新・人間革命4巻

春嵐

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2022年1月12日

第1860回

民衆の連帯に新しき歴史あり

 

 民衆のなかへ。

 この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、

 新しき歴史は生まれゆく。

 

 民衆ほど、偉大な力はない。

 民衆ほど、確固たる土台はない。

 民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。

 

 民衆の前には、

 いかなる

 権力者も、富豪も、名声も、

 煙のようなものである。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 7頁

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2022年1月12日

第1861回

常識ある行動

 

<仏法は最高の道理>

 

 一九六一年(昭和三十六年)二月十四日、アジア訪問から帰った山本伸一は、早くも十六日には、愛知県の豊橋市で行われた豊城支部の結成大会に出席した。

 帰国直後の結成大会とあって、地元のメンバーには、山本会長の出席はないかもしれないという思いがあった。それだけに、伸一が会場の豊橋市公会堂に姿を現すと、大歓声と嵐のような拍手が起こった。

 

 この日、伸一は、

 常識ある行動の大切さを訴えた。

 

 「仏法は最高の道理であります。

 その仏法を信奉する私たちは、

 常に、礼儀正しい行動を

 心がけていかなくてはなりません。

 たとえば、座談会に行っても、

 まるで自分の家のように振る舞い、

 会場を提供してくださっているご家族に、

 迷惑をかけたりするようなことは、

 あってはならないと思います。

 さらに、折伏をするにしても、

 また、指導をする場合も、

 暴言を用いて、

 人を見下したような態度は、

 絶対に慎まなければならない。

 

 そうした非常識な言動というものが、

 どれだけ学会に対する誤解を生んでいるか、

 計り知れません。

 周囲の人が見ても、

 ”学会の人は礼儀正しく、立派であるな”

 と思えるようでなければ、

 本当の信仰の姿とはいえないと思います

 

 伸一は、このあと、

 御本尊は、

 わが胸中にあることを述べ、

 一人ひとりが信心で生命の宝塔を開き、

 幸福な一生を送るよう念願して話を結んだ。

 

 彼がここで、

 あえて「常識」を強調したのは、

 信仰の深化は人格を磨き、

 周囲に信頼と安心を広げていく

 最高の常識を育む力となるからである。

 

 また、このころ各地で、

 学会員に対する

 村八分などの排斥の動きが

 激しさを増していたからでもあった。

 その経過を見ると、

 ちょっとした非常識な言動が

 誤解をもたらし、

 それが、排撃の糸口にされる

 ことが少なくなかった。

 

 もちろん、そのことが、

 村八分などの仕打ちの

 本当の原因ではなかった。

 

 より根本的には、

 学会への無理解と偏見による

 感情的な反発であった。

 

 さらに、

 学会の折伏を恐れる他教団の意図もあった。

 

 山本伸一が会長に就任して以来、

 折伏の波は、

 怒濤となって広がっていった。

 ゆえに

 「魔競はずは正法と知るべからず

 (御書一〇八七㌻)

 との御聖訓のうえからも、

 法難が競い起こるのは当然であり、

 それは、避けることのできない

 試練でもあろう。

 

 しかし、非常識な言動から、

 社会の誤解を招き、

 無用な摩擦をもたらすようなことは、

 あまりにも愚かといえよう。

 仏法は本来、最高の道理であるからだ。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 7頁~9頁

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2022年1月14日

第1864回

傍観者になるな!

 

<足元を固めよ!>

 

 それから、皆の質問を受けた。

 伸一のアジア訪問の直後だけに、

 世界広布に関する質問が多かった。

 一人の青年が尋ねた。

 「世界の広宣流布ができた場合、戸田先生の言われた地球民族主義という考え方からすれば、世界連邦のような形態がつくられていくのでしょうか」

 質問した青年は、まだ学生のようであった。観念的といえば、あまりにも観念的な質問であったが、伸一は微笑みながら答えた。

 「どうすればよいかは、君に任せます。よく考えておいてください。そして、その時には、世界連邦長になれるぐらい、しっかり勉強し、力をつけておくことです」

 さらに、こう付け加えることを忘れなかった。

 「壮大な未来をめざすためには、現実の日々の戦いが大切です。固めるべきは足元です。人生には、さまざまな環境の変化もある。また、学会が難を受けることもあるでしょう。しかし、何があっても、退かないことだ。決して逃げないことだ。

 生涯、学会員の誇りを忘れず、傍観者となるのではなく、広宣流布の責任をもって、主体者として生き抜いていくことが大事です

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 10頁

 

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2022年1月15日

第1865回

仏法とは生活法

 

<「常識」ゆたかに、誰からも尊敬される自分に>

 

 

 伸一のあいさつとなった。

 彼は、ここでも、

 「常識」の大切さを語り、

 信心即生活、仏法即社会の原理を示していった。

「私どもが信心をしているということは、

 あくまでも『信心即生活』のためであります。

 観念論でもなければ、

 精神修養のためでもありません。

 

 仏法とは生活法なり──これが、

 牧口先生、戸田先生の達見でありました。

 生活のなかで、

 最高の価値を創造していく

 根本法が仏法です。

 

 大聖人は

 『一切の法は皆是れ仏法』

 とお説きになっていますが、

 これを現代的に申せば、

 『信心即生活』ということです。

 

 であるならば、

 私どもの行動は、

 社会人として、人間として、

 誰が見ても納得する

 というものでなくてはなりません。

 そこで、大切になってくるのが、

 私たちの『常識』です。

 信心をしているのだから、

 何をしてもかまわないなどと考え違いをし、

 思い上がった行動をして、

 批判されるならば、

 法を下げることになります」

 

 鳥には鳥の道がある。

 魚にも魚の道がある。

 そして、人間には、

 人間の生きるべき道がある。

 その最高の人間の道が仏法である。

 

 日蓮大聖人は

 「教主釈尊の出世の本懐は

 人の振舞にて候けるぞ」

 (御書一一七四㌻)と仰せである。

 仏の悟りといっても、

 現実生活のうえに、

 行動のうえに現れるのである。

 

 ゆえに、

 仏の別名を「世雄」というように、

 仏法を実践する人は、

 人間社会の王者であり、

 最高の常識人でなければならない。

 

 伸一は、さらに、

 身近な具体例をあげながら、

 常識の大切さを語っていった。

 

「信心していない親類や友人のところで、

 葬儀があった場合、

 他宗だから葬儀には行きたくないと、

 思う人もいるかもしれません。

 しかし、それは社会の常識に反します。

 私たちは、

 他宗に祈りを捧げに行くわけではありません。

 人間として、

 親類や友人の死を悼み、

 冥福を祈るために葬儀に参加するのです。

 どのような葬式であっても、

 そこへ行って、

 故人のために題目を唱えること自体が、

 最高の供養であります。

 いかなる場合でも

 題目を唱えていけば、

 強い信心であれば、

 いっさいの人に仏縁を結ぶことになるし、

 亡くなった方の生命に、

 題目を送ってあげることができるのです。

 

 また、たとえば、

 折伏に熱が入り、

 夜遅く人の家を訪ねる。

 そして、相手の方が休もうとしているのに、

 深夜の十一時、十二時になっても

 話し込んでいるとすれば、

 これも非常識です。

 自分では一生懸命に、

 真心を込めて話しているつもりでも、

 結局、相手にとっては、

 ただ、迷惑な話でしかありません。

 しかし、それがわからずに、

 ”なぜ、あの人は素直に信心できないのだろう”

 などと頭をひねっている人もいる。

 これでは信心などできるわけがありません。

 もちろん、このなかには、

 そんな方はいないと思いますが……」

 爆笑が、会場をつつんだ。

 多少、覚えがあるのか、

 頭を掻いている人もいる。

 

「相手のことを思い、

 折伏をするのは仏法者として当然ですが、

 あくまでも常識のうえに立ち、

 知恵を働かせていくことです。

 非常識な行動があれば、

 どんなによい話をしても、

 その人を心から納得させることはできません。

 理屈ではわかっても、

 やっぱり学会は嫌いだ、

 ということになってしまう。

 それが人情というものです。

 

 だからこそ、

 私どもは、

 知恵を磨き、

 人格を輝かせて、

 常識豊かに、

 誰からも尊敬されていく

 一人ひとりになることが大事である

 と申し上げたいのであります」

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 14頁~16頁

 

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2022年1月21日

第1871回

大阪事件

 

<春の嵐>

 

 ところで、彼は、この時、

 権力の魔性との激しい攻防戦のさなかにあった。

 あの大阪事件の裁判が、

 いよいよ大きな山場に差しかかっていたのである。

 

 この事件は、

 一九五七年(昭和三十二年)四月に行われた、

 参議院議員の大阪地方区の補欠選挙で、

 東京から来た一部の会員が

 引き起こした買収事件と、

 熱心さのあまり、何人かの同志が戸別訪問し、

 逮捕されたことから

 始まった事件であった。

 

 伸一が、

 この選挙の最高責任者であったことから、

 彼にも嫌疑がかけられ、

 その年の七月三日から十五日間にわたって

 逮捕・勾留されたのである。

 

 また、

 買収事件を起こし、

 逮捕された首謀者らが、

 当時、

 理事長であった小西武雄の

 許可を得たかのように供述したことから、

 小西も逮捕されたのである。

 

 この大阪事件には、

 会員の選挙違反を契機にして、

 新しき民衆勢力である

 創価学会の台頭を打ち砕こうとする

 権力の意図が潜んでいたといってよい。

 

 検察は、

 取り調べの段階で、

 選挙違反が山本伸一と無関係であることに、

 気づき始めたようだ。

 しかし、

 違反を伸一の指示による

 組織的犯行に仕立てあげるために、

 検事は、

 彼が罪を認めなければ、

 会長である戸田城聖を

 逮捕するなどと言い出したのである。

 

 伸一が逮捕されたのは、

 戸田の逝去の九カ月前のことであった。

 当時、戸田の体は、

 既に衰弱しており、

 逮捕は、死にも結びつきかねなかった。

 

 伸一は、

 呻吟の末に、

 ひとたびは一身に罪を被り、

 法廷で真実を証明することを

 決意したのである。

 

 裁判は、

 一九五七年(昭和三十二年)十月十八日から始まった。

 起訴の段階から、

 伸一の買収関係の容疑は外されていた。

 そして、

 この六一年(同三十六年)の二月末、

 買収の嫌疑がかけられていた、

 理事長の小西武雄に、

 判決が出された。

 当然のことながら、

 小西は無罪となった。

 

 判決に対して、

 検察の控訴はなかったが、

 彼らは会長の伸一だけは、

 なんとしても有罪に追い込もうと

 躍起になったようだ。

 

 この三月六日、七日、八日も、

 大阪地裁で裁判が開かれていたのである。

 

 その間に、

 伸一は弁護団と打ち合わせを行った。

 その時、弁護士の一人が言った。

 「山本さん、

 事態はかなり厳しい見通しです。

 逮捕されたメンバーの警察調書にも、

 検事調書にも、

 あなたの指示で選挙違反を行ったという発言がある。

 しかも、あなたも、検事に、

 それを認める供述をしている。

 私どもは一生懸命にやりますが、

 有罪は覚悟していただきたい」

 

 伸一は、

 憮然とした顔で言った。

 「無実の人間が、

 どうして断罪されなければならないのでしょうか。

 真実を明らかにして、

 無罪を勝ち取るのが、

 弁護士の使命ではありませんか」

 

 「それは、

 そうなんですが、

 検察は、巧妙に証言を積み上げてきている。

 それを覆すことは、

 容易ではないのです」

 

 「私は、

 自分が有罪になることを

 恐れているのではありません。

 ただ、検察という国家権力の、

 そんな横暴が許されてしまえば、

 正義も、人権もなくなってしまう

 ことを恐れるのです。

 だから、

 私は戦います。

 断固、無罪を勝ち取ってみせます」

 

 彼は弁護士の言葉に、

 孤立無援を感じていた。

 大阪事件の裁判は、

 常に、重く伸一の心にのしかかっていた。

 場合によっては、

 会長である自分が、

 無実の罪で服役する

 事態になりかねないのである。

 弁護士さえ、

 それを覚悟しろと言うのだ。

 同志の悲しみを思うと、

 たまらなく苦しかった。

 

 しかし、

 彼は思った。

 ”広宣流布の遥かな道程を思えば、

 こんなことなど、

 まだ小難にすぎない。春の嵐だ。未来には、

 想像もできない大難が待ち受けていよう”

 

 広宣流布への決定した一念から発する、

 彼の烈々たる生命力は、

 その苦難をはねのけ、

 愛する同志への励ましの闘魂を

 燃え上がらせていったのである。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 38頁~41頁

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2022年1月22日(未掲載)

村八分

(1)

 

宗教的行事の強要>

 

 このころ、学会員への不当な村八分が、各地で深刻さを増していた。

 兵庫県の青垣町の、ある山間の地域では、神社の守り番を、毎年、住民が順番で行うことが、慣習になっていた。守り番というのは、神社を守る係で、掃除や建物の修理のほか、花を供えたり、参拝することなどが役目であった。

 その地域は、約六十世帯の地区民で構成され、そこに、立田治男という学会の組長をはじめ、数世帯の学会員がいた。

 この年は、立田の家が守り番に当てられていたが、彼は、神社への奉仕や参拝をしなければならないことが、自分の宗教的な信条から、納得できなかった。

 それは、ほかの学会員も同じであった。

 一月に行われた地域の総会で、立田は言った。

 「宗教は自由やないですか。私は、ほかの行事には喜んで協力させてもらうが、守り番のような宗教的な行事には参加しません」

 当時、学会の折伏が急速に進んでいたこともあり、神社にかかわりの深い、地域の役員は、学会を快く思っていなかったようだ。

 ほどなく、学会員を除外して、地域の臨時総会が開かれた。そこで、地区規約の改正が行われた。そして、地域の親睦のために、順番に神社の行事の係になることが規約に盛り込まれ、その義務を果たさない者は、地区民としてのいっさいの権利を失うことが明記されたのである。

 その後、今度は学会員も参加して総会が行われた。この席で、地域の責任者である区長は、学会員に、神社の行事への参加を求めるとともに、学会をやめるように迫った。

 しかし、同志たちの決意は固かった。

 「絶対にやめへん!」

 皆、胸を張って答えた。

 翌日、学会員の家に、地域の水道委員がやって来た。家族が出てみると、家の前にある簡易水道の元栓を止め、栓の蓋の中に赤土を詰め始めた。

 「なにするんや!」

 「地区の規約で、義務を果たさん者は、水道も使えんことになる。地区の水道やからな」

 元栓は、目の前で赤土に埋もれていった。同志の目に、悔し涙があふれた。

 さらに、地域の行事などの連絡に使われていた有線放送の設備も取り外された。共有の山林の権利も剥奪されてしまった。

 水道を止められた学会員は、天秤棒の両端に瓶をぶら下げ、川まで水を汲みに行き、それを飲んで暮らさなければならなかった。

 近所の人たちは、あいさつもしなくなった。子どもへのいじめも始まった。

 青垣町の一地域で起こった、学会員への村八分事件は、憲法に保障された、信教の自由、基本的人権を脅かすものであることは明白である。

 しかし、立田治男をはじめ、地域の学会員は、法的な知識には乏しく、なんの対抗策も、もたなかった。

 だが、信心はいささかも揺るがなかった。こう言って、互いに励まし合った。

 「大聖人は『此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり』(御書一一三六㌻)と仰せや。この信心が本物である証拠や」

 山本伸一が訴えてきた教学の研鑽が、信心の確信を深めさせていたのである。

 この事件を知った、学会本部では、直ちに大阪の幹部を現地に派遣した。同志を激励する一方、人権擁護委員会などにも出かけ、交渉にあたった。

 学会員への仕打ちの違法性は、誰の目にも明らかであった。調査に来た人権擁護委員は、この事実を知ると、地域の役員のところへ行き、速やかに水道の給水を再開するように訴えた。こうしたなかで、これ以上、学会員への締めつけを続ければ、自分たちが、不利な立場に追い込まれかねないと判断した区長らは、学会員の地区民としての権利を、認めることにした。

 青垣町の村八分事件が、一応、落着を見せるのは、事件の発生から二週間ほどあとのことであった。

 区長らが役場で学会員に謝罪し、地区民としての権利の回復を認め、和解するというかたちがとられた。

 しかし、その後も、いやがらせは続いた。雑貨店を営む立田治男の家には、地区民は誰も買いに来なくなった。近隣の人は、小声でこう言うのであった。

 「あんたのところで買いたいんやけど、偉いさんがうるさいもんやで……」

 立田は、やむなく行商に歩いた。地域の人たちの多くは、道で会っても、声一つかけなかった。

 しかし、彼らは意気軒昂であった。青垣町での布教は以前にも増して進んだ。

 学会員の主張は、法律に照らしても正しいことは明確であったし、明るさを失うことのない同志の姿に、皆が心をひかれ始めたからである。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 47頁~52頁

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2022年1月22日(未掲載)

村八分

(2)

 

<寄付の強要>

 

 また、同じ兵庫県の三田市のある地域でも、同様の事件が起こっていた。

 この年の一月初めに、浄土真宗の寺院の報恩講が行われ、その費用が各戸に割り当てられた。それは地域のしきたりとなっていた。

 しかし、学会員の福田民人という青年が、支払いを拒否したのである。地域の六十数世帯のうち、学会員はわずか一世帯であった。

 福田民人の入会は、一九五九年(昭和三十四年)の三月のことであった。

 彼は、大阪の豊中に出ていたが、翌年の四月、広宣流布への使命に燃え、故郷の三田市に帰って来た。

 そして、山本伸一が会長に就任すると、彼も、地域のなかで、折伏に立ち上がった。しかし、旧習の深い土地柄のせいか、それが、学会への反発を招いてしまった。そのなかで、割り当てられた、寺の行事の費用の支払いを拒否したのである。福田は、自分が信じてもいない宗派の寺の宗教行事に、金を出さなければならないというのは納得できないと、主張していた。

 彼の父親は既に入会していたが、以前、その寺の檀家総代もしていただけに、地区民の反響は予想以上に大きなものがあった。だが、福田は、むしろ、この機会に、さらに地域の人たちを折伏し、宗教に正邪があることを訴えようと思った。

 そこで、大阪の組織の男子部に応援を頼むと、二十人ほどのメンバーが喜んでやって来た。そして、面識のない家々を訪ね、軒並み折伏をして歩いた。最後には勝鬨をあげ、学会歌を歌って意気揚々と引き揚げていった。

 六一年(昭和三十六年)の一月半ばのことである。青年たちは、意気盛んではあったが、いささか常識を欠いた、自己満足的な行動ともいえた。

 夜になると、地域中から、福田の家に抗議が殺到し、怒鳴り込んで来る人もいた。これを契機に、福田が寺院への費用を拒否したことに対する、地域の人たちの、激しい批判が沸騰した。

 地域の区長は、福田に寺の行事の費用を出すように説得したが、彼は断った。

 「なんと言われようが、今後、寺や神社の費用はいっさい出しません」

 すると、区長は地域の役員会を開き、地区民で決定した事項を守らない行為があった場合、地区民としてのいっさいの権利と資格がなくなることをうたった地区規約を、弁護士と相談して作成したのである。

 そして、二月の二十二日には、地域の臨時総会を開催し、この規約が決議されることになった。地域の役員は、総会の開催を伝えるために、家々を訪ねながら、こう触れ回って歩いた。

 「この総会で、福田の家は村八分や。そのための規約を決めるさかい、印鑑を忘れんようにな」

 福田が定刻に総会の会場に着くと、既に、地域の全世帯の人が出席していた。彼に、一斉に視線が注がれた。冷ややかな、とげとげしい目であった。

 総会が始まった。

 区長は初めに、別件について語ったあと、おもむろに話を切り出した。

 「皆さんもご存じのように、福田さんが大阪から帰って来て、この地域で宗教活動を始められてからというもの、これまで何も波風の立ったことのない地区の平和が、壊されようとしております。

 寺の報恩講の費用を皆で出し合うことは、この地区の伝統であり、文句を言う者など、誰もいませんでした。しかし、福田さんは、それも断ってきた。そのうえ、学会員が集団でやって来て、強引に勧誘するようになった。恐ろしいことやと思います。私は、これから先のことを考えると、心配でなりません。

 そこで、この際、地区民の統制のために、寺の行事への協力を拒否するなど、地区のしきたりに従わん行為に対しては、地区の共有財産権を失う旨、明確に地区規約に定めることを決議したいと考えております。皆さん、どう思いますか」

 場内に歓声があがった。

 何人かの人が勇んで発言した。福田民人の吊し上げが始まった。

 最初に一人の壮年が話し出した。

 「わしは福田さんに言いたい。創価学会なんていうものが、永遠に続くと思っとるんか。そんなもの、すぐに消えてなくなるで。そうしたら、死んだ時に、誰に葬式出してもらうんや。そやから、地域の寺は大切にせなあかん。それを否定し、秩序を乱す者は、地区の共有財産権を失うのは当然や」 「そうや!」

 「そうや!」

 次第に地区民はいきり立っていった。

 「地区の秩序を乱すようなことをする者には、地区の水道も止めるべきや」

 「学会をやめんのなら、地区の道も歩くな!」

 「子どもの遊び場も使わせへんで!」

 もはや、脅迫といってよかった。皆の発言が一通り終わると、区長が言った。

 「福田さん、反論があれば、どうぞ」

 福田が立ち上がった。

 一斉に、罵声と怒号が浴びせられた。

 「みんなが、今やろうとしていることは、憲法違反や、人権侵害や。こんなことは、絶対に許されることやない。私は、寺の費用は何があっても出せません。これだけは、絶対に譲れません」

 福田が話し終わると、区長が言った。

 「地区の平和を守るため、作った規約を発表します」

 区長は、新しい地区規約を読み上げていった。

 「当地区の協議決定事項のいかなる事についても、自分の好むものはよし、好まぬものは知らぬというような事になると、地区全体の統制がとれなくなる。

 よって、次の申し合わせ規約を定む。

 一、当地区自治体の協議において決定した、あらゆる共同事業の経営に際し、地区の財産及び資金をもって充当するも、何人たりとも、異議の申し立てをする事はできない。

 二、地区の協議において決定せられたすべての協議事項を履行せざる者は、(原則として)地区の一員(戸主)としての権利と資格を放棄したものと認む。

 三、この規約に違反したる者は、違反したると認めた時日より満一カ年後において、地区の一員(戸主)の資格を失うものとする」

 そして、この新規約の決議に移った。

 福田民人以外は、一人の壮年が反対しただけで、あとは全員が賛成であった。新規約に皆が署名、捺印していった。

 区長は言った。

 「これで多数決により、可決いたしました。この規約は、本日より施行されることになります」

 拍手と歓声があがった。信教の自由も人権も奪う、憲法に反する地区規約が成立してしまったのだ。

 会場を後にする福田の背に、嘲りの声が浴びせられた。福田は、胸の底から怒りがあふれ、体はワナワナと震えた。

 〝こんなことが許されてええんか! 日本は法治国家や。人権が踏みにじられてなるもんか。俺は戦う。断固、戦ってみせる。絶対に負けるもんか……〟

 福田は関西の幹部らと連携を取り、地元の三田署に人権侵害、名誉毀損で区長を告訴した。また、法務局にも、地区規約には憲法違反の疑いがあることを告げて、調査を要請した。

 法務局は、すぐに調査を開始し、区長に対して、地区規約を破棄するよう勧告した。しかし、地元の警察は、地区の役員らと密接な繋がりがあるせいか、いくら窮状を訴えても、なかなか動き出そうとはしなかった。

 また、勧告を受けても、地区の役員は、考えを改めようとはせず、役員の一人は、こう言ってはばからなかった。「憲法違反であろうが、なかろうが、地区のことは地区の規約によって運営するものや」

 福田の一家には、さまざまな圧力がかけられた。

 福田民人の地域では、竹細工が名産であり、彼の家でも竹カゴなどを作っていたが、問屋がそれを引き取らなくなった。問屋はこの時、寺の檀家総代であった。福田が勤めに出ていたことで、一家は辛うじて生計を立てることができた。

 そんな彼にとって、「我々は、戦おうじゃないか!」との、三月十六日の山本会長の指導は、大きな勇気となり、力となった。

 〝いよいよ魔が競い起こって来たんや。信心が試されているんや〟

 彼はへこたれなかった。

 この事件は、区長らが地区規約を破棄し、福田が告訴を取り下げて、和解が成立するまでに、実に約二年間の歳月を要している。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 52頁~59頁

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2022年1月22日(未掲載)

村八分

(3)

 

「個」の自立の排除>

 

 こうした事件は、兵庫県だけではなかった。やはり同じころ、三重県の熊野市のある漁村では、学会員十三世帯が、地域で祭っている「山の神」の行事への参加を拒否したことから、地区の決議によって、共有林などの財産権を剥奪されるという事件が起こっている。

 さらに、熊本県阿蘇郡小国町や群馬県安中市では、神社の行事に協力しなかったとして、学会員には、農業に必要な共同機材などを使用させないといった村八分事件があった。

 なかには、神社の寄付を断ったことから、祭りのたびに、学会員の店に、神輿を乱入させるというものもあった。祭りを利用しての悪質な集団暴力といってよい。

 地域の祭りなどの場合、現代では、宗教的な意味合いは薄く、文化・社会的な習俗となり、地域の親睦の場となっていることが少なくない。したがって、祭りなども、信仰として参加するのでなければ、直ちに謗法となるわけではない。

 しかし、各地に起こった村八分のケースを見ると、宗教色の極めて強い行事に、しかも、半ば強制的に参加させられることへの同志の拒否に始まっている。それは、彼らが学会員となることによって、信教の自由に目覚めたからにほかならない。

 もともと、折伏を受け、対話の末に、入会すること自体が、信教の自由を前提に、自らの意志で宗教を取捨選択することであり、人間としての自立を意味しているといえよう。

 山本伸一は、村八分事件の報告を聞くたびに胸を痛めた。自分のこと以上に辛かった。彼は、励ましの言葉を送るなど、さまざまな激励の手を差し伸べた。

 また、最高幹部をはじめ、各地の幹部にも、一人ひとりを温かくつつみ、応援していくよう指示していった。

 伸一は、なんの罪もない同志が、理不尽な圧迫を受けていることが、かわいそうでならなかった。しかし、それは仏法の法理に照らして考えれば、当然のことでもあった。

 彼の会長就任以来、新たな弘法の波が広がり、日本の広宣流布は飛躍的に伸展しているのである。

 

 学会員への村八分の理由となったのは、

 いずれも、

 寺院や神社の行事への不参加や、

 寄付の拒否であったが、

 

 それらは、むしろ、

 口実にすぎなかったようだ。

 本当の理由は、

 それぞれの地域で、

 本格的な折伏が始まったことへの〝恐れ〟

 にあったといってよい。

 

 学会の布教によって、

 まず、既成宗派の寺院や神社が、

 檀家や氏子が奪われてしまうという

 危機感をいだいた。

 さらに、寺院や神社にかかわりのある

 地域の有力者たちが、

 学会員が増えていけば、

 地域の秩序が乱され、

 自分たちの立場も危うくなる

 かのような錯覚をもち、

 学会員を締め出しにかかったのである。

 また、そこには、

 他宗派や一部のマスコミの喧伝による、

 学会への歪められた認識もあった。

 

 大聖人は、

 「大難なくば法華経の行者にはあらじ」

 (御書一四四八㌻)と仰せである。

 難がなければ、まことの信心ではない。

 広宣流布が進めば、

 必ず嵐が競い起こるはずだ。

 

 しかし、確かに嵐は吹き始めたが、

 それは、まだまだ本格的な嵐というには、

 ほど遠いことを伸一は感じていた。

 彼は「難来るを以て安楽と意得可きなり」

 (御書七五〇㌻)との御文を思い起こした。

 そして、全同志を、どんな大難にも、

 喜び勇んで立ち向かっていける、

 強き信仰の人に育て上げなくてはならないと思った。

 

 伸一は、この村八分事件を、

 そのためのステップと、とらえていたのである。

 

 また、これらの事件は、

 社会的に見れば、

 日本という国の、未成熟な民主主義と人権感覚

 物語るものであったといってよい。

 

 古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、

 地域の共同体と宗教とが、

 密接に結びついてきた。

 

 江戸時代になると、

 幕府の宗教政策によって寺檀制度がつくられ、

 寺院によって民衆が管理されるようになった。

 そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、

 本来の人間の道であるかのような意識が、

 人びとに植えつけられていった。

 

 さらに、明治以降、神社神道が、

 事実上、国教化されたことで、

 神社はもとより、宗教への従属意識は、

 ますます強まっていった。

 

 地域の寺院や神社に従わなければ、

 罪悪とするような日本人の意識の傾向は、

 いわば、政治と宗教が一体となり、

 民衆を支配してきた、

 日本の歴史のなかで、

 培われてきたものといえよう。

 

 戦後、日本国憲法によって、

 信教の自由が法的には完全に認められても、

 国民の意識は旧習に縛られたまま、

 依然として変わることがなかった。

 そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、

 地域の寺院や神社を崇め、

 寄付や宗教行事への参加が、

 すべての地域住民の

 義務であるかのように考えられてきた。

 

 では、なぜ、人びとは民主主義を口にしながらも、

 無批判に共同体の宗教を受け入れ、

 旧習から脱することができなかったのか。

 

 それは、民主主義の基本となる

 「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。

 一人ひとりの「個」の確立がなければ、

 社会の制度は変わっても、

 精神的には、集団への隷属を免れない。

 

 さらに、日本人には、

 「個」の自立の基盤となる

 哲学がなかったことである。

 本来、その役割を担うのが宗教であるが、

 日本の宗教は、

 村という共同体や家の宗教として

 存在してきたために、

 個人に根差した宗教とはなり得なかった。

 

 たとえば、日本人は、

 寺院や神社の宗教行事には参加しても、

 教義などへの関心はいたって低い。

 これも、宗教を自分の生き方と切り離して、

 村や家のものと、とらえていることの表れといえる。

 

 もし、個人の主体的な意志で、

 宗教を信じようとすれば、

 教えの正邪などの内実を探究し、

 検証していかざるを得ないはずである。

 

 こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、

 日本人は、自分の宗教について尋ねられると、

 どこか恥じらいながら、

 家の宗教を答えるか、

 あるいは、無宗教であると答える場合が多い。

 

 それに対して、欧米などの諸外国では、

 誇らかに胸を張って、

 自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。

 宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、

 信念の骨髄といえる。

 その宗教に対する、

 日本人のこうした姿は、

 世界の常識からすれば、

 はなはだ異様なものといわざるを得ない。

 そのなかで、

 日蓮仏法は個人の精神に深く内在化していった。

 そして、同志は「個」の尊厳に目覚め、

 自己の宗教的信念を表明し、主張してきた。

 

 いわば、

 一連の学会員への村八分事件は、

 民衆の大地に兆した「民主」の萌芽への、

 「個」を埋没させてきた

 旧習の抑圧であったのである。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 59頁~64頁

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2022年1月22日(未掲載)

村八分

(4)

 

<憲法二十条>

 

 この村八分事件を、参議院議員であった、理事の関久男は、極めて深刻な問題として受け止めていた。

 仏法という次元でとらえれば、それは御聖訓通りの法難であることは間違いない。しかし、関は、政治家としての良心のうえから、信教の自由が保障されている法治国家で、信ずる宗教によって人間が差別されていることを、見過ごすわけにはいかなかった。

 しかも、各地の村八分の状況は、事と次第によっては、生命にもかかわりかねない問題をはらんでいる。

 関は考えた。

 〝これを放っておけば、信教の自由などなくなってしまう。また、人権を守ることなどできない。人権のために戦ってこそ、本当の政治である。しかも、これは、ただ学会員だけの問題ではない。すべての宗教者の人権にかかわっている。いや、宗教者に限らず、人間への不当な差別を許すことになる。

 こうした差別を放置しておけば、日本という国の未来に、大きな禍根を残すことになるだろう。これを解決していくことは政治家の義務だ〟

 関は、学会推薦の他の参議院議員たちとも話し合い、国会でこの問題を取り上げることにした。

 三月二十三日の参院予算委員会で、彼は一般質問に立った。そこで、海外移住や保育所、青少年問題などについて質問するとともに、この村八分事件を取り上げ、関係大臣らに、ただしていった。

 「最近、各地で、神社、仏閣への寄付にまつわる村八分事件が起こっております。これらの寄付は、敬神崇祖などの美名のもとに、祭礼等の際に強制されている。そして、それを拒否すると、村八分にしたり、あるいは神輿を乱入させるなどの、悪質な暴力事件まで起こっております。このことについて、まずご存じなのかどうかを、お伺いしたい」

 最初に答弁に立ったのは自治大臣であった。

 「神社、仏閣、あるいはお祭りなどに際しまして、寄付行為が日本の慣習としてあることは事実でございます。それを和気あいあいとして行っているのであれば、必ずしも、とやかく言う筋のものではないと思います。

 しかし、お話のように寄付が強制的であったり、出さなければ神輿を担ぎ込むといったような、暴力的なことに対しては、従来もそうでしたが、これからも十分に取り締まりたい。また、そうしたことのないように、気をつけてまいりたいと思います」

 関久男は、さらに質問を続けた。

 「寄付をするか、しないかは、あくまでも個人の自由であるはずです。ゆえに宗教上の信念の相違とか、経済上の理由などで、寄付をしないという人もいるわけであります。

 その寄付を強制し、無理強いするようなことがあれば、法律違反は明らかであります。当然、警察が調査に乗り出し、取り締まらなければならないと思う。

 ところが、警察に訴えても、警察官は消極的であることが多い。なかには、寄付は志だから、出した方がよいのではないかという警察官もいる。警察官の在り方として、これでよいのかどうか、お伺いしたい」

 自治大臣が答えた。

 「そうしたケースも、あったかもしれませんが、今後は厳重に取り締まり、そういうことのないようにしていきたい」

 関は、そこで、水道までも止められてしまった兵庫県の青垣町の例や、地区の共有林等の財産権を失った三重県の熊野市の例などをあげながら、いかに深刻な事態が起こっているかを語っていった。

 「……この熊野市の場合など、駐在所に届けたところ、一週間もそのまま放置されておりました。たまりかねて本署の方へ行ったところ、署長はうすうす知ってはいたが、『告発していないから手をつけない。それは、法務局の人権擁護委員の仕事であって、法務局の要請がなければ動かない』と言っている。

 こうした村八分は、

 憲法第二十条にある

 『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式

 又は行事に参加することを強制されない』

 という条項に違反すると思います。

 また、刑法の第二二二条に定められた

 『脅迫』でもあると思いますが、

 当局の見解はどうか、

 明確に答えていただきたい」

 

 自治大臣は大儀そうに立ち上がると、目をしばたたきながら言った。

 「お話のような事態があるとすれば、これは厳重に取り締まり、防止しなければならないと考えておりますし、至急、そうするつもりでございます。

 ただ、こういった問題につきましては、往々にして複雑な原因がからんでいることがございまして、警察の力で解決することが妥当ではない面もあろうかと思われます。そうした点にも、よく気をつけながら、判断し、処理をしてまいりたいと思います」

