魔(悪)

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2023年8月30日

第2241回

魔は

幹部の不祥事、退転、反逆

のかたちで永遠に現れ続ける

 

三沢抄」には、

 第六天の魔王が、

 法華経の行者を悩ませるために、

 自分の眷属に次のように命令したと仰せである。

 

「かれが弟子だんな並に

 国土の人の心の内に

 入りかわりて・

 あるひはいさめ

 或はをどしてみよ」(新2011、全1488㌻)

 

 つまり、弟子檀那の心のなかに入って、

 仏子を惑わし、

 広宣流布の前進をとどめさせよというのである。

 それは、人びとの意表を突き、

 不信をいだかせるのに、

 極めて効果のある、魔の現れ方といえよう。

 

 ゆえに、

 広宣流布が魔軍と仏の軍との戦いである限り、

 魔は、幹部の不祥事、退転、反逆というかたちとなって、

 永遠に現れ続けるにちがいない。

 

 だが、何も恐れるには足りない。

 魔は魔であると見破った時に、

 打ち破ることができるからである。

 

 要は、現象に惑わされるのではなく、

 ”信心の眼”を開き、御書に立ち返ることだ。

 一見、複雑そうに見える問題も、

 ”信心の眼”で見るならば、

 すべては明瞭である。

 

 <新・人間革命> 第8巻 清流 271~272頁

 


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2022年12月24日~26日

第2165回

だから戦うのである

 

悪徳と戦い、その根を切らねばならない

 

 スウェーデンの作家ストリンドベリは、

ひどい目にあわされた方が黙っていると、

 悪漢の方が正しいことになってしまうのである

 (『戯曲論』千田是也訳、早川書房)と述べている。

 

 だから戦うのである。

 ひどい目にあった場合、

 断じて黙っていてはならない。

 学会もこの精神である。

 大聖人の教えとも共鳴する。

 

 古代ローマの哲学者セネカは、

悪徳はすべて、

 それが起こったときに押し潰してしまわないと、

 その根を深く下ろします

 (『道徳論集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)と指摘した。

 

2005.12.8第五十五回本部幹部会、全国青年部幹部会


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2022年9月28日29日

第2115回

悪の前での中立は

悪への加担になる!

 

正しいと思ったことは

正々堂々と主張せよ>

 

 私が会談したイギリスの

 歴史学者トインビー博士も、

 生涯、戦い続けた人であった。

 もったいなくも博士のほうから、

 一度会って話がしたいと、

 お手紙をくださり、

 私がロンドンの博士のご自宅にうかがったのである。

 (一九七二年と七三年の二度、計四十時間にわたり会見)

 

 博士は、四十歳も若い私を、

 まるで旧友のように親しく迎えてくださった。

 語らいは、和やかな雰囲気のなかで始まった。

 しかし、

 難解な問題にさしかかると、

 博士はみじろぎもせず、

 真剣に思索を巡らしておられた。

 

 ティータイムには、

 博士の奥さまが紅茶を入れてくださるのだが、

 張りつめた空気のなかを、

 そーっと持ってきて、

 そーっと出ていかれる(笑い)。

 

 一コマ一コマが映画のように、

 今も懐かしく思い出される。

 

 語らいのなかで博士は、

 かつて「ギリシャ・トルコ戦争」を視察し、

 自分で見たままを発表した結果、

 勤めていたロンドン大学を

 辞めなければならなくなった

 思い出を話してくださった。

 博士は、

 ギリシャ側からも、

 トルコ側からも、

 この戦争を観察した。

 そして、この戦争はギリシャ側が間違っている

 という結論に達した。

 

 しかし、

 当時の西欧社会は

 トルコへの偏見を強く持っており、

 博士がありのままの事実を新聞に発表するや、

 激しい批判が巻き起こった。

 そのために博士は、

 大学の職も失った。

 それでも博士は、毅然として、

 わが信念を貴かれたのである。

 

 博士は、こうも言われている。

自分が正とみなすことと、

 邪とみなすこことの中間で、

 中立の立場をとろうとするのは、

 結局、邪とみなすことの側に

 与くみすることにほかなりません

 

 自分が正しいと思ったことは、

 だれに何と言われようと、

 堂々と主張すべきだ。

 善悪がはっきりしている問題を前に沈黙し、

 中立を装うのは悪に加担することになる

 ――それが博士の変わらぬ精神であった。

 

2005.8.19各部合同研修会


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2022年月6月16日

第2027回

善の声を強めよ!

悪と戦う力を持て

 

邪悪に対する永遠の闘争

 

 ノーベル文学賞に輝いた

 アメリカの作家パール・バック(一八九二年〜一九七三年)。

 彼女は、

 名門のケネディ家に対する

 嫉妬や敵意の数々を通して、

 次のように論じている。

 

新聞、ラジオ、テレビは、

 彼らが愛情と同時にねたみを抱く

 知名人、成功者、傑物を

 葬り去らんとする欲望から、

 人々にスキャンダルを提供しようと

 手ぐすねひいているのだ」

 「(=それらの伝達機関は)よからぬニュースを探し、

 そして何も見つからないとなれば、

 うわさやうそから『ニュース』を

 でっちあげてしまうのだ

 (『ケネディ家の女性たち』佐藤亮一訳、主婦の友社)

 

 さらに、才能のある者、成功した者が

 攻撃される理由の一つとして、

精神と才能に劣る人々の側に、

 才に恵まれ成功している人々に対する

 本物の敵意が生じてくる(同前)と述べている。

 鋭い洞察である。

 

 彼女は、別のところで、次のようにも訴えている。

 終戦直後、日本の人々に対して呼びかけた文章である。

善なる人々の声は

 悪なる人々の声よりもより数多く、

 より明瞭でなければならない、

 このことを善なる人々は

 自らの責務として認めねばならぬ」と。

 

 自由とは責任を伴う。

 ゆえに一人一人が自由を享受するためには、

 人間を抑圧する悪を監視し、

 その悪と戦う力を持たねばならない。

 こう彼女は述べている。

 

 そして、

 「邪悪に対する、永遠の闘争」があってこそ、

 自由は守られることを強く叫んだのである。

 (「毎日新聞」一九四五年十月二日付に掲載されたパール・バックの一文「日本の人々に」から)

 

 善なる正義の声を、

 さらに強く強く放ちゆくことだ。

 それが青年の使命である。

 

2005.5.31婦人部・海外代表協議会

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2022年3月1日

第1922回

「悪」のまやかしを打ち破るには

真実を語れ!

 

「正語」

 

 「真実」をもって、

 「悪」のまやかしを打ち破るところから、

 未来は開かれる。

 

 言うべきことを、断固として言い切る。

 正しいことを「正しい」と言い切る。

 間違っていることを「間違っている」と言い切る。

 そこに、本来の仏法者の生き方がある。

 

 たとえば、初期の仏教で説かれた「八正道」(悟りに至る八つの正しい道)には、「正語しょうご」(正しい言葉)があげられている。

 「正語」とは、「妄言もうごん両舌りょうぜつ麁言そごん猗語きごを離る」(中阿含経)ことである。

 

 「妄言」は嘘や偽り。

 「両舌」は陰口、二枚舌。

 「麁言」は粗悪な言葉や悪口。

 「猗語」は粉飾のみで真実のない言葉をさす。

 これらを離れよ、

 真実を語れ!──それが釈尊の教えであった。

 

 王舎城で弘教を開始した釈尊のもとには、

 次々と立派な弟子たちが帰依していった。

 それを妬み、また恐れをいだいた町の人びとから、

 釈尊への非難の嵐が巻き起こった。

 弟子たちは不安にかられた。

 だが、釈尊は顔色一つ変えることなく、

 非難には、こう反駁するように教えたのである。

 

 「仏は正しい法をもって誘っている。

  それを妬む者は誰なのか」と。

 

 師の言葉に、弟子たちも、決然と立ち上がった。

 町のどこかで、批判めいた言葉を聞くと、

 彼らは、堂々と、この道理を語った。

 釈尊の正義を語りに語って、

 相手を納得させた。折伏である。

 いつしか中傷は雲散霧消していったのである。

 

<新・人間革命> 第8巻 清流 199頁~200頁

2023.8.28整理

 

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2022年2月23日

第1916回

悪への怒りなき者は去れ!

 

 先生は、

 学会のうるわしい和合を破ろうとする者がいたならば、

 青年部が、ただちに戦えと厳命された。

 

「いくら立派そうに見えても、

 悪に対して、

 弱い人間、悪と戦わない人間は、

 結局、ずる賢い人間だ」

 

 これが恩師の未来への警鐘であった。

 最高幹部の皆さまであるゆえに、

 あえて厳しく言い残しておきたい。

 

 悪と戦わなければ、

 悪を容認し、

 悪に加担するのと同じである。

 それは、

 すでに師弟を忘れ、

 信心を食い破られた姿だ。

 

 その根底は、

 「臆病」であり、

 「保身」であり、

 「背信」である。

 

 その「心の毒気」は、

 いつしか蔓延し、尊き信心の和合を壊していく。

 「もう、これくらいでいいだろう」

 ――そんな中途半端な心が毛筋ほどでもあれば、

 悪の根を断ち切ることなどできない。

 毒気は断じて一掃し、吹き払わねばならない。

 

「戦う心」が清浄な伝統をつくる。

 最後の最後まで、邪悪をすべて根絶するまで、正義を叫びぬく。

 この戦う学会精神を、身をもって未来に継承していただきたい。

 

「学会に腰抜けの人間はいらない。

 悪への怒りなき者は去れ!

 私は、最後の一人になっても戦う!」

 

 これこそ、惰弱な幹部に対する戸田先生の痛烈なる叫びであった。

 

2006年2月19日最高協議会

2023.8.28整理

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2021年12月27日

第1844回

信心の利剣で魔を断て

 

<私利私欲の悪の根を絶ち切れ!>

 

 四十八年前(当時)(一九五八年=昭和三十三年)の

 きょう三月二十九日、

 ご逝去される直前の戸田先生は師子吼なされた。

 

 最後の遺言である。

 「邪悪とは、断固、戦え! 

  一歩も退いてはならんぞ。

  追撃の手をゆるめるな!

 

 今ふたたび、この究極の学会精神を、

 深く強く命に刻みつけてまいりたい。

 法華経の薬王品の一節には、

 次のように記されている。

 「我が滅度の後、

  後の五百歳の中、

  閻浮提に広宣流布して、

  断絶して

  悪魔・魔民・諸天・

  竜・夜叉・鳩槃荼等に

  其の便を得しむること無かれ

 (法華経六〇一㌻)

 

 要するに、

 悪魔・魔民どもに、

 いささかなりとも、

 つけ入るスキを与えてはならない

 との遺命である。

 

 戸田先生は、

 つねに幹部に厳しく指導された。

 「断じて魔を寄せ付けるな、

  信心の利剣で断ち切っていけ

 「法が正しいほど、

  魔が競い起こり、

  強敵が現れる。

  世間では、

  仏法者は従順と思っているが、

  とんでもない。

  邪悪に対しては、

  決して妥協するな。

  徹して責めぬけ!

 この精神で戦いぬいてきたからこそ、

 学会は、すべてを勝ち越えたのである。

 

 ある時、戸田先生は青年に、こう指導された。

 「自分の世界を不満に思う者は、

  出世しない。

  また人の悪口を言い、

  自分の失敗を弁解する人も、

  出世しない

 

 反対に、光っていく人とは、どんな人か。

 「御本尊につねに感謝の念をもっている人は、

  いよいよ栄える。

  福運がいよいよまさる

 

 「感謝を忘れた人は、

  福運が消えていく

 

 また戸田先生は、

 厳しく言われた。昭和三十三年の三月二十二日のご指導である。

 「今後も、学会の組織を、

  私利私欲のために

  利用しようとする者があらわれよう。

  そのためにも、

  今のうちに断固たる処分を行い、

  そうした芽を摘んでおくことが

  大事なのである

 

 戸田先生が、

 どれほど学会の組織を大切にされたか。

 仏意仏勅の学会の組織を、

 私利私欲のインチキな輩に利用されてはならない!

 そうした人間を放置しておいてはいけない。

 徹して責めぬいて悪の根を断ち切っていけ!

 それが戸田先生の叫びであった。

 

2006年3月29日「5・3」記念協議会

2021年11月10日

第1778回

役職への「嫉妬」は

広布を阻む「魔」の蠢動

(2/2)

 

<唱題根本で断じて「魔」に勝て!>

 

  (つづき)

 日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書三八三㌻)と仰せである。つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、その原因は自己の生命のなかにあると自覚することから仏法は始まる。しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を他人に見いだし、〝己心の外〟に法を求めているからにほかならない。そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも、反省もない。ゆえに成長も、人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。

 また、組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことができるのだ。

 この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである──。

 伸一は、彼女が、生涯、誤りなく幸福への軌道を歩むために、信心の基本から、懇切丁寧に粘り強く指導していくように、婦人部の最高幹部に頼んだ。

 彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから活動していかなくてはならぬ石山照代のことであった。石山にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだったようだ。彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。

 しかも、支部結成大会の準備を呼びかけても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。

 伸一が体育館の控室に入ると、石山は意を決したように、こう切り出した。

 「……実は、先生にどうしてもご相談したいことがあるんです」

 彼女は、伸一に勧められてソファに腰を下ろした。

 「どうしたの。何か悩みがあるの?」

 「はい……。私、とても支部婦人部長なんていう大任は、全うできそうもありません。これまで支部結成の準備にあたってきましたが、誰も、私の言うことなんか聞いてくれません。みんな陰で私を批判していますし、面と向かって、『あなたに婦人部長の資格なんてないのよ』って、言ってくる人もいます。確かに私には、なんの力もないんです……」

 石山は、胸のうちを洗いざらい打ち明けた。話しながら、幾筋もの涙が、彼女の頰を濡らしていった。

 伸一は、じっと石山に視線を注ぐと、強い語調で語った。

 「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするんですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」

 石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。

 「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではない。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。

 仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします。

 魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとする。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともある。

 こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。

 あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、敢然と困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。

 今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。

 しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な活動を成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を攪乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。

 広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になる。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、〝これで一つ宿業が転換できた〟〝また一つ罪障が消滅できた〟と、喜々として進んでいくんです。

 最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう

 石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女の頰に、いつの間にか赤みが差していた。

 この時、組織を攪乱した婦人は、一時期は、先輩の指導によって立ち直り、幹部として活動していたが、後に夫妻で退転反逆し、結局、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。

 

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 181頁~189頁

2021年11月9日

第1777回

役職への「嫉妬」は

広布を阻む「魔」の蠢動

(1/2)

 

<「嫉妬」は積んだ福運を一切消す>

 

 山本伸一が千葉支部の結成大会の会場となった千葉県体育館に到着すると、支部長と支部婦人部長が迎えに出ていた。車を降りた伸一は、婦人部長の石山照代に笑顔で語りかけた。

 「さあ、出発だよ!」

 しかし、石山は暗く沈んだ顔で視線を落とし、黙って会釈した。彼女は四年前の入会であり、支部の婦人部長としては信心歴は新しかった。

 実は、千葉支部の結成では、支部婦人部長の人事が最も難航したのである。当初、彼女よりも入会が古く、経験の豊富な一人の地区担当員が候補にあがっていたが、公平さに欠け、支部の婦人の中心者にすることは心配であるとの意見が大半を占めた。検討の結果、経験不足だが、将来を期待し、石山照代を婦人部長に推すことで意見の一致をみたのである。

 しかし、九月度の本部幹部会で人事が発令されると、石山への激しい批判の手紙が何通か学会本部に届いた。〝活動の実績もなく、信心の弱い婦人部長にはついていけない〟というのである。

 山本伸一は、北・南米訪問から帰国し、その手紙を目にした。いずれの文面も客観性を装ってはいるが、どこか意図的なものが感じられた。

 彼は、事態を深刻にとらえ、千葉支部の関係者に、つぶさに状況を尋ねていった。すると、最初に支部婦人部長の候補にあがっていた地区担当員の周辺から、石山照代の人事に不満が出ていることがわかった。しかも、その地区担当員は、表面は平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動して、石山を批判するように仕向けていることがわかった。あまりにも愚かしく、情けない話である。

 学会の役職は名誉職ではなく、責任職である。会員への奉仕に徹し、広宣流布の責任を果たし切ることが最大の任務だ。したがって大きな責任をもつ立場になればなるほど、〝自分〟を捨てて、法のため、広布のため、同志のために尽くし抜こうとの決定した一念がなければ、その任を全うすることはできない。自分が支部の婦人部長になれないことで不満をいだき、陰で人を非難したりすること自体、広宣流布よりも、〝自分〟が中心であることを裏づけている。それは、学会の幹部として不適格であることの証明といってよい。

 その地区担当員は、長年にわたる闘病生活の末に、仏法に巡り合い、病を克服した体験をもっていた。そして、一時は、弘教面でも華々しい成果を上げ、注目を集めていた。

 伸一は、この地区担当員の行く末を案じた。支部の婦人部長と心を合わせて活動しようとしなければ、ますます自分が孤独になり、信心の喜びも失せていってしまう。さらに、支部婦人部長についていくことができないことから、やがては組織に対して不満をもつようになり、何かあれば学会の世界からも離反していくことになりかねない。また、彼女の行為は、既に仏意仏勅の教団である学会の団結を破壊していることになる。本人は気づいていないかもしれないが、せっかく信心しながら、自ら不幸の悪業をつくり、これまでに積んできた福運までも、ことごとく消してしまうことになる。

 いかなる理由にせよ、広宣流布の使命に生きる同志を嫉妬し、恨み、憎む罪はあまりにも重い。ゆえに、日蓮大聖人は「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」(御書一三八二㌻)と、戒められているのである。

 人の心ほど移ろいやすいものはない。善にも、悪にも、動いていく。偉大な創造をも成し遂げれば、破壊者にもなる。仏にもなれば、第六天の魔王にもなる。その心を、善の方向へ、建設の方向へ、幸福の方向へと導いていくのが正しき仏法であり、信心である。

 山本伸一は、この問題について、真剣に考えざるをえなかった。

 ──信心によって病を克服した体験をもつ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。

 

(つづく)

<新・人間革命> 第2巻 勇舞 181頁~189頁

2017年4月24日~26日

反撃の根性を

 

<攻めに攻めて痛快に勝ちまくる>

 

 一、戸田先生は、このような言葉も残されている。
 「私の真の弟子であるならば、広布のために、創価のために、最後の最後まで戦い続けよ!」
 たとえ、何があろうと、どんな困難が立ちはだかろうと、「広宣流布」のため、「創価学会」のために戦い抜く。最後の最後まで戦い続ける。それが「真の弟子」である。
 さらに、戸田先生は言われた。
 「悪に対する反撃の根性のない者は、去っていくがよい。中傷批判は、妬みと偏見と嘘八百の策略であることは、天を見るよりも明らかではないか
 これが、今も昔も変わらぬ方程式である。
 皆さんは、正々堂々と反撃し、論破し、正義を語り抜いていただきたい。
 一、50年前の12月、私は戸田先生から任命され、学会の初代の渉外部長に就任した。〈54年12月13日〉
 戸田先生は、渉外戦の一切の総責任者に、最高幹部ではなく、青年部の私を任命された。

 私も今、青年部に期待したい。
 ずるさがない。

 インチキがない。

 邪智がない。

 鋭敏にして純粋な心、そして勇気こそ、青年の魂であるからだ。
 私は、渉外部長として、あらゆる人と会い、対話し、突破口を開いた。責任を一手に引き受け、陰で学会を支えていったのである。
 戸田先生は、広宣流布の活動は、最高の渉外戦であり、外交戦であることを教えてくださった。
 人との接し方、礼儀、言葉遣い、そして人の心をつかむ知恵――あらゆる力をつけていける究極の言論戦が、広宣流布なのである。
 私たちは、一人一人が“幸福の大使”“平和の外交官”として進んでまいりたい。
 一、有名な『平家物語』には、源平の決戦に臨む、若き源義経の心意気が謳われている。
 「戦いはひたすらただ攻めに攻めて勝つのが心地よいものだ」(杉本圭三郎訳注『平家物語』、講談社学術文庫)と。
 戦いは、強く攻め抜くことだ。全力を集中させてこそ勝利はある。戦いの根本姿勢は、徹して攻めることである。
 この義経の心意気は、学会精神にも通じる。
 「攻めに攻めて痛快に勝ちまくる」――私たちも、この心で進みたい。
 なかんずく青年部は、「花の義経」のごとく、勢いをもって「破邪顕正」の大攻勢をお願いしたい。

 

2017年4月24日聖教新聞 本部幹部会

で紹介された池田先生の指針 (2004年12月第44回本部幹部会)

 

2016年11月1日

魔に打ち勝つには


 <“なをなを”の信心>

 

法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり』(上野殿後家尼御返事、1505頁)(中略)
 即身成仏のためには、仏界の生命を覆い隠している無明を打ち破るしかありません。大事なのは、「なをなを」の信心です。
 自身の生命にある仏と魔との闘争は、決して簡単なことではありません。魔に打ち勝つには、絶えず自行化他の題目を唱え、信心をより深く、強くしていく以外にない。

大白蓮華2016年11月号№805 38、39頁

2016年8月26日27日

魔と仏との闘争

 

<″難が来たら喜べ″

 

魔との戦いは

仏に成りゆく「関門」

  

 仏法は、釈尊以来、魔と仏との闘争である。一般の社会の次元の、学問とか、産業とか、政治といったものよりも、もっと深い生命の次元の世界である。
 因果の理法のうえから、永遠性に生きぬく生命の実体、生命の真髄を明かしている法則である。
 生命は永遠である。その生命を、三世の不幸の流転にさまようままにするのか。それとも、三世永遠に、仏という最高の力と、喜びと、勝利と、栄光をもてる、人間究極の真髄を築いていくのかどうか。それが仏法の次元である。
 それは闘争である。したがって、古来、仏法者の人生は、「魔」という厳しい「迫害」「障害」との闘争をともなうのである。
 仏法では、今の時代を末法という。末法は「闘諍言訟」「白法隠没」と説かれる。
 闘諍言訟、すなわち、争い、論争が絶えない。悪人がふえてくる。そして白法隠没――正法正義を白法といい、それが隠れてしまうことを隠没という。そういう時代だからこそ、平和のために戦わねばならない。戦う人が光る。
 魔との戦い――それは、自己自身を鍛え、訓練してくれる。仏に成りゆく「関門」と言ってよい。
 正しい信仰を持つ人には、さまざまな現実のうえに、「三障四魔」とか、「三類の強敵」という、嫉妬の攻撃や、権威の支配、無知ゆえの中傷があるが、驚いてはならない。
 「難来るを以て安楽と意得可きなり」。難が来たら喜べ″と、大聖哲は叫んでおられる。
 このことを、とくに青年は忘れないでもらいたい。これから、長い長い二十一世紀の大舞台で活躍しゆく皆さんに、仏法の真髄と法則を知っていただきたい。
 「難即悟達」――人生における仏法の難、信仰上の難は、すなわち全部が「仏に成るため」である。仏に成るということは、「永遠の幸福」「永遠の勝利」を意味する。永遠の仏と等しき人格と、人間としての究極の力を持てる自分自身になることである。
 だからこそ、信仰している人はもちろん、信仰していない人も含めて、青年のために、仏法の本義を語っていきたい。
 人間性を呼び覚ます創価の運動は、ルネサンスの精神と響きあう。桂冠詩人ペトラルカは語る。
 「できるだけ多くの人を守り助けることほど幸福なことがあるでしょうか。これほど人間にふさわしく、また神に似たことがあるでしょうか。これをなしうるのになさないのは、フマニタス(=人間性)の高貴な義務をなおざりにすることであり、それゆえまた人間の名と本性を放棄することだと思われます」(近藤恒一『ペトラルカと対話体文学』創文社)
友を励まし、喜びを分かちあう――学会活動こそ、人間にふさわしい最高の幸福の創造である。
 ペトラルカは叫ぶ。「こんなにおびただしい現代世界の諸悪、こんなに多くの破廉恥のあいだにあっては、とても黙ってはいられません」(近藤恒一編訳『ぺトラルカ ルネサンス書簡集』岩波文庫)
 沈黙は臆病であり、卑怯である。敗北ヘの道である。
 この世界を変えていくもの――それは、心清き女性の声である。
  アメリカ女性初のノーベル平和賞受賞者は、ジェーン・アダムズである。福祉に打ち込む彼女は言った。
 「社会の変革は、現状を不正であると感じることのできる人によってのみ始められる」(『ハル・ハウスの20年』市川房枝記念会・縫田ゼミナール訳、市川一房枝記念会出版部)
 正義に燃える女性の力が、二十一世紀の地球社会を変えていく。
 さらに彼女は言う。「人間は自分のしなければならないことは、よく見ると手近にあるのに、つい、遠くを探している」(『ハル・ハウスの20年』柴田善守訳、岩崎学術出版社)
 もっとも手近な、もっとも偉大な使命の行動を、わが地域から世界へと展開しておられるのが皆さまである。


2001年4月4日 山梨代表協議会(抜粋)

2015年11月27日

第六天の魔王と十軍

 

 彼は、「今日は、私どもの信心を妨げる第六天の魔王について、ともどもに思索してまいりたい」と前置きし、「辦(べん)殿尼御前御書」を拝していった。
 『第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし』(御書1224頁)
 まず、この御文を通解した。
 「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる。そして、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海のなかで、凡夫と聖人が共に住むこの娑婆世界を、『取られまい』『奪おう』と争う。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身となり、大きな戦を起こして二十余年になる。その間、一度も退く心をいだいたことはない――それが、御文の意味です。
 なぜ、第六天の魔王が戦を仕掛けてくるのか。もともと、この娑婆世界は、第六天の魔王の領地であり、魔王が自在に衆生を操っていたんです。そこに法華経の行者が出現し、正法をもって、穢土である現実世界を浄土に変えようとする。それが広宣流布です。
 そこで魔王は、驚き慌てて、法華経の行者に対して戦いを起こす。したがって、広宣流布の道は魔との壮絶な闘争になるんです。
 この第六天の魔王とは何か。人びとの成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。魔王という固有の存在がいるのではなく、人びとの己心に具わった生命の働きです。
 ゆえに、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、わが生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです
 第六天の魔王は、智慧の命を奪うところから、「奪命」といわれる。また、「他化自在天」ともいって、人を支配し、意のままに操ることを喜びとする生命である。
 その結果、人びとの生命は萎縮し、閉ざされ、一人ひとりがもっている可能性の芽は摘み取られていくことになる。戦争、核開発、独裁政治、あるいは、いじめにいたるまで、その背後にあるのは、他者を自在に支配しようという「他化自在天」の生命であるといってよい。
 それに対して、法華経の行者の実践は、万人が仏性を具えた尊厳無比なる存在であることを教え、一人ひとりの無限の可能性を開こうとするものである。
 つまり、両者は、人間を不幸にする働きと幸福にする働きであり、それが鬩ぎ合い、魔軍と仏の軍との熾烈な戦いとなる。この魔性の制覇は、仏法による以外にないのだ。


 では、魔軍の棟梁である第六天の魔王が率いる十軍とは何か。十軍は、種々の煩悩を十種に分類したもので、南インドの論師・竜樹の「大智度論」には、「欲」「憂愁」「飢渇」「渇愛」「睡眠」「怖畏」「疑悔」「瞋恚」「利養虚称」「自高蔑人」とある。
 山本伸一は、研修会で、その一つ一つについて、実践に即して語っていった。
 「第一の『欲』とは、自分の欲望に振り回されて、信心が破られていくことです。
 第二の『憂愁』は、心配や悲しみに心が奪われ、信心に励めない状態です。
 第三の『飢渇』は、飢えと渇きで、食べる物も、飲む物もなくて、何もできないことです。学会活動しようにも、空腹で体を動かす気力もない。交通費もない。だから、やめてしまおうという心理といえるでしょう。
 第四の『渇愛』は、五欲といって、眼、耳、鼻、舌、身の五官を通して起こる、五つの欲望です。美しいものに心を奪われたり、よい音色、よい香り、美味、肌触りのよい衣服などを欲する心です。それらを得ることに汲々として、信心を捨ててしまうことです」
 山本伸一の十軍についての説明に、研修会参加者は目を輝かせて聴き入っていた。
 「第五の『睡眠』は、睡魔のことです。たとえば“唱題しよう”“御書を学ぼう”とすると、眠気が襲ってくるという方もいると思います。釈尊も、悟りを得るまでのなかで、この睡魔と懸命に戦っています。
 睡魔に襲われないようにするには、規則正しい生活を確立し、十分な睡眠を心がけることです。さらに、熟睡できるように工夫することも大切です。寝不足であれば、眠くなって当然です。また、眠気を感じたら、冷水で顔を洗うなどの工夫も必要でしょう。
 第六の『怖畏』は、恐れることです。
 信心することによって、周囲の人から奇異な目で見られたり、仲間はずれにされるかもしれない。時には、牧口先生のように、迫害され、命に及ぶこともあるかもしれない。
 そうなることを恐れ、学会から離れたり、信心を後退させてしまうことが、これにあたります。結局、臆病なんです。
 大聖人は『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書1282頁)と仰せです。信心を磨き、一生成仏していくための要諦は、勇気をもつことなんです。入会するにも勇気です。折伏するにも勇気です。宿命に立ち向かうにも勇気です。信心とは、勇気なんです」
 彼は、参加者一人ひとりに視線を注いだ。どの顔にも決意が光っていた。
 「第七の『疑悔』は、疑いや後悔です。せっかく信心することができたのに、御本尊を疑い、学会を疑い、難が競い起これば、“信心などしなければよかった”と悔やむ。その暗い、じめじめとした心を打ち破るには、すっきりと腹を決めることです。そこに、歓喜が、大功徳があるんです。
 第八の『瞋恚』は、怒りの心です。『折伏をしましょう』と指導されると、“よけいなお世話だ”と憤り、怨嫉してしまう。また、学会の先輩が、本人のためを思い、御書に照らして信心の誤りを指摘すると、腹を立て、恨む。そうした心の作用です」
 山本伸一の指導は、具体的であった。
 研修会メンバーは、わが身にあてはめ、時に大きく頷き、時に苦笑しながら、伸一の話に耳を傾けていた。
 「怒りの心は、それ自体が悪いというのではありません。悪事に対して怒りを感じることは必要です。邪悪への怒りがなくなれば、正義もなくなってしまいます。怒り、腹を立てた結果、信心を後退させてしまうことが問題なんです。
 たとえば、いい加減で、周囲に迷惑をかけてばかりいる、問題の多い先輩幹部がいたとします。その姿を見て憤りを感じる。それは当然です。しかし、ともすると、〝だから、私は学会活動をやらない。会合にも出ない〟ということになってしまう。それが、『瞋恚』という魔に敗れた姿なんです。
 自分が、人間革命を、一生成仏をめざして仏道修行していくことと、先輩幹部がだらしないこととは、本来、別の問題です。それを一緒にして、自分の信心の後退を正当化しようとする心こそ、克服すべき対象なんです」
 現実に即した伸一の展開であった。
 「第九の『利養虚称』ですが、『利養』は、利を貪ることです。『虚称』は、虚名にとらわれることをいいます。つまり、名聞名利を追い求め、信心を軽んじ、成仏への道を踏み外してしまう生き方です。
 利欲に翻弄されればされるほど、心は貧しくなり、すさんでいきます。また、組織で金銭の問題を起こしたりするケースは、この『利養』に蝕まれた結果といえます。
 さらに、『虚称』を求めても、名誉や地位は、永遠の生命観から見れば、うたかたの夢のようなものです。それに心を奪われて、信心を忘れるのは愚かです。
 学会の人事でも、正役職から副役職になった時など、自分が軽視されたように思い込んで、新しく幹部に登用された人を嫉妬し、学会活動への意欲をなくしてしまう人がいます。それは『虚称』の心によるものです。その心を打ち破っていく戦いが信心なんです」
 十軍に関する山本伸一の講義は、いよいよ、第十の『自高蔑人』となった。
 「これは、自ら驕り高ぶり、人を卑しむことです。つまり、慢心です。慢心になると、誰の言うことも聞かず、学会の組織にしっかりついて、謙虚に仏法を学ぶことができなくなる。また、周囲も次第に敬遠し、誤りを指摘してくれる人もいなくなってしまう。
 社会的に高い地位を得た人ほど、この魔にたぶらかされてしまいがちなんです。
 『自高蔑人』の心をもつと、みんなが褒め讃えてくれれば、学会活動にも参加するが、機嫌を取ってくれる人がいないと、仏道修行を怠ってしまう。したがって、宿命転換も、境涯革命もできず、福運も尽きていきます。そして、結局は、誰からも相手にされなくなってしまう。最後は惨めです。
 信心の世界、仏道修行の世界は、一流企業の社長であろうが、高級官僚であろうが、大学教授であろうが、あるいは、学会の最高幹部であろうが、皆、平等なんです。地位も、名誉も、関係ありません。
 信心の実証を示すために、社会で成功を収めていくことは大事です。しかし、それが、名聞名利のためであれば、信心のうえでは、なんの意味もありません。地位や名誉は、絶対的幸福の条件でもなければ、成仏を決するものでもありません。
 信心の世界では、一生懸命にお題目を唱え、たくさんの人を折伏し、誰よりも個人指導に励み、多くの人材を育ててきた方が偉いんです。広宣流布のため、仏子のために、黙々と汗を流してきた方が尊いんです。
 信心の王者こそ、人間王者なんです。最高最大に御本仏から賞讃される大福運、大勝利の人であることを確信してください」
 熱のこもった講義であった。一人として魔に敗れ、退転していく人など出すまいとする、伸一の魂の叫びであった。
 研修は、まだ終わらなかった。
 「では、『富木殿御返事』、御書の962頁を開いてください」
 山本伸一は、朗々と、「富木殿御返事」の一節を拝していった。
 「『但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり』(御書962頁)
 戸田先生が第二代会長に就任された二十七年前、学会の会員は、実質三千人ほどにすぎなかった。それが、今では、世界に広がり、約一千万人の同志が誕生したんです。会館も立派な大文化会館が、全国各地に陸続と誕生しました。皆が歓喜に燃えて、弘教に走っています。
 これだけ広宣流布が進んだんですから、第六天の魔王が憤怒に燃えて、競い起こってくるのは当然です。予想もしなかった大難もあるでしょう。大事なことは、敢然と、それを受けて立つ覚悟です」
 哲学者キルケゴールは記している。
 「信仰の強さは、その信仰のために苦難をうける覚悟がじゅうぶんにあるかどうかによって証明される」
 伸一の声は、力強さを増した。
 「大聖人は、『但生涯本より思い切て候』と言われた。題目を唱え始めた時から、大難の人生であることを覚悟されていたんです。そして、その覚悟は『今に飜返ること無く』と仰せのように、竜の口の法難、そして佐渡流罪という最大の難局に際しても、決して揺らぐことはなかった。
 覚悟は、生涯、持続されてこそ、本当の覚悟なんです。その場限りの、勢いまかせの決意など、法螺を吹いているにすぎません。
 そして、『遺恨無し』と明言されている。大聖人は、『世間の失一分もなし』(同九958頁)と仰せのように、本来、社会的にはなんの罪も犯していない。それなのに弾圧され、迫害されることは不当であり、普通ならば、恨みをもつのが当たり前です。
 しかし、『遺恨無し』と言われるのは、正法を流布したがゆえに、経文に照らし、仏法の法理通りに、起こるべくして起こった難だからです。むしろ喜びとされているんです」

 

小説新・人間革命27巻激闘260頁

2015年11月27日

善知識にするのも

悪知識にするのも

本人の信心

 

<『諸の悪人は又善知識なり』>

 

魔を打ち破る力は唱題にあり


  情熱を込めて、山本伸一は訴えた。
 「次の『諸の悪人は又善知識なり』(御書962頁)の御文も、非常に大事です。
 善知識というのは、仏道修行を支え、助けてくれる存在です。しかし、日蓮大聖人は、諸の悪人、すなわち仏法者を迫害し、信心を妨げる働きをなす悪知識を、御自身にとって、善知識であると言われている。
 なぜか――。諸の悪人による迫害に遭うことによって、法華経の行者であることが立証できるからです。風があってこそ、風車が回るように、迫害あってこそ、悪業を転換し、一生成仏することができる。
 難が競い起これば起こるほど、強盛に信心を燃え上がらせていくならば、悪知識も、すべて善知識へと変えていくことができる。むしろ、それが、真実の信仰の姿です。
 反対に、学会の先輩が成長を願って、誤りを指摘してくれたにもかかわらず、恨みをいだき、退転していく人もいます。その人にとっては善知識となるべきものが、結果的に悪知識と同じ働きをしてしまうことになる。
 善知識にするのも、悪知識にするのも、最終的には本人の信心なんです。ゆえに、弾圧、迫害も、信心の大飛躍のバネにすることができる。つまり、どんな逆境に遭遇しても、それが、そのまま魔になるわけではない。どう受けとめるかで、一念次第で、魔にもなれば、信心向上の力にもなっていくんです。
 どうか、第六天の魔王が率いる十軍という己心の魔に打ち勝ってください。この魔を打ち破る力は唱題です。生命の根本的な迷い、すなわち無明を断ち切ることができるのは、南無妙法蓮華経の利剣です。どこまでも、唱題第一に戦おうではありませんか!」

 

 小説新・人間革命27巻激闘269頁

2015年11月6日7日

学会利用の悪人、

同志を裏切った卑劣な輩は

絶対に許してはならない

 

<「祈り」こそ「魔との戦い」の要諦である>

 

 戸田先生は、「学会利用の悪人、同志を裏切った卑劣な輩は絶対に許してはならない」と厳命された。とくに男性幹部には、「悪に対しては、仇を討たずにはおかないというくらいの根性と忍耐と意地を持て!」と厳しかった。これが学会の伝統である。
 悪鬼入其身の「魔物」から、同志を守り、広布の組織を守っていくのが幹部の責務である
 根本は「祈りで勝つ」ことだ。諸天を揺るがす「強盛な祈り」は、全宇宙を動かしていく。いかなる敵にも断じて勝つことができるのだ。「祈り」こそ「魔との戦い」の要諦である。
 広布の同志に対しては、「信頼の灯台」となっていただきたい。会員から「あの人がいるから頑張ろう」「あの人の言葉に勇気づけられた」と慕われるようでなければ、幹部である意味はない。
 ツーンと偉そうに座っているだけで、何を考えているのか、さっぱりわから、いばってはいるが自分は戦わない。ニコリともしない。そのうえ、皆を抑えつける――それでは「地獄の使い」のようなものだ。かえって皆の邪魔になる。
 幹部は、いばるためにいるのではない。会員に尽くしていくためにいるのである。
 「ご苦労さまです!」「いつも、ありがとうございます!」と笑顔で、頭を下げて、広布に戦う同志に心から感謝し、賞讃を送っていくことだ。
 この「会員第一」の真心と行動が、わが身を無量の福徳で飾っていくのである。

  2005年2月3日第二総東京最高協議会

2015年3月17日

 <追撃の手をゆるめるな!>

 

魔が競わない闘争は、闘争ではない

 

 後継の誓いの3月、わが胸には「追撃の手をゆるめるな!」との恩師の師子吼が響く。
 あえて試練に挑み、勝ち越えるのが青年だ。後継の誉れである。
 どんな嵐が襲いかかろうとも、題目第一の人には、かなわない。必ず必ず乗り越えられる
 日蓮大聖人は、身命に及ぶ大難の中、流罪の身でなお、悠然と『喜悦はかりなし』(御書1360頁)と仰せになられた。
 正義ゆえの難が現れる時こそ、広宣流布の時なのである。
 それを戸田先生は心から喜ばれ、「私もうれしいと思うが、みなさんもうれしいと思ってもらいたい。そのときこそ、敢然と戦おうではないか」と晴れ晴れと叫ばれた。
 魔が競わない闘争は、闘争ではない魔を打ち破ってこそ、仏になる。絶対的幸福の大境涯を開くことができるのだ
 ゆえに、大変な時ほど明るく楽しくいこう!師子王の心で進むのだ。これで宿命転換できるのだ。これで一切を変えられる。
 これで永遠の師弟勝利の原点をつるくることができる――と。
 仏法は三世を貫く究極の楽観主義だ。絶対に行き詰らない。いかなる逆境からも価値創造していける大法なのである。


2015.3.14付聖教新聞 新時代を駆ける9

2014年4月28日

内なる第六天の魔王に勝て! 


 『第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし』(ベン殿尼御前御書1224頁、編571頁)
 まず、この御文を通解した。
 「広宣流布を進めようとするならば、必ず第六天の魔王が十軍を使って、戦を起こしてくる。そして、法華経の行者を相手に、生死の苦しみの海のなかで、凡夫と聖人が共に住むこの娑婆世界を、『取られまい』『奪おう』と争う。日蓮は、その第六天の魔王と戦う身となり、大きな戦を起こして二十余年になる。その間、一度も退く心をいだいたことはない――それが、御文の意味です。
 なぜ、第六天の魔王が戦を仕掛けてくるのか。もともと、この娑婆世界は、第六天の魔王の領地であり、魔王が自在に衆生を操っていたんです。そこに法華経の行者が出現し、正法をもって、穢土である現実世界を浄土に変えようとする。それが広宣流布です。
 そこで魔王は、驚き慌てて、法華経の行者に対して戦いを起こす。したがって、広宣流布の道は魔との壮絶な闘争になるんです。
 この第六天の魔王とは何か。人びとの成仏を妨げる魔の働きの根源をなすものです。魔王という固有の存在がいるのではなく、人びとの己心に具わった生命の働きです。
 ゆえに、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、わが生命に潜む魔性との熾烈な戦いなんです。つまり、内なる魔性を克服していってこそ、人間革命、境涯革命があり、幸せを築く大道が開かれるんです

 

小説 新・人間革命 27巻 激闘31

2014年3月22日~24日

 魔を駆り出せ!師子王動けば魔は退散

 

 『過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ・師子は値いがたかるべし』(御書1589頁、編)
 広宣流布は魔との戦いです。生半可な決意では戦うことはできない。
 大聖人も流罪、死罪の大難が幾度もあった。熱原の法難では、門下が斬首です。
 勇気を奮い起こし、また、疲れたら再び奮い起こして、戦い続けるなかに、仏界が涌現してくるのです。仏界の力でなければ、強敵に勝利することはできない。
 不惜身命でなければ、民衆を守ることはできない。
 とくに「身命をすてて強敵の科を顕せ」の一文を心に刻みたい。
 魔と闘い、「強敵の科」を責め出さなければ、真の勝利は断じてない。牧口先生は、魔を駆り出していくことを教えられた。
 (中略)魔は見えないからといって、いなくなったのではありません。隠れているだけです。だから今、あえて駆り出して、「強敵の科」を顕さなければ、結局は民衆が魔軍にたぶらかされてしまう。
 まして、私たちは壮絶な精神闘争の闘士です。
 だから師子王のごとき悠然たる境涯で遊行する。師子王が動くことで魔は退散する。そして、仏法を守るべき時には、猛然と魔軍を駆り出していかなければならない。油断は絶対に禁物です。どんな敵も全力で戦う。それでこそ師子です。
  真剣勝負ゆえに、師子王は、周囲が“ここまで”と思うぐらいに、一つ一つに全魂を込めて取り組むのです。
 “守り”でなく、“攻め”です。大聖人は、師子王としてみずから「謗法の根源」「一凶」を強く責め立てていかれた。
 個人にあっても原理は同じです。宿命が襲いかかってきたとき、信心で強盛に立ち向かえず、腹が据わらず逃げたり、策や要領で避けようと思ったら、返って事態は複雑になる。

 

御書の世界(上) 第七章 師子王の心

世界広布新時代

創立100周年へ

2030年 

 

世界青年学会

開幕の年

(2024年)

2013.11.18

広宣流布大誓堂落慶

更新日

2024.4.26

第2299回

 

日天月天ワンショット

日めくり人間革命URL