今日の日めくり

2024年7月14日

第2305回

幸福とは、

環境(外界)と自分の生命力との「関係」で決まる。

 

 

 

<妙法には何があっても行き詰まらない

宇宙大の生命力を秘めている>

 

 「強い」人は「幸福」です。ただし、「強さ」というのは相対的なものです。環境と、自分の生命力との「関係」です。

 生命力が弱く、しぼんでいると、つまらないことにもイライラし、左右されて、行き詰まり、不幸を感ずる。少し生命力が拡大して、家庭内のことなら解決できるだけの生命力になる。これなら家庭内のことでは行き詰まらない。

 しかし一歩、地域のこと、町内・市内の問題となると行き詰まる。また、かりに一国を悠々と繁栄の方向へ軌道に乗せていける生命力をもつ人がいても、いぎ自分自身の生老病死の問題になると行き詰まってしまう。

 法華経とは、何があっても行き詰まらない宇宙大の生命力を教えた経です。無限にわきくる大生命力を全人類に与えるのが、この仏法なのです。ゆえに、妙法への「信心が強い」人こそが、最高に「強い」人であり、最高に「幸福」な人であると結論できる。

 幸福とは、環境だけで決まるのではない。大邸宅の中で泣いて暮らしている人もいる。しかし、幸福とは、環境と無関係に決まるものでもない。子どもに食べさせるものもなくて「私は幸福だ」と言っても、それはうそです。

 幸福とは、環境(外界)と自分の生命力との「関係」で決まる。悪い環境に支配されたら不幸。悪い環境でも、こちらが支配し左右していけば幸福です。

 

法華経の智慧 法師功徳品(第十九章)


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2024年6月24日

第2304回

「わかる」ことより「かわる」こと!

 

<「人間革命」すること!>

 

 大事なことは、

 「学ぼう」という」信心です。

 その求道心さえあれば人間革命が進む。

 戸田先生は、よく言われていた。

 「わかる」ことより「かわる」ことだと。

 

 たとえ八万法蔵が「わかった」としても、

 自分が人間革命しなければ、

 何にもならない。

 人間革命するための教学です。

 信心を強くするための教学です。

 少しずつでも、学び続ける「信心」があればいいのです。

 

法華経の智慧 如来神力品 (第二十一章)


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2024年6月16日

第2303回

題目の力は計り知れない!

今こそ、大功徳を!

 

<その功徳は、仏でも知り尽くすことができない>

 

 題目の力を、

 自分の小さな境涯で、

 「このくらいだろう」と推し量ってはならない。

 その功徳は、

 仏でも知り尽くすことができないと言われている。

 いわんや凡夫が勝手に決めつけるのは、増上慢です。

 御本尊の無量の功力を

 小さく見てしまう「弱い信心」であっては、

 御本尊の力も小さくしか出ない。

 戸田先生は、よく豊島公会堂で

 「私の受けた功徳を、この公会堂の大きさとすると、

 皆さんのは小指くらいだ」と言われていた。

 

 今は、経済も大変だ。

 私は、だからこそ、今こそ、

 皆さんに「大功徳」を受けてもらいたい。

 くめども尽きない「大福徳」を得てもらいたい。

 

法華経の智慧 陀羅尼品 (第二十六章)


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2024年6月14日

第2302回

「広宣流布のために」学会を守る!

 

<この一念に無限の智慧と慈悲と生命力が!>

 

 

 「広宣流布のために」学会を守るのか、

 「自分のために」学会を利用するのか。

 根本的な違いがある。

 

 本当に、広布のために立ち上がれば、

 どれほどの力が出るか、

 どれほどの智慧と慈愛と生命力が出るか、

 どれほど諸天が動きに動くか。

 

法華経の智慧 陀羅尼品 (第二十六章)

 


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2024年5月10日

第2301回

本当の仏法者は、

飾らず、ありのままの姿でいく!

 

 

 ″青い鳥″の話ではないが、

 「幸福」を遠いところに求めて、

 さがしあぐねたはてに、

 自分の家という一番身近なところにあったのです。

 幸せは、どこか遠いところにあるのではない。

 自分が、自分らしく、

 本然の仏界の生命力を

 燃やしていくのが「幸福」です

 何があろうとも、前へ前へ、

 「自分の今世の使命を果たすのだ!」と進んでいく。

 その「信心」が「仏界」であり、

 永遠の「幸福」なのです。

 

 三十二相とかは、今でいえば、

 「学歴」とか「名声」とか「地位」とかに当たるかもしれない。それらは、ある場合は、妙法の偉大さを人に教えるために、役に立つことがあるかもしれない。そういう姿を見て、尊敬の心を起こす人もいるからです。

 

 しかし、絶対にそれらが「目的」ではない。

 自分をそういうもので″飾っている″限り、

 本当の″人間としての力″は鍛えられない。

 本当の信心はわからない。

 仏法はわからない。

 そういう「見えっぱり」は「提婆達多の心」です。

 御書に、提婆が自分も三十二相で飾ろうとする話があったでしよう(全1044頁)

(中略)

 本当の仏法者は、飾りません。

 ありのままの姿でいくのです。

 

 信心の世界に、

 学歴とかそんなことは何の関係もない。

 そんなものにこだわる慢心があれば、

 かえって信心の邪魔になる。

 

 本当の信心は捨て身です。

 自分をかばうのではなく、

 不惜身命で

 「難」に向かって進んでいくのが、

 本当の日蓮仏法だ。

 

 ″凡夫こそ本仏なり″と説く

 本因妙の仏法をそのまま行じたならば、

 創価学会の一大民衆運動になる。

 ″自分を飾り立てた権威・権力″と戦う

 「民衆仏法」こそが、

 法華経の真意なのです。

 

「法華経の智慧」如来神力品 池田大作全集 第31巻


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2024年4月28日

第2300回

国家主義という″宗教″

 

「集団力崇拝」の恐ろしさ>

 

 国家主義とは何か。

 その根本には「力の崇拝」があります。

 不軽菩薩と対極です。

 「権力主義」と言ってもよいと思う。

 「国家があって人間がある」という転倒の思想です。

 忘れてならないのは、国家主義は古代からの「宗教」であるということです。

 これについては、トインビー博士と、じっくり語り合いました。前にも話したと思うが、博士は、こう言っておられた。

 「キリスト教の後退によつて西欧に生じた空白は、三つの別の宗教によって埋められた」その三つとは、「科学的進歩への信仰」と「共産主義」、そして「ナショナリズム」すなわち国家主義であると。

 その「国家主義」とは、どんな宗教か。それは「人間の集団力」を信仰の対象にしている。「集団力崇拝」であり「国家崇拝」です。

 ちなみに、トインビー博士は、集団的な人間の力を崇拝している点で、ナショナリズム、ファシズム(全体主義)、共産主義は共通していると喝破されていた。国家主義という宗教のもとでは、「人間」は、あくまで「国家」の一部にすぎない。手段にされ、道具にされる。「人間の尊厳」が「国家のエゴ」に踏みにじられてしまう宗教です。

 「集団力崇拝」の恐ろしさは、「信仰するに価しないことがそれほど明瞭にわからないから」だと、トインビー博士は書いている。(『一歴史家の宗教観』深瀬基寛訳、『トインビー著作集』4所収、社会思想社)

 「そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇なく良心の呵責をうけるはずの悪業も(中略)一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになる」

 戦争もそうだ。通常なら、人を殺すということは「極悪」の行為です。ところが「国のため」となると、たくさん人を殺したほうが英雄になる。

 戸田先生は書いておられる。

 「私は少年時代から不思議に思っていることがいくつもあるが、そのなかで最も不思議に思うことは、国家と国家の間に、最も文化とかけ離れた行動があるということである。

 もっと、くわしくいえば、あらゆる文化国の人々が、礼儀の上でも言葉づかいでも態度でも、じつによく文化的に訓練され教育されている。このように、個人と個人の間の生活は、価値と認識において文化的であるにかかわらず、この形式は国家と国家との間における外交にかんしでは、表面が文化的であっても、その奥は実力行使が繰り返されている。

 一旦外交が断絶されると、礼儀や習慣を捨てて修羅の巷となるのが国家間の状態ではなかったろうか」(『戸田城聖全集』1)

 戦争をはじめ、こうした流転に歯止めをかけ、人類永遠の楽園を建設する原動力こそ、真実の宗教であると戸田先生は叫ばれたのです。

 人間です、大事なのは。人間のために社会・国家があるのであって、その逆ではない。国家優先の思想は、「力の崇拝」であり、要するに「弱肉強食」になっていく。人間愛の「不軽菩薩」と対極です。それで不幸になるのは、結局、庶民なのです。見ぬかなければいけない。目ざめなければいけない。

 国家悪の恐ろしさを、深く見抜いておられたのが、牧口先生であった。

 神札を受けることを拒否した時、宗内には″形だけなのだから、受けけるだけ受けではどうか″という意見もあった。

 しかし、先生は一歩も引かれなかった。先生が投獄される前から、座談会も特高警察の立会いで行われた。話が神札のことになると「中止!」の声が飛ぶ。

 先生が話をそらした後、神棚のことに入ると、また「中止!」。周囲の幹部でさえ「注意されることがわかっていながら、どうして牧口先生は、何度も話を繰り返すのかな」と思っていた。先生の心がわからなかった。先生が「神札」を拒否したということは、本質は「国家崇拝」を拒否したのです。

 ″国家より、人間が大事ではないか! 皆が不幸になっていくのを見過ごすことなど、絶対にできない!″という、やむにやまれぬ叫びだったのです。(中略)

 牧口先生、戸田先生が、大聖人の″魂″を守ったのです。国家権力との壮絶な戦いによって。

 牧口先生、戸田先生は、人々を国家の「奴隷状態」から救うために戦ったのです。人間、だれ人にも、幸福になる権利がある。自由に生きる権利がある。国家の部品や歯車なんかでは絶対にない。

 その信念ゆえに国家から迫害された。まさに「不軽」の行動です。

 私は「道」を開いているのです。青年が続かなければ、「道」は「大道」にならない。ともあれ、広げて言えば、上慢の四衆は、国家悪に通じる。権力者ほど増上慢の人間はいない。

 四衆の行いを「第六天の魔王」の振る舞いとされている「御義口伝」があったね。

 

 ーーはい。「上慢の四衆不軽菩薩を無智の比丘と罵詈せり、凡有所見の菩薩を無智と云う事は第六天の魔王の所為なり」とあります。(凡有所見とは「会うかぎりの、あらゆる人に対して〈礼拝する〉」との意。末法においては折伏が凡有所見となる)

 

 「大勢力」を誇る四衆が、何の力も持たない不軽菩薩をバカにし、迫害した。四衆の「力」と傲慢に対して、不軽菩薩は「精神」で挑んだ。

 「暴力」に対して「非暴力」で戦った。「多数」の横暴に対して「一人」で戦った。

 それは近代においては、インドのマハトマ・ガンジー、アメリカのマーチン・ルーサー・キング博士の戦いを想起させる。民衆による人間愛の人権闘争です。

 「不軽」の心については、まだまだ、あらゆる角度から深く拝さなければならない。たとえば、「増上慢の四衆」と「不軽」との関係にしても、大聖人は、こう仰せになっている。

 「不軽は善人・上慢は悪人と善悪を立つるは無明なり、此に立つて礼拝の行を成す時善悪不二・邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり」

 たしかに不軽菩薩と悪人は対極にある。しかし、どちらも妙法の当体である。同じ「人間」である。悪人にも善の仏界があるし、善人にも悪の生命がある。

 ゆえに不軽菩薩は迫害されても迫害されても、広宣流布へ立ち向かっていった。悪人たちの「眠れる仏性」を信じて、「毒鼓の縁」を結び、仏縁を結んでいったのです。

 (「毒鼓の縁」とは「逆縁」とも言い、法華経を説き聞かせれば、たとえ、その時は信ずることなく、誹謗しようとも、″正法を聞いた″ことが「縁」となり、必ず後に成仏の道に入ること。

 毒鼓とは毒を塗った太鼓のことで、この音を耳にした者は、聞くことを望むと望まないとにかかわらず、皆、死すとされた。死ぬとは「煩悩が死ぬ」ことを譬え、逆縁の功徳を教えている)

 

 ーー仏縁を結ぶことが、下種仏法では大切なわけですね。大聖人は「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」と仰せです。「強いて」と仰せです。

 ーー妙法を説き、耳に触れさせれば、相手の生命の奥底では、必ず仏性が触発されている。それで反発するか、発心するかは、人それぞれですが、必ず「眠つていた仏性」が刺激されているのですね。

 

 そう。「鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」です。

 

 ーーそこを読んでみます。

 「自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(〈不軽菩薩の礼拝は〉自他不二の礼拝である。なぜかというと、不軽菩薩が四衆を礼拝すれば、増上慢の四衆の仏性もまた同時に不軽菩薩を礼拝するのである。これはちようど「鏡に向かって礼拝する時、そこに映っている自分の姿もまた自分を礼拝する」のと同じである)

 

 一般論で言っても、尊敬は尊敬を生む。軽蔑は軽蔑を生む。

 自分が変われば、相手も変わる。人材育成にしても、相手を「必ず立派な人材になる人だ」と、まず信じて、尊敬してこそ成功する。自分の子分のような気持ちで接して、人材が育つわけがない。

 同志を心から尊敬できる人が偉いのです。不軽菩薩は信仰していない相手すら、「仏界」があるのだからと礼拝した。いわんや信仰している同志を粗略に扱う人がいれば、必ず罰を受けるでしよう。

 

 ーー幹部は、よくよく振る舞いに注意しなければいけませんね。人を無礼に待たせたり、威張った態度では、法華経ではありません。

 

 相手の態度がどうあれ、不軽菩薩は、ただひとすじに信念を貫いた。そして勝った。表面だけ見れば、「常にバカにしていた」有力者たちのほうが勝っていたように見えるかもしれない。しかし、じつは「常にバカにされていた」不軽菩薩が勝っていたのです。境涯には天地雲泥の差があつたのです。

 思えば、大聖人は、あの流罪の地・佐渡で、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と言われた。

 何と崇高な御言葉か。幾万年の人類史の頭上、その天空高くから、雷鳴のごとく、天の交響曲のごとく、鳴り響き、とどろきわたる一言です。

 

 ーー大聖人のその深きお心も知らず、迫害に狂奔していた彼らの心は、本当に無慙です。今もいます。そういう人間について、大聖人は″長らく地獄に堕ちて苦しんで、そのあとまた日蓮に会って救われるのだ″と言われています。(御書766頁、1123頁等)

 「善悪不二」とは、悪をそのまま認めることではない。悪と断じて戦い、打ち破って、悪をも善の味方にしていくことです。

 仏法は勝負だ。負けたのでは、現実には、善悪不二ではなく、善が悪の奴隷になってしまう。断じて勝ってこそ、悪知識をも善知識にしていけるのです。

 ーー大聖人は「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」と言われています。大聖人を流罪した相模守(北条時宗)こそ「善知識」である。そして迫害の中心者・平左衛門尉こそ、釈尊の「悪知識即善知識」であった提婆達多と同じである、と。

 法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(授記品、法華経257頁)とある。敵をも味方に変えてこそ広宣流布です。

 そのためには、

 自覚した人間が猛然と「一人立つ」以外にない。

 そして民衆が鉄の団結で進む以外にない。

 この章の冒頭、桜の花の話をしたが、国家主義という転倒の思想によつて、何百万、何千万という尊き、かけがえのない命が散らされた。

 その暴虐を「やめろ!」と叫んだのが牧口先生、戸田先生です。それは最高の″愛国者″の行動であった。

 そして「人間宗」というべき法華経への殉教であつた。国家のためでなく、人間のために命を捨てたのです。この歴史を、両眼をしっかと開いて見つめなければならない。

 そして今こそ、新たな国家主義、権力主義の動きに対して、立ち上がるべきです。

 それこそが「不軽品」を読むことになるのです。

 

「法華経の智慧」 池田大作全集第31巻


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2024年4月26日

第2299回

究極は人格

 

<学会は「人間主義の世界」>

 

 要するに仏法と言っても、

 究極は「人格」です。

 立派な「人格」をつくるための仏法です。

 立派な人格の人は、謙虚です。

 そして焼きもちを焼かない。

 自分のことではなくて、

 皆の幸福を考えている。

 私どもで言えば、

 広宣流布のことを考えている。

 だから「公平」です。

 だから「慈愛」がある。

 慈愛があるから「智慧」もわく。

 

 どこの組織でも、

 大きくなると官僚化が始まる。

 創価学会は、永遠に、そうなってはならない。

 学会は「人間主義の世界」です。

 

 組織と言っても、幹部で決まる。

 大きくなればなるほど、

 幹部は自分を謙虚に磨いていくことです。

 

 会員同志を「徹底的に」大切にすることだ。

 この「徹底的に」を本当にやったところが伸びる。

 また、それが自分自身の仏道修行です。

 それが法華経です。

 

「法華経の智慧」 池田大作全集第31巻


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2024年4月8日

第2298回

本当の幸福は

利他の行動の中に!

<自身の
人間革命の歓びを友に語ろう!>

 

 本当の幸福は、

 人のために行動するなかにある。

 社会のため、世の中のために

 行動するなかにある。

 私たちでいえば、広宣流布である。

 折伏である。

 最高の善行とは、幸福の大法である、

 この仏法を教えることだ。

 宿命を転換し、

 幸福の道を切り開いていけるよう、

 人々を励ましていくことである。

◇◇◇

 苦しんでいる人、

 悩める人のために行動する。

 激励し抜いていく――

 創価の同志には、大変な状況のなかで

 生きている人を目にした時、

 見過ごすことなどできないという、

 熱い思いが脈打っている。

 それは利他の心の発露であり、

 地涌の菩薩の使命に生き抜くなかで

 育まれてきた生き方といってよい。

 個人主義の風潮が強い

 現代社会にあっては、

 人は他者との関わりを避け、

 自分の殻に閉じこもりがちになる。

 その結果、人間の連帯が断たれて、

 孤独化が進んできた。

 そうしたなかで、他者の幸福を願い、

 積極的に関わろうとする

 学会員の生き方こそ、

 人間を結び、蘇生させ、

 社会を潤す力となろう。

◇◇◇

 我らには、最極の信念たる信仰がある。

 強盛な祈りで、立ち上がれ!

 題目は師子吼だ。

 滾々と勇気が湧き、

 満々と生命力が漲る。

 さあ、いよいよ、これからだ!

 人間の中へ、民衆の中へ、

 勇んで飛び込み、大誠実の力で、

 我らは勝利していくのだ。

 新しい一日、新しい挑戦、

 新しい出会いの舞台へ躍り出よう。

 負けじ魂、朗らかに!

 

 ※池田先生の言葉は順に、『普及版 池田大作全集 スピーチ』2005年[3]、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章、『随筆 民衆凱歌の大行進』〈負けじ魂 朗らかに〉から。

2024年4月7日〈四季の輝き――池田先生の心〉


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2024年3月27日

第2297回

峻厳な臨終に正しい信心の証

 

<「永遠」の生命観に立て!>

 

 このように、重要なのは「永遠」の生命観である。その高き次元から見わたす時、はじめて人生と社会の真実も、鮮やかに見えてくる。

 「生死」の現実から目をそらし、「生」の表面にのみとらわれた見方では、結局、「生」それ自体もつかめない。一生のすべての行動も、到着点である「死」という、いわば最終の山頂から見下ろす時、その意義がはっきりと全貌(ぜんぼう)を現してくる。

 人生における「死」の瞬間の重要性──そのことを繰り返し説いた哲学者の一人に、フランスのモンテーニュがいる。彼の『随想録(エセー)』は、若き日の座右の一書であった。戦争中、十代の私は貧しいなか、懸命に書物をもとめ、むさぼるように読書した。そのなかの一書である。そのころの書物は、防空壕に避難させたりして、今も若干数、残っている。

 

 『随想録』について、忘れられないのは、以前もお話ししたことがあるが、ある映画のことである。出征した一学徒がいた。その少ない荷物の中には、このモンテーニュの書があった。よほど愛読していたのであろう。私にも、その気持ちはよく分かり、共感を覚えた。また、隠していたその本を上官に見つかり、殴られたり、どなられたりする場面もあり、傲慢な指導者への怒りがこみ上げたのを今でも鮮烈に記憶している。

 

 さて「随想録」のなかに、「我々の幸不幸は死んでから後でなければ断定すまじきこと」という一章がある。その中でモンテーニュは、こう書いている。

 「この最後の瞬間においてこそ、我々の一生のあらゆる他の行為は試みためされなければならないのである。それは大切な日である。他のすべての日々を裁く日である。それは、古人の言うように、過去のすべての年月を裁くべき日である。私は私の勉強の成果の試験を死に委ねる。その時になれば、わたしの言葉が口先だけのものか、心の奥底から出たものかがわかるであろう」(『エセー』原二郎訳)と。

 

 死の瞬間において、どうであるか──。

 その一点が生涯の総決算となる。

 また、その瞬間が″本物″と″ニセ物″を明確に、

 また厳粛に峻別してしまう。

 口先だけの信心であったのか。

 真実の地涌の勇者であったのか──。

 まさに「それは大切な日」である。

 

 さらに彼は「他人の一生を判断するに当たっては、いつもわたしはその終わりがどんな風であったかを見る」と述べている。

 私も立場上、これまで多くの人々の死の姿を見てきた。その体験の上から、一つ一つの死が、それぞれ、その人の一生を厳粛なまでに象徴していることを痛切に感じる。また彼は続けて「私の生涯の努力の主たる目的も、最後がよくあること、つまり、平和で静かであるということだ」としるしている。

 苦痛もなく、安らかに眠るように死んでいきたい。そのような安穏にして荘厳な「死」で、我が生涯の完成を飾りたい。その見事な総仕上げのために、自分は一生をかけて哲学の研究をしてきた。その現実の証(あかし)がなくして、何の哲学であろうか──というのである。

 彼は、この後「哲学するのはいかに死すべきかを学ぶためであること」と題する一章を執筆している。

 

1988.3.24 第1回和歌山県記念総会 池田大作全集第70巻


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2024年3月25日

第2296回 

師の分身として

 

<師弟が不二であれば、何も恐れるものはない>

 

 戸田先生は、75万世帯の願業が一歩一歩、達成に近づいていくなかで、私たちに、一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました。

 先生は「みんなも立派に育ってきたからな。君たちに任せるよ。自分たちで責任をもって考え、進めていきなさい」と言われ、時には本部幹部会等にも出られなかったのであります。

 それは、未来のために考え抜かれた師子王の訓練であることが、私にはよくわかりました。

 先生は、仏法において、何よりも大切な「時」というものを鋭く見極められて、弟子たちが永続的に前進し、勝利し、発展していける流れを創ってくださったのです。

 特に、私に対しては厳しかった。

 「大作、私が打てる手は全部、打っておいたぞ。あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!」と厳命されたのであります。

 今、私も、戸田先生とまったく同じ心です。君たちに万事を託していく総仕上げの「時」を迎えているからであります。

 創価学会は日蓮大聖人に直結して、末法万年尽未来際まで広宣流布を成し遂げていく仏意仏勅の教団であります。

 師匠の薫陶に応えて、弟子が今一重の深い自覚をもって立ち上がる時に、未来を開く新しい前進と勝利の息吹が生まれるのであります。

 戸田先生の愛弟子として、私は、行くところ向かうところ、「立正安国」の勝利の旗を打ち立ててきました。

 正法正義のために、師匠の分身として勇敢に激戦に飛び込んでいく弟子には、仏と同じ智慧と力が必ずわき上がってくる。これが妙法の絶対の功力であります。

 どうか、皆さん方は、今こそ、自らの使命の大舞台で、威風堂々と、広布と人生の勝利の歴史を断固として創り残してもらいたい。

 

3つの勝利の要諦

 

 御聖訓を拝し、3つの勝利の要諦を確認したい。

 第1に、「強盛なる祈りで勝て!」。

 御聖訓に、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」、「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」と仰せの通りであります。

 第2に、「異体同心の団結で勝て!」。

 有名な「異体同心事」には、「日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」と断言なされております。

 そして第3に、「勇気と執念の行動で勝て!」。

 大聖人は池上兄弟に「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆ弛む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ」と仰せになられました。

 

 ともあれ、

 師弟は不二であります。

 ゆえに、

 どんな時でも常に師弟の心は一体です。

 師弟が不二であれば、

 何も恐れるものはない。

 

 皆、体を大切に!

 正義の我らは、朗らかに前進しよう!

 また、お会いしよう!

 

2010.6.3 新時代第41回本部幹部会

創立80周年記念第5回全国青年部幹部会、全国婦人部幹部会


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2024年3月23

第2295回

夫婦愛と同志愛に結ばれた

夫婦の絆を

 

<同じ方向を向いて前へ!>

 

 “夫婦”も、

 相手を見つめ合うだけの関係であれば、

 その世界は狭く、

 互いの向上も、

 前進も乏しい。

 

 しかし、二人が共通の理想、目的をもち、

 共に同じ方向を向いて進んでいく

 “同志”の関係にあるならば、

 切磋琢磨し、励まし合いながら、

 向上、前進していくことができる。

 

 夫婦愛、そして同志愛に結ばれた

 夫婦の絆ほど、

 強く、美しいものはない。

 

小説『新・人間革命』第28巻 革心 312頁


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2024年3月1日

第2294回

指導者の責任の重さ

 

<どこまでも民衆が根本>

 

 ここで、指導者の責任の重さについて、

 一言申し上げておきたい。

 大聖人は「守護国家論」の冒頭で

 「悪趣に堕つるの縁・一に非ず」──人間が地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に堕ちてしまう縁は、一つだけではなく幾つもある──と述べられている。

 そして、その一つとして

 「国主と成つて民衆の歎きを知らざるに依り」と厳然と指摘されている。すなわち──「国主」という、一国の民衆に対して重大な責任ある立場にありながら、″民衆の歎き″を知らない。また知ろうともしないゆえに──と。

 

 そのような

 無責任で無慈悲な権力者、

 傲慢な指導者の罪は、はなはだ重いと。

 生命の厳しき因果律に照らして、

 必ず悪道に堕ち、ほかならぬ

 自分自身が大変な苦しみを受ける

 ──との御断言である。

 

 短い御言葉ながら、

 重大な原則を教えてくださっている。

 いわば全世界の

 指導的立場にある人への

 警告とも拝せよう。

 

 「民衆の歎き」を知る、

 「民衆の声」を聞く、

 「民衆の幸福」のために

 尽くしに尽くしていく。

 それが指導者の使命である。

 どこまでも民衆が根本である。

 

 指導者は民衆のためにこそ存在する。

 

 当然のようでありながら、

 この真実の″民主″の原理原則に

 生きぬく指導者は少ない。

 

 民衆に仕えていくのではなく、

 自身のエゴに仕えていく

 指導者が余りにも多い。

 

 因果の理法の裁きは厳しい。

 

 民衆に支えられてこそ得た

 自分の立場を利用し、

 どんな名声や財産や勲章で

 華やかに表面を飾ろうとも、

 その内実は、むなしい。

 いな飾れば飾るほど、

 民衆を忘れた堕落の生命は、

 悪道への因を一日また一日と刻んでいる。

 

 大聖人は、この厳たる生命内奥の

 事実を教えられることによって、

 真実の指導者の姿を

 示唆されていると拝される。

 

 心して「民衆の歎き」を知れ!

 そして、その幸福のために、

 すべてをなげうって戦え!

 ここに指導者の根本要件があると。

 

 世間の指導者に寄せて仰せになった、

 この御言葉はまた仏法の世界にも通じる。

 

 それどころか、仏法の世界で、

 人を救い、

 正しく導くべき立場にありながら、

 その責任を果たそうとしない罪は、

 比較にならぬほど重い。

 

 まして、守るべき仏子を軽侮けいぶし、利用し、

 いじめる者にいたっては、

 その罪は言葉で言い尽くすこともできない。

 

 反対に、皆さま方は日夜、

 広布のリーダーとして、

 懸命に民衆の嘆きに耳を傾け、

 その幸福を祈り、行動されている。

 仏法の眼、生命の因果の眼から見る時、

 いかなる栄誉の指導者よりも

 尊き、存在であられる。

 その無償にして、信念の行動に対して、

 御本仏の御称嘆はもとより、

 全宇宙の諸天善神が、皆さま方を

 守りに守っていくことは間違いない。

 

 私も戦う。

 指導者として、休みたくとも

 休むわけにはいかない。

 止まりたくとも、走るのを

 止めるわけにはいかない。

 その、広布への渾身こんしんの実践にこそ、

 大聖人の仏法の生きた脈動が、

 また魂があると信ずるからだ。

 

1988.3.24第1回和歌山県記念総会 (池田大作全集第70巻)


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2024年2月21日

第2293回

歴史を変えるのは、

民衆一人一人だ!

 

<さあ、皆で悪と戦うのだ!>

 

 「世界の指導者と語る」(「聖教新聞」日曜版に連載)で、

 チェコの哲人政治家・

 ハベル大統領について書いた。(1994年9月25日付)

 大統領は、

 1989年の″ビロード革命″に成功する前から、

 ″歴史を変えるのは、民衆一人一人だ″と主張されていた。

 

 「歴史は″よそ″にあるのではないのです!

 ここにあって、

 われわれみんなが歴史をつくっているのです」

 「われわれの日常の

 善行や悪行がその根本的な構成要素であり、

 生活は歴史の外になく、

 歴史は生活の外にないのです」

 (『ハヴェル自伝』佐々木和子訳、岩波書店)と。

 

 世界的な革命家の大統領らしい、素晴らしい言葉である。

 

 民衆一人一人が、

 日常生活の中で何をしているか。

 どっちの方向へ動いているか。

 その集まりが、歴史の″大河″をつくっている。

 決して、どこか遠いところに「歴史」はあるのではない。

 

 ゆえに、皆が悪を許したならば、

 歴史は悪の方向へと進んでしまう。

 その責任は、「悪を行う人間」とともに

 「悪を許した人間」にもある。

 

 ゆえに″皆で悪と戦うのだ″と。

 これが、「もう悪は許さない!」と

 民衆を立ち上がらせた、

 大統領の哲学である。

 

1994.9.29 第80回本部幹部会、第29回婦人部幹部会

池田大作全集第85巻


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2024年2月11日

第2292回

戸田先生生誕の日

師弟不二の劇は永遠に続く

 

 

 師弟なくして、

 自分の時代だけで終わってしまえば、

 これは「小さな劇」のようなものです。

 自己満足になってしまう。

 その一方で、

 大河の流れのように、

 悠久たる人類の流れがある。

 それは、バトンタッチしながらの

 リレー競走のようなものです。

 それが師弟です。

 仏法は「師弟不二」と説きます。

 “師が上で、弟子が下”ではない。

 同じ目的に向かって、

 ともに進んでいくのです。

 

 私自身、戸田先生にお仕えして、

 深く決意していたことがあります。

 それは、「師子王」である

 師をお護りするためには、

 弟子である自分が

 「師子王の心」を取り出して、

 一切の障魔を

 打ち破ってみせるということです。

 師弟不二の実践に

 行き詰まりはありません。

 常に、

 「師匠ならどうされるだろうか?」と

 自問しては、

 「師匠のために!」と

 力と智慧を振り絞る。

 その心が自身の師子王の境涯を開き、

 あらゆる困難や試練を

 打ち破る勇気の源泉となるのです。

 

 師を持つ人生に、行き詰まりはない。

 師を持つ人生は、必ず勝利を開く。

 師を持つ人生ほど、無上の誉れはない。

 この不二の劇は、永遠に続きます。

 三世にわたる共戦を誓願した絆です。

 久遠以来、仏・菩薩の行動を貫く法を

 持ち続けてきた「永遠の同志」です。

 さあ、万年に輝き光る「弟子の大道」

 「後継の大道」「不二の大道」を、

 共々に

 走り抜いていこうではありませんか!

 

2024年2月11日〈四季の輝き――池田先生の心〉 

 

 ※池田先生の言葉は順に、指導選集〈下〉『広宣流布と世界平和』、「大白蓮華」2015年11月号、「大白蓮華」2015年8月号から。


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2024年2月8日

第2291回

北陸の歌

 

常楽・遊楽・団結・誓願

 

 一、ああ誇りなり コスモスと

   レンゲの薫る 故郷に

   ああ常楽の 北陸

   いざや謳わん 幸の広布を

 

 二、平和の陣列 田園に

   友と友との 握手あり

   ああ遊楽の 北陸

   起ちゆく君の 晴れ姿

 

 三、白雪踏みし 行進は

   心も軽く 飛び舞いて

   ああ同心の 北陸

   冬の吹雪に 気高くも

 

 四、妙法勇者の 足跡は

   護らん諸天も 勇み立つ

   ああ誓願の 北陸

   功徳の調べと 友の曲

 

 山本伸一は、北陸の同志に語りかけた。

 「歌詞は、四番までありますが、それぞれ三行目が大事です。

 『常楽の北陸』とは、満々たる生命力をたたえ、どんな苦難に遭遇しようが、常に人生を楽しみきっていける境涯です。

 『遊楽の北陸』も、自由自在の満足しきった境地です。

 幸せになるための信仰なんですから、楽しく、弾む生命で、学会活動にいそしんでいくことが肝要です。それには、信心は義務ではなく、権利であることを心に刻むことです。受け身ではなく、自ら積極的に、戦いを起こしていくなかに、歓喜が生まれます。

 人に言われて、ようやく重い腰を上げるのと、自分から、〝よし、こうしよう!〟と決めて活動するのとでは、勢いも、喜びも違います。日々の学会活動が、楽しくて楽しくてしょうがないという人は、自ら勇んで行動を起こした人です。それが信心なんです。

 三番は『同心の北陸』としました。

 団結こそが、信心の要諦であり、広宣流布推進の大原則からです。もしも、幹部同士が仲が悪く、心を結び合うことができないとしたならば、既に魔に翻弄されているのだとの認識に立たねばならない。なぜならば、それは、破和合僧、すなわち広宣流布の団結を破壊し、学会の組織を攪乱する萌芽となっていくからです。

 そして、団結をしていくうえでも、必要なのは勇気なんです。勇気がないと、苦手だと思う人に、自分の考えを率直にぶつけたり、直接、連絡を取り合ったりすることを避けてしまう。そこから誤解も生じていきます。

〝どうも、自分との関係がすっきりいっていないな〟などと感じる人がいたならば、役職や立場の上下に関係なく、勇気をもって、自ら連絡を取り、対話していくことです。

 なぜ学会は、広宣流布の仏意仏勅の団体として、その使命を果たし抜いてくることができたのか。それは、広宣流布を推進しようという同心、すなわち団結があったからです。

 また、広宣流布のために団結しようとしていくなかに、自身の人間革命があり、境涯革命があるんです

 人間は、ともすれば自分の考えや感情に執着するあまり、〝小我〟の世界に閉じこもってしまう。広宣流布の大使命を自覚し、そのために同志と団結していく時、〝小我〟の殻は破られ、〝大我〟が開かれる。その時、自己の個性もまた、大きく輝かせることができる。広宣流布のために、同志と心を合わせ、協調することは、小さな自分を脱皮し、大境涯を築いていく、跳躍台となるのだ。

 人びとの考えや意見に、違いがあるのは当然である。そのうえで、より根源に、根本目的に立ち返って一致点を見いだし、同心をめざすなかで、相互理解をもたらし、団結を図っていくこともできるのである。そして、そこに、平和社会実現への原理もある。団結を破る者とは、徹して戦うとの、彼の決意の表れであった。戸田城聖は、「学会は、人材をもって城となすのだ!」と語ったが、団結がなければ、創価城の人材の石垣も崩れてしまうからだ。

 伸一は、さらに訴えた。

 「『北陸の歌』の四番の三行目は、

 『誓願の北陸』としました。広宣流布の大誓願に生きる時に、歓喜あふれる地涌の菩薩の大生命がみなぎる。何ものをも恐れず、いかなる困難も乗り越えていける、無限の勇気と智慧と力が脈動します。大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです。

 北陸は、〝広布の誓願〟に生き抜かれた戸田先生の、ご生誕の地です。どうか、恩師の、その精神を受け継ぐ闘将の皆さんであってください」

 

 団結──その言葉を口にする時、伸一の目は、常に厳しい輝きを放っていた。それは、団結を破る者とは、徹して戦うとの、彼の決意の表れであった。戸田城聖は、「学会は、人材をもって城となすのだ!」と語ったが、団結がなければ、創価城の人材の石垣も崩れてしまうからだ。

 伸一は、さらに訴えた。

 「『北陸の歌』の四番の三行目は、『誓願の北陸』としました。広宣流布の大誓願に生きる時に、歓喜あふれる地涌の菩薩の大生命がみなぎる。何ものをも恐れず、いかなる困難も乗り越えていける、無限の勇気と智慧と力が脈動します。大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです。

 北陸は、〝広布の誓願〟に生き抜かれた戸田先生の、ご生誕の地です。どうか、恩師の、その精神を受け継ぐ闘将の皆さんであってください」

 

<新・人間革命> 第28巻 大道 217~221頁


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2024年2月4日

第2288回

恩師のふるさと

北陸のわが友よ!

 

 

 「北陸」と聞けば、

 私の心に光が広がる。

 ああ、愛する恩師のふるさとよ!

 誉れも高き、

 われら創価の師弟の源流よ!

 師弟は不二である。

 ゆえに、わが師・戸田城聖先生は、

 私の生命の最も奥深くに、

 いつも御一緒である。

 そしてまた、恩師の故郷・北陸の同志も、

 私の胸奥から

 瞬時として離れることはないのだ。

 

 妙法とは、永遠の「蘇生」の大法である。

 生き抜く力なのだ。

 前進のエンジンなのだ。

 そして限りなき向上のエネルギーだ。

 いかに「もう駄目だ!」と思うような

 苦境に直面しても、本来、

 「生き抜く力」「難を乗り越える力」が

 生命の大地に厳然とある。

 その無限の偉大な力を蘇らせるのが、

 信心なのである。

 力強く妙法を朗々と唱えていくならば、

 煩悩即菩提で、

 「悩みを喜びに」「不幸を幸福に」

 「宿命を使命に」と、

 必ずや変えていける。

 この素敵な妙法を持った我々には、

 人生と生活の行き詰まりは

 絶対にないのである。

 

 北陸の、大切なわが友よ!

 一人ひとりが、多くの仲間とともに、

 閃々と心を輝かせながら、

 一日一日を生き抜いてくれ給え!

 最後の勝利と歓喜は、

 我らの胸の中にある!――と。

 我らには正確な道がある。

 宇宙と一体の信仰がある。

 そして、偉大な門があり、

 偉大にして大胆な、自己の建設がある。

 いかなる重々しき嵐があろうが、

 我らには、幸福へと、

 猛烈に震動しゆく絶対の力がある!

 心がある! 団結がある!

 

2024年2月4日〈四季の輝き――池田先生の心〉

 

 ※池田先生の言葉は順に、指導集『勝利の旭日 誓願の北陸』巻頭言、『随筆 勝利の光』〈創価の使命の花咲く天地〉、『随筆 桜の城』〈新時代の潮・北陸〉から。

 

 能登半島地震から1カ月余り。全国の同志が、世界の友が、被災された方々の安穏と健康、復興を祈っている。師との誓願を胸に立ち上がることを信じている。


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2024年1月28日

第2287回

池田先生のご遺言を

共々に誓願成就しよう!

 

<世界平和の揺るぎなき礎を>

 

 私たちは皆、

 地涌の菩薩の誓願によって

 使命の大地に出現しました。

 

 その上で、

 非難や悪口も覚悟し、

 他者を敬い続ける行動は、

 不軽菩薩の「紹継」でもあります。

 

 各国・各地域で、

 忍耐強く、

 ”創価の不軽”として進める

 「勇気の下種」「友情の対話」

 こそが、

 

 地球民族の善性を薫発する

 尊極の歴史を創るのです。

 

 永遠の世界平和への

 揺るぎなき礎を

 築く大事な七年が、

 遂に幕を開けたのです。

 

池田先生最期の御書講義より

2023年大白蓮華12月号№890 25頁

 


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2024年1月14日

第2285回

新しき時代の主役は「青年」

 

 青年の心には、

 果てしない希望の青空が広がり、

 真っ赤な情熱の太陽が燃えている。

 ほとばしる勇気と

 限りない創造の泉がある。

 新しき時代の主役は青年である。

 青年が、いかなる志をいだき、

 どれほど真剣に学び、果敢に行動し、

 自身を磨き鍛えているか――

 そこに、未来の一切がかかっている。

小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「勝ち鬨」

 

 青年が大事だ。

 青年こそ世界の宝である。

 平和への希望なのである。

 大きな事業を完成させるために、

 必要なものは何か?

 ドイツの詩人ゲオルゲは、

 それは「若い力」と

 「大胆な企てを敢行する

 新鮮な精神」であると綴っている。

 (『ゲオルゲ全詩集』富岡近雄訳、郁文堂)

 新しい人材を見つけ、育てていく。

 不屈の闘争精神みなぎる

 青年を育成していく以外に、

 学会の未来もない。

2007年8月16日付「全国最高協議会でのスピーチ」

 

 師と同じ大法弘通の大願に立てば、

 力は無限に湧き出すことができる。

 それが、誇り高き

 地涌の菩薩の底力だ。

 師弟の誓願の太陽は、

 母なる地球を照らし、

 未来永遠を照らす光源として、

 今、いやまして

 赫々と輝き始めたのである。

 あの国にも、この天地にも、

 友がいる。民衆が待っている。

 さあ、人類が待望してやまぬ

 「世界広布」即「世界平和」へ、

 新たな決意で、新たな出発だ。

 我は進む。君も進め。

 我は戦う。君も戦え。

 我は勝つ。君も勝て。

 我らは、共々に

 「人間革命」の大光を放ちながら、

 新鮮なる創価の

 師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ!

 君と我との誓願の旅を、永遠に!

『随筆 輝く民衆の大城』〈「人間革命」の大光〉

 

2024年1月14日〈四季の輝き――池田先生の心〉


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2024年1月10日

第2284回

農村地域が、

やがて、その重要性を再評価され、

脚光を浴びる時代が必ず来る

 

 <地域の灯台たれ! 学会の灯台たれ!>

 

 農村地域が、

 やがて、その重要性を再評価され、

 脚光を浴びる時代が必ず来る

 ――それが、(山本)伸一の未来予測であり、確信であった。

 

 伸一は訴えた。

 「今後、社会の関心は、

 農村地域に集まっていかざるを得ない。

 したがって、現代における農村の模範となるような、

 盤石な家庭を築き上げることができれば、

 そのご一家は、

 地域社会を照らす確固たる灯台となります。

 

 そして、そのご一家との交流を通して、

 妙法の種は下ろされ、

 広宣流布の堅固な礎が築かれていきます。

 ゆえに、私は、農村部の皆さんには、

 『地域の灯台たれ』

 『学会の灯台たれ』

 と申し上げておきたい。

 

 また、農村には、

 地域のさまざまな伝統行事や風習もあるでしょう。

 私たちの信心の根本は、どこまでも御本尊です。

 それ以外の事柄については、

 随方毘尼の原理に則り、

 社会を最大限に大切にして、

 知恵を働かせて、

 地域に友好と信頼を広げていってください。

 

 そして、一人ひとりが、

 福運を満々とたたえて、

 雅量と包容力に富んだ自身を

 築き上げていっていただきたいのであります」

 

 小説『新・人間革命』第24巻「灯台」の章 362頁


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2023年12月25日

第2283回

地域の協力・団結は、

社会建設の基盤

 

<共に汗水流す人間交流を>

 

 地域の協力、団結は、

 社会建設の基盤である。

 防災や防犯、環境改善や相互扶助も、

 地域の人と人とが心を通わせ合うなかで、

 初めて可能になるのだ。

 その人間の心と心を結ぶには、

 対話の波を起こさなければならない。

 

<新・人間革命> 第23巻 未来 36頁


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2023年12月21日

池田先生 最後の<創価新報>寄稿

第2282回

創価の若人よ 世界の平和の柱たれ

 

 

大願こそ青春勝利の源泉

 

 広宣流布大誓堂の完成10周年を

 飾ってくれた、一人一人の挑戦に、

 喝采を送ります。

 

 「広宣流布」即「世界平和」を

 誓い祈り、大民衆運動に身を投じて、

 使命を貫く月々日々が、

 いかに尊く偉大であるか、

 大願こそ,青春勝利の源泉です。

 日蓮大聖人は、「法華経の行者の

 祈りのかなわぬことはあるべからず」※1と仰せです。

 

 ゆえに、広布と人生の目標を具体的に定め、

 祈り抜き、祈り切って

 ベストを尽くすのです。

 

 「本因妙」の仏法です。

 どんな状況、環境であっても、

 今この瞬間から

 ”私の人間革命”

 ”私の広宣流布”

 を始めよう!

 宝の友と励まし合いながら!

 

 

地涌の連帯で後継即先駆を

 

 若人が行動し、連帯すれば、

 地域に社会に、新たな変革の潮が生まれる。

 その大潮流をいよいよ広げゆく

 「世界青年学会」の開幕の時が到来しました

 

 「青年主体」が学会の伝統です。

 戸田先生は、「青年が青年の責任で、

 理想の創価学会を建設していけ!」

 と言われました。

 

 「後継」とは「先駆」です。

 あえて苦労を担い立ち、

 自らが決然と道を創るのです。

 

 分断と危機の時代なれば、

 英知と友情を結集しゆく

 皆さんが、希望の光源です。

 

 地球の持続化可能な未来を開きゆく鍵も、

 若き結合にあります。

 

 「大悪おこれば大善きたる」※2と、

 地涌の君よ、

 世界の平和の柱たれ!

 

※1 新版592頁、全集1352頁

※2 新版2145頁、全集1300頁

 

 2023年11月15日付創価新報 池田先生が語る 青年への指針

 


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2023年12月19日

第2281回

 池田先生 最後の未来ジャーナル寄稿

 

2030年へ 後継の正義の走者に贈る

 Toward 2030 To My Young Successors,

the Torchbearers of Justice

 

王者の青春を走り勝ちゆけ!

KEEP STRIVING AND WIN

AS CHAMPIONS IN YOUR YOUTH!

 

 わが未来部の「勝利月間」です。

 受験生をはじめ宝の一人一人が、

 風邪などひかず、

 健康・無事故で勝利できるよう、

 祈っています。

 

 未来部歌「正義の走者」には、

 「君も負けるな」とあります。

 「自分に負けない」ことが真の勝利です。

 

 この歌の英語版では「メロス」は

 「champions(※1)」(王者)と訳されています。

 

 途中で力尽き、

 くじけそうになっても、

 負けじ魂を燃やして、

 何度でも立ち上がる

 不屈の王者たれ!――

 との師弟の誓いが込められているのです。

 

 日蓮大聖人は、

 未来部の大先輩の南条時光に

 「しばらく苦しみが続いたとしても、

 最後には必ず王者のように楽しい大境涯になる」(※2)と御断言です。「最後は勝つ!」と決め、

 題目を唱えて挑めば、

 自らの最高の可能性と

 最善の未来が開けることは、

 絶対に間違いない。

 創価のメロスよ、

 一人ももれなく、

 王者の青春を走り勝ちゆけ!

 

 

(この原稿は、池田大作先生のご生前にいただいたものです。

謹んで掲載いたします)

 

※1 未来部歌「正義の走者」の2番の歌詞に「君も負けるな いつの日か 共々誓いし この道を 嵐も吹雪も いざや征け これぞメロスの誉れなり」とあります。この部分は英語版で「You and I must not give in、 we will not give in/As we vowed together in the past、 on this noble path/Through blizzards and raging storms、 let’s boldly press on/Oh、herein lies the pride of champions of life」と訳されています。

※2 御書新版1901ページ、御書全集1565ページにある一節の現代語訳(趣意)です。

2023年12月1日付 未来ジャーナル(12面)


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2023年12月17日

第2280回

池田先生 最後の少年少女へのメッセージ

 2030年へ 希望の王子・王女に贈る

 

一日を大切に! 宇宙大の宝を

 

 今年もあと少し。

 ここまで、みんなは、

 すごい宝を積んできたんだよ!

 日蓮大聖人は

 「一日の命は、

 宇宙の全ての財宝を

 集めた以上の宝です」※と仰せです。

 

 今日を生きるということは、

 それほど素晴らしいことなんだね。

 一日を大切に努力したことは、

 苦労も失敗も、

 全部が「心の宝」となります。

 日記をつければ、宝物の記録です。

 

 うまくいかない日は、

 題目を唱えて、

 明日また元気に挑戦すればいい。

 月々日々に、

 命を燃やして学び鍛えよう!

 

 みんなが力をつけて、

 人類の宝の命を守り合う、

 平和な未来を頼みます。

 

 (この原稿は、池田大作先生のご生前にいただいたものです。謹んで掲載いたします。)

 

 ※御書新版1309ページ、御書全集986ページにある一節の意味です

 

2023年12月1日付 少年少女きぼう新聞 KIBOU(12面)


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2023年12月8日

第2279回

民衆が、

仏界の生命を現し、生命の底力を発揮

 

<熱原の三烈士の人権闘争>

 

池田 広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。

 3年前の建治2年(1276年)に著された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経が万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。

 しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。

 捕らえられた20人は信念を揺るがさずに毅然たる姿を示した。このことは、何の力も持たない民衆が、障魔の強大な圧力を信心の力で跳ね返したことを示している。

 民衆が、仏界の生命を現し、生命の底力を発揮していくことこそが広宣流布の根本方軌です。

 熱原の民衆の深く強い信心は、妙法五字の大光明が、虐げられた末法の人々の胸中を赫々と照らしうることを証明しているのです。

 (中略)

池田 しかし、1人として退転するものはいなかった。平左衛門尉は最初から処刑するつもりではなかったかもしれない。しかし、権力の中枢に登り詰めている自分に対して、農民が断固抵抗し、自身の信念に殉じようとしている。

 この時、権力者の胸中にどうしようもない瞋恚の心が湧き起こっていったのではないか。

 (中略)

池田 この20人の勇敢なる庶民の行動は、13世紀の封建時代の日本で起きた偉大な先駆の人権闘争です。苗字もない一介の農民が、厳然と宗教的信念を貫き、権力者の横暴に対して断固として「ノー」と叫ぶ。人類の人権の教科書の一頁を飾るべき出来事とも言えるのではないでしょうか。

 

講義「御書の世界」(下)池田大作全集第33巻

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.7.17

第2305回

 

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL