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2023年10月14日

第2263回

「久遠の仏」とは

我ら一切衆生のこと!

 

<自分が仏であることを自覚すること!

 

 池田 寿量品では「久遠の仏」が説かれる。

 その仏とは、だれのことか。

 前にも語ったが、大聖人は「我実成仏己来、無量無辺百千万億那由佗劫(我実に成仏してより己来このかた、無量無辺百千万億那由佗劫なり)」(法華経478頁)の「我」とは「法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり」と仰せだ。

 

 寿量品の「久遠の仏」とは

 一切衆生のことなのです。

 私どものことです。

 凡夫は凡夫のままで仏なのです。

 命に差別はない。

 平等です。

 平等に仏です。

 違うのは、

 それを自覚しているか否か、

 その「心」の違いだけです。

 三十二相八十種好で

 身を飾るのが仏なのではない。

 我が生命そのものが本来、仏です。

 宇宙そのものが本来、仏なのです。

 太陽が出るのも慈悲。

 月が照らすのも慈悲。

 緑の木々が美しく呼吸しているのも慈悲です。

 

 宇宙全体が無始無終にわたって

 慈悲の活動を続ける大生命体なのです。

 その大生命を久遠の仏という。

 そして、十界の誰の生命も、

 この寿量品の仏と一体なのです。

 その本来の生命に帰るカギが信心です。

 

 池田 全宇宙が自分の銀行口座のようなものだ(笑い)。「信心」次第で、いくらでも宝が引き出せるのです。

 そして「信心」とは「魔と戦う」こと以外にはない。正義とは、悪と戦うことであり、仏法とは難と戦うことです。

 ある時、四条金吾が度重なる苦難に、思わず弱音を吐いた。「法華経を信ずる者は現世安穏のはずであったが……」と。それを伝え聞いた大聖人は、こう指導されている。

 「松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる(中略)法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし」

 松が風雪に耐えて「万年の寿命」を証明するように、法華経の行者は、難に耐えることによって、「永遠の生命をもつ仏」という本地を現わす。今こそ、尊極の「仏界」を現わす時である。

 最高の功徳が出る時なのに、何を弱音を吐くことがあろうかと、励ましておられる。

 池田 受持です。「自分には広宣流布の使命があるんだ」と信じ、妙法を受持しきって生き抜くのです。

 

 

「法華経の智慧」如来寿量品(第十六章)永遠の生命とは〈下〉 

池田大作全集 第30巻 389頁~391


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2022年6月24日

第2034回

いかなる権力も仏には勝てない

 

<竜の口の法難>

 

 思えば、宗祖日蓮大聖人の御生涯は、権力による迫害との熾烈な闘争の連続であられた。すべては、末法の一切衆生の幸福のためである。

 現在、鎌倉の「竜の口」には「SGI教学会館」がある。ご存じのとおり、この地は、日蓮大聖人が発迹顕本なされた「竜の口の法難」ゆかりの地である。会館には、海外からも多くのSGIメンバーが訪れ、大聖人の御足跡を偲びつつ、広宣流布への決意を新たにしている。

 大聖人が法戦の本舞台とされた鎌倉は、当時の政治の中枢であった。いわば、権力の魔性がうごめく真っただ中で、敢然と破邪顕正の戦いを起こされたのである。傲慢な権力者にも、仮面の聖職者にも、大聖人は容赦なく、″正法を尊ばなければ国は滅びる″ことを主張し、正義を叫びぬいていかれた。

 そして一方、女性の信徒や、若き青年門下には、限りない慈愛を注がれる大聖人であられた。

 正義の中の正義であられる大聖人に、権力は残酷に牙を剥いた。そのきっかけとなったのは、邪悪な聖職者らによる「讒言」――嘘で固めた、でっち上げであった。

 文永八年(一二七一年)九月十二日――。大聖人のおられた松葉ヶ谷の草庵に、幕府の実力者であった平左衛門尉頼綱が、数百人の武装兵士を率いて押し寄せた。

 大聖人が竜の口に向かい、頸の座にのぞんだのは、「子丑の時」(御書223頁)――すなわち真夜中だった。「三世の諸仏の成道はねうしのをわり・とらのきざみの成道なり」(御書1558頁)とあるとおり、「子丑の時」から「寅の刻」にかけては、不可思議な時間帯なのである。

 兵士が大聖人を取り囲んだ。刀を手にした武士が、身構えた。途中から裸足でついてきた四条金吾が、「只今なり」(御書913頁)と言って、泣いた。その金吾に大聖人は「これほどの悦びをば・わらへかし」(御書914頁)と、悠然とたしなめられた。

 そのときである。月のごとく明るく輝く鞠のようなものが、南東から北西にかけて光りわたった。刀を持った武士は倒れ伏し、恐怖に駆られた兵士は「一町計り」(同頁)も走って逃げた。

 大聖人は「どうして遠のくのか。近く打ちよれや。打ちよれや」と叫ばれたが、近づく者はいなかった。「頸を斬るならば、夜が明ける前に、早く斬れ!」とうながされたが、応える者はなかった。だれもが驚愕し、動揺し、おじけついていた。その中にあって、大聖人ただ御一人が、不動の大境涯を示されていたのである。

 どれほど強大な権力も、どんなに卑劣な策略も、仏の境涯を侵すことはできない。諸天善神の加護は絶対である。法華経の行者を不幸におとしいれることは、だれにもできないのである。

 (「光り物」の正体は、「おひつじ・おうし座」流星群に属するものではないかという説がある。東京天文台長で、東大名誉教授であった故・広瀬秀雄博士の研究による)

 

2005.6.6 牧口先生生誕記念協議会


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2022年6月28日

第2038回

仏とは「すべてに勝ちぬく勇者」

 

 

 日蓮大聖人は、「我が門人等は福過十号疑い無き者なり」――わが門下の人々が、″十号(十の尊称)を持っておられる仏を供養するよりも、はるかに勝る福徳を得ること″は、疑いない――と仰せである。

 

 この「十号」とは、仏を讃えた十種の称号のことである。

 御本尊の向かって左の御肩には、「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぎん)厳然と、お認めである。十号の仏に供養する福徳よりも、御本尊を持ち、広布に戦うわれわれが得る福徳のほうが、はるかに大きい。

 

 さらに申し上げれば、

 究極的には、御本尊を正しく信ずる者は、

 十号の福徳を具える

 仏界の生命を現すことができるのである。

 

 十号

 第一は、「如来にょらい

 これは、真如しんにょ、すなわち究極の真理から現れ来る者という意味である。

 最高の智慧、真理を体現し、瞬間瞬間、生き生きとこれを発揮して、民衆のために尽くす。最高の価値を創造していく躍動の前進をリードする。

 第二は「応供おうぐ

 世の尊敬や供養を受けるにふさわしい存在という意味である。自然のうちに、人々を感化、善導し、皆に功徳を受けさせることができる人格である。

 第三は「正遍知しょうへんち」。

 あらゆることを正しく知り、正しく判断できる智慧を持つ者である。したがって、その智慧をあまねく人々に行きわたらせていく″知性の光″となるのである。

 第四は、「明行足みょうぎょうそく

 英知と行動をあわせ持つ。知勇兼備の模範の指導者といえよう。

 第五は「善逝ぜんぜい

 煩悩を乗り越えて、仏の境地に達することである。濁った時代、混乱の社会を打ち破って、新しい時代へ、つねに勝利と発展を切り開いていく。そうした原動力といえようか。

 第六は「世間解せけんげ

 世間の情勢、時代の動向などを知り尽くした人のことで、的確に社会をリードしゆく指導力に通じよう。

 第七は「無上士むじょうし

 文字どおり、この上ない「最上最高の人」である。

 第八は「調御丈夫じょうごじょうぶ

 どんな人をも善導し、いかなる悪の働きも調伏(コントロール)できる。それは、一切衆生を薫陶する、人間教育の真髄を体現した存在である。

 第九は「天人師てんにんし

 できる力を持つ者である。

 諸天や人々を教え導く存在である。あらゆる人々を励ましていく″精神的指導者″と考えることもできよう。

 最後の第十は、「仏世尊ぶっせそんである。

 「仏」は、この世でもっとも賢く目覚めている人であり、他を目覚めさせる人である。また、あらゆる人から尊敬されるがゆえに「世尊」という。

 仏は、これら十種の威徳をすべて持っているのである。

 さらにまた仏は、この世でもっとも強く、

 すべてを勝ちぬいていく勇者であるがゆえに、

 「世雄せおうという異名もある。

 

 智慧と力と福徳を持ち、

 進みゆくわが創価学会は、

 そして創価学会員は、永遠に勝利者である。

 永遠に仏の生命を涌現していけるのである。

 

 戸田先生は、おっしゃった。

 「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏のお使いとして出現し、菩薩道を行じているのだ。これは、法華経に説かれる『我常在此。裟婆世界。説法教化』の一分の姿ではなかろうか。そうしてみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえるだろう

 

2005.6.8 第50回本部幹部会、第12回全国婦人部幹部会他

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2022年5月26日

第2009回

仏敵と戦えば「仏の生命」

 

 極悪と戦ってこそ極善となる

 

 ここで諸御抄を拝し、悪と戦う心について、もう一度、確認しておきたい。

 「どんなに自分は正直に身を律して、世間においても仏法においても賢人の名を得ようと思ってしたがいても、悪人に親しみ近づけば、自然と十度のうち、二度、三度と悪人の教えに従うようになり、そうやって最後は悪人になってしまう」(御書1341㌻、通解)

 

 ここに、重大な教訓がある。

 悪知識は、絶対に寄せ付けてはいけない。

 人をたぶらかす悪は、

 明快に正し、

 峻厳に退けていかなければならない。

 

 また大聖人は、

 天台大師の師匠である南岳大師の次の言葉を引いておられる。

 「もし菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができないで、そのために悪を増長させ、善人を悩乱させて、正法を破壊させるならば、その人は実は菩薩ではない」(御書1374㌻、通解)

 

 悪との戦いに、遠慮はいらない。

 「悪いことは悪い!」

 「悪は悪だ!」と、

 ありのままに真実を語ることだ。

 それが、自分を護り、善人を護り、

 正法を護ることになる。

 

 御聖訓には、とうも説かれている。

 「たとえ智慧明らかな師匠に出会い、真実の教えである法華経に巡りあって、正法を得た人であっても、生死の苦悩の流転を越え出て仏になろうとする時には、必ず影が身に添うごとく、雨に雲が伴うごとく、三障四魔といって七つの大きな出来事が現れてくるのである」(御書1487㌻、通解)

 広布に前進しているからこそ、

 それを阻もうと、魔が現れる。

 その時こそ、仏になるチャンスである。

 三障四魔と戦うことこそが、

 仏になる道である。

 ここに一生成仏の方程式がある。

 

 この点、大聖人御自身が、「『どのような大難にも耐えぬこう』と法華経をわが身に当てて試みた」(御書1489㌻、通解)と仰せになっている。そして晴ればれと大難を乗り越えていかれた。

 

 大難よ、来るならば来い!――この恐れなき信心の実践のなかに、日蓮仏法の真髄が光るのだ。

 

 「人生は強気でいけ!」と戸田先生はよく言われた。

 強気で責めることだ。

 それが言論戦を勝ちぬく根本である。

 

 「南条兵衛七郎殿御書」で、

 大聖人は厳しく仰せになっている。

 「どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、それだけで成仏はないのである」(御書1494㌻、通解)

 

 大事なのは、法華経の敵を責めることだ。

 仏法の正義を語りに語りぬくことだ。

 根本は折伏精神である。

 悪を責めた分だけ、

 自分の悪は消える。

 罪業は消える。

 仏敵と戦えば、

 自分が金剛の「仏の生命」となる。

 

 反対に、

 真実を叫ぶべき時に叫ばない臆病な人間は、

 正しい道から外れてしまう。

 謗法と戦うべき時に戦わない人間は、

 自分が謗法と同じになってしまう。

 それでは、成仏はできない。

 それどころか、地獄である。

 

 極悪と戦ってこそ極善となる

 仏の生命を輝かせていくことができるのである。

 御書に繰り返し説かれる大聖人の御精神を、

 学会のリーダーは胸に刻み込んでいただきたい。

 

2005.5.21第二総東京代表協議会

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2022年3月20日

第1940回

偉大なる生命力の当体こそ

「仏」

 

<大宇宙とともに、

妙法を唱えながら、

広布のために動くこと>

 

 ここで、法華経を拝したい。

 「普賢菩薩勧発品」で、釈尊が普賢菩薩に呼びかける一節である。

 「普賢よ、もし如来の入滅の後、後の五百歳に、もしある人が法華経を受持し、読誦している者を見たならば、まさにこのように思うべきである。『この人は、久しからずして、まさに道場にいたり、多くの魔を打ち破り、無上の悟りを得、法輪を転じ(教えを説き)、法の鼓を打ち鳴らし、法の法螺貝を吹き、法の雨を降らせるであろう。まさに天・人の大衆の中の師子の法座の上に坐るであろう』と」(法華経六七五ページ、通解)

 これは、重要な一節である。

 「普賢」の「普」には「普し」の義がある。

 「賢」は「賢い」と読むとおり、

 「智慧」を表している。

 本日はくわしい意義は略すが、

 わかりやすく言えば、

 仏の偉大な智慧が、

 全宇宙にあまねく及んで

 尽きないことを象徴しているといえよう。

 

 広布の指導者もまた、

 「普く、賢く」なければいけない。

 仏法と社会の一切に通じ、

 人々を指導し、

 悪を破折していける

 智慧を磨いていくことである。

 それを怠つては、本当の信心ではない。

 

 「如来の入滅」の「如来」とは、

 ご存じのとおり、仏のことである。

 仏の尊称(十号)の一つであり、

 「真如より到来せし者」等の意がある。

 

 この宇宙は、

 一瞬の停滞も、なく動いている。

 森羅万象、あらゆる存在が、

 変化、変化を続けている。

 「如来」とは、如如として来る、

 瞬間瞬間の躍動する

 生命を表しているともいえよう。

 その偉大なる生命力の当体こそ、

 仏なのである。

 

 妙法は、大宇宙を貫く至高の法則である。

 南無妙法蓮華経を唱えながら、

 広布に生きぬいていけば、

 最も正しく、

 最も価値ある「安穏と勝利の道」を、

 三世永遠に歩んでいくことができる。

 また、一切衆生には本来、

 仏の生命が備わっている。

 ゆえに仏法では、

 あらゆる生命を尊貴なものとして

 敬っていくことを教えている。

 

 ともあれ、われわれも、

 停滞してはいけない。

 回転し、律動し、

 変化し続ける大宇宙とともに、

 妙法を唱えながら、

 広布のために動くことである。

 戦い続けることである。

 そうしていくなかで、

 わが生命に、

 何ものにも負けることのない、

 最も力強く清浄な「如来」の生命を

 湧現していけるのである。

 

2005年3月11日婦人部・女子部最高協議会

2021年11月20日

第1791回

「仏とは」

 

 山本伸一は、それから「仏」について言及した。

 「世間では、人が亡くなることを『成仏』と言い、亡くなった方を『仏』と言いますが、それは誤りです。死ねば成仏し、仏になるのであれば、生きている時に仏道修行に励む必要はなくなってしまう。

 本来、仏法では、私たちの胸中に『仏』という生命が具わっていると教えています。その生命は、いかなる環境にも負けることのない最高の生命力であり、価値を創造する源泉といえます。あるいは、自己の人間完成へと向かう強靱な意志力といってもよい。

 それを涌現させていくことが成仏であり、そのために、大聖人は御本尊を御図顕になられた。私たちは、この御本尊を信じ、唱題していく時、死んだあとではなく、現実の社会で価値を創造し、幸福への道を開いていくことができる。それが信心即生活の原理です。

 ゆえに、『仏』とは、架空の存在では決してありません。妙法を弘め、人びとの幸福のために、一日一日、精進を重ねていく尊い同志こそ、つまり、皆様方こそ、尊極の『仏』なのであります」

 

<新・人間革命> 第2巻 民衆の旗 282頁

12月17日

創価学会、SGIを守ることが、

いちばん大聖人が喜ばれる

 

<“大切な仏子を一人も残らず幸福にしてみせる”>

 

 また大聖人は、南条時光の母である上野尼御前にも、御慈愛あふれる御手紙を与えられている。大聖人は、仰せである。
 「一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり」(御書1580ページ)
 ――(法華経以外の)一切経の功徳は、先に善根を作って、後に仏になると説きます。このようですから、(成仏という根本の大事が)不確かな教えです――。
 同じ仏教でも、法華経以前の爾前経では、今世の善根によって来世に果報を得るとか、過去世の悪業で今世に苦しんでいるから、来世のために善根を積みなさいとか教える。
 そうではなく、大聖人の仏法は本因妙であり、現当二世の仏法である。大聖人は仰せである。
 「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり」(同ページ)
 ――(それに対して)法華経というのは、手に取ればその手がただちに仏に成り、口に唱えればその口がそのまま仏となります――。
 法華経とは、いうまでもなく大聖人の法華経、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。
 皆さまが御本尊に手を合わせて題目を唱えれば、その手が仏である。題目を唱え、弘教に励めば、その口は仏である。さらに、教学を謙虚に学び、感激して人に教えていけば、頭に仏の力が宿る。頭脳が明晰にもなっていく。
 このように信心は即、わが身のうえに、生活のうえに、仕事のうえに、厳然と顕れていく。そして、今世でただちに成仏していけるのが大聖人の仏法なのである。
 百人いれば百人、千人いれば千人、全員が残らず成仏できる――これが、御本仏の絶対の御約束であられる。大聖人の仏法は、あらゆる人々に開かれた「世界宗教」である。
 「皆が共に成仏」「皆が共に幸福」「皆が共に栄光」――こうした和楽の世界をつくるのが、仏法である。ゆえに世界平和の根幹となる。
 「全世界の平和のため」「全人類の幸福のため」、創価学会は絶対に壊されてはならない。
 「仲良く」「朗らかに」「強く」、そして「健康」で「余裕」をもって、前進していただきたい。
 リーダーの皆さまは“大切な仏子を一人も残らず幸福にしてみせる”との断固たる精神で進んでいただきたい。創価学会、SGIを守ることが、いちばん大聖人が喜ばれることである。

 

1993年10月22日 第17回SGI総会

12月16日

大聖人はいつもそばにあり!
日天・月天に御姿あり! 

 

 ただ広宣流布のために、わが使命を果たそうとする――その同志のつながりこそ、世界一、尊いものである。
 建治元年(1275年)6月、日蓮大聖人は、佐渡の一人の婦人に、あたたかな御手紙を送られている。
 婦人の名前は国府尼。佐渡の地から、はるばる身延の大聖人のもとに夫を送り出し、自分は留守を守っていた。
 大聖人は、彼女の心を思いやられて、こう仰せである。
 「尼ごぜんの御すがたをば・みまいらせ候はねども心をば・これに・とどめをぼへ候へ、日蓮こいしく・をはせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん」(国府尼御前御書、1325頁)
 ――尼御前(あなた)のお姿を拝見はいたしませんが、(あなたの)心は、ここにおられると感じます。日蓮を恋しく思われたなら、つねに(朝に)出る太陽、夕べに出る月を拝まれるがよい。(日蓮は)いつであっても、太陽や月に影を浮かべる身なのです。また、死後には霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう――と。
 “たとえ直接、会えなくても、私はいつも、あなたのそばにいますよ”“太陽や月に姿を浮かべて必ず見守っていますよ”“永遠に一緒ですよ”――これが御本仏の御心である。仏法の真髄である。

 

1993年10月22日 第17回SGI総会

 

2015年12月24日

仏は現実の中に厳然

 

<最も苦しんでいる民衆を救う>

 

目分は傷つかないでは、

それは「仏」ではない。

「魔もの」です。

 

 「仏」とは架空の存在ではない。もちろん、「架空の仏」も方便としては説かれた。しかし、真実の「仏」とは、この現実の五濁悪世の世の中におられる。
 最も苦しんでいる民衆のなかに分け入って、人々の苦しさ、悲しさに同苦し、救っていく。それが「仏」です。
 しかも、民衆を救わんと戦うゆえに、傲慢な権力者からは弾圧され、僧侶をはじめ悪い指導者に迫害され、当の民衆からさえ憎まれる。「悪口罵詈」であり、「杖木瓦石」です。
 その大難のなかにこそ、「仏」はいらつしやるのです。どこか安楽な別世界で、悟りすましているのが「仏」ではない。怒涛の社会のなかへ、先頭を切つて進むのが、「仏」なのです。先頭を切つて進めば、必ず難を受ける。傷もつく。
 しかし、民衆の苦しみをよそに、目分は傷つかないように、要領よくやろうというのは、それは「仏」ではない。「魔もの」です。
 戸田先生は、ご自身をはじめ、創価学会員が、くる日もくる日も、広宣流布へと突進し、苦闘している。その現実にこそ、真の「仏法」の光はあるのだ、それ以外にはないのだと教えてくださつたのです。

 

法華経の智慧 常不軽菩薩品 第二十章

2015年8月18日

仏の未来記(完)


<いよいよ、わが分身である諸君の出番である>

 
  さらに大聖人は本抄で『世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え』(御書509頁)と呼びかけられました。師匠の正義を語り広げるのは、弟子の責任であります。
 未来を託す師の絶対の信頼に、命を賭して応えゆく弟子の誓願の闘争の中にのみ、広宣流布の命脈はある。
 思えば、聖教新聞の創刊も、会館の建設も、創価学園・創価大学の創立も、戸田先生の事業が最悪の逆境にあった時に、師弟で語り合った構想です。そのすべてを、私は不二の弟子として実現しました。そして、牧口先生、戸田先生を、全世界に大きく宣揚しました。
 師匠の正義を満天下に示す。あらゆる大難に打ち勝って永遠に伝える。これこそ、弟子の誓願であります。
 そして、いよいよ、わが分身である青年部の諸君の出番であると、私は声高く宣言しておきます。
 マハトマ・ガンジーの精神を継承されるラダクリシュナン博士が、私との対談集(『人道の世紀へ――ガンジーとインドの哲学を語る』)で、マハトマ・ガンジーの言葉を紹介されていました。
 「私が去った時には、(弟子の)ジャワハルラル(ネルー)が私の言葉を話すであろう
 その予見通り、インド独立の父・ガンジーが世を去った後、高弟であったネル一首相がガンジーの遺志を継ぎ、新生インドは旭日の興隆を始めたのです。
 こうしたガンジーと弟子たちの姿を通し、ラダクリシュナン博士は「師匠は弟子の行動の中に生き続ける」「永遠性に向かって創造的に生きる時、師匠と弟子は不二になる。私はそう信じています」と断言されました。
 「仏の未来記」を、世界へ、万代へ伝え広げゆく私たち師弟の前進は、悠久のガンジスの如く、壮大な未来に続く地涌の人材の大河であります。
 ″世界史は、不断の闘争が生む永遠の人間劇に他ならない″とは、フランスの歴史家ミシュレの感慨でした。我らは、人類史に未曾有の広宣流布という「永遠の人間勝利の劇」を演じているのです。
 創価の「師弟の未来記」が、不滅の大光を放ち始めました。人類の民衆史の勝利の黎明が、ここにあります。

 

 大仏法
  世界広布の
    使命かな
  創価の仏勅
    永遠に光りぬ

 

御書と師弟(2009.2.5聖教)

2015年8月17日

仏の未来記(4)


<大変な中でこそ、最も崇高な人生の金字塔が>

 

学会創立八十周年(二〇一〇年)から百周年(二〇三〇年)ヘ

爛漫たる世界広布の文化と教育の大花が咲き誇る時代に

 
 昨年、「百九十二番目」を飾ってメンバーが誕生した国は、南太平洋の宝石の島「ソロモン諸島」と、ヨーロッパの文化の宝庫「モンテネグロ」(旧ユーゴ)です。
 どちらも、戦乱の悲劇を乗り越え、新時代を開いてきた天地です。この国々にも、広布のリーダーが涌出し、「三変土田」の道を開く、平和と幸福の妙法の大音声が響き始めたのです。
 二十一世紀の絢爛たる前進は、これからです。明年(当時)の学会創立八十周年(二〇一〇年)から百周年(二〇三〇年)ヘ――爛漫たる世界広布の文化と教育の大花が咲き誇る時代になります。
 末法万年尽未来際への尊き基盤を盤石に創り上げているのが、今の私たちの戦いなのです。大聖人は、日本は「邪智謗法の国」であると喝破されました。この日本で勝てば、世界の同志も威光勢力を増し、ますます歓喜踊躍して勝ち栄えていくことができる。
 偉大な業績は、逆境の中で生まれる――これは歴史の法則であります。
 本抄では『日来(ひごろ)の災・月来(つきごろ)の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり』(御書509頁)と仰せです。
 本抄を御執筆された文永十年(一二七三年)、大聖人は佐渡流罪の大難の中におられました。万が一にも死を逃れられない命である――。しかし、この最悪の状況の中で、大聖人は、はるか未来の世界広布を展望なされたのです。あまりにも雄大にして悠然たる御本仏の御境涯ではありませんか。
 今、さまざまな苦境と戦う同志もおられる。しかし最も大変な中でこそ、最も崇高な人生の金字塔が打ち立てられていくのです。これが、大聖人に連なる我らの「難来るを以て安楽」(同750頁)の極意です。
(つづく)

2015年8月16日

仏の未来記(3)


<世界が家族のように苦楽を分かち合う>

 

いよいよ、

一閻浮提広宣流布の壮大な展開が始まりました

 
 今、世界の同志と心を一つに胸を張って広布の道を進まれる皆様方は、何と不思議な福徳と、何と尊貴な栄光に包まれゆく方々でありましょうか。
 学会の同志一人一人の祈りは、個々人の祈りであるにとどまらず、世界広宣流布の仏意仏勅に連なる祈りです。だからこそ、仏の智慧が光り、仏の力が湧くのです。諸天善神が必ず動き、三世十方の仏菩薩が皆様を守りに護るのです。
 私の友人で、世界的な法華経研究家であられるインドのロケッシュ・チャンドラ博士(インド文化国際アカデミー理事長)が昨年春、日本で講演した際、参加していた一人の女性の質問に答えられながら、こう語つてくださいました。
 「あなたが創価学会を知ることができ、創価の師弟の偉大なる心に接することができたことは、非常に幸運な出来事であることに、気づかなければなりません」と。
 博士は常々、法華経のメッセージは創価の師弟によって人類全体への呼びかけとなったと洞察されています。それは「人間であることの喜びを実感し、精神を開花させ、世界が家族のように苦楽を分かち合おう」という呼びかけです。
 三世常住の大法を悟った仏の慈悲と智慧を現代に継承し、仏の未来記を堂々と実現しゆく「一閻浮提第一の教団」――これが創価学会です生老病死の苦悩を打開しながら、永遠に連帯し、「団結の歓喜」に満ちて進む常楽我浄の大陣列です。
 その誉れ高き主役が、皆様方です。甚深の使命を自覚すれば、力はまだまだ出ます。
 私は、戸田先生との約束を実現しようと祈りに祈りました。″世界中に、地涌の同志よ、出でよ!″――この強い一念を込めて、走りに走り、大地に染み込ませるように題目を唱え抜いてきました。一人また一人と心を結び、仏の如く敬い、励まし続けてまいりました。
 そして今、世界同時に地涌の菩薩が涌出する時代を迎えました。四十八年前、メンバーが一人もいなかったインドは今、三万八千人(2009年当時)の大行進となった。いよいよ、一閻浮提広宣流布の壮大な展開が始まりました。
(つづく)

8月14日15日

仏の未来記(2)

 

<大聖人の未来記である「一閻浮提広宣流布」

を現実のものとしたのは誰か?>


  では大聖人の未来記である「一閻浮提広宣流布」を現実のものとしたのは誰か。それは、我ら創価学会です。SGI(創価学会インタナショナル)です。初代・牧口先生、二代・戸田先生、そして第三代である私と皆様方の「師弟不二」の大闘争によって、今日、大聖人の仏法は世界百九十二カ国・地域に広がりました。
 何事も「一人」から始まる。真実の「最初の一人」が出現すれば、「後継の一人」の弟子が立ち上がる。そして時代創造のうねりは『二人・三人・百人と次第に』(御書1360頁)伝わっていく。「法」といっても、この「師弟の継承」の中にのみ躍動し、広がりゆくのです。
 学会は、正しき師弟の団体であるからこそ、大聖人の未来記を壮大なスケールで実現できた、仏法史上、未曾有の教団なのであります。
 この学会とともに、一人一人と対話し、一人一人を励ましながら、広宣流布へ歩んでおられる同志の皆様こそ、最高に尊貴な方々に他ならない。皆様方をおいて、一体、誰が御本仏の未来記を現実のものとしてきたでありましょうか。この大福徳は、未来永遠にわたって無量無辺であります。
 ゆえに、広宣流布の闘士である皆様方を侮辱し迫害する者は「豈大悪人に非ずや」であり、仏罰もまた厳然である。御本仏が御断言です。その厳しき因果の現証は、皆様がご存じの通りであります。

 

  必ず未来の経典に

 

 今や、学会の大前進に世界の多くの知性が目を見張っています。アメリカの著名な仏教研究者であるクラーク・ストランド氏は、こう述べておられた。
 「歴史的に見ても、新しい宗教革命が起きる時は、その宗教が伝わる勢いは大変なものがあります。理屈を超えて、人の心から心に伝わっていく。
 創価学会を研究してきて、おそらく五百年、千年に一度、誕生するかしないかの偉大な宗教であると確信します」と。深く、鋭く見てくださっています。
 あまりにも使命深き学会の存在について、戸田先生はこう語られたことがありました。
 ――法華経には、威音王仏という仏が登場する。二万億もの仏が、みな同じ威音王仏という名前で、長遠の歳月、衆生を救済してきたと説かれている。この威音王という名も、優れた仏の名であったかもしれないし、またそういう名の教団があったと考えることもできる。
 同じように、「創価学会」という教団は、必ず未来の経典に金文字で記される。「一閻浮提広宣流布」という未来記を実現した「創価学会仏」として、永劫に仰がれゆくのだ――
(つづく)

2015年8月13日

仏の未来記(1)

 

<大聖人の未来記とはなにか?>

 

末法万年の全世界の民衆を救う大白法が

「東土の日本」から興隆するのだ!

 
 (前略)昭和三十六年(一九六一年)、第三代会長に就任して最初の二月。私は仏教発祥の地・インドを初訪問しました。
 それは師恩に報いゆく旅でした。
 「アジアの民に 日をぞ送らん」──私の胸には、東洋広布を願ってやまなかった恩師の遺影がありました。
 戸田先生の不二の分身として、大聖人の「仏法西還」の御予言を実現しゆく道を、決然と踏み出したのです。
 仏の未来記を現実に証明し、成就するのは誰か。「顕仏未来記」は、この根本を明かされた御書です。
 大聖人は、本抄の冒頭に『我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提えんぶだいに広宣流布して断絶せしむること無けん』(御書505頁)という法華経の経文を掲げられました。
 これは、末法の広宣流布を予言した釈尊の「未来記」(未来を予見し記したもの)です。この経文を現実のものとされたのが、大聖人であられます。
 インドから西域へ、中国へ、韓・朝鮮半島へ、日本ヘ──西から東へと、月氏の仏法は流伝してきました。それは、壮大な仏法東漸の歴史です。
 ところが、末法の日本に至って、完全に形骸化し、民衆救済の力を失ってしまった。
 いくら多くの経典が持ち込まれ、儀式が盛んでも、仏閣が甍を連ねても、真に民衆のために正義と慈悲の闘争を貫く師弟は現れなかった。
 実際、鎌倉時代の日本では念仏の哀音が広まり、民衆は深い厭世感・絶望感に沈んでいた。


太陽の仏法は赫々


 その暗い闇の日本に、末法万年の民衆を照らしゆく日蓮仏法の太陽は赫々と昇ったのです。
 大聖人が、競い起こる三障四魔、三類の強敵と戦い抜かれ、大難の中で妙法を弘通されたからこそ、広宣流布を予言した釈尊の未来記は真実となりました。「顕仏未来記」では、この烈々たる御確信を述べられています。
 『日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈(あに)大悪人に非ずや』(御書507頁)──日本国中に、日蓮を除いては、誰人を取りあげて法華経の行者とするのであろうか。汝は日蓮を謗ろうとして、かえって、仏記を虚妄にするのである。まさに汝こそ大悪人ではないか──。
 大確信の師子吼です。誰が仏法の正義のために戦っているのか。自分一身のために言うのではない。仏の金言を何よりも大切にし、正しく実践し抜いているからこそ、何ものも恐れずに叫べる。いかなる圧迫にも断固と打ち勝つ力が出るのです。
 まっしぐらに師弟の道に徹する人生は強い。どこまでも正義の炎を燃え上がらせ、祈り抜き、戦い切ることである。そうすれば、破れない壁などない。勝てない戦いなどない。
 釈尊の未来記を実現したのは大聖人であられます。それを踏まえて、「では汝自身の未来記はどうなのか?」との問いを設けられ、答えられたのが、今回の御聖訓です。
 『仏記に順じて之を勘かんがうるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり』(同508頁)
 「後五百歳の始」とは、末法濁世・闘諍言訟の時代です。その濁り切り、乱れ切った世に、末法万年の全世界の民衆を救う大白法が「東土の日本」から興隆するのだ! これが大聖人の厳然たる未来記なのです。
(つづく)

2015年5月9日

悪と戦い、打ち勝ってこそ「善悪不二」

 

<衆生の救済が究極の善、自己の利害のみ(エゴ)は大悪>

   

 池田 そこだね。善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」と言われていた。(『価値創造』、『牧口常三郎全集』10、趣意、以下同書から)。また、分かりやすく譬えて次のようにも言われている。「顔回(がんかい)がもしも孔子に反対したとすれば、亜聖(顔回をさす)が直ちに大悪人に陥らなければならず、この孔子がもしも釈尊に反対したとすれば、直ちに極悪の果報を結ばなければなるまい」と。
 遠藤 顔回とは孔子の弟子で、亜聖、つまり孔子に次ぐ聖人と言われていました。その顔回が孔子に背くのは、中善が大善に背き、一転して大悪になる。その孔子も極善の仏に背けば極悪になる。なるほど、善悪は関係性ですね。
 池田 しかし、孔子やイエス・キリストやマホメット(ムハマンド)が、もし釈尊にあったら背くことはないだろう、とも牧口先生は言われていた。なぜならば「彼らはただ等しく自己を空しうして、衆生を救済しようとするに余念がないからであって、エゴイストではないからである」と。
 牧口先生は、衆生の救済に究極の善を見ておられたようだ。反対に、自分の利害だけを考えるエゴイズムは悪の根源です。だから、こうも言われています。
 「一般に善人、大善人と自任している人々にとって油断のならないことは、いつ自分以上の人格者が出現しないとも限らず、現在以上の良法が立証されぬとも限らないことである。この場合には、地位が高ければ高いほど、直ちに大悪・最大悪の果報を結ばなければならない」
 「かの良観、道隆の輩も、もし日蓮大聖人が出現されなかったならば、生き仏として現世を終わったであろう。残念なことには、彼らはこの関係がわからず、私利私欲に目がくらみ、大悪僧になってしまった」と。やはり嫉妬によって悪人になってしまった。
 斉藤 牧口先生は「公益を善という」と定義されています(『創価教育学大系』同全集5)。法華経は、万人を成仏へと導く経典です。その意味で、法華経は最高の公益、最高の善を目指していると言えますね。
 池田 それが仏の心である。ゆえに仏は極善です。しかし、それは仏の生命に悪がないということではない。悪は、可能性として仏の生命にも具わっている。しかし、最高の善をめざし、悪と戦い抜いているがゆえに、仏は善なのです。
 大聖人は『善に背(そむ)くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し』(御書563頁)と仰せです。善も悪も実体ではない。空であり、関係性によって生ずる。だからこそ、たえず善に向かう心が大事であり、行動が大事なのです。(中略)
 池田 そう。仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、善知識であったとは、とても言えない。戸田先生は明快に言われています。
 「提婆達多は釈迦一代にわたる謗法の人で、一切世間の諸善を断じた。ゆえに爾前経では『悪がなければもって賢善を顕すことができない。このゆえに提婆達多は無数劫以来、常に釈迦とともにあって、釈迦は仏道を行じ提婆は非道を行じてきた。しこうして互いに相啓発してきたものである』と。しかるに対悪顕善(=悪に対して善を顕す)が終われば悪の全体はすなわちこれ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順(=逆縁も即ちこれ順縁)となるのである。このことは爾前経ではいまだ説かれなかった奥底の義である」(『戸田城聖全集』6)
 悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、はじめて善悪不二となるのです
 その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の境涯が高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです。

 

法華経の智慧 提婆達多品 第十二章

2015年3月22日

「最高の人間性」

 

<「次の千年」に必要な「宇宙的ヒューマニズム」>

 
 『一切衆生の異の苦を受くるは悉ことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし』(御書758頁)と断言された大聖人の広大なるご境涯──その「最高の人間性」を、全世界に伝えたいとの思いで御書を拝し、語ってきました。
 薬草喩品の譬えでは、仏の慈悲の大雲は三千大千世界、つまり全宇宙を覆ったと説かれている。どうすれば全世界を御本仏の大慈大悲で潤すことができるか──私の一念は、いつも、そこにあります。この「如来行」こそ創価学会の使命だからです。その戦いは、これから本格化する。いよいよ本門に入るのです。
 行き詰まった現代世界を開き、蘇生させるために必要なのは「宇宙的視野」であると思う。大宇宙と一体のものとして人間を捉える見方です。大宇宙と一体であれば、自然、地球とも一体であることは言うまでもない。そういう人間観のもとに社会も国家も民族も捉え直していくのです。
 心の窓が閉ざされていては、大きな未来は見えない。窓を開け放つことです。そうすれば、行き詰まりはないのです
 すべての人間は、全宇宙と一体です。全宇宙のあらゆる営みが、一人の人間の独自性を成り立たせている。言い換えれば、一人一人の人間は、「大宇宙」を独自の仕方で映し出す「小宇宙」です。「個人」は、本来、「全人」なのです
 だから、″一人″がかけがえのない存在なのです。
 そういう生命の秘密を知る究極の智慧が、仏の一切種智であり、平等大慧です。どの人も、どの生命も、かけがえのない存在として平等と見るのです。この法華経の人間主義こそ、「次の千年」に必要な「宇宙的ヒューマニズム」であると私は確信します
 タゴールは歌っています。
 「昼となく夜となく、わたしの血管をながれる同じ生命の流れが、世界をつらぬいてながれ、律動的に鼓動をうちながら、躍動している。
 その同じ生命が、大地の塵のなかをかけめぐり、無数の草の葉のなかに歓びとなって萌え出で、木の葉や花々のざわめく波となってくだける。
 その同じ生命が、生と死の海の揺藍(ゆりかご)のなかで、潮の満ち干につれて、ゆられている。
 この生命の世界に触れる、とわたしの手足は輝きわたるかに思われる。そして、いまこの刹那にも、幾世代の生命の鼓動が、わたしの血のなかに脈打っているという思いから、わたしの誇りは湧きおこる」(「ギタンジャリ」森本達雄訳、『タゴール著作集第一巻詩集』1所収、第三文明社)
 我が命に、宇宙の根源のリズムを鼓動させながら、にぎやかに、楽しく前進また前進していきたいものです。

 

法華経の智慧 薬草喩品(第五章)

2015年3月20日

 どうすれば、暴走を減速させ、

人類を正しい方向に向かわせることができるか

 

池田 (中略)分かりやすく言えば、あらゆる人々に″あなたも必ず最高に幸せになれる″と言い切っていくことです苦悩の闇の中で諦めきった人々に希望をあたえ、挑戦する心をよみがえらせることです。また、停滞し、行き詰まった社会にあって、「人間には、すべての難問を解決する無限の可能性がある」と主張することです
 どの人も妙法の当体です。人間であることが尊いのです。それを身をもって示したのが不軽菩薩の礼拝行です。
 大聖人は、この不軽菩薩の実践とご自身の実践は同じである、と言われている。南無妙法蓮華経と唱え弘めるのは、「末法における授記」なのです。大聖人は「記とは南無妙法蓮華経なり」(御書730頁)と仰せです。
 この南無妙法蓮華経の授記について、大聖人は「妙法の授記なるが故に法界の授記なり」(御書731頁)と仰せです。法界の授記とは、十法界(十界)すべてに対する授記ということです。十界のいかなる衆生も妙法の当体である、とはっきり示すのが南無妙法蓮華経の授記なのです
 たとえ地獄界にあっても妙法の当体であるから必ず成仏できる――そのように授記していくのです。これが法華経の「万人への授記」「平等の授記」の究極です
 そして大聖人の仏法は下種仏法です。その「授記」、つまり南無妙法蓮華経の記を授けるとは、妙法を下種することであり、妙法と結縁させることです。人々の生命の奥底に、自分は妙法の当体であるとの自覚を植えつけることです。それは、生命の無限の可能性を言い切っていくことでもある
 また、南無妙法蓮華経は、幸福と平和の種子です。南無妙法蓮華経の授記とは、人類を幸福と平和への「間違いなき軌道」に乗せていくのです。すべての衆生は妙法の当体であるとの深い生命観、人間観が根づいていけば、人類は、その「間違いなき軌道」を歩むことができるにちがいない
 ともあれ、成仏とは「ゴール」のようで「ゴール」ではない。絶対の「軌道」です。永遠に向上、永遠に充実、永遠に遊楽へと進んでいける「希望」そのものです。法華経の「未来成仏」も、永遠に「未来へ」「未来へ」もっと成長していこう、もっと人を救っていこうという、現当二世の心を教えているのではないだろうか。
 遠藤 成仏が、そこから先は何もない「完成」だったら、かえって、つまらないでしょうね(笑い)。
 池田 成仏の「軌道」に入れば、そこで出合う嵐も、吹雪も、木枯らしも、もちろん春風も、青空も、太陽もす、べて心から楽しみきっていける。
 「生」も楽しい、「死」も楽しいという無上の境涯。その永遠の充実、永遠の希望を約束する「軌道」なのです。「一生成仏」「即身成仏」の、限りない連続とも言える。
 遠藤 その究極が「難来るを以て安楽と意(こころ)得可きなり」(御書750頁)との大聖人のご境涯ですね。
 池田 そうだと思う。「三類の強敵」「三障四魔」。これらの難は、「あなたの進む道に間違いはありませんよ」「これを乗り越えれば必ず仏になれますよ」という最高の保証です。
 難があるから今、進んでいる広布の道が正しいと分かる。生々世々、仏の軌道に入っていくと確信できる。最高の励みです
 ゆえに信心の眼でみれば、「難」もまた「授記」なのです。仏道修行の″卒業試験″とも言えるだろう。「三類の強敵」が競い起こった時こそ、じつは、成仏の「軌道」に入るチャンスなのです。入れば、永遠に仏です。
 斉藤 これまで、漠然としていた「授記」の深い意味が明快になりました。
 池田 人類にとって、正しき「軌道」が必要です
 「われわれは、曲がりくねった道を無謀な速度で車を運転しており、いまにも大惨事を招く危険を冒しています」(「二十一世紀への警鐘」『池田大作全集』4収録)と。
 十年ほど前にペッチェイ博士(ローマクラブの創設者)と語りあったさい、博士は現代文明の危機をこう指摘されました。
 私も「怖さを知らない若者が、速度を増せば増すほど喜んで、自動車のアクセルを強く踏むようなものです」(同前)と率直に申し上げ、博士と私の認識は一致しました。
 遠藤 われわれは、どこへ向かっているのか。どこへ向かうべきなのか。「確たる軌道」がないまま、予測できない暗闇に向かって、今も暴走し続けている。それが現代の人類なんですね。
 池田 博士と語り合った十年前から、状況はいっこうに良くなっていない。良く変えようという「気力」さえ、ますます失われてきている昨今ではないか、と私は憂える。
 斉藤 原因は、やはり、人間を″置き去り″にしてきたからではないでしょうか。
 機械は進歩した。性能もアップした。スピードも増した。それらの粋を集めて文明社会という″車″をつくったのに、運転する「人間」自身が未熟なままなのです。だから、若者が車を暴走させて喜ぶような状態になっている……。
 池田 その通りです。どうすれば、暴走を減速させ、人類を正しい方向に向かわせることができるか。「人間革命しかない」。これが博士と私の結論であった。
 「人間自身」が、変わらねばならない。「正しい方向をめざす人間」をつくろう。そうした人間が社会に広がれば、社会の方向も変えられるはずだ、と。
 博士は言われた。「人間革命こそが、新しい進路の選択と、人類の幸福の回復を可能にする積極的な行動の鍵なのです」(同前)と。
 「正しい方向をめざす人間」を開発するのが仏法です。「正しい方向」とは「自他ともに幸福になる」ことでしょう。その方向への「確かなる軌道」へ、自分も入り、人をも入らせていく――この″生命の触発作業″が、「人間革命」の運動です。また仏法を基調にした平和・文化・教育運動です。
 これらは広い意味で、法華経の「授記」の精神に通じている。

 

法華経の智慧 授記品(第六章)

2015年3月19日

 当起遠迎、当如敬仏

 

<団結の核心は、互いのなかに仏を見る「敬いの心」に>

 

 記念勤行会での山本伸一の指導は、熱のこもる御書講義となった。

 「この『四条金吾殿御返事』は、『いよいよ強盛の信力をいた(致)し給へ』(御書1143頁)との御指導をもって結ばれている。これが、この御書の結論なんです。

 皆さん、「いよいよ」ですよ。長いこと信心をしてきたから、「ほどほど」でいいなんていうことはないんです。「さあ、これからだ!」「また、新しい挑戦をしよう!」「生涯、前進だ!」というのが信心であり、仏法者の生き方なんです。そこに、生命の躍動があり、歓喜があり、幸福があるんです。いかに年をとろうが、青春の人生があるんです。

 東濃の皆さんは、この御書を深く心に刻んで、いよいよ信心強盛に、功徳に満ちあふれた人生を送っていってください」

 約二十分にわたる、渾身の講義であった。

 場内に入り切れなかった人たちが、外で待機していた。メンバーが入れ替わり、午後五時半から二回目の勤行会が行われた。

 伸一は、ここでは、法華経の「普賢菩薩勧発品」を引いて指導していった。

 この品には、法華経を受持する人の大果報とともに、正法を誹謗し、法華経の行者を軽毀する人の、免れることのできない、厳しい因果が記されている。

 そして、経典には、「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし=法華経六七七㌻)とある。これこそ、日蓮大聖人が「御義口伝」で、「最上第一の相伝」(御書781頁)とされたところである。

 法華経受持の人、すなわち御本尊を受持して信心に励んでいる人に対しては、立って迎え、仏を敬うように接しなさいと述べられているのだ。ここには、広宣流布に進むわれらの、団結の要諦が示されているといってよい。

 団結の核心は、互いのなかに仏を見る「敬いの心」にある。それには、万人が仏性を具えているとの仏法の法理への確信がなければならない。つまり、信心ありて真の団結は成る

 

小説「新・人間革命」 第28巻 大道31

2015年3月3日

一切衆生は“我が子”

 

<その「一人」を絶対に幸福にする>


 仏の慈悲は、完全に平等であり、差別はない。一切の衆生を″我が子″と見て、自分と同じ仏の境涯へと高めようとしている
 それは「衆生に差異がない」からではない。「仏が衆生を差別しない」のです。むしろ仏は、衆生の違いを十分に認めている。衆生の「個性」を尊重し、自分らしさを存分に発揮することを望んでいる。
 衆生に違いがあるからといって、偏愛したり、憎んだりしない。個性を愛し、個性を喜び、個性を生かそうとする――それが仏の慈悲であり智慧です。(中略)
 大事なことは「人間の多様性を認めるところから、仏の説法が出発している」という点です。
 状況も違う、個性も違う、機根も違う具体的な一人一人をどうすれば成仏させることができるか。個々の人間という「現実」から一歩も離れずに、成仏への道筋を明かすのが法華経です
 ″一人を大切に″こそ、法華経の「人間主義」であり、「ヒューマニズム」なのです。それが「仏の心」です。″一切衆生の成仏″という法華経の根本目的も、″一人を大切に″から出発し、そこを徹底させる以外にないのです
 抽象的な「人間愛」や「人類愛」なら簡単です。現実の個々の人間への慈愛はむずかしい。
 ドストエフスキーは「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまり独立した人格としての個々別々の人間を愛することが少なくなる」(『カラマーゾフの兄弟1』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』10、筑摩書房)、「抽象的に人類を愛するということは、ほとんど例外なく自分ひとりを愛することになる」(『白痴』小沼文彦訳、同全集)と言っている。
 創価学会は、具体的な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にするために戦ってきた。これは人類史に燦然と残る崇高な歴史です


  法華経の智慧 薬草喩品(第五章)

2015年2月12日

「仏還つて我が身を捨て給うなるべし」


 <仏子は皆絶対的幸福境涯を開ける>


 「自我偈」の功徳を説かれた御書には、続けて次のように述べられている。
 『今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし』(法蓮抄、1050頁)
 ――今、法華経寿量品を持つ人は、十方世界(全宇宙)の諸仏の命を継ぐ人である。諸仏も皆、法華経の自我偈によって自分が成仏できたのであるから、その恩ある法華経を持つ人を捨てられる仏がいるだろうか。もし、この人を捨てられるならば、仏はかえって自分の身を捨てられることになるであろう――。
 十方の諸仏――仏法は、地球のみならず、宇宙の諸々の世界に「生命」が存在し、「妙法」の実践があることを説いている。宇宙の無数の「仏」もすべて、妙法を師として成仏したのである。そして、この「正法」を持つ私どもは、全宇宙の仏の命を継ぐものであるとの、御本仏の御断言であられる。これ以上、心強いものはない。
 強盛な「信心」によって、必ず成仏の境界を得ていけるのである。もちろん得道に「上品」「中品」「下品」の機根が説かれるように、人によって早い、遅いはあるであろう。しかし、正しき仏道修行の道から退転さえしなければ、「一生成仏」と仰せのように、全員が必ず一生のうちに「成仏」という絶対的な幸福境涯を開けることは間違いない。
 たとえば、学校において、卒業までに多少、時間のかかる人もいるが(笑い)、退学とならない限り、いつかは卒業する。永遠に卒業できない大学など、入る人はいないであろう。(爆笑)
 ともあれ、私ども「仏子」を捨てられるような仏はいない。おられるとすれば、「仏」みずからが、わが身を捨てるようなものだとの仰せである。

 

1991.5.3 5・3「創価学会の日」記念式典

2014年4月6日7日

師子王の心で民衆救済に立ち上れ!


 太陽が大空の彼方まで照らしゆく大境涯。それが悟達の境涯です。それは魔との戦いと不可分です。
 魔を討ち下して、太陽の大境涯である「不死の境地」を得た聖者にとって、恐れるものは何もないのです。永遠の法と一体となっているからです。
 そして、釈尊は、「不死の門を開かれた!」「不死は得られた」と、全民衆を幸福にする大遠征に出発します。
 “自分のため”ではありません。“皆を幸福にするため”に、大宇宙に瀰漫する魔軍との闘争を開始したのです。つねにその原点に戻れば、ひるむ心が生じるわけがありません。(中略)
 私たちが「師子王の心」で立ち上がった時、胸中に妙法が横溢し、一切の障魔に立ち向かっていく仏の生命力が涌現してくるのです。
 言い換えれば、太陽のごとく万人を照らそうとする実践、師子王のごとく百獣の障魔を破ろうとする実践のなかに成仏の道がある。それゆえに「日蓮がごとくにせよ」と仰せなのです。
 大聖人と同じ民衆救済の闘争に立ち上がるなかにしか、絶対に成仏はありません。

御書の世界(上)第七章 師子王の心

2014年4月4日

一心欲見仏・不自惜身命に徹せよ!


 「一頭の獅子に率いられ百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の獅子の群れに勝つ」ということわざがある。(欧州のことわざ)
 ナポレオンが好んだ言葉です。
 すべては偉大な精神の力をもつ「一頭の獅子」で決まるのです。
 そして焦点は、「真理の探究」と言っても、観念論ではないということです。「不惜身命(身命を惜しまず)が「成仏への道」になる。不惜身命の人であってこそ、永遠の真理を覚知することができるのです。
 また、逆に、永遠の真理を覚知すればこそ、不惜身命の実践を貫き通せるのです。
 「義浄房御書」に、不惜身命こそが仏界涌現の道であると示されている。
 『寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、(中略)日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり、相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり、法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり』(御書892頁) 

御書の世界(上)第七章 師子王の心

2014年4月1日

師子王の心

 

 (師子王の心とは、)「勇気です」。勇気であるとともに、勇気を起こした生命に現れ出てくる「本源的生命力」です。わかりやすく言えば、「生命の底力」です。
 勇気をもって法を守る戦いをすれば、その勇気の力で、心を覆う無明(根源の迷い)のベールが破れ、法の無限の力がわが生命から現れ出てくるのです。妙法と一体の仏界の生命です。勇気によって、本源的な生命力と自分が結びつくのです。
 それはまた、いかなる絶望的な状況にあっても、決してくじけない「生命本源の希望」です。「生きぬく力」です。
 人は、死、運命、迫害、苦難、病、破綻、破壊などの影が忍び寄ってきたときに、恐れ、おののき、臆病、嘆き、不安、疑い、瞋りなどに支配される。このような陰影を晴らすのが、「内発的希望」の力です。
 「一人立つ」とは、この内発的な希望を現して、揺るがぬ自分になることです。それが指導者の根本条件です。自分のなかにこんこんと希望の泉が湧き起こっているからこそ、ともに働き、ともに戦う人々に希望を与え続けていくことができる。希望を与えることが指導者の根本的な使命です。

御書の世界(上)第七章 師子王の心

2014年3月22日~24日 

 魔を駆り出せ!

師子王動けば魔は退散

 

 『過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ・師子は値いがたかるべし』(御書1589頁、編)
 広宣流布は魔との戦いです。生半可な決意では戦うことはできない。
 大聖人も流罪、死罪の大難が幾度もあった。熱原の法難では、門下が斬首です。
 勇気を奮い起こし、また、疲れたら再び奮い起こして、戦い続けるなかに、仏界が涌現してくるのです。仏界の力でなければ、強敵に勝利することはできない。
 不惜身命でなければ、民衆を守ることはできない。
 とくに「身命をすてて強敵の科を顕せ」の一文を心に刻みたい。
 魔と闘い、「強敵の科」を責め出さなければ、真の勝利は断じてない。牧口先生は、魔を駆り出していくことを教えられた。
 (中略)魔は見えないからといって、いなくなったのではありません。隠れているだけです。だから今、あえて駆り出して、「強敵の科」を顕さなければ、結局は民衆が魔軍にたぶらかされてしまう。
 まして、私たちは壮絶な精神闘争の闘士です。
 だから師子王のごとき悠然たる境涯で遊行する。師子王が動くことで魔は退散する。そして、仏法を守るべき時には、猛然と魔軍を駆り出していかなければならない。油断は絶対に禁物です。どんな敵も全力で戦う。それでこそ師子です。
 真剣勝負ゆえに、師子王は、周囲が“ここまで”と思うぐらいに、一つ一つに全魂を込めて取り組むのです。
 “守り”でなく、“攻め”です。大聖人は、師子王としてみずから「謗法の根源」「一凶」を強く責め立てていかれた。
 個人にあっても原理は同じです。宿命が襲いかかってきたとき、信心で強盛に立ち向かえず、腹が据わらず逃げたり、策や要領で避けようと思ったら、返って事態は複雑になる。

 

御書の世界(上) 第七章 師子王の心

2014年3月18日

 師子王の子は必ず師子となる!

 

 『牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず』(御書1216頁、編493頁)
 「師子の子」は師子になります。広宣流布に戦う仏子は、凡夫であっても必ず仏になる。それであってこそ仏法です。
 人間と隔絶した“仏”がいて、凡夫は永久に仏に導かれる存在でしかない、というのでは真の仏法ではない。皆を自分と同じ境涯にしようとして、万人が仏であることを教えられたのが法華経です。
 また、弟子である衆生の側から見れば、仏をただ遠く仰ぎ見ているような傍観者では失格です。
 仏と地涌の菩薩が久遠から一体で戦ってきたように、師匠と同じ民衆救済の大闘争を開始しなければ、「師子の子」ではありません。ましてや野干や群狐に笑われるような「師子の子」であれば、師子王の後継者としては失格です。
 どこまでも師子王の心をわが心として、一体となって戦っていくなかにしか、師弟不二の経典である法華経の継承はありません。
 もちろん、最初から自分は力があると思っている人はいません。しかし、師匠から勇気をもらったら、戦う力は湧きあがってくる。本当は、それだけの力がもともと自分にあるのです。師子王の妙法を持っているのだから。

 

御書の世界(上) 第七章 師子王の心

2014年3月16日17日

 すべてを乗り越えていく力がある

 

 自身の小さなカラを打ち破っていくのです。三世永遠の生命奥底の一念に心を定めるのです。
 結局は「覚悟」です。“自身が妙法だ!”と目覚めるのです。三世永遠に妙法に生きぬくと覚悟を定めるのです。
 戸田先生は、このようにもおっしゃっています。
 「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実の仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」
 次から次へと悩みがある。困難が襲ってくる。それが私たちの真実です。しかし、すべてに敢然と立ち向かい乗り越えていく力が、一人一人に具わっているのです。そのことを信じて、実際にその力を開き顕すことができるかどうか。そこが勝利のカギです。
 凡夫として苦悩の現実と立ち向かい、乗り越えるからこそ、妙法の偉大さが証明できる。凡夫であることは、その使命を実現するための方便なのです。
 苦悩に負けてグチを言っているうちは、宿命に束縛された姿です。困難と真っ向から取り組んで戦えば、使命と転じる。すべて自身の一念で決まる。
 内なる仏、内なる妙法に目覚めるか、いなか――そこが信心の要です。仏法の根本です。

 

御書の世界(上) 第五章 一生成仏

2014年3月15日

 我、妙法蓮華経なり

 

 「我、妙法蓮華経なり」――そう決めよ、ということです。
 「妙法は、万人の苦悩を除く大良薬です。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して生きるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
 「妙法」は永遠です。万物の根源です。その妙法と一体の生命を覚知すれば、自身も永遠となり、無限の力が湧き出す。何があっても壊れない。何が起ころうと自在である。それが成仏の境涯です。そこに妙法蓮華経と唱える題目の深い意義があります。
 「妙法」を信じ、妙法と一体となれば、無常の自身が永遠の存在となるのです。この有限の自身に無限の力が湧き上がるのです。ゆえに、いかなる行き詰まりも打破していける。そのための信心です。
 また、その姿が「蓮華」です。苦悩の泥沼から生じながらも、汚れに染まらず、すがすがしい姿とふくよかな香りをもって、凛然と咲き薫るのです。「人華」と咲き誇るのです。
 戸田先生は、成仏について、こう指導されています。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである」

 

御書の世界(上) 第五章 一生成仏

2014年3月13日

 あなたは如来の使い

 

 「仏法の話があるから」と人に勧めて聴かせる。会場で座をつめて座らせてあげる。それだけでも功徳があると法華経に説かれている(随喜功徳品)。いわんや、自分から人のために仏法の話をする功徳は計り知れない。
 信心の喜びを、ありのままに語ればいいのだ。「発心下種」(妙法を説いて相手が発心した場合)と「聞法下種」(相手が法を聞いたが発心しなかった場合)の功徳は同じである。どうか、伸び伸びと進んでいただきたい。
 御書には、「一句をも人に語らん人は如来の使と見えたり」(1448頁)と仰せである。弘教に励む人を讃えることが、喜びを幾重にも広げていく。友の幸福を祈る心に大功徳が薫るのである。

 

聖教新聞2014.3.9付 新時代を開く10

2014年3月11日12日

 日々の唱題で慈悲ある行業に!

 

 仏とは、内なる崇高な魂の叫びに素直に耳を傾け、その声を導き手として、生涯、困難と戦いぬいて、理想の実現に邁進し続け、皆に希望と勇気を与える人を言うのではないだろうか。
 日蓮大聖人こそ、慈悲の当体であられる。戸田先生はこう語られたことがある。
 「慈悲こそ、仏の本領であり、大聖人様は慈悲そのものであらせられる。日本国の諸人を愛せればこそ、仏教の真髄を説いて一歩も退かず、伊東へ、佐渡へ、首の座に、いくどの大難をものともせず、三類の強敵を真っ向から引きうけられた艱難辛苦そのもののご一生であらせられたのである。
 これを思えば、われわれ大聖人の弟子をもって自称する者は、たとえ身は貧しくとも、学問はなくとも、身分は低くとも、いかなる地獄の世界に生きようとも、大聖人様の百万分の一のご慈悲たりとも身につけんと、朝な夕なに唱題に励まなくてはならない。それには、大聖人のご生命のこもった題目を日に日に身に染めこませ、心にきざみ、生命に染めて、一日の行業をみな慈悲のすがたに変わるよう、信心を励まなくてはならないのである」

 

御書の世界(上) 第五章 一生成仏

2014年3月10日

 仏とは慈悲の人

 

 仏とは、「慈悲の人」です。
 戸田先生はこう述べられている。
 「慈悲というものは、修行ではない。行動のなかに、心のはたらきのなかに、無意識に自然に発現すべきものであって、仏は生きていること自体が慈悲の状態に生きる以外に道を知らないものである。
 『慈』とは、他に楽しみを与えることであり、『悲』とは、他の苦しみを抜くことをいうのである。(抜苦与楽 ※サイト・マスタ付記) この行動は仏の自然の行動であって、むりに修行しつつあるものではない。ものを言い、手をあげ、法を説くなど、みな慈悲の行業のためであって、この境地に達せられた方を仏と称し、尊信たてまつるのである」
 慈悲が仏の本質なのです。法華経の肝要・寿量品の最後には、仏の「永遠の一念」「久遠の大願」が記されている。「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(中略)
 この「一念」、この「願い」こそ、寿量品で説かれる“永遠の仏”の実体です。
 大聖人はまた、この「毎自作是念」の「念」について、「生仏本有の一念」(御書1360頁)と仰せです。衆生も仏も等しく本来、具えている一念なのです。「すべての人とともに幸せになりたい」――これこそ、万人にとって久遠の清らかな願いであり、生命の根底に働く「本来の心」なのです。この心に目覚め、この心に生きぬく人が仏なのです。
 大聖人は、この願い、この理想、この希望に、生きぬかれたのです。

 

御書の世界(上) 第五章 一生成仏

2014年3月8日

 元初の仏界の生命

 

 『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず』(開目抄下、223頁)
 大願を貫かれながら、幾多の大難を越えてこられた大聖人は、竜の口の法難という、生命に及ぶ最大の迫害をも勝ち越えられました。
 ここで仰せの大聖人の「魂魄」とは、万人に具わる元初の仏界の生命です。大聖人という一個の人格の真髄として成就されたがゆえに、「魂魄」と言われているのです。
 その生命は、自由自在であり、晴ればれと開かれています。生きとし生けるものへの慈しみに満ち、苦悩する存在への同苦がみなぎっている。
 また、決して枯れることのない智慧と精神力がほとばしり、尽きない生命力と福徳が湧き出ている。さらに、自他の悪と戦う勇気に燃え、何ものにも恐れることはない。
 そういう仏界の生命を、味わい、楽しみ切っていくことが、人生の至高の意義です。人間が「心」をもっているのは、苦しむためでなく、仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。
 これ以上の楽しみはない。ゆえに、法華経の寿量品では、この現実世界を「衆生所遊楽」と説かれているのです。
 末法の根本的な救済は、これを教えるしかない。

 

御書の世界(上) 第二章 誓願

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.3.29

第2297回

 

日天月天ワンショット

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