励まし

2015年12月12日

励まし(完)

 

  妙法を「恋慕」する信心


斉藤 よくわかりました。この「勧発」について、天台は「恋法れんぽう(法を恋う)」のことであると言っています。これは、妙法の素晴らしさを恋慕し、渇仰しているゆえに、人にも勧めないでいられない心を指していると思います。
遠藤 仏法の偉大さを知った学会員が、語らずにいられなくなる姿も、これですね。
池田 「御本尊が大好きだ」「勤行が大好きだ」「学会活動が大好きだ」という信心です。そうなれば、「生きていることが楽しい。人生が大好きだ」という生活になるのです。
遠藤 御書にも仰せです。「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたち形容よき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」(上野殿御返事、1558頁)
(飢えた時に食べものを願い、のどが渇いて水を欲しがるように、恋しい人に会いたいように、病気になれば薬を頼るように、きれいな人が紅や白粉をつけるように、御本尊には信心をしていきなさい。そうでなければ後悔しますよ)
池田 信心は「心」です。形式ではない。時間の長さでもない。法を求める「心」に「功徳」はある。
 たとえば、忙しくて、なかなか活動できない。しかし、三十分でも会合に出よう。週に半日でも活動しよう──その「心」に大いなる功徳がある。
 また周囲も、そういう人を理解し、励ましてあげることだ。いつも出てきていないと相手にしないというのでは無慈悲です。むしろ、いつも会合に来ている人は安心だ。来られない人をどう励ましていくかを考えなければならない。これができれば、広宣流布は今の何倍も広がっていくに違いない。

 

法華経の智慧 普賢菩薩勘発品(第二十八章)広布の同志を「仏の如く」敬え

2015年12月11日

励まし(5)
 

「むだな会合や報告」はないか

 

池田 そして、会合で人を集める時は、覚悟して集めなければならない。それぞれ予定をもっている人、忙しい人を集めるのだから、皆が「来てよかった!」「行かなければ損だ!」という会合にしなければならない。
 幹部が話す内容や順番も、よく検討して、たとえ一人でも「つまらなかった」と言わせない決心で臨むべきです。何も、長くやらなければいけないというわけでもない。短時間で終われたら、そのほうがいいのだし、一番価値的にやるべきです。「価値創造の団体」なのだから。それが「一人の人を大切に」ということに通じる。
 会合ひとつでも「勝負」なのです。また、皆を消耗させるだけの、不必要な報告も、「実質本位」とは言えない。数字をいじくっても、何にも出てこない。少ないお金を何回、計算しなおしても、それでお金が増えるわけではない(笑い)。そんなひまがあるなら、稼いだほうがいい(笑い)。
 報告や集計や書類づくりのために、大切な皆が疲れては本末転倒です。座談会に行った後、「あまり盛り上がっていませんでした」などと報告したって、何にもならない(笑い)。報告するために行ったわけではない。集まった人を満足させるために行ったのです。しかも、いやいやながら報告させても、うそが多くなる(笑い)。それでは組織が、よどんでしまう。
 もちろん、機構上、必要な報告をとるのがいけないというのではない。皆が喜んで行動し、喜んで報告してくるような雰囲気をつくることです。そのためには、入魂の「励まし」であり、「勧発」です。弘教ができたら、皆、喜んで「できました!」と報告したくなるでしよう。

(つづく)

2015年12月10日

励まし(4)

 

悩める人を救うための学会

 

会合は手段です。

会合をこなすだけの組織になっては本末転倒

 

池田 会合にしても、むだな会合は悪です。
 昭和三十一年(一九五六年)の参院選で、大阪は勝ったが、東京は敗れた。その時、戸田先生は「形式主義を排して、実質主義でいけ!」と、厳しく指導された。(当時、会合の数が、あまりにも多く、実質的な個人指導などが十分にできていなかった。そこで少人数の「組座談会」一本の方針が打ち出され、皆が第一線に飛び出した)
 悩める人を救うための学会です。会合は手段です。それが会合をこなすだけの組織になっては本末転倒です。
  苦しんでいる人がいないか、行き詰まっているところはないか、サーチライトを当てて、探し出すのです。
  問題は必ずある。そこへ直ちに飛んでいって指導し、「励まし」を贈ることです
  私は、一度会った人は、最後まで励まします。その人が、千里の果てに行こうとも、信心を少々休んでいようと、どんなことがあっても守ってあげたい。退転しそうな人は、背負ってでも、抱いてでも、引っ張ってでも、一緒にすばらしい妙法の功徳に浴させてあげたい。
  「戦った功徳は、こんなにすごいのか!」ということを実感させてあげたい。相手を幸福にしたいという真心が通じれば、「はっぱ」などかけなくとも、皆、立ち上がるのです。また「真心が通じますように」と祈っていくことです。

(つづく)

2015年12月9日

励まし(3)

 

一人の人を大切に

 

私が願うのは、

私に代わって、

幹部の皆が、

会員の面倒を優しく見てもらいたい

ということです。

 
 創価学会が、ここまで広宣流布できたのも、「励まし」に徹してきたからです。人間は、ロボットではない。どんなに決意していたって、くじけそうになることもある。だから、ありとあらゆる方法を使って、「元気づける」ことに、私は徹してきた。
如来の滅後──それは悪世です。
 悪世とは「正しい者が少なく、悪人が多い世」です。悪人が多いのだから、当然、少ない善人が迫害されてしまう。だから「団結」が大事です。だから互いの「応援」が大事なのです。
遠藤 池田先生が、会員の一人一人に贈られた「メッセージ」「和歌」「俳句」「贈言」「揮毫」をはじめ、形に残っているものだけでも何十万あることか、わかりません。
 目に見えない励ましも含めて、本当に無量の「勧発」をしてくださっていると思います。「負けるな! 頑張れ」と行動を勧め、皆を発奮させてこられました。
 

誠心誠意で、人の心を満たす

 

斉藤 世間の人は、創価学会を「強固な組織」のように見がちですが、じつは「組織が強固」なのではなく、池田先生と会員一人一人の「心の絆」が強靭なんですね。その一点を見ないと、学会はわからないと思います。
また、悪人のほうが、そのことをわかっていて(笑い)、この絆を断ち切ろうと、そこに焦点を定めてくることも事実です。
池田 私のことはともかく、現代において、組織の命令だけで、人がついてくるなんて考えるほうが、おかしい。
 何の強制力があるわけではなし、いやいややっていて、力が出るわけもない。
 「一人の人を大切に」。これしかない。これに徹したところが勝つ。このことは、何度でも言っておきます。
 たとえば、幹部がだれかを指導してきたとする。「次、いつ会うことにしたのか」と聞くと、約束をしていない場合がある。それでは、相手は目標をもてない。「二ヵ月後に会いましょう」とか、「三カ月後に会うまでに、こう頑張ろう」とか、目標を一緒に決めることによって、一念が定まっていく。これが「勧発」です。
 そして、約束したら、こちらも、どんなことがあっても実行しなければならないそのために、どんなに苦労しようとも。この「誠心誠意」の積み重ねによって、広宣流布は進んできたのです。
須田 だいぶ前ですが、先生が、ある人材グループの会合一人の青年をずっと激励しておられたのを覚えています。
 「○○君、頑張れ!」と、何度も何度も、名前を呼んで。
 じつは、彼は信心から遠ざかっていました。先生の励ましで、がぜん元気になったのですが、驚いたのは懇談会の最後に、先生が言われたことです。「彼がきよう参加した裏には、必ず、だれかが激励に行ったはずです。だれですか?」と。
 さっと何人かが手を挙げました。じつは、彼らは忙しい合間をぬって、交代で激励に通っていたのです。だれも知らないところで頑張っている人のことが、どうして、先生には、ぱっとわかるのか──と自分を反省したものです。
斉藤 先生ご自身が「陰で」苦労してこられたからなんでしようね。
(=会長時代、名誉会長は語った。「久しぶりに自宅に帰り、床についても、電車の音を聞いては登山列車の安否を思い、車の音を聞いては、バス登山者の無事を祈らずにはおれなかった。さらに、幹部の健康、きのう指導を受けにきた人の無事安穏を祈っての唱題──かたときも心の休まることはなかった」と)
池田 私が願うのは、私に代わって、幹部の皆が、会員の面倒を優しく見てもらいたいということです。
 ″気がきかない″幹部ではいけない。昔の日本ではおうように、大ざっぱなのが大物のような風潮があったが、とんでもない時代錆誤です。
仏法は、徹頭徹尾、「人間の世界」だ。だから、「人間が人間を満足させる」ことが、仏法の修行なのです。
 皆が何を今、求めているのか。疲れていないか。おなかはすいていないか。何か言いたいこと、聞いてもらいたいことがあるのではないか──敏感すぎるくらい敏感でなければならない。

(つづく)

2015年12月8日

励まし(2)

 

私が守るから、頑張れ! 負けるな!

 
池田 広宣流布の苦労に、むだはない。全部、大福徳に変わります。全部、生かされていく。
 御本尊中心の活動であれば、矛盾や行き詰まりがあるわけがない。御本尊は「事の一念三千」の御当体です。十界の衆生が、すべて妙法に照らされて、仏の働きをするのが、御本尊中心の世界です。
 私は、ある時は「地獄界の衆生も、餓鬼界の衆生も、畜生界の衆生も、全部、広布の法戦に参加させたまえ! 全部、味方とさせたまえ!」と祈って、戦った。
 十界の衆生が「普く(すべて)」、「賢き」価値創造者となるのが「普賢」です。また、いつだって、魔軍を叱りとばしながらの闘争だった。

 「大切な、清浄な学会に、指一本、触れさせてたまるか」という決心できた。
 皆も、そうあってもらいたい。これが普賢菩薩の精神のはずです。
斉藤 はい。「四つの条件」を聞いた普賢菩産は、「悪世で法華経の行者を死守します!」と誓いを立てます。
「その人が苦しんでいたら、必ず苦しみを取り除きます!」「魔や悪鬼がつけ入らないように、この人を守ります!」「その人を守護し、心を慰め、もしその人が法華経の一句一偈でも忘れたら、教えてあげて一緒に読誦します!」「その人が命を終えた時は、千仏の手を授けて(千仏授手)、恐れさせず、悪道に堕ちないように、いたします!」
 「世尊よ、こうして世尊の滅後に、私は法華経を守護し、全世界に広宣流布させて、断絶がないようにいたします!」
池田 そうだ。この誓いを聞いた人は、どれほどの「勇気と希望」を得たことか。「励まし」を与えたのです。
 普賢菩薩は、遠くから駆けつけて、「私が守るから、頑張れ! 負けるな!」とエールを贈ったのです。

 それが(普賢菩薩勃発品の)「勧発」です。
 

須田 人に仏法を「勧めて」、信心を「発させる」ことですね。
池田 激励です。鼓舞です。「励まし」という字は、「万の力」です。これほど偉大な力はない。
法華経の最終章は、「普賢菩薩の励まし」の章なのです。ここに意味がある。

(つづく) 

2015年12月7日

励まし(1)

 

<全員に会って励ましたい!>

 

 本来ならば、まじめな学会員さん全員に、一人一人お会いして、御礼も言い、“励まし”も贈りたい。それが私の本当の気持ちです。生身の体だし、それは不可能だが、全部、その思いを御本尊に祈りきって、生きています。

 だから幹部の皆さんは、私の代わりに、大切な会員の面倒を優しく見てあげていただきたい。皆、仏様の子どもです

 

法華経の智慧 妙荘厳王本事品(第二十七章)


2015年12月4日

“一個の生命”が宇宙生命の全体

 

<だからこそ、一人の人を大切に>

 

陰の人を徹して“励まし”、

“幸福”になってこそ、

それが広宣流布の全体!

 

十法界──三種の読み方


池田 不思議だね。大聖人は「法界とは広きに非ず狭きに非ず」と仰せですが、天台は「十法界」を三種に読

んでいるでしょう(法華玄義)。
斉藤 はい。三種類というのは、「十の法界」「十法の界」「十即ち法界」と読む読み方です。それぞれ、空諦・仮帝・中諦に対応しています。
第一に、「十の法界」と読みます。これは十界の違いはあっても、どれも「法界」である。仏が悟った実相の世界、つまり全宇宙であるということです。地獄界なら地獄界、人界なら人界のそれぞれが、すべて「法界」として平等である。宇宙生命、妙法の当体として平等であるということです。
遠藤 それが空諦の見方ですね。
斉藤 地獄界とか人界とかの「違い」はあっても、それらの違いは「実体ではない」と見るから「空諦」です。
池田 つまり、個々の界が、そのまま大宇宙の全体と見る。いわば「諸法即実相」であり、「個即全体」です。一粒の砂に全世界を見る見方だ。その反対に、「実相は必ず諸法」だから、「全体即個」の側面がある。
宇宙生命は、無限の違いをもつ森羅万象となって顕れるという側面です。
須田 それが「仮諦」の見方です。平等に法界であるといっても、現実には十界の違いがあります。そこで「十法の界」と読みます。この「界」は「違い」という意味です。
池田 それでは、どうして、そういう「違い」が出てくるのだろうか。
遠藤 それは、平等の「法界」をどうとらえるのか、衆生によって、とらえ方が違うし、感じ方が違います。その違いに十種類あるということではないでしょうか。
池田 そうでしょう。その意味で、十法界(十界)というのは、宇宙の客観的な姿というよりも、主体的なとらえ方──境涯の世界を表している。同じ大海に浸っていても、海水をくむ人の器の大小によって、くみとられた水の多い少ないは違ってくる。智慧の海も同じです。
 本来、十界のどの衆生も、宇宙生命の全体そのものである。それが仏の悟った宇宙の実相です。しかし、衆生の側では、そうとらえられずに、地獄界に苦しみ、餓鬼界に苦しみ、あるいは修羅界に争い、二乗界に満足している。
しかし、そのように地獄界にいたとしても、それでもなおかつ、その地獄界に全法界が具している。そう見るのが「中諦」です。これが天台の第三の読み方だ。
斉藤 はい。「十即ち法界」と読みます。つまり、地獄界は地獄界のままで法界です。地獄界から他の界に移るのではなく、そのままで一切法を具している。一切法(諸法)とは「十界の依正」のことですから、地獄界に十界を具しているということになります。他の九界も同様です。
遠藤 それが十界互具ということですね。だんだんわかってきた気がしますが、やはりむずかしいですね(笑い)。
須田 むずかしいのは、通常のわれわれの考え方を超えているからではないでしょうか。ふつうは「部分が集まって全体になる」ととらえるわけですが、仏法が説く生命の世界には、これは通用しない。「部分(個)がそのまま全体である」というのですから。

 

「一人」の幸福に、広布の「全体」が


池田 だからこそ「一人の人を大切に」と何度も言うのです。「一人の人」が全宇宙と同じ大きさであり、最高に尊貴なのです。これが皆、なかなかわからない。なかんずく、いわゆる陽の当たるところにいる人だけでなく、「陰の人」に徹底して励ましを送ることだ。表の人を激励するだけでは官僚主義です。陰の人に、また陰の人にと、徹底的に光を当てるのが仏法者です。一人の人を励まし、一人の人が幸福になっていく。その中に「広宣流布」の全体が含まれている。この一点を離れて、上から″組織を動かそう″というのは転倒なのです。
ともあれ、「個」即「全体」という実相は、たしかに通常の思考(思議)を超えている。「不可思議」すなわち「妙」と言われるゆえんです。
遠藤 天台も、十界互具によって、自分が悟った「不可思議境」(『摩訶止観』)を表そうとしたわけですから、わかろうとするのが無理なのかもしれません。
池田 しかし、その「不可思議境」というのは、われわれ凡夫の現実を離れたところにあるのではない。いな、凡夫の現実こそが「妙」なのだ、人間はすばらしいのだと宣言したのだということを忘れてはならない。
この現実を離れて、どこかに″妙なる所″があったり、すばらしい″妙なる存在″がいるのではない。これを信心に約して言えば、「信心以外にない」と決めることです。「信心で勝とう」「信心で道を開こう」と決心することです。
「不可思議境」と言っても、究極は「御本尊」のことであるし、「信心」の二字に納まる。
 「心こそ大切」です。格好だけ御本尊を拝んでいても、惰性であったり、疑ったり、文句の心や逃避の心があれば、本当の功徳は出ない。
 大聖人は『叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』(御書1262頁)と仰せです。(〈祈りの〉叶う叶わないは、あなたの御信心によって決まります。まったく日蓮のせいではありません)
 信心以上のすばらしい世界はないのだ。御本尊以上の宝聚はないのだ。これこそ「不可思議境」であり、「妙」であり、最高にすばらしい宝をもっているのだ──こう歓喜に燃えていけば、功徳はどんどん出てくる。
 どこか他の世界に、もっとすばらしいところがあるのではないか。信心以上の何かいい方法があるのではないか。そういう一念は、仏界の涌現の力を弱めてしまうのです。そして、仏界が涌現してこそ、事実の上で仏界即九界、九界即仏界になり、十界互具になるのです。
斉藤 「信心」がなければ、十界互具といっても言葉だけのことですね。
遠藤 さきほど『観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり』(御書240頁)の御文を拝しましたが、日寛上人の仰せによれば、この「我が己心を観じて」とは、文底の仏法でいえば「御本尊を信ずる」ことです。「観心の本尊」といわれるゆえんです。また「十法界を見る」とは「妙法を唱える」ことです。(文段集471頁)
池田 そう。妙法を唱える──唱える私どもは九界。唱え奉る妙法は仏界。妙法を唱えることで、九界と仏界が一体となり、十界互具になっていく。大いなる「境涯革命」が、そこに起こる。
仏界が涌現しなければ、十界互具といっても、理論的な可能性(理具)に終わってしまう。信行があって初めて事実の上(事行)で十界互具になるのです。その意味で、十界互具の「理論」は、きわめてむずかしいが、その「現証」は創価学会の世界には無数にある。いな、学会の世界にしかないと断言できる。


法華経の智慧 如来寿量品(第十六章)十界互具(下)人間、この素晴らしきもの

世界広布新時代

創立90周年へ

前進・人材の年

(2020年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2020.4.8

第1658回

  

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL