信伏随従

2015年5月15日

信伏随従(3)

 

<弟子が師に、身口意の三業をもって仕える>

   

 学会は「広宣流布」への仏意の団体である。妙法の光に照らされた、この広布の世界で、真剣に信行学の活動をしていく。その信心強盛の人こそ、現代における「信伏随従」の人である。
 弟子が師に、身口意の三業をもって仕え、信伏随従していく。この姿を「常随給仕」(常に師に随って給仕していくこと)と言い、令法久住(正法を久しく後世に住せしめること)のための重要な仏道修行である。
 大聖人は、多くの弟子のなかで、常随給仕第一の日興上人に法を付嘱された。
 日興上人の信伏随従のお姿を、「百六箇抄」には、こう記されている。
 『弘長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや』(御書869頁)
 ――弘長元年からの伊豆への配流の時も、文永八年からの佐渡流罪の時も、そのほかの諸所の大難の折にも、先陣を駆けて、影の形にしたがうように、日蓮に随従してきた。だれが、この事実を疑うであろうか――。
 難があればあるほど、先陣を駆けて、師のために走り、仕えきっていかれた日興上人。その「信伏随従」の戦いを、大聖人はどれほど喜ばれたであろうか。
 その他の五老僧は、真の信伏随従ではなかった。ゆえに大聖人御入滅後に、その本性を現し、堕ちていった。ここに重大な歴史の教訓がある。

 

1989.10.15広島県記念勤行会


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2015年5月14日

信伏随従(2)

 

<不惜身命で広布の全責任を担え!>

   

 さて大聖人は、ただ形ばかりの信伏随従ではならないと、強く戒めておられる。
 不軽菩薩を迫害した者は、のちに信伏随従したものの、法華経の行者を誹謗した罪を消しきれず、千劫の長い間、阿鼻地獄に堕ちて苦しんだ。
 そのことをふまえられて、大聖人は「顕立正意抄」に、こう断じられている。
 『今日蓮が弟子等も亦是くの如し或は信じ或は伏し或は随い或は従う但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は設い千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑無からん者か』(御書537頁)
 ――今日蓮の弟子等も、この不軽菩薩を迫害した者と同様である。形のうえではあるいは「信じ」、あるいは「伏し」、あるいは「随い」、あるいは「従う」。ただし、それが名前ばかりで、心の中まで染まりきっていない信心薄き者は、たとえ“千劫”まではいかずとも、あるいは一劫の間、あるいは二劫ないし十劫、百劫の間、無間地獄で苦しむことは間違いない――。
 まことに厳しいご指導である。『名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者』であっては、絶対に成仏することはできない。むしろ堕地獄である、と。
 信心は形ではない。役職のみでもない。年数でもない。「心中」に、生命の全体に「信心」を染めきるかどうかである。
 信心の強さ、深さ、正しさというものは、外見ではわからない場合が多々ある。いわんや表面的な“組織の論理”のみでは、見えない場合があまりにも多い。
 あくまでも信心は自分自身の課題である。自分自身の内実がどうであるか、その生命の因果の問題である。
 いかなる幹部であっても、それが名前だけであり、無責任であれば、むしろ罪をつくってしまう。いわんや信心を利用し、広布の組織を利用して、自身の名利を得ようとするなど、その「心」自体がすでに地獄界の心である。
 広宣流布への責任をもって、あるときは苦しみ、悩みながら、労を惜しまず、わが色心を燃やし、用いていく。それはたしかにたいへんであるけれども、責任が大きい分だけ、生命の中に仏種が大きく育ち、豊かに爛熟していくのである。三世永遠にわたる不壊の幸福の当体になっていく。
 ゆえに中途半端であってはならない。不惜身命が信心の骨髄である。その真の「信伏随従」によって、わが生命を妙法に染めきっていってこそ、成仏という無限の大功徳がある。
(つづく)


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2015年5月13日

信伏随従(1)

 

<生命に深き「信心」染めぬけ>

   

 次に「信伏随従」の文について述べておきたい。
 この経文は法華経の「常不軽菩薩品第二十」にある。不軽菩薩を迫害した慢心の僧尼男女らが、やがて心を改め、不軽菩薩に「信伏随従」した。すなわち「信じ伏し随い従った」ことをさしている。
 この経文について「御義口伝」には、こう説かれている。
 『信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり』(御書765頁)
 ――「信」とは「疑い無きを信という」とあるとおり、法華経に対して疑いがないということである。「伏」とは法華経に帰依し、伏することである。「随」とは心を法華経に移すことである。「従」とは体をこの経に移すことである。詮ずるところ、今、日蓮大聖人とその門下の南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である――。
 すなわち、末法における法華経とは、三大秘法の御本尊である。「信伏随従」とは、御本尊を信じ、御本尊に帰命し、御本尊に心も身体もささげきっていく。心でも信じきり、体でも自行化他の広布の実践に生ききっていくことである。
 御本尊に広布の誓願を立てて唱題し、何があろうと不退転の行動を貫いていく。妙法に信伏随従しきっていく。そこに「成仏」への根本の因がある。
(つづく)

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