仏法は勝負

2021年10月26日

第1758回

  仏法は道理! 仏法は勝負!

 

 壮年部の模範の先達といえば、

 信越にゆかりの深い四条金吾である。

 四条金吾が、

  立派な仕事ぶりゆえに同僚から妬まれ、

  正しき信心ゆえに弾圧され、

  悪辣な讒言を加えられ、

  窮地に立たされたことは、

 ご存じの通りである。

 その金吾を、大聖人は徹底して厳護していかれた。

 金吾に贈られた御書の指導について、あえて要点を挙げれば、次のようになろうか。

 まず「難を乗り越える信心」である。

 そして「変毒為薬」――「毒を変じて薬と為す」妙法の偉大な力を教えられた。

 また、「名聞名利、毀誉褒貶などの八風に侵されない賢人たれ」(八風とは「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」)

 「仏法は人の振る舞いにある」と強調された。

 具体的に、

 “短気を起こすな

 “油断するな

 “事故に注意せよ

 “事前の用心を怠るな

 “酒に気をつけよ

 “同志を大切にせよ

 “味方をつくれ

 “女性は決して叱るな

 “人を尊重せよ”等々、

 細々と「人間学の真髄」を教えていかれた。

 「仏法は道理なり」とも仰せである。

 仏法は、

 いかなる権力や横暴にも

 必ず勝つ最高の道理であり、

 最高の正義である。

 

 さらに大聖人は「同志の団結」を訴えられた。

 大変なときこそ、

 よき同志から離れず、

 和合の組織とともに進むことだ。

 それが魔に付け入る隙を与えないことになる。

 学会こそ「生命の安全地帯」である。

 

 また「信心に生き抜く以上の遊楽はない」のである。

 大聖人は四条金吾に「法華経に勝る兵法なし」と厳然と示された。

 「心こそ大切なれ」(御書1192㌻)、

 「臆病にては叶うべからず」(御書1193㌻)と強く語られた。

 勇気ある信心で戦っていくことだ。

 そして、何よりも「仏法は勝負なり」である。

 師子のごとく正義を語り、

 堂々と生き抜く。

 正しき仏法を断じて持ち抜く。

 その人間が最後は勝つ。

 

 それを燦然と示しきっていく生き方を、

 大聖人は教えられたのである。

 また、四条金吾の夫人に対しても、

 勇気ある信心を貫いていきなさいと

 大聖人は指導しておられる。

 

 金吾への御手紙に

 “夫人の祈りが叶わないというのは、

 決して法華経のせいではない。信心が弱いからである。

 『自分(金吾)は人に憎まれながらも、

 信心を持っている。

 そのように実践していこう』と夫人に話してあげなさい”

 (御書1138㌻、趣意)と記しておられる。

 

 事業にも、人生にも、

 山があり、谷がある。

 

 遠くは、釈尊門下の随一の大富豪であった

 須達長者夫妻も、

 決して順風満帆の人生航路ではなかった。

 7度、貧窮し、

 そして7度、長者になるという

 「波瀾万丈の人生」であった。

 

 とくに、7度目の貧窮の際は、

 万民が皆、逃げ去り、

 ただ夫妻二人だけ残された。

 そのどん底の中でも、

 師と仰ぐ釈尊に大誠実を尽くし、

 そして大法に殉じていこうとした。

 

 最も苦しいときの、

 最も強く、

 最も深き信心の志によって、

 夫妻は一転して、

 インド第一の長者になった。

 やがて、

 あの有名な祇園精舎を造る

 大境涯になったというのである。

 

 まさに「一念三千」であり、

 「一心の妙用」である。

 信心の「心」こそ大切なのである。

 

 大聖人は、

 「この須達長者を鑑として、

 万事を心得ていきなさい」(御書1574㌻、趣意)

 と仰せである。

 

 私は、わが学会員が、

 一人も残らず、

 いかなる苦境をも打開し、

 福運に満ち満ちた人生を歩んでいかれるよう、

 強く、また強く、深く、また深く、

 題目を送り続けていく決心である。

 

 創価学会のことを馬鹿にし、

 学会員をいじめた者は、

 因果の理法に照らし、

 必ず哀れな末路をたどる

 これは、多くの方々が、

 まのあたりにして、

 ご存じの通りである。

 仏罰は厳しい。

 「めは事なきやうにて

 終にほろびざるは候はず」である。

 

2002.7.26全国総県長会議 池田大作全集第67巻373頁

2019年2月9日

第1578回
最後は「信心強き人」が勝つ

 

 

 文永12年(1275年)正月24日、日蓮大聖人は、大田乗明への御手紙にこう仰せである。
 「抑俗諦・真諦の中には勝負を以て詮と為し世間・出世とも甲乙を以て先と為すか」(御書1002ページ)
 ――そもそも俗世間においても、真実の世界である仏法においても、勝負が肝要であり、世間も出世間(仏法)も、甲乙(勝劣)を決することを最も大切なこととするか――と。
 世間においても、仏法においても、何が勝れ、何が劣るかを明らかにせねばならない。そして、正義は邪義に絶対に負けてはならない。
 一、仏法も、社会も、人生も、「勝つか負けるか」――これが根本となる
 個人も、一家も、団体も、すべて「勝負」である。戦闘である。ゆえに、大聖人は御書に教えてくださっている。「世間でも勝ちなさい。仏法でも勝ちなさい」――と。
 「勝つ」なかに「幸福」もある。「希望」もある。「広宣流布」もある。
 ゆえに、大聖人直結の誉れの同志は、絶対に負けてはならない! 断じて勝たねばならない!
 学会はこの「断じて勝つ」信心を貫いたゆえに、あらゆる障害を乗り越え、奇跡と言われる大勝利、大発展を成し遂げたのである。
仏法も社会も勝負
 一、また大聖人は、弘安3年(1280年)正月11日、南条時光にこう仰せである。
 「花は開いて果となり・月は出でて必ずみち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさか(栄)う・人は善根をなせば必ずさかう」(同1562ページ)
 ――花は開いて、やがて実となり、月は出るごとに必ず満ち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば繁る。(それと同じように)人は善根を積めば必ず栄える――。
 仏法は道理である。
 私どもは、法のため、人のため、広宣流布のために、日々、懸命に行学に励んでいる。
 その真心の信心が、しんしんと降り積もる雪のように、わが身の善根とならないはずがない。「信心」強き人は、最後は必ず勝つ。必ず栄えていく。三世永遠に、無量の福運に包まれ、物心ともに、幸福に満ちみちていくのが仏法である。そうなるに決まっているのが、信心なのである。
 ゆえに信心は、まじめに、地道に貫くことである。
 仏のことを「能忍」という。広布のさまざまな労苦を、あるいは無理解な周囲の声を、「能く忍び」、耐え抜き、乗り越えてこそ、永遠の勝利者となる。
 また仏の別号に「世雄」とある。民衆を救う“世の英雄”として、苦しい戦いも勇敢に戦闘し、勝つ人が仏なのである。
 反対に、要領よく立ち回るだけの人は、表面は良いように見えても、福運はつかない。善根は積めない。
 だれであろうと、

 どんなに高い地位にあろうと、

 学会を利用するだけの人間、

 学会員を裏切る恩知らずの人間は、

 善根を、すべて失ってしまう。
 「始めは事なきやうにて

 終にほろびざるは候はず」(同1190ページ)

 ――始めは何もないようであって、ついには滅びないものはない――と仰せのように、

 最後は必ず滅びていく。

 

1993年1月の新春幹部会での池田先生のスピーチ

2015年5月17日

永遠に前へ進むのだ!

 

 

 万歳を
  同志と叫ばむ
   五月晴れ
  さらに続けよ
    前進勝利を

 

 尊き団結の奮闘で「五月三日」を凱旋で飾った我らは、勇気凛々と新たな前進を開始した。
 共々に出発しよう!
 創価の師弟は、永遠に前へ前へ進むのだ。
 「私は続けるだろう」とは、ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ビンチが晩年に記した言葉だ。
 偉大な創造は「続ける」中にある。
 偉大な勝利も「戦い続ける」中にこそある。

 

2015.5.15付 聖教新聞 民衆凱歌の大行進 22 世界宗教への飛翔

2015年4月13日

眼前の課題に勝利!

 

<今の勝利こそが未来の栄光を開く>

  

 「ローマは一日にして成らず」だ。何事であれ、建設は死闘である。
 ましてや、広宣流布という、人類の境涯を最高に高め、希望と平和の「永遠の都」を築きゆく大事業は、一朝一夕にはできない。
 着実にして、たゆみない一日また一日の積み重ねを要する。世代から世代へ、後継の人材の流れをつくっていく以外にない。
 なかんずく、今この時、自ら誓い願って躍り出てくれた地涌の青年に、私は一切を託す。
 眼前の課題を、一つ一つ勇んで戦い切り、勝ち切ってくれ給え!
 今の勝利こそが未来の栄光を開く――と。

 

2015.4.15付 創価新報 勝利の人間学 第72回

 

2014年9月29日

勝ちまくれ!

仏法は勝負である

 

<所詮は題目を唱える以外にない>

   
 「勝ちまくれ! 仏法は勝負である」――恩師・戸田先生の師子吼が胸に響く。全てに勝とう! 広宣流布のために! 自分自身の幸福のために!
 ブロックこそ広布拡大の最前線だ。模範のブロックをつくるには、どうしたらよいか。私は葛飾の総ブロック長に就いた際、皆と約し合った。
 全会員が、しっかり勤行できるようにしていこう――と。
 柔道にも剣道にも基本があるが、幸せになるための信心の基本は勤行にある。日々、真剣に勤行・唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、3年、5年、7年とたっていったとき、厳然たる開きが出てくるものだ。
 宿業の転換といい、人間革命といっても、その一切の原動力は勤行・唱題にほかならない。
 一念の力は無限である。わが最高峰を目指そう!――そう決めて祈れば、偉大な力が湧く。
 日蓮大聖人は仰せである。
 『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(一生成仏抄、384頁)
 勤行の姿勢が、生き方にも表れる。力強い勤行、すがすがしい勤行、真剣な祈りを込めた勤行は諸天をも動かしていく。
 私たちが毎日読誦する法華経寿量品に「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏を見立てまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず)とある。求道心に燃え、命を惜しまず、法のために――ここに信心の真髄がある。
 あらゆる苦難に挑みながら、仏法を弘め、同志を守り抜く。その戦う心に仏界は輝く。
 所詮は題目を唱える以外にない。一番やさしい修行は唱題であり、一番難しい修行も題目を唱えることだ。
 生き抜く力の源泉、勇気とい智慧の源泉こそ題目なのである。

 

聖教新聞2014.9.28付新時代を開く35

2014年9月14日

何があっても絶対退くな!

 

<広布の苦労はすべてが財産になる>

   
 「(中略)信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。
 仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。
 魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとする。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。
 こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。
 あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、敢然と困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。(中略)
 広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になる。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、“これで一つ宿業が転換できた”“また一つ罪障が消滅できた”と、喜々として進んでいくのです。
 最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」

 

小説 新・人間革命 2巻 勇舞 187頁

2014年5月29日

眼前の証拠を示せ!

されば道開かん!

  
 『現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もあり』(法蓮抄、1045頁、編696頁)
 「ともあれ、勝つしかない。一つ一つ勝利の現証を示していく以外、広布の道は開けない。勝たなければ、同志を励ませない。学会を守ることもできない。この決心、この祈り、この執念で、私は戦い勝ってきました。あとに続くのは、私が薫陶してきた直弟子の君たちである」
 「現実には、皆、宿命との戦いもある。病気や子育て、家族の介護、人間関係等々、言うに言われぬ苦労も尽きないであろう。
 しかし、戸田先生は言われた。『自分が悩み苦しみながら、それでも民衆の中に飛び込んで、皆を励まし救っていく。だから仏になれる。だから家族も眷属も大功徳に包まれるんだよ』と。
 リーダーが試練と戦っているからこそ、学会は悩める友の味方になれる。ゆえに、何があっても臆さず、一切を御本尊に任せて題目を唱え、希望に燃えて悠然と勝ち越えていただきたい」

 
聖教新聞2014.5.28付各部代表者会議

2014年5月2日

 貫き通す人が勝利者

 

 

 「“明日から勤行しよう”“明日から唱題しよう”“明日から勉強しよう”という人は、“きょう”はしないのだから、永久にできない人だね」(中略)
 「勤行にしても、何にしてもそうだが、“良いこと”を繰り返すということは大変なことでです。
 それを、繰り返し、やり切っていける人は立派な人です。
 それをキチンとやらないから苦しくなっていく。
 ご飯を食べることだって繰り返しです。座談会に出ることだって、勤行することだって、全部、繰り返すことが大切なのです。
 華々しくなくともよい。十年一日のごとく、真面目にそうしたことを貫き通していった人が、結局は勝利者になるのです

 

大白蓮華No.774号2014.5月号19頁

2014年1月17日

正義を貫いてこそ、無敵なり!

 


 有名なドイツの詩人シラーは叫んだ。
 「おれは正義で行くんだから、こわい敵はないのさ」
 学会も、正義なるがゆえに恐れるものは何もない。
 そして、シラーの友人、ゲーテは言う。
 「人生の辛酸に教えれらなければ、人生の宝のねうちはわかりません」
 苦悩をくぐり抜けてこそ、人生のすばらしさを知る。仏法にも通じる真理である。
 仏法は永遠に、「仏と魔の戦い」である。仏法を妨げ、幸福を妨げ、広宣流布を妨げる「魔および魔民」との戦いである。
 頑強なる、その大将が「第六天の魔王」である。これが、人間の世界を支配しているゆえに、魔は強い。
 しかし、絶対に負けてはならない。魔を打ち破ってこそ、仏になれる。
 仏法は勝負である。勝つか負けるかである。いくら信心していても、臆病者は仏になれない。そう日蓮大聖人は厳しく仰せである。(中略)
 尊き信心を持ち、広宣流布を成し遂げんとする大聖人のお心を心とし、「死身弘法」「不惜身命」で、「正法正義」を貫き、前進しぬいてきた実証が、今日の学会の大発展である。
 戸田先生は亡くなられる直前、私を呼ばれて、こう言われた。
 「大作、創価学会は大きくならなくてもいい。同志が皆、元気で、幸せに生活していければ、それでいいんだよ」と。先生の遺言である。
 学会が発展すれば、それだけ、法難もあるだろう。苦しみもあるだろう。嫉妬もあるだろう。どんなに大作は大変か――これが先生のお心であった。ありがたい師匠であった。
 しかし私は、あらゆる苦難を発条として、今日の学会を築いた。広布の道を世界に開いた。

 

2000.10.5創立70周年記念第50回本部幹部会

2014年1月16日

常勝の道


 自分が、今、いる場所がいずこであっても、そこが「本有常住」の場所であり、「人生の使命の場」であり、「仏国土」とすべき場所である。

 ゆえに、自分に与えられたその場で、断固として戦い、断固として勝っていくことである。
 それが「常勝の道」である。

 

2000.2.24関西代表者会議

2013年10月31日

 創価の完勝は永遠の遺言! 

 

 「人生は、永遠に挑戦であり、永遠に闘争である。ゆえに、永遠に勝利せよ! 永遠に勝利しゆくことが仏法である」
 これが、戸田先生の叫びであった。
 先生は、さらに、こう言われた。
「圧倒的な創価の完勝をもって、末法万年尽未来際への鑑としていくべきだ」
(中略)
 勝つことは朗らかである。何事も、負けた人間はバカにされる。わびしいものである。
 朗らかな一年にしていきたい。「勝利は決まっている!」と愉快に進むのだ。
 朗らかに生きることが勝利である。
 「創価の完勝」 これは、戸田先生のまぎれもない遺言である。
 戸田先生は、広宣流布の戦いに臨むとき、「大聖人は言われたではないか。御書に『仏法と申すは勝負をさきとし』(御書1165頁)と書いてあるではないか。だから戦う以外にないではないか。大作、頼むぞ」と言われるのが常であった。
 その戸田先生の心を、わが心として、私は戦った。戦い抜いた。私は何ものも恐れない。
 
 2003.9.10第28回SGI総会、第33回本部幹部会

2013年10月28日

 広宣流布は永遠の戦い!

 

 師はよく言われた。
 ――広宣流布は長い。
 一生の戦いである。
 いな 永遠の戦いである。
 たとえ苦闘の嵐があっても
 君たちよ
 断じて負けるな!
 
 いかなる
 迫害の嵐があっても
 最終章の大勝利を
 確信しながら
 奥深き洞窟の中をば
 本陣と思い
 人間勝利のための
 王宮と思って
 指揮を執れ!
 
 嵐の中に
 長剣を高く掲げながら
 再び時の到来とともに
 戦いの雄叫びを上げて
 進むのだ――
 
 聖教新聞2013.10.6付桂冠詩人の世界

2013年8月1日

 最後に、会心の笑みを満面に!

 

 人がどう評価するか、

 それはどうでもよい。

 また、一時の姿がどうかということでもない。

 要するに、

 最後の最後に会心の笑みを

 満面に浮かべられる人生かどうかである。

 生涯を振り返り

 「自分は人生に勝った。

  楽しかった。

  悔いはない

 と言える人が、勝利者である。

 

1989.11.12「11・18」記念合同幹部会

2013年7月28日

 権力の迫害には、
「信心」の二字で勝て! 
 

 『東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし(飼鹿)等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり』(御書、894頁)

 

――(東条景信は、権力を背景に清澄寺をみずからの思いのままに支配しようと策動した。更に、地頭の立場を利用して、他家の領地を不当に収奪しようと謀り、清澄寺をも念仏化せんとして圧力を加えてきた。大聖人は、この横暴に対して、道理である側に味方され、苦しむ人々を守られたのである。そして、清澄寺・二間の二つの寺が、東条景信のものとなってしまうならば、日蓮は法華経を捨てようと、真心からの起請文を書いて御本尊に祈ったと。その結果、一年のうちには、この二つの寺は、東条景信の手から離れたのである。)

 

 まことに〝法華経に勝る兵法なし〟である。

 われわれにも、これまで、さまざまな権力の迫害、策謀の嵐があった。

 そのなかを「信心」の二字で、

 すべてを勝ちぬいてきた。(中略)


 仏法は「勝負」であり、

 魔軍との、しのぎを削るような戦いである。

 負ければ広布の光は消えてしまう。

 ゆえに絶対に負けるわけにはいかない。
 絶対絶命の状況に追い詰められるときもあろう。

 しかし、負けられない。

 絶対に勝ってみせる。

 これが信心である。

 また、それぐらいの気迫と行動なくして、

 誉れある大聖人の門下とはいえないし、

 大法弘通の大信者とはいえないのである。

 

1990.1.18第25回本部幹部会

2013年7月19日

 未来も勝利も「今」にある

 

 <瞬間にやれることは一つ>

 

〝断じてやり遂げよう〟

 という強い一念があれば、

 工夫はいくらでも生まれる。

 

 反対にあきらめの心があれば、

 工夫の芽を自ら摘み取ってしまうことになる。


 伸一が、池袋駅に着いたのは、午後十一時前であった。夕食をとることができなかった彼は、屋台でラーメンをすすった。
 大田区大森のアパート「青葉荘」に着いた時には、既に午前零時を回っていた。それから御本尊に深い祈りを捧げた。


 伸一には、

 成すべき課題が山積していた。

 しかし、今、

 この瞬間にやれることは一つである。

 たくさんの課題を、

 時間という縦軸に置き換え、

 一瞬一瞬、

 自身を完全燃焼させて、

 全力でぶつかっていく以外にない。

 未来は「今」にある。

 勝利は「今」にある。

 

 小説 新・人間革命 26巻 奮迅 57 

2013年7月10日

この世は
善と悪との永遠の闘争劇 
 

 

 「悪鬼」は、その名のとおり、

 餓鬼界の生命である。

 餓鬼界は「貪り」の命である。

 何を貪るのか。 
 それは、妙法を持つものの「生命力」であり、

 これは「奪命者」の働きである。

 また「奪功徳者」として、

 妙法による「功徳」を奪おうと動く。


 さらに、「立正安国論」等に示されたごとく、

 人々から正常な思考を奪って、

 社会を乱していく。

 また仏道修行への「信心」を

 食い破ろうと邪魔をする。


 末法の世が進んだ現代は、

 こうした悪鬼がいよいよ充満し、

 飢えた餓鬼のごとく、

 妙法を持つ人と広布の世界に

 押し寄せ、むらがってくる。


 ゆえに、そのことを意識し、

 自覚して、

 「悪鬼」と「魔」を寄せつけない戦いが必要である。

 それらをすべて打ち破っていく、

 強き一念と祈りが不可欠である。
 その用心と日々の祈り、

 また団結と知恵がなければ、

 虎狼の群れに、

 一人、無防備に入っていくように

 危険きわまりない。

 それが末法なのである。


 その悪の世界にあって、

 清浄なる妙法の信仰と仏子を、

 どう守り、

 正法の世界を広げていくか。

 指導者の苦心孤忠もここにある。

 夢にも、かんたんなものと思ってはならない。

 

 善と悪との壮絶なせめぎ合い。

 これが、この世の永遠の劇である。

 宇宙はつねに、

 善と悪との闘争の舞台なのである。


 広宣流布が進んでいけば、

 組織が大きくなれば、

 戦いは楽になってくるだろう。

 そう錯覚したとしたら、

 それ自体が、

 すでに悪に敗れつつある姿である。


 また、自分はこれだけ信心したから、

 もう心配はないだろう。

 だれにも、そんなことは言えない。


 仏法は、信心は、

 永遠の前進であり、

 永遠の闘争である。

 その「前進」が即「安穏」なのである。
 朗らかに、堂々と戦い続ける姿が、

 そのまま「勝利」の生命なのである。

 
 1989.12.24文京、台東、北、板橋区代表者会議

2013年7月9日

善人は
悪鬼に狙われる
 

 

 「法華経を持った人にも、どうして、さまざまな苦しみや、つまずきがあるのか」――このことにふれておきたい。
 信心したとしても、つねに、いろいろな事件、出来事がある。どうしてなのか。


 その根本的理由の一つは、

 妙法を持った人は「善人」である。

 だからこそ「善人」をきらい妬む「悪鬼」が、

 その人を懸命にねらってくるからである。

 御書には、そう明快に説かれている。


 「悪鬼」とは、

 生命論的にいえば、

 人間の福徳や生命力を〝奪う〟

 宇宙の悪しき働きのことといえよう。

 

 これに対し、

 「諸天善神」とは、

 宇宙の根本法である妙法を持った人を

 〝守る〟働きをさしている。

 「善」に生きているからこそ

 「悪」が攻撃するのである。
 大聖人は御書にわかりやすく仰せのように、

 美人は妬まれる。

 また、金持ちはねらわれる。

 ましてや、妙法は「永遠なる幸福」の法である。

 ゆえに妬まれ、騒がれるのである。

 
 1989.12.24文京、台東、北、板橋区代表者会議

2013年7月8日

変革の力は
「今」「ここ」に 
 
 「未来」といっても、
 「今」から始まる。
 「世界」といっても、
 「ここ」から広がる。

 「今」この時に、
 いかに手を打つか。
 「ここ」の地盤を、
 いかに固めゆくか。
 その地道な行動の連続以外に、
 社会を変え、
 時代を変える偉大な力はないのである。
 いちばん地味であることが、
 いちばん成長できることである。

 木も、少し眺めただけでは、
 伸びているかどうか、わからない。
 しかし、十年、二十年と時を経れば、
 若木は見事な大樹となる。
 「きょう」を勝つことだ。
 仏法を持ち、毎日毎日、
 地道な学会活動しきった人が
 三世にわたって勝利しないわけがない。 
 
 2003.8.21二十一世紀女性研修会 

2013年7月5日

 「信心の眼」 
 
 「法眼」「仏眼」は「信心」の二字に含まれる。
 『五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候』(四条金吾釈迦仏供養事、1144頁)――肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五眼を、御本尊を信受する者は自然のうちに具えることができる――と、大聖人は断言しておられる。
 この仰せのとおり、
 御本尊を受持し、
 信行学の実践を地道に貫きとした人は、
 信心が深まるにつれて、
 自然のうちに「因果の理法」が見えてくるものだ。
 「この問題の本質は、こうだな」
 「これは偽りの姿だな」等々、
 人生や社会のあらゆる問題の本質、実像を、
 見透かすように正しく把握できるようになる。

 たとえば、
 滋養を得た木が自然に大木に育っていくのと同じように、
 正しい「法」にのっとっていけば、
 その人の振る舞いは、
 みずからが意識せずとも、
 知らずしらずのうちに
 「法眼」「仏眼」の見方にかなったものになる。
 いわば「信心の眼」こそが、
 凡夫における「仏眼」となるのである。
 ゆえに、
 何があっても「信心」で一切を受けとめていく
 という姿勢が大切である。
 この一点から自身の人生、
 生活を築いていかなければ勝利はありえない。 
 
 1989.10.25広島県記念勤行会

2013年7月4日

 因果の理法は厳然と・・・
 
 『響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し』(立正安国論32頁)
 ――音には響きが伴い、身には必ず影がそう。また夜に字を書いて、明かりが消えても、字は目に見えないけれどもきちんと残っている。そのように、三界の果報も、必ず時とともに、いつか、自分がつくった因の報いとして、表にあらわれてくる――と。

 この「因果の理法」は、
 凡夫の「肉眼」では見えない。
 より鋭き「天眼」でも、
 二乗の「慧限」でも、
 なかなかわからない。
 その一分を知るのみである。

 世の中には、
 一見すると〝なぜ、こんなことが起きるのか〟
 と感じるような、
 不可解な出来事があまりにも多い。
 それは、世間的、皮相的なものの見方では、
 人生の幸・不幸を決定する
 深き「因果の理法」を見据えることができないからである。
 結局、
 「法眼」(菩薩の眼)、
 「仏眼」(仏の眼)によって初めて、
 真実の実相、
 あらゆる事象の意味がわかってくるのである。
 
 1989.10.25広島県記念勤行会

2013年6月25日26日

 全力で今を勝て!
 人生の勝利は、
 持続の信心のなかにこそある。
 そして、当面の課題、戦いに、
 全力でぶつかり、今を勝つことです。
 それによって、
 自分の苦悩を一つ一つ乗り越え、
 自身の境涯を開いていくことができる。
 すべての広宣流布の活動は、
 自分が幸福になり、
 人生に勝利するためにある。
 苦労した分は、
 すべて自分の功徳、福運となっていくんです。

 いいですか!
 今、何をするかですよ。
 時は決して待ってはくれない。
 今、立つんです。
 最後に、もう一度、
 あのホイットマンの詩の一節を読み上げたい。
 『さあ、出発しよう! 
 悪戦苦闘をつき抜けて! 
 決められた決勝点は
 取り消すことができないのだ』
 
小説 新・人間革命 26巻 奮迅 40  

2013年6月11日

臆するな!
言論戦で勝て!
 日蓮大聖人は、
 他宗派の中傷の論理に対して、
 それを逆手にとられ、
 まことに見事に切り返されている。

 もとより次元は異なるが、
 正法を謗じ、仏子を貶める言に対しては、
 透徹した論理で反論し、
 戦う力を持たなくてはならない。
 そうした強さ、明晰さを持たなければ、
 仏子は守れない。
 また広く社会の納得と共感を得ることはできない。

 草創期の学会は、
 その意味で、まことに明快であった。
 強靭であった。
 いかなる論戦にあっても、
 徹底して戦い、
 言論戦で相手を論破してきた。

 それが、
 時とともに広布の基盤がととのい、
 大きくなるにつれて、
 徐々に切り返す知恵と力を失い、
 いわば臆病になることを、
 私は深く危惧する。
 悪に対して言われるがまま、
 なされるままに黙っているような、
 弱々しい〝烏合の衆〟となっては
 絶対にならない。
 それでは、
 正法をたもった信仰の勇者とはいえないからだ。
  
1989.10.12第11回関西総会

2013年5月4日

 仏と魔との戦いに中間なし
 
 その本質が
 「仏の軍勢」なのか、
 「魔の軍勢」なのか、
 どちらかである。
 一人の人間が、
 三割だけ仏の側で、
 七割は魔の陣営だとか、
 魔だけれども、
 言っていることを聞けば、
 ちょっとだけ仏の味方だとか、
 それらは仏法の眼から見れば、
 生命の実相を知らない、
 こっけいな考え方といわざるをえない。
 徹頭徹尾、“仏法は勝負”なのである。
 この基本が、皆なかなか、わからない。
 私はつねに、だれも気づかないうちに、
 「魔」という本質を見抜く。
 悪に対しては厳しく戦い、
 打ち破る勇者でなければ、
 大切な仏子を守りゆく
 使命は果たせないからである。(中略)
 その意味で、今、健康な時、
 また若いうちに、
 真剣に仏道修行に励みきっておくことだ。
 人生と仏法を甘く考え、
 要領よく手を抜いて、
 将来、悔いるようなことがあっては、
 あまりにも不幸である。
 
1989.12.24文京、台東、北、板橋区代表者会議 

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