登場人物(小説・人間革命、小説・新人間革命)

2021年11月11日(未掲載)

竹本君子

(松本支部)

登場期間

1958年8月16日~1960年11月11日

 

 (1960年)十一月十日、山本伸一は甲府から松本へと向かった。車窓に広がる紅葉を眺めながらの旅であった。

 松本駅には、支部の幹部たちが出迎えていた。

 「出迎えありがとう!」

 伸一は、笑顔を向けた。そして、一人の女子部員に語りかけた。

 「よく頑張ったね」

 彼女は竹本君子という、女子部の支部の中心者であった。二年前の一九五八年(昭和三十三年)の八月十六日、総務であった伸一が諏訪を訪れた折、激励した女子部員である。

 その時、伸一は、諏訪市民会館で行われた、文京支部を中心とした南信方面の大会に出席。終了後には、近くの旅館を借りて、幹部の指導会を行った。

 竹本は、当時、女子部の組長であった。組長というのは、女子部の場合、十人ほどのメンバーで構成される、最小単位の組織のリーダーである。この前日、東京にいる女子部の幹部から、伊那の彼女の家に手紙が届いた。そこには〝山本総務が諏訪の会合に出席するから、自分の部員に会ってもらうようにしてはどうか〟と記されていた。

 竹本も、山本総務といえば、事実上、学会のすべての責任を担っている人であることは、女子部の先輩幹部から聞いて知っていた。その山本総務が諏訪に来る機会など、これからも滅多にないにちがいない。そう思った彼女は、喜び勇んで、六人のメンバーを連れて、伊那を出発した。

 メンバーのなかには、ポリオ(小児マヒ)の後遺症で体の不自由な人や、結核に苦しむ人もいた。皆、生活も決して楽ではなかったし、家族のなかで、たった一人で信心をしている人がほとんどだった。

 諏訪までは、乗り換えも含め、列車で一時間余りであったが、病気や体の不自由な同志をいたわりながらの移動は、いたく彼女を疲れさせた。

 それでも、市民会館で山本総務の指導を聞くと、歓喜が込み上げてきた。そして、なんとしても総務に、メンバーと会ってもらおうとの思いがつのった。

 だが、会合が終わり、控室に駆けつけた時には、山本総務の姿はなかった。竹本は、役員に総務の行き先を尋ねた。そこで、学会員の経営する近くの旅館で行われる指導会に、伸一が向かったことを知った。時計を見ると、午後九時を回っていた。

 〝みんなの家庭の事情を考えると、もし、列車に乗り遅れ、この日のうちに帰れなければ、大変なことになってしまう。しかし、このチャンスを逃せば、山本総務とみんなが会える機会は、多分ないだろう……〟

 そう思うと、行かないわけにはいかなかった。

 竹本は、メンバーを連れて、幹部の指導会にやって来た。会場になった旅館の二階は人であふれていた。

 伸一が参加者の質問に答え、次の質問を受けようとすると、人垣の後ろから女性の叫ぶような声がした。

 「山本先生!」

 姿は見えないが、どこか必死な響きがあった。

 「どうしたの?」

 伸一が言った。

 「私の組の部員さんに会ってください」

 「お会いしましょう。連れていらっしゃい。みんな、道を開けてあげて!」

 人をかき分けて、体の不自由な友をかばいながら、竹本は伸一の前にやってきた。

 「よく来たね。みんなどこから来たの?」

 「伊那から、七人でまいりました」

 「あなたが女子部の組長さんだね」

 「はい!」

 「それじゃあ、あなたから、みんなを紹介してください」

 「はい! 私は、組長の竹本君子です。そして、ここにいるのが私の妹の達枝と申します。

その隣にいるのが……」

 彼女は、こう言うと、声を詰まらせた。目には涙があふれていた。自分が責任をもつ同志を伸一に会わせたい一心で、ここまで来たのだ。それが、実現できたと思うと、嬉しくて仕方なかったのである。

 「組長さんが泣いてしまったんでは、しょうがないな……。あとの人は自己紹介だね」

 ところが、皆、同じように喜びに震え、声にならなかった。

 伸一は、優しく竹本君子を見つめながら言った。

 「そんなに泣いてはいけないよ。あなたは女子部のリーダーじゃないか。それに、ぼくは、みんなの兄さんなんだよ。兄さんが来たんだから、安心して、なんでも相談しなさい」

 この言葉を聞くと、皆はますます肩を震わせて、泣きじゃくるのであった。

 伸一は、傍らにいた、女子部の幹部である高田カヨを見て言った。

 「そうだ! あの歌を歌ってあげよう。『人生の並木路』だよ」

 高田は、声楽の勉強をしている女性であった。

 そして、「人生の並木路」は、この年の夏季講習会で、皆で仲良く歌った歌であった。

 高田は、「はい!」と返事をすると、よく通る、澄んだ声で歌い始めた。

〽泣くな妹よ 妹よ泣くな

  泣けば幼い ふたりして

  故郷を捨てた 甲斐がない

 

 高田カヨが一番を歌い終わると、山本伸一は呼びかけた。

 「みんなで、一緒に歌おう!」

 伸一も歌いだした。竹本たちも歌い始めたが、声にならないメンバーもいた。

 

 〽遠いさびしい 日暮れの路で

  泣いて叱った 兄さんの

  ………… …………

 

 皆の歌声のなかで、伸一の力強い声が、一段と高らかに響き、彼女たちを包んでいった。

 〽生きてゆこうよ 希望に燃えて

  愛の口笛 高らかに

  この人生の 並木路 (作詞・佐藤惣之助)

 

 歌い終わっても、竹本たちは、まだ泣いていた。苦悩を抱え、悲しみをこらえて生きてきた乙女たちにとって、伸一のこの歌の励ましは、熱く心に染みた。

 伸一は高田を指さして、竹本君子に言った。

 「この人の歌はうまいでしょ。今度、女子部に合唱団をつくることになっている。この人には団長になって、頑張ってもらおうと思っているんだ。では、もう一度、みんなで、泣かないで歌おう」

 再び、「人生の並木路」の合唱が始まった。

 竹本たちも、目を赤く腫らしながら一緒に歌った。それは、美しき魂の合唱であった。

 「じゃあ、今度は『赤とんぼ』だ」

 伸一の提案で、次々と、数曲の歌が歌われた。

 同志を思う心が織り成す、ほのぼのとした調べが、乙女たちの胸に、希望を燃え上がらせていった。彼女たちの潤んだ瞳が、生き生きと輝き、口元には笑みが浮かんでいた。

 伸一は、七人の女子部員に視線を注ぎながら、優しく語りかけた。

 「やがて、人生の春は、必ずやって来る。今はどんなに辛く、苦しくとも、負けないで頑張ることだよ。ぼくは、あなたたちの成長を、いつまでも見守り、祈り続けるからね。

 それじゃあ、遅くなるといけないから、早くお帰りなさい。気をつけて……」

 会場をあとにした竹本たちは、天にも昇るような気持ちだった。彼女たちは、車中、互いに手を取り合い、人生の希望を語り合いながら帰路についたのである。

 山本伸一は、この諏訪での大会の翌日、初めて霧ケ峰高原を訪れた。緑の草原には、松虫草の薄紫の花が風に揺れ、彼方には北アルプスの峰々が連なっていた。

 伸一は、青年たちと語らい、散策し、馬にも乗ってみた。

 「いいところだね。戸田先生をお連れしたかった」

 彼は、つぶやくように言った。この時は、戸田城聖の逝去から四カ月余のことであり、彼が後継の若師子として、果敢なる信念の闘争を開始した時であった。

 また、多くの青年たちをここに連れて来てあげたいとも思った。美しく雄大なこの景観は、未来に伸びゆく若人の、新しき英気を養うにちがいないからだ。

 ──この思いは、彼が会長に就任した翌年にあたる一九六一年(昭和三十六年)七月、霧ケ峰高原での水滸会、華陽会の野外研修となって実現するのである。さらに、それから二十八年を経た八九年(平成元年)八月、ここに長野青年研修道場がオープンし、毎年、多くの青年が訪れ、大自然のなかで研修に勤しみ、心身をリフレッシュする場となっていく。

 伸一は、霧ケ峰高原では懇談会をもち、こう語った。

 「島崎藤村の小説『夜明け前』は、日本の明治の夜明けを意味していた。しかし、今、私たちが開こうとしているのは、東洋の、また、世界の夜明けだ。無名の民衆が、人類の歴史の新たな幕を開く戦いが広宣流布だよ……」

 そして、伸一は、色紙に揮毫し、友に贈った。

 皆を代表して、ある人には「限りなく 霧の高野に 遊びたる 同志の幸を 築き進まん」と。また、一人の地区部長には「大軍を 怒濤の如く 指揮ぞとれ 信濃の広布は 己が舞台と」と認めている。

 懇談会のあと、彼は松本に出て、ここでも座談会を開催したのである。

 

 伸一は、今、約二年ぶりに松本の地に立って、諏訪に自分を訪ねて来た竹本君子が、松本支部の女子部の中心者に育っていたことが嬉しくてならなかった。

 また、伸一を迎えた男子部の中心者は、勝田源治という青年であった。彼とも二年前に、この松本で会っていた。温厚で実直な人柄である。その時、伸一は、色紙に「勇気」と書いて贈り、彼の健闘に期待を寄せた。その彼も、一段と成長した姿で迎えてくれたのだ。

 伸びゆくものは美しい。育ちゆく青年には、希望の輝きがある。

 松本支部の結成大会は、十日、午後五時過ぎから、松本市郊外の会場で開催された。

 紅葉に染まる信濃の山々を越え、集って来た一万人余の友で、場外もぎっしりと人で埋まった。

 風は冷たく、肌に染みたが、メンバーは意気軒昂であった。

 男子部の勝田源治の抱負には、簡潔ななかにも、力強い決意が脈動していた。

 「いよいよ大前進の朝が到来しました。我ら男子部は、今、栄えある広布の旗を掲げ、勇気と確信の大闘争を展開してまいります!」

 わずか二年間で、勝田は目を見張るばかりの青年リーダーに成長していた。伸一は、その凜々しき横顔を見ながら、松本支部の飛躍を信じた。

 この集いで伸一は、学会は御本尊が根本であることを述べ、功徳に輝く生活の姿こそ、「論より証拠」であり、仏法の正しさの証明であることを訴えた。

 彼が支部結成大会と地区幹部の指導会を終えてホテルに帰ると、支部の幹部が訪ねて来た。勝田も、竹本君子もいた。

 彼は、竹本に家庭の様子を尋ねた。父親は事業に失敗し、一年ほど前に信心を始めたが、家族と別居していた。

 「そうか……、大変なんだね。今度、お父さんとお会いしましょう。大切な娘さんを、お預かりしているんだもの」

 竹本は耳を疑った。父親は、入会したとはいえ、まだ勤行さえしていない状態である。その父が山本会長と会うなど、考えもしなかったことである。

 「本当ですか! お願いいたします」

 人材を育むには、本人だけでなく、その人の環境をも考慮し、さまざまな応援をしていくことが大切である。また、それが指導者の責務でもある。

 それから伸一は、男子部の勝田に言った。

 「まず、勝負は三カ月だよ。男子部のリーダーとして法旗を手にした以上、全国一の戦いをしてみせるぞという、気概がなくてはならない。日本中の男子部員から〝長野に勝田あり〟と言われるようになるんだ」

 「はい!」

 力強い返事だった。

 勝田は、その夜、男子部の旗を仏壇の脇に飾り、〝一人立つ〟決意を込めて、真剣に唱題した。そして、三カ月後の松本支部の男子部の総会には、精鋭一千人を結集し、それまでに、二百世帯を超す折伏を成し遂げたのである。彼は口先だけの観念の人ではなかった。実践の闘将であった。

 翌日、山本伸一は、長野支部の結成大会に出席するため、松本から長野に向かうことになっていた。

 松本駅には、十人ほどの代表が見送りに来ていた。そのなかに、父親を連れた竹本君子の姿もあった。竹本は、伸一のところへやってくると、父親を紹介した。

 伸一は、丁重にあいさつした。

 「いつも、お世話になっております。私が会長の山本です」

 彼は、こう言って、手を差し出し、父親と固い握手を交わした。ほどなく、列車がホームに入ってきた。

「お父さん、長野までご一緒にいかがですか。切符はありますから」

 車中は、伸一と竹本の父親との語らいの場となった。彼女は、夢を見ているような思いがしてならなかった。

 「立派な娘さんです。これから娘さんは、学会の女子部のリーダーとして、私どもが責任をもって育ててまいります」

 それを聞くと、彼女は胸が熱くなった。父親は、緊張した様子で答えた。

 「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」

 娘を嫁がせる時のような口調である。

 伸一は、父親に、ミカンや飲み物を勧めながら、仕事や健康の状態などを尋ねると、諄々と信心の在り方を語っていった。

 「事業には失敗しても、人生に負けたわけではありません。信心さえ貫いていくならば、最後は必ず人生の勝利者になります。焦らずに、着実に、信心を磨いていくことです」

 伸一と言葉を交わすうちに、父親の顔は次第に精彩を帯びていった。その光景を見つめる娘に、涙があふれた。

 ──竹本の父親は、この日を契機に勤行を始めた。そして、娘の学会活動のためには、どんな協力も惜しまなかった。

 「私は山本先生と約束したのだ!」──それが父親の口癖となったのである。

 

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 217頁~230頁

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