評である。
 西郷は二度、遠島流罪にあっているが、幽囚の身でありながらも、読書三昧にふけった。そして、佐藤一斎の『言志四録』一千三十余条のなかから、とくに百一条を抄出し、座右の誠としていった。右に引用したのは、そのなかの一条である。ちなみに、私の「読書ノート」によってみると、そのころ『南洲遺訓』と相前後して、おなじく岩波文庫で『言志四録』を読んでいる。三十年まえの私は、この維新史の英雄の精神を、知らぬうちに、その形成期にまで遡って追究していたのである。
 さて、若き日の西郷は、こうして藩主斉彬の守庭吏(庭方役)に抜擢された。今でいえば、秘書官のような役である。ときには特別補佐官の任務も果たしたことであろう。事実、西郷は斉彬公の信任に応え、国事に奔走していった。
 安政五年(一八五八年)、西郷三十二歳のときである。彼は重大なる密命をおびて上京中、主君斉彬の急死を知った。悲報を受けた西郷は、ただちに鹿児島へ帰って藩公の墓前に、追腹を切って殉じようとする。──それを、熱誠こめて諌めたのが、のちに西郷とともに錦江湾に入水して果てた、僧月照であった。
 その後の西郷は、もはや一命を捨てた境地に立って、主君と師の遺志を実現するために、生涯にわたって「仁」を貫いたという。
 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
 これも『遺訓』の第三十条にある。いわば、西郷は「無私」の人であった。幾度か死線を通りぬけた志士たちも、彼の覚悟が尋常でなかったことを証言している。
 たとえば、土佐藩出身の中岡慎太郎がいる。彼は西郷と会見するとき、場合によっては刺殺する決意を意中に秘めていた。おそらく西郷にも、その殺気は伝わっていたにちがいない。
 会談が始まると、いつしか中岡の気勢も殺がれ、西郷の誠意に感動していく。気がついてみると、彼も西郷の同志となり、協力を約す仲に変わっていた。
 中岡は、死の二年まえに記している。

 当時洛西の人物を論じ候えば、薩摩藩には西郷吉之助あり、人となり肥大にして(中略)古の安倍貞任などは斯の如き者かと思われ候。此の入学識あり胆略あり、常に寡言にして最も思慮深く、雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然人の肺腕を貫く。且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難をへて事に老練す。
 勝海舟もまた、西郷を恐るべき人物と見た。それは、前回紹介した『氷川清話』などの座談にも明らかである。
 おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。
 ここにいう横井小楠は、幕末のすぐれた思想家である。だが、惜しいかな彼は、明治二年(一八六九年)正月、京都で暗殺された。
海舟は初めて西郷と面会した際、彼こそ小楠のような思想家の理想を実践する人物と見た。そして、やがては西郷が「天下の大事を負担するもの」と考えて、江戸開城の談判に臨んだのである。
  人の一生遭ふ所には、険阻有り、担夷有り、安流有り、驚瀾有り。是れ気数の自然にして、ついに免るる能はず。即ち易理なり。人は宜しく居つて安んじ、もてあそんで楽むべし。若し之を趨避すうひせんとするは、達者の見に非ず。
 おそらく西郷は、この一節を『言志四録』のなかに見いだしてから、その生涯を閉じる日まで、さまざまな感懐をもって反芻したにちがいない。その身を「気数の自然」にまかせて、淡々と生死を超越した心地にまで達していたのであろうか。
 維新を達成するまでの西郷は、たしかに機勢の高まる波に乗っていた。大久保の繊密な戦略と、世界情勢に通暁した海舟の助言、さらに豊富な情報と雄藩の協力も得て、果断に行動することができた。
 しかし、時流というものは、激しく、また恐ろしいものである。維新政府の矢継ぎ早な改革に、ひとり西郷のみ置き去りにされたきらいもある。  むろん彼自身、創業の人ではあっても、守成の政治家ではないことを、あるいは承知していたかもしれない。
 戊辰戦争が終わると、さっさと薩摩へ帰ってしまった。すでに「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」という心境の西郷にしてみれば、あえて上京するまでもなかったにちがいない。南国の田園に暮らして晴耕雨読の、悠々自適の生活を送っていれば、赫々たる革命家の晩節も全うされる、と見えたのだ。
 だが、西郷は明治四年(一八七一年)正月、ふたたび、三たび立ち上がった。ときに四十三歳──はや人生の半ばを越えている。時折、心臓の鼓動に不安を覚えることはあったが、それでも、あえてみずからの運命に身をゆだねていったのである。
 はたして西郷の再挙は、維新につぐ連続革命を企図したものであろうか。あるいは壮図むなしく、不平士族の反乱軍と化していったのだろうか。福沢諭吉の見るように、それは「抵抗の精神」によるものか。──歴史の評価は、なおしばらく左右の振幅を繰りかえすかもしれない。
 しかし私は、かつて西郷の人間性には魅かれたが、はたして彼に百年の遠謀深慮があったかどうか──今では疑問に思っている。彼には、土着性に根ざす人情の豊かさはあっても、新しい未来の光源となりうる理念の輝きは見られないからである。
 なお後年、私の恩師は、西郷が未来への使命に生きゆく多くの青年を死地に追いやったことの非を、厳しく批判されたことがある。真の指導者というものは、次代の有為な青年たちを決して犠牲にするものではないとの心情が、恩師の指摘には溢れているようで、私の脳裡からは瞬時も離れないのだ。

 

「若き日の読書」(23) 天下の大事を担うもの

司馬遷

(司馬遷、中国前漢、前145年~前87?年)

2014年6月13日

司馬遷に学ぶ『誓い』(4) 

  
 司馬遷は書く。
 「私はただ、使命が未完成に終わることを惜しむ。その一心しかない。そこで恥をものともせず、極刑についたのだ。この著述(『史記』)が完成し、永遠に人々に伝えられたなら、その時こそ、私の恥は償われる。その時は、この身が八つ裂きにされようとも悔いることはない」
 どんなに身を切られ、打たれようとも、『史記』さえ残せばいい。父の遺言さえ達成すれば、あとは自分がどうなってもかまわない。それまでは一切を忍びながら、一切の苦難に耐えながら、私は書く、戦う――と。
 次元と状況は異なるが、私の心境も同じである。
 こうして彼は生き、生きぬいて書き、書きぬいた。筆舌に尽くせぬ痛憤の思いは、彼の筆に、いちだんと深い洞察力と鋭さを、峻厳さをあたえた。
 この大難のために、「人間の道」を探る彼の目は底知れず深くなり、言葉は濃厚な情味を醸しだした。真実を見ぬく眼差しはいよいよ研ぎ澄まされていった。司馬遷という一個の人間における、偉大な「人間革命」といってよいかもしれない。
 どん底を見た人間には、もはや何も怖いものはなかった。権力と社会の裏表、からくり、いやというほど見せつけられた人間には、もはやどんなうそも通用しなかった。
 世間の栄華、楽しみなど一切断念した男が、薄っぺらな名声や虚勢に目をくらまされるはずもなかった。
 いかなる複雑な人間模様を見ても、彼はそのなかから、やすやすと“本物”を見つけ出した。「一個の人間としての偉さ」だけが彼の基準であった。
 人生の苦渋を味わい尽くしたゆえに、彼の心眼には、古今の「人間」の真実が、ありありと映るようになった。その真実を、何ものをも恐れず、豪胆な率直さで彼は記した。
 やがて畢生の大著『史記』は完成した。いわば、“父子の誓い”の結晶であり、父子の“魂の共同作業”の実りであった。
 (父の遺命を継いでから十九年、宮刑を受けてから七年が過ぎていた)
 それは、まったく独創的な著作であった。自由で、周到な形式。つねに苦しむ者の側に立った叙述。つねに人民の幸福を第一とする視点。陰で正義のために戦った人の心を知りぬいた洞察。またむずかしい言葉はなるべく避けて、日常語を織りまぜながら語る庶民性。厳格な「事実尊重」の信念。そして赤裸々な人間描写――。
 彼の手で作られた『史記』は、東洋の、否、世界の「精神の大遺産」となったのである。

 

1991.5.5創価教育同窓の集い

2014年6月10日

司馬遷に学ぶ『誓い』(3) 

  
 彼は追い詰められた。必要な金が用意できないとなると、あとは残された方法はただ一つ。宮刑を受けて、いまわしい宦官(かんがん)になることである。そうすれば、たしかに死だけは避けられる。しかし、それは、死よりも大きい屈辱であった。
 「友人(李陵)のために死んだ」のであれば、後世の人は讃えてもくれるだろう。だが、宮刑を受けて生き延びたのでは、「命が惜しくて、人間以下(=当時、宦官はそう見られていた)になった臆病者」と思われよう。それでは、「恥」を重んじ、「名」を尊ぶ君子の道に背くのではないか――。
 その名を聞いただけで、人が顔をしかめる宦官。人であって、人でない。最低の身になってしまう。自殺したほうがましではないか。よほど楽ではないか――。
 司馬遷は、迷い、苦しんだ。うめき、もだえ、体を壁にぶつけた。頭を何度も打ちつけた。腸(はらわた)がねじ切れるような葛藤が続いた。「絶望」などという言葉では言い尽くせない。彼には絶望さえ許されなかった。
 自分だけのことならまだよい。しかし、必ず、自分は「父母、先祖の名を汚した」とののしられることもまちがいない。“生き恥”をさらしてまで、何を未練に生きるのか――と。このことが、彼には、いちばんつらかった。父の名だけは汚したくなかった。
 何ゆえの、この苦しみか。天道は是か非か。わが命運はいかに――。
 それでも、彼はすべてに耐えて、こう結論する。生きぬこう! 生きるのだ! 生きて書くのだ! 歴史を残すのだ! 父との誓いを果たすのだ!
 まさに血涙をしたたらせての決断であった。この世の恥辱を振り切り、悲哀を制覇して、たどりついた決心であった。
 (つづく)

2014年6月8日

司馬遷に学ぶ『誓い』(2) 

  
 しかし、彼には助かる道があった。当時、「銅五十万銭」のお金を納めれば、死刑だけは免れるという制度があったのである。
 彼は、なんとしても生きたかった。“父の遺志を果たすために生きたい。死ぬわけにはいかぬ”――しかし、貧乏で、蓄えもない。(中略)
 司馬遷は、身の危険を冒して李陵を弁護するくらいだから、「友情」に厚い、人の情けを知る人であった。しかし、友人たちは違った。
 窮地の彼を救うため、奔走する人はだれもいない。知らぬふりしているのか、助けたくても力が及ばないのか。
 人の心は微妙である。金を集めてくれる人も、助命運動をしてくれる人もいない。結局、真の友人ではなかった。皆、武帝の権力に恐れ、黙っているばかりであった。
 司馬遷は苦悩した。金のない悲しみを、骨の髄まで味わった。生きるか死ぬかの瀬戸際である。必要な時、金のないのはこんなに苦しいものなのか――。
 この体験からか、彼は『史記』の中では、他の御用学者のごとく貧しさを称賛したり、人民に“貧して甘んぜよ”と説いたりは決してしなかった。貧しき者の苦しさに同情し、庶民の味方として書いた。
 その一方、人民の生命をも金ではかり、自己の利権を限りなく追求する権力者の素顔を容赦なく暴いた。(つづく)

 

2014年6月6日

司馬遷に学ぶ『誓い』(1) 

  
 司馬遷は誓った。
 やり遂げることが天下万民のためであり、後世永遠のためである。同時に、父の名と功績を不朽のものにさせ、高からしめることになる――と自覚した。いわゆる自分のことなど、彼はまったく考えていなかった。だから強かった。
 父の死から二年後、彼は「史官」の長に任命される。あふれんばかりのエネルギーで仕事を始めた。何としても『史記』を完成させるのだ。後世に「不滅の大文字」を残すのだ――と。
 しかし、九年後、運命を変える大事件が起こった。司馬遷は、突然、「死刑」を宣告されたのである。いわゆる「李陵事件」である。
 偉人には嵐がつきものである。英雄には必ず悲劇性が伴う。その非凡さのゆえに、低俗な人々とサイクルが合わない。抜きん出た高さゆえに、強い風がつねに吹き荒れる。

 李陵とは、司馬遷の知り合いの武将である。(中略)
 李陵は、漢帝国の宿敵・匈奴との戦いを志願して、出征。初めは勝ち戦であったが、結局、捕虜になってしまった。勝ち戦の時は、彼を讃え、ほめそやしていた人々が、手のひらを返したように、こぞって悪口を始めた。そこには、地方に埋もれていた李陵が、志願して功績をあげ、脚光をあびたことへの「男の嫉妬」があった。
 人間の世界は恐ろしい。“誠実の人”“奮闘の人”“大功の人”を機会があればおとしいれようと、欲望と妬みが渦巻いている。正当に評価されるべき行為も、歪められ、下劣な風聞へと引きずり下ろされる。
 正義感の強い剛直な司馬遷は彼らの卑劣さに憤怒した。そして権力者・武帝に対し、李陵を弁護したのである。
 「李陵ほどの人材は、また国のために働くことでしょう。処罰を思いとどまっていただきたい」と。
 正論だったが、権力者に正論が通るとは限らない。否、正論が通らないのが権力者である。正しい意見を聞けなくなるのが権力の魔性である。そればかりか、その行為が正当であればあるほど憎しみがわく。自分に従うものだけが正しく、従わないものは悪とする。善悪・道理が基準ではなく、自分の小さな感情と面子(めんつ)が基準となってしまう。しかも、その狂いが自分ではわからない。
 武帝は、激怒した。自分のやり方を批判するものとみたのである。司馬遷は投獄され、死罪の判決となった。いわば、武帝への「不敬罪」である。(つづく)

  

 諸葛孔明

(諸葛 亮 字は孔明、中国、181年~234年)

2014年9月24日25日

苦労こそ青年の最高の環境

 

<孔明の師匠は「苦労」の二文字>

   
「よし!」。孔明は誓った。血涙にまみれて、わが身に言い聞かせた。
 「二度と負けてはならない。絶対に勝たねばならない。負ければ、これ以上の不幸はない」
 「人生は勝負」である。「仏法も勝負」である。釈尊も日蓮大聖人も「断じて勝て」と仰せである。
 孔明はふたたび流浪の身になった。その時、17歳といわれている。
 荊州にもどり、その後、10年間、自分を鍛えに鍛え、「一剣」を磨きに磨いた。「不敗」「常勝」の知恵と力を養った。
 立ち上がる“その時”を目指して、苦労し、勉強し、あらゆるものを吸収した。
 “その時”が訪れた。27歳、主君となる劉備玄徳と出会う。ここから『三国志』の、あの大活躍が始まるのである。
 ちょうど青年部の諸君の年代である。
 結論すれば、不世出の天才・孔明の師匠は、だれであったか。――。
 それは「苦労」という二文字であったといえよう。
 ゆえに青年は、できあがった環境に安住してはならない。
 青年は、「自分の力」で、「自分の苦労」で、「自分の行動」で、「新しい歴史」をつくっていくべきである。
 私は、その思いで歴史をつくってきた。広宣流布の大いなる歴史を、世界中に残してきた。ただ一人、大難を受けながら。
 あとは諸君である。
 諸君も諸君の立場で道を開いていくべきである。腹を決めて苦労し抜いて、偉い人になってもらいたい。
 諸君は妙法を持っている。苦労が全部、生きないわけがない。


聖教新聞2014.9.17付1995年6月第90回本部幹部会

 

2013年7月26日

 孔明「人材の抜擢」
 

「立派な指揮官が[軍]政を行う時、第三者に[有能な人材を]選択推挙させて、自分自身では抜擢しない。[軍]法によって人々の功績を裁定し、自分勝手には判断しない。だから有能な人材は[その才能は]蔽い隠すことができないし、[逆に]無能な人は[その菲才を]飾り立てることができない」

 

2003.8.4全国最高協議会③

2013年7月22日

 孔明「組織や国を乱す者」 
 

次の5種類の人間は気をつけよ遠ざけよと訴えている。
①徒党を組んで、派閥をつくり、才能人徳に優れた人を妬んで、謗る人間。
②虚栄心が強く、服装なども贅沢で、目立とうとする人間。
③大げさなことやデマを言って、人々を惑わす人間。
④自分の私利私欲のために、人々を動かす人間。
⑤自分の損得ばかりを考え、陰で敵と結託する人間――である。

 

 2003.8.4全国最高協議会③

2013年7月20日

 孔明「指導者の不動の信念」

 

「[自分が]尊重されても驕り高ぶらない、
 [権限を]委任されても自分一人で勝手にしない、
 [他人に]救助されても[その不名誉を]蔽い隠さない、
 [地位を]被免されても驚き恐れない。
 だからこそ、立派な指揮官の行動は、ちょうど璧が[どんな時でも]汚れない[と同様に、どんな状況に在っても決して動揺しない]が如きである」
 不屈の闘志の指導者が勝つ。断じて、諸葛孔明の名指揮をお願いしたい。 

 

 2003.8.4全国最高協議会③ 

2013年7月16日

 孔明「戦いに臨む指導者の姿勢」 

 

「一人でも犠牲者が出るならば、それは、すべて私(孔明)の責任である」とも言っている。絶対に、犠牲者を出さない!落伍者を出さない!断じて一人も不幸にしない!孔明の指揮は、この覚悟と責任感に貫かれていた。

 

 2003.8.4全国最高協議会③

2013年7月15日

 孔明「指導者にふさわしくない者」  

 

 孔明は、指導者にふさわしくない者として、八種類の人間を挙げている。
①財産に貪欲で飽くことを知らない者。
②賢く有能な人を嫉妬する者。
③人を中傷することを喜び、おべっかを使う人を近づける者。
④人のことは、あれこれ分析するが、自分のことは、何らわきまえない者。
⑤ぐずぐずして、自分で判断できない者。
⑥酒におぼれ、その状態から抜けだせない者。
⑦虚偽で、臆病な者。
⑧言葉巧みに狡猾で、傲慢無礼な者。
 戸田先生は、幹部に対して、いつも厳しく語っておられた。「周りじゃないよ。すべて君で決まる。君の一念で決まるんだ」

 

 2003.8.4全国最高協議会③

2013年7月14日

 諸葛孔明の描いた指導者像  

 

 「いにしえの優れた指導者は、

  皆を、わが子のように慈しんだ。

  困難にさいしては、自分が先に立ち、

  栄誉に対しては、皆を立ててあげた。

  傷ついた人がいれば心からいたわり、

  戦いに殉じた人がいれば、ねんごろに葬り、悼んだ。

  飢えた者には、自分の食事を分け与え、

  凍える者には、自分の衣服をさしだした。

  優秀な人間には礼をもって接し、立場を与え、

  勇敢な人間には、褒賞を与えて励ました。

  指導者がこのような姿勢を貫いていけば、

  向かうところ、必ず勝っていく」

 皆さまも、縁深き同志の皆さんと「苦楽をともにしていく」リーダーであっていただきたい。

 

 2003.8.3全国最高協議会①

 ソロー

(Henry David Thoreau、アメリカ、1817年7月12日 - 1862年5月6日)

2013年10月6日

人間よ人間であれ!


 ソローは叫んだ。
 「私が当然引き受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考えるとおりに実行することである」
 不正に従うな。良心に従え! 正義に従え! いかなる権力にも縛られない、自立した一人の人間として生きよ! 人間よ人間であれ!

