2015年5月11日12日
人類の宿命転換へ、生命の妙音の大行進曲を奏でよ!
<音楽には、国土・社会を変え、時代を動かし、未来をよりよく創りゆくエネルギーが秘められている>
万物は奏でる。生きとし生けるものは歌う。この宇宙は、賑やかな音楽で満ちている。
日蓮大聖人は、『音の哀楽を以て国の盛衰を知る』(御書88頁)との要文を留められた。
躍動のリズムのあるところ、明るい希望が輝く。美しき旋律のあるところ、生きる喜びが湧く。妙なるハーモニーのあるところ、平和の共鳴が広がる。
音楽には、国土・社会を変え、時代を動かし、未来をよりよく創りゆくエネルギーが秘められているのだ。
世界に、いまだ戦禍はやまず、災害も絶えない。妙法という大宇宙の究極の音律を唱え、行じながら、音楽の真髄の力を発揮し、哀音を滅し、喜音を生じゆく、君たち創価の楽雄の使命は、いやまして尊く、深い。
破壊の爆音を、建設の槌音に!
反目の怒号を、友情の調べに!
母子の嘆きを、安穏の笑い声に!
疲労の溜息を、前進の足音に!
不信の罵声を、連帯の交響楽に!
若き地涌の菩薩の精鋭たる音楽隊には、限りない価値創造の響きがある。
その渾身の演奏は、民衆を強く朗らかに闊歩せしめずにはおかない。それは、一人一人に、「人間革命」へ挑みゆく勇気を漲らせる師子吼である。
そして、異体を同心とする団結を織り成して、人類の宿命の転換へ大行進曲を奏でる生命の妙音なのだ。
2015.5.11付聖教新聞 5・6「音楽隊結成の日」に寄せて
2015年4月21日
『声仏事を為す之を名けて経と為す』
<「声」は生命全体の響き、その人の生命、人格そのものが現れる>
池田 大聖人も『此の経は専ら聞を以て本と為す』(御書416頁)と仰せです。だから、仏の「声」が重要な意味を持っている。「妙法蓮華経」の「経」の意義について、『声仏事を為す之を名けて経と為す』(御書708頁)と述べられるゆえんです。
遠藤 大聖人は、仏の三十二相の中では「梵音声相」が第一の相であると仰せになっています。(御書1122頁)
「梵音声相」とは、音声が遠くまで明瞭に達し、しかも清浄で、聞く人を喜ばせるような声です。実際に釈尊の声も、そうだったのでしょう。
池田 すばらしい声だったからこそ、人々の生命を揺るがし、蘇らせることができたのだろうね。それは、仏の己心に悟った成仏の法を顕す「真実の声」であった。
「声」は生命全体の響きです。声にはその人の生命、人格そのものが現れている。あるフランスの作家は「声は第二の顔である」と言った。姿・形はごまかせても、声はごまかせないものです。
須田 イギリスの科学雑誌「ネーチャー」(1995年2月2日、第373巻6513号)に興味深い記事が載っていました。人々はどのようなメディアの情報に騙されやすいか、調べる実験をしたというのです。新聞とテレビとラジオを使って、同一人物が真実を語るインタビューと、嘘をついているインタビューを並べて掲載・放送し、読者・視聴者に嘘を見破ってもらうというものです。
その結果、人々が一番だまされやすいのはテレビ。逆に、四分の三もの人が嘘を見破ったのはラジオでした。新聞はその中間だったそうです。人々は、映像にはだまされても、声にはだまされなかったと見ることもできます。
斉藤 「南無妙法蓮華経」という題目自体に不思議なリズムを感じます。念仏が“哀音”といわれるように、陰々滅々とした暗い音調であるのにくらべて、題目には人を勇気づけ、躍動させる力強い音律があります。
須田 題目のリズムといえば、世界的バイオリニストのユーディー・メニューイン氏が、池田先生と対談されたときに語っておられたことを思い出します。
──「南無妙法蓮華経」の「NAM(南無)」という音に、強い印象を受けます。「M」とは命の源というか、「マザー(MOTHER)」の音、子どもが一番、最初に覚える「マー(お母さん)、マー」という音に通じる。この「M」の音が重要な位置を占めている。そのうえ、意味深い「R」の音(蓮)が中央にある──(「聖教新聞」1992年4月7日付)と。
池田 いずれにせよ、題目こそ宇宙の根源のリズムであり、尊極の音声である。
大聖人は仰せです。南無妙法蓮華経には、一切衆生の仏性を『唯一音(ただひとこえ)』に呼び現す無量無辺の功徳がある(御書557頁)。また、凡夫という無明の卵を温め、孵化させ、仏という鳥へと育てる「唱(とな)への母」である(御書1443頁)と。
そして大聖人は『声もをしまず唱うるなり』(御書328頁)と述べられている。声も惜しまずといっても、声の大小ではない。一切衆生を成仏させようという慈悲の大音声です。
学会の行動も、この大聖人のご精神を我が心とし、広宣流布のための「声も惜しまぬ」行動である。
題目を真剣に唱える声を根本として、あたたかい励ましの声、毅然とした勇気の声、心からの歓喜の声、真剣な誓いの声、明快な智慧の声、等々に満ち満ちているのが創価学会である。そこに無量の功徳がわいているのです。
学会こそが、惜しみない声また声で、広宣流布という偉大な「仏事」を為している教団なのです。
法華経の智慧 序品 第一章
2015年1月17日
声仏事を為す(4)
<題目こそ、尊貴にして、宇宙の最極の音声>
躍動し、声を発する。ここに生命の証がある。
健康であるにもかかわらず、動かなくなり、声を出さなくなってしまっては、もはや「死せる生命」である。
森羅万象、何ひとつ変化しないものはない。止まっているものはない。問題は、良く変わるか、悪く変わるかである。良き方向へ、良き方向へと、限りなく変わりゆくために、人間は動かねばならない。声を出さねばならない。
なかでも広宣流布のため、法のために、動き、声を出すことは、最大の「生命の歓喜」をもたらす。それが宇宙のリズムにもっとも合致した行動だからである。
その根本は、言うまでもなく唱題である。題目こそ、尊貴にして、宇宙の最極の音声である。すばらしき「健康」と「福徳」、そして「勝利」をもたらす限りなき源泉なのである。
1990. 1.18第二十五回本部幹部会
2015年1月16 日
声仏事を為す(3)
<万物は自分の「たどるべき道」を知っている>
仏法では「声仏事を為す」という。“声”に深甚の意義を見ている。
科学においても、進歩すればするほど、マクロ(極大)の世界から、ミクロ(極小)の世界まで、不可思議ともいうべき調和の律動を認め、それを音楽的ハーモニーとして表現する人もいる。
生命は何らかの“音声”を発する。また、他の“音声”に耳をかたむけ、反応する。人間の耳には聞こえなくとも、宇宙は、にぎやかな″声と声の響きあう世界″である。花に語りかければ花もこたえる。草も木も、あいさつを返してくれる。
しかも万物は自分の「たどるべき道」を知っている。自分の使命を十二分に生き、迷うことがない。わが道をいき、わが軌道にのっとって、前進し、みずからの「生命の歌」をうたう。
ある意味で、人間のみが、良かれ悪しかれ自由な意識を持つゆえに、この軌道から外れてしまう場合が多い。本来の調和を破壊してしまう。仏法とは、その軌道を回復し、さらに無限に向上しゆくための信仰である。真の「人間の道」「生命の道」を歩むための仏道修行なのである。
(つづく)
2015年1月15 日
声仏事を為す(2)
<「万物はうたう」とユゴーの直観>
彼の詩に、“宇宙に遍満する音声”のことをつづったものがある。
「万物はうたう」とユゴーは言う。
「知るがいい、万物は自分の掟や、目的や、たどるべき道を心得ていることを、星から虫けらにいたるまで、広大無辺な宇宙は、おたがいの言葉に耳を傾けていることを」
「万物が話をする、吹きすぎる風も、水面を進むアルキュオン(=伝説上の小島の名)も、草の芽も、花も、種も、土も、水もが」
「万物は声をあげ、香りを放っているのだ。万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。ある考えがこめられているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには」
「万物はうめく、おまえのように。万物はうたう、私のように。万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか? なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!」
(「闇の国の語ったこと」から。『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社)
詩人が、深き直観知で垣間見た宇宙の様相。それは「壮大なざわめき」の世界であった。
万物が声を発し、万物がうたう。躍動する「生命」で充満した世界であった。
(つづく)
2015年1月14日
声仏事を為す(1)
<音の力>
英語では、病気を「治す(治る)」という意味の″ヒール(heal)や「健康(ヘルス=health)」の語は、本来、「全体」を意味する″ホウル(whole)」と同根である。
このことを踏まえていえば、病気が「治る」、「健康」になることは、宇宙の「全体」との調和を取りもどすことといえよう。
生命は本来、宇宙の「全体」と一体である。その調和が崩れるとき、何らかの「病気」「苦悩」となってあらわれてくる。
ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス(一七七二件~一八〇一年)は、「あらゆる病気は一つの音楽的問題である――その治癒は一つの音楽的解決である」(「続断片」飯田安訳、『ノヴァーリス全集 第2巻』所収、牧神社)と言った。彼も、病気とは、生命の音楽的なハーモニー、調和の律動に狂いが生じた結果と考えたのであろう。
音楽は、たしかに「調和」をその生命とする。また、生命の調和に何らかの影響をあたえていく。
最近、「音楽療法(ミュージック・セラピー、バイオー・ミュージック)」が脚光を浴びているという。その音楽を聴くことによって、心身両面をリラックスさせ、生命の自己調整の力、自然治癒の力が回復していく――主として、そうした効果をねらったものである。
音楽は心理面のみならず、体調をもよくしていく、というのである。本格的研究は、まだ始まったばかりであり、断定的なことは言えない。ただ「“音”が生命におよぼす力」について、社会的にも関心が高まっている一例として紹介させていただいた。
この「音の力」について、すでに四千年前、古代エジプトでは「音楽は魂の薬」と呼んでいた。また健康法として、さまざまな利用も行われていたようだ。
そこでは、音楽のことを「ヒュ」と言い、これは「歓喜」を本義とした。有名な象形文字では、これを「花開いた蓮華」で表したという。
生命の歓喜である″音″が蓮華を象徴とした――。妙法もまた「蓮華の法」であり、私どもにとっては、たいへん興味深い話である。
(つづく)
2015年1月11日
いわれなき批判には徹底的に素早く反論
東京は、わが故郷である。私は、東京生まれの東京育ち。いわゆる「江戸っ子」である。その誇りをもっている。
江戸っ子は、さっばりしていて、きつぷがよくて、何でも、はっきり、ものを言う。それが身上である。一見、淡泊に見えて、正義を叫ぶ時は、くどいくらいになる。悪は絶対に許さない! その怒りが、言葉となって、ほとばしるのだ。
声は武器。声は力。口は語るためにある。勇敢に叫ぶのだ。
いわんや、仏法においては、「声仏事を為す」である。声で勇気がわく。勢いが増す。勝利の道を開いていける。
人間主義は正しい。仏法は絶対である。われらの前進を、世界の知性が待っている。
今こそ打って出よ! 正義と真実を、しゃべって、しゃべって、しゃべりぬくのだ。力強い声で! そうすれば、いかなる暗雲も、いっぺんに吹き飛ぶ。
御聖訓には「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せである。
朗々たる題目の力で、正義の師子吼で、百獣のごとき魔軍を、敢然と打ち破ってまいりたい。
2005. 5.21 第二総東京代表協議会