立正安国

2021年10月27日

第1760回

立正安国と政治

 

<「立正(人間革命)」即「安国(平和と幸福)」>

 

 「立正」とは「正を立てる」、すなわち仏法の「生命の尊厳」と「慈悲」という人道の哲理の流布であり、仏法者の宗教的使命といってよい。また、個人に即していえば、自らの慈悲の生命を開拓し、人道を規範として確立していく人間自身の革命を意味している。

 創造の主体である人間の生命が変革されるならば、その波動は社会に広がり、人間を取り巻くあらゆる環境に及んでいく。そして、政治に限らず、教育、文化、経済も、人類の幸福と平和のためのものとなり、「安国」すなわち「国を安んずる」ことができよう。

 それは、ちょうど、一本の大河の流れが、大地を潤し、沃野と化した大地に、草木が豊かに繁茂していくことに似ている。仏法は大河、人間は大地であり、草木が平和、文化にあたる。

 日蓮仏法の本義は、「立正安国」にある。大聖人は民衆の苦悩をわが苦とされ、幸福と平和の実現のために、正法の旗を掲げ、広宣流布に立たれた。つまり、眼前に展開される現実の不幸をなくすことが、大聖人の目的であられた。それは、「立正」という宗教的使命は、「安国」という人間的・社会的使命の成就をもって完結することを示していた。そこに仏法者と、政治を含む、教育、文化、経済など、現実社会の営みとの避け難い接点がある。

 しかし、それは、政治の場に、直接、宗教をもち込んだり、政治権力に宗教がくみすることでは決してない。宗教は、人間を鍛え、人格を磨き高め、社会建設の使命に目覚めた人材を育み、輩出する土壌である。

 ゆえに学会は、全国民のために政治を任せるに足る人格高潔な人材を推薦し、政界に送り出すことはしたが、学会として、直接、政策などに関与することはなかった。

 新安保条約をめぐって、学会が推薦した参議院議員が、伸一に政策の決定について相談をもちかけると、彼は、きっぱりと言った。

 「それは、あなたたちが悩み、考え、国民のために決めるべき問題です。私の思いは、ただ全民衆のため、平和のために、戦ってほしいということだけです

 伸一の願いは、どこまでも民衆の幸福と平和にあった。そのために、社会の各分野に、どこまでも民衆のために戦う力ある人材を育て、送り出すことに、心を砕いていたのである。

 

<新・人間革命> 第2巻 先駆 41頁~43頁

2020年5月4日

 

第1665回

立正安国

 

 

 青年部は、七月三十一日の男子部幹部会、八月一日の女子部幹部会をもって、勇躍、八月度へのスタートを切った。

 この男子部幹部会で、男子部は部員三十万を突破したことが発表された。

 女子部幹部会の翌日にあたる八月二日から十日にかけて、総本山大石寺で、恒例の夏季講習会が、四期に分かれて行われた。

 山本伸一は、今回の講習会では、日蓮大聖人の重書中の重書である「立正安国論」を中心に、御書講義をすることになっていた。

 彼が、そう決めたのは、七月初旬のことであった。

 学会が二百万世帯を達成したことから、ここで、立正安国という仏法者の目的と使命を、再確認しておきたかったのである。

 「立正」とは「正を立てる」、つまり、正法の流布であり、生命の尊厳、人間の尊重という哲理を、人びとの胸中に確立し、社会の基本原理としていくことといってよい。そして、その目的は「安国」、すなわち「国を安んずる」ことであり、社会の繁栄と平和にほかならない。

 創価学会の使命は、日蓮大聖人が示された、この立正安国の実現にある。

 宗教が、現実社会の人間の苦悩の解決から目を背けるならば、もはや、それは宗教の死といえる。

 敗戦の焼け野原に、広宣流布の旗を掲げて一人立った戸田城聖の願いも、悲嘆に暮れる民衆に、永遠の幸福と平和の光を注ぐことにあった。

 また、伸一が、会長に就任して以来、日々、祈り念じてきたことも、世界の平和であり、大地震などの災害がなくなり、穀物が豊作になることであった。

 そして、戸田も、伸一も、社会の繁栄と平和のために、何をなすべきか、何ができるのかを、常に問い、考え続けてきた。

 戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を行い、たとえ戦争に勝ったとしても、原水爆を使用するものはサタンであると断じ、この思想を世界に広めることを青年たちに託したのも、その思索の結果であった。

 更に、同志のなかから有為な人材を、地方議会、参議院に送り出したのも、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの生活を向上させ、日本という国の、恒久平和の道を開くためであった

 今後、学会が、社会のため、平和のために、着手すべき課題は、ますます増え続けていくに違いない。

 その時、立正安国の原理を正しく理解できずにいれば、混乱を生じかねないことを憂慮し、伸一は、今回の夏季講習会で、「立正安国論」を講義することにしたのである。

 

 夏季講習会を前にして、山本伸一は、寸暇をさいて「立正安国論」の研鑽に励んできた

 ある時は、学会本部の執務室で、ある時は、深夜の自宅で、また、ある時は、旅先の宿舎で、御書を拝しては思索を重ねた。

 「立正安国論」は、これまでに、何度となく学んだ御書であった。しかし、伸一は、新たな気持ちで、御述作の由来から、丹念に研鑽していった。

 「立正安国論奥書」には「正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る」とあり、正嘉元年(一二五七年)八月二十三日の夜、鎌倉一帯を襲った大地震を見て、「立正安国論」を著されるに至ったことが記されている

 大聖人が、この地震に遭遇されたのは三十六歳。鎌倉の松葉ケ谷の草庵におられたころであった。

 四年前の建長五年(一二五三年)の立教開宗以来、地頭に命を狙われ、故郷の安房の国を追われた大聖人は、政都・鎌倉に出て、ここで広宣流布の旗を掲げられていたのである。

 このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。

 『吾妻鏡』などの記録によれば、この年から文応元年(一二六〇年)までの四年間に限っても、数々の天変地夭が起こっている。

 この正嘉元年の八月の大地震の後も、余震は長く続き、十一月にも、再び大地震が起こる

 翌正嘉二年(一二五八年)六月には、真冬のような冷え込みが続き、八月には、鎌倉に大風京都に暴風雨が襲い、穀類に大被害が出る。そして、十月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。

 更に、疫病が流行し諸国に大飢饉が広がっていった。

 正嘉三年の三月、災いを転じようと改元が行われ、「正元」となるが、疫病は年が明けても終息せず、四月には、また、改元され、「文応」となる。しかし、その四月に鎌倉で大火があり、六月には大風と洪水が起こっている。

 大聖人は、鎌倉にあって、地震による避難民などの悲惨な姿に接し、胸を痛めてきた。

 飢えに苦しみ、傷ついた体で、あてもなくさまよう人。泣き叫ぶ子供。乳飲み子を抱え、途方に暮れる母親……。

 路上に倒れても助ける人さえなく、夥しい「死」が眼前に横たわっていた。

 幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈などを命じていたが、なんの効果もなかった。

 

 ″なぜ、これほど苦しまなければならないのか?″

 それが、人びとの共通の思いであった。しかし、それに答えられる人は、誰もいなかった。

 この地獄絵さながらの事態を、いかに転換していくか、日蓮大聖人は、悩み、考え抜かれたに違いない。

 山本伸一は、御書を拝しながら、大聖人の御姿を思い描いた。民衆の苦悩を目の当たりにし、ともに悩み、苦しむ、大聖人の御振る舞いが、彼の胸に、ありありと浮かんだ。

 ──正嘉二年(一二五八年)ごろ、鎌倉から駿河に向かう、一人の僧がいた。

 彼の目は、深い憂いをたたえていた。日蓮である。

 彼は、天台宗の寺院である、岩本実相寺を訪ねた。そこには、一切経が整えられていた。

 日蓮は、この寺の経蔵で一切経をひもとき、人間の根本をなす宗教の乱れに、天変地夭、飢饉疫癘の根本原因があることを、経文のうえからも、また、道理のうえからも、明らかにしようと心に決めていた

 経蔵に篭ると、彼は、来る日も、来る日も、一心に経典に眼を注いだ。

 大集経を手にした時、日蓮の目は、鋭く光った。そこには、仏法が隠没した時に起こる、天変地夭などの様相が克明に書かれてあった。それは、ことごとく、正嘉の大地震以来の世の中の姿に符合していた。

 ″この通りだ!″

 「仏法の隠没」は、日蓮自身、最も痛感し、憂慮してきたことであった。

 仏教各派の寺院は、鎌倉にあっても甍を連ね、むしろ、ますます隆昌を誇っているかに見えた。しかし、釈尊が説こうとした、真実の仏法も、その精神も、もはや、そこにはなかった。

 経文には、何が釈尊の真実の法かは明瞭である。

 たとえば、法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」(四十余年には未だ真実を顕さず)とある。

 釈尊の五十年の説法のうち、前の四十余年の説法は爾前権教の教えであり、真実を顕していないことが明言されているのだ。

 なぜなら、法華経が生命の真実の姿、全体像を説いているのに対して、法華経以前の教えは、譬えなどによって示した仮の教えであり、生命の部分観を説いたにすぎないからである。

 そして、法華経の譬喩品には「不受余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)とある。根本となるべき教えは、どこまでも法華経であるとの御指南である。

 

 当時、仏教界には、天台、倶舎、成実、律、法相、三論、華厳、真言の八宗があり、更に、新興の宗派として念仏や禅があった。

 このうち、天台宗のほかは、爾前権教の経典を拠り所としていた。また、法華経を根本としていた天台宗さえも、伝教亡き後、真言密教や念仏に染まり、本来の釈尊の教えに背いて久しかったのである。

 譬えや部分観でしかない教えに執着し、それが全体像であり、真実であると信じればどうなるか。

 たとえば、虎の尻尾を見て、これが虎というものかと思い、無防備に近づいていけば、襲われてしまうことになろう。

 それゆえに、日蓮は、建長五年(一二五三年)四月二十八日の立教開宗以来、そうした諸宗の、教えの誤りを指摘してきたのである。

 このころ、民衆の間に、最も浸透していたのは、法然の浄土宗であったが、これは爾前権教の浄土三部経をもととしていた。

 法然は、娑婆世界は穢土であり、ただ、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることによって、死んだ後に、阿弥陀仏のいる西方極楽世界に生まれることができると説いた。そして、浄土宗の依経である浄土三部経以外の、法華経をはじめとするいっさいの諸経を否定したのである。

 釈尊が阿弥陀仏の西方極楽世界等、他の世界に仏土があると説いたのは、方便であり、譬えであった。娑婆世界の苦悩に沈む人びとを励ますために、仮に彼方の世界の話として、仏国土を描いたのである。

 釈尊の真意は、この娑婆世界こそ、本来、浄土であると示すことにあった。娑婆即寂光土であり、衆生の心が汚れていれば、住む世界も穢土となり、心が清浄であるならば浄土となる。衆生の一念の転換によって、この娑婆世界に浄土を現出させることができるのである。それを説き示したのが法華経であった。

 彼方の世界に救いを求める、念仏の教えは、穢土である現実社会への諦めと無気力と逃避をもたらしていくことになる。

 しかも、天変地夭、飢饉疫癘の相次ぐ、物情騒然たる世相である。この念仏の思想に、一種の終末観として広まっていた末法思想が重なり、人びとの不安や絶望は深まっていった。

 まさに、「念仏の哀音」といわれるように、その厭世的な響きは、疲れ切った人心を、ますます衰弱化させていったのである。

 

 日蓮は、岩本実相寺で、寝食を忘れ、経文を次々と精読していった。

 それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。

 人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。

 ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。

 それは、当然、人間の営みである社会に、争いや混乱、停滞を招いていくことになる。

 更に、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも、必ず波及していく本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連し合っていると教えているのが仏法である。

 人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にない──それが日蓮の結論であった。

 しかも、経文に照らして見れば、三災七難のうち、更に、まだ、起こっていない、内乱を意味する自界叛逆難と、他国の襲来をさす他国侵逼難が競い起こることは間違いなかった。

 思えば、他宗の僧らも、これらの経文を目にしていたはずである。しかし、彼らは、そこに、世の中の不幸の根本原因を探り当てることはできなかった。

 それは、既に、彼らが、経文を根幹とすることもなければ、民衆の苦悩を直視し、その解決の道を探ろうとする姿勢も失っていたことを裏付けている。

 当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。

 そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなかった

 つまり、本来、宗教的信念も、信条も異なる者同士が、互いに馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていたのである。もはや、民衆の救済という宗教の大使命は、全く忘れられていた。

 また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に癒着していたのである。

 

 日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、時頼の側近である宿屋入道を通して、この書を上呈した。文応元年(一二六〇年)の七月十六日のことである。

 時頼は、寛元四年(一二四六年)、二十歳で執権になると、次々に敵対者を退け、北条家の権力を固めていった。だが、一方では、政道を模索し、武士の綱紀粛正を進めていた。

 また、禅を信奉し、三十歳の若さで、病気を理由に執権職を譲って入道すると、臨済宗の最明寺に退いてしまった。

 だが、彼の威光は、衰えることなく、幕府内に隠然たる影響力をもっていたのである。しかも、正嘉の大地震以来、打ち続く災害、飢饉、疫病を、為政者として深刻に受け止めていた。

 彼は、ある時、こう嘆いたと言われる。

 「……政道に誤りがあるのか。政治に私心があるからであろうか。天が怒り、地が恨むような過ちがどこにあるのか。いかなる罪のゆえに、これほど民が苦しまねばならないのか

 日蓮は、時頼のこの嘆きを、人づてに聞いていたであろう。また、「立正安国論」を上呈する以前にも、時頼と対面して、話もしていた。

 こうした経緯から、日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。

 「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。

 「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり……

 <旅客が来て嘆いて言うには、近年から近日にいたるまで、天変や地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬は街の通りに死んでおり、その骸骨が路上に満ちている……>

 この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。

 日蓮は、同書で「くに」を表現する際に、「国構え」に「玉(王の意)」と書く「国」や、「或(戈を手にして国境と土地を守る意)」と書く「國」という字よりも、主に「国構え」に「民」と書く「■」の字を用いた。

 現存する御真筆では、「くに」を表す全七十一文字のうち、約八割に当たる五十六文字に、「■」が使われている。

 そこには、「民」に、より重きを置く考え方が、象徴的に表れているといえよう。

 

 「立正安国論」で、日蓮は、世の中の惨状を嘆く客と、仏法を奉ずる主人との問答形式を用いた。

 それは、正法流布と言っても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の、条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。

 日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。更に、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、″民のための政治″を行っていくことを願ってのことであった。

 日蓮は、決して、幕府の庇護を求めようとしていたのではない。

 たとえば、幕府は、日蓮の佐渡流罪の後、彼の予言した他国侵逼の難が現実となりつつあることに恐れをいだき、御堂の寄進を条件に国家安泰の祈願を依頼してきた。しかし、この時、彼は厳然と、それを断っている

 もし、権力に与(くみ)することを考えるなら、この幕府の依頼は、またとない好機であったといってよい。

 また、「立正安国論」には次のような記述もある。

 ──天下の泰平を願うならば、国中の謗法を断絶しなければならないとの、主人の言葉に、客は、謗法を犯し、仏法の戒めに違背する人びと、すなわち、他宗の僧らを斬罪にしなければならないのか、と尋ねる。

 その問いに対して、主人は「布施を止める」ことであると答えている。

 それは、念仏や禅などへの幕府の保護をやめさせ、国家権力とそれらの宗教との癒着を断とうとするものといえる。その意味では、現代的な視点でとらえるならば、″政教分離″に通ずる考え方であると見ることもできよう。

 日蓮は、国家権力の威光によって、宗教の盛衰が左右されることを拒否したのだ。そのうえで宗教対宗教の法論、対話によって、教えの正邪を決して、正法を流布しようとしていたのである。

 もし、宗教が権力の庇護を求めるなら、宗教の堕落以外の何ものでもない。

 また、この書のなかで、日蓮は、誤った教えを断絶しなければ、三災七難のうち、まだ現れていない自界叛逆と他国侵逼の二難が必ず起こるであろうと述べている。

 しかし、それは、単に、未来の終末を占うといった類いの予言ではない。経文を通して生命の法理を洞察し、導き出された、深き知恵の発露であった。

 そして、何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。

 

 「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。

 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ

 <あなたは、早く信仰の寸心を改めて、速やかに、実乗の一善である、真実の法に帰依しなさい>

 不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か。日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。

 「実乗の一善」とは、実大乗教たる法華経であり、一切衆生は本来、仏なりと教える、最高の人間尊厳の大法である。そして、一人一人の人間が、この妙法に則って、胸中の仏の生命を開いていく時、その人の住む場所も、仏国土と輝いていくのである。

 つまり、時代、社会の創造の主体である、一人一人の人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。

 そして、その原理を説き明かしたのが、この「立正安国論」であった。

 衆生に仏を見る仏法は、すべての人間に絶対の尊厳性と無限の可能性を見いだす。それは、揺るがざる民主の基盤を形成する哲理となるに違いない。

 また、自らに内在する仏の生命を顕していくということは、他者への慈悲の心を育むことでもある。

 いわば、「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。

 ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。

 ところで、「立正安国論」は、北条時頼のもとに届けられはしたが、時頼はそれを黙殺してしまった。

 一説によれば、「立正安国論」を時頼が手にしたところ、周囲の者が、日蓮は慢心し、他を軽んじ、一宗を興そうとして、この書を書いたものであると告げたことから、放置されたともいわれている。

 いずれにしても、時頼は日蓮の主張に、真摯に耳を傾けることはなかった

 しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられた。

 鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。

 そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。

 日蓮の身に、危険が迫りつつあった。

 

 日蓮は、「立正安国論」を北条時頼に上呈すれば、激しい迫害にさらされることは十分に予測していた。

 しかし、彼は、大難を覚悟で、この書を上呈し、国主を諫暁したのである。

 それは、民衆の苦しみをわが苦とする、同苦ゆえの行動であった。

 真実の同苦は、ただ、苦悩を分かち合い、ともに嘆き悲しむことだけでは終わらない。また、単に、同情と慰めの言葉だけに終わるものでもない。

 まことの同苦の人には、人びとの苦悩の解決のための果敢な行動がある。慈悲から発する、何ものをも恐れぬ勇気がある。そして、不屈の信念の持続がある。

 この「立正安国論」の上呈から四十日が過ぎた、八月二十七日の夜のことである。鎌倉の松葉ケ谷にあった日の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。

 松葉ケ谷の法難である。

 日の予測は現実となった。それは、彼の、本格的な迫害につぐ迫害の人生の始まりであった。

 

 山本伸一は、「立正安国論」を拝しながら、深い感動を覚えた。

 この一九六一年(昭和三十六年)という年も、自然災害や疫病が猛威をふるった年でもあった。

 五月末には、台風四号の影響によるフェーン現象のため、東北・北海道で火災が発した。

 更に、梅雨期に入ると、六月二十四日から一週間以上にわたって、豪雨に見舞われた。長野県の伊方面をはじめ、本州、四国で大きな被害が出て、死者・行方不明者は、全国で三百五十人を超えた。

 また、当時、ポリオ(小児マヒ)が大流行し、幼い子を持つ親たちを、恐怖に陥れていた。

 ソ連などには、ポリオに効く生ワクチンがあり、既に、前年、ソ連から日本に十万人分の寄贈の話が進んでいたが、日本政府は、それにストップをかけた。

 そこには、反ソ的な政治勢力の意向や、法律(薬事法)をタテにした硬直した役所の姿勢、自社の薬が売れなくなることを恐れた一部の製薬会社の反対などもあったようだ。

 国民の生命よりも、国家の立場や権威、企業の利害が優先されていたのだ。

 しかし、子供たちを救おうと、生ワクチンを求める人びとの声は、国民運動となって広がった。

 その民衆の力の前に、ようやく政府は重い腰を上げ、生ワクチン千三百万人分の緊急輸入を決定。この年の七月、カナダから三百万人分、ソ連からは実に一千万人分の生ワクチンが届けられたのである。

 

 国際情勢を見ても、東西冷戦の暗雲が影を落とし、世界のあちこちで、対立と分断のキナ臭い硝煙が漂っていた。

 四月には、社会主義化を進めるキューバに危機感をいだいたアメリカが、亡命キューバ人部隊を後押しして軍事侵攻を企て、あえなく失敗する事件があった。

 いわゆる″キューバ侵攻事件″である。アメリカの前政権が計画していたものとはいえ、平和への希望を担って登場したケネディ新政権は、初めて、国際的な批判を浴びることになる。

 また、インドシナ半島のラオスでは、アメリカの支援を受けた右派、そして、中立派、左派の三派が入り乱れての内戦状態にあった。五月ごろから、ようやく、停戦と連合政権の樹立へ向けて、具体的な交渉が進められるが、その後も混乱は収まらなかった。

 更に、北緯一七度線を境にして、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されたベトナムでも、統合への民衆の素朴な願いをよそに、対立のは、一層、深まろうとしていた。

 アジアの共産主義化を恐れるアメリカは、南ベトナムを支援する一方、北ベトナムと南ベトナム国内の共産主義勢力の排除に腐心してきた。前年末に結成された南ベトナム解放民族戦線に対しても、アメリカは″北からの侵略″と敵視し、一段と南ベトナム政府への軍事援助を強めていくことになる。

 こうして世界が激動を続けるなか、六月の三日、四日の両日、ケネディが大統領に就任して以来、初の米ソ首脳会談がオーストリアのウィーンで開催された。世界の目は、東西の緊張緩和への期待をもって、この会談に注がれた。

 四十四歳の若き力にあふれたケネディと、六十七歳の熟達した手腕のフルシチョフは、白熱した議論を展開した。

 しかし、ベルリン問題、核実験停止の問題で、フルシチョフが強硬姿勢を崩さなかったこともあり、両国の対立を浮き彫りにする結果に終わった。

 山本伸一は、混迷する世界の動向に、切実な思いをいだいていた。

 立正安国の「国」とは、単に一国に限ったものではない。一閻浮提であり、現代でいえば、広く世界を指すものといえる。

 その世界に、恒久平和の楽園を築き上げるために、人間主義の哲学をもって、人びとの生命の大地を耕していくことが、立正安国の実践であり、そこに創価学会の使命がある。

 彼は、それを、この夏季講習会で、訴え抜いていかねばならないと決心した。

 

 夏の講習会が始まった。

 その中心となったのが、山本伸一の「立正安国論」講義であった。

 講義の範囲は、御書の三十ページ十六行目の「主人の云く、客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか……」から、本文の最後までであった。「立正安国論」の結論部分である。

 総本山の大講堂に集った参加者に、伸一は、気迫と情熱を込めて、講義していった。

 「立正安国とは、わかりやすく言えば、ヒューマニズムの哲理を根本に、一人一人が自らの人間革命を行い、社会の繁栄と、世界の平和を創造する主体者となっていくということです。

 大聖人の御一代の弘法は『立正安国論に始まり、立正安国論に終わる』と言われております。

 大聖人が、この『立正安国論』をお認めになった目的は、地震や洪水、飢餓、疫病などに苦しみ喘ぐ、民衆の救済にありました。

 そして、そのために、まことの人間の道を説く、仏法という生命の哲理を流布し、人間自身の革命を目指されたのです。つまり、一人一人の悪の心を滅し、善の心を生じさせ、知恵の眼を開かせて、利己から利他へ、破壊から創造へと、人間の一念を転換する戦いを起こされた。

 なぜなら、人間こそが、いっさいの根本であるからです。肥沃な大地には、草木が繁茂する。同様に、人間の生命の大地が耕されれば、そこには、平和、文化の豊かな実りが生まれるからであります……」

 彼は、初めに「立正安国論」の概要について語った後、御文に即して、講義していった。

 仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」の個所では、三災七難の原因について論じた。

 「鬼神というのは、目に見えない超自然的な働きをもつものですが、現代的に言えば、思想も、その一つといえます。

 つまり、国土、社会が乱れる時には、まず、思想の乱れが生じていきます。そして、この思想の混乱が、人びとの生命をみ、意識や思考を歪め、それが、社会の混乱をもたらす原因となっていくのです。

 たとえば、人びとが、利己主義に陥って、私利私欲のみを追い求め、刹那主義や快楽主義などに走れば、当然、社会は荒廃していってしまう。

 また、別の例をあげれば、ドイツの独裁者ヒトラーの、ナチズムという思想に、人びとが狂わされてしまった悲惨な結果が、あのナチスによる侵略戦争であり、大量殺戮でした」

 

 山本伸一は、流れ出る汗を拭おうともせずに、講義を続けた。

 「社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に、皆が心を奪われていくことにあります。

 現在、日本にあっては、昨年の新安保条約の成立以来、政治不信、政治離れが起こり、人びとの関心は、経済に向かっている。

 確かに、党利党略に終始し、実力行使や強行採決など、議会制民主主義を踏みにじる現在の政治を見ていれば、国民が失望し、不信をいだくのも当然かもしれない。それも、政治家が民衆の幸福を、人間という原点を忘れているからです。

 しかし、だからといって国民が政治に無関心になって、監視を怠れば、政治の腐敗は更に進んでいく。

 また、人間を忘れた経済も冷酷です。ただ利潤第一主義、経済第一主義に走れば、社会はどうなるか。豊かにはなっても、人心はすさみ、自然環境の破壊も起こり、結局、人びとが苦しむことになります。

 科学の世界にあっても、科学万能主義に陥れば、その進歩は、かえって、人間性を奪い、人間を脅かすものになっていきます。

 ヒューマニズムに帰れ─これが、現代的に言えば日蓮大聖人の主張です。そして、政治や経済、科学に限らず、教育も、芸術も、社会のすべての営みを、人間の幸福のために生かしていく原理が、立正安国なのであります

 更に、伸一は「須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」の御文では、仏法者の社会的使命について論じていった。四表とは、東西南北の四方であり、社会をさす。

 「この意味は、『当然のこととして、一身の安堵、つまり、個人の安泰を願うならば、まず、四表、すなわち、社会の安定、平和を祈るべきである』ということです。

 ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。

 自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。

 社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。本当の意味での人間のための宗教ではありません。

 ところが、日本にあっては、それが宗教であるかのような認識がある。宗教が権力によって、骨抜きにされてきたからです

 

 参加者の目は、求道に燃えていた。

 山本伸一は、更に、講義を続け、こう訴えた。

 「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人一人の生命の変革による″個″の確立にあります。

 そして、社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるをえない。

 創価学会の目的は、この『立正安国論』に示されているように、平和な社会の実現にあります。この地上から、戦争を、貧困を、飢餓を、病苦を、差別を、あらゆる″悲惨″の二字を根絶していくことが、私たちの使命なのです。

 そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては、夢物語であり、観念です。

 具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。

 また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人一人が政治を監視していくことも必要です。

 しかし、その場合も、学会の役割は、誕生のための母体であって、それぞれの機関などが、主体的に活動を展開していかなくてはならない。その目的は、教団のためといった偏狭なものではなく、民衆の幸福と世界の平和の実現です。

 また、そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。

 根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。

 更に、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです」

 伸一の講義を通し、各地から集った講習会の参加者は、仏法者の社会的使命に目覚めていった。それは、社会の平和建設への自覚を促し、新たな前進の活力をもたらしたのである。

 八月三十日には、東京体育館で本部幹部会が行われた。その席上、発表された八月度の本尊流布は、なんと八万七百二十五世帯であった。学会始まって以来の成果である。

 

新・人間革命 4巻 立正安国

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.4.25

第2298回

 

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