地涌

2019年5月1日

第1603回

迫害は日蓮仏法の正統の証明

 

 御聖訓には、経文を引かれて、末法において妙法を弘める者は必ず迫害にあうことが厳然と示されている。
悪口罵詈」は当然のことである。
猶多怨嫉」は当然のことなのである。
(法華経勧持品に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し」〈法華経四一八ページ〉とある。また法師品に「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」〈法華経362頁〉とある)
 第六天の魔王が支配する世界で、ヤキモチを焼かれ、怨嫉されることは、日蓮大聖人の仏法を、まつたく完璧に、御聖訓どおりに実践し、戦い進んでいる証拠なのである。
 広布へ戦う学会の同志は、一人ももれなく、永遠の勝利と栄光と福運に満ち満ちた「金剛不壊の生命」となっていく。そして、三世にわたって、それぞれの国々で、必ず大指導者となり、その国のため、その国の人々のため、生々世々、偉大な歴史をつくりゆくことは、絶対に、間違いない。
皆さまこそ「地涌の菩薩」なのである。

 

 2002年5月1日5・3祝賀第十六回本部幹部会、新世紀第二回未来部総会

2018年2月28日

我らは創価の

「地涌の太陽」

 

気取らず飾らず、ありのまま

 

 ここで、大聖人が大切にされ、牧口先生・戸田先生が心肝に染められた法華経の一節を拝したい。
 すなわち、「太陽と月の光明が諸々の闇を除くことができるように、妙法を受持し弘通する地涌の菩薩は、世間の中で行動して、衆生の闇を滅することができる」(御書903頁、趣意)との宣言であります。
 この「地涌の太陽」は、いったい、どこから昇るのか。
 貴族ぶった特権階級でもなければ、閉ざされた伽藍(寺院)でもありません。広々と開かれた「民衆の大海原」であり、みな平等の「庶民の大地」です。
 御本仏ご自身が、「民の家より出でて」と明快に仰せの通りであります。
 そして、大聖人のお心のままに、庶民の人間群に飛び込んで、誓願の題目を唱え抜きながら、あらゆる不幸と苦難の闇に挑んできたのが、我ら創価の「地涌の太陽」なのであります。
 地涌の太陽は、気取らず飾らず、ありのままで明るく朗らかです。温かくおおらかに、みんなを分け隔てなく包みます。不屈の大情熱に燃えて、たゆまず前へ進み、智慧と慈愛の光を惜しみません。
 そして、どんな嵐があっても絶対に負けないで、最後は大勝利の晴れわたる笑顔を広げていくのです。
 今、深い不安と分断の暗闇に覆われ、凍える人類を、いかに照らし温め、平和の「春の曲」を奏でてゆくか。その希望の陽光は、我らの「民衆仏法」即「世界宗教」にこそあると、私は皆さんと一緒に申し上げたいのであります。

2018年2月6日付聖教新聞 2007年11月本部幹部会(抜粋)

2016年10月5日

“この地域は難しい”

“あの人は無理”などと決めつけない

 

<一切を照らしていく太陽>

 

 日蓮大聖人は『広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり』(御書834頁)と仰せになられた。
 民族も、文明も超え、この地球上に生きる誰人も、最も尊い地涌の菩薩の生命を抱いている。それを一人また一人と呼び覚ましていくのが、我らの広宣流布だ。
 56年前の10月2日、慈折広布の大師匠たる戸田先生の写真を胸ポケットに、私は世界へ一歩を踏み出した。師弟不二なれば、何も恐れるものはなかった。
 “この地域は難しい”“あの人は無理”などと、決めつける必要はない。
 妙法は、一切を照らしていく太陽であるからだ。
 皆、同じ人間として「生老病死」の苦悩に向き合い、幸福を求め、平和を願っている。胸襟を開いて語り合えば、仏縁が結ばれ、共鳴が広がる。
 御聖訓には、『他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし』(同1132頁)と記されている。
 内外を問わず、私は友情の橋を懸け、信頼の道を開いてきた。今、我ら創価の平和・文化・教育の大連帯は世界を包み、希望の大光を放っている。

2016年10月2日付聖教新聞 SGI会長と共に 新時代を創る26(抜粋)

2016年10月3日

  人から言われて動くものではない!

自らが常に出発点なのだ!

 

<地涌の菩薩>

 

 「諸法実相抄」講義で山本伸一は、大宇宙、社会の一切の現象は、妙法の姿であること、そして、御本尊は、大宇宙の縮図であり、根源であることを述べていった。
 また、仏は、架空の抽象的存在ではなく、釈尊も、多宝仏も、妙法の力用の具体的表現であることを論じた。
 次いで、「凡夫こそ本仏」「一切の衆生が妙法の当体」とする日蓮大聖人の法理は、過去の仏法観を根底から打破するものであり、ここに、人間主義の偉大なる原理があることを強調した。
 さらに、伸一は、法華経では、仏の久遠の弟子にのみ、妙法弘通の使命を託しており、末法今時に妙法を弘めている人、すなわち、折伏している人は、仏の久遠の弟子であり、地涌の菩薩であることを訴えた。
 まさに、この末法広宣流布の果敢な闘争のなかにこそ、大聖人門下の真実の信仰があるのだ。そして、これこそが、法華経に説かれた、「如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経三五七ページ)なのである。
 ここで彼は、地涌の菩薩について言及していった。
 「地涌の菩薩とは、人から言われて動くものではない。宇宙本然の妙法に生き切るがゆえに、大地から草木が本然的に生長していくように、自ら題目をあげ、社会のために、平和のために、貢献していく生命であります
 戸田城聖は、戦時中の獄中闘争のなかで、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得た。
 そして、自ら、「折伏の師匠」であり、創価学会は「世界でただ一つ、末法の正法正義を弘めゆく折伏の団体である」と宣言した。学会本部常住の御本尊には、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認めである。
 戸田は、常々、語っていた。
 「御本仏・日蓮大聖人より、末法現代の広宣流布を託された地涌の菩薩の集いであり、仏意仏勅の団体こそ、創価学会なのだ
 これが、戸田の大確信であった。

 

小説新・人間革命 第24巻 厳護43

2015年7月10日

「地涌の菩薩」の覚悟

 

<「人から言われたから」やるのではない。

「自分で誓い願って」、地涌の菩薩として生まれてきた。>

 
池田先生 (前略)私たちは、誓願の祈りで、深く強く結ばれている。
 創価学会は「我、地涌の菩薩なり」との自覚で立ち上がった仏勅の団体です。どれほど尊いか。この「地涌の菩薩」の覚悟がなければ、三類の強敵をはね返して、悪世末法に広宣流布を進めることはできません。
熊沢 この誓願の人生を教えてくださったのが、創価学会の牧口先生、戸田先生、そして池田先生の三代会長です。
池田先生 戸田先生は「広宣流布へ戦う私たちは、皆、虚空会の儀式に連なっていたんだよ」と言われました。
 要するに、折伏にせよ、広宣流布にせよ、「人から言われたから」やるのではない。私たちは皆、「自分で誓い願って」、地涌の菩薩として生まれてきた。
 そう決めて拝読すれば、御書の内容も何重にも深く生命に響きます。法華経も同じです。『八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり』(御書563㌻)とある通りだ。
 御書を一切、自分の生命のことを説き明かした経典と拝しているから、学会は強いのです。負けないのです。
熊沢 地涌の菩薩は、厚い大地を打ち破って、歓喜踊躍して出現しました。
 私たちもまた、現実の悩みに負けずに、朗らかに、自分の使命に生き抜いていかねばならないと決意しています。
池田先生 地涌の菩薩は、最も大変な時に、最も大変な場所に勇み立って出現する。みんなも、そうなんだよ。
 今、直面している困難は、信心の眼(まなこ)で見れば、自ら願った使命です。そう確信して前進することが、「誓願の祈り」の証しです。
 仕事のこと、経済苦、人間関係の悩み、病気の克服など、目下の課題に打ち勝つために、猛然と祈ることです。
 自分自身が、断固として勝利の実証を示していくことが、同じような苦しみに直面する友を励ます光となる。
 「宿命」を「使命」に変える。これが「願兼於業」の祈りです。勇気を奮い起こして、自他共の幸福を祈ることだ。そこに深い慈悲がある。自分だけでない。人の幸福を祈る中で、自分の悩みを悠々と見下ろせる境涯が開かれていくのです。
 自らの悩みを抱えながら、それに押しつぶされない。『難来るを以て安楽』(同750㌻)と、広宣流布のため真剣に祈り、勇敢に学会活動に打って出る。広布の祈りは、仏・菩薩の祈りです。
 大きな悩みを引き受け、大きく祈った分だけ、大きな境涯を開くことができる。気がついたら、小さな悩みは全部、包まれ、乗り越えられている。
 ここに「煩悩即菩提」の極理があります。


御書と青年(2010.1.25付聖教)

2015年6月22日23日

地涌の菩薩(8)

 

<本当の「日蓮と同意」>


 折伏精神、師子王の心

 

 池田 (中略) 学会は「仏の軍勢」です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」です。魔は、狩り出し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です。
「日蓮と同意」ならば、何も恐れるはずがない。牧口先生、戸田先生は戦時中、軍部の弾圧にも一歩も引かなかった。大聖人のご精神である師子王の心を、まっすぐに受け継いでおられた。(中略)
 池田 大事なことは、私どもの原点である戸田先生の悟達が、この「獄中」でなされたという一点です。
 法華経ゆえの投獄です。「四恩妙」に仰せのごとく、これは四六時中、片時も休まず法華経を身読していることに通じる。そのなかで、戸田先生は「我、地涌の菩薩なり!」と、豁然(かつぜん)と悟られた。大難の真っただ中でこそ、人間革命されたのです難即悟達です。これこそ、まさに『日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか』(御書1360頁)の御金言を身をもって証明された姿と言えよう。厳しく言えば、難なくして、本当の「日蓮と同意」とはいえないのです。


法華経の智慧 従地涌出品 第十五章

2015年6月19日

地涌の菩薩(7)

 

<動執生疑(完)>


 “裸一貫”の、

ありのままの凡夫、

「人間丸出し」の勇者。

それが地涌の誇りなのです


 地涌の出現とは、

「生命の底力は、かくも偉大なり!」

という壮大な轟きです。地響きです

 

地涌の出現とは、
万年の未来へと続く
「地球革命」
への船出のファンファーレ

 

 池田 境涯革命です。個人の境涯革命を一人一人、広げていくことによって――これが地涌の涌出だが――社会全体の境涯を変える戦いです。人類全体の境涯を高めるのです。この変革が「大地を打ち破って」という姿に、象徴的に表されているのではないだろうか。
 斉藤 その意味では、法華経の会座にいた大衆の「始成正覚へのとらわれ」は、自分がどこから来たのか知らない――つまり自分自身の根源である「永遠なる生命エネルギー」を知らないということですね。これは現代人の迷いにも通じますね。
 池田 その通りです。自分の生命の偉大さに気づかないゆえに、小さな枝葉末節にとらわれてしまう。民族とか人種とか、性別とか社会的地位とか。そうした、あらゆる差異を突き抜け、人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力です。“裸一貫”の、ありのままの凡夫、「人間丸出し」の勇者。それが地涌の誇りなのです。いわば、地涌の出現とは、「生命の底力は、かくも偉大なり!」という壮大な轟きです。地響きです
 これを世界に広げていくのです。本門の“仏陀観の変革”は即、根本的な“人間観の変革”を意味している。
 遠藤 はい。米ジョージタウン大学のD・N・ロビンソン博士(名誉教授)は「現代の迷信」について、こう論じています。
 「人は自分をどんな存在と考えるかによって、その行ないが変わってくるし、他者についても、それをどんな存在と見るかによって、求めるところが違ってくる――これはほとんど自明の理といってよいだろう。そしてこの理(ことわり)は、人間の社会や政治の歴史の中にも、はっきり見て取ることができる。人間を『神の子』と見るか、『生産の道具』と見るか。『運動する物体』と見るか、あるいは『霊長類の一種』と見るかによって、社会や政治のあり方は著しく変わってくるのである」
 博士は、現代人は「唯物論」とか「環境決定論」とかの“迷信”に閉じこもっているとして、その“迷信”を疑うべきであると主張しています。
 「『ファラオは生きた神』とか、『神に授けられた国王の権利』とか、『アフリカ原住民は生まれながらの奴隷』などといった言葉は、過去いかに不条理な人間観が時代を支配してきたかを如実に物語っている。しかし、人々は一般に、自らがその中に生きている時代の人間観に対しては、驚くほど批判を持たない」と。
 斉藤 現代人が自明と思っている人間観が、じつは後世から見たら、大いにゆがんだものかもしれません。
 須田 問題は、博士が言う“現代の迷信”が、ことごとく人間を小さな存在に閉じ込める方向になっているということですね。
 たとえば「心」は宇宙にも広がり、三世にも広がっているものなのですが、現代人は、「心」は現在の小さな「脳」の中にあるものと思っています。
 遠藤 それは動執生疑させなければならない。そういう人間観がつくる社会は、どうしても荒廃した希望なき社会になるからです。
 池田 その動執生疑は、地涌の菩薩の「姿」で、「行動」で起こさせるのです。「声」で起こさせるのです。法華経でも、荘厳な事実の姿で、動執生疑を起こさせたように。
 ともあれ現代のわれわれにとって、地涌の出現とは、二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀、そして万年の未来へと続く「地球革命」への船出のファンファーレととらえたい。
 大聖人は、門下にこう呼びかけてくださっている。
 『すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか』(御書1300頁)と。
 断じて嘆くな! 大悪があるから大善がくるのだ。上行菩薩が、大地から踊って出てきたように、楽しく勇んで、舞を舞いながら、前進していきなさい、と。
 民衆の大地から踊り出る「勢い」こそ、私ども地涌の菩薩の身上なのです


