体験

2021年11月11日(未掲載)

 

庶民の蘇生のドラマ

 

<女子部とその家族の体験>

 

 (1960年)十一月九日、山本伸一は甲府支部の結成大会に出席するため、山梨県の甲府に向かった。

 この甲府に続いて、

 十日は松本、

 十一日は長野、

 十二日は富山、

 十三日は金沢の

 各支部の結成大会に出席することになっていた。

 

 甲府支部結成大会は、

 午後五時四十分から、山梨県民会館で行われた。

 結成大会では、一人の女子部員の体験発表が感動を呼んだ。

 

 「私は終戦と同時に、

 朝鮮から日本へ引き揚げてまいりました。

 朝鮮では、父が大きな鉱山会社の重役をしており、

 何不自由なく暮らしていましたが、

 日本に戻って間もなく、

 父が重度の結核で倒れてしまいました。

 母は、私たち兄妹を育てるために、

 朝早くから、夜遅くまで、

 真っ黒になって働きました……」

 ところが、

 兄が非行に走り

 家族の苦悩はますます深まっていく。

 兄は家の乏しい生活費を持ち出したり、

 人のものに手をつけるようになっていった。

 病床に伏す父親が、

 ゼーゼーと苦しそうな咳をしながら諭しても

 兄は荒れる一方だった。

 彼女と母親は救いを求めて、

 いくつかの宗教を転々とするが、

 兄の非行は改まらず、

 遂に少年院に送られていった。

 そのころ、

 父親の友人から仏法の話を聞き、

 一縷の望みを託して学会に入会する。

 苦しい生活のなかにも希望を感じながら、

 学会活動に励むが、

 ほどなく父の結核が悪化し、

 意識不明に陥ったのである。

 

 母子してひたすら唱題を重ねた

 すると、五日目に奇跡的に意識を回復し、

 やがて、折伏に歩けるまでになった。

 兄もまた、少年院を出て、

 更生の道を歩き始めたかに見えた。

 しかし、喜びも束の間、

 再び兄は非行に走り

 事件を起こして

 今度は刑務所に入ってしまった。

 苦悩に追い打ちをかけるように

 父親の容体も悪くなり、

 入院しなければならなかった。

 生活は困窮し、

 しかも、母の勤務先も倒産

 病院で父に支給される食事を、

 家族三人で分け合うような日々が続いた

 〝御本尊様、

 なぜ私たちだけが、

 こんなに苦しまなければならないのですか〟

 母子で唱える題目の声は、

 いつしか泣き声に変わっていた。

 その時、

 先輩の「蓮の花は、泥沼が深ければ深いほど大きな花が咲く。負けてはいけない!」

 との真心の激励が、彼女たちを支えた。

 父親はやがて、

 病床で静かに息を引き取った

 安らかな死であった。

 彼女の悲しみは大きかったが、

 信仰が生きる力を与えた。

 亡き父の分まで幸せになろうと、

 彼女は誓った。

 支部結成大会の壇上で、

 彼女は涙をこらえながら語っていった。

 「獄中の兄も、

 父の死を契機に変わりました。

 また、母も収入のよい仕事が見つかり

 私も、ある会社の事務員として、

 本当に恵まれた環境で働けるようになりました。

 さらに、バラックのような家から、

 念願の新築したばかりの家に移ることもできました。

 そして、母と二人、

 希望に燃えて、

 幸福を噛み締めながら、

 日々、友の幸せを願い、

 楽しく学会活動に励んでおります

 体験発表が終わると、

 盛んな拍手が場内を包んだ。

 不幸のどん底から、

 見事に信仰で立ち上がった、

 庶民の蘇生のドラマである。

 

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 206頁~207頁

2016年10月13日

 常に自身の「体験」の上から、
「信じられるのか」「正しいのか」

を検証すること

 

 ハーバード大学での講演では、アメリカ・ルネサンスのリーダーであった哲学者・エマーソン(一八〇三〜一八八二年)の言葉を紹介した。
 「私のうちに神を示すものが、私を力づける。私の外に神を示すものは、私を、いぼや瘤(こぶ)のように、小さなものとする」(『エマソン選集第』1,斎藤光訳、日本教文社)と。
 人間を根本としない形式主義、権威主義は、自分を、醜く、卑小なものにしてしまう。
 私どもの立場でいえば、御本尊を信ずる自身の中に「日蓮大聖人」の御生命がわいてくる。自身の生命にある尊極の「仏界」、己心の「本尊」を示すものが、「自分を力づけて」くれる。それが妙法であり、信心である。
 日寛上人は「観心本尊抄文段」の中で「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集五四八ページ)と述べられ、我々が御本尊を信受し唱題する意義は、大聖人の御境界を顕された一念三千の御本尊を、我が身に顕すことであることを示されている。この法理には、何の差別もない。
 また戸田第二代会長は、次のように語っている。
 「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう。ですから『日女御前御返事』には、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』。このようにおおせられているのであります
われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、われわれの生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如しんにょの自分にかわるのです
 エマーソンについては、コックス教授も、お手紙の中で、こう書いておられる。
 「エマーソンは、ハーバード大学神学部での有名な講演や、そのほかでも訴えていますが、『人間は外発的な権威、あるいは伝統のみで、漫然と宗教を受け入れるべきではない』と主張しました。
 精神的な方向づけは、すべての人間に不可欠のものではあります。しかし、人間は自らの体験により、それを検証し、自己のものとしなければなりません」と。
 すなわち、宗教とは、権威や伝統、形式といった″自分の外にあるもの″からのみ、与えられたものであってはならない。常に自身の「体験」の上から、「信じられるのか」「正しいのか」を検証しなければならない、というのである。
 学会の「体験談」「実験証明」を中心にした在り方が、いかに正しいかの一つの証明である。

 

 1992年1月15日 全国青年部幹部会、新宿・港合同総会

2016年2月12日13日

生死を超えて、

汝の為すべきことを為せ!

 

<本有の生死の苦は信心の糧となる>

 

スペイン女子部長の″黄金の青春″

 

池田 スペインに支部ができた時(1976年)の女子部長は、鮮烈な青春を生きました。そして、駆け抜けるようにして逝ってしまった。しかし、その黄金の軌跡は、今なお燦然と輝いています。
 (彼女は東京・渋谷区の生まれ〈49年〉。両親が入会した三ヵ月後に入会〈66年〉。高校の一年生、十六歳の時であった)
彼女は、高等部で「世界広布のお役に立ちたい!」という夢を抱き、語学も頑張ったようだ。優秀だった。
 (病気の家族を介護しながらの受験勉強で、二浪した)
 二十歳の時、思わぬ試練に襲われた。お母さんががんで亡くなり、後を追うようにお父さんも病死してしまった。あっという間に天涯孤独の身になってしまった。進学どころではなくなった──。
 私が彼女に会ったのは、その一年後です。夏季講習会だった。両親の死を語る彼女に、私は言いました。「そうか。でもあなたたちの年齢なら、この先、必ず二回経験しなければならないのが、親の死ということです。それをあなたは、皆より少し早く一度に経験してしまっただけのことです。御本尊様がついているから大丈夫だよ!」と。
 彼女は、あるいは慰めてほしかったのかもしれない。しかし私は率直に、人生の本当の真髄を語ってあげたつもりです。「本有の生死」です。死は必ずやってくる。その現実から逃げるのは、仏法ではない。
 大聖人は薬王品の経文でさえも、「正確ではない」と読みかえておられる。『一切の苦、一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう』(法華経597頁)の経文です。
斉藤 この「離れる」「解かしめる」というのは煩悩即菩提、生死即涅槃という法華経の心に背くと言われていますね。
 ゆえに大聖人は「離の字をば明とよむなり、本門寿量の慧眼開けて見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたり{」と読みかえられた。
 「あきらめる」とは「明らかに見る」ということです。「本来本有の病痛苦悩」である、「本来本有の生死」である、と明らかに見なければいけないと。
  池田 その通りだ。「生死」といっても、宇宙生命の変化相です。仏の命の現れです。だから「生死」を嫌うことは、仏の命を嫌うことに通じる。  また生死の苦しみに溺れることも、仏という大生命に遊戯する身とはいえない。
 生の苦しみも、信心を強める糧にする。死の苦しみも信心を強める糧にする。それが生死即涅槃です。とはいえ、彼女は、若き身でつらかったでしょう。女子部の人材グループの一員になった彼女を、私はたびたび励ました。一緒に皆で農場に行って、スイカやトウモロコシを食べたことも懐かしい。
 彼女は職場でも、女子部の活動でも、もちまえの「明るさ」と「粘り強さ」で、目を見張るような結果を出していった。
そして入会からちょうど十年後に、高等部時代からの「夢」をつかみとって、憧れのスペインに留学できたのです。
(着いて二週間で、スペインで初の支部が結成され、支部結成式で女子部長に任命された)
 彼女は駆けた。草創期のスペインの大地で「カトリックの大地に題目をしみこませるんだ!」と言って、いつも題目を唱えていた。座談会に行くのに、車で往復十時間というのも、しばしば。会合から戻ると、明け方まで、御書や「大白蓮華」を一文一文、翻訳していった。
 彼女は言っていたという。「苦労だなんて、とんでもありません。一人のスペイン人が立ち上がるたびに喜びに変わります。盤石な日本の創価学会しか知らなかった私には、大変というよりも、草創の苦労を体験できる喜びのほうが大きいのです」と。
 そして無我夢中で二年がたった。彼女に再び「試練の弾丸」が襲った。左ひざに、しこりのようなものがあり、日本に帰国して検査したら、悪性の腫瘍であった。「左足のつけ根から切断しないと、生命の保証はできない」と。
 世界中の時間が止まったようなショックだった。その時、お母さんの顔が浮かんだ。近隣の人も驚くような美しい成仏の相で亡くなったお母さんの遺言が、耳もとに蘇った。

 「あなたには、御本尊様があるじゃないの。あなたのことは、全部、御本尊様にお願いしたから、まったく心配はないよ……」と。
 「そうだ、この時のために、母が命をかけて私に信心を教えてくれたんじゃないか!」
 彼女は意を決して、日本で手術を受けた。足の切断はまぬかれたが、五十針も縫う大手術。主治医からは「一生、歩くことは不可能」と告げられた。
 しかし彼女は「スペインの同志のために、必ず、もう一度、歩いてみせる!」と決めたのです。そして病魔と戦った。
 (石のように、まったく動かなかった左足だったが、手術から数十日後、ぴくっと親指が動いた。「あっ、動いた!」。そして何と手術で、えぐり取られたひざの肉が、少しずつ盛り上がってきた。リハビリにも執念で取り組み、手術から七ヵ月後、医師の「君の体は医学では説明できない」という言葉に送られて、自分の足で歩いて退院した)
 すさまじい闘争だった。経済的にも、ぎりぎりのところにいた。それでも彼女は「広宣流布をやるんだ」と命を燃やしていた。そして再び、自分の足で、スペインの大地に立ったのです。
 時に、昭和54年(1979年)の四月。私が第三代会長の勇退を発表した月です。彼女は、私の正義を証明するためにも負けてなるものかと頑張ったのだという。その心を私は忘れません。
 体力的・金銭的問題もあって、日本に帰ったが、それからも、あちらで折伏があると聞けば、飛んで行って体験を語り、部員さんが悩んでいると聞けば、駆けつけて激励した。国際部の翻訳グループとしても頑張っていた。
 個人折伏も十人以上。同じ、足の腫瘍を患っていた少女も激励した。少女は感激し、やがて創価大学に進学しました。
須田 聞けば聞くほど、「なまはんかな信心ではいけない」と、粛然たる気持ちになります。


  「何と美しき顔だろう!」


池田 「いつ倒れるか。否、いつ倒れようとも、悔いのない闘争を続けるのみだ」との決心で走り続けた。
 彼女に私は神奈川文化会館で会った。(80年12月14日)
 翻訳グループの一員として、皆と一緒に「お月さまの願い」を合唱してくれた。
 (=歌い終わるや、彼女は一首の和歌を名誉会長に差し出した。「病魔破し 広布に走らん 師のもとに 今日の集いを 胸にきざみて」。名誉会長は彼女の目を見つめて「健康になるんだよ!」「長生きするんだよ!」と激励した)
 パリの会館にも、彼女は来ていた。皆で記念撮影も行った。(81年6月14日)
 彼女が亡くなったのは、その一年後だった。(82年6月26日)
 がんは肺に転移していた。薬の副作用で、体はみるみる衰弱していった。それでも彼女は題目を唱え続けた。日本とスペインの同志のことを祈り続けた。
 (末期状態になっても、深呼吸しては「ナンー」、また深呼吸しては「ミョウー」……と唱題した。初めてスペインに渡ってから二回目の「一千万遍」に挑戦し、五年間で達成した。亡くなるときは、三回目の「一千万遍」に挑戦していた)
 「生きよう!」という壮絶なまでの彼女の執念に、看護婦さんたちも感動したという。お見舞いに来た人が、反対に激励されて帰った。我とわが身に炎を点じて、人々に光を送ったのです。
 八ヵ月の入院闘争の末、彼女は三十二歳で、次の生へと旅立っていった。亡くなったその顔を見て、皆があっと驚いた。
 「ものすごい美しさでした。こんなにきれいな姿を、生きている時も見たことがありません」
 「お化粧も必要ないくらいで、うらやましかった」
 「手もやわらかく、あたたかく、顔もふっくらしていた」と。
 (もともと色黒だったが、死の前は、やせ細って、顔色もひどく悪かった。
「しかし、まっ白に変わっていました。この落差。本当に成仏の相とはこれかと思いました」と証言されている。火葬場の人に「こんなきれいな人は見たことないよ」「焼くのは、もったいない」と言われた)
 少し笑みをたたえて、半眼半口。御書に仰せの通りの成仏の姿だった。
 葬儀には全国から数百人もの人が訪れ、近所の人から「どういう人が亡くなったんですか」と聞かれた。
 大聖人は、成仏した人の死を「千仏が迎えに来て手を取る」と仰せになっておられる。(「生死一大事血脈抄」、御書1337頁、趣意)
 その一つの表れが、これだけ大勢の人が彼女の死を悼んで、題目を唱えてくれたということです。大勢の人を真心から面倒みた分だけ、自分が三世永遠に守られるのです。しかも彼女の友人は「本当に幸せだったと思う」と言っている。
 「天涯孤独、そして病死──でも、彼女を知る人は、だれも『かわいそう』とは思わないんです。『立派だった』『すべて、やりきった』。そう心から思います。だから私たちは少しも悲しくないんです。彼女は、もう、スペインにいるでしょう。スペインに生まれて、広宣流布に戦ってい るだろうと思います」と。
斉藤 薬王品ですね。不老不死と言っても、人生の「長さ」だけではありませんね。


  不老不死──生死を超えて使命のために


池田 彼女の「身」は病んでいたが、「心」は太陽のごとく輝いていた。「生命」は「健康」そのものであった。
 私は翌年(1983年)、スペインを訪問した時、彼女をたたえて、初の「名誉ヨーロッパ女子部長」の称号を贈りました。
 「健康」とは何か。その結論は「菩薩の生命」です。人のために戦い続ける一念──それが真の「健康」だと私は思う。ただ″健康食品″を食べ、自分のことだけ考えて、安楽な暮らしを願う──それが健康だとは思わない。
 「健康」を象徴する薬王は、信念に「殉教」した菩薩であった。「戦う生命」それが「健康な生命」です。
 私もお会いしたが、ルネ・デュボス博士(世界的医学者)は言っておられた。「心配のない世界でストレスもひずみもない生活を想像するのは心楽しいことかもしれないが、これは怠けものの夢にすぎない」(『健康という幻想』田多井吉之助訳、紀伊国屋書店)と。
 (さらに「地球は想いの場所ではない。人間は、必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれているのだ。危険のまっただなかで伸びていくことこそ、魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである」〈同前〉と)
 ストレスや悩みをも、生命力に転じていく。それが「毒を薬に変える(変毒為薬)」妙法です。「大いに楽しく生きよう」という仏法の境涯の実現です。
 そのためには、戦いです。

 「生死を超えて、汝の為すべきことを為せ!」です。この使命感の前には、生も死もない。この献身の前には、死苦さえが前進の力に変わる。
 大聖人は、本門の流通分は、寿量品・方便品の″修行の仕方″を説いていると仰せだ。(御書1499頁)
 薬王品も、まさに「末法広宣流布の戦士よ! 薬王菩薩のごとく、命を燃やせ!」と教えているのではないだろうか。そういう青年が陸続と現れたとき、創価学会全体が永遠化される。「不老不死の教団」になっていくのです。
 そうなって初めて、永遠の未来にわたって、全人類に「癒しの光明」を燦然と送り続けることができるのです。

 

法華経の智慧 薬王菩薩本事品 第二十三章 

世界広布新時代

創立100周年へ

青年・飛躍の年

(2022年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2022.8.14

第2073

第2074

 

日天月天ワンショット

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