生命

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2022年6月18日

第2029回

地球に残された、驚くべき″資源″

 

<人間自身の「内なる富」>

 

 アマゾンとともに、

 地球に残された、驚くべき″資源″がある。

 それは、いったい何か。

 このテーマについて、

 私は″人類の頭脳″といわれる

 「ローマ・クラブ」創始者ペッチェイ博士と語りあった。

 

 地球の最大の″資源″とは、

 人間自身の「内なる富」である。

 人間の生命に秘められた、

 尽きることのない知恵とエネルギーを

 最大に開発しゅく「人間革命」の哲理こそが、

 人類の最高の希望となる。

 これを忘れてはならない――。

 

 この点で、

 ぺッチェイ博士と私の意見は一致した。

 博士は、創価学会の先見性と、

 人類に貢献する深き哲学に、

 大きな期待を寄せておられた。

 最大に讃嘆してくださった。

 思えば、

 ぺッチェイ博士との対談は、

 トインビー博士のすすめによるものだった。

 

2005.6.8第50回本部幹部会、第12回全国婦人部総会他

 

2021年12月23日

第1839回

 「夢のなかの栄え」「幻の楽しみ」

に惑うな!

 

「わが生命」こそ、三世に輝く財宝>

 

 大聖人は、仰せである。

死後の地獄等という

 苦悩の世界に行ったならば、

 王の位も、

 将軍の位も、

 何の役にも立たない。

 獄卒(地獄の鬼)の責めにあう姿は、

 猿回しに回される猿と変わらない。

 こうなった時は、

 どうして名聞名利や我慢偏執

 (我を頼んで心が傲り、

 偏ったものに執着すること)

 の心でいられようか

(新池御書1439㌻通解、新版2062㌻)

 

 いかに権威・権勢を誇っていても、

 死後の世界では、

 通用しない。

 

 すべては、

 自分が「いかに生きたか」で

 決まるのだ。

 みずからの行いの報いは、

 すべてみずからが

 受けなければならない。

 

 この厳しき

 「因果の理法」を前にした時、

 人間は、

 自身の生き方を

 正さないではいられまい。

 

 大聖人は、こうも言われている。

生涯は、どれほどもない。

 思えば、

 この世は(三世の旅路のうち)、

 一晩だけ泊まる仮の宿である。

 それを忘れて、

 どれほどの名声と利益を

 得ようというのか。

 また、得たとしても、

 これは、

 夢のなかの栄えであって、

 珍しくもない楽しみである

 (持妙法華問答抄466㌻通解、新版517㌻)

 

 三世の生命観に立てば、

 この世も、

 一晩の仮の宿のようなものである。

 

 現世でどれほどの名声や

 財産を得ようとも、

 これまた、

 死後の世界に

 もっていけるものではない。

 

 「夢のなかの栄え」

 「幻の楽しみ」

 に惑わされてはならない

 との仰せである。

 

 まじめに信心を貫いた人。

 広布のために生きぬいた人。

 華やかな脚光は浴びなくても、

 その人が「最高の勝利者」である。

 妙法によって磨かれた

 「わが生命」こそ、

 三世に輝く財宝なのである。

 

2006年3月21日 春季彼岸勤行法要

 

2021年11月22日

第1794回

生命とは何か

(1/5)

 

<永遠の生命と因果の理法>

 

 伸一は、笑いが静まると、力を込めて語り始めた。

 「これは極めて大事な問題です。

 死の解明は、

 人間の、そして、宗教の重要なテーマです。

 いくら語っても、

 語りつきない問題ですので、

 今日は、その一端だけ、お話しましょう。

 

 現代人のなかには、

 生命というのは、

 今世限りだと考えている人も多いようですが、

 もしも、生命が永遠でなければ、

 生まれながらの不公平を、

 どうとらえればよいのかという問題が残ります。

 

 日本の国に生まれる人もいれば、

 香港に生まれる人も、

 アメリカに生まれる人もいる。

 あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。

 さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、

 貧困の家に生まれる子もいる。

 生まれながらにして、

 不治の病に侵されていたり、

 不自由な体で生まれてくる子どももいます。

 生まれる境遇も、

 顔や姿も、千差万別です。

 まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、

 皆、平等につくるべきです。

 

 また、生命が今世限りなら、

 不幸な星の下に生まれた人は、

 親を恨み、無気力にならざるを得ません。

 あるいは、何をしようが、

 おもしろおかしく生きていけばよいと考え、

 刹那主義に陥ってしまうことになる。

 

 この宿命が、

 どこから生じたのかを、

 徹底して突き詰めていくならば、

 どうしても、

 今世だけで解決することはできない。

 生命が永遠であるという

 観点に立たざるを得ません」

 

 伸一は、参加者に視線を注いだ。皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。

 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、

 この宿命の根本原因を明かし、

 宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。

 

 では、仏法では、

 宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。

 自分以外のものによってつくられたのではなく、

 過去世において、

 自分自身がつくり出したものだというんです。

 少し難しくなりますが、

 身・口・意の三業の積み重ねが、

 宿業となるのです。

 つまり、

 どのような行動をし、

 何を言い、

 何を思い、考えてきたかです。

 たとえば、

 人を騙し、

 不幸にしてきたり、

 命を奪うといったことが、

 悪業をつくる原因になります。

 

 さらに最大の悪業の因は、

 誤った宗教に惑わされて、

 正法を誹謗することです。

 これは生命の根本の法則に

 逆行することになるからです。

 

(つづく →2/5)

2021年11月23日

第1795回

生命とは何か

(2/5)

 

<死ねばどうなるのか? 宿業とは?>

 

 (→2/5 つづき)

 

 さて、人間は、

 死ねばどうなるのかという問題ですが、

 生命は大宇宙にとけ込みます。

 戸田先生は、その状態を、

 夜になって眠るようなものであると言われている。

 さらに、

 眠りから覚めれば新しい一日が始まる。

 これが来世にあたります。

 生命は、

 それを繰り返していくのです。

 ここで大事なことは、

 死後も、

 宿業は消えることなく、

 来世まで続くということです。

 たとえば、

 一晩、眠っても、

 昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。

 今世の苦しみは、

 また来世の苦しみとなります。

 今世で、

 七転八倒の苦しみのなかで死ねば、

 来世も同じ苦を背負って生まれてきます。

 人を恨み抜いて、

 怨念のなかで死を迎えるならば、

 来世も、

 人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。

 死んでも、

 宿命から逃れることはできない。

 ゆえに、自殺をしても、

 苦悩から解放されることはないんです。

 

 反対に、

 幸福境涯を確立し、

 喜びのなかに人生の幕を閉じれば、

 来世も、

 善処に生まれ、

 人生の幸福の軌道に入ることができます。

 こう言うと、

 なかには、

 来世も宿業で苦しむなら、

 生まれてこないで、

 ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、

 そうはいきません。

 生まれる前の、

 大宇宙にとけ込んだ状態であっても、

 生命は苦しみを感じているんです。

 ちょうど、

 大変な苦悩をかかえている時には、

 寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 彼は、

 生死という根本の問題を、

 わかりやすく、噛み砕いて語っていった。

 

 現代の思想や哲学は、

 今世のみに目を奪われている。

 それは、地表の芽を見て、

 根を見ないことに等しい。

 ゆえに、

 人間の苦悩の根源的な解決の方途を見いだせずにいるのだ。

 

(つづく→3/5)

2021年11月23日

第1796回

生命とは何か

(3/5)

 

<宿業転換>

 

(→3/5 つづき)

 

 伸一は話を続けた。

 「それでは、

 その宿業を転換し、

 幸福を実現する方法はあるのか。

 あります。

 それを、

 末法の私たちのために説いてくださったのが

 日蓮大聖人です。

 そして、

 その方法こそ御本尊への

 唱題であり、

 折伏です。

 それが、

 生命の法則に則った最高の善の生き方であり、

 歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する

 唯一の道なんです。

 こう申し上げると、

 初代会長の牧口先生は、

 牢獄で亡くなったではないか、

 不幸ではないかと言う人がいます。

 しかし、

 一番大切なことは、

 死を迎えた時の心であり、

 境涯です。

 苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、

 獄中であっても、

 安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。

 牧口先生は獄中からの便りに、

 経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。

 また、学会員でも、

 病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、

 思う人もいるでしょう。

 その場合でも、

 信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、

 仏法には明確に説かれております。

 つまり、

 本来、何度も生死を繰り返し、

 長い苦悩を経て、

 少しずつ宿業を消していくところを、

 今生で過去世の宿業をことごとく転換し、

 成仏しているんです。

 

 その証明の一つが

 臨終の相です。

 大聖人は御書のなかで、

 経文のうえから、

 体も柔らかいなど、

 成仏の相について論じられています。

 戸田先生も、

 微笑むような成仏の相で亡くなりました。

 私は数多くの同志の臨終を見てきました。

 ともあれ、

 広布のために、

 仏の使いとして行動し抜いた人は、

 いかなる状況のなかで亡くなったとしても、

 恐怖と苦悩の底に沈み、

 地獄の苦を受けることは絶対にない。

 経文にも、

 千の仏が手を差し伸べ、

 抱きかかえてくれると説かれている。

 臨終の時、

 一念に深く信心があること自体が成仏なんです。

 まさに、

 生きている時は、『生の仏』であり、

 死んだあとも『死の仏』です。

 さらに、その証明として、

 残された家族が、

 必ず幸福になっています。

 

 だから、

 信心をし、

 難に遭い、

 いかに苦労の連続であったとしても、

 退転してはならない。

 難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなんです。

 永遠の生命から見れば、

 今世の苦しみは一瞬にすぎない。

 未来の永遠の幸福が開けているんです」

 

(つづく→4/5)

2021年11月24日

第1797回

生命とは何か

(4/5)

 

先祖供養と先祖の成仏の証明

 

(→4/5 つづき)

 

 日蓮大聖人は

 「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書一四〇四㌻)と述べられている。

 「死とは何か」の正しい究明がなければ、

 人間として

 「なんのために死ぬか」

 「いかに死ぬか」を考えることはできない。

 そうであれば、

 「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。

 生と死とは、

 本来、表裏の関係にほかならないからである。

 現代人は、

 葬儀の形式などには、

 強い関心をもち始めているが、

 死という問題自体を、

 徹して掘り下げようとはしない。

 実はそこに目先の利害や虚栄、

 快楽に流されがちな風潮を生み出している、

 根本的な要因が潜んでいるといえよう。

 

 山本伸一は、

 ここで、先祖供養に話を移した。

 「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、

 どうしているかというと、

 既に生まれ、

 宿業に苦しんでいることもあれば、

 まだ、生まれていない場合もあるでしょう。

 あるいは、

 生まれていても、

 人間に生まれているとは限りません。

 宿業のいかんによっては、

 畜生、つまり動物に生まれることもある。

 これは、経文に明確です。

 むしろ、

 人間に生まれることの方が、

 はるかに難しい。

 しかし、

 先祖が何に生まれ、

 どこにいて、

 いかに苦しんでいても、

 生者が正しい信仰をもって、

 その成仏を願い、

 唱題していくならば、

 それが死者の生命に感応し、

 苦を抜き、

 楽を与えることができる。

 南無妙法蓮華経は

 宇宙の根本法であり、

 全宇宙に通じていくからです。

 ましてや、

 畜生などに生まれれば、

 自分では題目を唱えることはできないわけですから、

 私たちの唱題だけが頼みの綱になります。

 また、先祖が人間として生まれてきている場合には、

 私たちの送る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、

 仏法に縁し、

 信心をするようになるんです。

 したがって、

 先祖を供養するには、

 真剣に唱題する以外にありません。

 お金を出して、

 塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。

 もし、そうだとするなら、

 金の力で成仏できることになってしまう。

 一方、信心を全うし、

 成仏した人は、

 死んでも、

 すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、

 引き続き歓喜のなか、

 広宣流布に生きることができる。

 そして、

 先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、

 さきほども申しましたように、

 子孫である自分が、

 幸福になったかどうかです。

 それが、先祖の成仏の証明になります」

 

(つづく→5/5)

2021年11月24日

第1798回

生命とは何か

(5/5)

 

一生成仏の千載一遇のチャンス

 

(→5/5 つづき)

 

 人間は、

 過去世も未来世も見ることはできない。

 しかし、

 三世にわたる生命の因果の理法を知る時、

 いかに生きるかという、

 現在世の確かなる軌道が開かれる。

 そして、それが未来世を決定づけてゆく。

 伸一は、情熱を込めて訴えた。

 「私たちは今、

 人間として生まれてきた。

 しかも、

 大宇宙の根本法を知り、

 学会員として、

 広宣流布のために働くことができる。

 これは大変なことです。

 たとえば、

 森に足を踏み入れると、

 その足の下には、

 数万から数十万の、

 ダニなどの小さな生物がいるといわれています。

 さらに、細菌まで含め、

 全地球上の生命の数を合わせれば、

 気の遠くなるような数字になります。

 そのなかで、

 人間として生まれ、

 信心することができた。

 それは、

 何回も宝くじの一等が当たることより、

 遥かに難しいはずです。

 まさに、大福運、大使命のゆえに、

 幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。

 ところが、

 宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、

 人間と生まれて信心ができたすばらしさがなかなかわからないで、

 退転していく人もいます。

 残念極まりないことです。

 私たちにとっては、

 この生涯が、

 一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。

 どうか、

 この最高の機会を、

 決して無駄にしないでいただきたい。

 

 永遠の生命といっても、

 いっさいは『今』にあります。

 過去も未来も『今』に収まっている。

 ゆえに、

 この一瞬を、

 今日一日を、

 この生涯を、

 感謝と歓喜をもって、

 広宣流布のために、

 力の限り生き抜いていってください。

 ザッツ、オーケー?(よろしいですね)」

 伸一が英語で話を締めくくると、

 弾けるような声と明るい笑いが広がった。

 彼が、

 この質問に、

 かなり長い時間をかけて答えたのは、

 生死という人生の根本の

 テーマを明確にしておきたかったからである。

 

<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 62頁~70頁

2020年12月13日

第1701回

生き抜く力はわが生命に

 

 病気をした人は、

 その分、

 人のことを思いやれる。

 慈愛が深まる。

 病気は、

 いろいろなことを

 教えてくれる。

 死を見つめたり、

 生きる意味を考えたり、

 人生のかけがえのなさが

 見えてくるものだ。

 すべて、

 より高い人生の頂へと

 登っていくための

 通路なのだ。

 教科書なのである。

  

 生命には

 「生き抜く力」がある。

 「治す力」がある。

 それを引き出す

 最高の「大良薬」が

 妙法である。

 病気を

 宿命転換の好機と定める。

 その強き一念が、

 一切の障魔を破り、

 幸福への軌道を広げる。

  

 人間誰しも

 病気になることはある。

 肝心なのは

 「病気に負けない」ことだ。

 「強い心」「負けない心」が

 あるかぎり、

 人間は、すべてを

 プラスに転じていける。

  

 大切なのは、

 生きているうちに、

 どれだけ「生命の質」を

 高めることができるかだ。

 長く生きることだけが、

 長寿ではない。

 大切なのは、

 きょう一日を、

 広布の前進とともに

 悔いなく

 生ききることである。

 いくつになっても、

 生きる目標を

 胸中に燦然と

 輝かせていくことだ。

  

 たとえ病気になっても、

 心は生き生きと!――

 絶対に負けてはいけない。

 戦う心まで

 病魔に

 食い破られてはならない。

 人生の勝敗は、

 途中では決まらない。

 最後に勝つ人が、

 真の勝利者なのである。

 

2020年12月13日〈池田大作先生 四季の励まし〉

2018年8月3日

第1517回

人生抄「生死」より

 

 

運命や偶然は
より深い法のうえでの因果の現象

 

 運命とは原因、結果の法の枠外にあるものではなく、より深い法のうえでの原因、結果の現象のあらわれにほかならない。
 それを偶然と考え、運命とよぶのは、その”法”の実在を知らないからである。といったら言い過ぎであろうか。

 

 

真の長寿は

この生命が、どれだけの仕事をやりきったか

 

 ただ、人はこのおのおのの、生きうる人生に真剣にとりくみ、偉大な仕事をなしとげることによって、五十年の人生を百年にも千年にも匹敵する人生とすることができる。
 ――真の長寿は、この肉体が何年間、生体活動をつづけたかではなく、この生命が、どれだけの仕事をやりきったか、によって判定されるべきものであろう。

 

生命へのアプローチは

直観智によるべきである

 

 生命へのアプローチは、科学の本領である分析と総合によるのではなく、直観智によらなければならない。
 それは、すぐれて主観的なものであり、生きている自己への生命感である。人間の幸、不幸の諸相は、この生命感の変化相以外のなにものでもないからである。

 

生命は
それ自体が作者であり、作品なのである。

 

 生命ほど不思議なものは、他にあるまい。人体のもつ機能の側面を、機械に見立てている人もいるようである。
 よしんば、機械と見ることができたとしても、これほど見事な機械は、近代科学のあらゆる方法をもってしてもつくることはできない。
 しかも、機械は他に作製者がある。この生命という機械は、それ自体が作者であり、作品なのである。

 

人生抄 121頁~122頁

2016年7月20日

我らは無限の力を秘めた「小宇宙」

 

だれもが、宇宙の無限の
力を秘めた「小宇宙」。
だから、あの「太陽」も
自分の中にある。
輝く「銀河」もある。
星々をわたりゆく無数の光が、
この胸の中にある。

 

グラフSGI2016年8月号わが友へ

2014年11月14日

逆境をはね返す力を涌現せよ!

   
 1975年(昭和50年)11月、

 私は世界最初の原爆投下の犠牲となった広島で、

 核兵器廃絶の誓いも新たに、

 原爆慰霊碑に花を捧げました。
 この折の本部総会で、私は訴えました。
 「創価学会の社会的役割、使命は、

 暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を冒し続ける“力”に対する、

 内なる生命の深みより発する“精神”の戦いであると位置づけておきたい」
 たとえ外的な環境・条件がどんなに厳しくとも、

 絶望や無力感に沈む必要は断じてない。

 希望を抱いて行動し、

 勇気を起こして道を開いていける生命の力が、

 人間に本来あることを法華経は解き明かしています。

 人間がもともと持っている、

 「逆境をはね返す力」を涌現させることが

 大聖人の仏法の目的なのです。

 

大白蓮華No.780号2014.11月号36頁

2014年8月12日13日

生命の因果律による王道を

   
 「現在の自分の境遇は、決して、偶然ではない。経文に、『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』(開目抄下、231頁、編461頁)とあるように、厳たる生命の因果律があります」
 正法のために、

 尽くし抜いた報いは、

 必ず、限りない大功徳、大福運となる。

 この生命の因果を確信することから、仏法は始まる。
 人間は、

 三世にわたる生命の因果の理法に立脚して生きるならば、

 心の内に、おのずからモラルが確立され、

 善の王道を歩むことができよう。

 当然、そこから、人の不幸のうえに、

 自分の幸福を築こうという発想は出てこない。
 今日、モラルの低下が指摘されて久しく、

 いじめや迷惑行為、不正行為も、

 より根本的な解決のためには、

 モラルの規範となる確たる法理を、

 人間の心に打ち立てることである。
 つまり、人の目は、ごまかすことはできたとしても、

 生命の因果律からは、

 誰人も決して逃れることはできないという思想の確立こそが不可欠であり、喫緊の課題といってよい。

 人間は、この法理のもとに、

 よき人生を築こうと努力するなかで、

 人格も磨かれていくのである。

 ゆえに、仏法者とは、輝ける人格の人でなければならない。


 小説 新・人間革命 25巻 共戦 176頁

2014年3月8日

 元初の仏界の生命

 

 『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず』(開目抄下、223頁)


 大願を貫かれながら、

 幾多の大難を越えてこられた大聖人は、

 竜の口の法難という、

 生命に及ぶ最大の迫害をも勝ち越えられました。
 ここで仰せの大聖人の「魂魄」とは、

 万人に具わる元初の仏界の生命です。

 大聖人という一個の人格の真髄として成就されたがゆえに、

 「魂魄」と言われているのです。


 その生命は、

 自由自在であり、

 晴ればれと開かれています。

 生きとし生けるものへの慈しみに満ち、

 苦悩する存在への同苦がみなぎっている。
 また、決して枯れることのない智慧と精神力がほとばしり、

 尽きない生命力と福徳が湧き出ている。

 さらに、自他の悪と戦う勇気に燃え、

 何ものにも恐れることはない。
 そういう仏界の生命を、

 味わい、楽しみ切っていくことが、

 人生の至高の意義です。

 人間が「心」をもっているのは、

 苦しむためでなく、

 仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。
 これ以上の楽しみはない。

 

 ゆえに、法華経の寿量品では、

 この現実世界を「衆生所遊楽」と説かれているのです。
 末法の根本的な救済は、

 これを教えるしかない。

 

御書の世界(上)第二章 誓願

2014年2月11日

三世永遠に勇猛精進

 

仏法の真髄を体得した人>

 
 「此経難持」という法華経の文の後には、

 「是れは則ち勇猛なり、是れは則ち精進なり」(法華経394頁)

 と続きます。
 「勇猛精進」とは、

 法華経を実践する根本の魂であり、

 心が勇猛果敢で、

 苦難に挑戦し、

 力を尽くして仏道修行に励むことです。


 信心とは、

 常に自分自身との戦いであり、

 苦難に打ち勝つためには、

 戦いをやめてはならない――。

 いな、戦い続けるなかに、

 必ず仏の生命が現れるのです。

 つまり、「此経難持」とは、

 法華経を持ち続けることの難しさを示すとともに、

 仏法者として、

 いかなる困難とも戦い続ける深い決意に立つことを

 教えているとも拝せます。


 かつて、初代会長の牧口常三郎先生は青年に語られました。
 「勇猛精進したまえ!

 仏法は実行だよ。精進だよ。

 老齢にはなったが、私も実践しています」と。


 勇んで挑戦するところに生命の躍動があり、

 智慧も生まれます。

 そこに歓喜があり、

 希望がみなぎるのです。
 勇猛精進に徹する人には、

 永遠に行き詰まりがない。

 勇猛精進の人こそ、

 仏法の真髄を体得した人と言えるのではないでしょうか。

 

大白蓮華No.771号2014.2月号35頁

2014年1月14日

「戦う人」に道は開ける!


 「戦い」こそ「生命」の本質である。

 ならば、

 闘争また闘争を永遠にやりきっていける

 自分自身の生命でなければならない。

 その連続闘争の生命をつくり上げるのが仏法であります。


 「正義」は勝たねばならない。

 ゆえに戦い続けねばならない。

 戦い勝たなければ、

 「正義」はなくなってしまう。

 私の人生の体験を通しても、

 このとおりであります。
 山も、高く登れば登るほど、

 道は狭くけわしくなる。

 風は激しく襲いかかってくる。

 これに負けたら、

 頂上へは行けません。
 しかし、

 戦うかぎり、

 必ず道は開ける。

 戦うかぎり、

 必ず栄え続ける。

 戦うかぎり、

 絶対に行き詰まりはない。
 戦おう!

 大聖人の仏法は「勝負」だから!


 グアムの箴言にも「問題があるならば、ただちに敢然と立ち向かえ!手がつけられなくなるまで放置してはいけない」とあるとおりであります。
 二十一世紀の乱戦を勝ち抜いていく要諦は

 「迅速に」

 「勇敢に」

 「大胆に」

 徹底して攻勢に出ていくことであります。
 そのように戦ったところが勝つ。

 これが仏法です。

 これが歴史の法則です。

 

2000.1.28米国・グアム大学「名誉人文学博士号」授与式、他

2013年12月18日

常に立ち返るべき原点

 

簡潔にして根本の原則>

 

 常に立ち返るべき原点は

 「自分自身」であり、

 「生命それ自体」であるということである。
 人間が人間らしく生き、

 人間らしく生命を輝かせていく。

 これ以上のことはない。
 そこにはじめて、

 人間らしく

 「幸福」と「平和」と「自然との共生」を実現していける。
 今こそ、

 「人間」という原点に返るべきではないだろうか。
 その点、

 沖縄には、

 「命こそ宝」という哲学が光っている。
 人間教育の根本も、

 「生命を大切にすること」である。
 だから「絶対に人を殺してならない」。
 だから「絶対に戦争を起こしてはならない」。
 簡潔にして根本の原則である。
 この点だけは、

 21世紀の世代に、峻厳に教え伝えていかなければならない。
 それ以外のことは、

 でき得る限り、自由に、伸び伸びと、大らかに、未来部を育て、

 応援していけばよいと私は思う。 

 

聖教新聞2013.12.17付2000年7月度本部幹部会スピーチ

2013年9月19日

命を育てる喜び


 「土に触れる喜び」

 「命を育てる喜び」

 は自分自身の生命をも輝かせます。
 ゆえに、

 農業、漁業を大切にしない社会は、

 生命を軽視する野蛮な社会となり、

 全ての面で行き詰まる。

 農業、漁業に携わる方々が、

 いやまして豊かに幸福に光り輝く社会を――

 これが私の一貫した持論であり、

 心からの叫びであります。(中略)


 農業の発展と地域の繁栄は、

 密接に結びついています。

 畑を耕すことは、

 地域を耕し、

 心を耕し、

 地球を耕していきます。


 青年の力は無限です。

 たとえ逆境に突き落とされても、

 ピンチをチャンスに変える。
 最後に勝つドラマをつくる。

 それが青年の強さです。
 偉大な使命に生き抜けば、

 偉大な自分を築いていける。

 いわんや、

 変毒為薬の妙法を持った青年には、

 不可能をも可能にする力があるのです。 

 

聖教新聞2013.9.11付世界農漁村青年会議

2013年1月15日

勝つのだ

 

勝つのだ!
一切に勝つのだ。
所詮は
自分自身に勝つのだ。 
森羅万象
大宇宙の太陽も
無数の星も
すべて勝利している
生命の力の象徴。
勝ちたる人生も同じだ。 
輝き生きるために
勝つのだ!
勝負があるのだ!

 

聖教新聞2013.1.6付桂冠詩人の世界

2012年8月16日

臨死体験と人間革命

 

人間革命することが、人生でいちばん大事なこと>

 

最近、「死の淵から蘇った体験(臨死体験)」が科学的に研究されるようになってきた。その結果、こういうことが実際起こるようだと、だんだん証明されてきています。多くの証言を総合すると、自分がしたすべてを思い出すと同時に、それが人にどんな影響を与えたかまで感じるのだという。つまり、人をいじめたことを思い出すと、相手の苦しみや悲しみまで、じかに感じられて、「ああ、なんてことをしてしまったのか」と思う。反対に、人に親切にし、優しくしたことを思い出すと、相手の喜びが伝わってきて、「よかったなあ!」と幸せな気持ちになる。そういうことが、あっという短い時間に体験されるというのです。そして「死」から奇跡的に回復した人は、「人生でいちばん大事なことは、地位じゃない。名誉じゃない。財産じゃない。人に認められることでもない。大事なのは、人間と人間の愛情だ!人に優しくすることだ!思いやりをもって、尽くしていくことなんだ!」と実感するそうです。(中略)自分自身が「どんな人間だったのか」「どんな生命だったのか」、それしか残らない。生きているときは、ある程度、隠されていた、そういう根本の部分が、がーっと表に出てくるのが「死」です。そして、その「裸の自分自身」が、死後も宇宙に溶け込んだまま、ずーっと続いていくのです。「死」のときには、だれも助けてくれない。お父さんも、お母さんも、親友も、だれも手助けできない。たった一人で、立ち向かうしかない。しかも、お金も知識も役に立たない。むしろ、ふだん、いばっていたり、人に命令したり、たくさんのモノで自分を飾っている人ほど、「どうして、こんなに偉い自分がしなないといけないのか」とか思って、苦しむと言われている。そういう研究があります。

 人生の最期に頼りになるのは、

 ただひとつ、

 生きている間に「鍛えぬいた生命」だけです。

 だから、いちばん大事なのは、 

 「いい人間」になることです。 

 「強い生命」になることです。 

 「慈愛にあふれた自分自身」になることです。 

 つまり「人間革命」することです。  

 人間革命することが、

 人生でいちばん大事なことなのです。

 そして、

 それがそのまま「死の準備」になっているのです。

 

希望対話 374~378頁

2012年8月5日

生命とは

「死の瞬間と人間革命」

 

「人間革命」することが一生で最重要

 

 一般的にも言われていることだが、

 たくさんの人の死を看取ってきた、

 ある女性がこう言っていた。

 

 「人生の最期に、

 パーッと、パノラマのように

 自分の人生が思い出されるようです。

 その中身は、

 自分が社長になったとか、

 商売がうまくいったとかではなく、

 

 自分がどんなふうに生きてきたか、

 だれをどんなふうに愛したか、

 優しくしたか、

 どんなふうに冷たくしたか。

 自分の信念を貫いた満足感とか、

 裏切った傷とか、

 そういう『人間として』の部分が、

 ぐわあーっと迫ってくる。

 それが『死』です」と。

 

 その瞬間には

 「有名」も役に立たない。

 「お金」も役に立たない。

 「知識」も役に立たない。

 「地位」も役に立たない。

 友人も家族も助けることはできない。

 自分自身の「真実」に一人向き合うことになる。

 厳粛です。

 しかも、

 その死の瞬間の自分自身が、その後も、ずっと続くのです。

 だから、

 生きている間に、

 生命を「仏界」へと引き上げておきなさいと仏教は説く。

 「人間として」最高に豊かな自分をつくるのです。

 そのために信心があるのです。

 「人間革命」することが一生で最重要なことなのです。

 

青春対話 2 青春の躍動 213~4頁

2012年8月4日  

生命とは

「死後の生命の行き先」

 

「生命の基底部」が、

 そのまま死後の行き先を決める

 

(死後の生命状態はどうやって決まるのでしょうか)

 大事なのは

 「一個の人間にも十界※がある」ように

 「大宇宙にも十界がある」ということです。

 そして生命の基本が「地獄界」になった人は、

 死後、宇宙の「地獄界」に溶け込むのです。

 自分の生命に「地獄界」はあるが、

 どこにあるかといっても、

 特定の場所にあるわけではない。

 歯が痛くて苦しんでいるから、

 歯に地獄界があるとは言えない。

 その時は、

 生命全体が苦しみ、

 全体が地獄界になっている。

 それに似て、

 生命の基底が「地獄界」で死んだ場合、

 その人にとって、

 宇宙全体が地獄界になるのです。

 (生命の基底というのは)自分がいつもそこに帰っていく

 「基地」のようなものです。

 だれでも、生きていると、毎日、いろいろな「縁」があるから、

 そのつど怒ったり、笑ったり、考え込んだり、

 生命は変化、変化している。

 それでも、

 「すぐに怒る」怒りっぽい人とか、

 「すぐ落ち込む」生命力が弱い人とか、

 「真っ先に人のことを考える」菩薩界の人とか、

 その人の生命の基本、基地というものがある。

 この「生命の基底部」が、

 そのまま死後の行き先を決めるのです。

 しかも、死後は外界の縁が生前のようにはないから、

 その「基底部」が自分のすべてになってしまう。

 基底部が地獄界の人・・・

 何をしても苦しい、

 生きるのが苦しいという人も、

 生きていれば楽しい瞬間もあるでしょう。

 しかし死んだら、

 もう地獄界という基底部だけを味わっていくしかなくなるのです。

 それが端的に表れるのが「死」の瞬間です。

 

※十界とは、境界の低い順に、

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界

 

 青春対話 2 青春の躍動 211~213頁

2012年8月3日

生命とは

 

 仏法では、

 全宇宙を「一つの巨大な生命」と見る。

 個々の生命は、

 大海の波のようなものです。

 波が盛り上がれば「生」。

 波が宇宙に溶け込めば「死」。

 生も死も、宇宙と一体です。

 一つの生命が生まれてくるには、

 全宇宙が協力している。

 

(中略)戸田先生は

 「池に、インクをたらすと、溶けて見えなくなる。これが死だ。その後で、スポイトか何かで、インクの成分だけを集めたとする。これが生だ」と言われたことがある。

 「無」ではない。

 いつか縁に触れて、

 また「生」の状態になるのだから。

 それでは「有」かと言うと、

 まったくどこにも存在しない。

 宇宙の〝ここ〟にあるとか、

 〝あそこ〟にあるとかは言えない。

 宇宙の全体と一体となってしまっている。

 「無」でも「有」でもない。

 これを「空」と言う。(※譬えれば電波のようなもの)

 (中略)

 生命は宇宙に溶け込んで、

 たがいにぶつかりもしなければ、

 おぶさったり、

 手をつないだりもしていない。

 それぞれが宇宙と一体になりながら、

 しかも個性が連続しているのです。

 (中略)

 「霊魂のようなものはない」と説くのが仏教です。

 「生命」は「色心不二」と言って、

 生きている時も死後も、

 「肉体的エネルギー」と「精神的エネルギー」は

 分けることはできない。

 一体不二です。

 「魂」だけが、フワフワと体から抜け出し、

 そこらを飛び回るというのは迷信です。

 あくまで「心身一体」である「生命」が

 宇宙の大生命に溶け込みながら連続していくのです。

 (中略)

 「脳」が死ねば、

 「精神的エネルギー」は顕現する〝場〟を失うが、

 そのエネルギーそのものが消えたわけではないのです。

 同じく「肉体」の死によっても、

 身体的なエネルギーは消滅しない。

 活動の場を失い、潜在化するだけです。

 次の生のときに顕在化し、活性化する。

 しかし「生まれ変わる」のではありません。

 生まれ変わらないで、

 ずっと連続している。

 別の生命に変わるのではない。

 (中略)

 題目の音声は、

 死後の生命にも厳然と届いていく。

 もちろん生きている人の生命にも届いていく。

 大宇宙のどこであれ、

 地獄の果てまでも、

 温かい希望と安らぎの光で照らしていくのが

 南無妙法蓮華経の力です。

 (中略)

 生も死も「生命」の変化の姿です。

 生と死は「二つ」のようであって、

 その奥底にある、一つの生命は不変であり、

 生と死を貫いて、

 永遠に続いている。

 その「永遠なる生命」の根源のリズムが

 南無妙法蓮華経です。

 だから題目は、

 死後の生命をも救っていけるのです。

(※サイト・マスタ注釈)

青春対話 2 青春の躍動 193,205~211頁

2012年6月27日  

縁ある人は自他不二
  
 自分に縁ある人とは、
 三世にわたってつながっている。
 自他不二です。
 ゆえに、互いに励まし合い、
 仏の生命という最高無上の宝を光らせながら、
 価値ある有意義な人生を生き抜いていくことです。
 
聖教新聞 2012.3.29付 第三回 人間を結べ!つながりは力(下) 

世界広布新時代

創立100周年へ

青年・飛躍の年

(2022年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2022.8.14

第2073

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日天月天ワンショット

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