信心

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2022年4月14日

第1972回

信心に「定年」はない

 

「百歳以上、生きぬこう」

 

 

 信心に「定年」はない。

 仏典では、

 人間は「百二十歳まで生きられる」

 と説いている。

 生き生きと、長生きして、

 広宣流布に進んでいただきたい。

 

 賢明な生活を心がけることである。

 たとえば、

 歩くこと。

 適度な運動も大事である。

 また、上手に休息をとる。

 ゆったりと睡眠をとる

 疲れをためないよう工夫することだ。

 

 根本は、信心である。

 「健康でありますように」

 毎日、御本尊に祈ることだ。

 「百歳以上、生きぬこう」との心意気で!

 

 長生きして、それだけ、

 多くの友に尽くしていく。

 功徳を積む。

 広布のために戦っていく。

 世界の創価の同志とともに、

 すばらしき人生の総仕上げを、

 晴ればれと飾っていただきたい。

 

2005.3.25全国代表者会議

2021年12月22日

 

第1838回

「行動の人」を諸天は守る

 

<堂々と、胸を張って、

仏法の正義を>

 

 大聖人は、険しき道のりを越えて御供養をお届けした弟子の純真な信心を讃え、次のように仰せになられた。

たとえ志はあっても、

 行動にあらわすことはむずかしい。

 そうであるのに、

 今、あなたが

 志をあらわされたのを見て、

 その信心が

 並大抵でないことが分かります。

 必ず法華経の十羅利女が

 守られるであろうと、

 頼もしく思っています

(御書1544㌻、通解)

 仏法の魂は「行動」である。

 友の幸福を祈って、

 日々、懸命に折伏をしている人。

 大変なところで、

 学会のため、同志のために、

 地道に動いてくださっている人。

 そういう人を、

 必ずや十羅利女が守る。

 諸天善神が守護してくださる。

 

 信心の世界は、

 要領とか、

 格好主義は通用しない。

 幹部だから

 功徳があるというわけでもない。

 真剣な「行動の人」にとそ、

 妙法の功徳は輝くのである。

  

 善と悪が入り乱れた

 「闘諍言訟」の世の中である。

 だからこそ、

 大事なことは、

 正と邪を

 明快に言いきっていくことだ。

 

 大聖人は

(仏法においては)事実、

 勝れていることを

 勝れているということは、

 慢に似ているようだが、

 じつは大功徳となるのである

(御書289頁、通解)と仰せである。

 

 私たちの対話は、

 誠実が第一である。

 相手に幸せになってもらいたいとの

 祈りが根本である。

 

 そのうえで、

 言うべきことは、

 きっぱりと言う。

 何の遠慮もいらない。

 堂々と、胸を張って、

 仏法の正義を

 語っていけばいいのである

 

2006年3月24日各部合同協議

2019年7月14日

第1615回
信心がなければ、
仏の生命は湧現しない

 

最後に勝つのが真の勝利者

 

 妙法は宇宙の根本法則である。永遠の幸福と平和の軌道である。
 その妙法の具現化が御本尊である。
 日蓮大聖人は、『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』(1244頁)と仰せである。
 外にあるのではない。特別な場所にあるのでもない。「信心」の二字にある。信心がなければ、仏の生命は湧現しない。妙法を信じ、唱え、広宣流布しゆく皆さまの胸中に御本尊はおわします。
 「全宇宙の宝」が集まっているのである。
 皆さまは願って、この地球に生まれてきた。人類が望んだ平和を実現するのは皆さましかいない。
 人生は劇である。波瀾万丈を越え、最後に勝つのが真の勝利者である。
 偉大なる妙法に生きぬき、苦労を喜びに変え、悩みを成長への糧にしながら、深き使命の人生を晴ればれと生きぬいていただきたい。

 

2002.7.27海外代表協議会

2018年10月11日

第1534回
信心の究極とは何か

 

<生涯前進>

 

 「信心の究極は、所願満足の生活になることは当然ですが、真実の究竟即という位は、生涯、信心の向上、前進が止まらないということです。
 生死不二で御本尊につながっている。大福運に満ちた生活であり、人生の偉大な開花です。
 常に前進する信心をしていくところに、一切の所願満足の功徳が包含されていきます。
 功徳を受けるのが先ではなく、信心の向上への勇敢な実践が第一義になってくる。
 最後まで信心のエンジンは止めてはなりません。
 広宣流布の成就という使命に燃えて進む―ーここに、大聖人の信心の究極があることを忘れてはなりません。
 どうか、再び、若々しい気持ちを奮い起こし、私と共に頑張ってください。」
「要は、
  自分自身が広布につながる仕事をしたか、
  価値創造をしたか、
  広宣流布への最善を尽くしたか、
 ということが大事です。
 同じ幹部であっても、たえず価値創造し、一つ一つ手を打っていく人もいれば、
 惰性に流されて、なんらの結果も出せない人もいる。一方は真剣に自己を磨き、もう一方は空回りの信心をしている。
 表面の姿は同じように見えても、本質は根本的に違っているのです。
 この違いは、10年先、20年先、50年先に、あらゆる点で大きな差となって表れてくるでしょう。(後略)」


1968年8月26日 新任幹部任命式

大白蓮華2018年10月号№828 26頁

2017年8月23日

今こそ成仏する千載一遇のチャンスである

 

<「覚悟の信心」には、無限の力がわく>

 

 大難は「我らがために」と感謝を
 日蓮大聖人が「私のことを、こういうふうに人に話しなさい」と教えられた珍しい御書がある。(「弥三郎殿御返事」、御書一四四九ページ)
 ある在家の門下に、仏法対話の仕方を教えられたのである。(一説には武士であった斎藤弥三郎とされている)
 わかりやすく大意を言うと

 「(日蓮大聖人という方は)日本の国が仏法の正義にそむいたゆえに『このままでは滅びてしまう。外国からも攻められるだろう』と、日本の国を救うために、『わが身はどうなってもよい』という覚悟で正義を叫ばれた」と。
 その結果、「二十余年・所をおはれ弟子等を殺され・我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頸切られんとす、是れ偏ひとえに日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて歎き候なり、されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、又在家の人人の能くも聞きほどかずして或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、設い知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて詈り或は打ち殺したらんは何に科を免るべき
 ――二十余年の間、いる場所を追放され、弟子等を殺され、わが身も傷を受け、二度まで流罪され、ついには頸を切られるところであった。これはひとえに日本国の一切の人々が将来、大苦悩にあうことを早くから知って、嘆き(助けてあげようと思って)行動した結果である。
 ゆえに心ある人々ならば、「我々のために(大聖人は)難にあってくださったのだ」と思うべきである。もし恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が)二つ打たれる杖の一つは替わりに打たれるべきである。それもしないどころか、反対に迫害するとは、まったく、どうしたわけであろうか。 (中略)たとえ知らないで、誤って自分の親を敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したならば、(知らなかったと言っても)どうして罪をまぬかれようか――。
 大聖人は、こう言いなさいと、門下に教えられたのである。
 信仰してない人でも大聖人に恩を感じて「二つの杖のうち一つ」は受けるべきだ、と。いわんや門下は当然であった。また、こう仰せである。
 「譬(たと)えば物ねた(妬)みする女の眼を瞋らかして・とわり後妻をにら(睨)むれば己が気色のうと(疎)ましきをば知らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し
 ――(日本の人々が大聖人を非難しているありさまは)譬えば「嫉妬した女性が(焼きもちのあまり)目をいからせて相手の女性をにらみ、自分のものすごい形相を知らずに、かえって相手の目が恐ろしいと言っている」ようなものである――。
 ――今も全部、焼きもちなのである。
 手紙の最後には、法戦に臨む門下の心がまえとして、こう書かれている。「構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏ひとえに思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし
 ――心して覚悟を決め、所領(領地。今で言えば財産・地位にあたろう)を惜しんだり、妻子を顧みたり、人を当てにして、不安になり恐れることがあってはならない。ただ、ひとえに思いきりなさい。
今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、今まで自分が生き永らえているのは、このこと(法華経の法戦)にあわんがためである。この今の戦いこそ、宇治川を渡す所であり、勢多川を渡す所である。名を上げるか、名をくだすかの境目である。(宇治川も勢多〈瀬田〉川も、関西の要害の川。源平の合戦でも勝負を決する要所となった)
 人間に生まれるのはまれであり、法華経は信じがたいとは、このことである。(今こそ成仏する千載一遇のチャンスである
 (この戦いに勝つために)「釈迦・多宝・十方の仏よ! 来(きた)り集まって、わが身に入り、われを助けたまえ!」と一念を決めなさい――。
 今こそ、成仏できるかいなかの「境目」である。広宣流布の宇治川であり、瀬田川である。渡りきれば勝利である。断じて、渡りきらねばならない。「覚悟の信心」には、無限の力がわく。釈迦・多宝・十方の諸仏が、こぞって力を与えてくださるのである。


 1997年5月20日 関西代表者勤行会

2017年5月17日~19日


「すがすがしい信心」こそ、
断じて幸福になれる秘訣

 

<人類の真の幸福は「人間革命」しつづけること>

 

 5月は、大歴史学者アーノルド・J・トインビー博士と対話を開始した月でもあります。初めてお会いした時から、今年で45年になります。
 透徹した英知で人類史を俯瞰してきた博士は、「真の幸福は、人間の精力を物質的な富の追求から精神的な目標の追求に転換することによって見出すことができます。精神的な目標の追求こそ、人間の活動のうちで無限に拡大する可能性を持つ唯一の領域なのです」とつづっておられます。
 「精神的な目標の追求」とは、自身の内面の探求と変革であり、私たちで言えば、「人間革命」でありましょう。
 戸田先生は、「絶対的幸福を得ることが人生の楽しみであり、人間革命である。すがすがしい信心こそ、断じて幸福になれる秘訣である」と強調されました。
 私たちの信仰は、「人間革命の宗教」です。
 それは、自分がより賢明に、より強くなり、より善く生きていく戦いです。この仏道修行に励みゆく「すがすがしい信心」の人に、仏界は力強く涌現し、確かな幸福を築いていけるのです。

 

大白蓮華2017年5月号№811 40頁

 

2016年1月10日11日

今までの壁や殻を

大きく打ち破る挑戦を

 

<荘厳なる生命の宝塔を輝かせて>

 

只信心の二字 

  

 時代は荒海のごとく激しく揺れ動いています。だからこそ、私たちは、御書という最高無上の大哲学の羅針盤を厳と抱きしめて、広布と人生の航路を断固として進んでいきたい。
 「日女御前御返事」の一節に――
 『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり』(御書1244頁)
 そして、『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』(同頁)とあります。
 日蓮仏法が、どれほど深遠に、どれほど明晰に、生命の尊厳を説き明かしているか。妙法を信受した、この私たちの命それ自体が、根本尊敬の当体であるとまで、示されているのであります。
 ゆえに、自分を卑下などしては、決してなりません。
 宇宙の大法則と完璧に合致して、最極の「仏の生命の都」を、わが胸奥に輝き光らせていけるのが、「信心」の二字であります。
 したがって、この真髄を深く実践していくならば、まだまだ計り知れない智慧と力を引き出すことができる。汝自身が、荘厳なる生命の宝塔として、いかなる「生老病死」の苦悩にも負けず、「常楽我浄」という、希望と歓喜の光を、そして幸福と平和の光を、未来永遠に放っていくことができるのであります。
 「拡大」を掲げた本年、私たちは、自行化他の題目をいやまして轟かせながら、この信心の底力を思う存分に発揮し、今までの壁や殻を大きく打ち破る挑戦を、痛快に開始しようではありませんか!


2016年1月10日付 聖教新聞 第15回本部幹部会 メッセージ
 

2015年10月15日

偉大なる幸福の証明を

 
 「お体を大事にして、うんと長生きしていただきたい。
 宿命転換、転重軽受、変毒為薬、罰即利益の根本が信心です。ですから、絶対に御本尊を根幹として、どんなことがあっても題目を唱え抜き大きく脱皮し、偉大なる幸福の証明をしていただきたい
 「妙法に生き切る人は、あらゆる点で満足し切って、“こんなに自分は幸福でいいのか”という境涯になるに決まっているのです。それが、所願満足の御本尊の功徳です。ならなかったら妙法ではありません。
 ですから、学会につき切って、広布の戦いにおける自己の使命を自覚していただきいたい」

 

大白蓮華2015年10月号№792 18頁

2015年6月30日

信心は純粋に、御本尊にお仕えし、大功徳を!

 

御本尊を守り、

学会のために、

広宣流布のために

真剣に戦っている人を、心から守ってあげなさい。

   

 「仏法は現証論であり、実証論であります。まだ皆さん方の功徳は、そんな小さなものではありません。顔色も良く、生活には困らない。ハワイぐらいにはみんな遊びに行ける。そのぐらいの力はもってもらいたい。
 それには、やはり御本尊に仕え、大功徳を受けていける信心をしなくてはなりません。
 どうか、一生成仏のためにも、人間革命をし切るためにも、信心のことだけは純粋にいきなさい。そうでなければ、自分で全部功徳を破壊してしまいます。
 私は皆さん方を守っていきます。皆さんは、御本尊を守り、そしてまた、学会のために、広宣流布のために真剣に戦っている人を、心から守ってあげなさい。
 今日は、集まった方々が、最後の最後まで一人も退転なく、いつ会っても朗らかに、いつ会っても向上し、そして、手を取り合って喜び合えるような一生を貫き通していただきたい
 過去は過去として、今日から新しい、第2の青春という気持ちで、未来へ向かって進んでいきなさい

大白蓮華2015年7月号№788 21頁

2015年5月24日

『うるし漆千ばいに蟹の足一つ』

 

<信心は“濁り”との絶えざる戦い>

   

 御書の有名な御文に『うるし漆千ばいに蟹の足一つ』(御書1056頁)――千ばいものたくさんの漆も、わずか蟹の足一つ混じっただけで性質が変わってしまう――と教えられている。
 個人においても、

 和合僧の組織にあっても、

 「信心」という一点では、

 いささかの“濁り”も許されない。

 わずかでも不純なものがまぎれ込めば、

 信仰の世界全体が侵され、変質し、

 やがて堕落してしまうからだ。


 不純なる悪と戦い、

 信心の純度を限りなく高めていく、

 そこに福徳が限りなく増幅され、

 さらに広布の勢力がますます拡大していく


 文永元年(一二六四年)、

 大聖人が南条時光の父・南条兵衛七郎に送られたお手紙に、

 次のような一節がある。
 『いかなる大善をつく(作)り

 法華経を千万部読み書写し

 一念三千の観道を得たる人なりとも

 法華経の敵をだにも・

 せ(責)めざれば得道ありがたし』(御書1494頁)
 ――いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道(成仏)はできない――と。
 これは、末法今時における天台仏法の修行を破折された御文であるが、私どもの信心のあり方をも示されている。
 日々、仏道修行に励み、

 多くの善根を積んでいるという人がいる。

 また、教学の研鑽に励み、

 仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。

 しかし、いくら善根を積み、

 仏法を深く究めているといっても、

 正法正義を破壊しようとする敵と戦わなければ、

 すべて無意味なものとなる、

 成仏は絶対にできない、

 との厳しき仰せなのである


 それは、あたかも

 『朝につか(仕)ふる人の十年・二十年の奉公あれども・

 君の敵をし(知)りながら奏もせず

 私にもあだ(怨)まずば

 奉公皆う(失)せて還つて

 とが(咎)に行はれんが如し』(御書1494頁)

 ――朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上(報告)もせず、個人としてもその敵を憎み、責めなければ、長年の奉公の功績もみな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである――と。


 ゆえに、私は、信心の世界、

 妙法の世界を破壊しようとする敵と戦っている。

 そのために数々の迫害もあった。

 非難、中傷も受けている。

 しかし、それが御聖訓どおりの

 正しき信心の道と知っているがゆえに、

 私は行動している


 たとえ、信心の年数も長く、

 幹部になったとしても、

 仏法の敵を見ながら、

 知りながら、戦いもせず、

 責めようともしなければ、

 本当に仏法を知ったことにはならない、

 真実の信心の実践とはならないこと

 を教えられた御書である


 それでは「成仏」など思いもよらない。大聖人が教えられた正しき信心の道に連なってこそ「成仏」はあることを、よくよく銘記しなければならない。

 

師子身中の虫が仏法を破壊

 

 いずこの世界にあっても、

 悪人を放置しておけば、

 内側から破壊されてしまう。

 これほど怖いことはない。

 また、そうした悪がはびこるのを、

 黙って許しておくことも、

 重大な罪である。

 いわんや、

 仏法の世界は、より峻厳である。


 御書に

 『師子の中の虫・師子をくらう、

  仏教をば外道はやぶりがたし

  内道の内に事いできたりて

  仏道を失うべし仏の遺言なり』(御書1271頁)――師子の身中の虫が師子をむしばむ、と言うとおり、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こってきて、仏道は失われてしまうだろう。これは仏の遺言である――と説かれている。


 清らかな、うるわしい、

 この正法の世界に、

 悪が巣くうようなことは、

 断じて許してはならない。

 そうでないと

 『師子の中の虫・師子をくらう』とのごとく、

 内部から妙法の世界がむしばまれ、

 永遠なる広宣流布の道がふさがれてしまうからである。
 有名の人がいる。

 栄誉の人がいる。

 功績の人がいる。

 人は、おうおうにして、

 これらの“飾り”に幻惑されやすい。


 しかし、

 それらは信心とは何の関係もないことである。

 これまで学会にも、

 有名や栄誉、功績の仮面をかぶって、

 学会を利用しようとしたり、

 増上慢となり退転していった者が出た。

 これからも、

 そのような名聞名利の人物が出るかもしれない

 しかし私どもは、

 絶対に、こうした「悪」の蠢動を許してはならない。
 正法の「敵」を鋭く見抜いていくことだ。

 仮面の策略に翻弄されてはならない。

 そして信心の世界で「悪」の働きができないように、

 責めだしていかねばならない

 

1989.10.1 第八回親善文化祭

2015年4月14日

信心の根っこがある限り

必ず蘇生できる!

  

 しばらくして、伸一の指導となった。
 彼は、一月の十五日に行われた、若草山の山焼きのことから話を進めた。
 「毎年一回、山焼きが行われますが、必ずまた、春とともに、若草が萌え出ずる。それは、草は焼かれても、根っこがあるゆえに、草の灰を肥料として吸収し、みずみずしい草を茂らせるのであります。
 人生も同じです。根がある人は、何があっても必ず栄える。根とは信心です。その根をより太く、強くしていくことによって、福運を吸い上げ、自分のみならず、一家一族をも、永遠に繁栄させていくことができる。
 各地域にあっても、異体同心の組織が築かれ、“信心の根”が深く張り巡らされていくならば、三障四魔という炎に焼かれることがあっても、また必ず、若草山のように、青々と蘇生していくことは間違いありません。
 人生には、さまざまな試練が待ち受けているものです。しかし、“根がある限り、たとえ、すべてを焼き尽くされても、必ず蘇生できるのだ!”と強く確信し、自信をもって、焦らずに、わが生命に信心の根を、地域に広宣流布の根を、張り巡らしていってください

 

小説 新・人間革命 第26巻 勇将 308頁

 

2015年2月27日28日

 信心とは何か

 

<「題目」こそ生命回転の力>


 信心とは何かに言及していった。
 「信心の基本は、『信行学』です。『信』は、御本尊を信じること。『行』は、自行化他であり、唱題とともに、弘教の実践、広宣流布への行動が含まれます。『学』は、教学です。
 したがって、御本尊を信じ、題目を唱え、教学を勉強しているだけでは本当の信心ではありません。広宣流布のための活動があってこそ、真の信心が完結するんです。
 “この人に立ち上がってもらいたい”と指導に足を運ぶ。“あの人に幸せになってほしい”と弘教に歩く。“地域の広宣流布をしよう”と対話を重ねる。その利他の実践に至ってこそ、真実の仏法なんです。
 私生活でも、さまざまな苦悩をかかえているうえに、広宣流布の行動を起こせば、さらに悩みを背負うことになる。辛いと感じることも、苦しいと感じることもあるでしょう。
 仏法では、娑婆世界とは堪忍の世界と教えている。耐え忍んで、強く生き抜かなくてはならない。その生命力の源泉が唱題です。悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、楽しい時も題目です。題目こそが、煩悩を菩提へ、苦を楽へと、生命を回転させる力なんです」


 小説 新・人間革命 28巻 大道14

2015年1月4日

 なぜ信心しなければならないか

  
 戸田先生は信心の必要性について、こう指導されている。
 「なぜ信心しなければならないか。私は功徳をいただいている。なにがあっても絶対やめません。信心の必要は、もともとは死後の問題が恐ろしいから、信心するのです。いまの人は後生(ごしょう)のことを考えない。この世の生活がよければ、それでよいと思っている。しかし、死後のことはじつに大切で、もし地獄に堕(お)ちたら、その苦しみは今世の苦悩にはくらべられない。だから後生のために信心するのです」(『戸田城聖全集 第四巻』、以下同じ)と。
 すなわち信心によってこそ、だれもが不安を感じながら、避(さ)けようとしている「死後」という問題を解決していける。この三世永遠の生命観によらずして、真実の幸福はないのである。
 そして「この世でよくなれば、かならず後生はよいのです。本当にこの世の生活も、後生もよくなるのは、日蓮大聖人の仏法だけです。要は、御本尊様をいかに信ずるかである。太田殿の御書にもありますように、信心は確信です。絶対に確信をもてば、かならず幸福になるのです。いかなることがあろうとも、信心の強いものにはだれも頭があがらない」とも述べられている。
 この妙法への絶対の「確信」を胸に、何ものをも恐れることなく、広布への力強い実践に生き抜いていきたい。そこにこそ、自身の崩れぬ幸福境涯を築きゆく道がある。
 さらに戸田先生は、「幸福な状態で死んだときは、それは、ぐっすりと安楽に熟睡しているのであり、不幸な状態で死んだときは、それは、あたかも犬に追われて逃げようとあせり、いまにも追いつかれそうで、もだえ苦しんでいる、悪夢にうなされているようなものである。題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化させるのである」とも話されている。
 御本尊に真剣に唱題していくならば、生死の流転の闇を、生々世々にわたる「福運」と「功徳」の花園へと転じていける。また、この偉大なる功力を、日々の祈りと実践の中で深く実感していけるのが、仏法なのである。 

  1989. 3.29 第六回全国婦人部幹部会

 

2014年11月3日

信心の究極


 「私たちの日夜の活動は、全部、御本尊を根本としての戦いであり、日蓮大聖人の仰せの通りに実践している戦いです。したがって、因果の理法に則り、法則に生ききった戦いなのであります」
 「信心は確信です。口ではよく『確信、確信』と言い、文でもよく『確信、確信』と書く。でも、信心がなければ、本当の確信、信念ということはありえない。あったとしても、それは砂上の楼閣にすぎません。
 真実の信念、確信は、御本尊に対する直結の一念であります。一念三千であります。これが本門の信念であり、本門の確信であります」


絶対強盛なる信心とは、

 子どもが怖いことが起きると、

 『おかあちゃーん』と母親のところへ

 飛んでいくようなものです。

 その気持ちで御本尊に願ったら、

 すごいことになります。


 これは理論ではありません。

 信心です。

 母親のところへ、

 死にものぐるいというか、

 純粋というか、

 それ以外にないのだという、

 その一念で御本尊に直結し、

 願っていけば、

 どんなことも通じます。

 その祈りはかないます。

 それが信心の究極なのです


 その信心ができるようになるため、

 一日一日の信心を磨いていくことです。

 途中で退転したり、

 自分が大したこともやらないで、

 御本尊の功徳がないと思ったり、

 学会を小ばかにしたりするようなことは

 決してあってはいけません」


 「しっかり信心し抜いて

 いこうではありませんか!」

 

大白蓮華No.780号2014.11月号11頁

世界広布新時代

創立100周年へ

青年・飛躍の年

(2022年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2022.8.14

第2073

第2074

 

日天月天ワンショット

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