法華経の智慧 従地涌出品 第十五章

2015年6月11日

地涌の菩薩(6)

 

<動執生疑(6)>


 大聖人の折伏による大きな「動執生疑」で、

難が起きないわけがない


今は世界を相手に動執生疑を起こしている


地涌の菩薩とは、妙法を根本とした

「永遠の行動者」であり「永遠の前進」の生命


 斉藤 そうした観点から見ますと、大聖人の折伏自体、当時の人々にとっては、大変な「動執生疑」だったと言えますね。
 既成の仏教界を震撼させる戦いではなかったでしょうか。
 池田 仏教界だけではなかった。幕府権力も、それに連なる人々、ひいては民衆までもこぞって動執生疑を起こしたのです。
 それまでの誤った宗教観、信仰観を根本から否定されてしまった。人生観、社会観、民衆観――人々がそれまで信じていたものが、ことごとく覆されたのです。
 大聖人に対して大きな反発が起きたのは当然です。難が起きないわけがない。
 遠藤 学会員も、その大聖人の示された通りに弘教を行じ、日本社会に動執生疑を引き起こしたわけですね。(中略)
 池田 動執生疑が大きければ大きいほど、難も大きくなる。日本を根本的に救いゆく動執生疑です。難が起きないはずがないのです
 そして、今は世界が相手です。世界を相手に動執生疑を起こしている平和と文化、教育と友情を広げながら、着実に人類の仏教観、人間観、生命観を変えています。(中略)
 須田 ルネサンス期の桂冠詩人ペトラルカは書いています。
 「人間の本性はいかなるものか、なんのためにわれわれは生まれたのか、どこからきて、どこへいくのか、ということを知らず、なおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇やの性質を知ったとて、それがいったい何の役にたつのだろうか」
 池田 その通りだ。現代ほど、人間が、「何のため」を忘れ、自分自身を小さな存在に貶めてしまっている時代はない。社会の巨大なシステム(制度や機構)の中で、「自分の力などたかが知れている。自分一人が何かしたところで、世の中が変わるわけはない。うまく社会に適応して生きていくのが精いっぱいだ」――こうした無力感が、人々の心を覆っている。(中略)
 そう。「しかたがない」という、凍てついた、あきらめの大地を叩き壊すのが涌出品です。「人間の底力」「民衆の底力」を、晴ればれと、巍巍堂々と満天下に示していく戦いです
 須田 先生は、ロシア科学アカデミー東洋学研究所のヴォロビヨヴァ博士と会見されました。(1996年2月)博士が寿量品の「久遠の仏」について言われたことが印象に残っています。「仏と融合する境涯を寿量品では説いていると思います。これは『時間を超えた』概念です。宇宙のエネルギーを、自分自身のエネルギーとするのです。
 その宇宙との一体感を味わう境涯を『永遠性』として表現されたものではないでしょうか。」
 池田 鋭い直感です。その「仏と融合する境涯」「宇宙との一体感を味わう境涯」を、我が身に体現して登場した地涌の菩薩ではないだろうか。
 菩薩と言いながら、じつは仏である。地涌の菩薩が「どこから」来たか。天台は「法性の淵底、玄宗の極地」(『法華文句記』)に住していたと言っている。つまり、生命奥底の真理であり、根本の一法である南無妙法蓮華経のことです
 宇宙の本源であり、生命の根本の力であり、智慧の究極であり、あらゆる法理の一根です。地涌の菩薩は、その本源のエネルギーを体現している。しかも菩薩です。
 菩薩ということは、完成(仏果)ではなく、未完成(仏因)である。未完成でありながら、完成(仏果)の境涯を体に漲らせている。否、完成(仏果)の境涯を法楽しながら、しかもさらに先へ、さらに高みへ、さらに多くの人々の救済へと行動している。未完成の完成です。
 地涌の菩薩とは、妙法を根本とした「永遠の行動者」であり「永遠の前進」の生命です。その、はつらつたるエネルギーを、我が生命にわき立たせていくのが、個人における「地涌の出現」です。これまでの小さな自分の殻を叩き破っていくのです。
 (つづく)


2015年6月10日

地涌の菩薩(5)

 

