軍国主義(国家主義)

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2022年6月29日30日

第2039

日本軍国主義を

絶対許すな!忘れるな!

 

<韓国、中国をいじめぬいた歴史を絶対忘れるな!>

 

 韓民族独立の指導者、

 呂運亨ヨウニヨン先生(一八八六年〜一九四七年)にふれたい。

 かつて日本は韓国を侵略した。

 いじめて、いじめて、いじめぬいた。

 中国に対しても同様に振る舞った。

 軍国主義は本当に悪い。

 そもそも、日本にとって、

 韓国、中国の文化の恩恵は計り知れない。

 この傲慢な日本の軍部権力に対して、

 牧口先生、戸田先生は敢然と立ち向かわれたのである。

 

 呂先生は、青年の活躍に最大に期待した。

青年は正義のためなら、

 惜しまない炎の心を持っている

 (「夢陽 呂運亨先生記念事業会」のホームページから)と。

 青年部の諸君は、

 正義の中の正義である広宣流布のために、

 わが身を惜しまず、炎の心で戦うことだ。

 そして断じて勝っことだ。

 青年部の諸君、よろしく頼みます!

 

 最後に、呂先生の

有利な時には、正義を口にし、

 不利な時に裏切るとは、とんでもない」(同前)

 との言葉を紹介し、

 私のスピーチを終わります。

 

2005.6.8第50回本部幹部会、第12回全国婦人部幹部会他

 

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2022年6月11日

第2023回

国家主義と戦った牧口先生

(5)

 

悪と戦う強さが社会を明朗に

 

 

 牧口先生は言われた。

言わねばならぬことを

 どしどし言うて折伏するのが、

 随自意の法華経であらせられると思う。

 ゆえに我々は、

 これで戦ってきたのが、

 今日の盛大をいたした所以であり、

 今後も、それで戦わねばならぬと思う。

 つまり我々は、

 蓮華が泥中よりぬけ出でて

 清浄の身をたもつがごとく、

 小善・中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、

 敢然と大悪を敵として

 戦っているようなものであれば、

 三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、

 起こるがゆえに行者と言われるのである」(『牧口常三郎全集』10)

 

 広宣流布は、

 永遠に、仏と魔との闘争である。

 先生の言われたとおり、

 学会は、「勇気の言論」で勝ってきた。

 三障四魔との戦いをやめないから勝ってきた。

 

 牧口先生は、こうも語られた。

「(=嫉妬や迫害を受けても)今後とも、

 さらに『不自惜身命』の決心をもって、

 いよいよこれを力説するつもりである」

だれかが言わねば、

 社会は遂に改まるの期

 ないことを思うからである」(同全集6)

 

 広布の指導者は、

 みずからが勇敢に、

 言うべきことを言わねばならない。

 皆が言うべきことを言えるよう、

 励ましていかねばならない。

 また、みずからが率先して行動しなければならない。

 そして、皆が行動できるよう励ましていかねばならない。

 要するに、みずからが断固として戦う。

 その必死の姿を通して、

 皆の「戦う心」に火をつけることである。

 

 牧口先生は教えられた。

大善人になるには、

 強くならねばならぬ。

 決然と悪に対峙たいじする山のごとき強さが、

 個人も社会も明朗にする

 

 強くなければ、本当の意味で、

 善人にはなれない。

 学会は「正義の中の正義」である。

 ゆえに、強くならねばならない。

 強くあってこそ、

 朗らかに前進することができる。

 「強さ」と「明朗さ」は一体なのである。

 

2005.6.6 牧口先生生誕記念協議会 

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2022年6月10日

第2022回

国家主義と戦った牧口先生

(4)

 

創価の師弟は勝った

 

 

 牧口先生は獄死され、

 戸田先生は生きて獄を出られた。

 戸田先生は厳然と語り残された。

私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる」「私の代にできなければ、きみらがやっていただきたい。たのみます

 私は、この戸田先生の意志を受け継いで、

 牧口先生の哲学と人生を宣揚してきた。

 創価学園をつくり、

 日本にもアメリカにも創価大学をつくった。

 師の構想を実現するのが、

 弟子の道である。

 

 今、アメリカやブラジルをはじめ世界の各国で、

 牧口先生の教育哲学が注目され、

 実践される時代に入った。

 また世界のどこに行っても、

 創価教育から巣立った人材が活躍している。

 牧口先生は勝ったのである。

 創価の師弟は勝ったのである

 私は本当にうれしい。

 

 牧口先生がつねに拝された御聖訓に、

 「観心本尊抄」の一節がある。

天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか

 先生は、この御文を通して指導された。

太陽が昇った瞬間から、

 大地はパッと明るくなる。

 同じように、信心すれば、

 生活のすべてが改善できるのです。

 大事なことは『天を晴らすこと』です。

 そういう信仰をしなくてはいけません

 

 この牧口先生のご精神のままに、

 信心強き皆さまは、

 わが身、わが地域を妙法の大功徳で照らし、

 人間革命と社会貢献の輝く実証を示してこられた。

 今や「創価の太陽」は、

 日本と世界を赫々と照らし、

 希望の大光を送っている。

(つづく)

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2022年6月8日9日

第2021回

国家主義と戦った牧口先生

(3)

 

どうして日本は、こんなにひどいのか!

 

 牧口先生のことを語られる時、

 戸田先生は涙を流すのがつねであった。

「仇は必ず討ってみせる」という怒りと決意が、

 燃え盛っておられた。

 

 牧口先生と戸田先生は、

 警視庁の取調室で一緒になった。

 (逮捕から二カ月後の昭和十八年九月)

 その時、牧口先生は、

 ご家族から差し入れられた

 愛用のカミソリを手に取り、

 懐かしそうに見つめておられたという。

 その時、刑事が大声で怒鳴った。

 「ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ」

 

 戸田先生は、のちに、こう語っておられる。

「先生は無念そうに、

 その刃物をおかれました。

 身は国法に従えども、

 心は国法に従わず。

 先生は創価学会の会長である。

 そのときの、わたくしのくやしさ」

 そして、

 牧口先生が東京拘置所に移される時が、

 師弟の最後の別れとなった。

「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、

 わたくしのせいいっぱいでございました。

 あなたはご返事もなくうなずかれた、

 あのお姿、あのお目には、

 無限の慈愛と勇気を感じました」

 

 あまりにも崇高な師弟の歴史である。

 信念に生きる立派な人間、

 偉大な思想をもった人間は、

 かえって弾圧され、牢に入れられる。

 

 なかでも当時、

 韓・朝鮮半島の人々の場合、

 その処遇は苛烈を極めた。

 戸田先生は、それを振り返り、

 「どうして日本は、こんなにひどいのか!

 と悔しがっておられた。

 その先生の血涙の叫びを、

 私は忘れることができない。

(つづく)

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2022年6月7日

第2020回

国家主義と戦った牧口先生

(2)

 

<獄中、堂々と正義を語る>

 

 しかし牧口先生は、

 権力の横暴に、一歩も引かなかった。

 それを証明する「訊問調書」が残っている。

 (旧内務省の資料『特高月報』の昭和十八年八月分に記載、『牧口常三郎全集』10所収)

 

 先生は刑事に堂々と答えられた。

 そして、当時の聖戦思想を真っ向から否定された。

 

「(=立正安国論には)この法(=法華経)が

 国内から滅亡するのを見捨て置いたならば、

 やがて国には内乱・革命・飢僅・疫病等の災禍が起きて

 滅亡するに至るであろうと仰せられてあります」

「現在の日支事変(=日中戦争)や

 大東亜戦争等にしても、

 その原因はやはり謗法国であるところから起きている」

「この大法に惇もとる事は、

 人類としても、

 はたまた国家としても許されない事で、

 反すればただちに法罰を受ける」

 (句読点を適宜、補った。『牧口常三郎全集』からの引用は以下同じ)

 戦争でいちばん犠牲になり、苦しむのは、

 いつも民衆である。

 しかし、国は「神州不滅」などと煽あおって、

 国民を戦争に駆り立てた。

 それに、はっきりと異議を唱えたのである。

 正法を迫害する国は、

 滅亡するのが道理であると喝破されたのである。

 

 

 軍国主義の時代である。

 しかも獄中である。

 どれほどの信念であられたか。

 どれほどの壮絶な戦いであったか。

 先生は、創価学会の永遠の誇りである。

 その直系が私たちなのである。

(つづく)

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2022年6月6日

第2019回

国家主義と戦った牧口先生

(1)

 

<永遠に「権力の魔性」との戦いを!>

 

 

 きょう六月六日は、「創価教育の父」牧口常三郎先生の誕生日である。牧口先生は、一八七一年(明治四年)のお生まれ。今年(当時)で生誕百三十四年となる(現在、生誕151年)。

 創価の原点の一日を、先生の魂をとどめる東京牧口記念会館で、晴ればれと迎えることができ、本当にうれしい。ここ八王子は、わが婦人部の祈りに応えて、諸天も寿ぐすがすがしい快晴となった。

 牧口先生の遺徳を偲びつつ、少々、お話ししたい。

 

 牧口先生は、

 国家権力と戦い、獄死された。(一九四三年〈昭和十八年〉七月六日、伊豆・下田で連行され、四四年十一月十八日、七十三歳で獄死)

 もちろん、先生には何の罪もなかった。

 「創価学会の思想は危ない」という、

 理不尽な弾圧であった。

 ご承知のとおり、

 検挙の理由は「治安維持法違反」と「不敬罪」である。

 牧口先生は、

 軍部におもねった宗門とは対照的に、

 正法正義を貫き、

 戦争推進のイデオロギーである

 国家神道に断じて従わなかった。

 当時の悪法のもとでは、

 それだけで処罰の理由となったのである。

 

 老齢の大学者の先生を、

 一介の役人にすぎない

 特高刑事や検事が、

 いじめにいじめた。

 権力を笠に着て、

 居丈高に振る舞い、怒鳴った。

 これが「権力の魔性」の恐ろしさである。

 

 狂った日本であった。

 愚かな日本であった。

 権力が、牧口先生を殺したのである。

 何の罪もない、それどころか、

 世界的大学者の先生に、

 日本は、「獄死」をもって報いたのである。

 

 

 永遠の平和を築く戦いは、

 所詮、「権力の魔性」との戦いであることを、

 絶対に忘れてはならない。

 それを忘れ、油断すれば、

 広宣流布の将来は危ないからだ。

(つづく)

 

2021年12月10日

第1821回

稀代の悪法

”治安維持法”

 

<「思想統制の脅威」には、

「思想・信教の自由」で応戦せよ!>

 

 二十世紀の開幕からまもない一九〇三年(明治三十六年)、若き日の初代会長・牧口常三郎は、処女作『人生地理学』において、社会と社会、国家と国家の生存競争に触れている。

 そこで、牧口は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」の四つをあげて、人類史が「人道的競争」に向かうことを待望していた。

 日露戦争が勃発する前年のことである。驚くべき、先見といってよい。

 しかし、その後の世界は「軍事的競争」に狂奔し、戦争を繰り返してきた。日本もその当事国であった。その戦争によって、膨大な数の人間の血が流され、やがて、日本は敗戦という破局を迎えることになる。

 戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、思想統制の問題といえよう。

 なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。治安維持法は今日、希代の悪法として知られているが、それはどんな状況のなかで生まれたのだろうか。

 第一次世界大戦は、大戦景気をもたらし、資本家を潤した一方、物価の高騰により、民衆の生活は逼迫していった。このため、米騒動も起こっている。

 そうしたなかで、民本主義や社会主義、共産主義の運動をはじめ、労働者、農民、婦人など、さまざまな大衆的な運動が広がり始めたのである。

 これらの運動は、言論、出版、結社の自由の獲得や政党内閣制、普通選挙の実施などを主張していた。いわゆる「大正デモクラシー」である。

 そして一九二四年(大正十三年)、護憲運動の高まりのなか、政党政治が始まると、加藤高明護憲三派内閣は、二十五歳以上の全男子に選挙権を与える、普通選挙法の制定に踏み切ろうとした。

 しかし、労働者や農民が選挙権をもち、普通選挙が行われれば、社会主義者などが選挙で当選し、衆議院に進出してくるであろうという恐れがあった。

 さらに二五年(同十四年)一月に、日ソ基本条約が調印されると、共産主義思想の流入を防がねばならないとの危機感も広がった。

 そこで内閣は、普通選挙法によって、政治的自由を拡大する一方で、思想統制に乗り出し、同年三月、普選法案の成立に先立って、治安維持法案を可決したのである。

 以来、「国体の変革」をめざしたり、「私有財産制度」を否認する「結社」が取り締まりの対象になっていく。「国体」とは、明治憲法に定められた、万世一系、神聖不可侵の天皇を中心とした政治体制である。

 普通選挙という「大正デモクラシー」の果実を取り入れるその時、皮肉にも、同じ政党内閣の手で、自由を踏みにじる治安維持法が制定されたのであるしかも、多くの国民は、早い時期に、治安維持法の危険な本質を見極めることができなかった。

 そして、この悪法は、三年後(一九二八年)、刑罰に死刑と無期懲役を加えるなどの〝改正〟が行われ、「蟻の一穴」のごとく、自由と人権の根幹を食い破っていくのである。

 権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇のなかに引きずり込まれることを知らねばならない。これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。

 

<新・人間革命> 第3巻 平和の光 296頁~298頁

2021年12月8日

第1817回

戦時下の軍国主義一色と

伸一の「苦悩」

 

<価値観の喪失と結核>

 

 当時、伸一は国民学校に通っていた。一九四一年(昭和十六年)の四月から、国民学校令によって、彼が通学していた羽田高等小学校も、萩中国民学校に名前が変わっていたのである。国民学校令には、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とあるように、学校は国のために忠義を尽くす、〝少国民〟を錬成する道場となっていった。

 軍国主義は、幼い魂にも、刷り込まれていったのである。

 伸一も国民学校で、国のために戦い、死ぬことが、臣民としてのまことの道であると教えられていた。それだけに、長兄から聞いた戦争の話は、衝撃的であった。

 やがて、国民学校の卒業が近づいてくると、伸一は思い悩んだ。

 自分も国のために役立ちたいとの強い気持ちから、少年航空兵になることを考えていたからである。

 〝兄さんが言うように、戦争は残酷かもしれない。しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ〟

 伸一は、純粋にそう信じていた。しかし、父も、母も、彼が少年航空兵になることには、絶対に反対であった。それでも、伸一は志願した。

 志願書をもとに、彼の留守中に、海軍の係員が訪ねて来た。

 父親は、猛然と言った。

 「うちは、上の三人とも兵隊に行った。間もなく四番目も行く。そのうえ五番目までもっていく気か。もうたくさんだ!」

 父の気迫に、係員は「わかりました」と言って帰っていった。

 伸一が家に帰ると、父親は彼を怒鳴りつけた。

 「俺は、どんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」

 常にない父の見幕であった。

 伸一は不満を感じた。しかし、長兄が語っていた言葉が、彼の頭をよぎった。

 「あとに残って、一家を支えるのは、伸一、お前だ。親父の力になってあげてくれ。それから、お袋を大事にな……。俺の分まで、親孝行するんだぞ」

 伸一は、やむなく家の近くの新潟鉄工所に就職した。

 会社は軍需工場として艦船部門の一翼を担っていた。社内には、青年学校が設けられ、工場実習、勉強のほか、軍事的な教育、訓練も行われた。

 指導員は、生産力を上げることが、戦地で戦う兵士を守る力になると強調していた。

 それを聞くたびに、伸一は長兄の喜久夫をはじめ、戦地にいる兄たちを思い、疲れ果てた体に鞭打って、仕事に全力を注いだ。

 ある時、指導員がネジの切り方に関連して、方程式を黒板に書いて説明した。しかし、大雑把な説明でもあり、伸一は十分に理解できなかった。質問すると、指導員は一喝した。

 「なに! そんなことはわからんでいい! 生意気なことを言うな!」

 問答無用の、強圧的な態度である。

 青年学校では、指導教官や上級生による往復ビンタも、日常茶飯事であった。工場、学校も、軍隊同様であり、国民は皆、兵士といってよかった。

 このころから、伸一は咳き込み、発熱することが多くなっていった。

 それは一九四四年(昭和十九年)の夏、猛烈な太陽が照りつける、昼下がりのことであった。青年学校の軍事教練で、木銃を持ち、蒲田駅近くの工場から、多摩川の土手に向かって行進していた時、伸一は、突然、気分が悪くなって倒れかけた。

 「どうした!」

 「大丈夫か!」

 周りにいた友達が、彼を支えてくれた。

 苦しかったが、その日はどうにか最後まで教練をもちこたえた。しかし、血痰を吐いた。

 伸一は結核に罹っていたが、無理を重ねながら、仕事と教練を続けてきたのである。三九度の熱を押して、仕事をしたこともあった。リンパ腺は腫れて、頰はこけていったが、悠々と医者にかかれる身分ではなかった。ただ『健康相談』という雑誌だけを頼りに、せめて自分で健康に気遣うことしか、対応はなかった。といっても、食糧事情も最悪な時代であり、十分な栄養をとることもできなかった。

 その後、やむをえず、事務系の仕事にかえてもらった。しかし、四五年(昭和二十年)の初めごろには、とうとう医師から、地方の結核療養所に入るように言われた。もはや病状は絶望的であったようだ。

 このころになると、日本の敗色は濃厚になっていた。少年航空兵になった友達が、戦死したとの話も、彼の耳に入ってきた。国のために戦い、死んでいった友人がいるのに、病に侵され、何もできずにいる自分を、伸一は恥じた。

 やがて、蒲田も大空襲に見舞われた。その時も、伸一は、長兄と分け合った鏡の破片をポケットにしのばせて、焼夷弾の下をくぐり抜けてきた。

 空襲によって、入院の話も、いつの間にか立ち消えてしまった。

 この胸の病は、戦後も、長く伸一を悩ませ続けることになる。

 だが、何よりも彼を苦しめたのは、終戦による精神の空虚感であった。

 天皇に殉じよと教え込まれ、国家を信じてきた伸一にとって、終戦は、すべての価値観の喪失にほかならなかった。

 なんのための戦争であったのか。天皇とは、国家とは、正義とはなんなのか。人間とはなんなのか──敗戦の焼け跡に立って、彼は悩み、考え続けた。

 その確かな答えを得るには、戸田城聖との出会いまで、戦後、二年の歳月を待たねばならなかった。

 

<新・人間革命> 第3巻 平和の光 286頁~290頁

2021年12月8日

第1816回

長兄の死

 

<分け合った一枚の鏡の破片>

 

 山本伸一の長兄の喜久夫は、インパール作戦の際には、前線への軍需品の輸送にあたっていた。作戦の中止後は、撤退部隊の援護などのために、ラングーンの北方約六百キロメートルに位置する、古都マンダレー西方のミンジャン付近で、渡河の輸送を担当した。このミンジャンは、イラワジ川(エーヤワディー川)とチンドウィン川の合流地点である。

 そして、一九四五年(昭和二十年)一月十一日、イラワジ川の輸送任務中に、喜久夫の乗っていた船が、イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死したのである。二十九歳であった。

 明朗快活で責任感と正義感の強い兄であり、弟妹からも慕われていた。

 伸一は、兄たちのなかでも、ことのほか長兄の喜久夫に信頼を寄せていた。この兄とは、いくつもの忘れがたい思い出があった。

 その一つが、長兄と分け合った一枚の鏡の破片である。この鏡は、母が父のもとに嫁いだ時に、持参した鏡であった。

 まだ、伸一が幼い少年のころのことだ。何かの拍子で、その鏡が割れてしまった。長兄と伸一は、破片のなかから、それぞれ手のひらほどの大きさのものを拾った。それは二人の大切な宝物になった。

 長兄は徴兵されると、その鏡の破片を持って出征していった。

 伸一は、兄は戦地にあって、きっと、この鏡を取り出しては母をしのび、自分のことも思い出していたにちがいないと思った。

 伸一もまた、破片を見ては兄をしのんだ。

 最初、長兄は中国大陸に出兵していたが一時、帰国したことがあった。

 その時、長兄は憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを伸一に語った。

 「日本軍は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている! 平和に暮らしていた人たちの生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」

 そして、最後に、涙さえ浮かべて言った。

 「伸一、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。そんなことが許されるものか。皆、同じ人間じゃないか」

 「でも、兄さんは帝国軍人でしょ」

 「そうだ。そして、戦地を見てきたからこそ、私はお前に言うのだ」

 その長兄の話が、いつまでも伸一の心に焼きついて離れなかった。

 

<新・人間革命> 第3巻 平和の光 284頁~2

2021年10月29日

第1763回

大切な少年少女に、

正しい人間の生き方を教えたかった

 

<軍国主義と戦った『小学生日本』>

 

 伸一は、戸田の姿を仰ぐように目を細めて、窓の外に視線を向け、そして、言った。

 「戸田先生は、仏法者として弾圧を受けただけでなく、戦時中、雑誌の発行者としても、軍部政府と水面下で戦いを続けていたことを知っているかい」

 「いいえ、知りませんでした」

 「これは、戸田先生からお伺いしたことだが、先生は、昭和十五年(一九四〇年)の一月に、『小学生日本』という、少年少女向けの月刊誌を創刊されている。後に、私が編集長を務めた、『冒険少年』『少年日本』の前身ともいえる雑誌なんだ……」

 戸田城聖が『小学生日本』を発刊したこの昭和十五年といえば、皇紀二千六百年の記念式典や奉祝行事が大々的に行われ、大政翼賛会が発足した年である。既に、日中全面戦争に突入してから二年半がたち、一九三八年(昭和十三年)には、国家総動員法が公布されていた。つまり、国を挙げての戦争への協力体制が、ますます強化されようとしていた時であった。尋常小学校の一年生から、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と書かれた教科書が使われ、軍国主義が幼い子どもたちの純白な心に、刷り込まれていった時代といってよい。

 各種の雑誌も、競い合うようにして戦争を讃美していた。言論、思想も、政府の厳しい統制下に置かれていただけに、そうしなければ、何一つ出版することができなかったのである。また、新聞や雑誌の発刊に必要な紙も、極めて入手困難な状況にあった。まさに、自由なき、いまわしい暗黒の時代の到来を告げていた。

 戸田は、未来を担う子どもたちが、軍国主義教育に歪められ、偏狭なものの見方、考え方に凝り固まっていくことを深刻に憂えた。

 〝子どもたちは、他国の優れた文化や産業、国民性も知らぬままに育とうとしている。このまま排他性に染まり、国のために戦い、死ぬことのみを美徳とするようになれば、子どもたちの人生を狂わせてしまう。そうなれば、国の未来もまたあまりにも暗い〟

 戸田は、一個の人間として、また仏法者の良心のうえからも、この事態を打開する何らかの戦いを開始しなければならないと考えた。そして、少年少女が世界に視野を広げ、物事の真実を見極める目を培える雑誌を発刊することを思い立ったのである。

 しかし、そのころ、出版物への当局の統制は厳しさを増し、紙も不足していたところから、原則として、雑誌の創刊は認めないとの方針がとられていた。彼は、関係各所を駆け巡り、説得に努め、遂に『小学生日本』の創刊に成功したのである。

 だが、もとより、国策に添った雑誌でなければならなかった。創刊号には、いかにも戦時下らしい、二、三の勇ましい題名が、目次に大きく刷られていたが、いずれも短編にすぎなかった。主流をなす連載は、極めて平和的な作品だった。しかも、創刊号にあった戦争に関係した二、三の企画は、しばらくすると姿を消し、小学生日本』は、戦争讃美とはほど遠い、極めて異例な雑誌となった。

 更に、特筆すべきは、広く世界に目を向け、諸外国の優れた文化、産業などを伝えるルポルタージュやヨーロッパの物語などが掲載されていたことである。また、戦争について扱った小説もあるが、驚くべきことには、戦争は決してお伽噺のように華々しいものではないと、登場人物に語らせている。

 戦争を讃美しなければ、廃刊にされかねない時代のなかで、戸田はその編集方針を曲げなかった。彼は大切な少年少女に、正しい人間の生き方を教えたかったのである。

 『小学生日本』は、やがて、尋常小学校が国民学校に改められたのに伴い、改題を余儀なくされた。当時、少年少女は、年少の国民の意味で〝小国民〟と呼ばれており、戸田はやむなく誌名を『小国民日本』と改めた。

 彼が激動する時代のなかで、改題してもなお、少年少女向けの雑誌を発刊し続けたことは、後に続く小さき者を、力の限り、守り育てねばならぬという、決意の表明といえよう。

 『小国民日本』に改題されて、最初の発刊となる昭和十六年の三月号には、「神秘と謎を解く」との特集が組まれた。そこに、戸田城聖は「科学の母」と題する、次のような巻頭言を執筆している。

 

 「不思議や神秘なことがらに、驚きと畏れをもって礼拝したのは、未開で野蛮な古代の人であった。わからぬことをわからぬままに信じて、迷信に陥ったのは、科学する心のない中古時代の人達であった。

 ──☆──

 なぜだろう。一体これは何だろう。という私達の心に起るさまざまの疑問を、正しくつきつめて行くところに、世の中を明るくし、世界を進歩発達させる科学の世界が開ける。

 ──☆──

 ニュートンは、庭に林檎の落ちるのを見て万有引力を見出し、ワットは鉄瓶の湯の沸るのを眺めて蒸気機関を発明した。エヂソンもキューリーも、せんじつめれば、この疑問を正直にまっしぐらにつきつめた人々ではなかったか。

 ──☆──

 驚異と疑問こそ、科学の母である

 国家神道を支柱とした精神主義の色濃い時代に、

 「わからぬことをわからぬままに」信ずる愚かさを、彼は少年少女に語りかけている。

 そして、「疑問を正直にまっしぐらにつきつめ」、科学する心をもてというのである。

 ここに、軍国時代の暗黒の潮流に対して、敢然と戦い挑む、戸田の良心の叫びを聞く思いがしてならない

 更に『小国民日本』(国民学校上級生)の十月号には、「護れ大空」と題する特集が組まれている。その勇壮なタイトルとは裏腹に、そこには、防空マスクや防空壕のつくり方など、いかにして子どもたちが自分の身を守ればよいかが、詳述されている。また、そのなかには、イギリスやソ連の子どもたちの防空訓練に触れた寄稿もある。そこには、こう記されている。

 「特にイギリスの小国民は、どれほどつらい、苦しい空襲を受けて来ているか、わたし達が考える以上に悲しいものであることは、たびたびニュースで伝えられています。

 最初は空襲の恐しさにお父さんやお母さんと別れ別れになってアメリカに避難したり、田舎に離れて行ったりしました。

 ……(中略)……危ない都会にいる子どもも少なくありませんが、爆弾が遠くにでも落ちると見ると、速ぐに道路に伏せをして身の危険を守っていますが、その様子はすっかりなれて落着いたものだということであります」

 この号の発行日は「昭和十六年(一九四一年)十月一日」とあり、それは、日本が米英に、宣戦を布告する、わずか二カ月ほど前にすぎない。このころ、既に日英両国の関係はこじれ、イギリスを敵性国とする見方が強まっていた。そのなかで、イギリスの子どもたちが空襲に苦しめられ、健気に身を守っているという状況を同情的に記した一文を掲載することは、決して容易なこととは思えない。

 戸田城聖には、日本の子どもに限らず、世界中の子どもたちが、守るべき対象であるとの認識があった。また、〝子どもたち同士が、憎み合う必要などまったくない。むしろ、その苦しみを知り、手を結びあうべきである〟との、明確な主張があった。つまり、特集のタイトルこそ、「護れ大空」であったが、彼が守ろうとしたものは、日本の大空よりも、次代を担う少年少女の尊い命であったのだ。この企画のなかにも、〝生きよ、生きてくれ〟と、必死に若い魂に語りかけようとする、戸田の思いを汲み取ることができよう。

 『小国民日本』は、やがて『少国民日本』に改題され、一九四二年(昭和十七年)四月ごろに廃刊となる。ますます厳しくなる統制下で、当局の意図通りに戦争を讃美し、死に急ぐことを煽り立てる雑誌を作ることより、廃刊の道を彼は選んだのかもしれない。戦後、日本のジャーナリズムは、ことごとく平和主義に転じた。言論、出版の自由が保障された世の中で、平和を叫ぶことは容易である。しかし、それが仮面の平和主義であるか、本物であるかを見極めるには、あの戦時中に、何をなしたかを問わねばならない。これは、ジャーナリズムに限らず、宗教についてもいえる。今日、いかに平和や民主を叫び、正義の仮面を被ろうが、戦時中の在り方のなかに、その教団の正体があることを見過ごしてはなるまい。

 

<新・人間革命> 第1巻 慈光 246頁~253頁

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