 

2003.9.5海外代表協議会

◆た行

デューイ博士

ジョン・デューイ(John Dewey、1859年10月20日 - 1952年6月1日)

2018年10月26日

第1545回

デューイ博士と牧口先生

 

<行動の哲学に生き抜く>

 

 さて、デューイ博士と牧口先生は、ともに、人間教育者として、「行動の哲学」に生きぬきました。みずからが、信念と勇気に燃えて、よりよき社会へ、つねに何か価値を創造しながら、あとに続く青年たちを、生き生きと、伸び伸びと育んでいったのであります。
 博士は、政治の腐敗を正していくために、選挙の支援活動にも積極果敢に取り組みました。民主主義を強化するためには、市民が、また学生が、  容赦なく政治を監視し、大いに声を上げていくべきだからであります
 さらに博士は、ヒトラーやスターリンなど、右であれ、左であれ、民主主義を脅かす独裁的な権力とは、まっこうから戦った。そのため、不当な人身攻撃の標的にもされました。しかし、迫害こそ、正義の人生の誉れであります。
 いわんや、仏法において、法のための行動ゆえの「悪口罵詈」は、仏になる現証であり、最高の誉れであります。絶対に恐れてはならないと、日蓮大聖人は教えてくださっております。

 

 2001年6月6日 アメリカ・デューイ研究センター人間教育貢献賞授賞式、関東婦人部代表幹部会、「6・30」結成記念の学生部大会

2018年10月26日

第1544回

デューイ博士と日本

 

<傲慢とは戦え!ウソを許すな!>

 

 世界市民の模範であるデューイ博士は、八十年ほど前、中国と日本を訪問しました。(一九一九年〜一九二一年)
 博士は、日本の権力が、隣国に対して傲慢であり、しかも、そうした悪をウソでごまかし、隠そうとしていることに、強い怒りを示しております。
 ウソに対して、博士は、まことに鋭く、そして厳しかった。当然でありましょう。なぜならば、陰湿なウソに毒され、騙される人間が多ければ、権力の害悪は、ますます、はびこる。そして、目隠しされた大衆は操作され、正義の人間は嫉妬の讒言によっておとしいれられる。さらにまた、他国との友好を踏みにじる国家主義の狂った暴走が始まってしまうのです。
ゆえに、悪意のウソは断じて許してはならない。それが歴史の教訓であります。
 現在の日本も、この一点を厳しく監視していかねばならないのです。なお、当時、日本から叙勲の打診を受けたデューイ博士が、その勲章制度が「非民主的」であるという理由から、きっぱりと辞退したことも、有名な史実であります。

 

 2001年6月6日 アメリカ・デューイ研究センター人間教育貢献賞授賞式、関東婦人部代表幹部会、「6・30」結成記念の学生部大会

◆な行

 ノーマン・カズンズ

(Norman Cousins、アメリカ、1915年6月24日 - 1990年11月30日)

2013年9月1日

庶民の声が全世界を前進させる

 

 「人間同士の新たな結びつき」を創出しようとすれば、自分たちの集団エゴを「永久保存」しようとする人々からの反発は、避けられない。閉ざされた世界の利益にこだわる勢力との対立が、必ず起こってくるであろう。
 そのとき、この「対決」のなかで勝負を決するものは何か。それは「庶民の声」である。このときこそ、その真価が発揮される。
 これがノーマン・カズンズ氏の洞察であり、期待であった。
 そこで、氏は続ける。
 「いま庶民が必要としているのは、自分の感じること、言いたいことが全世界の前進を助けられるという確信のもてる励ましです」と。

 

1991.3.12 「3・16」記念全国青年部幹部会・第六回中部総会

2013年8月31日

世界を変えるのは〝雄弁な人間〟の連帯

 

 さまざまな難題に直面する今日の時代を転換する希望は、どこにあるか?
 それはただ一つ、「明快に発言し意思を交し合う市民が世界中に輩出する」ところにこそある、と。(アメリカの良心 ノーマン・カズンズ氏)
 雄弁たれ、明快に語れ、何を思っているかをはっきりと伝えよ――そうした市民の連帯こそ、世界を変えゆく希望なのだ、と。(中略)
 大切なのは「人間」である。「市民」である。人間主義の市民の世界的輩出である。私どもこそ、世界を変えゆく〝先駆〟なのである。
 もはや、〝もの言わぬ大衆〟であってはならない。一方通行の受身に甘んじてはならない。
 たとえ一人であっても、言うべきことは言い、抗議すべきことは抗議していく。これこそ真の「人間」である。そうした主体性のある個人の連帯が、新しき時代の扉を開ける〝カギ〟である。

 

1991.3.12 「3・16」記念全国青年部幹部会・第六回中部総会

◆は行

 巴金

(中国、1904.11.25~2005.10.17)

2013年10月17日

第一歩を踏み出せ!されば続かん!

 

 (中国の大文豪 巴金先生曰く)
 「たくさんの人物の運命が、私の確固不抜の信条を強めてくれた。その信条とは、生命の意義はこれを差し出すこと、何かに献げることにあり、受け取ること、獲得することにはない――これである」

 「ひとたび口火が切られれば、それについで前進する人が出るはずである。
 第一歩を踏み出せば、第二歩はたやすく踏み出せる。誰かが先頭に立てば、これに続く人にこと欠かないはずである。こうして道行く人は、一層ふえるに違いない」
 
2003.11.25全国最高協議会

プーシキン

(アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン、ロシア、1799.6.6~1837.2.10)

2013年11月30日

プーシキンを語る(下)

 

 第三に、「人類を結び合い平和と共生の夜明けを」と申し上げたい。
 仏典には、「鏡に向かって礼拝を成す時浮かべる影又我らを礼拝するなり」(御書769頁)と説かれます。
 プーシキンも「他人から尊敬されたいと願うなら、他人を尊敬できる自分になるのだ」と教えておりました。(中略)
 貴国と日本、東と西の深い分断の時代にあっても、真剣にロシア語を学びゆく創大生たちに、私は、こう語りました。
 「世界情勢は変わる。同じ人間ではないですか。一喜一憂せず、ロシアと変わらぬ友情の道を進んで欲しい」と。

(中略)

  「希望をもち
   心浮きたたす自信をもって
   すべてに立ち向かえ」

  「心を新たな力でみたせ」

  (「ルスランとリュドミラ」より)

 
聖教新聞2013.11.23付プーシキン記念国立ロシア語大学「名誉博士号」授与式 

2013年11月28日

プーシキンを語る(中)

 

 第二に申し上げたいことは、「民衆に希望を贈る励ましのリーダーたれ」ということです。
 プーシキンは、「民衆の偉大さは、民衆が心に抱きしものにあり」と宣言しました。
 彼は、民衆の言葉に耳を傾け、民衆と苦楽を分かち、民衆の生きた会話を自らの詩歌に織り込み、そして、民衆を励ましていったのです。
 プーシキンは、縁する人々に希望を贈り続けました。
 弟子の作家ゴーゴリが、「私にとって大切なものは、プーシキンの永久に変わらぬ言葉である」「私がもつ長所はすべて、プーシキンのおかげである」と感謝を捧げたことも、誠に麗しい逸話であります。(中略)
 プーシキンは、「人には、家柄を超える尊厳がある。つまり、人格の尊厳である」と語りました。
 この人間としての尊厳を、私たちは、互いに励まし合い、自他共に、一段と光輝あらしめていきたいのであります。

 
聖教新聞2013.11.23付プーシキン記念国立ロシア語大学「名誉博士号」授与式

2013年11月27日

プーシキンを語る(上)

 

 プーシキンは、人間の尊厳を高らかに謳い上げるとともに、従来のロシア語に広範な民衆の語彙を斬新に取り入れ、全国民的言語として完成させました。「現代ロシア語の父」とも讃えられるゆえんであります。
 プーシキンの誕生は、1799年の6月6日。今この日は、「ロシア語の日」と制定されております。
 実は、奇しくも、その72年後の6月6日、私たちにとりまして、「創価教育の父」である牧口常三郎先生が誕生しました。
 若き牧口先生には、共に学ぶロシア人の友人もおり、貴国の文化に深い敬愛を抱いておりました。今年は、第二次世界大戦中、牧口先生が平和の信念に殉じて70回忌でもあります。(中略)

 

 第一に、「志高く、『知性』と『創造』の炎を」
 プーシキンは決然と語っておりました。
 「知性の世界にあって、我らに後退することは許されない」と。
 彼自身、専制政治を批判し、ペテルブルクから追われる身となった苦境にあっても、断じて後退しませんでした。いやまして読書に励み、旺盛な創作を成し遂げていった足跡が光っております。
 「ロシアの作家の中で一番の勉強家」とも、「生涯学び続けた人」とも評されます。
 「たゆまぬ努力。それなくして、偉大なものは生まれない」――これが、プーシキンの青春と人生を貫いた信念でありました。(中略)
 「もし、我々が成功を望み、幸福な人生、民主主義を欲すれば、言葉はその方向性を体現していく。言葉は、それが使用される社会の状態を反映している。救うべきは言葉ではない。我々人間なのである」(プーシキン記念国立ロシア語大学コストマーロフ理事長)と言われるのです。
 至言であります。
 「人間の志」が光れば、「言葉」が光る。「言葉」が光れば、「知性」が光り「創造」が光る。
 そこから、「社会」も「未来」も光りゆくでありましょう。
 一切は、偉大な人間を創ることから始まります。

 
聖教新聞2013.11.23付プーシキン記念国立ロシア語大学「名誉博士号」授与式

◆ま行

◆や行

吉田松陰

(文政13年8月4日=1830年9月20日~安政6年10月27日=1859年11月21日)

2015年3月8日

 吉田松陰(最終)

 

<「諸友蓋し吾が志を知らん、爲めに我れを哀しむなかれ」>

 
 こうした手紙を書いた約半年後、松陰は江戸で処刑される。
 門下の衝撃は大きかった。「仇を報わでは」と、皆、泣いた。そして、師の手紙や遺文を集めた。それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。
 そこで、初めて弟子たちは松陰の真意を知った。「これが、わが師の心であったのか」――。その思想の深さ、慈愛の大きさ。あらためて自分たちが師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。
 松陰は遺言に言う。
 「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、爲めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(十月二十日頃、諸友宛、「諸友に語ぐる書」)
 ――諸君は僕の心を知っているであろう。死にゆく僕のことを悲しんではならない。僕の死を悲しむよりは、僕の心を知ってくれるほうがよい。僕の心を知るということは、僕の志を受け継ぎ、さらに大きく実現してくれることにほかならない――。
 師の心を知った弟子たちは、炎と燃えて立ち上がった。もはや彼らには迷いはない。革命の本格的な狼煙(のろし)は、ここから広がり始めたのである。
 やがて「民衆決起論」は高杉晋作の奇兵隊(農民まで含めた新軍隊)を実現させた。
 そればかりではない。松陰の「幕府もいらぬ、藩もいらぬ」との到達点は、久坂玄瑞を通じて坂本竜馬に、そして全国の志士たちにと伝えられ、革命の爆発の発火点となっていった。孤独のなかの松陰の魂の叫びが、やがてこだまにこだまを重ね、新しい時代を開いていったのである。
 やがて、久坂も高杉も、師の心を抱きしめながら、大義のために死んでいった。
 生き残り、革命の甘い汁を吸ったのは、伊藤博文や山県有朋ら、一ランクもニランクも下の人物であった。革命に殉じた人々の功績と労苦を、生き残った者がみずからの保身や功名のために利用する。広宣流布の歩みにあっては、こうしたことは絶対にあってはならない
 妙法広布に生き、殉じた功労者が最大にたたえられ、報われ、また末永く顕彰されていくうるわしい世界。これこそ学会のあるべき姿であると、私は念願してやまない
 ともあれ、時の権力者とまっこうから戦うなかで、名もなき庶民をこのうえなく愛され、大切にされた日蓮大聖人。その大聖人に、みずからの革命思想の偉大な模範を見いだしたのが吉田松陰であった。
 そして、″民衆″への限りない御慈愛をそそがれて戦われた大聖人のお心のままに、広宣流布ヘの民衆の大河を、広く深く築いているのが、私ども創価学会であると、重ねて申し上げておきたい。(おわり)


  1989.19.12第十一回関西総会

2015年3月7日

 吉田松陰(7)

 

<「草莽崛起」>

 
 さて、松陰は、明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」とたたえられ、軍国主義などに利用されてきた歴史がある。しかし、彼が、苦しみの果てにいたった結論は、じつは「民衆による革命」であった。「草莽崛起(そうもうくっき)」(民草、民衆の決起)――これが松陰の、最後の考えであった。
 他人は信ずるに足らず、幕府も諸大名も頼むに足りない。では、どうするのか。――民衆である。革命は、民衆に拠るしかない――と。松陰だけではない。歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。
 「草莽崛起、豈に他人の力を假らんや。恐れながら、天朝も幕府・我が藩も入らぬ、只だ六尺の微軀が入用」(四月頃、野村和作宛書簡)――名もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら朝廷もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、ただこの六尺の身があればよい――。
 もうだれも頼らない。わが一身が炎と燃えれば、人は民草に燃え広がろう。権力者などあてにするのは、一切やめだ――と。
 民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖じない。無名の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。広布という未聞の大業もまた、無名の庶民によって、たくましく切り開かれてきた。
 松陰が、この「民衆決起」の考えにいたった発端は、どこにあったか。それは、日蓮大聖人の戦いであった。彼は書いている。
 「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時に當りて能く其の道天下に弘む。北条時頼、彼の“こん”(髟と几の合体した字・・・サイトマスタ)(=髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能はず。實行刻苦尊信すべし、爰ぢや爰ぢや」(同書簡)
 ――この戦略を思いついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。権力者である執権の北条時頼でさえ彼を制することができなかった。この事実から考えついたのだ。「実行」と「刻苦」と。苦しみつつ実践に生きることは尊ぶべきであり信ずべきである。肝心なのはここだ、ここだ――と。
 この「民衆決起論」は、やがて弟子たちに受け継がれ、近代日本の扉をこじ開けるテコになる。いわば、日蓮大聖人の、権力をものともしない「民が子」(御書1332頁)としての戦いが、時代を超えて松陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。

(つづく)

2015年3月6日

 吉田松陰(6)

 

<「成否を誰れかあげつらふ 一死尽くしゝ身の誠」>

 
 さて、松陰の門下は師から遠ざかった。「先生、おとなしくしていてください。今は、行動しないで、静かにしていてください」――彼らの心根を一言で言えば、こうであった。
 そこには師を危ない目に遭わせたくない、という心情もあったつもりかもしれない。しかし、その本質は、師の心を知らず、自分たちの賢(さか)しらな考えにとらわれていた。臆病の心もあった。
 「先生のおもりに困っているんだ」とさえ、愚痴を言った門下もいる。これは手紙が残されている。
 松陰は嘆いた。「勤王のきの字を吐きし初めより、小弟(しょうてい)索(もと)より一死をはめての事なり」(一月十三日、兄杉梅太郎宛書簡)と。
 「勤王」の「き」の字を口にして、革命を志したときから、すでに一死を覚悟している。何を恐れることがあろうか。なのに″情勢が厳しい″″今はその時ではない″などと門下たちは言う。今さら何の「臆病論」(同書簡)なのだ。
 大義に死す者がいないとは、太平の世に柔弱になりきったのか。「日本もよくもよくも衰えたこと」(一月二十三日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けないかぎりだ。「哀し哀し」(二月十五日以前、某宛書簡)と、松陰は血涙をしぼった。
 このときの松陰の思いは、「星落秋風五丈原」の歌の一節「成否を誰れかあげつらふ 一死尽くしゝ身の誠」に通じるものがあろう。
 戸田先生は、かつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると涙されるのが常であった。″無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。いったい、だれがそれを成すのか″との思いが、歌詞と二重写しになって胸に迫られたにちがいない。
 しかし、戸田先生のもとにはつねに私がいた。私は「広宣流布」の「こ」の字を口にしたときから、心は決めていた。死も覚悟のうえだった。そして戸田先生の誓願実現のために、走りに走った。
 戸田先生も「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。一切を託せる弟子を持つことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。
 広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。また、冷徹な情勢分析も絶対に必要である。しかし、より根本的なものは「師弟の道」である。その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。
(つづく)

2月20日

 吉田松陰(5)

 

<「弟子を知る者、師にしかず」>


「ただ今の一念」


 弟子を知る者、師にしかず――。師匠には弟子が自分で気づかぬ心までわかっている。反対に、師の心を知る弟子はあまりに少ない。


 吉田兼好の『徒然草』に、「師の眼力」を書いた一文(第九十二段)がある。
「或人、弓射る事を習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。師の言はく、『初心の人、ふたつの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑(なほざり)の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢(いちや)に定むべしと思へ』と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にてひとつをおろかにせんと思はんや。解怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」(『日本古典文学全集27』神田秀夫・永積安明・安良岡康作 校注訳、小学館)と。
 ――ある人が弓を習っていた。手に二本の矢をはさみ的に向かった。弓の師匠が言った。「初心の人は、二本の矢を持つな。あとの矢を頼んで、まだ一本あると思い、初めの矢をなおざりにする心が出るからである。毎回、矢を射るたびに、成功、失敗を気にせず、ただ『この一矢で終わりにしよう』と思え」と。
 二本の矢のみである。師の前で、一本をおろそかにしようと思うだろうか。しかし、怠けの心は、自分では気づかずとも、師匠は知っているのである。この戒めは、万事に通じるものである――。
 さらに兼好は言う。

「道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや一刹那のうちにおいて、解怠の心ある事を知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き」(同前)
 ――道を学ぶ人も、夕方には、明日の朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、そのときには、ふたたび真剣に修行しようと決意する。それほどであるのだから、いわんや一瞬の間に、怠けの心があることを知りえようか。「ただ今の一念」において、ただちに、なすべきことを実行することのなんとむずかしいことか――。
 師匠は、弟子の心がよくわかるものである。だからこそ、自分の怠け心に気づかず、真剣に道を求めようとしない弟子のために、教え、励まして成長させようとする
 師がいてこそ、求める道も正しく進み、究めていくことができる。自身の成長も、人生の向上もある。
 ともあれ、人生も、青春も長いようで短い。「この一矢」「ただ今の一念」をきちんと定めて、充実した、価値ある一日一日を生きていかねばならない。そのためには、どうしても師が必要である。このことを教えた『徒然草』の文である
(つづく)

2015年2月19日

 吉田松陰(4)

 

<「私心なき赤誠」と「政治的方便」>


 この後に、冒頭にあげた有名な言葉が出てくる。
 「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」(同書簡)と。
 ――江戸にいる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と考えが違う。そのわかれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友は功業(手柄)をなすつもりなのだ――と。
 松陰の言う「忠義」と「功業」とは言葉は古いが、現代的にはこうも言えよう。報酬を求めぬ「私心なき赤誠」と、功名心にとらわれた「政治的方便」と。別のところで松陰は、同じことを「真心」とも表現している。
 師弟の違い。それは、大義に死する革命詩人と、功名に生きる政治的人間との違いであった
 ――たとえわが身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ″時″をつくり、時代を開ける。今やらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、火種を消してしまうのか。
 ――上手(じょうず)に生きようと立ちまわるのは、「功業の人」である。国家のためにと言いながら、生きて功名を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか。
 「皆々ぬれ手で栗をつかむ積りか」(一月十六日、岡部富太郎宛書簡)
 ――高杉、久坂、中谷らは皆、「ぬれ手で栗をつかむ」つもりなのか――。
 松陰の言葉は、いよいよ激しい。高杉よ、久坂よ、「時を待て」とは何たる言い草だ。皆、苦労もせず「ぬれ手で粟」で、功名のみを得ようというのか、と。

 客観的には、あるいは弟子たちの状況判断にも無理からぬ面があったかもしれない。実際、そう論じる人もいる。また「手柄」を立てることが悪いというのでもない。何の手柄も立てられないのでは、しかたないともいえるかもしれない。
 しかし松陰が言いたいのは、そんなことではなかった。自分と弟子たちの″奥底の一念の差″を嘆いたのである。
 「革命のための人生」なのか。それとも「人生のための革命利用」なのか。
 私どもで言えば、広宣流布のために自分をささげるのか。自分のために広布を利用し、信心と学会を利用するのか。この「一念の差」は微妙である。ある意味でタッチの差である。
 しかし、その結果は大きく異なる。広布のため、正法のために――との信心の一念は、諸天を大きく動かし、友の道を限りなく開いていく。自身の生命にも、三世永遠の福徳の軌道、確たる″レール″が築かれていく
 反対に、口には広布を唱え、裏では、心堕ち、身が堕ちてしまった人間もいる。立場や名利、金銭に執着し、その心を本として、たくみに泳ぎつつ生きていく。これまでの退転者らがそうであった。
 また、人に認められよう、ほめられようとの一念で行動する人もいる。しかも自分では、けっこう頑張っているつもりでいる。自分で自分のエゴがわからない。
 松陰がここで言うのも、弟子たちが自覚していない、心の底の「臆病」と「野心」を撃っているのである
(つづく)

2015年2月17日

吉田松陰(3)

 

<「革命の火種」>

 

 永遠の“広宣の火種”を諸君に

 

 さらに、松陰は言う。
 革命の炎を燃え立たせたのは自分ではないか。その正義の炎に対抗する「逆焔」も自分が煽ったのだ。その僕の動きを止めようとは、なんという心得違いか。
 「且つ今の逆焔は誰れが是れを激したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年立つてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。吾が輩屏息へいそくすれば逆焔も屏息せようが、吾が輩再び勃興すれば逆焔も再び勃興する、幾度も同様なり」(同書簡)
 ――そのうえ、今、革命に対する炎は、いったいだれが燃え立たせたのか。この僕ではないか。僕がいなければ、この炎は千年たってもなかろう。僕さえいれば、この炎はいつでもある。
 忠義というのは″鬼のいない間に、一息入れて茶を飲む″ようなものではない。
 僕が息をひそめれば、炎も息をひそめる(小さくなる)だろう。僕がふたたび立てば、炎もふたたび大きく燃え上がる。これは何度やっても同じことだ――。
 「忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし」――なんと痛烈な言葉であろうか。
 何やかやと理由をつけて、動こうとせず、その実、危険を避けて、わが身をかばおうとしている。そうした門下の、政治家的な要領のよい生き方と弱さを叱咤しているのである。
 何より、「革命の火種」としての松陰の自負は大きかった。自分が立てば、反動も大きい。そのとおりだろう。当然ではないか。われこそ″革命の主体者″なのだ。その僕を抑えて、時を待つなどと言ったところで、何年たっても何ひとつ変わらないぞ、と。
 炎を広げるには、「火種」を第一に守りぬいていく。これが当然すぎるほど当然の道理である。その道理が見えないのかと、松陰はあえて言わざるをえなかった。
 広宣流布も、「火種」を守りぬけば、いつでも燃え広がる。また永遠に続いていく。「火種」を消せば、広布の炎も消える。この重大な一点を忘れてはならない。
 今、私は戸田先生から受け継いだ、正法広宣流布への確かな火種を世界に広げながら、さらに次の時代のため、万年のために、真正の「革命の火種」を青年諸君の魂に伝えようとしている。(拍手)
(つづく)

2015年2月11日

吉田松陰(2)


 <「何方(なんぼう)時を待ちたりとて時はこぬなり」>


 獄中にあって、松陰はジリジリした。思いは逸(はや)れども、動くに動けない。だれか、わが心を心として走ってくれる者はいないか。
 ところが――。門下は、彼の計画に、ことごとく反対した。
 藩主のカゴを止める計画も、実行しようという者は入江兄弟(入江杉蔵、野村和作)のみ。しかし、兄弟は若く、足軽(あしがる)の身分でもあり、たいして仕事はできなかった。
 一般にも、ある程度、力のある人間は傲慢になり、ずるくなって、身を粉(こ)にしない。保身を図る。一方、純真な人間には、力がないことが多い。こういう傾向性があるようだ。力もあり、人間的にも、労を惜しまぬ誠実さがある、そのような人物が多く出てこそ、大事は成る
 激しいといえば、まことに激しい松陰の情熱である。弟子たちには理解できない。それどころか、師を諫(いさ)めさえした。
 高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、中谷正亮(しょうすけ)、その他の弟子も、みな松陰に背を向けた。江戸にいる彼らから手紙が届いた。
 ――先生のお気持ちはよくわかりますが、時期尚早であり、老中襲撃など成功の見込みは少なく、長州藩そのものを危機に追い込むことになりかねません。ここは我慢をして、時を待つべきです、との内容であった。
 門下の双璧と言われた久坂、高杉ですら、こうである。他の計画も、実行に走ろうとした門下を他の門下生が説得して、やめさせるしまつであった。藩に計画を密告した門下すらいた。裏切りである。


 松陰は嘆いた。私の心を知る弟子は、どこにもいないのか――。松陰は孤立し悩んだ。
 久坂、高杉らの手紙が届いたとき、松陰はある人にあてて書いた。
 「吾が輩皆に先驅(さきがけ)て死んで見せたら觀感(かんかん)して起(たつ)るものもあらん。夫(そ)れがなき程では何方(なんぼう)時を待ちたりとて時はこぬなり」(同書簡)
 ――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、意気に感じて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。
 ″時を待つ″のではない。言ってわからなければ、一命を捨てて″時をつくる″その死は、決して門下生らが言うような「犬死に」ではない、と
 結果的には、やがて松陰の死が門下を立ち上がらせ、この時の彼の手紙のとおりになった。
(つづく)

2015年2月10日

吉田松陰(1)

 

<「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」>


 革命の炎と生きた吉田松陰

 

 さて本日は、青年部の参加者も多い。そこで吉田松陰とその門下について少々、ふれておきたい(拍手)。ご承知のように、吉田松陰は満二十九歳で死刑に散った。まことに若い。青年である。この一人の青年が近代日本の幕を大きく開け、古き時代は倒れた。驚くべき歴史である。
 その影響力の根源は、どこにあったか。松陰という人物の本質をどう見るか。当然、多くの論者がおり、さまざまな見方がある。また諸君にも将来、考えていただきたい。本日は、彼の言葉から一点のみ、お話ししたい。
  松陰はある時、門下に対し、こう言った。
 「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」(安政6年正月十一日、某宛書簡。山口県教育会編『吉田松陰全集 第八巻』大和書房。以下、手紙の引用は同じ。すべて安政6年)と。
 ″自分は、成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は手柄をたてるつもりなのだ。意見が違い、生き方が違う″と厳しく指弾したのである。
 すなわち、これは松陰が、門下の久坂玄瑞、高杉晋作らを名ざしで批判し、絶交した時の言である。
 ――諸君には、私の心がわからない。
 ――ああ、真の同志は、まことに少ない
 松陰は嘆いた。この師弟に何があったのか。
 時に、松陰にとって最後の年、安政6年(1859年)1月のことであった。この年の10月に彼は刑死する。(安政の大獄)
 松陰は、この時、萩の「野山獄」にいた。獄中でも彼は革命への動きを止めようとしなかった。彼はいつでも計画し、どこでも実行に移そうとしていた。
 真の革命家は皆、そうである。牢獄も彼の心を縛ることはできない。
 松陰はこの以前から、次々と門下に策をさずけた。
 長州(山口県)の藩主・毛利慶親(後に敬親と改名)を、参勤交代の途中、カゴを止め、京都で「討幕へ」と説得しようという計画もその一つである。″もう時代は変わった″と、大名を行動させようというのである。
 また、水野土佐守や、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃なども考えた。
 思いは次々と浮かび、めぐる。頭脳は激しく回転する。松陰の思いは激しかった。
 つねに生き急ぎ、死に急いでいたかのごとき松陰。生きることにも心急(せ)き、死にゆくことにも急であった。


 その心は私にも痛いほど、よくわかる。青春の日、私は思い定めていた。「戸田先生のご存命中に死のう」と。
 私には妻も子もあった。しかし、後世に戸田門下生の範を示しておきたかった。こういう地涌の闘士がいたのか、末法広宣流布に殉じた若武者がいたのか――と。
 しかし、その心を戸田先生に見破られてしまった。
 「大作、お前は死に急いでいる。それは困る。お前が死んだら、俺のあとはどうなるのだ!」
 それで私は生きた。生きぬく以外になくなった。生死を超えた師弟であった。厳粛にして美しき、一体の師弟の絆であった。何ものも、その間に介在することはできなかった
(つづく)

◆ら行

レオナルド・ダ・ビンチ

1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦)

2015年5月27日

私は続ける!

 

<“探求の人”ダ・ヴィンチは「根源の一法」を求めた>

   

 先ほどフィレンツェの未来部の皆さんが、素晴らしい演技を披露してくださった。ご存じのように、ここフィレンツェは、かの天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年~1519年)が少年時代、青年時代を過ごした天地である。ダ・ヴィンチは、幼くして実の父母と離ればなれになった悲哀などを、芸術を心の大きな糧として乗り越えていった。
 私には未来部の皆さんが、何ものにも負けない若きダ・ヴィンチと二重写しに見える。
 そこで少々、ダ・ヴィンチの話をさせていただきたい。
 ルネサンス精神を代表する“万能の人”ダ・ヴィンチ。米ソのかけ橋として活躍されたアメリカの故ハマー博士から、私は、ダ・ヴィンチの「手稿」の特別復刻版を頂戴した。創価大学の宝として大切に保管されている。(「手稿」は五年以上かけてダ・ヴィンチ当時の姿に再現され、三十五部のみ限定復刻された。有名な鏡文字<左右逆の文字>とスケッチで、天文、地質、水の動き、力学、幾何、人体、生理、気象、古生物学などの探究のあとが。サイホンの原理、水の気化・液化の原理、蒸気の力、潜水艦と換気装置など先見のアイデアもちりばめられている)
 絵画、彫刻、音楽、生理学、工学、建築、砲術、数学、その他の自然科学……広がり続けた彼の「探究」は、結論的に言えば、森羅万象の奥にある「一法」への探究であったとも考えられる。
 これに対し、私たちは、妙法という「根源の一法」を基本にして、芸術・科学はもちろん、社会のあらゆる分野に、“創造”の華を咲かせていく。
 立場は違うが、“探究の人”ダ・ヴィンチに学ぶことは、あまりにも多い。
 時間の都合もあり、本日は、簡単に、彼の言葉を列挙のみしておきたい。
 まず「徳が生まれると、忽ち徳は、自分に反対する嫉妬を分娩する。嫉妬なき徳より影なき物体の方がさきに現れるだろう」(高徳の人が現れると、必ず嫉妬する人が現れる。嫉妬されない高徳の人など、影のない物体がない以上にありえない)
 これが人の世の現実であろう。ともあれ、焼きもちを焼く人よりも、焼かれるくらいの人のほうが幸福である。そういう幸福な人生であっていただきたい。
 また「悪を罰しない者は悪をなせと命じているのだ」(悪と戦わぬ者は、悪を許し、悪を行えと言っているのと同じである)
 これもまた道理である。悪と戦わない人は正義の人ではない。
 「老年の欠乏をおぎなうに足るものを青春時代に獲得しておけ。そしてもし老年は食物として智慧を必要とするということを理解したら、そういう老年に栄養不足にならぬよう、若いうちに努力せよ
 青春の努力が人生の土台である。そして「知恵ある人」は永遠の富者である。
 「食欲なくして食べることは健康に害があるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない
 次元は異なるが、信心の実践も“勇んで”、また“喜んで”行ってこそ、真の大きな功徳はある。いやいやながらの、後ろ向きの一念であっては、本当に深い、汲めどもつきぬ大福運はつかない。その一念の差はまさにタッチの差であるが、結果の違いは大きい。
 「あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える」──これは有名な言葉である。
 「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」──創作も人生も同様であろう。日蓮大聖人は『先(まず)臨終の事を習うて後に他事を習うべし』と仰せである。


死を目前に「私は続ける!」


 さて、ダ・ヴィンチのいわゆる「最後の言葉」は何か。(彼は1516年、六十四歳の時、フランスに出発、フランソワ一世の居城の一つ、アンボワーズ郊外のクルー城に滞在した。二年半後の逝去もクルーの地である。臨終のくわしい状況は伝えられていない)
 死を目前にした彼は、死後のことを、こまごまと指示した遺言状を書くが(死の九日前)、その前に書き残した言葉がある(1518年6月)。
 それは「私は続けるだろう」との一言である。何かの計画であったのか、何らかの仕事のことか、芸術のことか、いずれにしても、彼は死を目前にして、なお「私は続ける」と書いている。
 最後まで「努力」、どこまでも「挑戦」、限りなき計画と実行の「持続」「連続」──この、たゆまぬ前進が、“天才”の実質であった。
 生きている限り、私は「戦う」。使命の行動を、私は「続ける」。この決心が、人生の天才、幸福の天才をつくっていく。正義、健康、勝利、幸福、和楽、栄光──すべて、この「私は続ける」という一言の中に凝縮されている。
 大切な、大切な皆さまである。妙法を根本に、自分自身の、はつらつたる“行動の絵”を、そして自在なる“幸福の名画”を描き、現実へと仕上げていっていただきたい。


1992年6月28日SGIイタリア芸術音楽祭

◆わ行

世界広布新時代

創立90周年へ

「創価勝利の年」

(2019年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2019.7.14日

第1615

 

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL