折伏

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2022年2月11日

第1900回

これ以上の大事業がどこにあるのか!

 

<苦悩の民衆を、永遠に根本から救うこと>

 

 有名な「諸法実相抄」には仰せである。

 「行学の二道をはげみ候べし、行学たへ絶なば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候」(御書1361㌻)

 この御聖訓のままに、信・行・学の大道を、喜び勇んで前進したい。そのなかで、新しい人材を育てていきたい。折伏は、難事中の難事である。たとえ、思うような結果がすぐには出なくとも、くよくよする必要は、まったくない。

 戸田先生は、厳然と断言なされていた。

 「苦しみにあえぐ民衆を、永遠に根本から救うことは、平凡な動機などでは考えられぬ大事業だ。これ以上の大事業がどこにあるのか!」

 最極の仏の聖業を成し遂げていく誇りに燃えて、伸び伸びと、また朗らかに、そして自信に満ち満ちて、「幸福」と「希望」と「平和」の対話を、幾重にも広げてまいりたい。

 日蓮大聖人は、千日尼に仰せである。

 「いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼が必ず憎むであろう。憎むなら憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とは、こういう人をいうのである」(御書1308㌻、通解)

 何があろうとも、ひるんではならない。退いてはならない。大聖人の毅然たる御心を拝すれば、無限の勇気がわいてくる。ただ御聖訓のとおり、御金言のとおりに進んでいく。この「如説修行」の実践にこそ、揺るぎない勝利の軌道がある。

2006年2月10日 婦人部代表幹部協議会

 

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2022年1月23日

第1873回

戸田先生の四回忌法要

 

<正義の証明>

 

 四月二日は、

 山本伸一が会長に就任して初めての、

 第二代会長・戸田城聖の祥月命日であった。

 この日、戸田の四回忌法要が、

 東京・池袋の常在寺で、

 午後一時過ぎから営まれた。

 

 午前中は晴れていたが、

 伸一が会場に到着した正午ごろには、

 空はにわかにかき曇り、

 大粒の雨が降り始めた。

 風も激しく、雷鳴が轟いた。

 春嵐であった。

 伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、

 〝嵐のなかを進め!〟との、

 戸田の指導であるかのように思えてならなかった。

 

 彼は、一九五一年(昭和二十六年)の

 七月十一日に行われた、

 男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。

 その日も、激しい雨であった。

 結成式の席上、戸田は、

 淡々とした口調で、

 

 この日の参加者のなかから、

 必ずや、次の学会の会長が現れるであろう

 と語った。

 

 そして、広宣流布は絶対に

 やり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、

 日蓮大聖人の仏法を、

 東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。

 

 その戸田が逝いて、はや三年が過ぎた。

 伸一は、その間の戦いに、

 いささかも悔いはなかった。

 戸田に向かって、

 弟子として胸を張って報告できる

 自分であることが嬉しかった。

 

 法要が始まった。

 日達法主の導師で勤行・唱題したあと、

 各部の代表らがあいさつに立ち、

 最後に伸一の話となった。

 伸一は、マイクの前に立つと、

 一言一言、噛み締めるように語り始めた。

 

「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に

 会長に就任なされた時、

 嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。

 その前に、事業が窮地に陥り、

 悪戦苦闘されたことから起こった

 批判でありました。

 会長として立ち上がられた戸田先生は、

 そのころ、幾度となく、

 こうおっしゃっておりました。

 

 『今、私は百年先、

 二百年先を考えて立ち上がり、

 戦っている。

 だが、人びとには、それはわからない。

 しかし、二百年たった時には、

 私の行動が、私の戦いが、

 全人類のなかで、

 ただ一つの正義の戦いであったということが、

 証明されるであろう』

 

 先生は二百年先と言われましたが、

 先生が亡くなってたった三年で、

 その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、

 証明されようとしています」

 

 参列者は、目を輝かせながら、

 話に耳をそばだてていた。

 静まり返った場内に、

 師子吼のような伸一の声が響いた。

 

「今や、不幸に苦しんできた民衆が、

 戸田先生の教え通りに信心に励み、

 偉大なる功徳を受け、

 見事に蘇生した姿が、

 全国津々浦々にあります。

 この民衆の蘇生こそ、

 誰人もなしえなかった、

 最大の偉業にほかなりません。

 しかも、それは日本国内にとどまることなく、

 南北アメリカへ、

 アジアへと広がっております。

 これこそが、

 先生の正義の確かなる証明であります。

 

 先生のご精神は、

 御本尊を根本に、

 この世から不幸をなくし、

 平和な日本を、

 平和な世界を築くことにありました。

 そのために、折伏の旗を掲げ、

 広宣流布に一人立たれました。

 

 私どもは、戸田門下生でございます。

 先生が折伏の大師匠であれば、

 弟子もまた、

 折伏の闘将でなければなりません。

 私たちは、毎年、

 先生のご命日を一つのくぎりとして、

 広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。

 私は、戸田門下生の代表として、

 『広宣流布は成し遂げました』と、

 堂々と先生の墓前にご報告できる日を、

 最大の楽しみに、進んでまいります。

 しかし、もしも、それができない場合には、

 後に残った皆さんが、

 同じ心で、広宣流布を成就して

 いただきたいことを切望し、

 私のあいさつといたします」

 

 法要が終わると、

 伸一は窓の外を見た。

 いつの間にか、嵐はやんでいた。

 庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、

 雲間から差す太陽の光を浴びて、

 微風に揺れていた。

 戸田の葬儀の日に、

 別れを惜しむかのように、

 花びらを散らしていた木である。

 咲き香る花を妬むかのごとく、

 吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 72頁~75頁

2021年11月27日

第1802回

家族(夫)の折伏

 

<思いやりにあふれた良き妻、良き母に!>

 

 香港島に渡るフェリーのなかで、伸一は岡に話しかけた。

 「今回、岡さんのご主人とお会いできなかったのは残念だったね」

 「申し訳ありません。仕事が忙しいようなんです。それに、まだ信心ができずにいるものですから……」

 「ご主人に信心をさせようと決意するのは当然ですが、家のなかで、信心のことでケンカをするようなことがあっては、絶対にいけませんよ。

 ご主人に対しては、どこまでも妻として愛情をもって接していくことです。

 壮年の場合は、会社での立場や、自分なりの人生観もあるから、すぐには入会しないかもしれない。しかし、信心によって奥さんが健康になり、子どもさんがすくすく育っていく姿を見ていけば、必ず信心します。

 自分の家族の折伏は、理論ではなく、実証がことのほか大切になる。特に人間的な成長が肝要です。つまり、あなたが、どれだけ、思いやりにあふれた良き妻となり、良き母となるかにかかっている。そして、根本は祈りしかありません。お題目の目標を決めて、願い切っていくことが大事です」

 伸一は、岡が香港の婦人のリーダーとして、自在に力を発揮できるように、彼女の夫のことを、気遣っていたのである。

 

<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 77頁~78頁

 

2021年11月16日

第1786回

弘教がなかなか実らない友へ

 

 <"幸福になってほしい"という心>

 

 「女子部の皆さんのなかには、『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、お願いしたことは、ただの一度もありません。

 大聖人が、折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。しかも、それが友を救い、社会の繁栄と平和を築く源泉となっていく。これほどの〝聖業〟はありません。

 なかには、一生懸命に弘教に励んでいても、なかなか実らないこともあるかもしれない。こう言うと、女子部長に怒られてしまうかもしれませんが、皆さんは、まだ若いのですから、決して、結果を焦る必要はありません。

 布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。

 大切なことは、〝あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい〟という心で、周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです今は信心しなくとも、こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。

 また、幹部は、弘教が実らずに悩んでいる人を追及したり、叱るようなことがあってはならない。むしろ優しく包み、仏の使いとして、懸命に生きようとしている姿勢を讃え、励ましてあげていただきたい。

 さらに、いろいろな境遇や立場で、思うように活動に参加できない人もいるでしょう。そのメンバーに対しても、『必ず春が来るように、時間的にも余裕がもてる時が来るから、その時はいつでもいらっしゃい』と言って、温かく励ましてほしいのです。

 ともあれ、私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、幸福の道を進んでまいろうではありませんか」

 弘教の意気に燃えている人には大歓喜がある。そこには、地涌の菩薩の生命が脈動するからだ。伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。

 

<新・人間革命> 第2巻 民衆の旗 270頁~272頁

2021年11月5日

第1772回

2020年3月25日第1656回

「折伏」と「人材育成」は

”広布前進”の両輪

 

<「弘教の完結」>

 

 彼は、海外指導のことについては、ほとんど触れなかった。伸一は、留守中の同志の健闘を讃えたあと、こう語り始めた。

 「日蓮大聖人は、師子王は蟻の子を捕る時も、獰猛な野獣に挑む時も、〝前三後一〟といって、三歩前に、一歩後ろにという万全の構えで、全精力を注ぐと仰せですが、これは、広宣流布の活動を進める私たちにも、相通ずる原理ではないかと思います。

 そこで、十一月、十二月は、弘教に全力をあげ、一月は、徹底して同志の信心指導に力を注いでまいりたいと思います。家庭指導、個人指導は、最も地道で目立たない活動ですが、信心の『根』を育てる作業といえます。根が深く地中に伸びてこそ、天に向かって幹は伸び、葉も茂る。同様に、一人ひとりの悩みに同苦し、疑問には的確に答え、希望と確信をもって、喜んで信心に励めるようにしていくことが、いっさいの源泉になります

 同志のなかへ、そして、その心のなかへ──山本伸一の話の主眼はそこにあった。

 「折伏の目的は相手を幸せにすることであり、それには、入会後の個人指導が何よりも大切になります。皆さんが担当した地区、班、組のなかで、何人の人が信心に奮い立ち、御本尊の功徳に浴したか。それこそ、常に心しなければならない最重要のテーマです。

 本年は十二月まで折伏に励み、明年一月は『個人指導の月』とし、人材の育成に力を注いでいくことを発表して、私の本日の話といたします」

 弘教が広がれば広がるほど、新たに入会した友にも、信心指導の手が差し伸べられなければならない。信心をした友が、一人の自立した信仰者として、仏道修行に励めるようになってこそ、初めて弘教は完結するといってよい。

 三百万世帯に向かう〝怒濤の前進〟のなかで、その基本が見失われ、砂上の楼閣のような組織となってしまうことを、伸一は最も心配していたのである。

 また、世界広布といっても、今はその第一歩を踏み出したばかりであり、広漠たる大草原に、豆粒ほどの火がともされた状態にすぎない。それが燎原の火となって燃え広がるか、あるいは、雨に打たれて一夜にして消えてしまうかは、ひとえに今後の展開にかかっている。そのためにも、今なすべきことは、一人ひとりに信心指導の手を差し伸べ、世界広布を担う真金の人材に育て上げることにほかならなかった。

 折伏と人材の育成とは、車の両輪の関係にある。この二つがともに回転していってこそ、広宣流布の伸展がある。

 

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 175頁~177頁

2019年3月16日

第1585回
なぜ、あえて折伏をするのか

<創価学会こそ「幸福と希望の安全地帯」>

 

 牧口先生が、鹿児島県出水市出身の一教育者に、このはがきを書かれたのは、一九四〇年(昭和十五年)の三月三日――六十二年前のきょうであった。
 牧口先生と九州は縁が深い。その九州のなかでも、鹿児島の友の健闘が今、光っている。
 はがきを受け取った方は、小学校の校長であった牧口先生のもとで、教員として、約六年間、薫陶を受けた。
 「私の人生において、もっとも幸福な時代であった」と、回想しておられる。
 ただし、尊敬する牧口先生の指導であっても、信心の話だけは、なかなか素直に聞けなかったようだ。牧口先生のはがきでも「(あなたは)話がいつものように信仰のことになるのを好まれないようですが……」と、わざわざ前置きをされている。(原文は「話はいつも信仰の事にとか……」)
 なぜ、あえて折伏をするのか――牧口先生は「価値論」を通しながら、理路整然と説明されていく。原文は古い文体なので、わかりやすくすれば、次のようになる。
 ″私の信仰は、目先の小さな利益よりも大きな利益、小さな法よりも大いなる法、さらに枝葉よりも根本、部分的なものよりも全体的なもの、というように、次第に高い次元の法則を追求した結果、到達したものなのです″
″ひとたび、この最大最善の人生の法則に到達できた以上、それを人々に教え、弘めていくのは当然のことです。そうでなければ、慳貪(ケチで無慈悲なこと)の罪になってしまうでしょう
 そして、牧口先生は、この青年教育者に、創価教育学会への入会を勧める。
 ″(あなたも)その教えをもって、少しでも早く安全地帯にたどりつけるように、(正法を信ずる者として)ともに人生を送りゆくことを希望しております″
 ――あなたは今、安全地帯にいないのですよ。「信心の世界」こそ「生命の安全地帯」なのです。そこで、ともどもに「すばらしい人生」を生きていこうではありませんか!
 こういうお気持ちであられたのであろう。
 (この方は、このはがきから十八年後の一九五八年〈昭和三十三年〉に入会。七六年〈昭和五十一年〉には『略解 創価教育学入門』を出版している)
 私は、ある青年を励まされた戸田先生の言葉が忘れられない。
 罪を犯して牢獄に行く青年に対して、「絶対に信心を忘れるな。わが創価学会から、いかなることがあっても離れるな」と戸田先生は言われた。
 この言葉を抱きしめ、青年は苦境を乗りきった。人間として成長していった。
 創価学会こそ「幸福と希望の安全地帯」なのである。

 

2002年3月3日第十五回本部幹部会、第四回九州総会、第二回芸術部総会

2017年3月26日

折伏する人は
学会の「宝の中の宝」

 

<折伏は本当にすごい>

 

真実の平和と文化の花咲く社会をつくる直道

 

 わが師・戸田城聖先生は叫ばれた。
 「人材、人材の創価学会でいけ!」
 人材をつくる最重要の道は折伏・弘教である。
 折伏は、人を根本的に育てる。生命力を強くする。
 そして真実の平和と文化の花咲く社会をつくる直道は、結局、妙法を弘めることだ。
 いかなる善事よりも百千万億倍すごいと説かれている。
 折伏することが、なぜ、すごいか。
 その友を永遠に仏としていけるからである
 何があろうと絶対に壊れない、幸福の人生を、共々に歩める。
 だから功徳は大きい。
 妙法をどれだけ弘めたか。
 その歴史は、後になるほど光る。
 人生、いろいろな思い出があるが、折伏が何よりの金の思い出となる。
 積極的に行動し、交流することだ。
 それが折伏に通ずる。
 御聖訓に『南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思い出なるべき』(御書467頁)と仰せの通りだ。
 生命の法則に則った無上の行為であり、永遠不滅の思い出である。
 折伏は大変だけれでも、大成長の因となる。
 苦しんだ分だけ、実は幸福なのである。
 仏の使いは、折伏しかない。
 折伏をやっている人は、仏になる。
 その人は、仏法の、また学会の「宝の中の宝」だ。
 最高に尊い。
 折伏は本当にすごいことなのである。

 

2012年2月5日付 聖教新聞 今日も広布へ①

2017年3月8日

折伏精神で

強く強く前に出なさい!

 

<引っ込み思案は大きな欠点>

 

 広宣流布の戦は断じて勝つことだ。
 勝ってこそ正義である。
 自身のため、
 一家のため、
 わが愛する地域のために、
 勝ちまくっていただきたい。
 戸田先生は呼びかけられた。
 「しっかりと信心で立ち上がることだ。
  いかなる戦いも、折伏精神を大いに盛り上げて断じて勝つことだ!」
 「引っ込み思案は大きな欠点である。
  強く強く前に出なさい!」
 折伏精神で、強き信心で進もう!

 

2009年4月14日 全国代表協議会

2016年10月31日

目先の結果に一喜一憂するな!


 戸田先生は言われた。
 「友の幸せを祈り、妙法を語ることは、最高の友情だ。すぐに信心しなくても、必ず信頼が残る。友のため、法のために悩むことは、衆生を救わんとする仏の悩みに通じているのだ
 目先の結果に一喜一憂することはない。今蒔いた種が、友の生命に幸福の花を咲かせる時が来る。今の労苦が自身の生涯の土台となることを確信されたい。

SGI会長と共に 新時代を創る 28(抜粋)

2016年8月1日

弘教を焦ってはならない

 

<一度結んだ仏縁は、時を得て必ず、

芽を出し、花開いていくからである>

 

 (前略)「弘教を焦ってはならない」ということである。
  大聖人の仏法は「文底下種の仏法」である。自らが題目を唱えつつ、広く仏縁を結び、妙法に触れさせていくところに、修行の根本もある。したがって相手が信仰するかどうかは、また別の問題である。法を聞かせる「聞法下種」も、御本尊を受持させる「発心下種」も、ともに、まったく同じく、立派な弘教である。功徳にも何の変わりもない。
  人類の多くは、まだ、この大法の教義も、名称をも知らない。その人々の心に、「妙法の種子」すなわち幸福と平和への種子を植えていくのが、私どもの使命である。そのさい、私どもが友人と親しく交際し、誠実に心を通わせていくならば、それ自体が仏縁につながる場合がある。また、その人々の幸福を祈っていくことが大事であり、ある時には自然のうちに、わが下種仏法の話をすることもあろう。
  しかし、決して、信仰のことで論争したり、無理をして互いに感情的になったりしてはならない。どうしても信仰させてあげたいという真心は真心として、あせったり、窮屈に考えることは誤りである。一度結んだ仏縁は、時を得て必ず、芽を出し、花開いていくからである。

 

 1989年6月3日スウェーデン文化会館がオープン(抜粋)

2015年12月21日

折伏を楽しくするには

 

<大きな心で、ほめ讃えればよい!>

 

「何人やらないといけない」とか

決めつけてはいけない!

 

 心豊かにやるのです。楽しくやるのです。
この世に生れて、一言でも妙法のことが説けるなんて最高の栄誉だと、感謝して、誇りをもって、笑みをたたえて、やるのです。
 それを「何人やらないといけない」とか決めつけると、心に負担になってしまう。苦しくなってしまう。皆の心を重くして、広宣流布が進むわけがない(笑い)。
 心を軽くしてあげるために指導者がいるんです。みんな、その反対をやっている。
 勇気を与えるんです。希望を与えるんです。大きな心で、ほめ讃えていくんです。
 もちろん自分が目標をもつことは大切です。そして「会員に一人のこらず大功徳を受けさせるんだ」という祈りがあれば、その心は必ず通じます。
 大功徳を受けさせるために、おだやかに信心のことを一生懸命語って、「一緒に頑張りましょう」「もっと健康になり、もっと皆で長生きしましょう」「皆で、すごい二十一世紀を迎えましょう」励まし合っているところは、大騒ぎしなくても伸びています。
 妙法のことを、ほめ讃えていけば、それが立派な折伏なのだから、相手が入会するかどうかは別問題で、語っただけでも功徳はちゃんとあるのです。
 スポーツとかピアノとかでも、しょっちゅうやっていれば、力がつく。それと同じように、折伏もできるときにやっておくことです。その福運が、自分の一族、子孫をも守っていくのです。
 ともあれ、折伏を地道にやってきた人は、福運の土台がコンクリートのように固まっている。強い。魔に破られない。弘教の修行を避けた人は、どんなに偉くなっても、メッキのように、いざという時に堕ちてしまう。


法華経の智慧 嘱累品 第二十二章

2015年12月19日20日

『御本尊は本当にすばらしい』

となればよい!

 

<弘教は御本尊をしっかり拝むことだ

ほかに何の方法もない!>

 

 自行化他の両方があって、宇宙のリズムに合致してくる。天体の自転と公転のように。
 「自行」が進めば進むほど、「化他」も進む。
 「化他」が進めば「自行」も深まる。
 弘教について、戸田先生はよく「御本尊を、しっかり拝むことだ。ほかに何の方法もない!」と言われていた。
 「真心が通じますように」と祈るのです。
 「如来の使いとして、今世の使命を果たさせてください」と祈るのです。
 仏法は勝負です。戸田先生は勝負に厳しかった。体育大会の騎馬戦なんかでも、負けそうなチームに、先生が少しアドバイスされると、不思議に勝ったものです。
 一方、弘教について、戸田先生は、こう言われたこともあった。
 「なかには、折伏のできない人もいる。口べただとか、気があまり良すぎるとかいう人は、折伏はあまりできないが、本人は喜んで信仰している。それならそれでいいのである。それを『あなた! 折伏しなくちゃだめよ!』とか言う人がいる。だめよと言ったって、本人ができなければ、しょうがないではないか。本人が御本尊をありがたいと思っているなら、それでいいのだ。
 ただその人を、本当に信心させるようにすればよい。『御本尊は本当にすばらしい』ということが、ちゃんとわかってくれば、自然に、その人は他の人に言う。それがそのまま、折伏になるのだ」と。


法華経の智慧 嘱累品 第二十二章

2015年7月20日

「聞法下種」そのものが「折伏」

  
 日蓮大聖人は、この経文について、より深く、「御義口伝」に仰せである。
 『此の文は一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして大乗無価(だいじょうむげ)の宝珠を研き顕すを生値仏法と云うなり所謂南無妙法蓮華経の仏法なり』(御書793頁)
 ――この文(「宿福深厚生値仏法」)は、たとえ一句でも妙法に縁を結ぶならば、その宿福は億劫という計り知れない長遠な年月の間にも、決して失われることはない。そして、大乗教の究極である無上に高価な宝珠、すなわち衆生の胸中にある仏の尊極の生命を磨き顕していくことができる。これを「仏法に生まれ値えり」というのであり、その「仏法」とは南無妙法蓮華経の仏法なのである──と。
 少しでも妙法に結縁するならば、その福徳は永遠に消えることはない。(中略)
 大聖人の仏法は「下種仏法」である。南無妙法蓮華経に少しでも結縁しただけで、仏種は消えることなく、いつか芽を出す。ゆえに、その大切な仏縁を結ばせる「弘教の人」「実践の人」の福徳も計り知れない。(中略)
 大聖人の仏法を少しでも語っていく、友情の縁を結んでいく――。たとえ、その時には相手が信心しなくても、仏種を植えていく「聞法下種」そのものが「折伏」である。相手が発心した場合と、まったく変わらぬ偉大な功徳があることを確信していただきたい。

 

1991.12.8 第49回本部幹部会・埼玉総会

 

2015年7月8日

昭和三十二年の荒川区夏季ブロック指導

 

<一週間で二百数十世帯の弘教>

 

戦いの原動力

 
 同乗していた幹部が、伸一に尋ねた。
 「先生は、昭和三十二年の夏季ブロック指導で荒川区を担当し、わずか一週間で区の会員世帯の一割を超える二百数十世帯の弘教を成し遂げられました。その戦いの原動力は、なんだったんでしょうか」
  山本伸一は、言下に答えた。
 「みんなに、絶対に幸せになってもらいたいという一念です。あのころ、どの人も貧しく、失業や病、家庭不和など、さまざまな悩みをかかえ、宿命に押しつぶされそうだった。
 それを打ち破り、宿命を転換していく道は、皆が地涌の使命を自覚し、広宣流布の戦いを起こす以外にない――私は、同志と会っては、そのことを叫び抜いたんです。
 皆、期間は短かったが、″この戦いで、弘教を成し遂げ、悩みを乗り越えてみせる″と懸命に唱題した。勇気をもってぶつかり、必死になって戦った。誰かに言われての戦いではなく、自身の生命の内から噴き上がる闘魂の実践になっていったんです。
 幸せになるための信心であり、学会活動ではないですか。全部、自分のためであり、それがそのまま、社会の繁栄を築いていくことにもなるんです。
 この活動のさなかも、その後も、多くの人から、苦悩を克服したという功徳の報告を受けました。
 学会の勝利の歴史といっても、同志が仏法への確信を深め、歓喜と幸せを実感してこその勝利であることを、リーダーは決して忘れてはならない
 同行の幹部は、自分が忘れていた、いちばん大事なことに、気づかされた思いがした。
 「さらに、私が荒川区で力を出し尽くすことができた最大の理由は、″広宣流布の後事は、すべて大丈夫です″と言える拡大の実証を、戸田先生にご覧いただこうと、決意していたことです」
 伸一は、その時の心情を思い起こした。そして、唇を固く結び、彼方を凝視した。
 それから、心の糸を紡ぐように、ゆっくりと言葉をかみ締めながら語り始めた。
 「あの年(一九五七年)の夏、戸田先生は、夕張炭労事件、大阪事件と心労が重なり、体調を崩しておられた。学会は、六月末には会員約六十万世帯となり、先生が生涯の願業とされた七十五万世帯達成の頂は見え始めていた」
 山本伸一は、車で荒川文化会館の周辺を巡りながら、話を続けた。
 「会員七十五万世帯の達成は、戸田先生の人生の総仕上げとなる戦いだった。なんとしても、この昭和三十二年(一九五七年)中には、それを成し遂げ、先生にご安心していただきたかった。
 そして、私は、その原動力になろうと思ったんです。それは同時に、未来にわたって、広宣流布の拡大の在り方を示すことにもなる。
 師匠の総仕上げの戦いというのは、弟子の大成を見届けることです。つまり、弟子が、『先生! わが勝利を、ご覧ください!』と、師匠に胸を張って報告できる実証を示すことなんです。それが、師弟不二です。
 私は、そう心を定めたからこそ、力が出せた。勇気と智慧を湧かせることができた。
 ″広宣流布の師匠に応えよう!″と、弟子が燃え立つ時、師匠の師子王の生命が、わが胸中に脈打つんです。つまり、師弟不二の自覚に立てば、師と共に広宣流布の大使命を担う、久遠の自身の生命が脈動する。そこに、最大の力がみなぎるんです
 家々の屋根の向こうに、荒川文化会館が見え隠れしていた。伸一は、その白亜の建物を眺めながら、感慨を込めて言った。
 「荒川区には、人情がある。庶民の心の温もりがある。しかし、近年、次第に、その心が失われつつあるようだ。道路は整備され、外観は美しくなっても、それがなくなれば、無味乾燥な町になってしまう。
 だから、学会員が、人と人とを結び、温かい人情を通わせ合っていくんです。これが、地域広布ということなんです。

 


 小説新・人間革命 26巻 奮迅

2015年4月19日20日

折伏とは真実を語ること

 

<やさしく教えるという気持ちです。

恋愛みたいなものです。>

  

 池田 なにか“強引”であることが折伏だと思い込んでいるとすれば、それは大変な勘違いであり、誤りです。
 折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏の経典」と呼ばれる。
 末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、「折伏」です
 たとえば、掃除をするのに、力強く掃除するのも、静かに掃除するのも、要は、きれいになればいいわけです。
 須田 「折伏」という文字のイメージが、少し“こわい”感じだからでしょうか。
 池田 折伏は、喧嘩をしにいくのではない。どこまでも慈愛です。
 戸田先生は言われた。
 「折伏を、すなおに、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんか口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。それで反対すれば、反対した本人がだめになる。やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」と。
 おもしろいこと、おっしゃるね、戸田先生は。恋愛なら、みんな一生懸命だろう。何枚も何枚も便箋をむだにして、手紙を書いたり。今度の休みの日、どんな言葉で誘おうかなと、夜が明けるまで考えたり。それがうまくいって、結婚して後悔するようなことは、「折伏」にはないけれども。
 遠藤 「やさしく教える」という点では、釈尊の説き方もそうですね。
 釈尊は「すべての人が仏になれるのだ」という「真実」をわからせようとして、まず「諸法実相」という法理を説きました。それを聞いて、舎利弗はわかった。他の人は、わからなかった。そこで釈尊は、譬喩を説いた。今度は四人の声聞のリーダーが理解した。
 まだ、わからない人たちがいる。次に釈尊は、自分と衆生との深い縁を説いた。それによって、すべての声聞が納得できた。このように釈尊は、衆生が「納得できるように」心をくだきました。
 “まったく! わからないやつだな!”と見放したりしなかった。粘り強いというか、「何としても、成仏させたい」という思いが深いんですね。
 須田 その精神は、今の折伏と同じですね。
 池田 そう。大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も、歓喜も生まれる。大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これほど「楽しい」こともない。
 戸田先生は、よくおっしやっていた。
 「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」と。
 もちろん現実には、すぐに信解できる人もいれば、そうでない人もいます。
 しかし、あせる必要はまったくない。いずれの場合も、真剣に祈り、語ったことへの功徳は絶大です。簡単にいかないから、智慧も湧き、成長できる。“種”を植えておけば、必ず将来、花開く時がきます。根本は「私にも、仏様のお使いをさせていただけるんだ」と喜び勇んで、語っていくことではないだろうか。
 遠藤 折伏している人を心からたたえていくことも大事ですね。
 池田 その通りです。その人は「如来の使」であり、仏のごとく敬わなければいけない。それが法師品の心です。この心があるところに、福運はつくし、勢いがつく。結果として、多くの人を救っていけるのです
 広宣流布に生きている学会員を、仏のごとく大切にする。その心がわかれば、法師品は、否、法華経は分かったことになるのです。

 

法華経の智慧 法師品 第十章

2015年4月14日

折伏精神

  

 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(御書1618頁)等の御文をあげ、折伏・弘教にこそ創価学会の使命と精神があることを訴えた。
 彼は、広布第二章の「支部制」にあたり、“折伏精神”を、学会の隅々にまで燃え上がらせなければならないと思っていた。
 “折伏精神”とは、

 友人、知人に、自分に連なるすべての人びとに、あらゆる苦悩に打ち勝つ道を、崩れざる幸福の道を教える慈悲の心である何ものをも恐れず、仏法の正義を貫く勇気である。わが生命を磨き鍛え、一生成仏、人間革命をめざす求道、向上の情熱である。
 学会活動は、弘教をはじめ、座談会、教学の研鑽、機関紙誌の購読推進等々、多岐にわたる。しかし、いずれの活動の目的も広宣流布にあり、その原動力は、どこまでも“折伏精神”である。この精神を失えば、活動は惰性化し、空転を余儀なくされる。
 周囲の人びとに真実の仏法を教え、必ず幸せになってもらおうという一念を燃え上がらせてこそ、すべての活動に魂が込められ、歓喜が湧く。そして、人との触れ合いは、そのまま、仏縁の拡大となるのである
 一切の学会活動は、広宣流布、立正安国をめざすものであり、それは、仏の使いとしての菩薩の行である。ゆえに、地涌の菩薩の魂である“折伏精神”を燃え上がらせるのだ。

 

小説 新・人間革命 第26巻 勇将 309頁

2014年10月30日

折伏行(14)

 

<どんな人をも見捨てず、救いきっていく>

   
 大聖人は『仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし』(高橋殿御返事、1467頁)と仰せです。
 万人成仏の唯一の法である妙法を聞くことが縁です。その縁に触発されて初めて、人々の胸中に仏種が形成され、芽生えていくということです。
 したがって、人々に日蓮大聖人の仏法を語っていくという行為は、その人の成仏への機縁をつくっていく、最も尊い行為である。だからこそ、功徳も大きいのです。
 戸田先生は、こう語られていた。
 「下種には聞法下種と、発心下種の二種類がある。初めて会って折伏した。けれど、信心しなかった。これは聞法下種である。ところが、次の人が行って折伏し、御本尊様をいただかせた。これは発心下種である。どちらも下種には変わりはない。功徳は同じである」(戸田城聖全集4)
 聞法下種も発心下種も、いずれも、妙法を教えていく尊い行いです。御本仏のお使いをした功徳は、いずれも絶大です。
 そのうえで、大聖人は、妙法を説き聞かせて、仏縁を結ぶ聞法下種を強調されている。
 大聖人は『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、進ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり』(法華初心成仏抄、552頁)と仰せです。
 「毒鼓の縁」とは「逆縁」とも言います。法華経を説き聞かせれば、たとえ、その時に信ずることなく誹謗しようとも、“正法を聞いた”ことが「縁」となり、必ず後に成仏の道に入ることができるということです。
 (中略)
 ロシア科学アカデミー東洋学研究所のマルガリータ・ヴォロビヨヴァ博士は、私の『方便品・寿量品講義』のロシア語版に寄せ、法華経の重要なメッセージについて、次のように記しておられる。
 「あなたがどんな人間であっても、いかなる行いをしてしまったとしても、社会の最も低い場所に落ちてしまったとしても、仏はあなたを決してあきらめません。
 それでも、あなたの命は尊いからです。
 仏は、粘り強く教え、戒め、諭し、許すのです。衆生は決して弱く愚かな存在ではないと法華経は励ましています。人間の自立を促す仏の教えは、多くの人々にとって良き助けとなっていくことでしょう。
 釈尊がこの世を去ってから大きな時間が経過しました。その間、仏は、決してどこか遠い世界から衆生を傍観しているのではありません。仏陀の声は、その教えを正しく受け継ぐ生きた人間の声となって私たちに語りかけているのです」
 仏陀の声を受け継ぐ人間の声。それが私たちの折伏です。
 どんな人をも見捨てることなく、救いきっていく仏の振る舞いが、妙法の折伏行です。(おわり)

御書の世界(下)第十二章 「人を敬う」実践

2014年10月27日

折伏行(13)

 

<折伏は人生を無限に豊かにする>

   
 すべての根幹は、仏の心、法華経の心と一致することです。仏と一体となり、妙法に合致すれば、どんな困難も乗り越えられないことはない。
 仏の心は、万人救済の大慈悲の誓願です。その誓願に連なり成就せんとする大闘争のなかで、自身の生命が鍛え磨かれるのです。
 仏の教説のままに、難を恐れず勇敢に広宣流布を目指して戦う人は、「即身成仏」「六根清浄」の功徳があると仰せである。
 勇気をもって戦った分だけ功徳があり、「人間革命」できるのです。
 「御義口伝」には『悪を滅するを功と云い善を生じるを徳と云うなり』(御義口伝、762頁)とも仰せです。勇気をもって自他の悪と戦っていくところにのみ、妙法の善なる力が現れてくる。勇気ある戦いがなければ、偉大な功徳はありません。
 偉大な人生を歩むためには、折伏が大切なのです。
 一人の人の一生は、長いようで短い。そのなかでみずから体験できることは限られている。
 しかし、一人また一人と、他の人の悩みをわが悩みとして、共に祈り、共に戦い、共に勝ち越えていけば、人生の豊かさは、二倍、三倍、十倍、百倍と無限に広がっていく。
 ほかの人のために悩んだ分だけ、戦った分だけ、「心の財」を積むことができる。そして、どんなことが起ころうとも揺るがぬ幸福境涯を確立していくことができるのです。
(つづく)

2014年10月26日

折伏行(12)

 

<不軽菩薩の実践にこそ人間革命あり>

   
 『邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし』(開目抄下、235頁)
 『我れは深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし』(法華経557頁)
 (前略)
 一切衆生に「仏性」がある。「仏界」がある。その「仏界」を不軽菩薩は、礼拝したのです。
 法華経では、「仏性」という言葉は使われていない。しかし、不軽菩薩の実践のなかで、一切衆生に仏性があることを明確に示されているのです。
 (天台大師など)正師とされる人は皆、気付いているのです。

 しかも、法華経は、敵対し反発する人々でさえも、皆が尊き「仏子」であると説く。
 『彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり』(顕仏未来記、149頁)
 真実の法を言い切っていくということだね。
 悪世にあっても恐れずに魔性と戦い切っていくということです。
 万人を救う戦いであるがゆえに、特別な存在ではなく一人の人間として、偉大な仏界の生命を顕していく戦いに、勝ちきっていかなければならないのです。
(つづく)

2014年10月21日

折伏行(11)

 

<悪への破折は創価の魂>


 「如説修行抄」等には「法華経の敵を責める」と仰せです。この点について、誤解のないように一言しておきたい。
 誤った教えに執着している人は、たとえ正しい教えが示されても、かえって反発し、誤った教えに執着を強める。
 だからこそ、粘り強い対話で、教えそのものの誤り、そしてそれを信じることの誤りの両方を明確に指摘し、気づかせ、目覚めさせることが大事です。
 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。
 ただし、「責める」といっても、決して言い争いをするとか、まして言論以外の手段を用いるということではない。
 「正邪を明らかにしていく」ことであり、具体的には、「正法を言い切っていく」ことです。
 “間違っている”という指摘だけでは、不十分です。言われた側も納得できない。“これが正しい”と明確に示してこそ、現実に変革へと一歩、踏み出すことができる。
 『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり』(開目抄下236頁)

 大聖人の実践される折伏行は、どこまでも邪法に惑わされている人々を目覚めさせ、救っていこうとの、大慈悲の御精神に基づくものです。
 私たちの折伏の実践もまた、どこまでも大聖人の大慈悲の御精神に連なって、一人の人を必ず救っていこうとの一念に基づくものでなければならない。

(つづく)

 

2014年10月20日

折伏行(10)

 

<師弟共戦ほど楽しいものはない>


 一人立って、正義の旗を掲げゆく。その一人がいれば、皆、迷わない。大安心です。その旗のもとに集い、共に励まし、共々に進む。その永遠の広布旅ほど、楽しいものはない。愉快なものはない。
 旅路には、当然、山もあれば谷もある。晴れる日もあれば、雨の日も風の日もある。
 しかし、苦も楽もすべて乗り越えて進みゆけば、最後にはすべて黄金の思い出として輝くのです。
 逆に、途中で投げ出してしまえば、それまでの人生も、すべて暗澹たる闇に覆われてしまう。
 不屈の闘争で「最後の勝利」を得た人は、人生のすべてがその勝利の因となるのです。三世永遠の勝利者となるのです。
 これは生命の峻厳なる法則です。
 折伏は、共々に「不滅の勝利の栄冠」を勝ち取ろうとの呼びかけです。(つづく)

 

2014年10月19日

折伏行(9)

 

<折伏とは真実を語ること>

   
 (折伏は、悪を止める「対治悉檀」、究極・真実の善をただちに教え示す「第一義悉檀」に配当できます)
 「第一義」とは“最高・唯一の価値”です。だれもが認め、尊崇すべき“最勝の真実・善”です。先に確認したように、末法は、価値観が混乱し、何が正しいか、何が大切かが分からない時代です。そのような混乱の時には、“これこそが正義である”“これが最も大切だ”と明確に示していかないといけない。
 折伏とは、「真実」を語ることです。勇気をもって言い切っていくことです。「正義」の旗を高く掲げることです。
 だれもが大切にすべき普遍的な価値・正義を確立し、実現していくための戦いです。ゆえに、偏狭な宗派主義などでは決してない。また、そうなってはならない。
 法華経は、仏の悟りの真実をただちに説いているので、「折伏の経典」とされる。
 あの人も、この人も、一人も残らず、かけがえのない尊い存在である。
 生命尊厳という真実、人間尊敬という最高の実践を、徹して教えているのが法華経です。
(つづく)

2014年9月19日

学会は折伏をお願いしたことはない、

すべて自分のため


「(中略)皆さんのなかには、『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、お願いしたことは、ただの一度もありません。
 大聖人が、折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうと言うのです。
 しかも、それが友を救い、社会の繁栄と平和を築く源泉となっていく。これほどの“聖業”はありません。
 なかには、一生懸命に弘教に励んでいても、なかなか実らないこともあるかもしれない。こう言うと、怒られてしまうかもしれませんが、皆さんは、まだ若いのですから、決して、結果を焦る必要はありません。
 布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なのです。
 大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”との思いをいだいて、周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。
 また、幹部は、弘教が実らずに悩んでいる人を追及したり、叱るようなことがあってはならない。むしろ優しく包み、仏の使いとして、懸命に生きようとしている姿勢を称え、励ましてあげていただきたい。
 更に、いろいろな境遇や立場で、思うように活動に参加できない人もいるでしょう。そのメンバーに対しても、『必ず春が来るように、時間的にも余裕が持てる時が来るから、その時はいつでもいらっしゃい』と言って、温かく励ましてほしいのです。
 ともあれ、私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、幸福の道を進んでまいろうではありませんか」

 

小説 新・人間革命 2巻 民衆の旗 270頁

2014年9月9日

折伏行(8)

 

<折伏とは抜苦与楽の慈悲の実践>

   
 折伏の意義について、何点か述べたいと思います。
 まず、折伏の核心は、「慈悲」と「哲理」であるということです。
 「慈悲」とは、苦悩する人々を救う仏の心です。これは、私たちが実践するうえで、友への「思いやり」であり、具体的には、粘り強い「忍耐力」と、「正義」を語りぬく「勇気」として現れると言えます。
 「哲理」とは、すべての人が成仏できる“だれもが幸福になる権利をもつ”という法華経の哲理に対する「確信」です。
 折伏の根本は、“すべての人を何としても幸福に”という仏の願いです。その心をわが心とすることが、末法広宣流布に戦う本物の弟子、地涌の菩薩の誓願です。
 「慈悲」は、しばしば「慈」と「悲」に分けて論じられます。
 「慈」とは、人々をわが子のように慈しみ、教え導くことです。
 「悲」とは、人々の苦悩を悲しみ、同苦することです。
 ――『譬えば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し』(唱法華題目抄、15頁)
 ――『譬えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如し』(同) (中略)
 仏は、父母両方の親の徳を具えて、人々を導く。
 苦悩から解放するだけにとどまらず、さらに正しい生き方を教えて、境涯を変革させ、現実に幸福を得られるように働きかけるのです。
 折伏とは、この抜苦与楽の慈悲の実践にほかならない。
(つづく)

2014年8月31日

折伏行(7)

 

<反転攻勢は門下の「折伏行」から>

   
 身延入山後に認められた「法華取要抄」の末尾では、広宣流布実現への展望が記されている。
 『是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か』(法華取要抄、338頁)
 いよいよ広宣流布の時代が到来するとの大確信です。隠遁どころか、広宣流布の時代を築かれようと、いよいよ本格的な言論戦を開始されます。
 弟子たちも、それぞれの地域で活躍を始めた。日興上人が折伏を展開された駿河の熱原の地で、やがて法難が起こり、それが大聖人の出世の本懐の実現へ、大いなるきっかけとなった。この点についてはあらためて触れるとして、弟子たちの本格的な闘争が、日蓮大聖人と同じ心に立つ折伏行であったことは間違いない。
 いよいよ、広宣流布の舞台を弟子の大いなる折伏で築いていかんとする――そうした決意が、ここかしこで横溢したことでしょう。大聖人の反転攻勢の戦いを弟子が引き継ぎ、四条金吾や池上兄弟たちの弘教のドラマ、信仰の実証のドラマが、繰り広げられていきます。まさに、大聖人御在世も、門下の実践の機軸は「折伏行」です。
(つづく)

2014年8月26日

折伏行(6)

 

<真実の弟子の出現が不可欠>

   
 仏法は、徹して確固たる「人間」自身を築くための教えです。
 釈尊も日蓮大聖人も、究極的には「一人の人間が世界を救う」ことを説かれている。
 「人間ほど偉大なものはない」――こう高らかに叫ぶために仏法は存在する。
 慈悲と勇気に満ちた人間の大道。その道を堂々と歩んでいく「人の振る舞い」を説いたのが仏法です。その善の振る舞いを広げ、人間の尊厳を嘲笑する根本の迷いを打ち破っていく。それが末法の仏道修行の本質です。
 日蓮大聖人は、その(折伏の)大道を御自身と同じように全門下に歩むように教えられた。しかし、それは、大聖人と同じく迫害を受けるであろう道であった。
 それでも、あえて折伏を呼びかけられたのです。真の幸福は、その大道の中にしかないからです。
 また、仏性を拡大する広宣流布のために立ち上がる弟子を輩出するためです。
 同じ心で立ち上がる弟子が出現しなければ、広宣流布は成し遂げられません。一人一人が師子王となることです。人類の境涯を高めゆくために、真実の弟子の出現が不可欠です。
(つづく)

2014年8月24日

折伏行(5)

 

<摂受・折伏は時による>

   
 「佐渡御書」では、『仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず』(佐渡御書、957頁)と仰せです。
 「如説修行抄」では、『今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな』(如説修行抄、503頁)と言われています。
 末法は「闘諍言訟・白法隠没」の時代です。万人に仏法を開かせるという仏の真意を説いた実教としての法華経が見失われ、それ以外の種々の方便を説いた権教と区別がつきがたくなっている。
 「如説修行抄」の御文に「権教即実教の敵と成るなり」と仰せのように、権教が、万人の仏性を開かせるという仏の真意を妨げる働きをもつようになっていたのです。それこそが「魔性」にほかならない。このことを真実にただ御一人、知悉されていた方が大聖人であられた。ゆえに、民衆を救うためにも、仏法を守るためにも、当時の仏教の中に瀰漫するこの「魔性」と戦っていかれたのです。「権実二教のいくさ」を(如説修行抄、502頁)を起こさずにはいられなかったのです。仏性を開くか、魔性にひれ伏すかの戦いです。
 「時による」というのは、仏性を妨げる魔性が働いていない正法時代、像法時代であれば、権教に説かれる一分一分の修行を実践することを認めていたわけです。その実践の在り方が「摂受」です。
 要するに、大聖人は、実教である法華経で説く「自他の仏性の顕現」という仏法の目的を見失っていなければ、摂受も認めておられるのです。これが大前提です。
 ところが末法は、その仏法の根本目的が忘れられてしまった。だから、真実を言い切っていくとともに、諸宗の教えに潜む魔性を打ち破っていくことが不可欠となるのです。

(つづく)

2014年8月21日

折伏行(4)

 

<摂受・折伏は時による>

   
 ――大聖人が本格的に折伏の意義を門下に教えられていくのは、竜の口の法難以降です。竜の口の法難から約一ヶ月後、大聖人は「転重軽受法門」(御書1000頁、編頁)の中で「折伏」行に大難が必然であることを示されています。
 同抄では、善国では順調に法が広まり、悪国では迫害・弾圧がある。それに応じて、弘教のあり方も摂受と折伏があると仰せです。
 「開目抄」でも、「無智・悪人の国土に充満の時」には摂受を優先し、「邪智・謗法の者の多き時」は、折伏を優先していくべきであると示されています。
 このように御書では「国」の観点から折伏が優先されるべきであると仰せです。これらの場合、大聖人の御真意は「日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(御書235頁)と仰せのように、具体的に“当時の日本”を問題にされて、邪智・破法の国であるから折伏が必要であると示されることにあります。
 しかし、摂受・折伏のどちらを実践すべきかは、より根本的には「時による」ということが大聖人の御教示です。
 「開目抄」では、折伏を論じられて「仏法は時によるべし」(御書237頁)と結論されています。また、「佐渡御書」や「如説修行抄」でも、「時による」というのが大聖人の御教示です。
(つづく)

2014年8月19日

折伏行(3)

 

<折伏は「人を敬う」最高の行動>

 

 ――現代こそ、大聖人の仏法の「戦う人間主義」の正念場ですね。

 「時」が来ているのです。
 日蓮大聖人の仏法は「師弟の仏法」です。大聖人御自身が、まず、自他の仏性を敬う折伏行の「さきがけ」として、法戦の先頭に立たれ、魔性を破り、人々の仏性の顕現のために闘争されました。
 そして、竜の口の法難、佐渡流罪を機に、民衆救済の大闘争を門下にも強く呼びかけられる。佐渡流罪以後は、弟子たちが戦う時が来たのです。
 その戦いとは「魔性との戦い」すなわち「折伏」です。現代において創価学会が出現したのも、まさに現代こそが、この戦いの正念場であるからと考えたい。(中略)
 折伏は、「自他の仏性を信ずる」信念の実践であり、「人を敬う」最高の人間の行動です。
 ただ、「魔性と戦う」という厳格な面があるので、どうしても排他的なイメージに曲解されてきたのではないか。
(つづく)

 

2014年8月17日

折伏行(2)

 

<今は人類の岐路、焦点は「人間」に>

   
 今は、濁世です。人間の良識をあざ笑うかのような愚行が跳梁し、世界を暗く覆っている。一面では、「人類は進歩しているのだろうか」「人間はあまりにも無力だ」といった悲観的な声が広がっている。
 しかし、他方では、だからこそ、「人間のもつすばらしい可能性を信じたい」という希望を、少なからぬ人ももっているのではないか。
 濁流が清流を押し流してしまうのか、清流が泥を洗い流すのか。残念ながら、まだまだ濁流の勢いが強いと言わざるをえない。
 私がお会いしてきた世界の良識の方々は、皆、“人類は今、重要な岐路に立たされている”という認識で一致していた。そして、未来を見すえた責任ある英知の結論も一致している。それは、人間自身が変わるしかない、という一点です。
 混迷の闇が深くなればなるほど、結局、人間自身が問われてくる。
 焦点は「人間」です。そして、一人一人の境涯をどう高めていくか。そこに、未来を開くための急所がある。
(つづく) 

2014年8月14日

折伏行(1)

 

<末法の争いは「無明」が原因>

   
 末法は「争いの時代」です。国々も人々も抗しがたい力で「争いへ争いへ」と流されていく。
 その激流に抗する力は「自他の仏性を信ずる」という強い信念であり、その信念の実践としての「人を敬う」行動以外にありません。
 なぜならば、争いへの抗しがたい力を生むのが「無明」だからです。「無明」とは、万人に仏性が具わることへの無知であり、不信です。
 また、万人の尊厳を踏みにじる暗い衝動です。末法の争いを生む要因である権力や宗教の魔性も、この無明が根本にあるのです。

(つづく)

2014年3月25日

 正しく弘めれば、

必ず難が起きる

 

 「勇気」と「強い信心」は一体です。反対に、「臆病」と「不信」は、底流部で通じ合っている。
 佐渡流罪の時に、師匠の大聖人に対して“柔らかく弘めれば、難は起きないのに・・・”と批判した門下がいた。難が起きたことで不信を抱き、恨んだのです。
 (中略)正法を正しく弘めれば、必ず難が起きるのです。否、難が起きなければ正法ではない。
 皆、そのことを原理として知っていても、いざ起きると、信心がなければ退転してしまう。大聖人から見れば、“せっかく強敵の科(とが)を現したのに、この大事な時になぜ逃げるのか”という御心境だったのでしょう。
 『螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし』(佐渡御書、961頁)です。
 拙い者に対しては、理屈を言うよりも、境涯の大きさを眼前に示して、その広大な世界に触れさせる以外に目覚めさせることはできません。
 大空のような、また大海のような師子王の大境涯でなければ、広宣流布の指揮をとることはできないのです。
 (中略)じつは、私たち一人一人の戦いにおいても原理は同じです。自分が師子王となって、わが地域の会員に魔を一歩も寄せつけないという決意が大事です。その戦いにしか自身の成仏の道はない。ゆえに、大聖人は、「願わくは我が弟子等は師子王の子となりて」(閻浮提中御書、1589頁)と呼びかけておられるのです。

 

御書の世界(上) 第七章 師子王の心

2014年2月23日

折伏は楽しくやろう

 
 わが創価学会は、どこまでも「一人」を大切にし、「一人の人間」が持つ「世界を変える力」を限りなく発揮していく。これこそが「人間のための宗教」であり、「民衆の側に立つ宗教」であるからだ。(中略)
 戸田先生は「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」とも教えてくださっている。
 楽しくやろう。肩肘張る必要はない。心軽やかに、どんどん人と会い、信心の喜びと確信を語ることだ。そこに自身の人間革命の修行も、広宣流布の拡大も、全部、含まれている。
 「自他共の幸福」を目指して折伏に挑んでいること自体、何よりも尊貴で充実した人生なのである。 

 

聖教新聞2014.2.18 民衆凱歌の大行進2 二月闘争の誇り

2014年1月23日

仏の種を蒔こう、

必ずや花開く時が来る!

 

 わが師、戸田城聖先生は叫ばれた。
 「我々に、折伏する人がいなくて困るということはない。数多(あまた)の眷属と共に生まれ出ているからだ。
 仏の種を蒔こう。最初は聞かなかったとしても、時が来て、必ず花開くことは決まっているのだよ!」
 「大法弘通」の誓願に勇み立つ地涌の大行進が、いやまして明るく賑やかに始まった。広宣流布大誓堂からは、創価家族の題目の師子吼が轟きわたる。
 さあ、我らの呼びかけを無数の眷属が待っている。誇りも高く、友情と信頼の語らいを広げゆこう!

 

大白蓮華No.770号2014.1月号巻頭言

2013年12月26日

眼前の一人の折伏が

全世界に通ずる

 
 今、創価学会には、二十一世紀の拡大の道が、晴ればれと、無限に開かれた。
 めざすは、一閻浮提の広宣流布である。大きな大きな心で進みたい。
 一閻浮提と言っても、遠いところにあるのではない。一人の人を折伏することが、一閻浮提に通ずる。広布のために一軒の家を訪ねることが、一閻浮提に通じる。「千里の道も一歩から」である。
 この尊き「広宣流布の道」で、永遠不滅の功徳を積みながら、勇んで戦いましょう! 

 

2000.3.24第44回本部幹部会

2013年12月16日

折伏は

人間革命の直道

 

 戸田先生が第二代会長として立たれ、会員七十五万世帯の達成を宣言された時、私は誓った。
 〝先生は折伏の師匠であられる。弟子である私は、断じて折伏の闘士になる〟
 蒲田で、文京で、大阪で、山口で、私は、全力で弘教の渦を巻き起こした。
 ある座談会では、参加した七、八人の青年が、皆、入会を決意したこともあった。
 〝絶対的幸福への道は、この仏法しかない。皆に最高の人生を生きてほしい〟と願い、懸命に訴えた。
 その確信と真剣さが、友の心の扉を開き、共感をもたらすのである。
 折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。
 表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
 だが、折伏は、ともに真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
 人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時にみずからの体験のうえから語り合う真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ。
 また、苦悩の根源的な解決の道を教える折伏は、究極の利他の行為であり、自己の殻を打ち破る、人間革命の直道でもある。 

 

随筆 新・人間革命1998.10.7「真の友情」それは「真心の対話」から

2013年12月15日

私の折伏第一号

 

 思えば、私の折伏第一号は、大田区の小学校の教員をされている方であった。戸田先生の会社に勤めて、しばらくしたころのことである。
 それまで、何人もの友に仏法の話をしてきた。戸田先生みずから、私の友人に会って、話をしてくださったこともあったが、信心するにはいたらなかった。
 自分が不甲斐なく、どう語ればよいのか、必死に研究もした。そして、祈りに祈り、〝もう一人〟〝もう一人〟との思いで、折伏行を重ねた。それが、どれほど大きな自身の力となっていったか計り知れない。
 そのなかで、ようやく折伏が成就した時の、あの晴れやかな感動と喜びは、筆舌に尽くしがたい。
 私は、自分の紹介で入会した人を、どこまでも、どこまでも面倒をみながら、人生の勝利者にさせる決意をした。
 その折伏をした人に、私のアパートに来ていただき、出勤前に一緒に勤行し、ともに御書を拝したものである。
 また、仕事の帰りに、勤行指導に通ったことも懐かしい。
 広宣流布という前進は、一人の友を信仰に目覚めさせていく、この地道な、そして忍耐強い活動の積み重ねのなかにある。
 これが、真の仏道修行だ。 

 

随筆 新・人間革命1998.10.7「真の友情」それは「真心の対話」から

2013年10月13日

声が力、声が武器

 

 大聖人は、四条金吾に、こうも仰せである。
 「法華経を一字一句でも唱え、また人にも語っていく人は、教主釈尊の御使いである。そうであれば、日蓮は、賎しい身ではあるが、教主釈尊から勅令をいただいて、この国に生まれてきたのである。
 この日蓮を一言でも誹謗する人々は、無間地獄の因を積んでいるのであり、逆に、一字一句でも供養する人は、無数の仏を供養することにも過ぎる大福徳を積むのである」(御書1121頁、通解)と。
 皆さんが語った分だけ、仏縁が広がる。正義は広がる。
 声が力である。言葉が武器である。
 そして、「なんとか仏縁にふれさせたい」「幸福の道を歩んでもらいたい」との慈悲の祈りがあるかぎり、私たちの言葉は必ず響いていく、すぐに結果は出なくとも、相手の心に深く浸透していくものだ。
 ドイツの平和運動家が、劇作家ブレヒトの有名な言葉を借りて、こう述べている。
 「もう一回言っておけばよかったと後で後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言わねばならない」
 自信に満ち満ちて、「希望の対話」「勇気の対話」「確信の対話」「友情の対話」「励ましの対話」を大いに広げていっていただきたい。

 

2003.11.18神奈川最高協議会

2013年9月24日

仏縁の拡大こそ、

仏の最大の喜び


『「以何令衆生・得入無上道」の御心のそこ順縁・逆縁の御ことのは已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ又本意に叶はば仏の恩を報ずるなり』(持妙法華問答抄、467頁)――「なんとしても、衆生を無上道に入らしめ(速やかに仏身を成就させたい)」との御心の底、順縁・逆縁の者も共に救おうという御言葉は、まさに仏の本懐であるから、少しの間受持する者もまた本意にかなうのである。また本意にかなうならば、仏の恩を報ずることになる。――
 仏の願いは、一切衆生の救済である。素直に仏法を信じる順縁の人はもちろん、反発する逆縁の人であろうと、仏縁によって、最後はその人が幸福になる。それが、仏の最大の喜びである。ゆえに、友のために勇気をもって語り、仏縁を拡大することこそが、仏の本意に叶う、大慈悲の行動となるのだ。

 

2012.5.31御書とともに<80>

2013年9月23日

折伏は「誠実」である。


 第三に、折伏を決する心は「誠実」だ。
 深遠な仏法の法理を語ることが、すぐに友人の心を動かすとは限らない。
 最後の決め手は、やはり紹介者の大誠実の振る舞いである。祈りである。真心である。相手を思いやる真剣な心が、友の心に響き、友の心を変えるのだ。(中略)
 福島県の健気な女子部のリーダーは、東日本大震災で、敬愛する姉と祖母と曾祖母を共に失った。
 その絶望と慟哭は言葉に尽くせない。しかし、残された妹は「姉さんならば、きっと信心で立ち上がるはずだ」と涙を拭った。
 姉が生前、心から大切にしていた友人にも、母と一緒に、誠心誠意、信心の話をしていった。
 「あなたに、娘の分まで幸せになってもらいたい」――こう語る母の切なる願いを、姉の友人は涙を堪えて聞いていた。やがて、「信心をやらせてもらいます」と、故人の遺志を継いで、広宣流布に生きゆくことを決められたと伺った。(中略)

  題目を唱え、広宣流布に励みゆく我らの生命それ自体が、南無妙法蓮華経の当体である。我らは久遠より、この末法濁世に大法を弘通しゆくことを、自ら誓った「地涌の菩薩」なのだ。
 昭和三十一年十月から始まった山口開拓闘争でも、全国から同志が駆け付け、私と一緒に戦ってくれた。
 なかなか対話が実らず、悪戦苦闘の友も多かった。
 私は心から励ました。
 「折伏は必ずできます。民衆を救うために、ここに来たのではありませんか。わが使命を悔いなく楽しく果たしゆこうよ!」
 皆、この誇りと確信に立って、生まれ変わった決意で、臆さず堂々と、仏法を語っていった。その歓喜のドラマの連鎖が、延べ二十二日間という短期決戦で、当初の世帯数の約十倍もの拡大を勝ち開いたのだ。

 

聖教新聞2013.9.13付我らの勝利の大道114

2013年9月22日

折伏は「感謝」である。


 折伏の心の第二として、「感謝」をあげたい。
 戸田先生は語られた。
 「この世に生まれて、一言にても法の説けることを御本尊に感謝して、慎み深くあらねばならぬ」と。
 沖縄で、入会第一号となった広布の母がおられる。
 沖縄戦の悲劇で、二人の愛娘を失い、戦後まもなく夫も病死。行商をして四人のお子さんを必死に育てる中、仏法に巡りあえた。
 宿命に泣く悲嘆の人生から、使命に生きる歓喜の人生へと蘇生できた、尽きせぬ感謝を胸に、島々を含め、沖縄中を駆け回った。
 十分に学校に通えなかった分、「聖教新聞」や「大白蓮華」を徹して学び、手帳にメモした御文や学会指導を通し、慈愛と確信を込めて仏法を語っていった。(中略)
 仏法を教えてくれた学会と師匠と同志への報恩感謝を忘れない人生は、深く、美しく、そして強い。

 

聖教新聞2013.9.13付我らの勝利の大道114

2013年9月21日

折伏は「勇気」である。


 折伏に挑戦する上で大事な三点の「心」を確認しておきたい。
 第一は「勇気」である。
 折伏は難事中の難事なりと、御書に明確に説かれている。勇気なくしては、成し遂げられない。
 恩師は常々、言われた。「凡夫には慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいものは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です」
 この指導のままに、私も不屈の勇気を奮い起こして折伏に挑戦してきた。嬉しいことも、悔しい思いをしたこともある。
 「折伏に行く。入信せず。一人の人を、折伏することは大変なことだ」と日記に綴ったのは、昭和二十五年十一月であった。
 だが、「これ以上に、尊い、偉大な、且つ最高なる活動はない。今、一人の人が入信せずとも、幾百千万の人々が、吾等を待っている」と誇り高かった。
 苦境の恩師を支えて奮闘する渦中であった。
 翌年二月の日記には、折伏した友に、約束を破られた苦衷を記した。しかし、「若いのだ。卑屈になってはならぬ。一切、大御本尊様の照覧があると思えば、実に、人生は明るい」と、毅然と前を向いた。 

 

聖教新聞2013.9.13付我らの勝利の大道114

2013年9月20日

仏種を植える喜びを

共に分かち合おう


 「撰時抄」には、『悦ばしきかなや・楽かなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる』(御書286頁)と仰せである。
 日蓮仏法は「下種仏法」であり、仏法対話をして、自他共の〝心の田〟に仏の種を蒔く「下種」が一切の出発点である。
 この広宣流布の大道を、我らはたゆみなく進む。
 創価学会は、永遠に「折伏」の団体である。
 一人また一人と、誠実に粘り強く「希望の種」「幸福の種」、そして「勝利の種」を蒔いていくのだ。
 先師・牧口常三郎先生も、恩師・戸田城聖先生も、偉大な「折伏の勇将」であられた。私も、青年時代より、「折伏の闘士」として戦い抜いてきた。
 折伏は、〝一対一の膝詰めの対話〟から始まる。
 同じ人間である。青年である。上も下もない。
 お互いに成長し、善き人生を生きるために、胸襟を開いて語り合う。悩める友に寄り添い、同苦し、一緒に壁を破って、勝利の人生を開こうと呼びかける――この生命の触発作業こそが、我らの対話であり、折伏である。 

 

聖教新聞2013.9.13付我らの勝利の大道114

2013年1月8日

折伏は

ただ一つの功徳の直道

 

「折伏した時に、相手が聞くか聞かないかは別問題だ。人に話すこと自体が、すでに功徳を積んでいるんだよ」
「折伏は大功徳を受ける、ただ一つの直道です」
「信心とは、常に〝一人立つ〟です!一家で一人、成仏すれば、家族は必ず救われる。しっかり学会活動をやっていきなさい。きっと幸せになれます!」
「楽しい折伏行であっていただきたい。無事故であっていただきたい」

 

大百蓮華No.757 2013.1月号26頁

世界広布新時代

創立100周年へ

青年・飛躍の年

(2022年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2022.8.14

第2073

第2074

 

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL