人生

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2022年9月18日

第2105回

「生涯求道」の健康人生を

 

<加えて「生涯挑戦」「生涯闘争」>

 

 

 わが“多宝の友”が

 広布に走り抜いた

 誉れの歴史は、

 自身の生命に

 黄金の日記として

 厳然と刻まれる。

 自らの命を使って

 「人間革命」の実証を

 示してきた栄光の福徳は、

 絶対に消えないのだ。

  

 年をとっても、

 心まで

 老け込んではならない。

 妙法という生命の大法を

 持った我々は、

 生き生きと

 若返っていくのである。

 張り切って進むのである。

 日蓮大聖人の御生涯は、

 最後の最後まで、

 広宣流布の大闘争に

 貫かれていた。

 信心に「引退」はない。

 心は退いてはならない。

  

 自他共の

 一生成仏のためには、

 どこまでも信心一筋に、

 学会と共に

 生き抜くことである。

 「生涯求道」「生涯挑戦」

 「生涯闘争」である。

 ゆえに、「今一日」

 「あと一日」における

 信心が大事だ。

 純一無二の信心で、

 自身の広布と人生の

 総仕上げをしていくのだ。

  

 疲れをためないよう、

 上手に休息をとりながら、

 聡明に、健康第一で

 進んでいきたい。

 題目を朗々とあげ、

 生命力を満々とたたえて

 価値ある一日一日を

 勝ち取っていくことだ。

  

 何歳になっても、

 新しい何かに

 挑戦する人は、

 若々しく生きていける。

 それが真の人生である。

 いわんや私どもは、

 不老長寿の最高の法である

 南無妙法蓮華経を

 持っている。

 妙法と共に、

 いよいよ若々しく、

 広宣流布と

 人生の最高峰へ、

 お互いに、楽しく、

 粘り強く挑み続けて、

 勝っていこう!

 

2022年9月18日池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」

 


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2022年6月13日

第2025回

人生の重大な別れ目では

思いきって、やってみる

 

<決定的な勝利と運命を決する!>

 

 一つ一つの出会い、

 一回一回の生命の交流は、

 時とともに、

 私たちの想像を超えるほどの

 大きな広がりと実りをもたらすものだ。

 

 皆さんも、日々、意義深い「出会い」を重ね、

 尊く偉大な歴史をつくっておられる。

 

 新しい出会い、新しい交流

 ――そのために大切なのは、

 打って出る「勇気」である。

 

 スイスの思想家ヒルティは論じている。

 「人生の重大な別れ目においては、

 つねにまず敢行することが大切である

 (『眠られぬ夜のために 第一部』草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫)

 

 「敢行」とは、敢えて行うことである。

 思いきって、やってみることである。

 またヒルティは、

 「勇敢に事にあたる者は、

 決定的な勝利をおさめることができる。

 そしてこの勝利が、

 その後長い期間にわたって、

 その人の運命を決定する」(同前)と述べている。

 さらに、

 「あやふやな態度で戦いにのぞむ者は、

 降伏するか、退却するかであって、

 前に向って進むかわりに、

 人生のこの時期とその課題とを全部、

 初めからやり直さねばならない」(同前)とも記している。

 深くかみしめるべき言葉である。

 

 どんなことであれ、

 「あやふやな態度」で、勝利がつかめるはずがない。

 それでは、ヒルティの言うとおり、

 貴重な時間を浪費してしまうだけである。

 臆病ではいけない。

 勇敢な者のみが、

 自分自身の勝利、

 人生の勝利をつかめるのである。

 

2005.6.6 牧口先生生誕記念協議会 

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2022年5月7日

第1991回

人生は戦い!

困難から進歩が

 

<一日一日、悔いなく戦いきる>

 

 私は若き日、国木田独歩の名文を読書ノートに書き留めた。

 とくに読み親しんだのは、独歩の日記として刊行された『欺かざるの記』であった。

 きょうは、その中から、いくつかの言葉を皆さんに贈りたい。

 「理想も実行も、将来も過去も、希望も後悔も、悉く今日に在り

 「われをして此の一日を高尚に勇敢に熱心に、愉快に送らしめよ」(『欺かざるの記』下、潮出版社)

 きょうという日が、真剣勝負の「時」である。

 いかなる英雄の生涯に、おいても、一日の行動の積み重ねが一年の事業となる。そして十年の事業となり、一生の事業となるのである――独歩は、そう訴えていた。

 ゆえに、朝日とともに新鮮な空気を心に吹き込みながら、一日一日、悔いなく戦いきることだ。

 一日一日、何かを学び取りながら、自分自身を強く賢く向上させていくことだ。

 そして、一日一日を、断固として勝ち抜いていくことだ。

 「吾実に一歩一歩行かんとぞ思ふ

 「一歩の確実堅固ならんことを希ふ」(同前、上)

 これも、独歩の一文である。一歩一歩、前へ前へ、道を切り開いていく以外にない。一つ一つ、「わが陣地」を固め、「わが城」を築きあげていくことである。さらに独歩はつづった。

 「人生は戦なり。これ如何に繰り返へしたる言葉なるぞ。鳴呼人生は戦なり

 「如何なる難苦にも忍ぶ可し。難苦はわれをして一段の進歩あらしむる推進器なり

 「われ遂に勝つ可し。決して失望する勿れ。強かれ、強かれ。け破りて進む可きのみ

 「われ遂に何人、何もの、何事にも勝つ可し」(同前、下)

 わが青年部もまた、「断じて勝つ」との不屈の闘志を燃え上がらせて、みずからの使命の天地に、青春の「勝利の旗」を晴ればれと打ち立てていただきたい。

 

2005.2.3第二総東京最高協議会

2018年5月23日

第1505回

だからこそ、信心なのだ。

だからこそ、自らを強くするのだ。

 

人生は、宿命との容赦なき闘争


 山本伸一もまた、一九八五年(昭和六十年)十月には、体調を崩し、精密検査のために大学病院に入院しなければならなかった。
 青春時代に胸を患い、医師からは三十歳まで生きられないだろうと言われてきた体であったが、全力疾走の日々を送ってきた。会長辞任後も、世界を回り、以前にも増して多忙を極めた。さらに、会長の秋月英介が、一時期、体調を壊したこともあり、皆を支えるために、伸一は一段と力を注いできた。
 彼は、この時、師の戸田城聖が亡くなった五十八歳に、間もなくなろうとしていることを思った。また、自分のあとに会長となった十条潔も、五十八歳で他界したことを振り返りながら、決意を新たにした。
 “私には、恩師から託された、世界広布の使命がある。そのためには、断じて倒れるわけにはいかない。師の分までも、生きて生きて生き抜いて、世界広宣流布の永遠の基盤をつくらねばならない!”
 伸一は、健康管理に留意することの大切さを改めて感じながら、新しき広布の未来を展望するのであった。
 人生は、宿命との容赦なき闘争といえる。
 愛する人を失うこともあれば、自らが病に倒れることもある。あるいは、家庭の不和、子どもの非行、失業、倒産、生活苦……。これでもか、これでもかというほど、怒濤のごとく、苦難は襲いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない。
 苦難に負けず、労苦を重ねた分だけ、心は鍛えられ、強く、深くなり、どんな試練をも乗り越えていける力が培われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯の自分になれる。
 また、苦難に挫けることなく、敢然と戦い進む、その生き方自体が、仏法の偉大なる力の証明となっていく。つまり、広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝となるのだ。

 

〈小説「新・人間革命」〉 誓願 四十八 2018年5月22日

 

2017年8月22日

信念の人生を

 

正しい宗教によって生命力を強める以外にはない

 

 戸田先生は「社会に信念の人を」(『戸田城聖全集』第三巻)と題して、こう述べられた。
 ──きちんと出来あがっているように見えて、何となくもの足りない日本。何となく底が浅い日本。そのうつろさ、空虚さを、どう打ち破るか。
原因は「人」にある。一人一人が「生き生きとして、はちきれるような生命力」に輝くことだ。「信念の人」をつくることだ。
 そのためには「正しい宗教によって生命力を強める以外にはない」。そして、人々は知るべきである。「悪い宗教は生命力を弱め、正しい宗教は生命力を強める」ということを──と。
 また、戸田先生はよく語っておられた。
 「御本尊を信じ、人生を生ききっていけ! これが一切だ。いくら愚痴をこぼしていても、つまらぬ事でくよくよしても、どうしようもないではないか。御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生ききっていけ!」と。
 ″どうして、こんな場所に生まれてきちゃったのかな″──親に文句を言ってもしかたがない(笑い)。″もっと気楽に暮らせるところはないかな″──あるはずがない。
 この世は、娑婆世界である。堪忍の世界──耐え忍ぶべき世界である。
どこへ行こうと、生きる苦しみは避けられない。避けられないなら、乗り越えるしかない。乗り越えるしかないのだから、楽しく、勢いよく生きよう。頑張り抜こう。題目をあげ抜いていこう。そういう「強い自分」をつくる以外に幸福はないのである。
 「信念の人生」──諸君もどうか、諸君自身が選んだこの使命の道で、立派な大満足の人生を建設していっていただきたい。

 

 1995年5月21日 関西第1回青年部記念総会

 

2017年5月6日

人生に天地雲泥の違いあり

 

 

 わが人生を、思う存分、信心の力で生きていただきたい。
 何のために生きるのか。

 幸福になるためである。


 では、幸福とは何か。
 その答えは複雑であり、難しい。


 健康で長生きする人や、お金に不自由しない人もいる。
 それはそれで満足の人生のようであるが、
 今世一回限りのことである。


 しかし、生命は永遠である。
 信心を持った人は、
 無量百千万億回、生まれてくるたびに、

 絶対的幸福を味わえる。


 天地雲泥の違いなのである。
 南無妙法蓮華経は大宇宙の法則であり、
 久遠元初の秘法である。
 それを唱え弘めゆく功徳は計りしれない。

 だからこそ、広布のために、晴れ晴れと戦い、
 堂々と勝とうと申し上げたい。

 

2009年5月1日 5・3祝賀最高代表会議

2015年6月24日

私の人生の原点

 

 私の人生の原点は「戸田先生の弟子である」という一点にある。これが私の一切の出発点であり、帰着点である。この揺るがぬ原点を持つからこそ、私は何も恐れないし、動ずることもない。迷いもなければ傲りもない。
 どうか諸君も、汝自身の魂の原点を確固たるものにしていただきたい。そこに、人生の高山を堂々と登りゆく要諦があるからだ。


1990.1.8第十九回全国青年部幹部会

2015年5月6日

人生に襲いかかる一切の不幸は、

逆転の大ドラマとなる

 

<広宣流布のために流した悔し涙は、感涙と変わり、

浴びせられた中傷は、賞讃となり、

苦闘は、栄光の王冠と輝く>

    

 唱題のあと、彼はマイクに向かった。
 「信心はなんのためにするのか。それは、成仏のためである。広宣流布のためである。成仏について日蓮大聖人は、『い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり』(御書1504頁)と仰せであり、“生の成仏”と“死の成仏”を説かれている。
 つまり、成仏は、死後の世界のことだけではありません。今、生きているそのままの姿で、仏の生命を開き、幸福境涯を確立することができるんです。真剣に唱題し、仏の生命を顕していくならば、そこには、人間革命があり、幸福境涯の確立があります。
 御本仏・日蓮大聖人は、平等大慧であられ、一切衆生の成仏のために戦われた。したがって、その大聖人の末弟であるならば、この偉大なる妙法を、人びとに教えていくべき責任をもっております。
 もし、自分だけの幸せのみを願ってよしとする生き方であれば、それは、あまりにも無慈悲であり、仏法上、慳貪の罪となってしまう。また、それでは、道理のうえからも、エゴ的な生き方といわざるを得ません。
 自分のみならず、周囲の人びとも、共に幸せにならなければ、自身の本当の幸せはない。ゆえに、自行化他にわたる実践のなかにこそ自身の真実の幸せがある。そこに私どもが、広宣流布に、さらには立正安国に生きるゆえんがあるんです
 宗教が、他者の苦悩に、社会に背を向けてしまえば、それは宗教の使命の放棄である。
 集った婦人たちのなかには、夫が失業中の人もいれば、子どもが病床に伏しているという人もいた。それぞれが、さまざまな悩みをかかえていたが、皆の顔は明るく、決意と喜びに輝いていた。
 広宣流布に戦う人は、いかなる大苦があろうが、根本的には、既にその苦悩を乗り越えているのだ。胸中には、仏・菩薩の大生命の旭日が昇っているからだ。宿命の暗夜など、何も恐れることはない。わが生命を燃え輝かせ、闇を照らし、蘇生の朝を告げていくのだ。
 山本伸一は、生老病死の四苦を人間は免れることはできないが、常住不変の生命の覚知によって、この人生の根本問題を解決していく道を示しているのが仏法である、と力説した。
 「人生の旅路には、辛い時もあるでしょう。悲しい時もあるでしょう。絶望的な気持ちになることもあるかもしれない。しかし、御本尊に題目を唱えていけば、力が出る。限りない生命力が湧いてくる。そして、唱題と弘教の実践を続けるなかで、宿命は転換され、大福運がついていきます。まさに、自行化他にわたる題目こそ、この荒れ狂う社会を生き抜いていくための原動力であります。
 ともかく、信心の世界にあっては、法のため、広宣流布のために、悩み、苦しんだことは、すべて偉大な功徳、福運となります。いな、最も苦しんだ人こそが、最も幸せになれるんです。それが真実の仏法なんです」
 わが宿命は、自ら担った尊き使命でもある。「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「変毒為薬」等々の原理が示すように、信心という確固たる生命の軸があれば、人生に襲いかかる一切の不幸は、逆転の大ドラマとなるのだ
 そして、広宣流布のために流した悔し涙は、感涙と変わり、浴びせられた中傷は、賞讃となり、苦闘は、栄光の王冠と輝く
 法のため、友のため、社会のために、勇んで今日も汗を流すのだ。苦労を重ねた分だけ、勝利の喜びは大きい。

 

小説 新・人間革命 奮迅の章 416頁

2015年4月18日

「自体顕照」、「無作三身」の人生を!

 

<最後に「わが人生は勝った。最高の満足である」と>

  

 私は、この二十数年間、立場上、日本各界の多くの著名人と会った。また、さまざまな分野における世界の指導的人物とも会見、会談を重ねてきた。また数限りないほどの、内外の市井(しせい)の方々ともお会いした。
 そうした出会いを通して私が痛感することは、会って大へんに誠実な印象を受ける人がいる。すがすがしさを残す人もいる。反対になんとも卑しさや、臭みを感じさせる人もいる。明朗な人もいれば、陰険な人もいる。傲慢な人もいる。飾らない人柄で、会うだけで友情の心を通わせていく“友好の名人”もいる。腹黒い策の人もいる。また軽率な人もいる。重厚な人格者もいる。権威をカサにきて威張っている人もいる。当然、初対面の姿だけで、相手を評価することはむずかしい。また危険でもあろう。しかし、その初対面の実相の中に、直観的に、また経験の上から、その人の傾向性を多々知ることができることもまちがいない。
 ともあれ、その方々の長い軌跡を通していえることは、初対面で感じとった傾向性の延長が、それぞれの人生の結果の姿となっているような気がしてならない、ということである。つまり、要領や策で会いにきた人、利用する下心できた人、驕慢やふざけの心できた人、心に侮辱をもって接してきた人等々と、反対に、信頼の心でぶつかってきた人とは、その結果はおのずから明確な違いがあるような気がしてならない。これが二十数年間の体験を経た、私の一つの結論である。
 諸君はまさに、これから社会に出て活躍していく人たちである。また、すでに実社会の舞台で苦闘している人もいる。社会も人生も、人間と人間のつながりなくしては決して成り立たない。その意味で、諸君は自分らしく、人々の友情と信頼を勝ち得ていける一流の人物へと自己を磨きぬいていってほしい。
 日蓮大聖人は「自体顕照」と仰せである。これは妙法の光によって、ありのままの自己を照らし、輝かせていくことであり、本来のすぐれた個性を発揮しきっていくことともいえよう。また「無作三身」とも仰せである。これは別しては御本仏のことである。総じては妙法を信じ行じている私どもが、人間らしい、つくろわぬ、ありのままの姿で、生き生きと、正しき人生を闊歩(かっぽ)していける姿を教えられているとも拝せる
 こうした観点からも、私どもが仏法を受持したという事実が、価値ある人生を生きゆくうえで、いかに深く重大な意義を持っているかを銘記してほしい。
 大切なのは、一生涯の“不退”の信心である。先日も、ある婦人部の方と懇談をしたさい、「一生成仏」というのは、大変なことであるということが話題になった。ご存じのように、釈尊の爾前の仏法では基本的に歴劫修行を説く。幾世にもわたる長き仏道修行によって成仏すると教える。これに対し、日蓮大聖人の仏法は、この「一生」という現世において成仏できる、まことにありがたい大法である。歴劫の修行に比べると、実に容易に思えるかもしれない。
 しかし現実には、一生も短いようで長い。十年信心しても十一年目に退転していく人もいる。青春時代には真剣に仏道修行に励んでも、中年を迎えたころには純粋さや情熱を失う場合も多い。今まで青年リーダーとして華やかに活躍しながら、生活の乱れから、後に多くの人に迷惑をかけ、退転していく人もいる。
 要は人生の最終章において「自分としてのなすべきことはなした。一点の悔いもない」「わが人生は勝った。最高の満足である」といえるような、安心立命の無辺の境涯に遊楽していけるかどうかである。一生の最後の総仕上げに、人間としての凱歌と栄光につつまれ、自分らしい人生を荘厳に飾っていく――そのなかに一生成仏の証がある。また、そのために現在の修行があり、自己を磨いていく精進があるわけである。
 諸君は、これから社会で思うぞんぶん力を発揮し、輝いていかねばならない。深い眼からみれば世間の一切法は即ちこれ仏法であり、仏法の実践を根幹に、日々月々、あらゆる機会を通して、自己を練り、鍛え、生活と社会の上での勝利を完成させていっていただきたい。そのために、本日を一つの契機として、ともどもに「一生成仏の信心」を生涯全うしていくことを深く決意していただきたいのである。

 

1986.12.7 大学会・豊島区合同研修会

2015年2月21日22日

 人生の終極の目標とは何か!


 輝かしい「勝利」の人生と、色あせた「敗北」の人生。それを決定的に分かつのは、いかなる理想に我が人生を向かわしめていくかという、人生究極の目的観によるのではなかろうか。
 三十年前の昭和三十三年、戸田先生は「大白蓮華」新年号の巻頭言に、「勇猛精進」と題して、次のように記されている。
 「一年の計は元旦にあるとかいって、元旦には、あれこれの計画を立てたがる。しかし、いろいろの計画を立てても、ほとんど、それは実行されないものだ。なぜなら、人生の目的がわからないで、一年の計も一生の計も、立てられるわけがない。
 少年時代からの自分をふりかえってみれば、学校へはいれたら何かよいことがあるだろう……どこへ就職したらとか、結婚したらとか、自分の家ができたなら……等々と、何かしら、これから先に幸福があるかしらんと思って、何年か過ぎるうちに、老人になって死んでしまう。もちろん、こうしたことは、生活していくうえのそれぞれの目的には違いないが、最高の目的からみれば、それ以下のことは、全部手段になってしまうのだ。逆にいえば、終局の目的がなければ、正当な手段も立ちようがないのである」(『戸田城聖全集 第一巻』)
 人生の本質を鋭くとらえた卓見である。
 人生の終極の目標と、途上でのさまざまな課題。この両者をはき違えてしまうところに、人生の悲劇の大半の理由があると私は見る。社会的な地位も、名声も、財産も、決して人生究極の目的ではない。恋愛も、同様である。したがって、仮に、事業や恋愛に失敗することがあっても、それは人生そのものの敗北ではない。
 大切なのは、さまざまな挫折や失敗を乗り越え、大いなる目的のために、どう生かしきっていくかである。私どもにとって、その最高にして終極の目標とは、広宣流布という大事業にほかならない
 ゆえに戸田先生は、巻頭言の後半部に、次のようにいう。
 「末法の本仏日蓮大聖人は、三大秘法の南無妙法蓮華経をご建立(こんりゅう)遊ばされて、一切衆生に即身成仏の大直道(じきどう)をご教示遊ばされた。(中略)われわれ末法の衆生は、この末法御本仏のご誓願を、よくよくわが身に体し、まず人生の基本方針を決定することが第一の問題だ。ちょうど、それは、小説『人間革命』(=妙悟空著)のなかで、巌(がん)さん(戸田先生のこと)が『よし! ぼくの一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!』と叫び、今こそ人生にまどわず、また、おのれの天命を知ることができたと叫んだのが、これである」と。

   広宣流布という大目的に生きゆくかぎり、小さな成功や失敗に一喜一憂する必要はない。たとえ、今はいかなる窮地(きゅうち)にあろうとも、唱題根本に広布への実践に励んでいくならば、必ずや、目の前のカベは開け、前進の実証を示すことができる。そのための「信仰」である。
 戸田先生は、巻頭言の結論として、「昭和三十三年の新春を迎えるにあたり、学会員の一人一人が、この決意も新たに、広宣流布の大道を、勇猛精進せられんことを祈ってやまないものである。『一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』のご聖訓を日夜誦(じゅ)して、今日よりも明日、今月よりも来月、今年よりも来年と、いよいよ信心強盛に励むことが、一年の計の基本であり、一生の計の根本となるのだ」と述べておられる。
 皆さま方は、すでに、最高の人生の目的を手にされた方々である。どうか人生の最終章まで、″今日より明日″と、たくましく大目的に生き抜いていかれるよう祈ってやまない。

 1988. 1.20 新宿、練馬区合同総会

2014年9月16日

喜び多き「健康人生」を


 私は
 「生涯青春」という言葉が
 好きである。
 いわゆる若さとは、
 決して年齢によって
 決まるものではない。
 自分のもつ目標に向かって、
 たくましく生き抜く
 情熱の炎によって
 決まると信じているからだ。
 どんなに高齢になっても
 希望を失わず、
 心の若々しい人は
 「生涯青春」である。

 

 (中略)

 

 長寿社会とは、
 競争よりも 協調が
 効率よりも ゆとりが
 物の豊かさよりも 心の豊かさが
 求められる時代である。
 自分が「してもらう」のではなく、
 わずかでもいい、
 自分には「何ができるのか」を
 考える時代である。

 

 人は、どんな逆境もバネとして
 「成長」できる。
 しかも、自分が苦労した分だけ
 他者の「成長」にも
 尽くせるようになる。
 命ある限り、
 皆と励まし合いながら
 成長を続けて、
 心に多くの宝を積んでいくことが、
 幸福な人生の年輪とは言えまいか。

 

聖教新聞2014.9.14付 光の言葉 幸福の曲(抜粋)

2014年9月6日

人類の大理想目指して

   

 現代は「死を忘れた文明」といわれる。
 生死という苦悩から目を逸らすことは、生命軽視の温床となり、ひいては人間への無関心を助長する。
 私が入信間もなく拝して、深く胸を打たれた「如説修行抄」には、『代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ』(御書502頁)と仰せであられる。
 日蓮大聖人は、戦乱のない平和な世界、災難にも負けない民衆の連帯、そして人類が生死の苦悩を打開し、幸福長寿の人生を謳歌しゆく時代を志向されて、広宣流布の大理想を私たちに託してくださったのである。
 私たちが友に語る仏法哲理こそ、生死の闇を照らす太陽となる。私たちが広げる助け合いの絆こそ、共生の社会建設の土台となるのだ。
 第一次世界大戦の勃発から百年。今こそ、人類の宿命を転換し、「平和の百年」を創り開いていく時である。
 生命尊厳の思潮を全地球に広げる主役は我ら!
 誉れも高く、自他共の幸福を築きゆく、正しき人生の道を前進しよう!
 地域の同志と、仲良く朗らかに、励まし合いながら!

 世界の同志と、希望のスクラムも固く!

 

 生命の
  生老病死の
   鍵 持てり
  常楽我浄の
    世界 開けや

 

聖教新聞2014.8.14付民衆凱歌の大行進 10 正しき人生とは

2014年8月2日 

昇りゆく太陽の如く

わが人生を燃やしゆけ

(2)

  
 人生に/幻滅があってはならない。/あらゆる苦悩も/素晴らしい人生を磨き/鍛錬しゆく劇として/捉えるべきだ。
 人間に/精密な空想などいらない。/虚栄に走って/幸福を摑もうとする必要も/全くない。
 汝は汝自身らしく/全生涯を通して/魂の無限の広がりを/望みながら/生き抜いてゆくのだ。
 負けてはならない!/汝自身との勝負が/人生である。/人びとの成功など妬む必要は/全くない。
 いかに地道であれ/絶えまなく/汝自身の現実の/生活の高山に/挑みゆくことだ。/険しき絶壁に登りゆく/あの登山家の心境は/爽快なものだ。
 社会的に高度な/職務も/それはそれでいいだろう。/しかし私は/私の行動から/決して動揺せぬ/意味のある明確な/幸福と平和の哲学を/打ち立てていきたい。
 我らの正義の友は/自分自身を/感動させながら/世界の果てまで/越え進む。
 あらゆる茨を/取り除きながら/あらゆる卑劣なものを/打ち倒しながら/太陽の昇りゆく光とともに/追随を許さぬ/日の出の威厳をもった/人生をば/永遠の生に結ぶ。
 揺るぎなき/正義の剣を持ちながら/夜明けの荘厳な道を/日の出の晴れやかな道を/真夜中の勝利のための道を/生き抜き/勝ち抜き/不滅の我らの王宮へ/進みゆくのだ。


「勇敢に堂々と歩みゆけ!わが人生の大道を」より

聖教新聞2014.1.1付 桂冠詩人の世界

2014年8月1日 

昇りゆく太陽の如く

わが人生を燃やしゆけ

(1)

  
 おお実在する/人生にあって/決して一生涯/希望を失うな!
 いかなる過酷な戦いにも/吹奏楽を奏でながら/断じて/歩み抜くのだ!/勝ち抜くのだ!/永遠なる太陽の輝き/永久に/わが人生を燃やしゆくのだ!
 忍耐そして宿命/不安そして苦悩/それらは皆/仮装した運命と思え!
 汝は汝自身らしく/その運命に負けずに/決然と前へ進むのだ。
 そこに/生命の勝利の証明がある。/一切を幸福への運命として/勝ったことを知るだろう。
 生命!/大宇宙に溶け込みながら/永劫に流転しゆく/不思議なる生命。
 永遠に/不可能を可能としながら/人類の夢に見た/民衆の生命尊厳と/平和の文化の/王朝の世紀を創るのが/賢者たちの/願いであり誓いだ。
 我々は/今日も/新しい人生を/生きるのだ!
 一生涯/汝自身を成長させながら/自分自身を革命させながら/新しい人生を/生き抜いていくことは/なんと素晴らしいことか!

 極めて/基本的な行動であるべき/生活は/汝自身の成長によって/価値ともなり/無価値ともなる。/進歩ともなり/退歩ともなる。/幸福ともなり/不幸ともなる。/生きがいともなり/堕落ともなる。
 自分自身の出発点を/どのように捉えるか/位置づけるかによって/その人の多くの問題からも/涌き出ずる奔流のように/歓喜を見出すことができるのだ。
(つづく)

2014年5月24日

人生の究極の目的 

  
 戸田先生はよく、「人生の目的」ということを教えられました。
 私たちは、「一年の計」とか、就職とか、結婚、住居など、これから先の幸福を願って生活の目的を立てます。戸田先生は、「もちろん、こうしたことは、生活していくうえのそれぞれの目的には違いないが、最高の目的からみれば、それ以下のことは、全部手段になってしまうのだ。逆にいえば、終局の目的がなければ、正当な手段も立ちようがないのである」と言われました。
 人生の究極の目標と、途上でのさまざまな課題。この両者は異なります。最高にして究極の目的とは、広宣流布という大事業にほかなりません。成仏の大法たる南無妙法蓮華経を持(たも)ち弘めることは、究極の幸福を自他共に分かち合うことです。人生の目的を定めることで、途上での課題は全て、最高の善の方向へ生かされていきます。大願に生き抜くことで、一切を全て、創造の源泉に変えていける。これが、真の「煩悩即菩提」「生死即涅槃」ではないでしょうか。

 
大白蓮華No.775号2014.6月号34頁

2014年4月26日

 自他共に大歓喜の人生を

 

 『自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり』(御義口伝、761頁)
 仏法の広大無辺の境涯から見れば、自分だけの名聞名利の喜びなど、ちっぽけな、はかない幻に過ぎません。
 どんなに苦しい試練であれ、どんな厳しい宿命であれ、妙法を唱えて、断じて負けない。断じて屈しない。悲しみも嘆きも、勝ち越えて、苦悩の友を励まし包みながら、智慧と慈悲の世界を創り、広げていく。
 ここに、我らの尽きることのない喜びの連帯があります。
 この「歓喜の中の大歓喜」の生命を、元初の太陽の如く、いやまして自他共に光輝せていく出発の日が、5月の3日なのであります。

 

聖教新聞2014.4.20付メッセージ

2014年2月25日

人生とは前にある

 
 「人生とは前にある」。
 すなわち「前進することが生きるということである」との信念であります。
 その通りです。
 人間の目も、前を見るためにこそあります。後ろ向きではありません。
 希望も前にあります。
 幸福も前にあります。
 友情も前にあります。
 平和も前にあります。

 

聖教新聞2014.2.23付アルゼンチンビジャマリア大学名誉教授称号授与式での謝辞

2013年12月6日

今日も私は生き抜く!

 

今日も/私は生きる!
いや/今日も/私は生き抜く!

 

信念の正義の行動は
いかなる/怒濤の嵐があっても
断じて消えない。
魂の勝利として/永遠の歴史に残る。

 
急がず/そして弛まず
わが困難の険路をば/誠実な努力で
広い自分自身の世界の
勝利のために/ひたすら歩む。

 

この道は一つ一つが

信じられる/誠の真実の道だ。

 

この道を/あらゆる苦難を乗り越え
悲しみを/そして
悲しき傷を乗り越え
わが友と/溢れんばかりの
勝利の胸を/湧き立たせながら
あの輝かしい/栄光の広場に向かいゆく
歓びよ!

 

彼方に都があるかと/思っていたが
今ここに見える全部が/絢爛たる宝石の輝く
究極の人生の/勝利の大城であった。
おとぎの国以上の/現実にして真実の
私の都であった。

 

学歴でもない。/名声でもない。
地位でもない。/財産でもない。
幸福は/生き抜く力をもった/人の中にある。

 

真っ赤な夕日が/荘厳なる一日を
勝ち誇って沈みゆく/厳粛な瞬間を示した
その明くる日は/晴天である。
人生もまた/同じである。

 

この一日を/新しい運命に変え
そして/新しい運命を創りながら
一歩また一歩と/前進するのだ。

 

これが/われらの大道!
わが道を/共々に征け!

 

「我らの大道を 共々に征け!」より
聖教新聞2013.12.1付

2013年8月16日

人生は幸福になるため

 

 (抜粋)
 わが君よ/頑強な意志と勇気を/断じて忘れるな!/壮麗なわが一生を/飾りゆけ!
 今は苦闘であっても/必ずや胸を張り/勝利の旗を/高く掲げながら/溌剌と生きゆく君たれ!
 昂然と/戦い抜き/勝ち抜き/汝自身の勝利の記念碑を/創るのだ!
 何を/恐れることがあるか。/人生は/幸福のためにあるのだ。/人生は/平和のためにあるのだ。/楽しむためにあるのだ。
  (中略)
 楽しく生ききるのだ!/嬉しく戦いきるのだ!/その人生の楽しさと/人生の苦しさ/その差し引きで/この一生の/勝ったか/負けたかが決まる。
 すべての苦難は/汝自身が/勝利の王者になりゆく/賜物であると感謝しながら/強く厳しく/鋭く生き抜くのだ。
 我らは/自由と平和の闘士である。/君も私も/この地上で/勝利と幸福の/王者になるのだ。
 (君よ〝大切な一生〟を勝ちゆく 栄冠の人生たれ!」より)

 

聖教新聞2013.6.2付桂冠詩人の世界

2013年8月13日

 正義と誠実の偉大な人生を!

 

「本気になって戦う人の後には、多くの人が続く」(ガンジー令孫アルン・ガンジー)
 反対に、皆が続かないのは、まだまだ本気でないからだ。
「高ぶった傲慢な人間は一時は成功するかもしれないが、窮局に於ては苦しまねばならぬ」
「人間が偉大なるは富の蓄積によるものでもなければ、恐るべき武器を有するためでもない、全く正義と誠実によるのである」(マハトマ・ガンジー)
富でも、名誉でも、権威でもない。正義と誠実が、人間として最高に偉大な生き方である。このような偉大な人生を歩もう!

 

2003.10.8第一回全国青年部幹部会

2013年8月4日

 私は勝ったといえる人生を!

 

 「最も恐るべき敵は、過酷な境遇ではない。私たち自身の揺れ動く心です」
 三重苦と闘った、アメリカの社会福祉事業家ヘレン・ケラー(1880年~1968年)の言葉である。
 最も恐ろしい敵は不遇ではない。運が良いとか悪いとか、そんなもので人生は決まらない。
 わが人生を決するのは自分自身である。私自身が、わが人生の劇の主人公なのである。
 さらに彼女は、「人間を変えるものは環境ではなく、人間自身の内なる力なのです」と語っている。
 私たちの「人間革命」の思想と響きあう。大事なのは、なによりも、自分自身が満足できたかどうかだ。だれになんと言われようが、「私はやりきった!」「私は勝った!」と言いきれる人生を送った人が勝者である。
 「他人のために尽くそうとか、社会に新生命を打ち建てようという、私欲を離れた目的から永続的な確実な歓喜が生れるものであります」
 私たちの前進は、社会の善のためである。友の希望のためである。自身の使命のためである。歓喜と充実の人生とならないはずはない。

 

2003.8.5全国最高協議会⑤

2013年7月31日

 楽観主義で今を乗り越えよ 
 

 戸田先生は「現在は死ぬと思うような大事件でも、あとになると大したことではなくなる。人生とはそういうものだ。終戦の時も、皆どうなるかと思ったが、数年もするとその時の心配など忘れてしまった」とよく言われ、だから今どんなに苦しんでも頑張るのだ、と私たちを励ましてくださっていた。
 長い人生である。社会的な事件に巻き込まれたり、家庭や仕事の悩みをかかえ、一時的に苦境に立たされる場合もあろう。しかし、耐えて生きぬくことである。時とともに、戸田先生の言われた深い意味もわかってくるにちがいない。

 

1989.4.19第16回本部幹部会

2013年7月30日

 人生は徹して強気で行け! 
 

 弱気になるな。途中で失敗しようが、挑戦し続けるのだ。いな、青春時代の本当の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないことである。へこたれず、諦めなければ、失敗は栄光に変わる。人生は徹して強気で行け!

 

聖教新聞2013.7.13我らの勝利の大道109

2013年6月14日

人間として偉大に!
生命の実相を見よ!

 ともあれ、人生は、はじめから何もかも思いどおりになるものではない。さまざまな理由から、不本意な場所で、長く過ごさねばならない場合も多々ある。その時にどう生きるか。どう自分らしい「満足」と「勝利」の人生を開いていくか。ここに課題がある。
 自分の不運を嘆き、環境と他人を恨みながら、一生を終えてしまう。そういう人は世界中に無数にいる。また栄誉栄達と他人の称賛を願い、それのみを人生の目的とするかぎり、そうした不満とあせりは、何らかの形で、永遠に消えないかもしれない。
 欲望は限りないものであり、利己主義にとらわれているかぎり、すべての人が、完全に満たされることはありえない。会社でも全員が社長になるわけではない。
 もちろん、よりよい環境、よりよい境遇へと、変革の努力をしていくのは当然である。そのうえで、より大切なのは、現在自分がいる場所、自分の“砦”を厳然と守りゆくことである。現在の自分の使命に徹し、その位置に、自分なりの歴史をつくりゆくことである。
 何の華やかな舞台もなく、称賛の脚光も浴びない立場の人もいるかもしれない。しかし“心こそ大切”なのである。地位が人間の偉さを決めるのではない。環境が、幸福を決定するのでもない。わが生命、わが心には、広大な「宇宙」が厳として広がっている。その壮大な境涯を開きゆくための信心である。
 その「精神の大国」を開けば、いずこであれ、自身が王者である。汲めども尽きぬ、深き人生の妙味を味わって生きることができる。
 いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」と心を定める人は少ない。
 人の称讃と注目を浴びたいと願う人は多い。しかし、「死」の瞬間にも色あせぬ「三世の幸」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。
 「死」――それは人生の総決算の時である。名声も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎとって裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。
 御書には、妙法を持ちきった人の臨終について「千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」(御書1337頁)――千人の仏までが迎えに来て、手をとってくださることを思うと、歓喜の感涙を押えられない――と。
 学会においても役職等は、ある意味で仮の姿である。その人の偉さと幸福を決めるのは、当人の生命の「力」であり、広宣流布への「信心」である。
 何の栄誉も、脚光も求めず、黙々と“わが広布の砦”を守って生きぬいてきた人々が、全国、全世界に、たくさんいらしゃる。有名でもない。大幹部でもない。華々しい活躍の姿もないかもしれない。ただ法のため、友のため、地域のために、光のあたらぬ場所で、くる日もくる日も、心をくだき、足を運び、“砦”の守り手として生きてきた。愚直なまでの私心なき信心の姿である。
 そういう人々の力で、今日の世界的な学会がある。大聖人の正法の興隆がある。このことを、だれ人も永遠に忘れてはならない。 
 指導部をはじめとする、こうした方々こそ、真の「功労者」なのである。私は、ある面では、会長、副会長以上に大切に思い、「仏の使い」として尊敬している。ましてや、社会的地位など私は眼中にない。私は仏法者である。仏法者は何より、その人の生命の実相を見る。
 
1989.11.12「11・18」記念合同幹部会

2013年5月30日

 これほどの生き甲斐はない!

 皆が元気になり、明るくなり、心が軽くなるように、できることは、何でもやる。直ちにやる。それが大事だ。
 大河が流れるがごとく、青年を立派に育てながら、いかなる戦いも勝っていくのだ。
 皆で日本一、世界一の学会にしよう!我らの力で広宣流布を実現し、仏国土をつくったという歴史を残そうではないか!
 これほどの生き甲斐、戦い甲斐のある人生はない。子孫末代までの功徳と福運となることを、晴れ晴れと確信していただきたい。
  
1989.11.18第23回本部幹部会

2013年3月13日~15日

最高の生き方とは何か?

 

 人間にとって、最高の生き方とは何か。

 それは、あくまで自分らしく、自分の本分に生きぬくことではないか。たとえ、地位や名誉がなくとも、真に自分らしく生きることができれば、そこに確かな幸福と満足があるにちがいない。ゆえに、どこまでも、自己自身に生きゆくことだ。

 私も、これまで精いっぱいに、自分自身に生ききってきたつもりである。私の本分、目的とは、仏子である皆さま方を守りに守っていく…それ以外にない。ここに、わが心を定め、何があっても変わることなく一貫してきたがゆえに、私には何の悔いもなければ、恐れもない。

 

1988.12.17第12回本部幹部会 全集(72)88頁

2013年3月2日~5日

人生に勝つ急所

 

戸田先生は人生に勝つ急所を、こう教えてくださった。「自分が変わり、自分が成長し、自分が責任を持てば、一切に勝利できるのだ。要は自分だ」と。人ではない。自分が壁を破るのだ。断じて悔いを残してならない。戦いにあって最も大事なことは、人の心をつかむことである。人の心を動かし、とらえるものは、策でもなければ、技術でもないただ誠実と熱意によるのである。いかなる人も、広宣流布の味方に変えて見せる!この烈々たる祈りと勇気と勢いで、栄光の歴史を開くのだ。

 

聖教新聞2012.12.15付今日も広布へ44

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.3.29

第2297回

 

日天月天ワンショット

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