山本伸一

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2022年1月20日

第1870回

 孔子の弟子子路」

 

池田先生の弟子「山本伸一」の如し> 

 

 さて、この神奈川・横浜の地で、

 教育に尽力した近代日本の作家に、

 中島敦(一九〇九年〜四二年)がいる。

 (私立横浜高等女学校〈現在の横浜学園〉の教諭を務め、国語と英語を教えていた)

 

 中島敦の小説に『弟子』という名作があった。

 古代中国の思想家・孔子の

 門下「十哲」(十大弟子)の一人である

 「子路」が描かれている。

 (『李陵・山月記 弟子・名人伝』角川文庫。以下、同書から引用・参照)

 子路は、

 武勇にすぐれ、

 剛毅、実直であったうえに、

 最も孔子と心の通いあった弟子とされる。

 あえて、

 日蓮大聖人の門下になぞらえれば、

 四条金吾のような存在ではないか、

 という人もいる。

 

 ご存じのとおり、

 孔子は、祖国・魯においては

 人々から軽んじられ、侮られた。

 十年以上にわたって亡命生活を余儀なくされ、

 迫害と苦難の連続であった。

 そのなかで、

 弟子の子路ほど、

 喜んで師匠に仕え、

 付き従った者はないという。

 

 子路には、

 孔子の弟子となることによって、

 やがて偉くなろうとか、

 地位を得ようという、

 師匠を利用する名聞名利の心が、

 みじんもなかったからである。

 「死に至るまでかわらなかった・

 極端に求むる所の無い・

 純粋な敬愛の情だけが、

 この男を師のかたわらに引留めたのである」と、

 中島敦はつづっている。

 

 他の人々の目には、

 子路

 「利害」を度外視した純粋な生き方は、

 「一種の不可解な愚かさ」に映った。

 しかし、師匠・孔子だけは、

 この弟子の生き方の「無類の美点」を知り、

 だれよりも高く評価していたのである。

 

 一方では、

 子路ほど

 しかられる弟子もなかったという。

 それは、つねに、

 師匠に体当たりでぶつかっていったからである。

 「他の弟子たちのように、

 わらわれまい叱られまいと気を遣わない」。

 それが子路であった。

 

 自分が偉くなりたい。

 また、偉く見せたい。

 そのために、

 へつらったり、

 威張ったり、

 気取ったり。

 相手によって態度を変え、

 いつも他人の評判に右往左往する

 ーーそんな生き方では、

 あまりにもむなしい。

 そのような浮ついた心では、

 未来に残る仕事を成すことはできない。

 必ず行き詰まる。

 

 一度、「わが道」を決めたならば、

 人が何を言おうと、

 人がどう変わろうと、

 忍耐強く、

 誠実に、

 変わらずに「わが道」を進む。

 それが人間として偉大な生き方である。

 最後には勝つ。

 また、そういう人を登用していくべきである。

 何千何万の人生を見てきた私の結論である。

 

 子路にとって、

 「幾ら憤慨しても憤慨し足りない」ものがあった。

 それは、

 「邪が栄えて正が虐げられる」

 という世の姿である。

 

 子路は、

 わが師匠の苦難の連続に涙し、

 心からの怒りを発した。

 そして、断固として決心し、

 立ち上がっていくのである。

 

 子路の決心として、

 中島敦がつづった言葉には、

 神々しいまでの人間の輝きがある。

 

 「濁世のあらゆる侵害から

 この人(孔子)を守る楯となること。

 精神的には導かれ守られる代りに、

 世俗的な煩労汚辱はんろうおじょく

 一切己が身に引受けること。

 借越ながらこれが自分の務めだと思う。

 学も才も自分は

 後学の諸才人に劣るかも知れぬ。

 しかし、一旦事ある場合

 真先に夫子(孔子)のために

 生命をなげうって顧みぬのは

 誰よりも自分だ」

 

 弟子・子路は、

 師匠を誹謗し、ばかにする者たちには、

 憤然と反撃していった。

 孔子の悪口を言っていた者も、

 怒りに燃えた子路が姿を現すと、

 「顔色を失い、

 意味も無く子路の前に頭を下げてから

 人垣の背後に身を隠した」。

 

 孔子は、

 子路が門下に入ってからは

 「自分は悪言を耳にしなくなった」と語った。

 師匠・孔子が魯国の宰相に就いた時には、

 子路は、師匠の手足となって、

 いかなる困難な使命にも、

 「孔子の内政改革案の実行者として

  真先に活動した」。

 

 孔子にはほかにも、

 才能あり余る弟子たちがいた。

 しかし、

 彼らよりも、

 自分を飾ることなく、

 素直に、まっすぐに師匠を敬愛し、

 仕えた子路こそが、

 時代を超えた孔子の深い使命をつかんでいた

 ーーそう文人・中島教は結論している。

 

 2006年1月12日 神奈川・静岡合同協議会

 

2018年3月17日

第1496回

皆が“山本伸一”になるんです

 


 山本伸一は、言葉をついだ。
 「何かを成し遂げよう、改革していこうと思えば、必ず分厚い壁があり、矛盾に突き当たる。いや、現実は矛盾だらけだ。しかし、そのなかを、日々、聡明に、粘り強く、突き進むしかない。ましてや、世界広宣流布は、前人未到の新航路だ。困難だらけのなかでの建設です。頼れる人など、誰もいないと思い、一人立つのだ!
 皆が“山本伸一”になるんです。全員が、この自覚に立つならば、二十一世紀は、洋々たる希望の世紀となる。明日の県青年部総会は、その船出の集いにしよう」
 翌十四日付の「聖教新聞」には、二・三面見開きで、「秋田 “冬は必ず春”の誉れの友の吹雪舞」の大見出しが躍った。そして、それぞれの面に一枚ずつ、全面を使って、前日の記念撮影の写真が掲載されたのである。
 十四日は、雪が激しく降り続き、一日中、気温は氷点下であった。伸一は、秋田文化会館で、次々と功労者に贈る和歌を詠み、また、支部証を揮毫していった。瞬間瞬間が完全燃焼の日々であってこそ、人生は金色に輝く。
 さらに彼は、会館にやって来た、仙北郡の太田地域で初代地区部長を務めた小松田城亮と妻のミヨを励ました。
 「健康、長寿を祈っています。お二人が元気であることが、みんなの誇りになります。同志を見守ってあげてください」
 そして、伸一は、会館前にある公園の一角に、地元・山王支部などのメンバーがつくった「かまくら」へ向かった。「かまくら」は、横手地方などで行われてきた、小正月(旧暦の一月十五日)の伝統行事の名であり、その時に雪でつくる室を「かまくら」という。
 彼は、激励の揮毫をしていた時、窓から、降りしきる雪のなか、「かまくら」づくりに精を出しているメンバーの姿を目にした。“秋田の冬の風物詩を知ってほしい”と労作業に励む同志の、尊く、温かい心遣いに胸を打たれた。その真心に真心で応えたかった。

 

小説「新・人間革命」 勝ち鬨 八十三

 

2017年4月18日

あなたが山本伸一です

 

<師匠が表に出て動けないならば、
師に代わって立ち上がるのが弟子です>

 

 三台の撮影台を使って写真撮影が行われたが、長野研修道場は長蛇の列が途切れることはなかった。飯山、長野、上田から、穂高、松本から、塩尻、諏訪から、飯田、伊那から、続々と同志は集って来た。
 山本伸一は、記念撮影が終わるたび、皆に声をかけ、語り合い、何十人、何百人もの人と握手を交わした。
 記念撮影も終盤に入った時、日焼けした精悍な顔の青年が、感極まった声で語った。
 「先生! ありがとうございます! 私たち男子部は、断じて戦い、勝って、先生にお応えしていきます」
 伸一は、にっこり微笑むと、力を込めて語り始めた。
 「そうだ。師匠が表に出て動けないならば、師に代わって立ち上がるのが弟子です。私と会えなければ元気が出ない、勇気も湧かないというのであれば、真の師弟ではない。師をしのぐ果敢な実践をもって、広宣流布の未曾有の上げ潮をつくっていくんです。
 私が君たちを指導・激励し、全力を注いで育成してきたのは、こうした時のためです。
 今こそ、『私たちに任せてください! 弟子の戦いを見てください!』と胸を張り、私に代わって同志を励まし、元気づけていくのが師弟だ! 君たち一人ひとりが山本伸一なんだよ! 私は、肝心な時に力を発揮できないような弱虫を育ててきた覚えはありません。今こそ君たちが、学会を、それぞれの地域を担っていくんだ。その重要な時に感傷的になって、力を出せないことほど、情けない話はありません。
 それが、今の私の思いだ。魂の叫びです。頼んだよ!
 そこにいた青年たちの瞳が、決意に燃え輝いた。唇を嚙み締める人もいた。拳を握り締める人もいた。
 戸田城聖は、一九五四年(昭和二十九年)十月、彼のもとに集った一万人の青年に訴えた。
 「吾人は、前途多難に対して奮起を望むものである」(注)と。

 

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 「青年諸君に告ぐ」(『戸田城聖全集4』所収)聖教新聞社

 

〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 二十   2017年4月17日

2017年2月27日

勝負の時とは、

師匠が直接、指揮を執らなくなった時!

 

<皆が“伸一”になるんだ!>

 

 山本伸一は、記者団の質問に答えて、今後の自身の行動について語っていった。
 「学会としては、世界の平和をめざし、仏法を基調として、さらに幅広い平和運動、教育・文化運動等を展開していきます。私は、その活動に時間をあて、行動していきたいと考えています」
 伸一への質問は続いた。
 「会長交代によって、今後、学会と公明党の関係は変わりますか」
 記者たちの最大関心事は学会と政治との関係にあったようだ。伸一は微笑みながら、「それは、新会長に聞いてもらわないと。でも、これまでと同じでしょ?」と言って、隣の十条潔の顔をのぞき込んだ。
 十条は大きく頷いた。
 「やっぱり、同じですって」
 また、笑いが広がった。
 「これまで同様、学会が公明党の支援団体であることに変わりはないということです。公明党には、いちばん国民のために貢献していると言われる党に、さらに成長していっていただきたいというのが、私の願いです」
 彼は、すべての質問に、率直に答えた。
 午後八時前、記者会見は終わった。
 受付の女子職員が、心配そうな顔で伸一を見ていた。彼は、微笑を浮かべて言った。
 「大丈夫! 私は何も変わらないよ!」
 それから別室に移り、青年部幹部らと懇談した。彼は魂を注ぎ込む思いで訴えた。
 「私が、どんな状況に追い込まれようが、青年が本気になれば、未来は開かれていく。
 弟子が本当に勝負すべきは、日々、師匠に指導を受けながら戦っている時ではない。それは、いわば訓練期間だ。師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負だ。
 しかし、師が身を引くと、それをいいことに、わがまま放題になり、学会精神を忘れ去る人もいる。戸田先生が理事長を辞められた時もそうだった。君たちは、断じてそうなってはならない。私に代わって、さっそうと立ち上がるんだ! 皆が“伸一”になるんだ!

 

〈小説「新・人間革命」〉 大山 四十七   2017年2月27日

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.4.25

第2298回

 

日天月天ワンショット

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