<動執生疑(5)>


今まで自分が信じ、拠りどころとしていた常識が

覆されるということは、大変な苦痛である


本門で初めて仏の三世常住が明かされた


 須田 弟子たちが陸続と立ち上がった。あまりにも立派な姿であった。「弟子がこれほどすごいのか!それならば師匠とは、どれほどすごい方か」と。これこそ真の師弟の関係だと思います。
 遠藤 次元は違うかもしれませんが、こんな話がある関西の方に教えていただきました。池田先生が関西で指揮を執られて、皆、本当に感動した。その池田先生が戸田先生のこととなると、真剣を抜くというか、粛然たる思いがするほど徹底して仕える態度であられた。
 戸田先生とは、どれほどすごい人なのかと思った――というのです。(中略)
 池田 本門に入って、それまでの教えを根底から覆してしまうのだね。迹門で諸法実相や二乗作仏、女人成仏、悪人成仏と、次々に重要な法門が明かされてきた。そして、智慧第一の舎利弗といった、いわば釈尊の最高の弟子たちが、やっとそれらの法門を領解して、授記を許されてきた。
 ところが、それらが一瞬のうちに無意味と化してしまう。なぜならば、そうした法門の前提となっている「土台」そのものが崩れてしまうからです。
 斉藤 「開目抄」に、『本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ』(御書197頁)とありますが、釈尊が「始成正覚の仏」という前提で説いてきた、それまでの成仏の因果を自らが否定したということですね。
 池田 そうです。「始成正覚」という仏果を否定したということは、それをめざしての仏因も同時に否定したことになる。今まで自分たちの信じていた成仏の因果が否定されてしまった。まさにコペルニクス的転回です。
 遠藤 コペルニクスと言えば、天文学における天動説から地動説への転回の時も、人々の“動執生疑“は大変でした。かつて先生がスピーチで、ジョルダーノ・ブルーノ(中世イタリアの思想家)の最期を紹介してくださいました。(池田大作全集69巻)。彼は、コペルニクスの太陽中心説を取り入れ、宇宙の無限性を原理とする新しい世界観を打ち立てようとしました。
 それは、「地球が宇宙の中心であり、大地が動くはずはない」と思い込んでいた、当時の人々の常識をひっくり返すものでした。
 須田 伝統的な世界観というものが、どれほど人々の意識を縛っていたか計り知れませんね。地動説について「たとえこの説が真理であろうと、私は信じたくない」と言う人も当時はいたそうです。
 池田 それが多くの人の偽らざる心情だったでしょう。「それを受け入れられない自分が無知と言われるなら、無知のままでいいとまで人々は思った。今まで自分が信じ、拠りどころとしていた常識が覆されるということは、大変な苦痛です。簡単には受け入れられるものではない
 本門で説かれる法門は、それ以上に衝撃的であった。何といっても、本門で初めて仏の三世常住が明かされたのです。ここに、釈尊のそれまでの教えを根本から覆す劇的な転回がある。仏陀観の革命なのです
(つづく)

2015年6月8日

地涌の菩薩(4)

 

<動執生疑(4)>

 

地涌の出現が人々に“仏陀観の大転換”を迫った
「自分とは何なのか」
万人を偉大なる自己へと導いていく

 

 斉藤 その大衆の驚きを代表して、弥勒菩薩が釈尊に質問します。「この無量の菩薩たちは、昔から今まで見たことがありません。世尊よ、どうかお話ください。彼らはどこから来たのでしょうか。何の因縁によって集まったのでしょうか」と。
 池田 有名な“弥勒の疑請(ぎしょう)”だね。この弥勒の“大いなる問い”が、釈尊が寿量品という真髄の教えを説くきっかけになっている。質問が大事です。
 斉藤 他方の国土から来た分身の諸仏に仕える侍者たちも、それぞれ自分の師である諸仏に弥勒と同じ質問をします。「地から涌き出た、この菩薩たちは、どこから来たのでしょうか」と。
 諸仏は侍者たちを、こう諭します。「しばらく待つがよい。あの弥勒菩薩は、釈尊に授記された弟子であり、釈尊に次いで、後に仏になる人である。仏は今、その弥勒の質問に答えられるであろう。よき聞いていなさい」
 池田 この表現もおもしろいね。釈尊に縁の深い菩薩や声聞たちのなかでも、弥勒が質問したことに深い意味がある。だから釈尊は、「すばらしい、すばらしい。弥勒よ、あなたは仏にそのような大事なことを質問した」とたたえた。
 斉藤 弥勒は一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩と言われ、釈尊の次に仏になるとされた菩薩です。釈尊の高弟の中の高弟です。その弥勒が質問したということは、迹門までの教えでは、未解決の大いなる問題が残されているということですね。
 池田 そう。一切衆生の中に仏の生命があることが分かって、成仏の記別を受けても、それだけではまだ不十分だったということです。
 寿量品の久遠実成(釈尊が久遠の昔に成道したこと)が明かされなければ、一切衆生の成仏の道は「絵に描いた餅」にすぎないからです。
 そのことは、くわしくは後に論じることにするが、ともかく釈尊の久遠の生命を明かすためには地涌の菩薩の出現が不可欠だった。弥勒の質問をきっかけとして、真実の教えが説かれていくわけです。
 すなわち釈尊は、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の獅子奮迅の力を顕しながら、いよいよ一番重要なことを説こうとする。
 須田 そして、釈尊の口から語り出された答えは、もっと驚くべきものでした。遠い昔から、この娑婆世界で自分が教化してきたのが、この地涌の菩薩だと明かしたからです。(中略)
 池田 大聖人は、『此の疑(うたがい)・第一の疑なるべし』(御書213頁)、『仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどう(同)じ一切衆生は疑網にかかるべし』(同頁)――仏がこの疑問を晴らされないならば、仏の一生の教えはアブクと同じであり、一切衆生は疑いの網にからまってしまうであろう――と述べられている。いわば一切衆生の成仏がかかった根本的な疑問です。
 須田 その驚きの内容ですが、まず、地涌の菩薩という、弥勒菩薩ですら見たことも聞いたこともない無量無数の菩薩たちが、涌出品で突如として大地の底から踊り出たということです。(中略)
 斉藤 しかも、その姿は、あろうことか、師である釈尊よりも立派です。にもかかわらず、釈尊にあいさつする彼らの態度は、じつに謙虚で恭(うやうや)しい。師への尊敬の心に、満ち満ちている。
 遠藤 その点、迹化の菩薩たちは師匠に対して、まだまだ尊敬の心が足りなかったのかもしれません。“馴れなれしい”といっては言いすぎでしょうが・・・。
 池田 弥勒は、釈尊の過去世の修行も知っている。また、法華経迹門で明かされた、万人が成仏できるという道理も熟知している大賢者です。その弥勒が、自分のそれまで信じていたことを根底から打ち破られた。これほどの無量の大菩薩に礼拝されている釈尊とは何者か。
 地涌という不思議なる「久遠の弟子」の姿を目の当たりにしたことによって、“師匠の真実は何か”“師の本当の境涯は何か”という問いにつながっていった。地涌の出現が人々に“仏陀観の大転換”を迫ったのです
 斉藤 「自分たちの考えていた世尊ではなかった。もっともっと偉大な仏様かもしれない。自分たちは師の本当の偉大さを知っていたのだろうか」と・・・。
 池田 そう。「雖近而不見」(すいごんにふけん、近しと雖も見ざらしむ)です。少なくとも、弥勒はそのことに気づいた。
 それはやがて、偉大な釈尊の弟子である自己自身への問いにつながっていったはずです。「この偉大なる世尊とともに生きる、自分とは何なのか」――と。
 人間が、自らの根源に具わる栄光へと誘われていく。それが、光輝満つ本門の展開なのです。無量無数の地涌の菩薩を呼び出すという壮大な説法によって、万人を偉大なる自己へと導いていくのが涌出品なのです
(つづく)

2015年6月6日

地涌の菩薩(3)

 

<動執生疑(3)>

 
地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。
勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。
理想的な組織の姿

 

 須田 一人一人の菩薩は皆、大衆のリーダー(唱導の首)であり、それぞれ六万恒河沙の眷属(仲間)を率いています。あるいは、五万、四万、三万恒河沙から千、百、十人などの眷属を率いて出現します
 一恒河沙は、インドのガンジス河の砂粒の数です。六万恒河沙はその六万倍の数ですから、とうてい計算できません。スーパーコンピューターでも無理かもしれません。
 遠藤 眷属とは、狭くは仏の親族をさしますが、広く言えば仏の教えを受ける者をすべてさします。
 池田 そう。地涌の菩薩の出現は、決して無秩序ではない。勢いよく、自由奔放でありながら、なおかつ整然たる行進の姿です。ある意味で、理想的な組織の姿とも言える。(中略)
 須田 地涌の菩薩たちは、まず宝塔の中にいる釈尊と多宝如来のもとに詣で、次に十方の世界から集ってきた無数の仏たちの所へ行って、それぞれの仏をさまざまな形で賛嘆します。無数の地涌の菩薩が無数の仏にあいさつするのですから時間がかかります。経文には「五十小劫」という長い長い時間がかかったが、釈尊の神通力で、会座の人々には「半日」のように思わせたとあります。
 遠藤 よほど充実した時間だったのでしょうね。退屈だったら一時間でも無限のように感じます。

 

荘厳の師弟の姿に驚く

 

 池田 地涌の菩薩が最高の儀礼によって仏を賛嘆するのは、じつは師弟不二の「永遠の生命」を賛嘆しているのです。“永遠即今”の充実した一瞬一瞬を生きているのが仏です。地涌の菩薩も、本当は“永遠即今”を生きる仏です。「仏」と「仏」の出会いです。だから楽しいのです。だから五十小劫も長くはないのです。
 このあと、地涌の菩薩を代表して、四人に大リーダーたち――上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が釈尊と対話を始めるが、その話題は民衆救済という大目的についてだね。
 須田 はい。彼らは釈尊に合掌して。こう語りかけます。「世尊よ、少悩少病であり、安楽であられるでしょうか」と。(中略)
 池田 釈尊の身を心から案じている姿が表現されている。釈尊に甘え放題で、時には疑ったり文句を言ったりする声聞たちとは態度がまったく違うようだね。
 次元は違うが、私もいつも戸田先生のご健康を気にかけていた。会えば必ず、お疲れではないか、ご気分はどうか、それはそれは気を使ったつもりです。そして、戸田先生はそれ以上に私の健康を気遣ってくださった。汗が出ている時など、「大、早くシャツを着替えなさい。カゼをひく」と言ってくださった。ありがたい師匠でした。
 地涌の菩薩と釈尊の会話では、お互いの心と心が通い合っている様子がうかがえる。一幅の名画のようだね。
 須田 ええ。釈尊は、「決して疲れてはいない。衆生を導くのは易しいことです。この諸の衆生は、過去世以来、私の化導を受けてきたのです。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのです」と答えます。大丈夫、心配するな、必ず皆を救ってみせるから――という大音声です。
 地涌の菩薩は釈尊をたたえます。「すばらしいことです。偉大な英雄である世尊よ。私たちも随喜します」と。随喜の心を起こす地涌の菩薩たちを釈尊もまた、たたえています。
 遠藤 こうした対話を見て、驚いたのは、ずっと法華経の会座にいる弟子たちです。今まで見たことのない光景が次々繰り広げられる。宝塔が出現し、十方の諸仏が集い、虚空会が行われた。これ自体、未曾有のことです。それでも何とか理解し、信じようとした。私でしたら、ここに至って頭の中が真っ白になったかもしれません。
(つづく)

2015年6月4日5日

地涌の菩薩(2)

 

<動執生疑(2)>

 

 娑婆世界の全国土が震裂し、

大地が割れ、

無数の菩薩が同時に出現

 

すべての人々の拠りどころとなる真のリーダー


 遠藤 地涌の菩薩は、涌出品の冒頭に出現します。ここまで、法華経の法師品(第十章)から安楽行品(第十四章)にかけては、釈尊が滅後の弘教をだれかに託すかが中心テーマでした。声聞たちは(未来に成仏すると)記別を受けて亜にもかかわらず、大変な娑婆世界を避けて、他の国土での弘通を望んでいます。
 それに対して、菩薩たちは勧持品(第十三章)で「三類の強敵が出現しても耐え忍び、弘教に励みます」とまで誓願しています。だれの目にも、これらの菩薩に妙法流布のバトンが譲られるだろうと思わせておいて、迹門は終了します。
 須田 そこで涌出品の冒頭では、他方の菩薩たちが、釈尊滅後に娑婆世界で妙法を弘めることを誓います。十方世界、すなわち全宇宙から集ってきた最高峰の菩薩たちの誓願です。釈尊が彼らに付嘱するだろうと、だれもが思うような展開となっています。
 斉藤 ところが釈尊の本門の第一声は、だれもが予期していない言葉だった。「止みね。善男子よ」(法華経451頁)。あなたたちが法華経を護持する必要はない、と。
 その時、虚空会に衝撃が走ったのでは、と思わず想像してしまいます。心臓が止まるような思いというか、皆、釈尊の言葉に我が耳を疑ったことでしょう。ところが、それに続く釈尊の言葉はさらに皆を驚かせました。
 須田 ええ、釈尊は続けて語ります。「なぜならば、この娑婆世界に六万恒河沙の菩薩たちがいる。彼らが弘めてくれるからだ」と。その時です。娑婆世界の全国土が震裂し、そこから無量の地涌の菩薩たちが出現します。その姿はあまりにも荘厳です。身は金色に輝き、三十二相(仏に具わる三十二の理想的特徴)を具え、無量の光明を放っている。
 池田 劇的な場面だね。じつに、ドラマチックな登場です。大地が割れ、無数の菩薩が同時に出現する。しかも、一人一人が黄金の輝きを放っている。一切経のなかで、地涌の菩薩ほど絢爛たる菩薩はないでしょう。あらゆる仏国土から集まった迹化・他方の菩薩ですら驚嘆している。
 大聖人は、迹化・他方の菩薩と地涌の菩薩とを対比して、あたかも、“猿の群れの中に帝釈天が出現したようなもの”と譬えられている。経文にも地涌の菩薩がどれだけ尊いかを説かれているね。
 須田 はい。それぞれの姿は「志念力は堅固にして、常に智慧を勤求し、種々の妙法を説いて、其の心に畏るる所無し」(法華経466頁)、「善く菩薩の道を学して、世間の法に染まらざること 蓮華の水にあるが如し」(法華経471頁)、「難問答に巧みにして其の心に畏るる所無く、忍辱の心は決定し、端正にして威徳有り」(法華経472頁)などと、描かれています。
 遠藤 まるで仏の姿そのものですね。
 斉藤 ある意味で、仏以上だったかもしれません。人々の目には、地涌の菩薩が人生経験の豊かな百歳の老人だとすれば、釈尊は二十五歳の若者にすぎないと映ったほどですから。大聖人は、この地涌の菩薩の姿を、『巍巍(=高く大きいさま)堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りむべし』(御書211頁)
 池田 大山のようにそびえ立って、すべての人々の拠りどころとなる真のリーダーということだね。
(つづく)

2015年6月3日

地涌の菩薩(1)

 

<動執生疑(1)>

 

人類の境涯を高める偉大な救済者群像

 

 遠藤 迹門から本門へ――。そこには、劇的な転回があります。というのも、本門に入ると、それまでの“常識”が大きく覆されるからです。その象徴となっているのが地涌の菩薩ではないでしょうか。
 須田 地涌の菩薩が出現するや、虚空会にいた菩薩たちは、動揺のあまり、疑いすら起こします。いわゆる“動執生疑(執着を動じ疑いを生ず)”です。
 池田 彼らの驚き。衝撃。疑問。それは、爾前・迹門の教えを信じてきたすべての仏教者の気持ちを代弁したものと言ってよい。
 動執生疑とは、それまでの信念が大きく揺らぐことです。いわば既成の世界観が根底から打ち破られるのです。人々が安住している価値観を劇的に打ち壊すことによって、釈尊の本地――真実の境涯が解き明かされていく。
 須田 「哲学は驚きから始まる」と言われています。またベルクソン(フランスの哲学者)も、「精神が(中略)驚きから驚きへ進む」(『哲学の方法』河野与一訳、岩波文庫)と書いています。その意味で、“動執生疑”は、仏教思想の大転換を促す“大いなる問い”であったと言えるかもしれません。
 池田 それは深くとらえると、人類の生命観、人生観、世界観、社会観を一変させる精神革命なのです。この涌出品と寿量品(第十六章)に秘められている意義を掘り下げていくことは、岐路に立つ現代文明の病根に抜本的な治療を加えることになる。
 須田 章のタイトルとなっている「従地涌出」とは、“釈尊の入滅後の正法の弘法者”が、大地の割れ目から涌いて出現したという意味です。地から涌出した菩薩なので地涌の菩薩と言います。
 池田 滅後とは、末法万年です。永遠性の未来ということです。はるかなる未来の果てまで、人類をどう救っていくのか。この大いなる責任感が、法華経には込められている。その責任と慈悲と智慧を体現しているのが、地涌の菩薩です。人類の境涯を高める偉大な救済者群像です。
 その先駆が私どもなのです。すごいことです。すごい使命の人生です
(つづく)

2015年1月31日

地涌の菩薩の「自覚」に立て

 

<すべてが変わる、喜びも、福運も、楽しみも>

 

 (昭和34年11月。倉敷支部結成での池田総務の指導)
 「しっかり団結して、一人一人が幸せになってください。自分自身が幸福にならずして、何で広宣流布のことが言えますか。自分自身が幸せにならずして、何で『学会のため』と言えますか。
 どうか、『御本尊様、こんなに幸せになりました。昨年より今年、先月より今月、昨日より今日、このように力が出ました。このように信心がすすみました。このように家庭が明るくなりました』と、御本尊に報告できるようになっていただくことを切望します」
 「私は皆さん方の代表として会長に就任しました。就任したからには、責任を果たし、学会員を守り抜き、幸せにしていかなければなりません。いつもこう思っています。
 しかし、一人の会長によって、広宣流布が達成しきれるものではない。地区部長、地区担当員(当時)の方々が、私と同じく戦っていただきたい。これが学会の根本の在り方です。
 そして、皆さん方が幸せになり、後輩が『あの先輩について本当によかった』と安心できる実証を示していかなければならないし、その責務があります。その意味で、私と心を一つにして、第一にも第二にも御本尊を根本として、功徳を受けられる信心、功徳を受けさせていく指導、ここに全力を集中して頑張っていただきたいのです
 「『皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』」(御書1360頁)
 「地涌の菩薩でなければ、絶対に唱えることのできない題目である。あとは自覚です。自覚によって、喜びも違う。福運も違ってしまう。楽しみも変わってきてしまう。ですから、今日から、『大聖人の一門なのだ。弟子なのだ』『自分は地涌の菩薩なのだ。今世に不幸な人々を救いにきたのだ』と、こう確信しきって題目をあげ、学会活動し、そしてまた生活闘争をしていってごらんなさい。そうすれば、もっともっと力強い、福運ある人生を歩めるのです
 「さらに題目をあげ、さらに朗らかに、さらに楽しく、さらに強い団結をもって、前進していこうではありませんか!」

 

大白蓮華No.782号2015.1月号12頁

2014年9月10日 第700回記念

地涌の底力で世界を変えゆけ!

    
 『一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり』(御義口伝巻下、790頁)
 地涌の菩薩の力――
 それは、権力にも非ず、財力にも非ず、学歴にも非ず、ありのままの人間の力であります。生命の究極の力であります。
 南無妙法蓮華経を唱え、広宣流布の誓願に立ち上がり、いかなる辛労もいとわず勇猛精進していく。
 そこに、何ものにも負けない、何ものにも屈しない、地涌の勇気が、地涌の智慧が、地涌の底力が滾々と湧き起こってくる。御本仏が、そう断言され、約束してくださっているのであります。
 ゆえに、私は申し上げたい。
 「君たち、貴女たちよ、地涌の底力で世界を変えゆけ!」と。


 二度の世界大戦で、人類が存亡の危機に直面した20世紀に、牧口・戸田両先生が、地涌の菩薩を呼び出されたのが、創価学会であります。
 どんな悪口罵詈にも怯まず、あまりにも健気な父たち、母たちと共に、私は、一人一人の宿命に戦いを挑みながら、紛然と競い起こる三障四魔も、三類の強敵も、断固として打ち破り、世界192カ国・地域に、「平和」と「文化」と「教育」の大連帯を築き上げてきました。
 40年前の9月、第一歩をしるして題目を染み込ませたロシアの大地でも、今、幾多の地涌の菩薩が大歓喜の舞を繰り広げ、社会に大いに貢献しています。


 「一番乱れた悪世に、一番大変な逆境の中で、一番苦しんでいる衆生を励まし、救っていくことを、自ら願い求めて、それぞれの使命の国土に出現したのが、地涌の菩薩であります。
 力のない地涌の菩薩はいない。
 慈悲のない地涌の菩薩はいない。
 難を乗り越えられない地涌の菩薩は絶対にいないのであります。
 私自身、青春時代から、病気も、経済苦も、事業の苦境も、国家権力の弾圧も、忘恩の裏切りも、狂気の如き迫害も、一切、勝ち越えてきました。


 師弟は「従藍而青」なるゆえに、後継の青年たちが、私以上の戦いをできないわけがありません。
 無上の栄光と勝利が待っています。

  

聖教新聞2014.9.7 世界広布新時代 第7回本部幹部会メッセージ

2014年5月4日

 「誓願」とは自身の生きる証しの異名

 

 混迷深まる時代に生まれることを自ら求め、失意に沈む人々のために行動する生き方を貫くことを、釈尊の前で「誓願」した地涌の菩薩(中略)
 ここで言う「請願」は、誰かが行動することを期待して事態の変化を待ちわびるような願望でも、状況が厳しくなった時にに吹き飛んでしまうような約束でもない。
 どんな困難や試練が押し寄せても、どれだけ歳月や労力がかかっても、成し遂げていく――自分の全存在を賭けた“生きる証し”の異名ともいうべきものに他なりません。

 

2014.1.26第39回「SGIの日」記念提言

2014年2月4日

いやまして、民衆凱歌の大行進

 
 いやまして
   凱歌の行進
     創価かな

 

 「生きる」とは、どんなことがあっても、前へ前へ戦い進んでいくことだ。
 何も決心せず、戦わなければ、気楽かもしれない。しかし、わびしく悔いを残す人生で終わってしまう。
 戦い進む人には、晴ればれと勝利が待っている。
 日蓮大聖人は、過酷な流罪の大難も悠然と勝ち越えてこられた御境涯を、こう仰せになられた。
 『召し返されて後又経文の如く弥よ申しつよる』(御書1413頁)
 この烈々たる御本仏の大生命に連なって、広宣流布の誓願に邁進しゆくのが、我ら創価の人生である。

 新時代の幕は上がった。今、日本、そして世界のあの友も、この友も、自分のいる場所から〝いよいよこれからだ!〟と、勇んで前進を開始している。
 それは、法華経に地涌の菩薩「同時に涌出せり」(創価学会版法華経452頁)と説かれたような壮大な絵巻ではあるまいか。
 我らが行くところ向かうところ、生命の偉大な創造性を発揮し、人間の勝利を広げるのだ。幸福と正義と平和の花を咲かせるのだ。
 この一年も、「民衆凱歌の大行進」を、全世界の同志と共に痛快に飾りゆこう!

 

2014.1.29聖教新聞 民衆凱歌の大行進[1]「師弟の道」一筋に 

2014年1月20日

偉大な心の王者の人生を!


 大事なのは行動である。
 誰が見ていなくとも、地道に友と語り、友を励ましていくのだ。
 派手さはなくとも、地位とか肩書などなくても、尊き庶民の同志から慕われる、偉大な心の王者の人生を歩んでいくことだ。
 メキシコの20世紀の詩人オクタビオ・パスは歌った。
 「私は目の前の一人一人を信ずる。どの命も、一見、素朴に見えても、大英雄に劣ることはない」
 いわんや学会員は、一人一人が地涌の菩薩である。一人一人が広宣流布の大英雄である。
 全力で励まし、その力を引き出していくことだ。それがリーダーの責務なのである。

 

2009.12.22全国代表者協議会でのスピーチ 

2014年1月3日

今いる場所こそ使命の大舞台!


 “地涌の使命”とは、広宣流布だ!
 自他共の幸せのために、勇んで大正法を語りに語り抜いていくのだ。苦難と絶望の淵から雄々しく立ち上がり、人間蘇生の大ドラマを演じ、仏法の偉大なる功力を証明するのだ。何があっても負けない、強靱にして豊かな心を培い、人格を磨き抜き、歓喜に満ちあふれた人生を生き抜くのだ。
 世界広布新時代の朝は来た。世界は、彼方にあるのではない。自分の今いる、その家庭が、その職場が、その地域が、絢爛たる使命の大舞台だ。世界広宣流布の中心地なのだ。
 さあ、立ち上がろう。元初の太陽を胸に!

 

大白蓮華No.770号2014.1月号31頁

2013年12月14日

大悪を大善に!

 

『(大事には小瑞なし、)大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、(普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり)』(御書1300頁)と。
 ゆえに、どんな大悪が競い起ころうとも、断じて嘆かない。決して怯まない。
 南無妙法蓮華経という「歓喜の中の大歓喜」の音声を響かせ、舞うが如く、踊るが如く、生き生きと生命を躍動させて、試練に挑み、戦い、必ずや大悪を大善へ転じてみせるのです。
 広宣流布の誓願に徹しゆく「地涌の菩薩」の信力・行力があるところ、妙法の広大無辺な仏力・法力は厳然と現れ、苦悩に満ちた娑婆世界も寂光土へと変えていくことができる。これが、御本仏のお約束です。

 

聖教新聞2013.12.10付メッセージ

2013年12月5日

根源のルーツこそ「地涌」

 

 自らのルーツを索(もと)めて
 社会は千々に分裂し
 隣人と隣人が
 袂を分かちゆかんとするならば
 さらに深く 我が生命の奥深く
 自身のルーツを徹して索めよ
 人間の〝根源のルーツ〟を索めよ
 そのとき 君は見いだすにちがいない
 我らが己心の奥底に
 厳として広がりゆくは
 「地涌」の大地――と!

 

 その大地こそ
 人間の根源的実在の故郷
 国境もなく 人種・性別もない
 ただ「人間」としてのみの
 真実の証の世界だ
 〝根源のルーツ〟をたどれば
 すべては同胞(はらから)
 それに気づくを「地涌」という!

 

法華経の智慧(中)

2013年11月19日

時来たり、地涌よ立ち上がれ!

 

 戸田先生は、「創価学会の歴史と確信」の中で、こうも言われています。

 「創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか」

 「時は、まさに来たれり。大折伏の時は、まさに来たれり」と。

 今、私たち一人一人が、新しい心で、地涌の使命に挑み立つことが、世界広布の新時代にふさわしい、わが発迹顕本にほかならない。

 人類は皆、本来、地涌の生命を持っています。その地涌の生命は、目覚めた地涌の生命に触れることで必ず触発されるのです。

 さあ、わが門下の君たちよ、貴女たちよ、新鮮なる人間革命の舞台へ、新しい自分自身の生命で生き生きと立ち上がれ!

 明日の世界が待っている。未来の人類が、創価の地涌の大行進を待っている。

 君のいるその場所で  地球上のあらゆる場所で、広布に生きるわが生命の「歓喜の中の大歓喜」の勝鬨を、誇り高く響かせていこうではないか!平和の人間世紀へ!

 
大百蓮華No.768号2013.11月号49頁

2013年11月13日

いよいよ衆生所遊楽 

 

  戸田先生は、私たちに呼びかけられました。
 「『衆生所遊楽』――すなわち我々は楽しむために、この世に生まれてきた。自分も幸せになり、人も幸せにすることを広宣流布というのだ。大変であればあるほど、我らはいよいよ楽しく戦おうではないか!」と。
 新たに完成した「広宣流布大誓堂」を中心に、創価という無限の希望のスクラムを、さらに、一段と大きく広げながら、私たちの誓願の星である、この地球の未来を赫々と照らしていこうではありませんか! 
 
 「君と我 地涌の誓いの 勝利舞」
 
聖教新聞2013.11.10付

2013年11月9日

 世界宗教の根本条件 

 

 法華経神力品には、釈尊から別付嘱を受けた上行菩薩の姿が説かれています。
 「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅し」(法華経575頁)
 牧口先生も、御書に引用された、この一節に力強く線を引かれていた。
 地涌の菩薩は、赫々たる勇気の大光です。
 孤独で不安な夜を歩む友の前を、温かく照らすのです。
 絶望の涙を拭い、その眼前に希望の光を送るのです。無明の闇を破り、慈悲と智慧の光明で生命を照らすのです。
 ここで「衆生の闇」といっても、それは、抽象的な話ではありません。今、現実の目の前の「一人」の闇を照らすかどうかです。
 この一人と向き合い、その人に生きる希望と勇気を与え、自らの人生の幸福を開く原動力となる宗教かどうか 眼前の一人を蘇生させることが、世界宗教の根本条件です。
 「一人を手本として一切衆生平等」(御書564頁)です。それを創価学会は、この地球のここかしこで証明してきたのです。
 
大白蓮華No.768号2013.11月号46頁

2013年11月8日

 世界広布第二幕の出発 

 

 「地涌」――なんと力強い、なんと生き生きとした、なんと自由でダイナミックな生命の息吹に満ちた言葉でしょうか。
 「地涌」――なんの虚飾もなく、それでいて、なんと誇り高い響きでしょうか。ありのままの人間の底力が迫ってくるではありませんか。
 「地涌」――ここにこそ、私たち「創価学会の使命」の出発点があります。
 (中略)
 民衆が、尊き広布への使命と自身の底力に目覚めて、あらゆる壁を破り、前へ前へと進む、あの誇らしげな足取り!
 正義に燃えた青年たちの勢い!
 清新な乙女たちの花の乱舞!
 朗らかな母たちの輝く笑顔!
 不屈の父たちの力強い足音!
 未来を担う少年少女たちの弾んだ声!
 (中略)
 創価の地涌の大行進は、まさに、我らの住む全地球が舞台となりました。
 御聖訓に云く、「日は東より出でて西を照らす仏法も又以て是くの如し」(御書、508頁)と。
 仏法の人間主義の太陽は天空に昇り、世界を燦々と照らし始めました。創価の未曾有の前進によって、「仏法西還」は現実のものとなったのです。
 (中略)
 そして、広布誓願の大殿堂が完成し、全同志が新たな前進へと歓喜踊躍しゆく時を迎えました。
 今、威風堂々たる広布の基盤は完璧に出来上がり、いよいよ、世界広布の第二幕の出発が力強く始まったと、私は宣言したいのであります。
 
大白蓮華No.768号2013.11月号34頁

2013年11月5日

 自身の発迹顕本で、誓願を果たせ! 

 

 「時」といえば悪世末法、その「国土」をいえば娑婆世界が、地涌の菩薩の使命の舞台です。一番大変な条件を選んで、一番苦しんでいる民衆のために、〝ここで戦う〟と立ち上がったのです。
 仏法では「願兼於業」を説きます。
 人びとを救うため自ら願って困難なところに生まれたのであると、受動的な人生から、自発能動の人生に転換するのです。自らの誓願で「宿業を使命に変える」のです。
 久遠の使命の自覚によって、新たな自分に生まれ変わる。自身の発迹顕本をして、本当の自分の力を解き放つのです!
 地涌の生命に目覚めた人に、何も恐れはありません。多くの人を救う使命に立てば、勇気も湧くし、力も出る。
 なんと不思議な宿縁でしょうか。
 なんと偉大な誓願でしょうか。
 
大白蓮華No.768号2013.11月号43頁

2013年11月4日

 地涌の菩薩は「同時」に涌出 

 

 私どもの創価の広宣流布運動は、世界中から地涌の菩薩を呼び出し、大いなる平和と希望のうねりを広げゆく「民衆の大行進」ともいえましょう。
 「大悪をこれば大善きたる(中略)各各なげかせ給うべき」(御書、1300頁)と悠然と宣言なされた御抄には、さらに、「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(同頁)と仰せです。
  地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩は、舞を舞うが如く大地から勇んで踊り出てきたと言われています。しかも、上行菩薩一人だけではありません。「同時に涌出せり」(法華経452頁)です。無量無数の地涌の菩薩が一緒に躍り出たのです。
 
大白蓮華No.768号2013.11月号46頁
 
※世界広布新時代の幕開けは、無数の地涌の菩薩の「同時」の出現の時なのです。そして、その方々が一同に会するのが総本部なのです。(サイト・マスタ) 

2013年11月2日

 地涌の底力は幸福と平和の価値創造 

 

 地涌の使命は、あまりにも大きい。あまりにも崇高です。
 民族や人種、国籍や性別など一切の差異を超え、生命の大地の奥深くに広がる大いなる創造的生命――人類共通のルーツに基づく使命といってもよい。それに気づくことを「地涌」というのです。
 いかなる人も尊極の生命の当体です。互いに励まし合い、尊敬し合いながら、今この地上に生きる仲間として、自他共の無限の可能性を開き、幸福と平和という価値を創造する底力がある。偉大な使命があるのです。
 その使命に生きることを誓って現実社会に踊り出たのが、私たちなのです。
 
 大白蓮華No.768号2013.11月号巻頭言

世界広布新時代

創立90周年へ

前進・人材の年

(2020年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2020.6.1

第1682回

  

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL