民衆

2018年12月16日

第1570回
人間、だれが本当に偉いのか?

 

<民衆よ立ち上がれ!>

 

 明2002年(当時)は、文豪ヴィクトル・ユゴーの生誕200周年である。ユゴーは呼びかけた。
 「ああ! 民衆よ!」

 「思いもおよばぬ巨大な姿を見せてやりなさい。あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい」

 「立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい!」(「言行録」稲垣直樹訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』9所収、潮出版社)
 偉大な力があるのは、権力者でもなければ、有名人でもない。「民衆」である。
 民衆よ、小さくなるな。民衆が動く、巨大な姿。それを敵に見せつけるのだ!――と。
 日蓮大聖人の仏法は、「民衆のための仏法」である。
 民衆よ立ち上がれ!
 これがユゴーの叫びであり、戸田先生の叫びであり、創価学会の叫びである。
 近代中国の父・孫文博士の有名な言葉がある。
 「政治の力は大きな善もできるし、大きな悪もできる
 「国を救い人を救おうと思えば、悪い政治を除かなければだめである」(横山英・中山義弘『孫文』清水書院)
 政治は良いこともできるが、悪いこともできる。悪い政治は、たたき壊せ!――こうして孫文博士は、大中国の革命の火蓋を切ったのである。
  今は民主主義の世の中だから、上も下もない。人間は全部、平等のはずである。
 「そうは言っても、テレビをつけると、いわゆる有名人ばかりが脚光を浴びて、なぜか偉そうにしていますね」と、ある人が言っていた。
 では、人間、だれが本当に偉いのか。
 御書に「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(南条殿御返事、1578頁)――法が妙であるゆえに、その法を受持する人が貴い。人が貴いゆえに、その人がいる所も尊い――と。
 「最高の法」を持った人間が「最高に尊貴」なのである。これが本当の人間主義である。妙法を弘めている皆さまが、どれほど尊いか。
 戸田先生は、よく言われていた。「自分がどれだけ偉いか。それを、皆、忘れているのだ。たしかに、うちに帰っても、たいした食事もない。家も、宮殿みたいに大きくはない。だから貧乏人根性で卑下するけれども、とんでもない。人間それ自体が偉大なんだ。建物なんて、将来、買えばいいし、それに、いつかは壊れてしまうものだ」と。
 また戸田先生は、「四信五品抄」を引いて指導された。こういう御文である。
南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れること、百千万億倍なり。国中の諸人よ、わが末弟等を軽んじてはならない」(御書342頁、趣意)
 皆さまは、妙法を唱えるのみならず、全国へ、全世界へ弘めている。広宣流布しておられる。すごい立場である。
 ″日本中の人よ、全人類よ、わが弟子たちを軽んじてはならない″――そう大聖人が仰せである。これに背く人間には、仏罰は厳然である。
 無認識の壁にぶつかったとしても、「あんな人間がなんだ!」「こんな迫害がなんだ!」と笑いとばしながら、誇り高く、胸を張って生きぬいていただきたい。

 

 2001年5月21日 第六回本部幹部会、第二回全国婦人部幹部会、第二回九州総会、第一回中国総会、第一回沖縄総会

2016年10月22日

「人間の中へ」そして「社会の中へ」
人間性あふれるそのままの姿が感動を与える


 <この実践がなければ架空の話にすぎない>

 

 1930年(昭和5年)。当時、インドは帝国主義の支配下にあった。
 インドに君臨していたイギリスは、塩に”高い税金”をかけて専売していた。
 インドの人々が”自分たちの手で塩を作りたい”と思っても、認めなかった。ガンジーは、そこにまっこうから挑戦した。
 彼は「塩づくり」のために、はるかな海岸へ向かって、78人の弟子たちとともに、大行進を開始した。24日間で、約386キロを歩きとおした。
 ガンジーは、「塩」という、もっとも身近な必需品を、独立へのシンボルとした。
 その明快な、わかりやすさに、民衆は一日ごとに続々と行進に加わっていった。
 民衆にわかりやすく訴えた、生活に密着した運動であった。
 学会の強さも、生活に密着しているところにある。
 口先だけで高尚なことを語るのとは、根本的に違う。
 学会は民主主義であり、一貫して「信心即生活」「信心即社会」で進んできた。
 ガンジーは、こう語っている。
 「おそらく今日、わたしほどインドを隈なく歩いた者はおりますまい。そして、この国の声なき民衆が、わたしのうちに彼らの友や代言者を見出したのです。わたしの方も、一人の人間としてできうるかぎり、彼らの中に入ってまいりました。わたしは彼らの目に信頼のまなざしを読みとりました」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)
 ガンジーは、インドの大地を、歩いて、歩いて、歩きぬいた。
 われわれの広宣流布の行動と同じである。
 「一人の人間」として、民衆の中に入り、会い、語っていった。
 会って話せば、心が通じる。本当に正しい話であれば、民衆は信頼してくれる。
 ”この人だったら「一緒に平和を築ける」「一緒に幸福な世界ができる」”――と。
 上から見おろすのではなく、自分で歩いて、人に会わなければいけない。
 これが、ガンジーの叫びであったし、私たちも、そうしてきたから、勝ったのである。
 私どもは、朗々と題目を唱えながら、明るく軽快に、また忍耐強く、人間の中へ、社会の中へと行動してまいりたい。
 「人間の中へ」そして「社会の中へ」――この二つの実践がなければ、いくら理想を唱えても、それは架空の話である。結果は敗北となる。
 これは、商売でも何でも、社会のあらゆる分野の鉄則である。
 大切なのは、明るく、さわやかな振る舞いである。
 学会員の人間性あふれる姿が、仏法のすばらしさを知るきっかけとなったという人が多い。なかでも、女子部や婦人部の方の、にこやかで聡明な振る舞いが感動を広げてきた。

 

2015年3月2日付聖教新聞本部幹部会での池田SGI会長メッセージ

2016年10月18日

万事は庶民から生まれる。
平凡な庶民から生まれる。

 

 私は第三代として立ち上がって以来、自身のことなど、何一つ考えていない。
 すべては、会員の皆様のために生きてきた。未来を生きる青年の皆様のために生きてきた。そう誇りをもって言い切ることができる。
 それが、偉大なる師に広宣流布の一切を託された、第三代の変わらぬ決心であることを、後世のために申し上げておきたい。
 アメリカの民衆詩人ホイットマンは言う。
 「万事は庶民から生まれる、平凡な庶民から生まれるのだ」
 広宣流布の前進と勝利も、平凡にして最も偉大な最前線の同志から生まれる。この最前線の友へ賞賛と感謝を、断じて忘れてはならない。

 

2008年3月5日第六回全国青年部幹部会、新時代第十六回本部幹部会

2016年1月9日

日蓮大聖人が庶民としてお生まれになった意義

 

<最底辺>

 

師弟の道をなくしたら、

仏法はもはやない。

  

 日蓮大聖人が社会の″最底辺″の庶民としてお生まれになった意義を、よくよく考えなければならない。
 「世情に応ずる」随他意の仏法を説くのであれば、貴族とか名家に生まれたほうがよかったかもしれない。しかし『民が子』(御書1332頁)『日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出たり』(御書958頁)として、お生まれになった。あれほどの大難が続いた理由のひとつは、大聖人が貴族の家のご出身でなかったことがあるでしよう。(中略)
 逆縁の仏縁を結ぶためにも、あえて大難を受け、大難を忍ばれた。その大慈大悲を忘れて、門下生までもが大聖人を小バカにした。
 『日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等』(御書960頁)がいたのです。
 ――「日蓮を信じているようだった者どもが、日蓮がこのように(流罪の身に)なったら、疑いを起こして、法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、「自分のほうが賢い」と思う、心の曲がった人間ども」――
 情けないことだ。師弟の道をなくしたら、仏法はもはやない。(中略)
 ともあれ、凡夫だからこそ凡夫の心がわかる。庶民だからこそ庶民の心がわかる。日蓮大聖人は、あえて一番、虐げられた庶民──「旃陀羅が子」として誕生なされたのです。

 

法華経の智慧 如来神力品 第二十一章

2015年3月30日

民衆こそ「真実の力」

 

<試練のときこそ底力が!>

  

 民衆の叫びは、
 真実の力である。
 民衆の賑やかな行進は、
 社会を動かす。
 民衆の力ほど、
 強きものない。
 そして民衆の団結ほど、
 強大にして
 不敗のものはない。
 民衆の団結には、
 誰人たりとも敵わない。
 いかなる時代にあっても!
 いかなる世界にあっても!

 

 人生には、
 断崖絶壁に立たされるような
 試練が何度もある。
 しかし、その時こそ、
 自分自身が、
 いまだかつてない
 底力を発揮できる。
 ゆえに、何があっても、
 嘆かず、あきらめず、腐らず、
 今できることを、
 一つまた一つ、
 勇敢に誠実に忍耐強く、
 全身全霊でやり切っていく。
 そこから、必ずや反転攻勢して、
 信頼と勝利の上げ潮を
 起こしていける。


2015.3.29付聖教新聞 光の言葉 幸福の曲

2015年3月26日

民衆が賢明になるための信仰

  

<開くカギが「信」の一字にある>


 仏教にはもともと、権力を使って信仰を押し付けようという発想はない。アショーカ大王も自身は熱心な仏教徒であったが、全宗教への寛容に徹しています。
 日蓮大聖人は、佐渡流罪から戻られた時、寺を寄進しょうという幕府の申し出を断ったと伝えられている。幕府に保護してもらおうなどという発想は、微塵ももっておられなかったのでしょう。(中略)
 学会は民衆の集まりです。民衆が愚弄されないために戦っている。すべての民衆が「強く」「賢明」になるために、平和と文化のネットワークを広げ、教育に力を注いでいます。
 民衆が本来持っている強さ、賢さ、明るさ、あたたかさ。そうした可能性を引き出す原動力になるのが信仰なのです。
 愚かになるために信仰するのではない。賢明になるためにこそ信仰はある。賢さとは、人を不幸にするような知識ではなく、自他ともに向上するための智慧です。
 今の社会の狂いは、全人格的な「智慧」と「知識」とを混同し、全人格的な「信仰」と「盲信」との見わけがつかないところから起こっている、と言える。
 「妙と申す事は開と云う事なり」(御書943頁)と大聖人は仰せです。どこまでも可能性を開き、向上しようとする特性が、生命にはある。その特性を、最大に発揮させていくのが妙法であり、真の宗教です。そして生命を開き、智慧を開くカギが「信」の一字にある。大聖人は「開とは信心の異名なり」と仰せです。
 限りなき生命の「向上」――その心を、鳩摩羅什は「信解」と訳しました。法華経の第四章「信解品」のタイトルです。
 「信解」とは、やさしく言えば「心から納得する」ということです。だれもが納得できることが大切です。法華経はそういう信仰を説いている。断じて盲信ではないのです。


法華経の智慧 信解品(第四章)

2014年12月5日

民衆のなかに生まれた民衆のための宗教

 

<配達員の方々に感謝の心を忘れまい!>

   
 伸一は、さらに「聖教新聞」の配達員への、深い感謝の思いを語った。
 「新聞を届けてくださる配達員の皆さんのご苦労は、大変なものがあります。何人ものお子さんをもつ主婦もいれば、勤めに行く前に配ってくださるサラリーマンもいる。また、なかには、一流会社の重役であったり、博士の夫人という方もいらっしゃる。まさに、多士済々です。心から広宣流布のために尽くし、法友のために奉仕してくださる、こうした数多の老若男女の方々を、私どもは、どこまでも尊敬してまいりたい」
 伸一は、彼の周りにいた、副会長や県長らに厳しい視線を向けて言った。
 「幹部は、そういう方たちの無事故と健康を、懸命に祈り抜いていくんです。深く感謝し、偉大なる同志として、仏を敬うように大切にしていくんです。そうでないと幹部は慢心の徒になってしまう。皆がやってくれて当然であるなどと思ってはいけません。
 奈良から仏教が起こったが、結局、僧侶が権威化していき、仏教本来の精神が失われていってしまった。絶対に、同じ轍を踏んではならない。私は、学会が民衆仏法の団体として永遠に発展していくために、あえて言っておきます」
 創価学会は、民衆のなかに生まれ、民衆を組織し、民衆勝利の絵巻を織り成してきた。
 国家に庇護され、国家の僕となった宗教ではない。民衆のための宗教であり、人類のための宗教である。権威、権力に屈服、隷属せず、人間自身に至高の価値を見いだす人間主義の宗教であるからこそ、世界宗教として広がりをもつのである。
  

小説 新・人間革命 26巻 法旗 149頁

2014年11月21日

 我らは民衆の問題を解決するために戦う

    
 初代会長牧口先生は、生前、日本の国家からは、何一つ顕彰を受けておりません。否、この世界的な大教育者に、国家主義の日本が報いたのは、牢獄の死でありました。
 侵略戦争に反対する「もっとも正しい賢者」「正義の人」が、国賊の汚名を着せられ、歴史の闇に抹殺されようとしたのであります。
 獄死を前に、牧口先生は、取り調べの検事に対して、明快に因果の法則について論じておられます。
 “人間社会には、正義の大善人が迫害されるという矛盾がある。しかし、永遠を貫く宇宙の因果の法則は絶対である。この道理を行動の規範としていけば、目先の世間の毀誉褒貶など、いささかも恐れる必要はない”
 牧口先生は、このように、悠然と言いきって、殉教されたのであります。
 そして、生誕百二十七周年の本日、地球の反対の、もっとも遠いブラジルから、牧口先生に、かくも意義深き顕彰が寄せられました。
 「創価の父」は、生死を超えて、厳然と勝利したのであります。(拍手)
 この師弟不二の栄冠を、私は、一千万の同志を代表し、牧口先生、戸田先生に、晴ればれとご報告申し上げるものであります。(拍手)
 貴カンピーナス市は、二十一世紀をリードする学術と文化と経済の先進都市であり、日本の岐阜市とも交流を結んでおられる。
 「カンピーナス」という名前は「平原」を意味します。環境保全の取り組みにおいても世界的に有名であり、豊かな緑の都市を建設しておられる。市民の憩いの公園は、何と二千五百カ所。そこには、五百五十万本もの木々が植えられていると、うかがっております。
 その緑化計画を力強く推進してこられたのが、ここにおられる(ルイス・カルロス・)ホッシーニ議員なのであります。(拍手)
 さらに、議員が「市民権の尊重」「人権の擁護」に関して、次から次へ、具体的な政策を立案され、実施されてきたことも、私たちは、よく存じあげております。また、令夫人は「血液学」の高名な医学博士であられる。夫妻して、貴き献身の歴史をつづってこられました。
 議員は、こう語っておられます。
 「すべてを実現することはできない。しかし、民衆の側に立ち、民衆の問題を解決するために戦うことはできる。これこそいちばん大事なことである」と。
 素晴らしい言葉です。牧口先生の哲学の精髄も、この一点を強調しておりました。
 要するに、「権力者が、民衆を自己の栄達の手段にしていく時代」に幕を閉じなければならない。そして「指導者が、民衆のために、自己をなげうって、貢献していく時代」を開かねばならない。牧口先生は、一生涯、この一点で戦いました。私も戦ってきました。皆さまも、戦ってください!。(拍手)
 正義の人が侮辱され、迫害されているのに、本気で立ち上がらない臆病者は、来世もまた“蛇ににらまれた蛙”のような、いつもおびえている生命になってしまう。勇気こそ仏法者の資格であります。

 

1998.6.6ブラジル・カンピーナス市「名誉市民証」授与式、「6・6」初代会長生誕記念幹部会

2014年11月20日

 “善人(づら)した傍観者”になるな

 

<末法の根本指針(2)>

   
 牧口先生は、正義の英雄を、ただ尊敬し、崇拝しているだけでは卑怯であると、厳しく戒めておられた。“傷つかないよう、自分だけ、いい子でいよう”という傍観者が、いちばん卑怯である。
 これまでも、学会を利用して、人の尊敬を集めながら、大事な時に戦わず、傍観と保身に終始した人間がいる。卑怯である。
 卑怯な人間は、功徳を消す。地獄界の原因を積む。仏法は厳しい。最高の善に背けば、最高の悪となるからである。
 牧口先生は、鋭く問いかける。
 ――正義の英雄が、迫害されながら、奮闘努力して、民衆のため、万人のために戦っていた時に、それを傍観して見殺しにした、ふがいない小善人どもを軽蔑せよ! 叱りとばせ!
 そして汝自身は、現在、また未来の人生において、その臆病な小善人の側に立って傍観するのか、それとも、正義の善人とともに、勇敢に戦っていくのか。それを心して定めよ!――と。
 正義の英雄とともに、どこまでも勇敢に戦っていく。これが創価学会である。ここに、創価学会の本当の「師子の道」がある。「師子」とは「師匠と弟子」ということである。
 この道を、敢然と進むか否か、覚悟を決めよ! これが牧口先生の問いかけであり、結論であった。


1998.6.16第二十三回本部幹部会、第七回婦人部幹部会 


2014年11月19日

 “善人(づら)した傍観者”になるな


<末法の根本指針(1)>

   
 牧口先生は繰り返し、繰り返し、主張された。
 「民衆よ利口になれ! 民衆よ覚醒せよ! 民衆よ勇気をもて! 民衆よ結合せよ! 団結せよ!」と。
 私が「民衆よ賢くあれ!」と何度も語ってきたのは、牧口先生、戸田先生の教えそのままなのである。その淵源は日蓮大聖人の仰せである。
 末法は「五濁悪世」である。命も時代も人間も思想も心も、すべて濁りきっている。
 また「闘諍言訟」の時代である。争いが絶えず、“自分さえよければ、他人なんか、どうでもよい”と、人を犠牲にしてしまう。そういう時代である。
 この末法における「根本の指針」は何か。
 牧口先生は、御書に引かれた涅槃経の経文を通して、喝破された。
 それは『慈無くして詐(いつわり)親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』

――慈悲なくして詐り親しむ人は、相手にとっての「敵」となる。相手の悪を取り除き、改めさせる人こそ、その人の「親」の存在である――との有名な一節である。
 すなわち――詐親(いつわりの親しみ、なれあい)を捨てて、正義を強く、また強く、言いきっていきたまえ! 真実を、妥協せず、徹底して叫びきっていくべきだ!――これを強調されたのである。
 牧口先生は、また正義の英雄を、断じて見殺しにしてはならない! と叫ばれた。
 “大善人は、古今を通じて、必ず強大なる迫害を受ける。これに対して、他の小善人どもは、内心には同情を寄せるものの、「自分たちには何の実力もない」と言って、傍観し、その英雄を見殺しにしてしまう”
 小善人とは、小さい善人。大きな悪いこともしないかわりに、大きな善もしない人間のことである。
 “小善人に見殺しにされるゆえに、多くの場合、孤立無援の大善人は負けてしまう。しかし、その四面楚歌の苦境にあっても、耐え抜いて、奮闘して、ついに勝利を得る勇者がいる。その人こそ、まことの英雄である”
 これが、牧口先生の透徹した史観であった。

(つづく)

世界広布新時代

創立90周年へ

前進・人材の年

(2020年)

2013.11.18

祝広宣流布大誓堂落慶

更新日

2020.7.6

第1688回

  

日天月天ワンショット

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