2022年1月19日
第1869回
あの時、なぜ、神奈川に行ったのか
<「日本」から「全世界」へ>
私が昭和五十四年(1979年)五月三日、
創価大学での儀式を終えて、
その足で一番はじめに来たのが、
ここ神奈川文化会館であった。
到着したのは、午後六時五十九分。
妻と一緒であった。
そこには、大勢の、
山をなした神奈川の同志がおられた。
会館の前の、
一階から二階にあがる大きな階段にもいた。
皆、大拍手で迎えてくださったのである。
あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。
それは、未来を見つめてのことであった。
本部でもない。
東京でもない。
神奈川文化会館の前から、
海を見つめて、
これからは全世界の指揮を執ろう!
小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、
世界に向けて指揮を執ろう!
そう決意していたのである。
私は全世界を志向して神奈川に来た。
この海の向こうに、
アメリカがある。
ヨーロッパがある。
アフリカがある。
アジアやオセアニアにも通じている。
海を見るたびに、構想は広がった。
当時、嫉妬と陰謀と謀略、
妬みと焼きもちが渦巻いていた。
創価学会が、
あまりにも大発展しているゆえであった。
反発した邪宗門の坊主らが、
若干の騒ぎを起こしていた。
その時に私は、
もっと高次元から、
世界を凝視した。
――ちょうどいい。
世界広宣流布の布石を、
本格的に始めよう!――
そして今や、
五大州の百九十(当時)もの国や地域に、
学会の平和勢力、
文化勢力が発展したのである。
私の指揮と行動は正しかった。
戸田先生がおられたならば、
「よくやった、よくやった」と
讃嘆してくださることだろう。
その師が今いないことは、
さびしい限りである。
(中略)
第三代会長を辞任した直後の昭和五十四年五月五日。
吹き荒れる迫害の烈風のなか、
私は、ここ神奈川文化会館で筆を執り、
「正義」の文字を認めた。
そして、その脇に
「われ一人正義の旗持つ也」
と記したのである。
何があろうと、正義は正義である。
ゆえに、絶対に勝つのだ。
愛する同志とともに、
世界広布を断じて成し遂げるのだ
――これが私の決意であった。
2006年1月12日 神奈川・静岡合同協議会
2016年9月29日30日
昭和五十四年四月二十四日
反転攻勢(4)
<一対一の対話こそ人間連帯の方途>
一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。
一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。
「信心即生活」である。その人の生活がわからなければ、信心もわからない。人前では明るく振る舞っても、人知れぬ悩みを抱えた会員も多くいた。いや、悩みのない人などいない。きめ細かい生活指導こそ、不屈の信心の確立につながることを痛感する一日一日であった。
会長辞任の直後、地道な家庭訪問から闘争を開始し、今や学会の民衆のスクラムは、世界をも結ぶまでになった。一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。
「良き交友ほど優れた味方はない」(『ティルックラル――古代タミル箴言集』高橋孝信訳注、平凡社)と、古代インドの大詩人ティルバッルバルは言った。
本当に、その通りだ。桂冠詩人である私には、胸を赫々と光らせてくれる名言であった。
我らは、断じて一生涯、いな永久に、善と正義の連帯を広げ抜いていくのだ。戦うのだ。生き抜くのだ。一対一の対話――これこそ最も確かで崩れぬ、平和と幸福の人間の連帯を築く方途であるからだ。ここに、学会が永遠に栄え伸びゆく生命線があることを決して忘れてはならない。
「第三代を護りに護れ! そうすれば、学会は盤石であり、広宣流布への道は永遠に大きく開ける」
これが、戸田第二代会長の最終的な遺言の重要な一つであった。
フランスの大文豪ユゴーは言った。
「理想に向かって進めばよい。正義と真理に向かって進めばよい」「宜しく前方へ突進すべきである」(『追放』中、神津道一訳、『ユーゴー全集』9所収、ユーゴー全集刊行会)と。
そして、ユゴーは叫んだ。
「反逆者を倒せ!」(同前)
2004年9月3日随筆人間世紀の光2 創立80周年へ創価の上げ潮
2016年9月27日
昭和五十四年四月二十四日
反転攻勢(3)
<真の報恩の人とは、
不知恩の悪を打倒する闘争の人となるのだ>
シェークスピア劇の、ある登場人物は憤った。
「ああ、恩知らずの形をとって現われるときの人間ほど恐ろしい化け物はない!」(『アテネのタイモン』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』7所収、白水社)
人間の偉さとは、地位や学歴ではない。いかに「恩」の大切さを感じて行動するかで決まる。報恩こそ、人間の生き方の根本である。深き意義ある、その恩を説いているのが、仏法である。「恩」の重さを知る人ほど、恩知らずの悪を許せるはずがない。ゆえに、真の報恩の人とは、不知恩の悪を打倒する闘争の人となるのだ。
私にとっての会員への恩返しとは、学会を裏切った輩から、健気な会員を断固守り抜く闘争であった。その戦いによって、「善の中の善」である創価学会の正しさは、明確に証明されるにちがいないと信じた。
我らの信仰による、真の報恩の物語こそ、人間性の真髄として、永遠に民衆の模範となり、軌道となり、感謝をもって語り継がれていくことは間違いないと確信していた。
私の功労者宅への訪問は続いた。その家の後継者や、小さいお孫さんとも親しく語り合った。一家一族を永遠に幸福の軌道に乗せることが、私の願いであり、祈りであったからだ。母親の信心が立派な家庭は、どこも後継者がしっかりと育ち、栄えていた。
全国を転戦しながら、移動の途中に、会員の家や店があれば、寄らせていただいた。山口県では、離島にも足を運んだ。兵庫県の中堅幹部のお宅では、関西の幹部に「3・16」の意義を後世に留める話をした。大分空巻に降り、坊主たちの苛めと戦い、苦しんできた方がいると知って、直ちにその場に向かったこともある。
二百軒目は、文京支部で共に戦った田中正一さんのお宅であった。三百軒目は、神奈川の功労者で、ご一家のお母さんが病に伏したことを知り、お見舞いに伺った。
五百軒目は、坊主の迫害に耐え抜いた愛媛の勇者の家であった。昭和六十年の寒い二月のことである。
その後も、全国各地、また世界を回るなかで、寸暇を惜しんで、広宣流布の尊き同志のお宅を訪問させていただいている。一軒また一軒と数が増えるにつれ、自分の家族も増えるような思いであった。
苦労して個人指導、家庭指導に歩けば、その分だけ、人間としての厚みがまし、豊かな境涯になれるものだ。やはり、一軒また一軒と家庭まで足を運び、語り合わなければ、その人の苦しみも、その人の本当の悩みもわからない。すなわち、その人の人生と使命と未来への希望を与えることができない。
(つづく)
2016年9月26日
昭和五十四年四月二十四日
反転攻勢(2)
<黙ったままでは情勢は変わらない!>
さらに第三に、わが正義の魂を燃やした、真剣勝負の「反撃」であった。当時、学会の首脳たちは、坊主どもの攪乱に怯え、常に宗門に監視されているような空気となってしまった。私も、自由に会合に出られない状況となった。そして、私に対する宗門の攻撃も一段と卑劣になってきた。聖教新聞には、ほとんど行動を報道されることもなくなっていた。私の記事が載らず、会員の方々は本当に寂しがっていた。多くの電話があった。多くの手紙が来た。
ただ黙ったまま、動きもしないで、情勢が変わるわけもない。まことの時は、いつになっても来ないであろう。増上慢の限りを尽くす宗門に対し、ふぬけになった幹部らの不甲斐なさにあきれて、私は一人、強い決心で、反撃に出た。会合に出られないなら、一軒一軒の家を回るのだ! 一度に大勢と会えないなら、一人一人との出会いを積み重ねていくのだ!
これが、私の断固たる決意であった。闘魂の炎であった。
長野県に在住する、古くからの功労者宅を訪問した時のことである。ちょうど今から二十五年前の、一九七九年(昭和五十四年)の八月二十五日であった。
当時も、あの地この地で、忘恩冷酷な坊主どもは、健気な学会員を苦しめ抜いていた。
この指導のために訪問した、家は、江戸初期から続く旧家であるという。小雨が降る午後、番傘を手に、表で待ってくださっていたご主人に案内され、重厚な門をくぐった。母屋には、およそ三百五十年の歴史がある。簡素な座敷は、質実な江戸の暮らしを偲ばせるものがあった。黒光りする柱や、牡丹が彫られた欄間に風格があった。この母屋を舞台にした民話を教えていただいた。
ある冬の夜――。溜め池に落ちて凍えるキツネを、庄屋の彦左衛門が親切に救い、山へ返した。翌朝、立派なキジが庄屋の家の縁側に。雪の上に残る足跡で、庄屋はキツネが恩返しに来たことを知った。「キツネの恩返し」という民話である。
庄屋の彦左衛門が、このお宅の先祖に当たるそうだ。素朴な筋書きだが、身振り手振りを交えて懸命に語るご主人の声には、切々と胸に迫るものがあった。
「恩」の大切さを伝え抜く心は、「忘恩」を許さぬ心でもあった。たとえ動物とはいえ、「恩」を忘れなかった行動は、幾百年も、親から子へ、子から孫へと伝承されてきた。報恩の行動こそ、民衆に必ず支持されるのである。
スペインの作家セルバンテスは、「忘恩は傲慢の産物にして、世に知られたる大罪の一つなり」(『ドン・キホーテ』後篇3、牛島信明訳、岩波文庫)と綴っている。
会長辞任の前後から、人間の裏切りや二面性を嫌というほど、私は見てきた。平気で大恩ある学会を裏切る不知恩な輩を、私はどれだけ目の当たりにしてきたことであろうか。「才能ある畜生」は、まさに畜生にも劣る存在であった。
(つづく)
2016年9月22日
昭和五十四年四月二十四日
反転攻勢(1)
<最前線に師弟あり!>
私は、昭和五十四年四月に会長を辞任した直後から、功労者の家々を訪ねていった。
第一に、会員へ「感謝」の意を伝えたかったのである。
会長を退く直前、お会いした中国の鄧穎超先生は、私の辞任に異を唱えられた。「人民の支持がある限り、辞めてはいけません」
強く心に残る言葉だった。若くして第三代の会長になった私を、全国、全世界の同志が、心から強く強く支えてくださった。新しき、道なき道を開いた功労者の苦労は、並大抵ではなかった。折伏に歩いても、罵詈雑言を浴びた。言葉の飛礫だけでなく、水や塩も襲ってきた。水道の元栓を止められ、村の共同の水道が使えない目にあった人もいる。
だが、御聖訓通りの、ありとあらゆる中傷非難、そして迫害のなか、わが同志は、決して広宣流布の旗を下ろさなかった。この方々を護らずして、誰を護るのか! この方々を讃えずして、誰を讃えるのか!
本当ならば、尊い仏子である全学会員のお宅を、私は一軒一軒、訪問したかった。せめて、その代表として、私は功労者のお宅を訪ねていったのである。ご高齢な方も多い。お元気なうちに自宅を訪ね、ゆっくりと懇談することが、私の夢であった。
第二に、学会の「再生」である。
私の会長辞任の背景には、私と会員の間を裂く、陰険なる離間工作があった。これこそ、浅ましき卑怯な反逆者と坊主どもの結託であり、黒い卑しき学会乗っ取りの陰謀であったのである。頼るべき我が最高幹部の連中も動揺が激しく、我が本陣は、怪物たちの行動によって変えられようとしていった。
しかし、最前線の会員と私の心の絆は、厳然と結ばれていた。私は、「第一線に行こう!」と、強い決心をした。組織の最先端こそ、広宣流布を最大に強固な陣列にせしむる、最も重要な城塞であると、私は心深く決意していたのである。
うろたえた最高幹部よりも、第一線の戦場で戦い抜いている、あの強靱な魂の勇士たちとの語らいが最も大切であると、私は心ひそかに思っていた。
御聖訓には、『魔をば奪功徳者といふ』(木絵二像開眼之事、470頁)と仰せである。また、『魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ』(常忍抄、981頁)とも説かれている。すなわち、魔とは、功徳を奪い、仏にならんとする正しい人をば、苦しめ、傷つけ、善を打ち倒さんとする。
だからこそ、私は、この邪悪にして、強力なる悪業の者たちと、真正面から戦う決心をした。
『各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず』(種種御振舞御書、910頁)と、日蓮大聖人が断言なされている通りだ。
これが、真実の広宣流布の未来を開く正義の行動であり、大道であるからだ。断固として、私は立ち上がった。そして戦った。美事に正義と勇気の大使命の本陣を、私は護ったのだ。傷も多かった。あらゆる中傷批判を浴びた。しかし、私は、尊き創価学会を護ったのだ。
この誇り高き魂は、広布の大功績を、諸天善神が、十方の仏菩薩が永遠に讃歎してくれることを、深く確信している。
いかなる卑劣な魔の大攻撃にも絶対に揺るがぬ、大善の連帯を!
尊き民衆の正義のスクラムを!
そして、使命と使命の鉄の団結を、私は新しく創り始めた。
そのために私は、最も基本である家庭訪問に走った。最も根本である個人指導に奔走した。いわゆる目に見えぬ土台の部分から、創価学会が使命とする「広宣流布」の重要な組織を、再び命の限り築き上げていったのである。
(つづく)
2015年4月25日
四月二十四日
<一体、学会精神は、どこにあるのか!>
一九七九年(昭和五十四年)の四月二十四日――。
この日、私は、十九年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。
全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。
その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。
なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。
正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じのとおりである。
御聖訓には、随所に説かれている。
『法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける』と(御書140頁等、趣意)。
広宣流布の闘争のゆえに、「悪口罵詈」されるのが、真の法華経の行者といえるのである。さらに「佐渡御書」には、『賢人・聖人は罵詈して試みるものである』(御書958頁、通解)と。
真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。
畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。心痛に、夜も眠れなかった。
私は、健気な創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。
それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。
坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。
私は苦悩した。
――これ以上、学会員が苦しみ、坊主たちに苛(いじ)められることだけは、絶対に防がねばならない。
戸田先生が「戸田の命よりも大事な学会の組織」といわれた学会である。民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。
私の心中では、ただ一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。
また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。
ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。「私が会長を辞めれば、事態は収まるんだな」。
沈痛な空気が流れた。やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」
沈黙が凍りついた。
わが胸に、痛みが走った。
――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ! 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
情けなく、また、私はあきれ果てた。
戸田会長は、遺言された。
「第三代会長を守れ! 絶対に、一生涯、守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!
1999.4.27 随筆 新・人間革命
嵐の「4・24」 断じて忘るな! 学会精神を(抜粋)