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No.076 

人生に勝つ急所

 

<ただ誠実と熱意による>

 

 戸田先生は人生に勝つ急所を、

 こう教えてくださった。

「自分が変わり、

 自分が成長し、

 自分が責任を持てば、

 一切に勝利できるのだ。

 要は自分だ」と。

 

 人ではない。

 自分が壁を破るのだ。

 断じて悔いを残してならない。

 戦いにあって最も大事なことは、

 人の心をつかむことである。

 人の心を動かし、とらえるものは、

 策でもなければ、技術でもない

 ただ誠実と熱意によるのである。

 いかなる人も、

 広宣流布の味方に変えて見せる!

 この烈々たる祈りと勇気と勢いで、

 栄光の歴史を開くのだ。

 

聖教新聞2012.12.15付今日も広布へ44

2024.3.21整理

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No.075 

やろうじゃないか!

"おのれ"の手で!

 

 頼らない。

 自分が立ち上がる。

 同情もいらない。

 感傷もいらない。

 だれも励ましてくれなくてもいい。

 

 自分が決然と、

 そして朗らかに立ち上がって、

 自分を変え、

 周囲を変え、

 社会を変え、

 国土まで変えていく・・・

 

法華経の智慧より

2023.12.30整理

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No.074 

青年が強くなれ!青年が叫べ

 

 

 牧口先生、戸田先生は言われていた。

青年が強くなれ!

 青年を伸ばせ!

 青年が叫べ」と。

 

上からの指示で動くのではなく、

 青年が、下から上を動かしていけ」と。

 

八方に戦いの火ぶたを切れ、

 新しい道をつくれ!

 と青年に呼びかけていかれた。

 

大白蓮華No.760 2013.4月号10頁

2023.12.30整理

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No.073 

次の時代をどうするか!

広布前進の力を持て!

 

 

 次の時代を、どうするか。

 どう創価学会を発展させ、

 後継を育てていくか。

 そのために、リーダーは、

 自らの信心の実力をつけるのだ。

 広宣流布を前進させる力を持つのだ。


全ての人を味方に!」
断じて勝ってみせる!」

 ・・・この気迫をみなぎらせていくのだ。


 将来を展望しながら

 智慧を湧かせ、

 戦う心を燃やし、

 張り切って進もう!

 皆が団結して、

 永遠に崩れぬ

 創価の人材城を築いてもらいたい。


 人を育てるには、

 先輩が模範を示すことだ。

 師弟に生きる人生がいかに強く尊いか、

 青年たちに伝えていきたい。 

 

聖教新聞2013.4.21付今日も広布へ16

2023.12.30整理 

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No.072 

乗り越える直前が、最も苦しい!

 

 

 「大丈夫だよ。

 祈り抜けば、必ず道は開ける。

 悩みは、乗り越える直前が、

 最も苦しいものなんだ。

 山登りだって、

 八合目、九合目がいちばん大変じゃないか。

 腹を決めて、祈り、戦い抜くんだ。

 頂上はすごいぞ!」

 (中略)

 「あなたには、

 幸せになる権利があるんです。

 宿命に泣いてきた人だからです。

 また、あなたには、

 幸せになる使命があるんです。

 地涌の菩薩だからです。

 

 これまでの一切の苦労は、

 すべて仏法の力を証明していくためにあったんですよ。

 泥沼が深ければ深いほど、

 蓮の花や実は大きいといわれる。

 悩みや苦しみが大きければ大きいほど、

 幸せも大きい。

 信心をしていくならば、

 苦悩は心の宝石になるんです。

 変毒為薬の仏法なんです。

 それを必ず、心の底から実感する時が来ますよ。

 

 今は、まだ、

 “大変だな。苦しいな”

 と思うことが多いでしょうが、

 あなたは、既に

 幸せの大道を歩き始めているんですよ。

 

 人びとの幸福を真剣に願って、

 学会活動に励んでいること自体がそうなんです。

 以前は、自分の幸せしか考えなかったでしょう。

 しかし、今は、

 人の幸せを考え、

 広宣流布の使命に生きる

 喜びと充実をかみ締めている。

 そのことが、

 境涯革命している証拠ではないですか」

 

 小説 新・人間革命 26巻 法旗 49

2023.12.30整理

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No.071 

師弟不二の「一人」が大事!

 

学会の大発展の根本因>

 

 広宣流布の大師匠であられる

 戸田先生に、ただ一人、お仕えし、

 ただ一人、お守りし抜いた。

 これが学会の歴史である。

 師弟の本当の姿である。

 この一点にこそ、

 学会の魂があり、原点がある。

 私は心に決めていた。

 『断じて、戸田先生に、

 次の会長になっていただくのだ。

 そして、広宣流布の指揮を

 縦横無尽に執っていただくのだ』

 私は祈った。

 先生のために。

 激闘の中で祈り抜いた。

 

 もう寝ても覚めても題目。

 歩いていても題目。

 車の中でも、電車に乗っても、

 時間さえあれば、全て題目。

 ただただ、題目を抱きしめて、

 この世の残酷な苦難をはね返し、

 戸田先生が第2代会長に就任される道を、

 命を賭して、切り開いていったのである。

 

 思えば、

 初代の牧口先生が軍部と対決して

 牢獄につながれたとき、

 獄中までお供し、

 最後まで戦われたのは、

 戸田先生、ただお一人であった。

 この「一人」が大事なのである。

 その戸田先生を、

 人生の全てを捧げて

 お守りし抜いたのは私である。

 ゆえに私は、

 第3代会長となった。

 この究極の「師弟不二」の大闘争にこそ、

 今日にいたる学会の大発展の根本の因がある。 

聖教新聞2013.1.16付

2023.12.30整理

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No.070 

自分の足元を固めよ!

生き抜く人生の鉄則である

 

 戸田先生は喝破された。

自分の足元を固めた人が勝者となる。

 自らの地域を磐石に築いた者が勝利者となる。

 これが鉄則である。

 生き抜く人生の鉄則である

 

 聖教新聞2012.11.3付今日も広布へ38

2023.12.30整理

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No.069 

今、最も大事なのは

学会を強くすることだ!

 

<広布へ戦う上で、遠慮など必要ない>

 

 まず、腹を決めよ。
 決まったら、勇ましく進め!

 今、最も大事なのは、
 時代がどう変化しようが、
 民衆の幸福の城である
 学会を強くすることだ。
 広宣流布の勝利を開く
 人材を育てることだ。
 これが根本である。

 広布へ戦う上で、
 遠慮など必要ない。

 どんな立場でもよい、
 信心の一念、
 師弟の一念があれば、
 その人の生命は、
 仏の大境涯に通じていく。
 学会のため、
 同志のために、
 自らの持てる力を、
 思う存分、発揮していくこと 
 

聖教新聞2013.3.24付今日も広布へ12

2023.12.30整理 

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No.068 

今こそ総立ち、

最後まで広布の使命を果たさん!

 

 ここで伸一は、

 戸田城聖が第二代会長に就任した折に、

 共に立ち上がることができなかった

 戦前からの会員たちが、

 後年、「遅参其の意を得ず」との思いを深くし、

 後悔していた話に触れた。

 

「広宣流布の前進には”時”がある。

 その一つ一つの”時”を逃すことなく、

 全力で仏道修行に励み抜いてこそ、

 自身の使命を果たし、

 一生成仏することができるんです。

 今、学会は、広布第二章の『支部制』が発足し、

 未来万年の流れを開く”時”を迎えました。

 今こそ総立ちすべき”朝”なんです」

 

「信心をしていくうえで大事なのは、

 『現当二世』を見すえていくことです。

 『現』というのは『現在』『現世』であり、

 『当』というのは『未来』『来世』を言います。

 過去に縛られるのではなく、

 今現在を大切にし、

 未来に向かって生きていくことが大事です。

 それが仏法者の生き方です。

 

 したがって、

 過去の実績を誇り、

 昔の栄光に酔っているのではなく、

 『今、どうしているのか』

 『未来のために何をしているのか』

 が大事になるんです。

 

 信心は一生です。

 人生も一生を見なければわからない。

 久遠の使命を果たすために、

 この世に生を受けた私たちです。

 最後まで広宣流布という、

 わが使命に生き抜いたといえる、

 勝利の生涯を送ろうではありませんか!」

 

小説 新・人間革命 26巻 奮迅 27,28

2023.12.30整理

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No.067

少しづつでもいい

全体が前進する学会をつくれ!

 

 我らの目的は、

 広宣流布であり、

 世界平和である。

 

 その大きな目的を達成するには、

 地道な積み重ねが大事だ。

 少しづつでもいいから、

 全体が前進する。

 そういう学会を築くのだ。

 

 簡単なようで一番難しい。

 それをやれるのが

 一人前の指導者である。

 

 何より、最前線の人を褒め讃えることだ。

 我が心に師弟の魂を燃やして進むのだ。

 

 聖教新聞 2012年9月30日付 今日も広布へ

2023.12.30整理

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No.066

「正法の破壊者」に対して

言うべきことは厳然と言わねばならない

 


法華経のかたきを見て

 世をはばかり恐れて申さずば、

 釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも

 必ず無間地獄に堕つべし

 (妙法比丘尼御返事、1412頁)――

 

 法華経の敵を見て、

 世をはばかり、世を恐れて黙っていたら、

 釈尊の敵になってしまう。

 どんな智人、善人でも必ず無間地獄に堕ちる――

 と断言しておられる。

 

 「正法の破壊者」に対しては、

 言うべきことは厳然と言わねばならない。

 そうでなければ釈尊の、

 大聖人の敵となってしまう、と。

 これが御本仏の教えである。


 ”世をはばからず”――

 仏法の根本は人情論ではない。

 目先の感情や利害に流されてはならない。

 

 どこまでも正しく厳しき「道理」を貫くところに、

 新しき歴史が開かれる。

 これこそが正法の勝利である。

 

1991.3.4第39回本部幹部会他

2023.12.8整理

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No.065

大聖人直結の信心を継承してゆく規範は

<日興遺誡置文>

 

 この夏季講習会で、伸一は会長講義として、「日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきもん)」の講義をすることになっていた。彼がこの御文を研鑚することに決めたのは、熟慮の末のことであった。

 伸一が第三代会長に就任してから、弘法の波は怒涛のように広がっていった。七月二十九日の本部幹部会では、早くも年間目標の百五十万世帯を突破したことが発表されていた。

 また、この席上、関東に五総支部が設置されるとともに、六名の新理事が誕生したのである。

 三百万世帯の達成へ、学会は新しき躍動の前進を開始し、広宣の布陣も、着々と整いつつあった。

 その拡大のうねりを、永遠なる広宣流布の大河にするにはどうすればよいのか──伸一は一人考え続けてきたのである。

 彼は、自分の会長就任とともに戦いを開始した同志の多くが、短期間のうちに生活のうえで苦境を乗り越え、それなりに安定していく姿を目にしていた。そして、その喜びが、更に折伏の力となっていることを実感していた。

 しかし、大難に立ち向かい、広宣流布を成就していくには、個人の小さな満足を追い求めるだけの信仰であってはなるまい。

 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉ことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758頁)と仰せである。

 つまり、全民衆の苦悩をわが苦とし、諸難を覚悟で、広宣流布の戦いを起こされた。その信心をいかに継承していくかである。

 自己の小さな満足を突き抜け、更に全民衆の救済という大願に生きてこそ、日蓮門下の信心である。

 そこに、永遠にして不滅なる広布の大河も開かれる。また、佐渡に流罪されながらも、「喜悦はかりなし」(同1360頁)と言われた、あの大聖人の御境界に連なり、大歓喜にあふれた絶対的幸福境涯を会得しゆく直道もある。

 では、そのための実践はいかにあるべきか。守るべき規範とは何か──。

 山本伸一は、ここまで思いを巡らした時、「日興遺誡置文」の二十六箇条にわたる遺誡の御文が、彼の胸に鮮烈に浮かんだ。

 それは、日興上人が、大聖人に直結した不二の信心を貫くために定められた、永遠不変の規範にほかならない。

 思えば、この御遺誡のままに信心を貫いてきたのが創価学会であった。初代会長牧口常三郎は、正法正義を守り抜いて、獄中で死身弘法の生涯の幕を閉じた。その遺志を継いだ弟子の戸田城聖は、七十五万世帯の大願を立てて、それを見事に成就し、大聖人の御遺命たる広宣流布を現実のものとした。

 そこに、創価学会が、まことの仏意仏勅の教団である証明がある。

 彼は、この夏季講習会では、「日興遺誡置文」を徹底して研鑚することにしようと決めたのである。

 伸一は、正午過ぎに総本山へ到着すると、大御本尊に御目通りした。そして、休む間もなく、理境坊での教学部の教授会に臨んだ。

 ここでは、教授に登用するメンバーの、教学の論文審査が行われた。

 厳格な審査の結果、この日、十四人が新たに教授に登用されたのである。このうち女性二人を含む十二人が、青年部であった。

 伸一は、教学陣にも、着々と若い力が台頭しつつあることが、何よりも嬉しかった。

 

 夏季講習会の初日のいっさいの行事を終えると、彼は一人、理境坊の二階で、机に向かった。会長講義の準備のためである。

 塔中を流れる小川のせせらぎが響き、蛙の鳴き声が聞こえていた。

 伸一は、静かに室内を見渡した。

 戸田城聖が、逝去前のひと月余を過ごした部屋である。彼もその間、常に師の側で仕え、幾たびとなく、師弟の語らいを重ねた。それは黄金の光に包まれた感動の絵巻であった。

 伸一は、懐かしさと慕わしさが、胸に渦巻くのを覚えた。

 戸田城聖は、この理境坊にあって、命の尽きる間際まで、広宣流布の精神を、直弟子の山本伸一に伝えようとした。

 あの三月十六日の広宣流布の記念の式典を前に、伸一が戸田の体を気遣って作った車駕を見た時も、「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ」と、実戦に即した立案、計画が肝要であることを、厳愛をもって教えたのである。

 また、腐敗・堕落した僧侶を、青年たちが戒めた報告をした折には、戸田は最後の力を振り絞るようにして叫んだ。

 「日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない。そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」

 その一つ一つの指導は、永遠に正法正義を守り、広宣流布を成しゆくための指標であった。それらはすべて、戸田が生涯の戦いのなかから紡ぎ出した、未来を思う魂の叫びにほかならなかった。命を削っての鍛錬であり、教育であった。

 伸一は、在りし日の師の姿に思いを馳せると、目頭が潤んだ。

 彼は、今、日蓮大聖人亡き後、日興上人が遺誡置文として、大聖人の御精神を誤りなく後世に伝え残そうとされた御胸中を、痛いほど感ずることができた。

 日興上人は、ともに大聖人の弟子として広宣流布を誓いながら、師亡き後の五老僧の無残な姿を目の当たりにされた。彼らは、権力の弾圧を恐れて、臆病にも「天台沙門」を名乗り、御書さえも″スキカエシ″にして、正法正義を破っていったのである。

 ことに、身延山にあっては、学頭となった民部日向が、地頭の波木井実長の釈迦仏像の造立など、数々の謗法を認め、日興上人に敵対するに至った。そこで、やむなく身延を離山された。その御胸中はいかばかりであったか。

 日興上人は大檀越・南条時光の外護の赤誠を得て、富士に大石寺を建立され、正法正義を守られた。

 しかし、その富士の清流も、信心を失えば濁流と化し、途絶えかねないことを憂慮された。そして、永遠の信心の規範として、遺誡置文を留め置かれたのであろう。

 伸一は、深い感慨に打たれながら、御文に視線を注いだ。令法久住を願う日興上人の烈々たる御遺言が、強く胸に迫った。

 それは、永遠の未来へと流れ通う、広布の大河を開かんとする、熱い誓いとなっていった。

 

 講習会は二日目である。

 空は晴れていた。

 山本伸一は、女子部の質問会、男子部の相撲大会など、精力的に青年の鍛錬のために駆け巡った。

 夕刻、彼は全理事をともなって、戸田の墓前に詣でた。三百万世帯達成への誓いを込めて、深い祈りを捧げ、広宣流布の構想をことごとく実現しゆくことを決意した。

 帰途、理事長の原山幸一が伸一に話しかけた。

 「現在、新しい支部が誕生し、組織の発展にともない、多くの幹部を必要としておりますが、それだけの人材がいないというのが実情です。たとえば、支部長にしても、昔の支部長に比べると、格段の差があるような感じがしますが……」

 「いや、人材はいないわけではない。必ずいます。要は幹部が、見つけられるかどうかです」

 「はあ……」

 「人間というのは、どうしても、自分の尺度でしか人を評価できなくなってしまう。たとえば自分が理論的なタイプだと、理屈っぽい人の方が人材に見える。逆に、自分があまりものを考えずに行動するタイプだとすると、同じタイプの人が人材に見える。

 また、自己中心的で、俺が、俺がという思いが強いと、人の功績も、長所もわからず、欠点ばかりが目についてしまうものです。

 結局、人材を見つける目というのは、人の長所を見抜く能力といえるのではないでしょうか。それには、自分の境涯を開いていく以外にありません。

 私には、むしろダイヤモンドのような人材が集って来ているように思える。後はいかに訓練し、磨くかです。ダイヤを磨くには、磨く側もダイヤモンドでなければならないし、身を粉にしなければならない。今、私は、それを全力で行おうと思っているのです」

 夕なずむ杉木立に、涼風がそよいだ。伸一は唇をみ締めるようにして、杉の巨木を見上げた。

 

 いよいよ午後六時半からは会長講義である。

 大講堂の広間には続々と友が集まり、定刻には、立錐の余地もないほどの受講者で埋まった。

 会長山本伸一が場内に姿を現すと、参加者の顔がほころび、目には求道の光が走った。

 講義が始まった。

 「この二十六箇条は、日興上人が御年八十八歳、元弘三年(一三三三年)の正月十三日に残された御抄であります。日興上人の御遷化は、その年の二月七日でありますから、亡くなる二十数日前の遺言状と拝すべきであると思います」

 山本伸一の凛とした声が場内に響き渡った。

 「本来、この御遺誡は、富士門流の『僧』に与えられたものです。しかし、創価学会は、日興上人のこの御精神を、厳格に実践してきました。

 その御精神とは何か。

 日興上人は序文に明快に認められております。

 『……後学の為に条目を筆端に染むる事、偏ひとえに広宣流布の金言を仰がんが為なり』(御書1617頁)

 広宣流布のため──これこそが、日興上人の根本の精神であられた。我が創価学会の目的もまた、そのためにほかなりません。

 広宣流布とは、日蓮大聖人の慈悲の哲理をもって、全人類の幸福、全世界の平和を実現することであり、それが私どもの使命なのであります……」

 彼は、序文について述べた後、「日興遺誡置文」の第一条から、各条を講義していった。

 ──富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。

 「この『富士の立義』というのは、日興上人の教えです。それは大聖人の仏法に寸分も相違していない、大聖人の御指南の通りであると仰せなのです。

 つまり、先師大聖人の御弘通に『相違しない』ことこそ、富士門流の根本であり、それは『大聖人直結』の信心こそ、正法正義であることを宣言する文証と拝せます」

 講義は次第に熱を帯びていった。

 ──未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

 「第五十九世日亨上人は『富士日興上人詳伝』のなかで、この御文を″万代法則″″重要永遠的の第一法則″として位置づけられ、最重要の条目の一つとされております。

 これこそ、我が創価学会の精神です。学会は、この仰せのままに、広宣流布にまっしぐらに進んでまいりました。

 初代会長牧口先生は、戦時中のあの軍部政府の弾圧のなか、国家諫暁を叫ばれて、秋霜の獄舎で、七十三歳で殉教の生涯を閉じられました。そして、『不惜身命』の精神を現代によみがえらせた。

 それは、まさに滅せんとした大聖人の仏法を、永遠ならしめる光源であり、ここに、創価学会の正義と真実の証明があります。

 更に、第二代会長の戸田先生もまた、二年間の獄中生活を送られ、御自身が虚空会の会座に連なった地涌の菩薩であることを悟り、出獄すると、広宣流布に生涯を捧げられたのです」

 山本伸一の声に、一段と力がこもった。

 「戸田先生は、敗戦の焼け野原に立たれると、ただ一人、広宣流布を決意された。その胸には、地涌の菩薩の使命の火が、赤々と燃えていたのであります。

 そして、七十五万世帯の大願を立てられ、会長就任後、七年を待たずして、それを成就された。これによって、広宣流布は初めて現実のものとなったのです。大聖人以来七百年、未聞の広宣流布のが、戸田先生の手によって、学会によって開かれたのです。

 日興上人のこの御遺誡を現実に実践してきたのは、創価学会だけではありませんか!

 それは、学会が日蓮大聖人に直結した唯一の団体であり、地涌の菩薩の集いである、何よりの証明であります。

 なれば、私たちの使命もまた、広宣流布こそ、我が生涯と定め、その達成のために生き抜くことにほかなりません。そこに、まことの信心があり、歓喜のなかの大歓喜の人生があることを、知っていただきたいのであります」

 伸一は次に「随力弘通」の意義に触れた。

 「広宣流布を人生の根本の目的とし、おのおのの立場で、おのおのの境遇で、大御本尊のお使いとして、広宣流布に励むことが『身命を捨て随力弘通』することに通じます。

 広布の使命に生きようとするならば、力が出ます。そして、自分のいるその場所で勝ち、幸せになった姿を、社会の人々に示していくことが、自身の広布の証であり、それが、とりもなおさず随力弘通になっていくのです」

 伸一は、額の汗を拭おうともせず、講義を続けた。

 ──身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。

 「『身軽法重の行者』とは『身は軽く法は重し』とあるように、正法のためにいっさいを捧げゆく、行動の人であります。

 『当如敬仏』とは、『法華経』の最後の普賢品の一節で、釈尊が普賢菩薩に対して、もしも『法華経』を受持した者を見たならば、『当起遠迎。当如敬仏』、つまり『当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし』と仰せになった言葉です。

 これは『法華経』における釈尊の最後の説法であり、大聖人は、これを法華経の『最上第一の相伝』とされている。まことに意義の深い言葉といえます」

 大講堂に集った約四千人の友は、全身を耳にして、会長山本伸一の講義を聞いていた。

 「つまり、経文のままに法華経を受持し、弘める人こそ、最も尊く、仏のごとく敬わなくてはならないとの仰せです。

 法のために何をなしたかという、実践、行動が大事なのです。大聖人の仰せのままに行動する人が最も偉大であり、尊いことを示されたのがこの御文です。

 『身軽法重の行者』は、現代では牧口先生であり、戸田先生です。

 そして、その遺志を受け継ぎ、日夜、広宣流布のために戦う、私たち創価学会員であると、私は宣言しておきます。

 ゆえに、敬うべきは権力者でも、高位の人間でも、金持ちでもないのです」

 伸一は、いわれなき非難と中傷にさらされながら、健気に折伏・弘教に励む学会員が、いとしくてならなかった。彼は、その姿のなかに″仏″を感じていた。

 しかし、愚かなことに、宗門の僧侶のなかには、昔ながらの身分意識にとらわれてか、「僧侶は上」で「信徒は下」であるとの錯覚に陥り、学会員を見下し、む態度をとる者も既にいたのである。

 それは、大聖人の御精神を踏みにじる、謗法以外のなにものでもない。僧俗一致といっても、その根本は広布への「心」を一つに合わせることだ。日興上人の門流を名乗る僧侶が、法を弘める人を尊敬しないで、どうして広宣流布ができようか。

 伸一は、僧侶がこの御遺誡に目覚める日を祈り、願いながら、講義を続けた。

 ──時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

 この御文の講義に移ろうとした時、伸一は、戸田から幾たびとなく聞かされた戦時中の神札事件が頭をよぎった。

 軍部政府から神札をまつるよう強要された宗門は、それに屈して、一九四三年(昭和十八年)六月、会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖をはじめ、幹部に登山を命じ、法主立ち会いのもとに「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と、言い出したのである。

 それは、四一年(同十六年)、御書の一部を削除する通達を出したのをはじめ、保身のために、権力への迎合をなし崩し的に進めてきた宗門の、至るべくして至った帰結といえた。

 しかし、牧口は、その申し出を決然と拒否した。

 また、このころ、軍部に接収された総本山の大書院には、神札がまつられている。

 牧口常三郎は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との、この遺誡置文の御精神のうえから、「神札は絶対に受けません」と答えたのである。

 当時、牧口は国民の塗炭の苦しみに胸を痛め、国家神道を精神の支柱として、戦争の泥沼に突き進む軍部政府に対して、国家諫暁する好機ととらえていた。

 しかし、それは、牧口個人ではなく、日蓮大聖人の法灯を受け継ぐ門流の代表者である法主がなすべきであり、そのことを僧侶が進言するのが筋であると考えていた。

 だが、宗門の僧侶に、その気はなかった。牧口はやむなく、六月二十八日、再度、登山すると、時の日恭法主に、国家諫暁に立ち上がるべきであることを直諫したのである。

 しかし、軍部政府の権力を、ひたすら恐れる法主には、国家諫暁など思いもよらなかったにちがいない。牧口の至誠の言が受け入れられることはなかった。

 そして、その直後の七月六日、牧口、戸田をはじめとする学会の幹部が、次々と逮捕されていったのである。大法難が学会を襲ったのだ。

 牧口の一門が逮捕されると、宗門は、慌てて学会を登山停止とした。関わりを恐れてのことである。

 まさに「貫首」自らの手で、正法正義はねじ曲げられ、大白法は滅せんとしたのだ。だが、正法護持の勇者・創価学会によって、大聖人の信心の血脈が保たれたのである。

 山本伸一は、「貫首」でありながら正法に背き、我見の邪説を立てる人間が出ることを、既に日興上人が予見されていたと思うと、深い感慨にとらわれた。

 彼は、未来もまた同じ事態が起こるかもしれないことを憂慮した。しかし、この日の講義では、多くは語らなかった。

 「……時の法主上人であっても、大聖人の教えに、仏法に相違して、己義、すなわち自分勝手な教義を説くならば、それを用いてはならないとの仰せです」

 彼は意義だけを簡潔に述べた。宗門が二度と法滅の過ちを繰り返さぬことを、深く願いながら。

 ──衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

 「これは、前の御文と対をなしております。今度は反対に、『衆議』、たとえみんなで決めたことであったとしても、それが仏法に相違するならば、これを打ち破っていきなさいとの御指南です」

 山本伸一は、コップの水を口にすると、力強い声で講義を続けた。

 「つまり教えの根本は、どこまでも日蓮大聖人の御言葉です。御書でなければならないということです。

 学会は牧口先生以来、御書が根本です。その仰せのままに実践してきたがゆえに、数々の法難も競い起こりました。それによって御書を身で読むことができ、法華経の行者としての、信心の正道を進むことができたのです。

 だからこそ、学会の信心の功徳は無量なのです。永遠の福徳を積むことができるのです。私たちは、これからも、御書を心肝に染めて、広宣流布に邁進していこうではありませんか」

 講義は順調に進み、やがて二十六箇条が終わった。

 時間はあっという間に過ぎていった。伸一は、チラリと腕時計を見た。既に八時半近かった。

 「皆さん、あと、もう少しいいですか。疲れていませんか」

 伸一が聞くと、即座に、「はい」「大丈夫です!」と声が返ってきた。

 「そうですか。あと最後の、御言葉だけですから」

 ──万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。

 「……末法万年の衆生を救護、救済するために、二十六箇条を書き置く。後の世の僧侶は疑いをいだくことなく、これを守り、実践していきなさい。このうち一箇条でも破る者は、日興上人の門流ではないとの仰せです。それは、同時に大聖人の弟子でもないことになります。

 この二十六箇条の精神を守り、実践した人こそが真実の大聖人の弟子であり、日興上人の門流です。儀式や形式ではなく、そこにこそ、信心のまことの血脈があるのです。

 私たちは、本日より、この御遺誡を胸に刻み、大聖人の弟子たる誇りと使命をもって、勇んで広宣流布を推進していこうではありませんか!」

 

新・人間革命2巻 練磨の章 134頁~

2023.12.9整理

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No.064

不軽菩薩の実践

 

<我らは不軽の跡を紹継

 

 先日(1989年12月13日)、世界的な平和学者である、ハワイ大学のベイジ教授と会談した。
 「非暴力社会」「非殺人社会」への道をめぐって語りあうなか、私は法華経に説かれる「常不軽菩薩」の行動を紹介した。
 ご存じのように不軽菩薩は、″どんな人間にも、もっとも尊い仏性がある″として、「生命」と「人間」を最大に尊重する行動を展開した。自分自身は人々から軽んじられ、さまざまな暴力を加えられたが、だれ人も軽んぜず、「非暴力」を貫いた。そこには、生命の絶対的尊厳への深い示唆がある。
 さらに不軽菩薩については、大聖人ご自身が『不軽の跡を紹継する』(御書974頁)と仰せである。すなわち、不軽菩薩の実践は大聖人の御精神であり、そのお心を紹継(正しく受け継ぐこと)すべき私どもにとっても、行動の重要な範なのである。
 大聖人は不軽菩薩の修行について「松野殿御返事」に、わかりやすく、こう教えられている。
 『過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり』(御書1382頁)――過去の不軽菩薩は「一切の衆生には、みな仏性がある。法華経を持つならば必ず成仏する。その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽蔑することになる」と言って、一切衆生に向かって礼拝の行を立てられたのである――と。
 ″人間を軽んずることは、仏を軽んずることである″――不軽菩薩の人間尊重の行動は、法華経の深遠な生命観に裏づけられている。

 

<軽んじない菩薩>

 
  ちなみに、この「常不軽」とは、サンスクリツト語の「サダーパリブータ」の漢訳の一つである。そして、この言葉をどう訳すかは、訳者によって違いがみられる。
  たとえば、現在に伝えられている三種類の漢訳法華経のうち、もっとも古いとされる「正法華経」(竺法護訳)では、「常被軽慢」となっている。つまり、他の人々から「常に軽んじられていた」ということで、サンスクリットの原文を直訳した意味あいになるようだ。
 これに対し鳩摩羅什は、「妙法蓮華経」の中で、同じ言葉を「常不軽」と訳した。これは、他の人を「常に軽んじない」という意味である。
 「軽んじられていた菩薩」と「軽んじない菩薩」。いずれも同じ菩薩の二つの側面を示したものだが、修行者の本質としてどちらに力点を置くかに、訳者の解釈の違いが表れている。
 これは羅什が、受動から能動へ、受け身から自律へというとらえ方の転回によって、修行者のより積極的な性格を示そうとしたものとも考えられる。羅什の「妙法蓮華経」が、経典の本質をとらえた名訳とたたえられる所以は、こうした面にも表れている。
 さて、大聖人は「御義口伝」の中で、次のように仰せられている。
 『不軽とは一切衆生の内証所具の三因仏性を指すなり――「不軽」とは一切衆生に本然的に具わっている三因仏性をさすのである――と。
 三因仏性とは仏になるべき三種の性分のことで、(1)「正因仏性」(一切衆生が本然的に具えている仏性)(2)「了因仏性」(仏性を覚知していく智慧)(3)「縁因仏性」(仏性を開発していく助縁)のことをいう。
 つまり、不軽菩薩は、いかなる衆生にも三因仏性が具わっているとして、ひたすら礼拝の行を続けたわけであるが、大聖人は、「不軽」そのものが「三因仏性」という「尊い仏の生命」を意味していることを教えられている。
 いずれにしても「常不軽」という言葉それ自体、″一個の生命は地球よりも重い″という絶対的な生命の尊厳を示唆しているともいえよう。

 

何一つないゼロからの出発


 ところで、不軽菩薩が出現したのは「威音王仏の像法時代」とされる。それは、どんな時代であったか。法華経の「常不軽菩薩品第二十」には「是の仏の滅後 法尽きなんと欲する時」(開結573頁)――この威音王仏という仏が入滅して、正しい法が尽きてしまおうとする時――と説かれている。また「増上慢の比丘、大勢力有り」(開結567頁)――増上慢の僧が大勢力をもっていた――とある。
 現代的に言えば、正しき「哲理」が見失われてしまった時代である。権威にうぬばれ、おごりたかぶった勢力が、わがもの顔で「人間」を軽んじ、見くだしていた時代でもあった。
 そのいわば「哲学不在」「宗教不在」「人間蔑視」の時代にあって、不軽菩薩はただ一人、「正法」を声高らかに主張した。そして「人間」を最大に尊重する行動を勇敢に繰り広げていったわけである。
 できあがったものは、何一つない。頼るべき人もだれ一人いない。まったくのゼロからの出発であった。不軽菩薩は、すべてを自分一人の猛然たる行動で創り始めたのである。
 学会の歩んできた道も同じである。戸田先生は、ただお一人で学会の再建のために立たれた。その心を知る人はだれもいなかった。私は戸田先生の弟子として、この「常不軽」の精神で、これまで広布発展の基盤を築いてきたつもりである。
 何もないところに、ただ一人踏み込み、猛然たる行動で広布の沃野を切り開いていく。これこそ、学会精神であり、とくに学会青年部の心意気であると申し上げたい。

 

<我敢えて汝等を軽しめず>


 
  不軽菩薩の行動は果敢であった。日々、まさに戦闘であった。ともかく人がいればそこへ行き、だれもが仏になれることを説いて歩いた。
 法華経には「遠く四衆を見ても、亦復故(ことさら)に往いて」(開結567頁)――遠くに在家・出家の男女を見かけると、そのつど、わざわざ近寄って――とある。
 “自分が動いたぶんだけ広布の舞台が広がる”“自分が語ったぶんだけ、友らに仏法との縁を結ばせることができる――こうしたわが同志の日々の息吹と行動は、不軽菩薩につながっているといえよう。
 しかし、不軽菩薩に対して、人々は容赦なく悪口罵詈した。さらには、杖で打ったり、石を投げたりという暴力まで加えた。そんな時に不軽はパッとその場から離れ、今度は遠くから大声で「我敢えて汝等を軽しめず」(開結569頁)――私はあえて、あなた方を軽んじません――と叫んだ。しぶといと言えばまことにしぶとい行動の連続であった。
 「不軽の跡を紹継する」と言われた大聖人の御生涯は、そのお言葉どおり、大難の連続であられた。そして、末法万年にわたって一切衆生を救済しゆく妙法の大道を開かれたのである。その崇高なる御精神を拝し、御遺命のままに広布に進む学会に、言われなき非難や迫害があるのは当然である。
 ゆえに、どのような理不尽な攻撃を受けようとも、私たちは何とも思わない。経文に照らしてみるならば、これほどの名誉と誇りはないからだ。むしろ攻撃されればされるほど、広布発展の道が大きく開かれていくことを確信し、勇んで前進していただきたい。

 

<不軽菩薩は、生涯、迫害の連続であった>

  

 不軽菩薩は、生涯、迫害の連続であった。もっとも偉大でありながら、生涯、つねに″軽んじられ″続けた。しかし、生命の因果は厳然としている。
 まさに臨終という時、不軽は自身の生命を荘厳するさまざまな功徳(法師功徳品に説かれる六根清浄の功徳)を得る。そして寿命を二百万億那由佗歳も延ばして、広く人々のために法華経を説いたとされている。
 一方、不軽を、さんざん嘲笑し続けてきた増上慢の人々も、不軽がこのように、自在の弁論の力(舌根清浄)などを得た事実を見、その威徳にふれて、ついに信伏随従する。
 そして不軽は生々世々、数かぎりない仏と巡り会い、いずこにあっても、何も恐れるものがない大境涯で、法華経を弘め続けた。そして無量ともいうべき、計り知れない福を得ていく。この不軽が釈尊の過去世の修行の姿である。
 反対に、増上慢の人々は、後悔したものの、不軽を軽んじた罪を消しきることができず、二百億劫もの長い間、仏にも会えず、仏法を聞くこともできず、千劫の間、阿鼻地獄で大苦悩を得る。
 その後に、ようやく不軽とふたたび巡り会うことができ、教えを受けたと説かれている。
 まことに壮大なる、また厳粛なる生命のドラマである。
 私どもも大聖人の門下として、「不軽」の道を歩むゆえに、だれよりも正しいことをなしながら、つねに理不尽に軽んじられる。時には、悔しい思いをすることがあるかもしれない。しかし、経文に照らして、だからこそ真実の仏法の功徳がわくのである。無量の福徳で荘厳された自身となっていく。
 ゆえに何があっても、「不軽の勝利」でこの人生を飾り、また永遠に続くわが生命のうえに証明していっていただきたい。

 

「常不軽の精神」で生きぬけ


  大聖人はこう仰せである。
 『
過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて優婆塞・優婆夷をかたらひて不軽菩薩をり打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給いしかば終には仏となり給う』(御書1415頁)

 ――過去の不軽菩薩が法華経を弘通された時、僧や尼で、知恵があり、二百五十戒を持つとする権威ある高位の僧たちが集まり、在家の男女をかたらって不軽菩薩を罵詈し、暴力を加えた。しかし不軽菩薩は退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏となられたのである――。
 不軽に浴びせられた「悪口罵詈」「杖木瓦石」の集中攻撃。大聖人は、その背景に、権威や邪智の者の″連合″による陰湿な策謀があったことを示されている。
 大なり小なり、いつの時代にも、こうした現実は変わらないのかもしれない。
 ともあれ不軽は、断じて退かなかった。負けなかった。″進まざるを退転″――この、前へ前ヘと勇んで進み続けた不軽の姿にこそ、不滅の学会精神がある。
 そして、最後に不軽は、永遠に轟きわたる生命の凱歌をあげた。それは厳然たる″仏法は勝負″の証であった。
 「御義口伝」に、こう明言されている。
 『所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり』(御書765頁)――詮ずるところ、今、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である――。
 (中略)いずれにしても、私どもが大聖人の御精神に連なり、さまざまな圧迫に負けず、妙法を唱え、猛然と思想戦・言論戦、広宣流布の戦いを進めていく。そこに無上にして永遠の「生命の栄冠」が、自身に輝いていくことは、絶対に間違いない。
  また大聖人は、不軽の姿をとおしながら、教えられている。
 『法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてか』(御書1382頁)
 ――不軽菩薩は法華経を持っていない者でさえも「もしかしたら持つかもしれない。本来、仏性があるからである」として、このように敬い礼拝された。まして、法華経を現に持っている在家、出家の者を、敬わないでよいことがあろうか――。
 この御文を拝すれば、同信のわれらをさげすみ、下に見るような行為が、どれほど大聖人のお心に反しているかは明白である。
 大聖人の仰せどおり、在家も出家も、ともに尊敬していくことが正しい。そこに法華経の精神もある。


1989年12月20日第二十四回本部幹部会

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No.063

日蓮仏法の弘教の方軌は

「下種」

 

<種を植えたら、祈り続け、時を待てばよい>

 

 同世代の友人に、どのように仏法の素晴らしさを伝えればよいか、

 と尋ねられました。

 私は、彼女の友人の幸を祈りつつ、

 誠実に、また朗らかに、自信満々と

 話していく大切さを申し上げました。

 

「人生の確信ある生き方、

 未来への限りなき希望に生き抜く、

 価値ある生活の実証を語っていくことです。

 

 結論して言えば、

 自分自身の確信と体験を堂々と語り抜いていくことです。

 それが相手の生命に、幸福と希望の種を植えることになるのです。

 

 その種は、いつか必ず根を張り、芽を出し、花を咲かせます。

 それまで祈り続けて、時を待てばよいのです

 

 日蓮仏法の弘教の方軌。それは「下種」です

 祈りを重ねた真心の対話は、

 生命の深い次元で相手に通じていきます。

 必ず、下種仏法の幸の仏縁が結ばれていくのです。

 

  2023年大白蓮華9月号№887 13頁~14頁

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No.062

 高齢者にとって、

 孤独ほど生命力を

 弱らせるものはない。

 

<今こそ恩返しをする時だ>

 

 高齢者の知恵と経験は、

 現在と未来を豊かにする、

 かけがえのない宝である。

 高齢者を真に尊ぶ気風を

 確立することは、

 社会の持続的な

 繁栄の基礎となる。

  

 高齢の方々には、

 「尊敬」をもって

 接することが大事だ。

 長年、

 家族と社会のために働いて

 年をとったのだから、

 周囲が「今こそ

 恩返しをする時だ」と

 思ってあげてほしい。

 高齢者にとって、

 孤独ほど生命力を

 弱らせるものはない。

 温かい愛情と心の絆、

 そして楽しい会話が、

 何よりの元気の素である。

  

 守り合い、励まし合う

 友がいる幸福――

 それは、

 年配になればなるほど、

 ありがたさを

 増していくにちがいない。

 その「宝の友情」の

 スクラムを、

 学会は、地域に、社会に

 広げているのである。

  

 人のため、社会のため、

 自分のために、

 何かを為す。何かを創る。

 何か貢献する。

 そのために、生ある限り、

 一生涯、

 挑戦し抜いていく。

 それでこそ

 「充実の人生」である。

  

 大切なのは

 “自他共の満足”だ。

 その追求のなかにこそ、

 人生の輝きがあり、

 だれもが真に安心して

 幸福に暮らせる社会、

 そして長命であることを

 心の底から

 寿ぐことができる

 長寿社会を築く道がある。

  

 共に広布に戦った同志は、

 永遠に

 私の胸から離れない。

 君も私も、

 人生の

 ゴールデン・ステージを、

 常楽我浄の妙法と共に、

 朗らかに

 勝ち進んでゆこう!

 

2020年9月20日〈池田大作先生 四季の励まし〉

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No.061

世界宗教の条件

 

<御書を通して、日蓮大聖人と直結>

 

 「宗教」があって「人間」があるのではない。

 「人間」があって「宗教」があるのである。

 「人間」が幸福になるための「宗教」である。

 この道理をあべこべにとらえ、

 錯覚してしまうならば、すべてが狂っていく

 ――山本伸一は、ここに宗門の根本的な誤りが

 あったことを指摘し、

 未来を展望しつつ訴えた。

 

 「日蓮大聖人の仏法は『太陽の仏法』であり、

 全人類を照らす世界宗教です。

 その大仏法を奉ずる私どもの前進も、

 あらゆる観点から見て、

 “世界的”“普遍的”であるべきです。

 決して、小さな閉鎖的・封建的な枠に

 閉じ込めるようなことがあってはならない」

 

 御書に「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり」(八八三ページ)と。

 「南浮」とは、南閻浮提であり、世界を意味する。

 太陽の日蓮仏法は、

 あらゆる不幸の暗雲を打ち破り、

 全世界に遍く幸の光を送る。

 

 さらに伸一は、宗門事件に寄せられた識者の声から、

 世界宗教の条件について語った。

 ――それは、

  「民主的な“開かれた教団運営”」

  「『信仰の基本』には厳格、『言論の自由』を保障」

  「『信徒参画』『信徒尊敬』の平等主義」

  「『儀式』中心ではなく、『信仰』中心」

  「血統主義ではなく、オープンな人材主義」

  「教義の『普遍性』と、布教面の『時代即応性』」

 である。

 

 また、彼は、戸田城聖の

 「われわれ学会は、御書を通して、

 日蓮大聖人と直結していくのである」

 との指導を紹介。

 

 学会は、どこまでも御書根本に、

 大聖人の仏意仏勅のままに、

 「大法弘通慈折広宣流布」の大願を掲げて、

 行動し続けていることを力説した。

 

 そして、

 誰人も大聖人と私どもの間に

 介在させる必要はないことを述べ、

 あえて指導者の使命をいえば、

 大聖人と一人ひとりを

 直結させるための手助けである

 と訴えた。

 

 牧口初代会長、戸田第二代会長は、

 御本仏の御遺命通りに死身弘法を貫き、

 大聖人門下の信心を教え示した。

 

 創価の師弟も、同志も、組織も、

 御書を根本に

 大聖人の御精神、正しい信心を、

 教え、学び合うためにある。

 

<新・人間革命> 第30巻〔下〕誓願 331~332頁 2018年6月25日

2023.11.28整理

2024.2.27整理

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No.060

「創立の月」とは

新しい歴史を“創る月”に!

 

 「創立の月」とは、

 新しい歴史を“創る月”である。

 

 正義の師子が猛然と“一人立つ月”でもある。

 単なる過去を回顧する節目ではない。

 

 「創立の月」は、

 古い年表のなかに眠っているものでは決してない。

 広宣流布とは、

 瞬時の停滞も許されぬ、

 絶えざる創造と、

 戦闘の前進の歩みである。

 

 「創立の月」は、

 つねに「今この時」にある。

 今の瞬間、瞬間を勝ち取ってこそ、

 次の五十年、百年にわたって崩れぬ、

 常勝の学会が「創立」されていくからだ!

 

 この十一月に、

 自分自身の新しい歴史を塗り替えていくのだ!

 古い殻を破り、生まれ変わる月だ!

 限界の壁を叩き割り、

 雄々しく一人立ち上がる月なのだ!

 

 『池田大作全集』第134巻、354頁

2023.11.9整理

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No.059

自然を壊すことは、人間を壊すこと!

 

“母なる地球”を

生命尊厳と人間尊敬の精神の宝で輝かせたい

 

 地球では、

 生きものの誕生は

 40億年前という。

 それ以来、

 連綿と、

 命が命を育み、

 命が命を支えて、

 私たちを生んだのだ。

 この“生命の輪”が、

 一つでも欠けていたら、

 あなたは今、

 ここにいない。

  

 自然を壊すのは、

 人間を壊すことになる。

 なぜなら自然は、

 人類の

 「ふるさと」だからだ。

 あらゆる生命も人類も、

 大自然の中から誕生した。

 自然という

 環境の中から

 誕生したものである。

  

 自然を愛する人は、

 人を清らかに愛せる。

 平和を大切にする。

 損得の計算の世界を

 超越した、

 情緒豊かな人生である。

  

 戦争やテロは、

 人間への暴力である。

 環境の破壊は、

 自然への暴力である。

 それぞれ

 別の問題ではない。

 根は一つである。

 その根とは、人間、

 そして

 人間を支える自然・環境、

 全ての

 生命の尊厳の軽視である。

 その根本を

 正さなくてはならない。

  

 人間がそこにいる限り、

 同じ地球に生を営む

 仲間がそこにいる限り、

 全てのことに

 断じて無縁ではないのだ。

 

 私はそうやって、

 国家や体制の壁や

 価値観の違いを超え、

 信仰を持っている、

 いないにかかわらず、

 地球民族として

 友情を結び、

 世界市民の信頼を

 広げてきた。

 

 今こそ“母なる地球”を、

 生命尊厳と人間尊敬という

 精神の宝で、

 いやまして

 輝かせていきたい。

 

2020年6月14日〈池田大作先生 四季の励まし〉

2023.11.5整理

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No.058

 三変土田の栄えある勝利劇を!

 

ここがわが今世の黄金の晴れ舞台

 

 わが支部、わが地区、わがブロックで

 懸命に友を励まし、

 心を変えゆく対話。

 その真剣な戦いは、

 すべて三変土田の栄えある勝利の劇です。

 小さな地域であっても、

 大変な地域であっても、

 ここがわが今世の黄金の晴れ舞台である

 ――この一念随喜の心が一切を決めるのです。

 

 戸田先生は言われています。

 「日本国中に、さかんなる力士のごとき人々が充満するならば、生産に、復興に、文化に、芸術に、その最高度の能力を発揮するがゆえに、国土の再建は、うたがうべくもない」

 

 「さかんなる力士のごとき」とは、

 一人一人が満々たる生命力で

 躍動している様子です。

 「人間革命」に挑み、

 幸福の実証を勝ち示している姿です。

 こうした勝利の活力が充満すれば、

 社会を大きく変えていける。

 やがて世界の宿命をも大転換していけるのです。

 

 私は戸田先生の不二の分身となって、

 死に物狂いで戦った。

 正義の叫びで、

 一人一人の心を一変させていった。

 その地その地に、

 師匠の大生命を

 打ち込む決心で戦い抜きました。

 

 仏法の眼で見れば「娑婆即寂光」です。

 国士も「心の一法」から出来する。

 わが一念から起こり、

 わが一念に収まるのです。

 

御書と師弟(2008.12.12付聖教)

2023.11.3整理

 

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No.057

妙法は宇宙の大法則

 

人生をいとなむ源泉は「生命力」>

 

 この大宇宙では、

 あらゆるものが停滞するとなく動いている。

 たとえば

 地球は、

 秒速約460メートルの速さで自転を繰り返している。

 そして、

 太陽の周りを、秒速30キロの猛スピードで回っているのである。

 さらに、

 太陽系自体も、

 ヘルクレス座の方向に向かって、

 毎秒20キロのスピードで動いているとされる。

 想像を絶するような速さである。

 

 宇宙には、この太陽系のような天体が、

 無数に存在すると考えられている。

 法華経にも「三千大千世界」など、

 広大な宇宙観が示されている。※1

 

 大宇宙は、

 瞬時も止まることなく、

 妙なる音律を奏でながら運行している。

 その究極の力、法則こそ

 南無妙法蓮華経なのである。

 

 題目をあげ、

 妙法に生きぬくならば、

 この大宇宙のリズムに

 自身の生命が合致していく。

 宇宙の最極の力と智慧を

 わが身に顕現することができる。

 

 戸田先生は語っておられた。

「この大宗教(日蓮大聖人の仏法)を

 信ずることによって、

 生命のリズムは

 宇宙のリズムに調和して、

 生きている幸福を

 しみじみと感ずるのである。

 生命の歓喜こそ、

 幸福の源泉力である」

 

「幸福を感じ、

 幸福な人生をいとなむ源泉は、

 われわれの生命力である」

 

 大宇宙が味方である。

 諸天が守る。

 広宣流布に尽くせば、

 最高の功徳を得ることができる。

 

 その福徳は、

 子孫末代にまで伝わっていく。

 これが仏法の厳然たる法理である。

 大聖人の結論である。

 

 反対に、

 尊き仏法を持った学会員をいじめるならば、

 仏罰は必然である。

 

 一切を変えゆく真剣な祈り

 そこから勝利への前進を開始してまいりたい。

 

 (長野研修道場)

 

※1 三千大千世界は古代インドの世界観、宇宙観を表したもの。須弥山を中心に、太陽、月、四洲等を包含するものを小世界と称し、それが一千〈他の説もある〉集まったものを小千世界、小千世界が千集まったものを中千世界、さらに千倍したものを大千世界と呼ぶ。小千、中千、大千の三種の区別があることから、総称して三千大千世界という。宇宙には、この三千大千世界が無数にあると説かれている

 

2005.8.15代表幹部研修会

2023.9.12整理

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No.056

アショーカ大王が

仏教を国教化しなかった意図

 

<『信教の自由』の持つ意味>

 

 森川一正が質問した。

 「アショーカ大王が、仏教を国教化しなかったのは、どのような考えによるのでしょうか」

 「当時の宗教事情も詳しく研究してみなければ、確かなことはわからないが、私の推測では、為政者として、

 今日でいうところの、思想や信教の『自由』を守ろうとしたからではないかと思う。それは、精神の独立の機軸であり、人間を尊重するうえで、最も根幹をなすものだからです。

 また、宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか。

 宗教戦争というのは、単に宗教上の教義の相違からではなく、宗教と政治権力とが結びつくところから起こっている。つまり、権力を得た宗教が、武力を背景にして、他の宗教を差別し、排斥すれば、抑圧された宗教もまた、武力をもってそれに抗することになる。

 アショーカ大王は、平和を願う仏教徒として、そうしたことも考慮したうえで、今でいう、いわゆる『政教分離』を考えたように、私には思えてならないのだ」

 山本伸一の話に、熱心に耳を傾けていた日達法主が頷きながら言った。

「なるほど……。深い考察ですね」

 伸一は答えた。

「いえ、これはまだ推測にすぎません。もっと研究が必要です。

 いずれにせよ、アショーカ大王が、仏教を国教化しなかった意味は大きいと思います。

 国教化されれば、仏教は、なんらかの強制力をもつことになります。そうなれば、人びとの信仰も、次第に自発的なものではなくなってくる。すると、形式上は仏教が栄えるように見えても、本質的には、仏教そのものを堕落させることになってしまう。

 宗教は、どこまでも一人ひとりの心に、道理を尽くして語りかけ、触発をもって弘めていくものです。それには、それぞれの宗教が、平等に自由な立場で布教できなければならない。

 そのなかで、人びとの支持を得てこそ、本物の宗教です。国教化や権力による庇護を願う宗教は、本当の力がない証拠ではないでしょうか。

 学会がこうして折伏し、広宣流布ができるのも、憲法で『信教の自由』が保障されているからです。その意味でも、創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」

 伸一の言葉には、力がこもっていた。

 

<新・人間革命> 第3巻 月氏 130頁~131頁

2023.10.25整理

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No.055

人間の心が通い合う

 新しいコミュニティーの建設を!

 

<地域が蘇生する原動力に>

 

 (山本)伸一が、

 何よりも痛感していたのは、

 人と人との絆を固くし、

 強い共同体意識を育まねばならぬということであった。

 

 将来、高齢者の独り暮らしなどが増えていけば、

 隣近所の声かけや励まし、

 助け合いなどが、

 ますます必要不可欠なものとなるからだ。

 

 また、若い夫婦などの場合、

 育児に悩むことも少なくないが、

 子育てを終えた経験豊富な年代の人たちの

 アドバイスや協力が得られれば、

 どれほど大きな力になるだろうか。

 

 災害への対策や防犯などにおいても、

 行政の支援だけでなく、

 住民相互の協力や結束こそ、

 地域を支える大きな力となる。

 

 そのために必要なことは、

 同じ地域、

 同じ団地のなかにあって、

 互いに人びとのために尽くそうとする、

 心のネットワークづくりである。

 人間の心が通い合う

 新しいコミュニティー(共同体)の建設である。

 伸一は、その使命を、

 団地部のメンバーが担い立ち、

 社会蘇生の原動力となってほしかったのである。

 

 “分断された人間関係の果てにあるのは、

 孤独の暗夜だ。

 それを転ずるのが団地部(幸福城部※1)だ”

 

小説『新・人間革命』第24巻 灯台

2023.10.24整理

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No.054

世界の諸問題の解決は

仏法者の使命

 

<平和の大潮流を一日も早く>


 伸一は、人類の未来を考える時、

 一日も早く、平和の大潮流を

 起こしていかなければならないと、

 痛切に感じていた。


 当時、東西冷戦も続いていた。

 ソ連と中国も対立の溝を深め、

 一触即発の状況を呈していた。

 また、核兵器の保有国も増え、

 核拡散が懸念され、

 核の脅威は増大しつつあった。

 

 一方、先進国と発展途上国との貧富の差

 激しさを増していたし、

 環境破壊食糧問題等も深刻化していたのである。


 伸一は、

 それらの諸問題を解決していくことこそ、

 仏法者としての重要な課題であり、

 使命であると考えていたのである。


「未来の宗教というものは、

 人類の生存をいま

 深刻に脅かしている諸悪と対決し、

 これらを克服する力を、

 人類に与えるものでなければならない」

 (注)とは、トインビー博士の洞察である。

 

小説 新・人間革命 27巻 正義3

2023.10.22整理

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No.053

だからこそ!勝って正義を示せ!

 

<"愚人"に”偉人"の真実は見えない!>

 

 「事実」といっても、

 一断面のみ見れば、「真実」と、

 まったく違った様相を呈する場合もある。

 

 また、同じ「事実」を前にしても、

 そのとらえ方、見方は、人によって異なる。

 

 歪んだ鏡には、すべてが歪んで映る。

 歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。

 

 物事を見極める眼力

 ──それは、自らの「境涯」で決まる。

 

 「利己主義」「保身」「傲慢」「偽り」の人に、

 偉人の真実の生き方は見えない。

 

 「謀略」の目には、

 「誠実」も「真心」も「無私の心」も映らない。

 

 まして汚れなき信心の「心」、

 「広宣流布」への深き、深き一念を、

 理解できるはずもない。

 

 ゆえに、いかなる戦いも、断じて勝つことである。

 他人の境涯の低さを嘆いていても仕方がない。

 まず自らが、勝って「正義」を明かすことである。

 

 御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」

 (開目抄、新121・全237)と。

 また戸田先生も、この御聖訓を拝して、

 「大聖にほめらるるは一生の名誉なり」と言われていた。

 そう腹を決めれば、何ものも恐れることはない。

 

1991年10月16日第13回関西総会他

池田大作全集第79巻56頁

2023.10.22整理

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No.052

学会の組織は「上下」の関係ではない!

指導者は「上」ではなく「中心」

 

 ―― あるメンバーは「幹部に会った時、とても態度が偉そうで、がっかりした」と言っていました。

 池田 戸田先生は、いばった幹部や、

 学会利用の人間を烈火の如く叱られた。

 「幹部は自分を会員の小使いだと思いなさい。

 いばるものは、学会から除名する」と。

 

 幹部は会員に奉仕するためにある。

 厳然と、皆を幸福にする責任がある。

 

 その責任を忘れた時に、

 信心を失い、退転への道が始まるのです。

 

 学会の組織は「上下」の関係ではない。

 リーダーは、レコードのような同心円の

 「中心者」であり、「責任者」なのです。

 

 幹部といっても、人間が作った役職にすぎない。

 大事なのは「信心」です。

 信心がなくなれば、

 どんな役職についていても功徳はありません。

 退転と一緒です。

 学会利用、組織利用、信心利用の人にすぎない。

 最後は、大聖人から断罪されるでしょう。

 

青春対話 Ⅰ 創価学会の組織とは 367頁

2023.10.22整理

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No.051

一人一人が「地域の灯台」に!

友情育む「信頼の長者」たれ!

地域広布の勇者たれ!

 

 

 わが尊き同志たちも、

 厳しき

 現実の社会にあって、

 千差万別の逆境と

 戦っている。

 一時は

 負けたように見えて、

 悔しさに

 血涙をしぼる時もある。

 しかし、

 仏の異名は「世雄」。

 社会で絶対に勝利しゆく

 大英雄である。

 この仏の大法を

 持った我らには、

 乗り越えられない

 苦難はないのだ。

  

 平和の起点は、

 近隣同士が

 日常的に助け合い、

 互いを

 知り合うことである。

 近いが故に難しく、

 近いが故に

 見落とされがちなのが、

 「近所付き合い」だ。

 隣人に心を配り、

 近隣に

 友好の花園を育みゆく

 「人の振る舞い」が、

 いかに尊いことか。

  

 声を出す。

 声をかける。

 声を届ける。

 それが

 「善縁の拡大」につながる。

 また、それが、

 自他共の

 「幸福の拡大」になるのだ。

  

 「信心即行動」

 「仏法即社会」である。

 一人一人が

 「地域の灯台」となって

 光っていくことが、

 広宣流布の実像である。

 「朗らか長者」

 「信頼の長者」として、

 一人一人を味方にし、

 仲間を広げながら、

 わが人生を誇り高く

 飾っていって

 いただきたい。

  

 私は、わが同志と

 一人一人握手する思いで

 申し上げたい。

 君よ、貴女よ、

 地域広布の勇者たれ!

 今日も生き生きと

 「希望の種」「友情の種」

 「平和の種」を蒔き、

 爛漫と

 花を咲かせていくのだ!

 

2023年10月22日 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」

2023.10.22整理

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No.050

時代の誤った出来事を

看過してはならない!

 

<その要因と本質とを深く洞察し、
未来のために戦いを開始するのだ>

 

 訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、 

 「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。
 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の折には、謝冰心と再会。

 さらに、この上海で巴金と二度目の会談が実現したのである。


 伸一が、政治と文学の関係について意見を求めると、

 彼は即答した。

「文学は政治から離れることはできない。

 しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなり得ません。

 文学は、人の魂を築き上げることができるが、

 政治にはできないからです」


 話題は、文化大革命に移っていった。
 巴金は文革の時代、「反革命分子」とされ、文芸界から追放された。彼を批判する数千枚の大字報(壁新聞)が張り出され、「売国奴」と罵られもした。彼は、この苦難をきちんと総括し、自分を徹底的に分析し、当時、起こった事柄を、はっきり見極めていくことの大切さを強調した。

 

 巴金は文化講演会でも、こう訴えている。
「私は書かなければなりません。

 私は書き続けます。そのためには、

 まず自分をより善良な、より純潔な、

 他人に有益な人間に変えねばなりません。
 私の生命は、ほどなく尽きようとしています。

 私はなすべきこともせずに、

 この世を離れたくはありません。

 私は書かねばならず、

 絶対に筆を置くことはできません。

 筆によってわが心に火をつけ、

 わが体を焼きつくし、灰となった時、

 私の愛と憎しみは、

 この世に消えることなく残されるでしょう」


 時代の誤った出来事を看過してはならない。

 その要因と本質とを深く洞察し、

 未来のために戦いを開始するのだ。


 会談で巴金は、

「今、文革についての小説を書き始めました。

 ゆっくりと、時間をかけて書いていくつもりです」と語った。
 正義の闘魂が、新しき社会を創る。

 

〈小説「新・人間革命」〉 雄飛 十四   2017年6月30日

 2023.10.18整理

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No.049

第一歩を踏み出せ!

されば続かん!

 

 中国の大文豪 巴金先生曰く
「たくさんの人物の運命が、
 私の確固不抜の信条を強めてくれた。
 その信条とは、
 生命の意義はこれを差し出すこと、
 何かに献げることにあり、
 受け取ること、
 獲得することにはない――これである」

「ひとたび口火が切られれば、
 それについで前進する人が出るはずである。
 第一歩を踏み出せば、
 第二歩はたやすく踏み出せる。
 誰かが先頭に立てば、
 これに続く人にこと欠かないはずである。
 こうして道行く人は、一層ふえるに違いない」
 
2003.11.25全国最高協議会

2023.10.18整理

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No.048

 報恩とは、
 自身の可能性を最大に開いていく
 「人間革命」の挑戦なのだ。

 

<報恩感謝に徹すれば、
 自ずから為すべき行動は定まる

 

 感謝がある人は幸福である。
 心には豊かさがあふれ、
 喜びに満ち、
 生き生きとして明るい。
 福徳が輝く。
 感謝のない人は不幸である。
 いつも、不平と不満、
 嫉妬と恨みと愚痴の
 暗雲が渦巻いている。
 だから、人も離れていく。
 わが人生を輝かせゆく源泉は、
 報恩感謝の一念にこそあるのだ。
 
 誰のどのような行いによって
 今の自分があるのか。
 そのことを深く知り
 感謝することで、
 自己を最も強く肯定し、
 自分自身の存在の基盤を
 確立することができる。


 自身の基盤を確立することは、
 自分自身の大いなる
 発展の土台となるのである。


 報恩とは、
 自身の可能性を最大に開いていく
 「人間革命」の挑戦なのだ。
 
 大文豪ゲーテは言う。
「感謝しなければならぬ人と
 出あいながら、
 感謝をわすれていることが、
 どんなにしばしばだろう」
 その通りである。


 陰で支えてくれた方々に、
 感謝の声を掛けていくことだ。
 決して
 当たり前と思ってはならない。
 声一つ、言葉一つで、
 人間の心は動く。
 その心が一切を決める根本だ。
 
 感謝を忘れず、
 報恩に徹すれば、
 自ずから為すべき行動は定まる。


 必ず無限の勇気と智慧が、
 滾々と
 湧き起こってくるのだ。


 感謝の人は光る。
 報恩の世界は栄える。

 

池田大作先生 四季の励まし 感謝の心で人生は輝く 2017年2月12日

2023.10.17整理

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No.047

親が子に残せる財産

 

<親の「振る舞い」を通して、「心の財」が子に伝わる>

 

 私たち親が子に残せる財産とは、

 一体、何でしょうか。
 大聖人は、

 『蔵の財よりも身の財すぐれたり

  身の財より心の財第一なり』

 (崇峻天皇御書1173頁)と仰せです。


 「蔵の財」「身の財」も大切ですが、

 真の幸福を築くのは「心の財」です。


 同じ原理で、

 親が子どもに託せる最高の財は、

 「心の財」以外にしかありません。

 その「心の財」を積む

 信心と生き方をどう継承していくか。


 そこで重要なのが、

 大聖人が仏の「出世の本懐」とまで仰せの

 「人の振る舞い」です。


 親として子どもに接する「振る舞い」を通して、

 「心の財」も伝わるのです。


 かつて私が、

 家庭での教育について語ったポイントも、

 いわば親としての「人の振る舞い」を

 説いたものにほかなりません。


 ①信心は一生。今は勉学第一で
 ②子どもと交流する日々の工夫を
 ③父母が争う姿を見せない
 ④父母が同時には叱らない
 ⑤公平に。他の子どもと比較しない
 ⑥親の信念の生き方を伝えよう
  聡明な振る舞いこそが大切です。

 

 根本は、子どもを尊重する「人を敬う」実践です。


「子どもが学校に行くようになったら、

 手を振って送ってあげる」
「多忙で離れていても、

 電話や手紙で励ましてあげる」等々、

 戸田先生も、

 わが家に具体的なアドバイスをくださっていました。

 

大白蓮華2016年8月号№802 38頁

2023.10.10整理

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No.046

「死」の姿にこそ

“人生の総決算”が凝縮

 

 ともあれ私は、

 すべての同志の皆さま方の、

 ご長寿とご健勝を心からお祈りしたい。

 それとともに、どうか、

 何歳になっても“心若々しい”人であっていただきたい。

 どんなに長生きしても、

 まるで“三百歳”の枯れきったような、

 生気も希望もない生き方であっては、

 かえって不幸であろう。


 そして“楽しい総仕上げ”の人生であってほしい。

 悩みや不安ばかりの最終章であっては、

 あまりにもさびしい。

 「本当に楽しかった」

 「充実の人生であり悔いは何もない」――

 そうした所願満足の人生を創造しゆくための信仰である。


 私事で恐縮であるが、

 私の母の死去も、

 まことに安らかな姿であった。

 まさに笑(え)みを浮かべるがごとき

 最期であったといってよい。

 義父もそうであった。

 兄も弟もそうであった。

 そして、次男もまた、

 眠るがごとき姿で逝(ゆ)いた。


 肉親の死去にあうたびに、

 私は、この大白法が、

 いかに素晴らしき

 「生死不二」の大法であるか確信してきた。

 それ以外にも、

 見てきた多くの臨終の姿の一つ一つが御聖訓の通りであった。

 信順の人は「福十号に過ぎ」、

 謗逆(ぼうぎゃく)の徒は「頭破作(ずはさ)七分」となる。

 「死」の姿にこそ、

 厳粛にして厳然たる“人生の総決算”が

 凝縮されるといえよう。

 

1988.11.3練馬・町田・葛飾合同総会

2023.10.10整理

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No.045

あなたも世界市民です!

 

<世界市民教育の4つのプロセス>

 

 ①自分を取り巻く社会の問題や世界が直面する課題の現状を知り、学ぶ。


 ②学びを通して培った、人生の座標軸と照らし合わせながら、日々の生き方を見直す。


 ③自分自身に具わる限りない可能性を引き出すためのエンパワーメント。※1


 ④自分たちが生活の足場としている地域において、具体的な行動を踏み出し、一人一人が主役になって時代変革の万波を起こすリーダーシップを発揮する。

 

※エンパワーメント・・・人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと(サイト・マスタ)

 

2016年1月26日第41回SGIの記念提言「万人尊厳 平和への大道」

2023.10.9整理

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No.044

日蓮大聖人の出世の本懐

 

<御本仏と共に戦う偉大な民衆の出現>

  

 当時、この大聖人の大願を

 純真な信心で受け継ぎ、

 横暴な権力からの迫害の中で戦っていたのが、

 熱原の農民門下でした。


 彼らが大難に負けない信仰を示したことこそ、

 師弟不二の信心に基づく

 「死身弘法の実践の模範」です。

 これは、後世万代のために、

 民衆仏法の凱歌を轟かせた

 大偉業であったといえるでしょう。


 民衆仏法とは、

 法華経の万人成仏に基づき、

 全ての人々の

 尊厳性・尊極性・等性

 十全に開花する思想です。

 

 その主役を担うのは、

 人間から離れた超越者ではなく、

 現実の世界の中で、

 地域の中で実践を繰り広げる法華経の師弟です。

 弟子も、師と同じ実践を共有し、

 目覚めた民衆を一人でも多く誕生させていく。

 いわば、民衆仏法とは、

 使命を自覚した民衆自身が主役となり、

 民衆の勝利を開きゆく「人間の宗教」なのです。


 無名の庶民である熱原の農民門下は、

 正法の信仰のゆえに大難を受け、

 三世永遠の魂の自由を勝ち取る戦いをしました。

 

 法華経の精髄である

 三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、

 御本仏と共に戦う偉大な民衆が遂に登場したのです。

 まさに、民衆仏法の基盤が確立しました。

 ここにこそ、

 大聖人の出世の本懐の成就があるのです。

 

 不軽菩薩を模範とする民衆、

 深き使命の地涌の菩薩そのものである

 民衆の出現こそが、日蓮仏法の魂です


 まさしく、大聖人一門にとって、

 この熱原の農民に代表される

 不惜身命の弟子の涌現は、

 万年に輝きわたる不滅の礎となったのです。

 

 大白蓮華2015年10月号№792 38頁 聖人御難事(上)

2023.10.9整理

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No.043

願兼於業

 

<いちばん苦しんでいる人の中に、

 生まれてくるのです!>

 

 池田 法師品に、

 この人は生ぜんと欲する所に自在(法華経360頁)とある。

 願ったところに生まれてくると言うのです。
 大聖人は、

 成仏した生命は九界の世界に、

 たちまちのうちに戻ってきて、

 自在に衆生を救っていくと述べられている。


滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ

 須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて

 身を十方法界の国土に遍じ

 心を一切有情の身中に入れて

 内よりは勧発し外よりは引導し

 内外相応し因縁和合して

 自在神通の慈悲の力を施し

 広く衆生を利益すること滞り有る可からず』(御書574頁)


 私どもは、あえて、

 苦悩の世に生まれてきたのです。
今日蓮等の類い

 南無妙法蓮華経と唱え奉る者は

 法師の中の大法師なり』(御書736頁)と、

 大聖人は仰せです。


 大聖人のお心を拝して、

 広宣流布のために生きている学会員は、

 「法師の中の大法師」です。

 そして、一回の人生を終えても、

 「須萸の間」に、また生まれてくるのです。


 今世を戦い切って、

 霊山に行って、息をはずませ報告する。

 「大聖人様! 立派に使命を果たしてきました!」
 大聖人は

 「ご苦労。よく頑張った。

 さあ次は、どこへ行くつもりか」と(笑い)。
 「少しぐらい休みたい」と思う暇もない(爆笑)。
 また、休みたい人は休んでいいのです(笑い)。

 自在なのです。
 「自在神通の慈悲の力」とある通り、

 慈悲ゆえに「須萸の間に」また

 使命の庭に元気いっぱい戻ってくるのです。

 きょう寝て、あす目がさめるようなものです。


 須田 衆生を慈しみ、愍むゆえに、「願って」悪世に生まれてきた──妙楽大師は、そのことを「願兼於業(願いが業を兼ねる)」(『法華文句記』)と呼びました。
 法師は本来、仏道修行の功徳によって善処に生まれるところを、願って悪業をつくり、悪世に生まれて仏法を弘通するということです。


 池田 戸田先生も、

「初めから立派過ぎたのでは

 人々の中に入っていけないから、

 われわれは仏法を弘めるために

 わざわざ貧乏や病気の姿をとって

 生まれてきたんだよ」

 「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、

 しばしば言われていた。


 また、

「戸田は妻を失い、

 娘まで亡くした。

 事業も失敗した。

 そういう苦悩を知っているからこそ、

 創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。


 苦労もない、

 悩みもないというのでは

 民衆の心がわかるわけがない。

 人生の辛酸をなめた人であってこそ

 人々を救うことができるのです。


 自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは

 後ろ向きになる。

 それを、あえて

 「使命のために引き受けた悩みなのだ」

 「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、

 とらえるのです。


 願兼於業は、

 この「一念の転換」を教えている。

 宿命を使命に変えるのです。

 自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、

 絶対に乗り越えられないはずがない。


 斉藤 大聖人は法師品の『大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず』(法華経356頁)および『衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広くこの経を演ぶ』(法華経357頁)の二つの文について「御義口伝」には『大願とは法華弘通なり愍衆生故(みんしゅうじょうこ)とは日本国の一切衆生なり生於悪世の人とは日蓮等の類いなり広とは南閻浮提なり此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり』(御書736頁)と仰せです。
 まさに妙法を世界に弘めている学会員こそ、無量の福運を積み、広宣流布するために生まれてきた御本仏の本眷属なのですね。


 池田 だから尊貴なのです。

 だから、互いに尊敬すべきなのです。


 冒頭、インドの話が出たが、

 インドの国父、

 マハトマ・ガンジーは言っています。
私がもし生まれてくるとしたら、

 不可触賎民として生まれてきたい。

 悲しみや苦痛や彼らに与えられた侮蔑を分かち合い、

 みずからと不可触賎民を

 その悩める境遇から救い出すように努めるために

 この心は「願兼於業」に通じると思う。

 慈悲です。

 

 「ともに生きる」ということです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、

 生まれてくるのです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、

 仏はいるのです。
 いちばん苦しんでいる人を、

 いちばん幸福にするために仏法はあるのです。

 

法華経の智慧 法師品 第十章

2023.10.7整理

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No.042

学会の会館は

 地域の発展に寄与する灯台

 

災害時には地域の方々の避難所>

 

 一九五三年(昭和二十八年)十一月、新宿区信濃町に学会本部が誕生した時、戸田はまるで、子どものような喜びようであった。

 「遂にできたな! すごいじゃないか。創価の大城だ。これからは、ここで私が指揮を執る。朝から晩まで、同志は自由に集って来られる。広宣流布は破竹の勢いで進むぞ!」

 それは、弟子の誓いの結実であった。新本部といっても、大広間が、わずか七十畳ほどの広さである。しかし、この新本部の誕生を境に、広宣流布の前進は、一段と加速していったのだ。

 戸田は伸一に言った。

 「将来は、日本中に、こんな会館が建つようにしたいな」

 伸一は、その言葉を生命に刻んだ。

 そして今、かつての学会本部をはるかにしのぐ、幾つもの大会館を、各県区に、つくれるようになったのである。

 山本伸一は、大田区の代表との協議会で、会館建設への思いを語っていった。

 「今までは会館建設にまで手が回らず、皆さんには、何かとご苦労をおかけしてきました。どの会館も質素で狭く、木造のものも多かった。しかし、いよいよ、新しい段階を迎えました。これからは、都内の各区に、鉄筋コンクリートの、立派な文化会館をどんどんつくってまいります。皆さんの会館です。また、平和と文化を創造する地域の牙城です」

 皆の思いをはるかに超えた、建設の構想である。参加者の顔は、喜びに輝いていた。

 皆の心を見抜いたように、伸一は言った。

 「皆さんは〝考えもしなかった、すごいことだ! わが区に、立派な会館を幾つもつくってしまってよいのだろうか〟と思われているかもしれません。しかし、広宣流布の未来の広がりを考えるならば、必要不可欠です。学会の会館は、まだまだ少ない。他の宗派と比べてみても、それは明らかです」

 伸一が言うように、他宗派の寺院・教会等の数と、学会の会館数を比べてみれば、いかに少ないか一目瞭然である。

 たとえば、天台系全体の信者数は五百四十万余で寺院・教会等の合計は四千二百余。また、真言系は信者約千二百万で寺院・教会等は一万二千四百余、浄土系は信者二千万余で寺院・教会等が三万五百余、禅系は信者一千万余で寺院・教会等が約二万となっている。〈『宗教年鑑(昭和50年版)』文化庁〉

 学会は、このころ既に、会員数は約一千万であったが、会館は四百に満たず、いずれも小さな建物であった。

 しかも、学会の会館は、連日、同志が集い、勤行会、教学の研鑽、指導会、研修会、打ち合わせなどが行われ、その使用頻度は他宗派の寺院などと比べて極めて高い。

 それらを考え合わせると、効率的な広宣流布の活動を推進していくためには、さらに全国に会館を整備していく必要性を、伸一は痛感していたのである。

 彼は、大田区の幹部たちに視線を注ぎながら、話を続けた。

「地域広布を推進していくには、

 地域の方々に、

 学会の会館はわが町の誇りであると、

 思っていただけるようにすることです。

 したがって、

 会館の使用に関しては、

 駐車や駐輪、騒音などで、

 近隣に迷惑をかけることがないように

 心がけていただきたい。

 

 そして、

『学会の会館があると、

 地域が明るくなり、

 活気づく。町が栄える』

 言われるようにしていくことが大事です。

 

 また、

 会館を立派にするのは、

 もし、

 地震や台風などの災害があった時には、

 地域の方々の避難所としても

 使えるようにするためでもあります。

 地域を守り、繁栄させ、

 人びとを幸福にしていくための会館です。

 学会の会館は、

 地域の発展に寄与する灯台です。

 皆さんは、その灯台守の自覚で、

 会館を守っていってください」

 

<新・人間革命> 第22巻 新世紀 14~18頁

2023年10月6日整理

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No.041

現場を大切にしたところが勝つ

 

あらゆる組織の鉄則>

 

 実際に見てみなければわからない。

 これが「現場」である。

 予想もできない“未知の力”が働いている場合も多い。

 

 ゆえに、

 第一線の人、

 その地域の人、

 長い活動体験を積んできた人。

 そうした方々の意見に

 徹底して耳をかたむけ、

 最大に尊重していかねばならない。

 

 その、足を運び、耳をすまし、

 考えぬく努力が不十分で、

 いかに会議や打ち合わせを重ね、

 さまざまな企画を立てても、

 効果は生まれない。

 

 それどころか、

 的はずれの“机上の空論”となり

 “観念の遊戯”となっては、

 むしろマイナスである。

 人々を苦しめてしまう。

 その罪は大きい。

 

 「現場を大切にしたところが勝つ」――

 これはいかなる組織、

 いかなる企業、

 団体でも不変の鉄則である。

 

 

 『池田大作全集』第73巻、192頁

 1989年(平成元年)9月、第1回埼玉県総会・県青年部総会で

2023年10月3日整理

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No.040

学会は

絶対に病院をつくってはならない!

 

<宗教者として最も正しい生き方を選択!>

 
  さて、あるマスコミ関係者が語っていた。


 ――世間には、

 自前の大病院を有している宗教団体もある。

 しかし学会はもっていない。

 私はその点を評価し、尊敬する。


 本来、宗教の使命とは、

 どこまでも内なる″精神″の次元から、

 人間を救っていくところにあるはずだ。

 人間が希望を持って生きぬいていくための

 ″精神闘争″″生命闘争″を教えるべきである。


 それが、精神的な教えを説く一方で、

 病院を建て、金儲けをし、

 人々を内面から救っていけない

 自分たちの無力さをごまかしている。

 これは人間への欺瞞であり、

 宗教者としての根本の使命を忘れた、

 堕落の姿といってよい。

 

 その点、創価学会は、

 いわゆる病院というものをもっていない。

 さまざまに批判されているが、

 私は学会こそ、

 宗教者のいき方としてもっとも正しいと思う――と。


 戸田先生(創価学会第二代会長)は

 「学会は、絶対に病院をつくってはならない」

 と厳しく戒められていた。

 学会はあくまでも「信心」で進んでいくのだと――。

 このことは、

 宗教人としての自覚と自負がこめられた

 重要な原則である。
 

1990.8.17

ドクター部、白樺会、白樺グループ合同研修会

 

<″内なる力″を引き出すのが信仰>

 
「戸田先生は、『学会は病院をつくらない』

 と指導されたとうかがいました。それはなぜでしょうか」(マレーシア・男性)


 結論から申し上げると、

 どこまでも「信仰の力」で人々を幸福にする。

 成仏の境界に導く、

 これが大聖人の仏法の目的であるからです。
 病に打ち勝つ

 人間自身の″内なる力″を引き出していくのが、

 宗教本来の使命です。


 ゆえに、

 宗教自体の力で人々を救うこともなく、

 教団として病院や薬局を営業していくならば、

 それは宗教教団としては、

 本道をはずれた″亜流″の生き方になってしまう。


 自分たちの宗教で人々を健康にし、

 幸福にすることができない″力不足″を

 カムフラージュする姿

 と見ることさえできるかもしれない。

 いわんや病院によって利益を得るようになっては

 堕落といわざるを得ない。


 いうまでもなく仏法は

 医学を否定するものではない。
 戸田先生は、

「病院には病院の使命がある。

 私たちは、信心を根本にして

 医学を使っていけばいいのだ」と言われていた。


 要は、次元の違いであり、

 仏法は生命の内側から、

 根底的に人間を健康の方向へと向かわせていく。

 その根本的使命をこそ

 教団は果たすべきだということです。

1993. 4.11 SGI春季研修

2023年9月29日整理

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No.039

「負けない」人が勝つ!

 

 

 人生は、断じて退いてはならない。

 負けてはならない。

 「負けない」ことが「勝利」である。

 

 最後まで「負けない」人は勝ったのである。

 

 学会の前進も、

 どんな障魔にも退かなかった。

 前へ前へと進んだ。

 だから勝ってきた。

 

 “何があろうと、一歩も退かない”

 ――これが学会精神である。

 その人こそが、無限の勝利を得ることができる。

 

 

 『池田大作全集』第88巻、455ページ

ー>English

2023年9月29日整理

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No.038

 

苦難は「心の名曲」なり

 

「さあ、何でも来い!」

   

 人生の旅には、

 まるで長く暗いトンネルに入ったように、

 先の見えない、

 苦しい試練が打ち重なる時が、

 誰しもあろう。

 

 妙法の信仰は、

 その中で、

 いやまして鮮烈に蘇生の光を放つ。

 

 日蓮大聖人は、

 老いたる姑の看病に尽くした後も、

 自らの闘病が続く富木尼御前へ、

 真心の献身を労いつつ、

 「これで必ず治すと決めて、

 これからの三年、始めた時と同じように、

 しっかり治療していきなさい」

 (新版1316頁、全集975頁)と、

 焦らず粘り強い執念の治療を促された。

 

 そして「法華経の行者」として、

 「強盛なる信心で、

 どうして病が癒えず、

 寿命が延びないことがあろうか」

 新版1317頁、全集975頁)との確信で、

 体を大切にし、

 心の中であれこれ嘆かないようにと、

 励まされている。

 

 御書を開けば、

 病気や

 家族との離別、

 生活の困窮、

 理不尽な圧迫など

 千差万別の悩みを、

 大聖人の仰せ通り、

 同志と支え合い、

 変毒為薬してきた

 「法華経の行者」たちの群像が拝される。

 

 尼御前の伴侶・富木常忍へは、

 「難をしりぞけて福の光る先兆ならんのみ」

 「災い来るとも、変じて幸いとならん」

 (新版1321頁、全集979頁)と示されている。

 

 自行・化他の誓願の題目を唱え、

 広宣流布に生きゆく我らには、

 一切の事象が「願兼於業(願、業を兼ねぬ)」であり、

 「転重軽受(重きを転じて軽く受く)」である。

 

 ゆえに、

 「さあ、何でも来い!」と、

 悠然と迎え撃ち、

 断固と祈り抜き、

 祈り切るのだ。

 

 そして、

 人間革命、宿命転換という

 生命の逆転勝利の劇を飾り、

 多くの苦悩の友へ限りない勇気を送るのである。

 逆境のトンネルを抜ければ、

 明るい福智の大海原が洋々と開かれている。

 

 師・戸田先生は、

 いじらしい草創の関西の女性たちに語られた。

泥沼が深いほど、

 大きな美しい蓮華が咲く。

 人も苦労が多いほど、

 幸福の蓮華の花を

 大きく美しく咲かせ広げられるんだよ」と。

 今、まさに常勝の人華が朗らかに咲き誇っているではないか。

 

 入会八十二年を迎えた妻が、

 宝友と大切にしてきた指針には、

 「希望は心の太陽」

 「努力は心の王道」

 「苦難は心の名曲」なりと。

 

2023年大白蓮華8月号№886 巻頭言(抜粋)

2023年9月27日整理

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No.037

御聖訓は

自分自身に頂戴した励まし!

 

 我が身一人の日記文書なり

 

 どんな境遇にあろうと、

 日蓮大聖人の仰せの通りに実践するならば、

 必ずや福徳と信頼の道が開かれるのだ。

 

 牧口、戸田両先生は、

 御書を「我が身一人の日記文書なり」 

 (新版713頁、全集563頁)とされ、

 広宣流布、立正安国への大誓願をもって身読された。

 

 ゆえに、

 私たちもまた、

 御聖訓の一文一句は、

 他の誰でもない

 自分自身へ送ってくださった励まし

 と拝していきたい。

 

 そして、御本仏のお心に体して、

 縁する一人一人を大切に、

 勇気と確信の対話へ打って出るのだ。

 そこに、自他共に「一生成仏」 へ、

 心機一転の大生命力が

 滾々こんこんみなぎってくるのである。

  

2022年大白蓮華5月号№871 巻頭言(抜粋)

2023年9月27日整理

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No.036

 

強い心

師子の一念で祈り抜く

 

<多くの苦悩それ自体が不幸なのではない!

心が敗れてしまうことが不幸なのだ!>

  

 人生には、

 病に襲われることもあれば、

 失業や倒産など、

 多くの苦悩があるが、

 それ自体が人を不幸にするのではない。

 

 その時に、

 “もう、これで自分の人生は終わりだ”などと思い、

 希望をなくし、

 無気力になったり、

 自暴自棄になったりすることによって、

 自らを不幸にしてしまうんです。

 

 つまり、

 病気などに負けるというのは、

 その現象に紛動されて、

 心が敗れてしまうことをいうんです。

 

 したがって、

 苦境を勝ち越えていくには、

 強い心で、“こんなことで負けるものか!

 必ず乗り越え、

 人生の勝利を飾ってみせるぞ!”という、

 師子のごとき一念で、

 強盛に祈り抜いていくことです。

 日蓮大聖人は、

 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・

 いかなる病さはりをなすべきや」

 (全1124・新1633)と仰せではないですか。

 

 小説『新・人間革命』第29巻「力走」の章、146頁

2023年9月26日整理

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No.035

日蓮大聖人の大慈悲

 

<まず、自分を迫害した国主等を導け!

 

 末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈悲は、

 一切衆生に平等に注がれている。

 国や民族によって差別があるはずもない。

 日本だけとか特別の立場の人だけに

 大きな功徳があるなどということも、まったくない。

 大切なことは、「信心」があるかないか、

 御本仏の御心に適(かな)うかどうか、なのである。

 (中略)

 信徒を代表する立場にあった

 四条金吾や、富木常忍も、また無名の熱原の信徒も、

 大聖人の目から御覧になれば、

 ともに愛すべき末法の衆生であり、

 門下のだれかを特別視したり、

 えこひいきされるようなことは絶対になかった、と。

 

 さらに、

 大聖人を迫害した平左衛門尉などの権力者たちでさえも、

 御本仏の大慈悲の目からみれば、

 憐れみ、救うべき、

 末法の迷える衆生の一人にすぎなかった、

 と仰せである。

 

 佐渡御流罪中に、大聖人は

願くは我を損ずる国主等をば

 最初に之を導かん、

 我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、

 我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん

 (顕仏未来記、新612、全509)

 ──願わくは、

 私を迫害した国主等を、

 まず最初に導いてあげよう。

 私を助けてくれた弟子たちのことは、

 釈尊に申し上げよう──と仰せになっている。

 

 御本仏には、

 一切衆生──全人類をことごとく救って成仏させたい、

 という慈悲の御心しかないのである。

 

 太陽は平等である。

 全地表の生命を照らす。

 人類の太陽であられる御本仏の大慈悲の光も

 世界のすべての人々の上に、

 平等に注がれている。

 

 いわんや仏の御使いとして、

 苦悩の友を救おうと広布に励む、

 地涌の先駆の皆さまの信心は、

 即座に御本仏の御心に通じ、

 三世にわたる福運が積まれていることを

 確信していただきたい。

 

 1992年2月9日インド広布31周年記念総会

インド・ニューデリーにて

 『池田大作全集』第80巻、107頁

2023年9月25日整理

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No.034

25歳の青年の心意気で

一生を生き抜いていただきたい

 

 

 黄金柱の壮年部が、

 今こそ

 立ち上がる時である。

 

 たとえ年配になっても、

 25歳の青年の心意気で、

 この一生を

 生き抜いていただきたい!

 

 断じて

 心まで老いてはならない。

 

 若々しい心を

 燃やさなければ、

 何事も勝てるはずがない。

 

 壮年の「壮」とは、

 若々しく、元気盛んで、

 強く、大きく、

 勇ましいことをいう。

 ゆえに、意気盛んな男性を

 「壮士」と呼び、

 働き盛りの年代を

 「壮歳」といい、

 勇気のいる

 大がかりな仕事を

 「壮挙」というのだ。

 

 本来、青年をしのぐ、

 勢い、勇気、強さ、実力、

 英知をもっているのが

 壮年なのである。

 

 壮年の豊かな

 「経験」と「確信」、

 青年の燃えるが如き

 「情熱」と「行動力」。

 これらをがっちりと

 組み合わせれば、

 その力は、

 単なる足し算ではなく、

 掛け算となって

 倍加していく。

 そこに、広宣流布の勢いは

 いやまして加速し、

 盤石なる

 「青年学会」の建設への

 決定打となっていく。

 

 壮年の声の力は

 計り知れない。

 ゆえに、

 断じて声を惜しむまい。

 声の限り、力の限り、

 創価の勇将が

 正義を叫んで、

 必ずや国土世間を

 仏国土に変えていくのだ。

 

 学会の勝負は、

 最後は壮年部が

 決するのだ。

 

 堂々と

 正義と真実を語り抜き、

 学会の偉大さを

 満天下に示すのは、

 師弟の真髄を

 結果で体現する

 壮年部なのである。

 

2023年3月5日〈池田大作先生 四季の励まし〉

2023.9.22整理

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No.033

 

「法華経の将軍学」

常に御書を裏づけとし

題目を上げ、

最高の智慧を出し

行動していく。

 

<乗り越えられない困難など絶対ない!>

 

 

 長い人生の戦いにあって、

 途中には

 幾多の苦難がある。

 壁にぶつかる時もあろう。

 思いもよらぬ

 難関が立ちはだかる。

 

 だが、我らには

 「法華経の兵法」がある。

 ゆえに迷いなく、

 定めた決勝点を目指して、

 辛抱強く力走するのだ。

  

 「大阪の戦い」にあっては、

 毎朝、勤行のあとに、

 御書を真剣に拝し合い、

 皆の勝利への一念を

 合致させていった。

 

 不可能を可能としゆく

 「法華経の兵法」

 「妙法の将軍学」を

 心肝に染め抜いた。

 

 「絶対勝利」の活力を

 満々と漲らせて、

 皆が最前線に躍り出た。

 そして、勇敢に道を

 切り開いていったのだ。

  

 目先の策や戦術などに

 振り回されてはならない。

 

 私たちは、どこまでも

 強盛なる祈りで

 勇気と智慧を

 湧きいだすのだ。

 

 常に御書を裏づけとし、

 自信満々と進むのである。

 

 「法華経の将軍学」を

 正しき羅針盤として、

 最高の作戦と行動で

 共戦の宝友を

 牽引していくのだ。

  

 行き詰まったら、

 まずは

 題目をあげることだ。

 祈って、

 最高の智慧を湧きいだす。

 そして行動していく。

 乗り越えられない

 困難など、絶対にない。

  

 行くところ

 向かうところで、

 一人から一人へ、

 勝利の一念を燃え立たせ、

 勇気の波動を起こすのだ。

 

 時代の変化は激しく、

 苦労も多いだろうが、

 どこまでも信心で団結し、

 信心で勝とう。

 

 何事も強気でやり通す

 執念が勝負を決する。

 

 一人も残らず、

 自分に勝ち、社会で勝ち、人生で勝つ

 功徳満開の春を迎えよう!

 

2023年3月12日池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」

2023.9.21整理

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No.032

自分の出番だ!時を逃すな!

 

<時をつくり、確実につかみ、そして勝つ!>

  
 「自分が、やらなければ!」

  ――この責任感に立つ時、若き生命は、無限の力を発揮する。


 また、青年は、

 「自分の出番」

 「人生のチャンス」を、

 みずからつくり、確実につかみ、勝つことである。

 

 人生には「時」がある。

 自分が全力で走るべき「時」を逃がしてはならない。

 その「時」をつくり、掌中に握らねばならない。


 またとない「チャンス」を前に、

 気がつかなかったり、遠慮する。

 また体裁を考えたり、怖じ気づく。萎縮する。

 行動に移せない――それでは、

 偉大な人生は歩めない。

 自分自身の戦いに勝てない。

 深く大きな自分を築けない。

 

1992.5.5創価教育同窓の集い

2023.9.21整理

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No.031

生命とは何か

 

<生死という人生の根本のテーマ>

 

 

◆永遠の生命と因果の理法◆

 

 伸一は、笑いが静まると、力を込めて語り始めた。

 「これは極めて大事な問題です。

 死の解明は、

 人間の、そして、宗教の重要なテーマです。

 いくら語っても、

 語りつきない問題ですので、

 今日は、その一端だけ、お話しましょう。

 

 現代人のなかには、

 生命というのは、

 今世限りだと考えている人も多いようですが、

 もしも、生命が永遠でなければ、

 生まれながらの不公平を、

 どうとらえればよいのかという問題が残ります。

 

 日本の国に生まれる人もいれば、

 香港に生まれる人も、

 アメリカに生まれる人もいる。

 あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。

 

 さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、

 貧困の家に生まれる子もいる。

 

 生まれながらにして、

 不治の病に侵されていたり、

 不自由な体で生まれてくる子どももいます。

 

 生まれる境遇も、

 顔や姿も、千差万別です。

 

 まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、

 皆、平等につくるべきです。

 

 また、生命が今世限りなら、

 不幸な星の下に生まれた人は、

 親を恨み、無気力にならざるを得ません。

 

 あるいは、何をしようが、

 おもしろおかしく生きていけばよいと考え、

 刹那主義に陥ってしまうことになる。

 

 この宿命が、

 どこから生じたのかを、

 徹底して突き詰めていくならば、

 どうしても、

 今世だけで解決することはできない。

 生命が永遠であるという

 観点に立たざるを得ません

 

 伸一は、参加者に視線を注いだ。

 皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。

「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、

 この宿命の根本原因を明かし、

 宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。

 

 では、仏法では、

 宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。

 

 自分以外のものによってつくられたのではなく、

 過去世において、

 自分自身がつくり出したものだというんです。

 

 少し難しくなりますが、

 身・口・意の三業の積み重ねが、

 宿業となるのです。

 

 つまり、

 どのような行動をし、

 何を言い、

 何を思い、考えてきたかです。

 たとえば、

 人を騙し、不幸にしてきたり、

 命を奪うといったことが、

 悪業をつくる原因になります。

 

 さらに最大の悪業の因は、

 誤った宗教に惑わされて、

 正法を誹謗することです。

 これは生命の根本の法則に

 逆行することになるからです。

 (つづく)

 

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No.030

『母』を大切にすれば、

世界は平和になり幸福になる!

 

『幼子は母をしらず

 母は幼子をわすれず、

 釈迦仏は母のごとし

 女人は幼子のごとし、

 二人たがひに思へば・

 すべてはなれず』

 (同生同名御書、1114頁)※1

 

 お母さんの愛を忘れてはならない。

 お母さんの苦労を忘れてはならない。

 お母さんの慈顔が心に生きている時、

 人間は決して大きく道を誤ることがない、

 と私は思う。

 

 それと同じく、

 私ども凡夫が

 御本仏の大慈悲を忘れることなく、

 深き感謝の心で生きていく時、

 心には仏界の光が大きく広がっていく。

 そして御本尊の大慈悲につつまれた、

 根本的に安穏と歓喜の人生の

 軌道となっていくのである。

 

 どうか若き皆さんは、

 かけがえのないご両親、

 とくにお母さんを

 大切にしていただきたいと

 重ねて申し上げたい。

 

 『母』の愛は深い。

 『母』の力は偉大である。

 

 そして

 すべての人々が

 『母』を大切にすれば、

 必ずや世界も平和になり、

 幸福になっていくにちがいない。

 

 大白蓮華2018年5月号№823 20頁

2023.9.12整理

※1 追記

 上野殿御消息(四徳四恩の事) 建治元年(ʼ75) 54歳 南条時光

(新1852、全1528)

 三世の諸仏の世に出でさせ給いても、皆々四恩を報ぜよと説き、三皇五帝、孔子・老子・顔回等の古の賢人は、四徳を修せよとなり。

 四徳とは、一には父母に孝あるべし、二には主に忠あるべし、三には友に合って礼あるべし、四には劣れるに逢って慈悲あれとなり。 

 一に父母に孝あれとは、たとい親はものに覚えずとも、悪しざまなることを云うとも、いささかも腹も立てず、誤る顔を見せず、親の云うことに一分も違えず、親によき物を与えんと思って、せめてすることなくば、一日に二・三度えみて向かえとなり。(中略)

 一に仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。

 一に父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二渧、和合して我が身となる。母の胎内に宿ること二百七十日、九月の間、三十七度、死ぬるほどの苦しみあり。生み落とす時、たえがたしと思い念ずる息、頂より出ずる煙、梵天に至る。さて生み落とされて乳をのむこと一百八十余石、三年が間は父母の膝に遊び、人となりて仏教を信ずれば、まずこの父と母との恩を報ずべし。父の恩の高きこと、須弥山なおひきし。母の恩の深きこと、大海還って浅し。相構えて父母の恩を報ずべし。(中略)

 しかるあいだ、四恩を報ずべきかと思うに、女人をきらわれたるあいだ、母の恩報じがたし。次に、仏、阿含の小乗経を説き給いしこと十二年、これこそ小乗なれば我らが機にしたがうべきかと思えば、男は五戒、女は十戒、法師は二百五十戒、尼は五百戒を持って三千の威儀を具すべしと説きたれば、末代の我らかなうべしともおぼえねば、母の恩報じがたし。いわんや、この経にもきらわれたり。方等・般若、四十余年の経々に皆、女人をきらわれたり。ただ転女成仏経・観経等にすこし女人の得道の経文有りといえども、ただ名のみ有って実なきなり。その上、未顕真実の経なれば、いかんがありけん。四十余年の経々に皆、女人を嫌われたり。また最後に説き給いたる涅槃経にも女人を嫌われたり。

 いずれか四恩を報ずる経有りと尋ぬれば、法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の竜女成仏し、仏の姨母・憍曇弥、耶輸陀羅比丘尼、記別にあずかりぬ。されば、我らが母はただ女人の体にてこそ候え、畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる、いかんぞ、この経の力にて我が母の仏にならざるべき。されば、法華経を持つ人は、父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思わねども、この経の力にて報ずるなり。

 しかるあいだ、釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行・地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、総じて、この法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそうがごとく守らせ給い候なり。相構えて相構えて、心を翻さず一筋に信じ給うならば、「現世安穏にして、後に善処に生ず」なるべし。

(サイト・マスタ)

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No.029

釈尊は、

なぜ法華経を説いたか?

 

 そもそも釈尊が、

 なぜ法華経を説かれたのか。

 

 大聖人は「父母の御孝養のため」

 (全1564・新1899)と仰せである。

 

 すなわち、

 大恩ある両親に、

 今世だけではない、

 三世に崩れざる幸福を送るためには、

 どうすればよいか

 ――そのために、法華経を説かれて、

 三世永遠の常楽の境涯を教えられたのである。

 (中略)

 

 戸田先生は青年にこう言われた。

「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。

 しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、

 どうして他人を愛せようか。

 その無慈悲の自分を乗り越えて、

 仏の慈悲の境地を会得する、

 人間革命の戦いである」(「青年訓」、『戸田城聖全集』第一巻)と――。

 どうか、いつも笑顔で、

 ご両親に喜びを送りゆく青年であっていただきたい。

 

1992年2月9日インド広布31周年記念総会

インド・ニューデリーにて

 『池田大作全集』第80巻、99頁

2023.9.12整理

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No.028

 

「中心者(リーダー)が皆を守る」

のが学会精神だ!

 

 戸田先生は、

 あるとき「指導者の根本姿勢」を指導された。

 それは皆が

 「支部長は会長を守り」

 「地区部長は支部長を守り」云々

 と言っているのを受けられての話である。


しからば、私がきみたちに守ってもらっているか。

 支部長に守られているか。

 けっして守られていない。

 それより、支部長をかばってあげている。

 支部長にかばってもらってきていない。

 支部長に守ってきてもらっていない。

 あまり迷惑をかけないようにしてもらいたいといいたい。

 

 いま、支部長で、

 地区部長に守られているようなものは出ていきなさい。

 支部長は、地区部長を守ってあげるのです。

 これを支部長に命令します。


 また、地区部長は班長に守られているようではいけない。

 

 すると、ある班長が、

 うちの地区部長は守ってくれないと言う。

 もしそんな班長がいたら、

 きょうかぎりやめなさい。

 

 守られなくてもいいではないか。

 

 班長は組長を、

 組長は組員を守りなさい。

 これが学会の精神です」(昭和二十九年五月、本部幹部会)


 一つの目的に向かって進んでいるのだから、

 “中心者を守る”のは当然であろう。

 しかし、それだけを強調すると、

 下にばかりいばり、

 上にへつらう者も出てくる。


 リーダーが、

 人に何かやってもらうことを

 当たり前のように考え、

 甘えたり、傲慢になる。

 

 そこで戸田先生は、

 「リーダーが皆を守る」のが学会精神だ、

 と教えられたのである。


 私も、いつも人を守ってきた。

 守りすぎるくらいに守った。

 と言えるかもしれない。

 

 人に何かやらせよう、

 利用しようというのではなく、

 自分が苦労して皆を守ってあげる。

 

 この厳然たる精神に、

 人間としての王道がある。

 また、自他ともに功徳を受け、

 栄えゆく道がある。


 学会が大発展したのはなぜか。

 「極善」の妙法を根本に、

 「極悪」と戦ってきたからである。

 そして、「会員第一」できたからである。
 私は会員の皆さまを幸福にするために生きている。

 それ以外に何もない。

 会員の皆さまの屋根となって、

 一身に難を受け、守りに守ってきた。

 これからも、この決心で生きぬいていく。

 

1993(平成5)年12月1日 四国最高会議

2023.9.11整理

2023.9.12整理

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No.027

 

どこまでも民衆の味方の

「大言論戦の勇者」たれ

 

<「いちの暴言・中傷には、じゅうの正論を語り抜け>

 

 幹部指導に続いて、会長・山本伸一の講演となった。彼は言論部のこの二年間の活動に敬意を表したあと、広宣流布における言論活動の意義について言及していった。

「言論による時代の建設こそ、

 民主主義の根本原理であります。

 私どもが進める広宣流布は、

 正義の言論を武器とし、

 民衆を守り、

 民衆が主役となる

 人間の勝利の時代を築く運動であります」

 

 そして、彼は、

 「言論の自由」を永遠に

 守り続けていかなければならないと語るとともに、

 「言論の自由」を盾に、

 無責任で勝手気ままな言論や、

 真実を歪め、人をたぶらかす、

 邪悪な言論が横行していることを指摘していった。

 

 「言論の自由」とは、

 「嘘やデマを流す自由」では断じてない。

 

 伸一は訴えた。

「悪質な意図をもって、民衆を扇動するような、

 一部の評論家やジャーナリスト、

 あるいは指導者によって、

 日本が左右されてしまえば、

 いったいどうなるか。

 そうした邪悪な言論と戦い、

 その嘘を暴き、

 人間の〝幸福〟と真実の〝平和〟のための

 新しい世論をつくりあげていくことこそ、

 言論部の使命であります。

 私は、一握りの評論家やジャーナリスト、

 あるいは一部の〝偉い人〟だけが、

 言論の自由を謳歌するような時代は、

 もはや去ったと叫びたい。

 また、本来、言論の自由とは、

 そういう特権階級のためのものではないはずであります。

 私どもは、善良なる世論を結集し、

 燃え上がる民衆の言論戦をもって、

 新しき時代の幕を開いていこうではありませんか!」

 

 民衆が、

 堂々と真実を語り、

 正義を叫ぶことこそ、

 「言論の自由」の画竜点睛である。

 

 いち」の暴言、中傷を聞いたならば、

 「じゅう」の正論を語り抜く。

 その言論の戦いのなかにこそ、

 「声仏事を為す」(御書七〇八㌻)という精神も、

 生き生きと脈打つのである。

 

 伸一は、最後に、

 どこまでも民衆の味方として、

 人びとの心を揺り動かす情熱と理念、

 緻密な論理とを備えた

 大言論戦の勇者たれと呼びかけ、

 講演としたのである。

 

 創価学会の強さは、

 民衆を組織したことにあると見る識者は多い。

 

 しかし、組織したから、

 学会の強さがつくられたわけではない。

 その組織のなかで、

 民衆が自立し、

 自らの主張を堂々と展開する、

 社会建設の主役になっていったからこそ、

 いかなる権力にも屈しない、

 強靱な民衆の力の連帯が形成されたのである。

 

<新・人間革命> 第8巻 清流 204頁~206頁

2023.9.8整理

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No.026

 「夢のなかの栄え」「幻の楽しみ」に惑うな!

