信心

2018年10月11日

第1534回
信心の究極とは何か

 

<生涯前進>

 

 「信心の究極は、所願満足の生活になることは当然ですが、真実の究竟即という位は、生涯、信心の向上、前進が止まらないということです。
 生死不二で御本尊につながっている。大福運に満ちた生活であり、人生の偉大な開花です。
 常に前進する信心をしていくところに、一切の所願満足の功徳が包含されていきます。
 功徳を受けるのが先ではなく、信心の向上への勇敢な実践が第一義になってくる。
 最後まで信心のエンジンは止めてはなりません。
 広宣流布の成就という使命に燃えて進む―ーここに、大聖人の信心の究極があることを忘れてはなりません。
 どうか、再び、若々しい気持ちを奮い起こし、私と共に頑張ってください。」
「要は、
  自分自身が広布につながる仕事をしたか、
  価値創造をしたか、
  広宣流布への最善を尽くしたか、
 ということが大事です。
 同じ幹部であっても、たえず価値創造し、一つ一つ手を打っていく人もいれば、
 惰性に流されて、なんらの結果も出せない人もいる。一方は真剣に自己を磨き、もう一方は空回りの信心をしている。
 表面の姿は同じように見えても、本質は根本的に違っているのです。
 この違いは、10年先、20年先、50年先に、あらゆる点で大きな差となって表れてくるでしょう。(後略)」


1968年8月26日 新任幹部任命式

大白蓮華2018年10月号№828 26頁

1月10日11日

今までの壁や殻を大きく打ち破る挑戦を

 

<荘厳なる生命の宝塔を輝かせて>

 

只信心の二字 

  

 時代は荒海のごとく激しく揺れ動いています。だからこそ、私たちは、御書という最高無上の大哲学の羅針盤を厳と抱きしめて、広布と人生の航路を断固として進んでいきたい。
 「日女御前御返事」の一節に――
 『此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり』(御書1244頁)
 そして、『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』(同頁)とあります。
 日蓮仏法が、どれほど深遠に、どれほど明晰に、生命の尊厳を説き明かしているか。妙法を信受した、この私たちの命それ自体が、根本尊敬の当体であるとまで、示されているのであります。
 ゆえに、自分を卑下などしては、決してなりません。
 宇宙の大法則と完璧に合致して、最極の「仏の生命の都」を、わが胸奥に輝き光らせていけるのが、「信心」の二字であります。
 したがって、この真髄を深く実践していくならば、まだまだ計り知れない智慧と力を引き出すことができる。汝自身が、荘厳なる生命の宝塔として、いかなる「生老病死」の苦悩にも負けず、「常楽我浄」という、希望と歓喜の光を、そして幸福と平和の光を、未来永遠に放っていくことができるのであります。
 「拡大」を掲げた本年、私たちは、自行化他の題目をいやまして轟かせながら、この信心の底力を思う存分に発揮し、今までの壁や殻を大きく打ち破る挑戦を、痛快に開始しようではありませんか!


2016年1月10日付 聖教新聞 第15回本部幹部会 メッセージ
 

2015年10月15日

偉大なる幸福の証明を

 
 「お体を大事にして、うんと長生きしていただきたい。
 宿命転換、転重軽受、変毒為薬、罰即利益の根本が信心です。ですから、絶対に御本尊を根幹として、どんなことがあっても題目を唱え抜き大きく脱皮し、偉大なる幸福の証明をしていただきたい
 「妙法に生き切る人は、あらゆる点で満足し切って、“こんなに自分は幸福でいいのか”という境涯になるに決まっているのです。それが、所願満足の御本尊の功徳です。ならなかったら妙法ではありません。
 ですから、学会につき切って、広布の戦いにおける自己の使命を自覚していただきいたい」


大白蓮華2015年10月号№792 18頁

2015年6月30日

信心は純粋に、御本尊にお仕えし、大功徳を!

 

御本尊を守り、

学会のために、

広宣流布のために

真剣に戦っている人を、心から守ってあげなさい。

   

 「仏法は現証論であり、実証論であります。まだ皆さん方の功徳は、そんな小さなものではありません。顔色も良く、生活には困らない。ハワイぐらいにはみんな遊びに行ける。そのぐらいの力はもってもらいたい。
 それには、やはり御本尊に仕え、大功徳を受けていける信心をしなくてはなりません。
 どうか、一生成仏のためにも、人間革命をし切るためにも、信心のことだけは純粋にいきなさい。そうでなければ、自分で全部功徳を破壊してしまいます。
 私は皆さん方を守っていきます。皆さんは、御本尊を守り、そしてまた、学会のために、広宣流布のために真剣に戦っている人を、心から守ってあげなさい。
 今日は、集まった方々が、最後の最後まで一人も退転なく、いつ会っても朗らかに、いつ会っても向上し、そして、手を取り合って喜び合えるような一生を貫き通していただきたい
 過去は過去として、今日から新しい、第2の青春という気持ちで、未来へ向かって進んでいきなさい

大白蓮華2015年7月号№788 21頁

2015年5月24日

『うるし漆千ばいに蟹の足一つ』

 

<信心は“濁り”との絶えざる戦い>

   

 御書の有名な御文に『うるし漆千ばいに蟹の足一つ』(御書1056頁)――千ばいものたくさんの漆も、わずか蟹の足一つ混じっただけで性質が変わってしまう――と教えられている。
 個人においても、和合僧の組織にあっても、「信心」という一点では、いささかの“濁り”も許されない。わずかでも不純なものがまぎれ込めば、信仰の世界全体が侵され、変質し、やがて堕落してしまうからだ。
 不純なる悪と戦い、信心の純度を限りなく高めていく、そこに福徳が限りなく増幅され、さらに広布の勢力がますます拡大していく
 文永元年(一二六四年)、大聖人が南条時光の父・南条兵衛七郎に送られたお手紙に、次のような一節がある。
 『いかなる大善をつく(作)り法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せ(責)めざれば得道ありがたし』(御書1494頁)
 ――いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道(成仏)はできない――と。
 これは、末法今時における天台仏法の修行を破折された御文であるが、私どもの信心のあり方をも示されている。
 日々、仏道修行に励み、多くの善根を積んでいるという人がいる。また、教学の研鑽に励み、仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。しかし、いくら善根を積み、仏法を深く究めているといっても、正法正義を破壊しようとする敵と戦わなければ、すべて無意味なものとなる、成仏は絶対にできない、との厳しき仰せなのである
 それは、あたかも『朝につか(仕)ふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をし(知)りながら奏もせず私にもあだ(怨)まずば奉公皆う(失)せて還つてとが(咎)に行はれんが如し』(御書1494頁)――朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上(報告)もせず、個人としてもその敵を憎み、責めなければ、長年の奉公の功績もみな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである――と。
 ゆえに、私は、信心の世界、妙法の世界を破壊しようとする敵と戦っている。そのために数々の迫害もあった。非難、中傷も受けている。しかし、それが御聖訓どおりの正しき信心の道と知っているがゆえに、私は行動している
 たとえ、信心の年数も長く、幹部になったとしても、仏法の敵を見ながら、知りながら、戦いもせず、責めようともしなければ、本当に仏法を知ったことにはならない、真実の信心の実践とはならないことを教えられた御書である
 それでは「成仏」など思いもよらない。大聖人が教えられた正しき信心の道に連なってこそ「成仏」はあることを、よくよく銘記しなければならない。


師子身中の虫が仏法を破壊


 いずこの世界にあっても、悪人を放置しておけば、内側から破壊されてしまう。これほど怖いことはない。また、そうした悪がはびこるのを、黙って許しておくことも、重大な罪である。いわんや、仏法の世界は、より峻厳である
 御書に『師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり』(御書1271頁)――師子の身中の虫が師子をむしばむ、と言うとおり、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こってきて、仏道は失われてしまうだろう。これは仏の遺言である――と説かれている。
 清らかな、うるわしい、この正法の世界に、悪が巣くうようなことは、断じて許してはならない。そうでないと『師子の中の虫・師子をくらう』とのごとく、内部から妙法の世界がむしばまれ、永遠なる広宣流布の道がふさがれてしまうからである。
 有名の人がいる。栄誉の人がいる。功績の人がいる。人は、おうおうにして、これらの“飾り”に幻惑されやすい。
 しかし、それらは信心とは何の関係もないことである。これまで学会にも、有名や栄誉、功績の仮面をかぶって、学会を利用しようとしたり、増上慢となり退転していった者が出た。これからも、そのような名聞名利の人物が出るかもしれないしかし私どもは、絶対に、こうした「悪」の蠢動を許してはならない。
 正法の「敵」を鋭く見抜いていくことだ。仮面の策略に翻弄されてはならない。そして信心の世界で「悪」の働きができないように、責めだしていかねばならない

 

1989.10.1 第八回親善文化祭

2015年4月14日

信心の根っこがある限り必ず蘇生できる!

  

 しばらくして、伸一の指導となった。
 彼は、一月の十五日に行われた、若草山の山焼きのことから話を進めた。
 「毎年一回、山焼きが行われますが、必ずまた、春とともに、若草が萌え出ずる。それは、草は焼かれても、根っこがあるゆえに、草の灰を肥料として吸収し、みずみずしい草を茂らせるのであります。
 人生も同じです。根がある人は、何があっても必ず栄える。根とは信心です。その根をより太く、強くしていくことによって、福運を吸い上げ、自分のみならず、一家一族をも、永遠に繁栄させていくことができる。
 各地域にあっても、異体同心の組織が築かれ、“信心の根”が深く張り巡らされていくならば、三障四魔という炎に焼かれることがあっても、また必ず、若草山のように、青々と蘇生していくことは間違いありません。
 人生には、さまざまな試練が待ち受けているものです。しかし、“根がある限り、たとえ、すべてを焼き尽くされても、必ず蘇生できるのだ!”と強く確信し、自信をもって、焦らずに、わが生命に信心の根を、地域に広宣流布の根を、張り巡らしていってください


小説 新・人間革命 第26巻 勇将 308頁


2015年2月27日28日

 信心とは何か

 

<「題目」こそ生命回転の力>


 信心とは何かに言及していった。
 「信心の基本は、『信行学』です。『信』は、御本尊を信じること。『行』は、自行化他であり、唱題とともに、弘教の実践、広宣流布への行動が含まれます。『学』は、教学です。
 したがって、御本尊を信じ、題目を唱え、教学を勉強しているだけでは本当の信心ではありません。広宣流布のための活動があってこそ、真の信心が完結するんです。
 “この人に立ち上がってもらいたい”と指導に足を運ぶ。“あの人に幸せになってほしい”と弘教に歩く。“地域の広宣流布をしよう”と対話を重ねる。その利他の実践に至ってこそ、真実の仏法なんです。
 私生活でも、さまざまな苦悩をかかえているうえに、広宣流布の行動を起こせば、さらに悩みを背負うことになる。辛いと感じることも、苦しいと感じることもあるでしょう。
 仏法では、娑婆世界とは堪忍の世界と教えている。耐え忍んで、強く生き抜かなくてはならない。その生命力の源泉が唱題です。悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、楽しい時も題目です。題目こそが、煩悩を菩提へ、苦を楽へと、生命を回転させる力なんです」


 小説 新・人間革命 28巻 大道14

2015年1月4日

 なぜ信心しなければならないか

  
 戸田先生は信心の必要性について、こう指導されている。
 「なぜ信心しなければならないか。私は功徳をいただいている。なにがあっても絶対やめません。信心の必要は、もともとは死後の問題が恐ろしいから、信心するのです。いまの人は後生(ごしょう)のことを考えない。この世の生活がよければ、それでよいと思っている。しかし、死後のことはじつに大切で、もし地獄に堕(お)ちたら、その苦しみは今世の苦悩にはくらべられない。だから後生のために信心するのです」(『戸田城聖全集 第四巻』、以下同じ)と。
 すなわち信心によってこそ、だれもが不安を感じながら、避(さ)けようとしている「死後」という問題を解決していける。この三世永遠の生命観によらずして、真実の幸福はないのである。
 そして「この世でよくなれば、かならず後生はよいのです。本当にこの世の生活も、後生もよくなるのは、日蓮大聖人の仏法だけです。要は、御本尊様をいかに信ずるかである。太田殿の御書にもありますように、信心は確信です。絶対に確信をもてば、かならず幸福になるのです。いかなることがあろうとも、信心の強いものにはだれも頭があがらない」とも述べられている。
 この妙法への絶対の「確信」を胸に、何ものをも恐れることなく、広布への力強い実践に生き抜いていきたい。そこにこそ、自身の崩れぬ幸福境涯を築きゆく道がある。
 さらに戸田先生は、「幸福な状態で死んだときは、それは、ぐっすりと安楽に熟睡しているのであり、不幸な状態で死んだときは、それは、あたかも犬に追われて逃げようとあせり、いまにも追いつかれそうで、もだえ苦しんでいる、悪夢にうなされているようなものである。題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化させるのである」とも話されている。
 御本尊に真剣に唱題していくならば、生死の流転の闇を、生々世々にわたる「福運」と「功徳」の花園へと転じていける。また、この偉大なる功力を、日々の祈りと実践の中で深く実感していけるのが、仏法なのである。 

  1989. 3.29 第六回全国婦人部幹部会

 

2014年11月3日

信心の究極


 「私たちの日夜の活動は、全部、御本尊を根本としての戦いであり、日蓮大聖人の仰せの通りに実践している戦いです。したがって、因果の理法に則り、法則に生ききった戦いなのであります」
 「信心は確信です。口ではよく『確信、確信』と言い、文でもよく『確信、確信』と書く。でも、信心がなければ、本当の確信、信念ということはありえない。あったとしても、それは砂上の楼閣にすぎません。
  真実の信念、確信は、御本尊に対する直結の一念であります。一念三千であります。これが本門の信念であり、本門の確信であります」
 「絶対強盛なる信心とは、子どもが怖いことが起きると、『おかあちゃーん』と母親のところへ飛んでいくようなものです。その気持ちで御本尊に願ったら、すごいことになります。
 これは理論ではありません。信心です。母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋というか、それ以外にないのだという、その一念で御本尊に直結し、願っていけば、どんなことも通じます。その祈りはかないます。それが信心の究極なのです。
 その信心ができるようになるため、一日一日の信心を磨いていくことです。途中で退転したり、自分が大したこともやらないで、御本尊の功徳がないと思ったり、学会を小ばかにしたりするようなことは決してあってはいけません」
 「しっかり信心し抜いていこうではありませんか!」

 

大白蓮華No.780号2014.11月号11頁

世界広布新時代

創立90周年へ

前進・人材の年

(2020年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2020.8.5

第1691回

  

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL