2019年2月9日
第1578回
最後は「信心強き人」が勝つ
文永12年(1275年)正月24日、日蓮大聖人は、大田乗明への御手紙にこう仰せである。
「抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか」(御書1002ページ)
――そもそも俗世間においても、真実の世界である仏法においても、勝負が肝要であり、世間も出世間(仏法)も、甲乙(勝劣)を決することを最も大切なこととするか――と。
世間においても、仏法においても、何が勝れ、何が劣るかを明らかにせねばならない。そして、正義は邪義に絶対に負けてはならない。
一、仏法も、社会も、人生も、「勝つか負けるか」――これが根本となる。
個人も、一家も、団体も、すべて「勝負」である。戦闘である。ゆえに、大聖人は御書に教えてくださっている。「世間でも勝ちなさい。仏法でも勝ちなさい」――と。
「勝つ」なかに「幸福」もある。「希望」もある。「広宣流布」もある。
ゆえに、大聖人直結の誉れの同志は、絶対に負けてはならない! 断じて勝たねばならない!
学会はこの「断じて勝つ」信心を貫いたゆえに、あらゆる障害を乗り越え、奇跡と言われる大勝利、大発展を成し遂げたのである。
仏法も社会も勝負
一、また大聖人は、弘安3年(1280年)正月11日、南条時光にこう仰せである。
「花は開いて果となり・月は出でて必ずみち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさか(栄)う・人は善根をなせば必ずさかう」(同1562ページ)
――花は開いて、やがて実となり、月は出るごとに必ず満ち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば繁る。(それと同じように)人は善根を積めば必ず栄える――。
仏法は道理である。
私どもは、法のため、人のため、広宣流布のために、日々、懸命に行学に励んでいる。
その真心の信心が、しんしんと降り積もる雪のように、わが身の善根とならないはずがない。「信心」強き人は、最後は必ず勝つ。必ず栄えていく。三世永遠に、無量の福運に包まれ、物心ともに、幸福に満ちみちていくのが仏法である。そうなるに決まっているのが、信心なのである。
ゆえに信心は、まじめに、地道に貫くことである。
仏のことを「能忍」という。広布のさまざまな労苦を、あるいは無理解な周囲の声を、「能く忍び」、耐え抜き、乗り越えてこそ、永遠の勝利者となる。
また仏の別号に「世雄」とある。民衆を救う“世の英雄”として、苦しい戦いも勇敢に戦闘し、勝つ人が仏なのである。
反対に、要領よく立ち回るだけの人は、表面は良いように見えても、福運はつかない。善根は積めない。
だれであろうと、どんなに高い地位にあろうと、学会を利用するだけの人間、学会員を裏切る恩知らずの人間は、善根を、すべて失ってしまう。
「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(同1190ページ)――始めは何もないようであって、ついには滅びないものはない――と仰せのように、最後は必ず滅びていく。
1993年1月の新春幹部会での池田先生のスピーチ
2015年5月17日
永遠に前へ進むのだ!
万歳を
同志と叫ばむ
五月晴れ
さらに続けよ
前進勝利を
尊き団結の奮闘で「五月三日」を凱旋で飾った我らは、勇気凛々と新たな前進を開始した。
共々に出発しよう!
創価の師弟は、永遠に前へ前へ進むのだ。
「私は続けるだろう」とは、ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ビンチが晩年に記した言葉だ。
偉大な創造は「続ける」中にある。
偉大な勝利も「戦い続ける」中にこそある。
2015.5.15付 聖教新聞 民衆凱歌の大行進 22 世界宗教への飛翔
2015年4月13日
眼前の課題に勝利!
<今の勝利こそが未来の栄光を開く>
「ローマは一日にして成らず」だ。何事であれ、建設は死闘である。
ましてや、広宣流布という、人類の境涯を最高に高め、希望と平和の「永遠の都」を築きゆく大事業は、一朝一夕にはできない。
着実にして、たゆみない一日また一日の積み重ねを要する。世代から世代へ、後継の人材の流れをつくっていく以外にない。
なかんずく、今この時、自ら誓い願って躍り出てくれた地涌の青年に、私は一切を託す。
眼前の課題を、一つ一つ勇んで戦い切り、勝ち切ってくれ給え!
今の勝利こそが未来の栄光を開く――と。
2015.4.15付 創価新報 勝利の人間学 第72回
2014年9月29日
勝ちまくれ! 仏法は勝負である
<所詮は題目を唱える以外にない>
「勝ちまくれ! 仏法は勝負である」――恩師・戸田先生の師子吼が胸に響く。全てに勝とう! 広宣流布のために! 自分自身の幸福のために!
ブロックこそ広布拡大の最前線だ。模範のブロックをつくるには、どうしたらよいか。私は葛飾の総ブロック長に就いた際、皆と約し合った。
全会員が、しっかり勤行できるようにしていこう――と。
柔道にも剣道にも基本があるが、幸せになるための信心の基本は勤行にある。日々、真剣に勤行・唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、3年、5年、7年とたっていったとき、厳然たる開きが出てくるものだ。
宿業の転換といい、人間革命といっても、その一切の原動力は勤行・唱題にほかならない。
一念の力は無限である。わが最高峰を目指そう!――そう決めて祈れば、偉大な力が湧く。
日蓮大聖人は仰せである。
『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(一生成仏抄、384頁)
勤行の姿勢が、生き方にも表れる。力強い勤行、すがすがしい勤行、真剣な祈りを込めた勤行は諸天をも動かしていく。
私たちが毎日読誦する法華経寿量品に「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏を見立てまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず)とある。求道心に燃え、命を惜しまず、法のために――ここに信心の真髄がある。
あらゆる苦難に挑みながら、仏法を弘め、同志を守り抜く。その戦う心に仏界は輝く。
所詮は題目を唱える以外にない。一番やさしい修行は唱題であり、一番難しい修行も題目を唱えることだ。
生き抜く力の源泉、勇気とい智慧の源泉こそ題目なのである。
聖教新聞2014.9.28付新時代を開く35
2014年9月14日
何があっても絶対退くな!
<広布の苦労はすべてが財産になる>
「(中略)信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。
仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。
魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとする。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。
こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。
あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、敢然と困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。(中略)
広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になる。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、“これで一つ宿業が転換できた”“また一つ罪障が消滅できた”と、喜々として進んでいくのです。
最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」
小説 新・人間革命 2巻 勇舞 187頁
2014年5月29日
眼前の証拠を示せ!されば道開かん!
『現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もあり』(法蓮抄、1045頁、編696頁)
「ともあれ、勝つしかない。一つ一つ勝利の現証を示していく以外、広布の道は開けない。勝たなければ、同志を励ませない。学会を守ることもできない。この決心、この祈り、この執念で、私は戦い勝ってきました。あとに続くのは、私が薫陶してきた直弟子の君たちである」
「現実には、皆、宿命との戦いもある。病気や子育て、家族の介護、人間関係等々、言うに言われぬ苦労も尽きないであろう。
しかし、戸田先生は言われた。『自分が悩み苦しみながら、それでも民衆の中に飛び込んで、皆を励まし救っていく。だから仏になれる。だから家族も眷属も大功徳に包まれるんだよ』と。
リーダーが試練と戦っているからこそ、学会は悩める友の味方になれる。ゆえに、何があっても臆さず、一切を御本尊に任せて題目を唱え、希望に燃えて悠然と勝ち越えていただきたい」
聖教新聞2014.5.28付各部代表者会議
2014年5月2日
貫き通す人が勝利者
「“明日から勤行しよう”“明日から唱題しよう”“明日から勉強しよう”という人は、“きょう”はしないのだから、永久にできない人だね」(中略)
「勤行にしても、何にしてもそうだが、“良いこと”を繰り返すということは大変なことでです。
それを、繰り返し、やり切っていける人は立派な人です。
それをキチンとやらないから苦しくなっていく。
ご飯を食べることだって繰り返しです。座談会に出ることだって、勤行することだって、全部、繰り返すことが大切なのです。
華々しくなくともよい。十年一日のごとく、真面目にそうしたことを貫き通していった人が、結局は勝利者になるのです」
大白蓮華No.774号2014.5月号19頁
2014年1月17日
正義を貫いてこそ、無敵なり!
有名なドイツの詩人シラーは叫んだ。
「おれは正義で行くんだから、こわい敵はないのさ」
学会も、正義なるがゆえに恐れるものは何もない。
そして、シラーの友人、ゲーテは言う。
「人生の辛酸に教えれらなければ、人生の宝のねうちはわかりません」
苦悩をくぐり抜けてこそ、人生のすばらしさを知る。仏法にも通じる真理である。
仏法は永遠に、「仏と魔の戦い」である。仏法を妨げ、幸福を妨げ、広宣流布を妨げる「魔および魔民」との戦いである。
頑強なる、その大将が「第六天の魔王」である。これが、人間の世界を支配しているゆえに、魔は強い。
しかし、絶対に負けてはならない。魔を打ち破ってこそ、仏になれる。
仏法は勝負である。勝つか負けるかである。いくら信心していても、臆病者は仏になれない。そう日蓮大聖人は厳しく仰せである。(中略)
尊き信心を持ち、広宣流布を成し遂げんとする大聖人のお心を心とし、「死身弘法」「不惜身命」で、「正法正義」を貫き、前進しぬいてきた実証が、今日の学会の大発展である。
戸田先生は亡くなられる直前、私を呼ばれて、こう言われた。
「大作、創価学会は大きくならなくてもいい。同志が皆、元気で、幸せに生活していければ、それでいいんだよ」と。先生の遺言である。
学会が発展すれば、それだけ、法難もあるだろう。苦しみもあるだろう。嫉妬もあるだろう。どんなに大作は大変か――これが先生のお心であった。ありがたい師匠であった。
しかし私は、あらゆる苦難を発条として、今日の学会を築いた。広布の道を世界に開いた。
2000.10.5創立70周年記念第50回本部幹部会
2014年1月16日
常勝の道
自分が、今、いる場所がいずこであっても、そこが「本有常住」の場所であり、「人生の使命の場」であり、「仏国土」とすべき場所である。
ゆえに、自分に与えられたその場で、断固として戦い、断固として勝っていくことである。
それが「常勝の道」である。
2000.2.24関西代表者会議
2013年10月31日
創価の完勝は永遠の遺言!
2013年10月28日
広宣流布は永遠の戦い!
2013年8月1日
人がどう評価するか、それはどうでもよい。また、一時の姿がどうかということでもない。要するに、最後の最後に会心の笑みを満面に浮かべられる人生かどうかである。生涯を振り返り「自分は人生に勝った。楽しかった。悔いはない」と言える人が、勝利者である。
1989.11.12「11・18」記念合同幹部会
2013年7月28日
『東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし(飼鹿)等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり』(御書、894頁)――(東条景信は、権力を背景に清澄寺をみずからの思いのままに支配しようと策動した。更に、地頭の立場を利用して、他家の領地を不当に収奪しようと謀り、清澄寺をも念仏化せんとして圧力を加えてきた。大聖人は、この横暴に対して、道理である側に味方され、苦しむ人々を守られたのである。そして、清澄寺・二間の二つの寺が、東条景信のものとなってしまうならば、日蓮は法華経を捨てようと、真心からの起請文を書いて御本尊に祈ったと。その結果、一年のうちには、この二つの寺は、東条景信の手から離れたのである。)
まことに〝法華経に勝る兵法なし〟である。
われわれにも、これまで、さまざまな権力の迫害、策謀の嵐があった。そのなかを「信心」の二字で、すべてを勝ちぬいてきた。(中略)
仏法は「勝負」であり、魔軍との、しのぎを削るような戦いである。負ければ広布の光は消えてしまう。ゆえに絶対に負けるわけにはいかない。
絶対絶命の状況に追い詰められるときもあろう。しかし、負けられない。絶対に勝ってみせる。これが信心である。また、それぐらいの気迫と行動なくして、誉れある大聖人の門下とはいえないし、大法弘通の大信者とはいえないのである。
1990.1.18第25回本部幹部会
2013年7月19日
〝断じてやり遂げよう〟という強い一念があれば、工夫はいくらでも生まれる。反対にあきらめの心があれば、工夫の芽を自ら摘み取ってしまうことになる。
伸一が、池袋駅に着いたのは、午後十一時前であった。夕食をとることができなかった彼は、屋台でラーメンをすすった。
大田区大森のアパート「青葉荘」に着いた時には、既に午前零時を回っていた。それから御本尊に深い祈りを捧げた。
伸一には、成すべき課題が山積していた。しかし、今、この瞬間にやれることは一つである。たくさんの課題を、時間という縦軸に置き換え、一瞬一瞬、自身を完全燃焼させて、全力でぶつかっていく以外にない。未来は「今」にある。勝利は「今」にある。
2013年7月10日
「悪鬼」は、その名のとおり、餓鬼界の生命である。餓鬼界は「貪り」の命である。何を貪るのか。
それは、妙法を持つものの「生命力」であり、これは「奪命者」の働きである。また「奪功徳者」として、妙法による「功徳」を奪おうと動く。
さらに、「立正安国論」等に示されたごとく、人々から正常な思考を奪って、社会を乱していく。また仏道修行への「信心」を食い破ろうと邪魔をする。
末法の世が進んだ現代は、こうした悪鬼がいよいよ充満し、飢えた餓鬼のごとく、妙法を持つ人と広布の世界に押し寄せ、むらがってくる。
ゆえに、そのことを意識し、自覚して、「悪鬼」と「魔」を寄せつけない戦いが必要である。それらをすべて打ち破っていく、強き一念と祈りが不可欠である。
その用心と日々の祈り、また団結と知恵がなければ、虎狼の群れに、一人、無防備に入っていくように危険きわまりない。それが末法なのである。
その悪の世界にあって、清浄なる妙法の信仰と仏子を、どう守り、正法の世界を広げていくか。指導者の苦心孤忠もここにある。夢にもかんたんなものに思ってはならない。
善と悪との壮絶なせめぎ合い。これが、この世の永遠の劇である。宇宙はつねに、善と悪との闘争の舞台なのである。
広宣流布が進んでいけば、組織が大きくなれば、戦いは楽になってくるだろう。そう錯覚したとしたら、それ自体が、すでに悪に敗れつつある姿である。
また、自分はこれだけ信心したから、もう心配はないだろう。だれにも、そんなことは言えない。
仏法は、信心は、永遠の前進であり、永遠の闘争である。その「前進」が即「安穏」なのである。
朗らかに、堂々と戦い続ける姿が、そのまま「勝利」の生命なのである。
2013年7月9日
「法華経を持った人にも、どうして、さまざまな苦しみや、つまずきがあるのか」――このことにふれておきたい。
信心したとしても、つねに、いろいろな事件、出来事がある。どうしてなのか。
その根本的理由の一つは、妙法を持った人は「善人」である。だからこそ「善人」をきらい妬む「悪鬼」が、その人を懸命にねらってくるからである。御書には、そう明快に説かれている。
「悪鬼」とは、生命論的にいえば、人間の福徳や生命力を〝奪う〟、宇宙の悪しき働きのことといえよう。これに対し、「諸天善神」とは、宇宙の根本法である妙法を持った人を〝守る〟働きをさしている。「善」に生きているからこそ「悪」が攻撃するのである。
大聖人は御書にわかりやすく仰せのように、美人は妬まれる。また、金持ちはねらわれる。ましてや、妙法は「永遠なる幸福」の法である。ゆえに妬まれ、騒がれるのである。
2013年7月8日
7月5日
7月4日
2013年6月25日26日
2013年6月11日
2013年5月4日