2018年8月3日
第1517回
人生抄「生死」より
運命や偶然は
より深い法のうえでの因果の現象
運命とは原因、結果の法の枠外にあるものではなく、より深い法のうえでの原因、結果の現象のあらわれにほかならない。
それを偶然と考え、運命とよぶのは、その”法”の実在を知らないからである。といったら言い過ぎであろうか。
真の長寿は
この生命が、どれだけの仕事をやりきったか
ただ、人はこのおのおのの、生きうる人生に真剣にとりくみ、偉大な仕事をなしとげることによって、五十年の人生を百年にも千年にも匹敵する人生とすることができる。
――真の長寿は、この肉体が何年間、生体活動をつづけたかではなく、この生命が、どれだけの仕事をやりきったか、によって判定されるべきものであろう。
生命へのアプローチは
直観智によるべきである
生命へのアプローチは、科学の本領である分析と総合によるのではなく、直観智によらなければならない。
それは、すぐれて主観的なものであり、生きている自己への生命感である。人間の幸、不幸の諸相は、この生命感の変化相以外のなにものでもないからである。
生命は
それ自体が作者であり、作品なのである。
生命ほど不思議なものは、他にあるまい。人体のもつ機能の側面を、機械に見立てている人もいるようである。
よしんば、機械と見ることができたとしても、これほど見事な機械は、近代科学のあらゆる方法をもってしてもつくることはできない。
しかも、機械は他に作製者がある。この生命という機械は、それ自体が作者であり、作品なのである。
人生抄 121頁~122頁
2016年7月20日
我らは無限の力を秘めた「小宇宙」
だれもが、宇宙の無限の
力を秘めた「小宇宙」。
だから、あの「太陽」も
自分の中にある。
輝く「銀河」もある。
星々をわたりゆく無数の光が、
この胸の中にある。
グラフSGI2016年8月号わが友へ
2014年11月14日
逆境をはね返す力を涌現せよ!
1975年(昭和50年)11月、私は世界最初の原爆投下の犠牲となった広島で、核兵器廃絶の誓いも新たに、原爆慰霊碑に花を捧げました。
この折の本部総会で、私は訴えました。
「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を冒し続ける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いであると位置づけておきたい」
たとえ外的な環境・条件がどんなに厳しくとも、絶望や無力感に沈む必要は断じてない。希望を抱いて行動し、勇気を起こして道を開いていける生命の力が、人間に本来あることを法華経は解き明かしています。人間がもともと持っている、「逆境をはね返す力」を涌現させることが大聖人の仏法の目的なのです。
大白蓮華No.780号2014.11月号36頁
2014年8月12日13日
生命の因果律による王道を
「現在の自分の境遇は、決して、偶然ではない。経文に、『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』(開目抄下、231頁、編461頁)とあるように、厳たる生命の因果律があります」
正法のために、尽くし抜いた報いは、必ず、限りない大功徳、大福運となる。この生命の因果を確信することから、仏法は始まる。
人間は、三世にわたる生命の因果の理法に立脚して生きるならば、心の内に、おのずからモラルが確立され、善の王道を歩むことができよう。当然、そこから、人の不幸のうえに、自分の幸福を築こうという発想は出てこない。
今日、モラルの低下が指摘されて久しく、いじめや迷惑行為、不正行為も、より根本的な解決のためには、モラルの規範となる確たる法理を、人間の心に打ち立てることである。
つまり、人の目は、ごまかすことはできたとしても、生命の因果律からは、誰人も決して逃れることはできないという思想の確立こそが不可欠であり、喫緊の課題といってよい。人間は、この法理のもとに、よき人生を築こうと努力するなかで、人格も磨かれていくのである。ゆえに、仏法者とは、輝ける人格の人でなければならない。
小説 新・人間革命 25巻 共戦 176頁
2014年3月8日
元初の仏界の生命
『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず』(開目抄下、223頁)
大願を貫かれながら、幾多の大難を越えてこられた大聖人は、竜の口の法難という、生命に及ぶ最大の迫害をも勝ち越えられました。
ここで仰せの大聖人の「魂魄」とは、万人に具わる元初の仏界の生命です。大聖人という一個の人格の真髄として成就されたがゆえに、「魂魄」と言われているのです。
その生命は、自由自在であり、晴ればれと開かれています。生きとし生けるものへの慈しみに満ち、苦悩する存在への同苦がみなぎっている。
また、決して枯れることのない智慧と精神力がほとばしり、尽きない生命力と福徳が湧き出ている。さらに、自他の悪と戦う勇気に燃え、何ものにも恐れることはない。
そういう仏界の生命を、味わい、楽しみ切っていくことが、人生の至高の意義です。人間が「心」をもっているのは、苦しむためでなく、仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。
これ以上の楽しみはない。ゆえに、法華経の寿量品では、この現実世界を「衆生所遊楽」と説かれているのです。
末法の根本的な救済は、これを教えるしかない。
御書の世界(上)第二章 誓願
2014年2月11日
三世永遠に勇猛精進
「此経難持」という法華経の文の後には、「是れは則ち勇猛なり、是れは則ち精進なり」(法華経394頁)と続きます。
「勇猛精進」とは、法華経を実践する根本の魂であり、心が勇猛果敢で、苦難に挑戦し、力を尽くして仏道修行に励むことです。
信心とは、常に自分自身との戦いであり、苦難に打ち勝つためには、戦いをやめてはならない――。いな、戦い続けるなかに、必ず仏の生命が現れるのです。つまり、「此経難持」とは、法華経を持ち続けることの難しさを示すとともに、仏法者として、いかなる困難とも戦い続ける深い決意に立つことを教えているとも拝せます。
かつて、初代会長の牧口常三郎先生は青年に語られました。
「勇猛精進したまえ! 仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」と。
勇んで挑戦するところに生命の躍動があり、智慧も生まれます。そこに歓喜があり、希望がみなぎるのです。
勇猛精進に徹する人には、永遠に行き詰まりがない。勇猛精進の人こそ、仏法の真髄を体得した人と言えるのではないでしょうか。
大白蓮華No.771号2014.2月号35頁
2014年1月14日
「戦う人」に道は開ける!
「戦い」こそ「生命」の本質である。ならば、闘争また闘争を永遠にやりきっていける自分自身の生命でなければならない。その連続闘争の生命をつくり上げるのが仏法であります。
「正義」は勝たねばならない。ゆえに戦い続けねばならない。戦い勝たなければ、「正義」はなくなってしまう。私の人生の体験を通しても、このとおりであります。
山も、高く登れば登るほど、道は狭くけわしくなる。風は激しく襲いかかってくる。これに負けたら、頂上へは行けません。
しかし、戦うかぎり、必ず道は開ける。戦うかぎり、必ず栄え続ける。戦うかぎり、絶対に行き詰まりはない。
戦おう!大聖人の仏法は「勝負」だから!
グアムの箴言にも「問題があるならば、ただちに敢然と立ち向かえ!手がつけられなくなるまで放置してはいけない」とあるとおりであります。
二十一世紀の乱戦を勝ち抜いていく要諦は「迅速に」「勇敢に」「大胆に」徹底して攻勢に出ていくことであります。
そのように戦ったところが勝つ。これが仏法です。これが歴史の法則です。
2000.1.28米国・グアム大学「名誉人文学博士号」授与式、他
2013年12月18日
常に立ち返るべき原点
常に立ち返るべき原点は「自分自身」であり、「生命それ自体」であるということである。
人間が人間らしく生き、人間らしく生命を輝かせていく。これ以上のことはない。
そこにはじめて、人間らしく「幸福」と「平和」と「自然との共生」を実現していける。
今こそ、「人間」という原点に返るべきではないだろうか。
その点、沖縄には、「命こそ宝」という哲学が光っている。
人間教育の根本も、「生命を大切にすること」である。
だから「絶対に人を殺してならない」。
だから「絶対に戦争を起こしてはならない」。
簡潔にして根本の原則である。
この点だけは、21世紀の世代に、峻厳に教え伝えていかなければならない。
それ以外のことは、でき得る限り、自由に、伸び伸びと、大らかに、未来部を育て、応援していけばよいと私は思う。
2013年9月19日
命を育てる喜び
「土に触れる喜び」「命を育てる喜び」は自分自身の生命をも輝かせます。
ゆえに、農業、漁業を大切にしない社会は、生命を軽視する野蛮な社会となり、全ての面で行き詰まる。農業、漁業に携わる方々が、いやまして豊かに幸福に光り輝く社会を――これが私の一貫した持論であり、心からの叫びであります。(中略)
農業の発展と地域の繁栄は、密接に結びついています。畑を耕すことは、地域を耕し、心を耕し、地球を耕していきます。
青年の力は無限です。たとえ逆境に突き落とされても、ピンチをチャンスに変える。
最後に勝つドラマをつくる。それが青年の強さです。
偉大な使命に生き抜けば、偉大な自分を築いていける。いわんや、変毒為薬の妙法を持った青年には、不可能をも可能にする力があるのです。
聖教新聞2013.9.11付世界農漁村青年会議
2013年1月15日
勝つのだ
聖教新聞2013.1.6付桂冠詩人の世界
2012年8月16日
臨死体験と人間革命
最近、「死の淵から蘇った体験(臨死体験)」が科学的に研究されるようになってきた。その結果、こういうことが実際起こるようだと、だんだん証明されてきています。多くの証言を総合すると、自分がしたすべてを思い出すと同時に、それが人にどんな影響を与えたかまで感じるのだという。つまり、人をいじめたことを思い出すと、相手の苦しみや悲しみまで、じかに感じられて、「ああ、なんてことをしてしまったのか」と思う。反対に、人に親切にし、優しくしたことを思い出すと、相手の喜びが伝わってきて、「よかったなあ!」と幸せな気持ちになる。そういうことが、あっという短い時間に体験されるというのです。そして「死」から奇跡的に回復した人は、「人生でいちばん大事なことは、地位じゃない。名誉じゃない。財産じゃない。人に認められることでもない。大事なのは、人間と人間の愛情だ!人に優しくすることだ!思いやりをもって、尽くしていくことなんだ!」と実感するそうです。(中略)自分自身が「どんな人間だったのか」「どんな生命だったのか」、それしか残らない。生きているときは、ある程度、隠されていた、そういう根本の部分が、がーっと表に出てくるのが「死」です。そして、その「裸の自分自身」が、死後も宇宙に溶け込んだまま、ずーっと続いていくのです。「死」のときには、だれも助けてくれない。お父さんも、お母さんも、親友も、だれも手助けできない。たった一人で、立ち向かうしかない。しかも、お金も知識も役に立たない。むしろ、ふだん、いばっていたり、人に命令したり、たくさんのモノで自分を飾っている人ほど、「どうして、こんなに偉い自分がしなないといけないのか」とか思って、苦しむと言われている。そういう研究があります。人生の最期に頼りになるのは、ただひとつ、生きている間に「鍛えぬいた生命」だけです。
だから、いちばん大事なのは、
「いい人間」になることです。
「強い生命」になることです。
「慈愛にあふれた自分自身」になることです。
つまり「人間革命」することです。
人間革命することが、人生でいちばん大事なことなのです。
そして、それがそのまま「死の準備」になっているのです。
希望対話 374~378頁
2012年8月5日
生命とは・・・死の瞬間と人間革命
一般的にも言われていることだが、たくさんの人の死を看取ってきた、ある女性がこう言っていた。
「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなく、自分がどんなふうに生きてきたか、だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわあーっと迫ってくる。それが『死』です」と。
その瞬間には「有名」も役に立たない。「お金」も役に立たない。「知識」も役に立たない。「地位」も役に立たない。友人も家族も助けることはできない。自分自身の「真実」に一人向き合うことになる。厳粛です。
しかも、その死の瞬間の自分自身が、その後も、ずっと続くのです。だから、生きている間に、生命を「仏界」へと引き上げておきなさいと仏教は説く。「人間として」最高に豊かな自分をつくるのです。そのために信心があるのです。「人間革命」することが一生で最重要なことなのです。
青春対話 2 青春の躍動 213~4頁
2012年8月4日
生命とは・・・死後の生命の行き先
(死後の生命状態はどうやって決まるのでしょうか)大事なのは「一個の人間にも十界※がある」ように「大宇宙にも十界がある」ということです。そして生命の基本が「地獄界」になった人は、死後、宇宙の「地獄界」に溶け込むのです。自分の生命に「地獄界」はあるが、どこにあるかといっても、特定の場所にあるわけではない。歯が痛くて苦しんでいるから、歯に地獄界があるとは言えない。その時は、生命全体が苦しみ、全体が地獄界になっている。それに似て、生命の基底が「地獄界」で死んだ場合、その人にとって、宇宙全体が地獄界になるのです。(生命の基底というのは)自分がいつもそこに帰っていく「基地」のようなものです。だれでも、生きていると、毎日、いろいろな「縁」があるから、そのつど怒ったり、笑ったり、考え込んだり、生命は変化、変化している。それでも、「すぐに怒る」怒りっぽい人とか、「すぐ落ち込む」生命力が弱い人とか、「真っ先に人のことを考える」菩薩界の人とか、その人の生命の基本、基地というものがある。この「生命の基底部」が、そのまま死後の行き先を決めるのです。しかも、死後は外界の縁が生前のようにはないから、その「基底部」が自分のすべてになってしまう。基底部が地獄界の人・・・何をしても苦しい、生きるのが苦しいという人も、生きていれば楽しい瞬間もあるでしょう。しかし死んだら、もう地獄界という基底部だけを味わっていくしかなくなるのです。それが端的に表れるのが「死」の瞬間です。
(※十界とは、境界の低い順に、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界のことで、詳しくは用語解説として別途説明します。サイト・マスタ)
青春対話 2 青春の躍動 211~213頁
2012年8月3日
生命とは
仏法では、全宇宙を「一つの巨大な生命」と見る。個々の生命は、大海の波のようなものです。波が盛り上がれば「生」。波が宇宙に溶け込めば「死」。生も死も、宇宙と一体です。一つの生命が生まれてくるには、全宇宙が協力している。
(中略)戸田先生は「池に、インクをたらすと、溶けて見えなくなる。これが死だ。その後で、スポイトか何かで、インクの成分だけを集めたとする。これが生だ」と言われたことがある。
「無」ではない。いつか縁に触れて、また「生」の状態になるのだから。それでは「有」かと言うと、まったくどこにも存在しない。宇宙の〝ここ〟にあるとか、〝あそこ〟にあるとかは言えない。宇宙の全体と一体となってしまっている。「無」でも「有」でもない。これを「空」と言う。(※譬えれば電波のようなもの)
(中略)生命は宇宙に溶け込んで、たがいにぶつかりもしなければ、おぶさったり、手をつないだりもしていない。それぞれが宇宙と一体になりながら、しかも個性が連続しているのです。
(中略)「霊魂のようなものはない」と説くのが仏教です。「生命」は「色心不二」と言って、生きている時も死後も、「肉体的エネルギー」と「精神的エネルギー」は分けることはできない。一体不二です。「魂」だけが、フワフワと体から抜け出し、そこらを飛び回るというのは迷信です。あくまで「心身一体」である「生命」が宇宙の大生命に溶け込みながら連続していくのです。
(中略)「脳」が死ねば、「精神的エネルギー」は顕現する〝場〟を失うが、そのエネルギーそのものが消えたわけではないのです。同じく「肉体」の死によっても、身体的なエネルギーは消滅しない。活動の場を失い、潜在化するだけです。次の生のときに顕在化し、活性化する。しかし「生まれ変わる」のではありません。生まれ変わらないで、ずっと連続している。別の生命に変わるのではない。
(中略)題目の音声は、死後の生命にも厳然と届いていく。もちろん生きている人の生命にも届いていく。大宇宙のどこであれ、地獄の果てまでも、温かい希望と安らぎの光で照らしていくのが南無妙法蓮華経の力です。
(中略)生も死も「生命」の変化の姿です。生と死は「二つ」のようであって、その奥底にある、一つの生命は不変であり、生と死を貫いて、永遠に続いている。その「永遠なる生命」の根源のリズムが南無妙法蓮華経です。だから題目は、死後の生命をも救っていけるのです。
(※サイト・マスタ注釈)
青春対話 2 青春の躍動 193,205~211頁
2012年6月27日