 あいまいさを残す答弁であった。

 「大臣の答弁を聞いておりますと、複雑な事情がからんでおれば、村八分にされても、仕方ないこともあるように受け取れます。いかなる事情があったとしても、寄付をしないことで村八分にするというのは憲法に抵触し、刑法違反ではないかと思うのですが、この点はいかがでしょうか」

 大臣は、今度は、関のあげた事例の村八分は違法であり、厳重な取り締まりを行うことを明言した。

 関は、さらに、警察庁の保安局長の見解も尋ねた。

 保安局長は、慎重に言葉を選びながら言った。

 「それぞれのケースを詳細に見ていかなければ、結論は出せませんが、今、関委員が言われたケースは、おおむね刑法の第二二二条の『脅迫』にあたるのではないかと思います」

 関の質問は、いよいよ大詰めに入っていった。

 「そういたしますと、祭りや寺の修理などの寄付を拒否したことで村八分にあった場合、それを取り締まらないのは、警察官の怠慢と考えて、よろしいのでしょうか」

 「ご質問にありました村八分のケースを、私が想定してみました場合、まず脅迫罪があると思われます。したがって、その訴えを受けて、ぜんぜん取り調べをしない、捜査を開始しないというのであれば、若干、警察官としては、問題があると思います」

 関は鋭く迫っていった。

 「しかし、さきほども申し上げましたように、実際に、そういうことがあまりにも多い。

 調べてみると、警察官が町や村の役員などと知り合いであったり、飲み友達であったりする。そして、警察官がそちらの有力な方について、村八分にはかかわらないということが、現実に起こっているのです。これに対しては、どうお考えでしょうか」

 「村の有力者と馴れ合いになり、被害の届け出があっても、情実にとらわれて動かないというのは、まことにまずいことであります。厳しく監督をいたさねばならないと思います」

 

 これで、学会員への村八分は、

 違法行為であり、

 訴えがあれば、直ちに警察は

 取り締まらなければならないことが明らかになった。

 当然のことであろう。

 しかし、旧習の深い地域で、

 有力者と警察官とが馴れ合いになり、

 これまで、その当然のことが行われず、

 学会員は不当な差別に、

 泣き寝入りしなければならなかったのである。

 関久男の参議院予算委員会での追及以来、

 警察も学会員の訴えに、

 調査に乗り出し、

 取り締まる姿勢を見せ始めた。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 64頁~70頁

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2022年1月22日

第1872回

「村八分」など蚊に刺されたようなもの

 

<最後は、必ず勝つ!>

 

 しかし、学会員への有形無形の

 圧力や差別がなくなったわけでは決してなかった。

 その後も、各地で学会員へのいやがらせや、

 陰険な村八分が続いていた。

 

 それは、正法正義のゆえに競い起こる、

 経典に説かれた三類の強敵のなかの、

 俗衆増上慢との戦いにほかならなかった。

 

 しかし、同志は信心で耐え、信心で戦い抜いた。

 

 山本伸一も、各地で、そうした同志たちから、

 報告を受けることがあった。

 その時、彼は、こう言うのが常であった。

 「長い人生から見れば、

 そんなことは一瞬です。

 むしろ、信心の最高の思い出になります。

 仏法は勝負です。

 最後は、必ず勝ちます。

 決して、悲観的になってはならない。

 何があっても、堂々と、

 明るく、朗らかに生きていくことです。

 牧口先生は獄死された。

 戸田先生は戦時中に二年間も投獄されている。

 それから見れば、

 村八分なんて、

 蚊に刺されたようなものではないですか。

 皆さんを苛めた人たちは、

 やがて、あなたたちご一家が功徳にあふれ、

 幸福になり、輝く人格の姿を目にすれば、

 とんでもないことをしてしまったと

 思うにちがいありません。

 そして、生涯、後悔することになるでしょう」

 

 伸一は、同情は、

 その場しのぎの慰めでしかないことを、

 よく知っていた。

 同志にとって大切なことは、

 何があっても、決して退くことのない、

 不屈の信心に立つことである。

 そこにこそ、

 永遠に、栄光の道があるからだ。

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 70頁~71頁

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2022年1月23日

第1873回

戸田先生の四回忌法要

 

<正義の証明>

 

 四月二日は、

 山本伸一が会長に就任して初めての、

 第二代会長・戸田城聖の祥月命日であった。

 この日、戸田の四回忌法要が、

 東京・池袋の常在寺で、

 午後一時過ぎから営まれた。

 

 午前中は晴れていたが、

 伸一が会場に到着した正午ごろには、

 空はにわかにかき曇り、

 大粒の雨が降り始めた。

 風も激しく、雷鳴が轟いた。

 春嵐であった。

 伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、

 〝嵐のなかを進め!〟との、

 戸田の指導であるかのように思えてならなかった。

 

 彼は、一九五一年(昭和二十六年)の

 七月十一日に行われた、

 男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。

 その日も、激しい雨であった。

 結成式の席上、戸田は、

 淡々とした口調で、

 

 この日の参加者のなかから、

 必ずや、次の学会の会長が現れるであろう

 と語った。

 

 そして、広宣流布は絶対に

 やり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、

 日蓮大聖人の仏法を、

 東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。

 

 その戸田が逝いて、はや三年が過ぎた。

 伸一は、その間の戦いに、

 いささかも悔いはなかった。

 戸田に向かって、

 弟子として胸を張って報告できる

 自分であることが嬉しかった。

 

 法要が始まった。

 日達法主の導師で勤行・唱題したあと、

 各部の代表らがあいさつに立ち、

 最後に伸一の話となった。

 伸一は、マイクの前に立つと、

 一言一言、噛み締めるように語り始めた。

 

「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に

 会長に就任なされた時、

 嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。

 その前に、事業が窮地に陥り、

 悪戦苦闘されたことから起こった

 批判でありました。

 会長として立ち上がられた戸田先生は、

 そのころ、幾度となく、

 こうおっしゃっておりました。

 

 『今、私は百年先、

 二百年先を考えて立ち上がり、

 戦っている。

 だが、人びとには、それはわからない。

 しかし、二百年たった時には、

 私の行動が、私の戦いが、

 全人類のなかで、

 ただ一つの正義の戦いであったということが、

 証明されるであろう』

 

 先生は二百年先と言われましたが、

 先生が亡くなってたった三年で、

 その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、

 証明されようとしています」

 

 参列者は、目を輝かせながら、

 話に耳をそばだてていた。

 静まり返った場内に、

 師子吼のような伸一の声が響いた。

 

「今や、不幸に苦しんできた民衆が、

 戸田先生の教え通りに信心に励み、

 偉大なる功徳を受け、

 見事に蘇生した姿が、

 全国津々浦々にあります。

 この民衆の蘇生こそ、

 誰人もなしえなかった、

 最大の偉業にほかなりません。

 しかも、それは日本国内にとどまることなく、

 南北アメリカへ、

 アジアへと広がっております。

 これこそが、

 先生の正義の確かなる証明であります。

 

 先生のご精神は、

 御本尊を根本に、

 この世から不幸をなくし、

 平和な日本を、

 平和な世界を築くことにありました。

 そのために、折伏の旗を掲げ、

 広宣流布に一人立たれました。

 

 私どもは、戸田門下生でございます。

 先生が折伏の大師匠であれば、

 弟子もまた、

 折伏の闘将でなければなりません。

 私たちは、毎年、

 先生のご命日を一つのくぎりとして、

 広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。

 私は、戸田門下生の代表として、

 『広宣流布は成し遂げました』と、

 堂々と先生の墓前にご報告できる日を、

 最大の楽しみに、進んでまいります。

 しかし、もしも、それができない場合には、

 後に残った皆さんが、

 同じ心で、広宣流布を成就して

 いただきたいことを切望し、

 私のあいさつといたします」

 

 法要が終わると、

 伸一は窓の外を見た。

 いつの間にか、嵐はやんでいた。

 庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、

 雲間から差す太陽の光を浴びて、

 微風に揺れていた。

 戸田の葬儀の日に、

 別れを惜しむかのように、

 花びらを散らしていた木である。

 咲き香る花を妬むかのごとく、

 吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。

 

<新・人間革命> 第4巻 春嵐 72頁~75頁

 

凱旋

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2022年1月26日

第1879回

広宣流布の伸展とは

幸福の輪の広がり

 

 会長就任一周年となる

 五月三日を前にして、

 山本伸一の動きは、

 ますます激しさを増していった。

 

 広宣流布の伸展とは、

 幸福の輪の広がりである。

 そして、その幸福とは、

 人間の胸中に、

 何ものにも崩されない、

 生命の宝塔を打ち立てることである。

 

 そのために、伸一は、

 一人でも多くの同志と会い、

 励まし、指導することを、

 常に自身の最大の責務としていた。

 

<新・人間革命> 第4巻 凱旋 77頁

 

 

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2022年1月26日

第1880回

青年にとって大事なこと

 

<何があっても、自らを卑下せず、

楽しみながら、無限の可能性を開いていくこと>

 

 車から降りると、元気な青年たちの笑顔に取り巻かれた。そのなかに、見覚えのある、何人かのメンバーがいた。伸一が一年前に高崎を訪問した折、若き中堅幹部として、会場の整理役員をしていた男子部員であった。彼は、その時、わずかな時間であったが、会場の前で、役員の青年たちと語り合ったのである。

 

 ──あの日、

 二十人ほどのメンバーがいたが、

 背広を着ている人は数人にすぎなかった。

 たいていはジャンパー姿で、

 背広を着ていても、

 靴はズックという人もいた。

 仕事も、小さな町工場に勤めている人が多く、

 皆、生活はかなり苦しそうであった。

 

 しかし、彼らは、

 広宣流布の使命を自覚し、

 法のため、人のため、社会のために

 戦う誇りに燃え、生き生きとしていた。

 

 伸一は、その健気な姿に心を打たれた。

 

「かつて、私は貧しいうえに病弱で、

 人生とは何かに、思い悩んでいました。

 しかし、信心に目覚めることによって、

 すべてを乗り越えて来ました。

 皆さんの未来にも、

 必ずや無限の栄光が待っています。

 どこまでも信心を貫き、

 悠々と苦労を乗り越え、

 職場の第一人者として

 胸を張ることのできる、

 ”信頼の柱”になってください。

 

 青年にとって大事なことは、

 どういう立場、どういう境遇にあろうが、

 自らを卑下しないことです。

 何があっても、楽しみながら、

 自身の無限の可能性を開いていく

 のが信心だからです。

 もし、自分なんかだめなんだと思えば、

 その瞬間から、自身の可能性を、

 自ら摘み取ってしまうことになる。

 未来をどう開くかの鍵は、

 すべて、現在のわが一念にある。

 今、張り合いをもって、

 生きているかどうかです。

 今日は、皆さんの新しい出発のために、

 私が青春時代に、

 未来への決意を込めてつくった詩を、

 贈りたいと思う」

 伸一は、こう言うと、

 自作の詩を披露した。

 

  希望に燃えて 怒濤に向い

  たとい貧しき 身なりとも

  人が笑おが あざけよが

  じっとこらえて 今に見ろ

 

  まずは働け 若さの限り

  なかには 侮る者もあろ

  されどニッコリ 心は燃えて

  強く正しく わが途進め

 

  苦難の道を 悠々と

  明るく微笑み 大空仰ぎゃ

  見ゆる未来の 希望峰

  ぼくは進むぞ また今日も

 

 伸一は、青年たちに視線を注ぎながら言った。

つたない詩ですが、若き日の私の心です。

 皆さんも、同じ思いで、

 どんなに辛いこと、

 苦しいことがあっても、

 決して負けずに、

 大指導者になるために、

 堂々と生き抜いてください。

 皆さんの青年時代の勝利を、

 私は、心から祈り念じています」

 

 こうして励ました青年たちが、

 この日の高崎支部の結成大会に、

 一段と成長した姿で、

 伸一の前に集って来たのである。

 青年の成長こそ、

 伸一の最大の希望であり、

 最高の喜びであった。

 

<新・人間革命> 第4巻 凱旋 80頁~83頁

 

青葉

立正安国

大光

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2022年4月3日

第1955回

創価学会は世界の太陽!

 

 

 新しき元初の太陽が、

 悠然と光彩を放ち、昇る。

 

 大仏法とともに生きゆく

 創価学会は、世界の太陽である。

 

 その元初の輝きは、

 不信と憎悪の闇を晴らし、

 地上に燦たる平和の光を注ぐ。

 

 悲哀と絶望の谷間にも、

 希望の光を降らせ、

 苦しみの渦巻く人間の大地を、

 歓喜の花園に変える。

 

 この太陽をさえぎることは

 誰にもできない。

 黒き妬みの雲を見下ろし、

 彼は、堂々と、わが軌道を進む。

 

<新・人間革命> 第4巻 大光 295頁

 

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2022年4月3日

第1956回

ヒトラー

(1)

 

<独裁者となるまでの経緯>

 

 アドルフ・ヒトラーは、一八八九年四月、オーストリアの税関吏の子として生まれた。十三歳で父を、十八歳で母を亡くし、ウィーンに出て、画家を志すが果たせなかった。

 一九一三年、兵役を拒否してドイツのミュンヘンに逃れるが、第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍に志願兵として入隊した。

 敗戦後、彼は、ミュンヘンの反動的な弱小政党であったドイツ労働者党に入党する。大衆の不満や欲望を扇動する才に長けた彼は、たちまち頭角を現し、党勢を拡大していく。

 ヒトラーは党内で影響力を強めて、次々と権限を掌中に収め、党名も国家社会主義ドイツ労働者党(この通称がナチスである)に変更する。そして、とうとう独裁的な党首の座に就くに至るのである。

 ヒトラーがナチスの党首になったのは一九二一年七月。そして、彼がドイツの首相に任命され、遂にナチス政権が誕生するのは、十一年半後の、三三年一月三十日であった。

 それから一カ月後、ベルリンの国会議事堂が炎上するという事件が起こった。すると、ナチスは、この事件は共産主義者の陰謀だと騒ぎ、人びとの不安と危機感を利用して、共産主義者など反ナチ勢力に大弾圧を加えていった。

 さらに、国難に対処すると称して、巧妙に世論を操作し、国会の選挙に勝利すると、議会に圧力をかけ、ヒトラーに全権を委任する法案を承認させてしまう。

 続いて、ナチス以外の政党を解散・禁止し、翌年の八月には、ヒトラーは首相と大統領を兼ねた「総統」に就任するのである。

 こうして、ドイツ第三帝国──ヒトラー独裁の暗黒時代が始まったのである。

 山本伸一は、かいつまんで、ヒトラーが独裁者となるまでの経緯を語った。

 (つづく)

 

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2022年4月4日

第1958回

ヒトラー

(2)

 

ヒトラーの戦争はユダヤ人への戦争

 

 「(略)ヒトラーの戦争は一面、『ユダヤ人への戦争』だった。ドイツ国内はもちろん、ナチスが侵略した地域で、約六百万人ものユダヤ人が殺されたといわれているんだから……」

 思いがけず、ナチスのユダヤ人迫害の話になり、同行の友も、にわかに真剣な顔で耳をそばだてていた。

 ──ヒトラーは、彼の政治活動の初めから終わりまで、ユダヤ人への憎悪を燃やし続けていた。

 たとえば、最初の政治的な発言とされる、一九一九年に書かれた文書には、早くも「反ユダヤ主義の究極の目標は、断固としてユダヤ人そのものを除去することにあらねばならない」という一節が見える。

 また、彼の自伝『わが闘争』では、「このユダヤ人問題を解決することなしに、ドイツの再生や興隆を別に試みることはすべてまったく無意味であり、不可能でありつづける」とし、執拗なユダヤ人攻撃を、叫んでいる。

 そして、彼が引き起こした戦争の敗北が決定的であった、一九四五年の四月の時点でも、ヒトラーは、ユダヤ人虐殺を自画自賛していた。

 「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国家社会主義に永遠に感謝するであろう」

 数百万人の無辜の民衆を大虐殺(ホロコースト)の地獄に突き落としながら、何の良心の呵責もなく、こう言って憚らなかったのである。

(つづく)

 

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2022年4月5日

第1959回

ヒトラー

(3)

 

<なぜヒトラーの独裁を許してしまったのか?

 

 すると、黒木昭が、不可解そうな顔で尋ねた。

 「でも、どうしてヒトラーの独裁を許してしまったのでしょうか。ドイツには、当時、世界で最も民主的といわれたワイマール憲法があったはずなんですが……」

 「うん、それは、大事な問題だね」

 伸一は、さらに、歴史的な背景を語っていった。

 ──第一次世界大戦の末期、革命が起こり、皇帝はドイツを去った。帝政の崩壊、敗戦、そして、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。

 しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツでは、憲法の理想主義的な理念に比べて、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。

 つまり、民主という時代の流れに対し、人びとの意識が立ち遅れていたといえよう。

 しかも、ドイツは、ベルサイユ条約によって、莫大な賠償を課せられていた。それは、ドイツ経済に大変な重荷になったばかりか、結果的に、深刻な経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。

 特に、一九二三年に起こったドイツ貨幣(マルク)の大暴落は、目を覆うばかりであった。八月に、戦前の貨幣価値の百十万分の一になったかと思うと、十月には、なんと六十億分の一に下落してしまった。当時、丸二日間、働いて、やっとバター一ポンド(約四百五十三グラム)が買えるような惨状であったという。

 こうした経済の破綻が、国民の生活を窮地に追い込んでいたのである。

 経済の混乱による生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。

 当時のドイツには、全人口の約一パーセントにあたる五十数万人のユダヤ人が住んでいたとされる。

 ユダヤ人は長い間、流浪を強いられながらも、独自の宗教的な共同体を守り抜いてきた。しかし、キリスト教社会にあって、ユダヤ人は異質な存在とされ、一般の市民と同等の諸権利は与えられず、租税、職業、結婚など生活全般にわたって徹底して差別された。

 住む場所も、市民とは切り離され、「ゲットー」と呼ばれる、城壁の外の強制居住地区とされた。そのうえに、疫病が流行すれば、ユダヤ人が井戸に毒を入れたといって虐殺され、ユダヤ教では幼児を生け贄にするといっては迫害されてきた。

 ユダヤ人は、こうつぶやくほかなかった。

 「海は底知れない、ユダヤ人の悩みも底知れない」(ユダヤの格言)

(つづく)

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2022年4月6日

第1960回

ヒトラー

(4)

 

<ドイツでのユダヤ人への偏見と差別

 

 彼らが、ようやく人間らしい権利を得るのは、近代のフランス革命の時代に入ってからである。しかし、市民社会の形成が遅れたドイツでは、ユダヤ人が市民権を獲得するのは、十九世紀の後半であった。

 だが、それとても、極めて不安定なものであり、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人の宗教的な共同体を、「国家の中の国家」と言って危険視していた。

 つまり〝ユダヤ人の忠誠は、彼らだけの「国家内国家」に対するもので、彼らがキリスト教国家に対して忠誠であるわけがない〟というのである。

 ユダヤ人が互いに強く結び合っていたのは確かだが、実際には、彼らは、ドイツ国民として、懸命に国家に貢献しようとしてきたのである。それにもかかわらず、ユダヤ人が、流浪の歴史のなかで世界に散在し、国家を超えて国際的に結びついていることから、〝国際ユダヤ主義〟だとして、国家にとって危険極まりないものと喧伝されてきた。

 そして、第一次世界大戦で、ドイツの経済が危機に瀕すると、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のない噂が流されたのである。

 「ユダヤ人が、大儲けするために戦争を起こしたのだ」

 「戦場に出て戦うのはドイツ人、陰で社会をあやつり、甘い汁を吸うのがユダヤ人だ」

 しかし、事実は、多くのユダヤ人がドイツのために血を流していた。この大戦では、全ドイツのユダヤ人の、実に二割近くにあたる十万人が従軍し、戦死者は一万二千人にも上ったといわれるのである。

(つづく)

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2022年4月7日

第1963回

ヒトラー

(5)

 

「ウソも百回言えば本当になる」

 

 

 ヒトラーが政治活動を開始したのは、このように、ドイツ国内に、ユダヤ人へのゆえなき反発が高まっていた時代であった。

 彼は、アーリア人種が、他のあらゆる人種に優越するとし、その頂点にドイツ民族を置いた。そして、奴隷的な条約である、べルサイユ条約を破棄して、ドイツ民族にふさわしい「生存圏」の確保、領土の拡張をと訴えていった。

 その一方で、彼は、ユダヤ人がアーリア人種の純血性を侵し、ドイツの衰退をもたらす劣等人種であるとして、徹底的な排斥を主張したのである。だが、そもそも〝ユダヤ人種〟や〝アーリア人種〟という「人種」自体が、存在しない。反ユダヤ主義は、まさに、政治的な「人種差別主義」であった。

 今日のイスラエルの帰還法の定義では、ユダヤ人とは、〝ユダヤ人の母親から生まれた人、およびユダヤ教に改宗した人〟をさす。つまり、ユダヤ教に基づく独自の宗教的・文化的な伝統を共有する人びとをいうのである。

 だが、ヒトラーは〝ユダヤ人は、決して「宗教」ではなく、「人種」である〟と強弁し、ありとあらゆるウソを捏造していった。

 その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」ということであった。

 ヒトラーは、〝ユダヤ人は「宗教」を称することによって、自らの政治的な野望を隠している。自分はこのユダヤ人の「野望」を叩きつぶすだけなのだ〟と、弾圧を正当化し、こう喧伝していった。

 

 ──ユダヤ人は、

 「寄生虫」であり、

 その金融資本の力で労なくして巨利を得ている。

 「吸血虫」のように、

 ドイツ人の毛穴から生き血を吸っている。

 現世主義者のユダヤ人は金と権力をひたすら求め、

 そのためには、いかなる手段も選ばない。

 ユダヤ人こそ「われわれのすべての苦しみの原因」であり、

 「南京虫のように」除去しなければ、

 自分たちが食われてしまう。

 危険な事態は、

 人びとが気づかないうちに進行している。

 既に、政治、経済、官界、学術界へと、

 ユダヤ人はあらゆる分野に忍び込み、

 背後で牛耳っている。

 今のワイマール政府も、

 議会も、ユダヤ人の「手先」なのだ──と。

 

 これらは、すべて悪意のデマであった。

 

 だが、こうしたデマも、

 反ユダヤ主義の風潮のなかで、

 「ウソも百回言えば本当になる」とばかりに、

 繰り返し喧伝されることで、

 巨大な力をもったのである。

 

 権力の魔性の虜となり、

 ドイツを、さらには、

 世界を支配しようとの野望をいだいていたのは、

 ヒトラー自身であった。

 しかし、彼はそれを、そっくり、

 ユダヤ人のこととしたのである。

 邪悪な権力者が、ともすれば用いる、

 卑劣な排斥の手法といえよう。

(つづく)

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2022年4月8日

第1964回

ヒトラー

(6)

 

ヒトラーの喧伝への反証

 

 

 ヒトラーが喧伝したことを、具体的に検証してみればどうなるか。

 

 たとえば、ユダヤ人の手先だと非難中傷されたワイマール政府にしても、ヒトラーが政権を握るまでの十四年間に、閣僚の数は、延べ四百人近くに上ったが、このうち、ユダヤ系の大臣は、わずか五人に過ぎなかったという。しかも、皆、短期間で交代しているのである。とても「ユダヤ人が牛耳っている」とはいえまい。

 

 また、一部のユダヤ人が金融業界に力をもっていたことは事実だが、それには、歴史的な背景がある。中世以来、キリスト教会が、金を貸して生業とすることをキリスト教徒に禁じたため、差別され、職を得られぬユダヤ人たちは、やむなく、それを生業としてきたのである。好んで、金融業界に狙いを定めたのでもなければ、社会を、支配しようとしたわけでもない。

 

 さらに、ユダヤ人が、学術・芸術などの世界で、多くの偉人を輩出してきたことは確かである。たとえば、ノーベル賞が制定されてから、ヒトラー政権の誕生までで、ドイツ国籍の受賞者は三十八人を数えている。そのうち、相対性理論で知られる世界的な物理学者アインシュタインなど、十一人がユダヤ系であった。実に、全体の三割近くにあたっている。

 だが、これもユダヤ人が「教育」を大切にしてきた賜物であった。迫害され、土地を追われても、教育さえあれば、どこでも生きていけるからだ。まさに苦難の嵐をバネに、多大な努力を重ねてきたのである。この教育の伝統が、優秀な才能を生む土壌となったのである。また、そうした優れた知性は、本来、ユダヤ人社会のみならず、ドイツの社会全体を、ひいては人類を豊かにするものであったといえよう。偏狭なユダヤ人憎悪は、こうした精神的な財産さえも拒否したのである。

 

 さらに、ヒトラーは、ユダヤ人の謀議の記録と称する『シオンの議定書』という、かつて流布した偽造文書まで持ち出し、ユダヤ人の「世界支配の陰謀」があると攻撃した。出所不明の〝怪文書〟による中傷である。これもまた、不当な弾圧を行う際、権力者が用いる常套手段といってよい。

 しかも、ヒトラーは、ユダヤ人が〝議定書〟を執拗に否定すること自体が、この書の真実性の証拠だとまで言ったのである。

 

 当時の多くのマスコミは、ヒトラーの代弁者となり、反ユダヤ主義を煽る記事を書き立てた。それが、いかに真実とかけ離れたものであったかを物語る、こんなジョークが伝えられている。

 ──一人のユダヤ人の男が、ナチス系の新聞を、なぜか満足げに読んでいた。

 「どうして、そんな新聞を読むのかね」

 ほかのユダヤ人が尋ねると、その男は言った。

 「ユダヤの新聞は、ユダヤ人への迫害の話ばかりだが、この新聞には、俺たちが一番金持ちで、世界を支配していると書いてあるんだもの」

(つづく)

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2022年4月9日

第1965回

ヒトラー

(7)

 

<思い通りにならないユダヤ人を絶滅しようとした

 

ともあれ、ヒトラーは自分の気に入らないものは、すべてユダヤ人に結びつけた。

 民主主義も、議会主義も、自由主義も、国際主義も、また、人びとの自由と平等を広げる人権思想も、いっさいが〝ユダヤ人がアーリア人を支配しようとして考え出した道具〟だと見た。

 だが、そのような強大な〝支配者ユダヤ人〟がどこにいるというのか。結局、ヒトラーの妄想のなかにすぎない。にもかかわらず、彼の偏見と差別意識に満ちた妄想は、文字通り、狂気の暴走を始めてしまったのである。

 こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、〝アウシュビッツ〟に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。

 なんという狂気か。なんという惨劇か。

 ヒトラーの政権に抗議し、アメリカに亡命していた物理学者のアインシュタインは、その迫害者の心理を、次のように鋭く分析している。

 「ユダヤ人についての憎悪感は民衆の啓蒙を忌み嫌うべき理由をもつ人々によるものなのです。この種の人々は、他の何物にもまして知的独立の精神に富む人々の感化を恐れています。(中略)彼らはユダヤ人をドグマを無批判に受け入れるように仕向けることのできない非同化的な一要素と見なしており、したがってユダヤ人なるものが存在するかぎり、それが大衆の広範な啓蒙を主張し続けることによって彼らの権威を脅かすものと考えているのです」

 この指摘のように、権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを、何よりも恐れる。それゆえに、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。

(つづく)

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2022年4月10日

第1967回

ヒトラー

(8)

 

<悪法によるユダヤ教徒への大弾圧

 

 ヒトラーが権力を掌握すると、それを待っていたかのように、ユダヤ人に対する暴行や略奪が相次いだ。

 当然、国際的な非難が強まり、ドイツ製品のボイコットまで起こった。すると、ナチスは、この責任はユダヤ人にあると言い出し、〝懲らしめ〟のためと称して、国内のユダヤ人ボイコット運動に移った。

 さらに、次々に、反ユダヤ立法が行われる。ユダヤ人を狙い撃ちし、追い詰めるために、道理を曲げ、〝民主憲法〟を踏みにじり、悪法を量産していった。ナチス政権の誕生から五年ほどで、そうした法律や規定は、実に一千件を超えるといわれている。

 まさに、白昼堂々、ユダヤ人は、人間として、ドイツの市民として、生きる権利を制限され、自由を奪われていったのである。

 また、ナチスは、ユダヤ人の経済力の破壊と収奪を目論んだ。一九三八年に、ユダヤ人の財産登録を義務化すると、これをもとに、情け容赦なく、財産を没収していった。

 いったい「生き血」を吸っていたのはナチスか、ユダヤ人か。真実は明らかであろう。

 なかでも、ユダヤ人の運命に、決定的な影響を与えたのは、一九三五年に制定された、悪名高いニュルンベルク法であった。これによって、ユダヤ人は、法的に、ドイツ人に従属する別の人種、〝二級市民〟と規定され、公民権を奪われたのである。

 その際、ナチスが定めた〝ユダヤ人の定義〟では、祖父母の代まで遡って、ユダヤ教徒かどうかが基準になっていた。このことからも、「ユダヤ人は人種である」とのナチスの主張がウソであったことは明白であろう。結局、それは、特定の宗教を信じる国民への差別を合法化するものであった。

 一九三八年十一月には、ユダヤ系青年による、ドイツ外交官の暗殺事件をきっかけに、ドイツ全土で、ユダヤ人に対する大迫害が起こる。夜陰に乗じて、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)や、ユダヤ人の商店が壊され、百人近いユダヤ人が殺された。さらに、二万から三万人が逮捕され、強制収容所に送られた。

 いわゆる「水晶の夜」である。破壊の嵐のあと、ガラスの破片が散乱していたことから、こう名づけられた。ユダヤ人にとって、最悪の〝ポグロム(迫害・虐殺)の夜〟であった。

 これらは、すべて、一九三九年の九月一日、ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発する前のことである。

(つづく)

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2022年4月11日

第1968回

ヒトラー

(9)

 

「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」

 

 

 山本伸一は、ヒトラーのユダヤ人迫害の経緯を語ったあと、強い口調で言った。

 「忘れてならないのは、ヒトラーも、表向きは民主主義に従うふりをし、巧みに世論を扇動し、利用していったということだ。

 民衆が、その悪の本質を見極めず、権力の魔性と化した独裁者の扇動に乗ってしまったことから、世界に誇るべき〝民主憲法〟も、まったく有名無実になってしまった。これは、歴史の大事な教訓です」

 十条潔が、憤りを浮かべながらつぶやいた。

 「こんなにひどいことが行われていたのに、ナチスに抵抗する動きはなかったのでしょうか……」

 伸一は言った。

 「もちろん、抵抗した人たちもいる。しかし、本気になって抵抗しようとした時には、ナチスは、ドイツを意のままに操る、巨大な怪物に育ってしまっていた。結局、立ち上がるのが遅すぎたのだ。多くの人びとは、ナチスのユダヤ人迫害を目にしても、黙って何もしなかった。無関心を装うしかなかった。それが、ナチスの論理に与することになった。

牧口先生は、『よいことをしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである』と言われているが、『悪』を前にして、何もしないで黙っていたことが、悪に加担する結果になってしまったわけだね」

 たとえば、ドイツのキリスト教会からは、後に、強い抵抗運動も起こっているが、ナチスの政権ができた当初は、むしろ協力的であった。

 

 キリスト教会における、反ナチ闘争の中心的人物となった牧師マルティン・ニーメラーは、ナチスの暴虐が進んでいくのを目の当たりにして、自分がどう思ったかを、概要、次のように回想したという。

 

 ──ナチスが共産主義者を襲った時、不安にはなったが、自分は共産主義者ではなかったので抵抗しなかった。ナチスが社会主義者を攻撃した時も不安はつのったが、やはり抵抗しなかった。次いで、学校、新聞、ユダヤ人……と、ナチスは攻撃を加えたが、まだ何もしなかった。そして、ナチスは、遂に教会を攻撃した。自分はまさに教会の人間であり、そこで初めて抵抗した。しかし、その時には、もはや手遅れであった──と。

 

 こうした悲惨な時代を生きた人びとは、すべてが起こってしまったあとに、その教訓として、次のような格言を、苦い思いで噛み締めたという。

 すなわち、「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」と。

 悪の芽に気がついたら、直ちに摘み取ることだ。悪の〝発端〟を見過ごし、その拡大を放置すれば、やがて、取り返しのつかない〝終末〟をもたらすことになる。

(つづく)

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2022年4月12日

第1970回

ヒトラー

(完)

 

『悪』に気づいたら、断固、立ち上がれ!>

 

 ラインの川面は、金波から赤紫に変わり、街の明かりを映し始めていた。

 山本伸一は、静かに言葉をついだ。

 「最初から迫害のターゲットになっていた、ユダヤ人たちにとっては、ナチスの本性はあまりにも明白であったはずだ。ところが、一般のドイツ人にしてみれば、ナチスの暴虐も、自分たちに火の粉が降りかかるまでは、対岸の火事でしかなかった。その意識、感覚が、『悪』を放置してしまったんです

 谷田昇一が、深い感慨を込めて言った。

 「人間は、他の人が迫害にさらされていても、それが自分にも起こり得ることだとは、なかなか感じられないということなんですね……」

 伸一が答えた。

 「そうかもしれない。しかし、ナチスにとっては、ユダヤ人への偏見や悪感情が広がり、ユダヤ人と他の人びとの間に、意識的な隔たりが大きくなればなるほど、迫害も、支配も容易になり、好都合ということになる。それは、ある意味で、民衆自身の意識の問題といえるかもしれない。

 ともかく、民衆の側に、国家権力の横暴に対して、共通した危機意識がなかったことが、独裁権力を容易にした理由の一つといえるだろうね。

 今、学会がなそうとしていることは、民衆の心と心の、強固なスクラムをつくることでもある

 伸一の話に頷きながら、谷田が言った。

 「今のお話は、本当に大事な問題だと思います。日本にも平和と民主のすばらしい憲法があっても、それが踏みにじられることにもなりかねないですね」

 「そうなんだよ。たとえば、明治憲法でも、条件付きながら、信教の自由は認められていた。それが、なぜ、かつての日本に、信教の自由がなくなってしまったのか。

 政府は、神社は『宗教に非ず』と言って、神道を国教化していった。やがて、治安維持法によって、言論、思想の自由を蹂躙し、宗教団体法によって、宗教の統制、管理に乗り出した。そして、いつの間にか、日本には、信教の自由はおろか、何の自由もなくなっていた。小さな穴から堤防が破られ、濁流に流されていくように。

 こうした事態が、これから先も起こりかねない。しかも、『悪』は最初は残忍な本性は隠し、『善』や『正義』の仮面を被っているものだ。だからこそ、悪』に気づいたら、断固、立ち上がるべきだよ。それを、私たち日本人も、決して忘れてはならない

 日の落ちたラインの川面を渡る風は、肌寒かった。伸一は、同行のメンバーと一緒に、岸辺を歩き始めた。彼は、しみじみとした口調で語った。

 「ヒトラーの蛮行が残したものは、結局、無数の死と破壊であった。犠牲になった人たちのことを考えると、胸が痛んでならない。また、最も苦しんだユダヤの人びとが幸福になれないなら、人間の正義はいったいどこにあるのだろうか」

 

<新・人間革命> 第4巻 大光 328頁~346頁

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