3・16

2017年3月16日

 3・16

「広宣流布記念の日」の意義

 

 彼は、マイクに向かうと、「福島創価学会に、これだけの優秀で立派な男女青年部がいることに、深い感動を覚えるとともに、未来は盤石だと、心から安心しております」と語り、「3・16」の意義に言及していった。
 「『広宣流布記念の日』の淵源となった昭和三十三年(一九五八年)三月十六日の儀式というと、時の総理大臣が来る予定であったことが、語り継がれておりますが、それは、決して本質的な問題ではなかった。
 戸田先生は、そんなことよりも、次の時代の一切を青年に託すという、いわば付嘱の儀式を行おうとされたんです。
 広宣流布というのは、一万メートル競走のように、ゴールがあって、そこにたどり着いたら、それで終わるというものではない。
 むしろ、″流れ″それ自体であり、常に、いつの時代も青年が先駆となり、原動力となって、さらに″新しい流れ″をつくり続けていく戦いなんです。
 戸田先生と師匠の牧口先生とは、二十九歳の年の開きがあった。軍部政府の弾圧によって、共に投獄されたお二人は、逮捕された年の九月、警視庁の二階ですれ違った。
 戸田先生は『先生、お丈夫で!』と声をかけるのが精いっぱいであり、牧口先生は、頷くことしかできない。それが、最後の別れとなった。
 しかし、この瞬間が、師から弟子への、広宣流布のバトンタッチでもあった。
 牧口先生は獄中で亡くなられたが、戸田先生は、生きて獄門を出られた。そして、広宣流布の大発展の流れをつくられたんです」
 山本伸一は、戸田城聖を思い浮かべるように、目を細めながら語っていった。
 「戸田先生は、自ら誓願された会員七十五万世帯を達成された。昭和三十三年(一九五八年)三月には、憔悴しきっておられた。先生と私とは、二十八歳の年の差がある。
 牧口先生が、戸田先生に広宣流布のバトンタッチをされたように、戸田先生は、未来のために、広宣流布の一切を、私をはじめとする青年たちに託された。それが、あの六千人の青年が集った『3・16』の儀式なんです。
 次の広宣流布の流れは、青年につくってもらう以外にない。そして、さらに若い世代が、次のもっと大きな拡大の流れをつくる。その永続的な戦いが広宣流布なんです。
 したがって、後継者が臆病であったり、力がなく、自分たちの世代に、仏法流布の流れを開いていくことができなければ、広宣流布の未来も、学会の未来もなくなってしまう。
 ゆえに私は、青年部の、また、高等部をはじめ、未来に生きる各部の皆さんの育成に、真剣勝負で臨んでいるんです。
 広宣流布は諸君に託すしかない。私は、君たちのために、すべてを注ぎ尽くします。命をも捧げる思いでおります」
 伸一は、それから、青年期は、苦闘と葛藤の連続であり、さまざまな誘惑もあることを述べた。
 「しかし、どんなことがあっても、人生の究極の法である仏法の世界から、創価学会という仏意仏勅の組織から、絶対に離れるようなことがあってはならない。どうか、日蓮大聖人の、『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』との御言葉を心肝に染めていただきたい。
 人生には、常に、悩み、苦しみがあるものです。しかし、二十年、三十年と信心を貫き、広宣流布の使命に生き抜いていくならば、何ものにも負けない、強い、金剛不壊の自身を築くことができます。その生命の変革があってこそ、所願満足の人生を歩んでいくことができるんです」
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「弱い自分に打ち勝ってこそ、人生の栄光はあります。
 苦難の荒波に、どんなに打ちのめされようとも、粘り強く、そこから決然と立ち上がる力――それが信仰です。それが、地涌の菩薩です。真の学会員です。
 どうか、皆さんは、大試練の時こそ、″われらは、創価の後継者なり″″われらは、新時代の山本伸一なり″との自覚で、さっそうと立ち上がってください。その希望あふれる姿が、広宣流布の力となります。
 これだけの青年が、人びとの勇気の原動力となり、未来を照らす福光の光源となっていくなら、福島は盤石です。二十年先、三十年先、四十年先の、凛々しき闘将となった諸君の勇姿を思い描いて、私の本日の話とさせていただきます。ありがとう!」
 会場は、雷鳴を思わせる青年たちの決意の大拍手に揺れた。
 伸一は、さらに、皆のために、ピアノを弾いた。曲は、楠木正成と正行の父子の別れと誓いをうたった、あの″大楠公″であった。
 ″君たちの闘魂で、英知で、力で、二十一世紀の広宣流布の突破口を開くんだよ!″
 彼は、こう語りかける思いで、三曲、四曲とピアノを弾き続けた。″福光の種子は植えられた″との、手応えをかみしめながらの、喜びの演奏であった。

 

小説『新・人間革命』 第25巻 福光(57~59)

※補足

 

3・16(三月十六日)

 

人間革命 30 件

 

1. <人間革命> 第8巻 明暗 227㌻

れ、診察を受けた。  その結果、一人は即日入院、他の一人は入院準備のために、いったん焼津に帰ったが、翌十六日に入院した。二人の体は、放射性物質にひどく汚染されていることが判明したのである。  この日、三月十六日付の「読売新聞」朝刊で、第五福竜丸の乗組員の被曝が大きく報道された。  「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」  「二十三名が原子病 一名は東大で重症と診断」  国民は、寝耳に水の衝撃を受けたといってよい

2. <人間革命> 第12巻 後継 322㌻

がら言った。  「広宣流布がなされれば、首相をはじめ各界の指導者が、この仏法を信奉して、世界の平和と繁栄を祈念する日がやって来る。いや、その時代を、青年の手で、必ずつくっていくのだ。伸一、ぼくは、この三月十六日の式典を、〝広宣流布の印綬〟を君たちに託す儀式にしようと思っているんだよ。この式典の全責任は、君がもつのだ。思い通りに、力いっぱいやりたまえ」

3. <人間革命> 第12巻 後継 323㌻

るうえに、急遽、青年部を登山させようというのである。  輸送機関の確保に始まり、歓迎態勢や式典会場の検討、通常の登山者の下山と青年部の着山とを、いかに円滑に進めるかなど、困難な課題が山積していた。  三月十六日の青年部登山の参加者は、輸送機関の関係で、首都圏から五千人、地元の富士周辺の地域から千人と決まった。  この登山が正式に発表されたのは、男子部は十一日の男子部幹部会の席上であった。女子部も同時に連絡が

4. <人間革命> 第12巻 後継 356㌻

か、ご安心ください〟  広宣流布の印綬は、今、弟子・山本伸一に託された。創価後継の旗は、戸田の顔前に空高く翻ったのである。太陽に白雪の富士はまばゆく輝き、微笑むように、その光景を見守っていた。  この三月十六日は、のちに「広宣流布記念の日」となり、広宣流布を永遠不滅ならしめる、弟子たちの新たな誓いの日となった。

5. <人間革命> 第12巻 寂光 357㌻

とが多かった。しかし、彼には、なんの苦痛もなかった。成すべきことを、ことごとく成し終えた、燃焼のあとの、さわやかな虚脱のなかに、彼は、ひとり身を委ねていたのである。  山本伸一は、戸田の指示を受けて、三月十六日の夜には、いったん東京に戻った。そして、四月度の諸行事の準備にあたるとともに、留守中にたまった大東商工の仕事を片付けた。  二、三日して総本山に戻ってみると、戸田の衰弱の激しさに、伸一は驚きを隠せな

6. <人間革命> 第12巻 寂光 434㌻

 再び読経に入り、自我偈が始まった。祭壇前の焼香も、また開始された。  焼香者のなかには、内閣総理大臣の岸信介をはじめ、文部大臣、前建設大臣、東京都知事らの顔も見えた。  ことに首相は、あの三月十六日の総本山参詣の約束が果たせず、今、戸田の遺影との対面となっただけに、いささか感慨深いものがあったにちがいない。焼香のあと、首相は、しばし立ち止まって、葬儀委員長の小西武雄、子息の喬一、妻の幾枝に丁重な

7. <新・人間革命> 第2巻 錬磨 137㌻

いを重ねた。それは黄金の光に包まれた感動の絵巻であった。  伸一は、懐かしさと慕わしさが、胸に渦巻くのを覚えた。  戸田は、命の尽きる間際まで、広宣流布の精神を、直弟子の伸一に伝えようとした。  あの三月十六日の広宣流布の記念の式典を前に、伸一が戸田の体を気遣って作った車駕を見た時も、「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ」と、実戦に即した立案、計画が肝要であることを、厳愛をもって教えたのである。  また

8. <新・人間革命> 第4巻 春嵐 43㌻

う」  関西のほんの一握りの幹部を除いては、参加者は、今、伸一がいかなる状況下にあるかを知らなかった。しかし、彼の生命から発する、気迫の指揮と叫びは、激しく同志の心を揺り動かしたのである。  この年の三月十六日は、青年部の第一回音楽祭が開かれた。一九五八年(昭和三十三年)のこの日、総本山で戸田城聖を迎えて、広宣流布の記念の式典が行われてから、はや三年の歳月が流れていた。  あの時、戸田は、病身を押して、伸一

9. <新・人間革命> 第4巻 春嵐 45㌻

幸福も、世界の平和も、この仏法の思想、学会という人間の輪の広がりのなかにこそあると、私は申し上げたいのであります」  さらに、伸一は戸田城聖との思い出を語っていった。  「昭和三十三年(一九五八年)の三月十六日は、戸田先生が、広宣流布はこのようにしていけという模擬試験の意味を込めて、広布の方程式を示された日であります。

10. <新・人間革命> 第4巻 春嵐 59㌻

たが、問屋がそれを引き取らなくなった。問屋はこの時、寺の檀家総代であった。福田が勤めに出ていたことで、一家は辛うじて生計を立てることができた。  そんな彼にとって、「我々は、戦おうじゃないか!」との、三月十六日の山本会長の指導は、大きな勇気となり、力となった。  〝いよいよ魔が競い起こって来たんや。信心が試されているんや〟  彼はへこたれなかった。  この事件は、区長らが地区規約を破棄し、福田が告訴を取り下

11. <新・人間革命> 第7巻 萌芽 128㌻

 伸一は答えた。  「わかりました。その件については、日達猊下にお願いしましょう」  彼は、帰国後、直ちに、〝出張御授戒〟のために、僧侶を派遣するよう、日達法主に要請している。  そして、二カ月後の三月十六日から三十日まで、当時、宗門の教学部長で、後に第六十七

12. <新・人間革命> 第7巻 操舵 367㌻

  いやまして 険しき山に かかりけり     広布の旅に 心してゆけ  伸一は、ぎゅっと拳を握り締めた。  やがて至るであろう広宣流布の険路を思うと、彼の胸に、闘魂が赤々と燃え上がるのであった。  三月十六日の東京地方は朝から小雨が降っていた。

13. <新・人間革命> 第7巻 操舵 368㌻

ンクションシティー、アビリーン、マイアミ、ニューヨーク、サンフランシスコ、サクラメントの各都市で実施されることになっていた。  そして、彼らは、二週間後の三月三十日の夜、帰国する予定であった。  この三月十六日は、五年前の一九五八年(昭和三十三年)に、戸田城聖のもと、青年六千人が集い、広宣流布の後事を託す、記念の儀式が行われた日であった。  その意義ある日が、海外初の〝出張御授戒〟の出発の日になったとあって

14. <新・人間革命> 第7巻 操舵 369㌻

が降ることなどなかっただけに、この雨が、皆の心を曇らせていた。  午前九時前、歓送会が始まった。宗門の総監に続いて、学会を代表して理事長の原山幸一が歓送の辞を述べた。  原山は、学会の歴史に燦然と輝く三月十六日が、海外初の〝出張御授戒〟の出発の日となったことを喜ぶとともに、このたびの二人の僧侶の派遣は、宗門史に永遠にとどめられる「壮挙」であると語った。  海外初の〝出張御授戒〟を讃える原山のあいさつは、当時

15. <新・人間革命> 第7巻 操舵 370㌻

手につつまれた。  集った会員の多くは、感動に目を潤ませていた。  しかし、まことしやかに「世界広布」を語りながらも、阿部はこの時、アメリカでの享楽を思い、心でほくそ笑んでいたのかもしれない。  この三月十六日の夜、東京・日比谷公会堂では、会長・山本伸一が出席して、青年部の弁論大会が盛大に開催された。  五年前のこの日、戸田城聖は、衰弱した体で、死力を振り絞るようにして、伸一をはじめとする青年たちに、広宣流

16. <新・人間革命> 第11巻 暁光 75㌻

サンパウロの市立劇場で行った、あの六六年(昭和四十一年)の文化祭の悔しさが、頭から離れなかった。  以来八年、山本会長を招いて文化祭が行える日の到来を、待ち続けてきたのであった。  文化祭の開催日は、三月十六日、十七日(現地時間)の両日で、会場はサンパウロのアニェンビー会議場と決まった。堂々たる大会場である。  文化祭の企画も練りに練られ、練習に励む出演者も懸命であった。  伸一にとっても、このブラジル訪問

17. <新・人間革命> 第11巻 暁光 84㌻

 ブラジルでの文化祭は、三月十六日、十七日の両日にわたって開催された。十六日の開会前、会場のアニェンビー会議場で、出演者の指導会がもたれた。  席上、斎木は、山本会長のブラジル訪問の中止を、正式に発表した。  その瞬間、誰もが息をのん

18. <新・人間革命> 第11巻 暁光 85㌻

布を、楽しく、勇敢に成し遂げていってください。  今回だけが勝負ではない。勝負は永遠にある。  私は、将来、必ず行きます。必ず、必ず行きます」  涙に潤んだメンバーの目に、新しき決意が光った。  この三月十六日、山本伸一は、アメリカの地から、文化祭の大成功を懸命に祈り続けていた。伸一は、この日が、十六年前に、師の戸田城聖から、彼をはじめとする青年たちに、広

19. <新・人間革命> 第11巻 開墾 183㌻

 さて、三月十六日の朝、ぺルーの首都リマで山本伸一と別れ、ボリビアに向かった理事長の泉田弘、総務の春木征一郎ら五人は、午後零時半過ぎ、ボリビアの事実上の首都であるラパスに到着した。  ラパスは、世界最高所の首都といわれ

20. <新・人間革命> 第12巻 栄光 303㌻

わかっていた。しかし、学園の運営は校長、理事長が中心で行うべきものである。その原則を明らかにするためにも、創立者である自分は、表面に出るのではなく、側面から応援していこうと決めていたのだ。  だから、三月十六日に来賓五百人を招いて行われた開校祝賀会にも、伸一は出席を見合わせた。そして、終了後に学園を訪問して、教職員を励ましたのであった。  理事長の森川は、「入学式には、なんとしても、山本先生にご出席いただき

21. <新・人間革命> 第15巻 創価大学 114㌻

きを隠せなかった。  彼は、創立者の心に触れた気がした。それが、忘れてはならない人間教育の根本精神ではないかと、決意を新たにした。  二月末には、全学部の合格者が決まり、開学を待つばかりとなった。  三月十六日、創価大学では、大学関係者や報道陣など、約千人の来賓を招き、体育館で落成開学祝賀会を行った。

22. <新・人間革命> 第21巻 人間外交 129㌻

 青年のために道を開いてこそ、未来は開かれる──伸一は、それこそが自身の使命であると決めていたのだ。  三月十六日は、一九五八年(昭和三十三年)に、第二代会長の戸田城聖から、伸一をはじめとする青年たちに、広宣流布の後事の一切を託す記念の式典が行われた日である。  男子部では、その「3・16」を記念する大会を、この

23. <新・人間革命> 第23巻 未来 11㌻

美しき信義を貫き通していただきたい」と訴えたのである。  三月十六日は、東京の創価高校の第六回卒業式であったが、伸一は、どうしても岡山を訪問しなければならなかった。そこで彼は、前日の午前中、録音テープにメッセージを吹き込み、届けてもらったのである。  「私は岡山県にお

24. <新・人間革命> 第25巻 福光 100㌻

男女青年部がいることに、深い感動を覚えるとともに、未来は盤石だと、心から安心しております」と語り、「3・16」の意義に言及していった。  「『広宣流布記念の日』の淵源となった昭和三十三年(一九五八年)三月十六日、つまり『3・16』の儀式というと、時の総理大臣が来る予定であったことが、語り継がれておりますが、それは、決して本質的な問題ではなかった。戸田先生は、そんなことよりも、次の時代の一切を青年に託すという

25. <新・人間革命> 第25巻 共戦 106㌻

が、「創価学会のシンボルマークが誕生」の見出しとともに、八葉蓮華をデザインした図案が掲載されていたのである。  そこには、こう記されていた。  「これは八葉蓮華をデザイン化したもので、本部代表者会議(三月十六日)での投票によって決まったもの。シンボルマークの八葉の花模様が、幾重にも広がりをみせる姿は『八とは色心を妙法と開くなり』(御書七四五㌻)の意義を踏まえ、一人一人の生命の仏界を開き顕し、また日蓮大聖人の

26. <新・人間革命> 第25巻 薫風 214㌻

した。創価学会の大勝利は、誰の目にも明らかであった。  司会の伸一によって、閉会が告げられた。それは、おのずから勝利宣言となった。  戸田城聖が出席した最後の大行事となった、一九五八年(昭和三十三年)三月十六日の広宣流布記念の式典で、司会を務めたのも伸一であった。  当初、式典には、戸田の友人である、時の総理大臣も出席する予定であった。集った六千人の参加者は、日本の未来を担う柱である創価青年の心意気を見せよ

27. <新・人間革命> 第27巻 若芽 43㌻

は、まず自らが、絶対に目的を成就すると決めて、率先垂範で物事に取り組むことである。そして、自分と同じ思いで、共に行動してくれる人たちへの、感謝と配慮を忘れぬことである。  一九七八年(昭和五十三年)の三月十六日、創価高校の第八回卒業式が行われた。この日、伸一は、東京創価小学校の近くを車で回った。三階建ての立派な白亜の校舎が姿を現し、完成に向けて、最後の作業が行われていた。鈴木所長をはじめ、関係者の苦労に深謝

28. <新・人間革命> 第27巻 激闘 323㌻

紀 時来たる   今ひらけゆく 金の道   春の曙 創価山 創価山   私の あなたの 青春桜  合唱祭のフィナーレは、七百五十人の出演者による女子部歌「青春桜」の大合唱であった。この歌は、二カ月前の三月十六日に行われた青年部総会を記念して発表されたものだ。  伸一が女子部長らに、「歌詞を見てください」と頼まれ、筆を加えた歌である。彼は、全生命を注ぐ思いで、新時代を開く〝魂の歌〟にしようと、詞を練り上げてい

29. <新・人間革命> 第29巻 清新 263㌻

。日蓮大聖人は『妙とは蘇生の義なり』(御書九四七㌻)と御断言であります。今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出しながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」  三月十六日の「聖教新聞」には、被災地の同志に送った、山本伸一のメッセージが掲載された。そのなかで彼は、被災者への見舞いと救援・支援に奔走する会員への感謝を述べたあと、この大試練をなんとしても勝ち越えてほしいと、

30. <新・人間革命> 第30巻〔下〕 誓願 216㌻

た口調で言った。  「不可能を可能にする!」  これが、上野の最後の言葉となった。  彼は、原発性くも膜下出血と診断され、十三日に呼吸停止となったが、人工呼吸で四日間、生き続け、「広宣流布記念の日」の三月十六日を迎えた。そして、翌十七日午後、安らかに息を引き取った。その枕元のハンガーには、彼が文化祭で着る予定であった青いユニホームが掛けられていた。菊田は、友の霊前で誓った。  「弘治! 君の分も頑張るぞ!」

世界広布新時代

創立100周年へ

青年・飛躍の年

(2022年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2022.8.8

第2069

 

日天月天ワンショット

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