創価のジャンヌ・ダルク

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2022年2月21日

第1913回

ある女子部(女性部)の模範の人生

(完/4)

 

美しき感謝の心と、永遠の闘争への決意>

 

 多田時子さんが膵臓ガンで亡くなられたのは、それから四カ月後の二〇〇〇年十二月二日であった。そのとき私は、マレーシアにいた。国立プトラ大学の名誉博士号の授与式やマハティール首相との会見などの日程を終えた私のもとに、彼女の報が伝えられた。

 そして、彼女の最後の手紙が、ファクスで、海を越えて届いた。

 

「創価学会創立七十周年の佳節を、心より御祝賀申し上げます。

 池田先生、御奥様の御健康と御長寿を、衷心よりお祝い申し上げます。

 私こと、おかげさまで、入信以来、五十年。池田先生、御奥様の無限の御慈悲に包まれまして、弟子の道の一分を、歩み抜かせていただきました。

 稀有の大師匠にめぐり会えました福運により、黄金の人生を、そして望外の至福の人生を、歩ませていただきました。

 この御高恩に対し、永遠に生死生死を繰り返しながら、必ずや、広布のお役に立ち、御深恩にお応え申し上げる決意でございます。

 文は意を尽くさず、誠に申し訳ございませんが、一言、御礼を申し述べさせていただきました。心より、心より、感謝申し上げ、厚く、厚く、重ねて御礼申し上げます。

 池田先生、御奥様の愈々いよいよの御健康と、御長寿を衷心より、お祈り申し上げ、また創価学会の永久の御発展を、強くお祈り申し上げます。

     多田時子」

 

 これは、多田さんが亡くなる二週間ほど前に残された遺言である。病院のベッドの上で居住まいを正して口述し、ご主人が書き留めた。それを、さらに数日かけて推敲を重ねたという。

 そして、末尾に自筆で署名して完成したのが、二〇〇〇年の十一月十八日。創価学会創立七十周年の記念日であった。

 報に接し、妻がすぐさま、マレーシアから弔電を打たせていただいた。

 美しき感謝の心と、永遠の闘争への決意にあふれた彼女の最期の言葉を、私はマレーシアの宿舎の御宝前にお供えし、妻と二人でねんごろに追善の題目を送った。

 

 まっすぐな人生だった。

 戦いぬいた人生だった。

 澄みきった、すがすがしい人生だった。

 

 葬儀に参列した婦人部の方は、

 「まるで、ちょっと休んでいるような、本当に美しいお顔でした」と感動していた。

 私たち夫婦の不二の同志である多田さんが逝いて、今年(当時)は七回忌である。

 参議院議員を務めたご主人は、今も学会活動に勇んで励み、意気軒高に戦っておられる。(=2010年九月に逝去)

 多田時子さんが、わが子のように、そしてまた、わが妹のように慈しんで育てた後輩たちは、現在の婦人部(女性部)を立派に担っておられる。そしてそのあとには、すばらしき二十一世紀の女子部(女性部)がさっそうと続き、創立八十周年(当時)への大行進を開始している。

 

2006年2月14日女子部・婦人部合同協議会

 

 南無妙法蓮華経

 合掌

サイト・マスタ

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2022年2月20日

第1912回

ある女子部(女性部)の模範の人生

(3)

 

<「病気のおかげで、真剣に戦える」

 

 また彼女は、寸暇を惜しんで家庭訪問と個人指導に励んだ。

 人一倍、苦労してきたからこそ、彼女の話は、皆の心に入った。

 「だれかと自分を比較したり、人をうらやんではいけない」

 「慢心を起こしたり、心を複雑にしないこと」

 「自分自身を律する、強い生命力を!」

 一人一人の悩みの核心をとらえ、聡明な対話を広げていった。

 多田さんは六八年(昭和四十三年)に婦人部長となった。

 新出発にさいして、私は「婦人部は"生涯青春"でいこう」と呼びかけた。そのとおりに彼女は、生き生きと若々しく、つねに次の人材に光を当てながら、新たな時代を創っていった。

 今も歌い継がれている愛唱歌「今日も元気で」が生まれたのも、彼女が婦人部長の時である。婦人部長を終えた後は、推薦を受けて政界に打って出た。「女性の時代」の先駆者として、衆議院議員を一期、立派に務めている。

 そして、議員を引退するや、ふたたび、喜び勇んで、学会の最前線に躍り出て、さっそうと戦いぬいた。わが身をなげうって支援してくださった方々に、誠心誠意、ご恩返しをしていくのだ――との報恩感謝の心が、彼女の胸の内にはつねに燃えていた。

 総合婦人部長として、多くの方々の激励・指導に尽くした功労も光っている。(=一九九七年の全国女子部幹部会では「学会が発展すればするほど、魔は強くなります。この魔と戦って、勝たなければ、今日までの信心は何のためかと思う時、断じて先生とともに、生涯、広宣流布の大道を生きぬこうと、今、決意を新たにしています」「みずから戦うとともに、一人一人の友を激励していただきたい」「創価学会を女子部の力で支え、発展させていただきたいと思います」とあいさっしている)

 さらに後年は、第二総東京を担当し、今日の大発展の基盤を築きあげた。それは、大空を真っ赤に染めぬく夕陽のような、荘厳な総仕上げの戦いとなった。

 病魔との戦いは生涯続いたが、「病気のおかげで、真剣に戦える」と、明るくはね返していった。皆の前では、つらそうな様子は一切、見せなかった。そういう人だった。

 若き日の病弱な彼女を知る人は、″よくぞ七十五歳まで生きぬいた″と感嘆している。まさに「更賜寿命」(法華経485㌻)の仏法の法理のままに生きぬいた。

 どうすれば、広宣流布を進められるか。どうすれば、学会を永遠に守り、発展させていけるか。真剣な彼女の思いは、強盛な彼女の祈りは、ただ、その一点にあった。

 人生の目的、判断の基準を、つねに「広宣流布」「創価学会」そして「師弟」に定めていた。ゆえに、何があっても揺るがなかった。彼女には、心の老いがなかった。年齢を重ねるごとに、ますます若々しく、凛々しく輝いていった。

 あるとき彼女が、自分は「九」の数字が好きだと言っていたことが忘れられない。

 「『十』に一つ足りない」ところが好きなのだという。だから「十」を目指して努力する。そこに成長があり、希望があり、勝利があると思う、と。

 にこやかに語っていた、あの凛とした声が、今も耳朶に響く。「前進」の気概に満ちた一生を送った彼女に、いかにもふさわしい言葉である。

 病気とのいを続ける多田さんとご主人に、私は歌を贈った。

 

  晴れ晴れと

    夫妻の偉業は

      三世まで

    栄光 燦と

      世界に光らむ

 

(つづく) 

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2022年2月19日

第1911回

ある女子部(女性部)の模範の人生

(2)

 

 <「弟子の道」に徹する>

 

 五一年(昭和二十六年、1951年)の八月に入会。戸田先生が第二代会長に就任された年である。多田さんは二十五歳。宿命を転換するための、出発の夏であった。

 彼女が間借りしていた小さな部屋に、御本尊を御安置するため、女子部の班長だった私の妻も駆けつけた。年齢は多田さんのほうが上であったが、妻は多田さんを包み込むように励まし、親切に、またていねいに、信心の基本を教えていった。

 この同志愛を、多田さんは生涯の誇りとし、人生の宝としていかれたようだ。

 仏法と出あい、学会とめぐりあって、多田さんの人生は、文字どおり「暗」から「明」へ180度、変わった。それまで床にしがちだった体も、目に見えて健康になっていった。光を見いだせなかった人生に、生きる希望のがともった。勇気がわいてきた。

 信心に確信を持った彼女は、真剣に学会活動に励んだ。

 戸田先生が手づくりで育てた女子部の人材グループ華陽会かようかいの一員にもなった。

 戸田先生は、両親に先立たれ、生活苦のなか健気けなげに戦う彼女を、いんに陽に温かく見守っていかれた。そして先生は私に、多田さんを女子部の立派なリーダーに育てるよう、託されたのである。

 ある時、私は多田さんに言った。

 「毎日毎日が発心なんだ。日ごとに発心していくんだよ」

 有名な御聖訓に、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書1190㌻)とある。「日ごとに発心せよ」――との言葉を、彼女は終生、胸に刻んで進んだ。

 彼女は、堂々たる「女子部革命」を成し遂げていった。女子部長を務めた五年間で、全国の女子部の陣容を「五万五千」から「四十万」へ、じつに七倍以上に拡大したのである。

 その躍進を可能にした要因は何か。彼女は凛然りんぜんと語っていた。「弟子の道に徹すること――組織の発展の因も、一生成仏の因も、すべて、この一点に尽きます」と。「師弟不二の信心」こそ広布発展の因である。

 また、彼女は「率先の行動」が光っていた。

 ″だれかにやってもらおう、という依存心があれば、人間は育たない。自分自身が懸命に戦いぬいていくとき、人材はわき出てくる″というのが、彼女の信条であった。

 その勇気と執念が、広宣流布の未来を聞く「戦う女子部」を構築していったのである。

(つづく)

 

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2022年2月18日

第1910回

ある女子部(女性部)の模範の人生

(1)

 

創価のジャンヌ・ダルク

 

 きょうは、女子部の皆さんの大先輩であり、信仰者としての模範を示した、一人の同志のお話をさせていただきたい。多田時子さんである。(旧姓=湊)

 ――それは、戸田先生が逝去された一カ月後のことである。多田さんは、一九五八年(昭和三十年)の五月三日、女子部長に就任した。

 当時、心ない世間は、「創価学会は空中分解するだろう」「壊滅するだろう」などと悪口を繰り返していた。全国の同志たちも意気消沈し、不安を抱いていた。

 その、最も大変な、最も大事な時に、多田さんは、私とともに厳然と立ち上がった。暗闇を豁然と破って、朝日が昇りゆくように、女子部の行進を開始したのである。

 いつも背筋を伸ばして正義を叫び、師弟の道を語り、後継の育成を訴える、その英姿は、まさに「創価のジャンヌ・ダルク」であった。

 多田さんが生まれたのは、大正から昭和へと、時代が変化する転換期である。(一九二五年〈大正十四年〉十月)

 九人きょうだいの末っ子であった。銀行の支店長をしていた父は、多田さんが幼い時に他界。以来、一家は貧之のどん底に落ちる。家屋敷も失った。そのうえ、彼女は病弱であった。結核をはじめ、胃や腎臓や肝臓に、幾つも病気をかかえていた。

 高等女学校に入ったが、三年で中退。さらに、残酷な戦争が、青春をめちゃくちゃにした。

 食糧難。経済苦。病苦。そして、地獄のような空襲――。

 「きょうも生きている。よくぞ生きのびることができた」

 「生きていること自体が不思議に思えるほど」の日々だったと、のちに多田さんはつづっている。

 なんとか生き残って、敗戦を迎えた。しかし今度は、柱と頼み、心の支えとしてきた最愛の母を、病気で亡くした。母を頼りに生きていた多田さんは、希望を失った。

 ――どうして、こんなに苦しまなければいけないのか。人間は、苦しむために生まれてきたのか。次々と襲いかかる宿命に、なすすべもなく翻弄され、若き多感な乙女は、いつしか人生に深く絶望していった。「道端に捨てられた、ボロ雑巾のような人生」とまで卑下していた。

 そうしたなか、職場の先輩に誘われて、東京・大田区の蒲田で、座談会に参加したのである。

 「だれでも必ず幸福になれる」という確信ある話と、皆が同じ目的を目指して生き生きと行動している姿に、強く心を動かされたという。

(つづく)

 

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