 

<妙法によって磨かれた「わが生命」こそ、三世に輝く財宝>

 

 大聖人は、仰せである。

死後の地獄等という

 苦悩の世界に行ったならば、

 王の位も、

 将軍の位も、

 何の役にも立たない。

 獄卒(地獄の鬼)の責めにあう姿は、

 猿回しに回される猿と変わらない。

 こうなった時は、

 どうして名聞名利や我慢偏執

 (我を頼んで心が傲り、

 偏ったものに執着すること)

 の心でいられようか

(新池御書1439㌻通解、新版2062㌻)

 

 いかに権威・権勢を誇っていても、

 死後の世界では、

 通用しない。

 

 すべては、

 自分が「いかに生きたか」で

 決まるのだ。

 みずからの行いの報いは、

 すべてみずからが

 受けなければならない。

 

 この厳しき

 「因果の理法」を前にした時、

 人間は、

 自身の生き方を

 正さないではいられまい。

 

 大聖人は、こうも言われている。

生涯は、どれほどもない。

 思えば、

 この世は(三世の旅路のうち)、

 一晩だけ泊まる仮の宿である。

 それを忘れて、

 どれほどの名声と利益を

 得ようというのか。

 また、得たとしても、

 これは、

 夢のなかの栄えであって、

 珍しくもない楽しみである

 (持妙法華問答抄466㌻通解、新版517㌻)

 

 三世の生命観に立てば、

 この世も、

 一晩の仮の宿のようなものである。

 

 現世でどれほどの名声や

 財産を得ようとも、

 これまた、

 死後の世界に

 もっていけるものではない。

 

 「夢のなかの栄え」

 「幻の楽しみ」

 に惑わされてはならない

 との仰せである。

 

 まじめに信心を貫いた人。

 広布のために生きぬいた人。

 華やかな脚光は浴びなくても、

 その人が「最高の勝利者」である。

 妙法によって磨かれた

 「わが生命」こそ、

 三世に輝く財宝なのである。

 

2006年3月21日 春季彼岸勤行法要

2023.9.7整理

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No.025

信心の根っこがある限り

必ず蘇生できる!

  

 しばらくして、伸一の指導となった。
 彼は、一月の十五日に行われた、

 若草山の山焼きのことから話を進めた。


 「毎年一回、山焼きが行われますが、

 必ずまた、春とともに、若草が萌え出ずる。

 それは、草は焼かれても、根っこがあるゆえに、

 草の灰を肥料として吸収し、

 みずみずしい草を茂らせるのであります。


 人生も同じです。

 根がある人は、何があっても必ず栄える。

 根とは信心です。

 

 その根をより太く、

 強くしていくことによって、

 福運を吸い上げ、

 自分のみならず、

 一家一族をも、

 永遠に繁栄させていくことができる。


 各地域にあっても、

 異体同心の組織が築かれ、

 “信心の根”が深く張り巡らされていくならば、

 三障四魔という炎に焼かれることがあっても、

 また必ず、若草山のように、

 青々と蘇生していくことは間違いありません。


 人生には、

 さまざまな試練が待ち受けているものです。

 

 しかし、

 “根がある限り、

 たとえ、すべてを焼き尽くされても、

 必ず蘇生できるのだ!”

 

 と強く確信し、自信をもって、

 焦らずに、

 わが生命に信心の根を、

 地域に広宣流布の根を、

 張り巡らしていってください」

 

小説 新・人間革命 第26巻 勇将 308頁

2023.9.4整理

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No.024

祈りから、全ては始まる!

願いを叶えるために、全宇宙が動く!

 

一番、悩んだ人が、一番、偉大な人生に

  
 勤行・唱題は、

 自分と大宇宙が交流しゆく儀式である。


 自分の中にある「宝の蔵」を開ききっていく。

 わが生命の泉から、

 限りない智慧と慈悲と勇気をくみだしていくのだ。


 朗々たる勤行で、

 満々たる生命力が涌かないわけがない。


 日蓮大聖人は仰せである。
白馬がいななくのは、

 我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。

 この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、

 どうして、色つやを増し、

 輝きを強くされないはずがあろうか。

 どうして我らを守護されないはずがあろうかと、

 強く強く思われるがよい

 (曾谷殿御返事<輪陀王の事>、新1447、全1065、編1204、通解)


 我らの題目は、

 諸天善神を動かし、

 我らを、そして一家を、社会を

 守り、栄えさせていく。


 強い強い信心があれば、

 必ず一切の道が開けていく。


 たとえ、

 苦しいことや嫌なことがあっても、

 いかなる状況になろうとも、

 題目を唱え抜いていくのだ。

 どんなことも祈り抜いていくのだ。

 御本尊に語り掛けるように祈るのだ。


 目には見えなくとも、

 願いを叶えるために、全宇宙が動く。
 一番、悩んだ人が、

 一番、偉大な人生になっていくのである
 祈りから、全ては始まる。


 聖教新聞2014.8.3付新時代を開く28

2023.8.31整理

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No.023

創価学会は誰も見捨てない!

 

<問題の本質を見誤るな!>

 

 さらに彼は、たまたま学会員が引き起こした事件などを、あたかも創価学会の問題であるかのように取り上げ、学会批判を重ねるマスコミの報道について、言及していった。

これまでも、精神の病で苦しんでいた人が入会をし、その後、事件を起こしてしまったこともありました。あるいは前科があり、誰からも相手にされなかった人が学会に入り、また犯罪に関与してしまったこともありました。

 そのつど、新聞や週刊誌は、創価学会自体が罪を犯したかのように書き立て、私どもは、非難されてまいりました。

 しかし、本来は、そうした人たちが人間らしく生きられるにはどうしたらよいかを、政治家や国家などが責任をもって考え、面倒をみていくべきであります。

 だが、それを切り捨て、誰も、何もしようとはしない。

 不幸な境遇の人を見て見ぬふりをしているのが、

 今の多くの政治家であり、

 高級官僚といわれる役人ではないですか。

 日本の指導者層は、あまりにも利己主義であり、無責任です。

 

 それに対して、

 私たち学会員は、

 この世から不幸をなくそうと、

 苦しんでいる人を見れば、

 人間には等しく幸福になる権利があるのだと、

 信心を教えてきた。

 創価学会には、いっさい差別はないからです。

 そして、

 なんとか幸せになってほしいと、

 皆さんは真心を込めて、

 あれこれと面倒をみてこられた。

 社会的な体裁を繕い、

 自分のことだけしか考えない人たちには、

 決してできないことです。

 さまざまな悩み、複雑な問題をもつ人を、

 数多く抱きかかえていけば、

 なかには、事件を起こしてしまう人が出ることもあるでしょう。

 しかし、そうなることを恐れて、

 人間を切り捨てていくことと、

 どちらが正しい道なのか

 

 伸一の言葉には、強い確信が脈打っていた。

 「つまり、社会が見捨てた人をも、

 真心で包み、

 ともに幸福の道をめざしてきた最も尊い教団が、

 わが創価学会であります。

 心ある指導者ならば、

 学会の在り方を見て、

 賞讃するのが本来の姿です。

 たとえば、

 社会的な地位が高く、

 財力があり、

 身体も健康である等、

 さまざまな条件を設けて、

 学会が入会を制限していれば、

 〝貧乏人と病人の団体〟などと

 言われることもなかったでしょうし、

 問題はほとんど起きなかったでしょう。

 しかし、

 それでは、苦悩に泣く民衆を救うという、

 宗教の、なかんずく、

 仏法の精神を捨てることになってしまいます」

 

 メンバーは、学会員が事件を起こしたと報道されるたびに、自分の周囲の人びとに、どう説明してよいかわからず、悔しい思いをしてきた。

 

 伸一は、その問題を取り上げ、

 事の本質を明らかにしたのである。

 彼は、会員が、いかなる問題で苦しみ、

 いかなる批判に戸惑っているのかについて、

 レーダー網を張り巡らすかのように、

 常に心を配っていた。

 そして、それが何かをつかむと、

 真っ先に対応し、

 論破すべきものは明快に論破していった。

 その迅速な対応こそが、

 言論戦の要諦といえるからだ。

 

<新・人間革命> 第8巻 宝剣 100頁~102頁

2023.8.29整理

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No.022

何のための学会活動か

何のための組織・幹部か

 

 

 自分が功徳を受けるための信仰である。

 また、そのための

 仏道修行であり、学会活動である。

 

 そして、皆に功徳を受けさせるため

 組織であり、幹部である。

 

 この目的を見失う時、

 組織はみずみずしい活力を失い、

 停滞し、活動は空転を始める。

 

<新・人間革命> 第8巻 清流 208頁

2023.8.29整理

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No.021

悪への怒りなき者は去れ!

 

<破和合僧とは断じて戦え!>

 

 先生は、

 学会のうるわしい和合を破ろうとする者(破和合僧)がいたならば、

 青年部が、ただちに戦えと厳命された。

 

「いくら立派そうに見えても、

 悪に対して、

 弱い人間、悪と戦わない人間は、

 結局、ずる賢い人間だ」

 

 これが恩師の未来への警鐘であった。

 最高幹部の皆さまであるゆえに、

 あえて厳しく言い残しておきたい。

 

 悪と戦わなければ、

 悪を容認し、

 悪に加担するのと同じである。

 それは、

 すでに師弟を忘れ、

 信心を食い破られた姿だ。

 

 その根底は、

 「臆病」であり、

 「保身」であり、

 「背信」である。

 

 その「心の毒気」は、

 いつしか蔓延し、尊き信心の和合を壊していく。

 「もう、これくらいでいいだろう」

 ――そんな中途半端な心が毛筋ほどでもあれば、

 悪の根を断ち切ることなどできない。

 毒気は断じて一掃し、吹き払わねばならない。

 

「戦う心」が清浄な伝統をつくる。

 最後の最後まで、邪悪をすべて根絶するまで、正義を叫びぬく。

 この戦う学会精神を、身をもって未来に継承していただきたい。

 

「学会に腰抜けの人間はいらない。

 悪への怒りなき者は去れ!

 私は、最後の一人になっても戦う!」

 

 これこそ、惰弱な幹部に対する戸田先生の痛烈なる叫びであった。

 

2006年2月19日最高協議会

2023.8.28整理

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No.020

 地涌の使命は

人類共通のルーツに基づく使命

 

 地涌の使命は、
 あまりにも大きい。
 あまりにも崇高です。
 民族や人種、
 国籍や性別など
 一切の差異を超え、
 生命の大地の奥深くに広がる
 大いなる創造的生命
 ――人類共通のルーツに基づく使命といってもよい。
 それに気づくことを「地涌」というのです。

 いかなる人も尊極の生命の当体です。
 互いに励まし合い、
 尊敬し合いながら、
 今この地上に生きる仲間として、
 自他共の無限の可能性を開き、
 幸福と平和という価値を創造する底力がある。
 偉大な使命があるのです。

 その使命に生きることを誓って
 現実社会に踊り出たのが、
 私たちなのです。
 
 大白蓮華No.768号2013.11月号巻頭言

2023.8.11整理

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No.019

牧口先生の如く堂々と正義を貫け!

 

ありのままの自分で、誠実に、正直に!

 

 牧口先生は、

正邪善悪を明らかにして、

 道理に服従する自信と度量があるならば、

 百の干渉があったとしても何だというのか

 と言われている。

 この言葉のとおり、

 権威や権力など、

 まったく恐れなかった。

 強大な国家権力に対しても、

 一歩も引かなかった。

 

 ある時、青年に、こう話されたという。

人間、相手が強く、

 地位等を利用して迫ってきた場合など、

 正当の理由がなければ頭を下げてはいけない。

 堂々と主義主張を貫きなさい。

 また反対に弱い立場である人の場合は

 協力して助けてあげなさい

 

 困っている人には優しく接する。

 しかし、傲慢な敵には、徹して強くあれ!

 卑劣な相手には、断じて屈するな!

 それが牧口先生の教えであった。

 

 現実の中では、相手によって、

 話すのに気後れすることもあるかもしれない。

 

 牧口先生と親交のあった、

 東北出身の新渡戸稲造博士は、こう記している。

人から能く思われたいとか、

 自分の値より以上に高く評価されたいとか

 いう考えがあればこそ

 怖気おじけづくのである。

 自己の値を真価だけしか発表せぬとしたなら、

 少しも怖気ることはない

 (『修養』、『新渡戸稲造集』7所収、教文館)

 鋭い見方である。

 

 自分がどう見られるかばかり気にしていては、

 壁を破れない。

 ありのままの自分で、

 誠実に、正直に、

 自分の主張を語っていけばよいのだ。

 

 牧口先生の毅然とした姿勢は、

 獄中にあっても、まったく変わらなかった。

 検事の尋問に対して

 ″いかなる大敵にも負けないで、

 生きぬいて、

 人間の達しうる最高の理想を

 示しきっていくのが仏である″と、

 仏法の深義を語っておられる。

 

 牧口先生の「勇気」。

 その勇気の源は、

 強盛な信心にあった。

 御本尊への絶対の確信にあった。

 

 牧口先生は言われている。

宗教は人生の背骨である。

 宗教をもたないで生きるのは、

 背骨がなくて歩くようなものである。

 正しい宗教をもつことが、

 まっすぐの背骨をもつことになる

 

 妙法に生きる私たちは、

 何ものも恐れる必要はない。

 題目をあげぬいた人が、

 最後に必ず勝つことは、

 決まっている。

 

 私どもは、

 正しき宗教を持った誇りを胸に、

 牧口先生のごとく、

 毅然と進んでいこう!

2005.8.19各部合同研修会

2023.8.7整理

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No.018

地涌の菩薩ならば、

妙法の偉大さを証明する人生を

 

大変であればあるほど、思いきって戦うんです!

 

 

 ここで、戸田先生の指導を紹介したい。

 ある質問会でのことである。

 「なぜ医者が見放した病人が治るのでしょうか

 との質問に対して、

 先生は、こう答えられた。

 「なぜなおるかといえば、

 宗教が何を対象としているかの問題です。

 経済学は経済を、数学は数を、

 医学は病気を対象とした学問です。

 そして真実の宗教は、

 生命を対象にした哲学なればこそ、

 病気の悩みも解決するのです

 (『戸田城聖全集』2)

 

 さらに「生命についた魔を取り除き、

 なおすのが、宗教です。

 それなくしては、宗教とはいえません

 (同前)と断言されている。

 

 魔とは、

 人々の心を悩乱させ、

 善事をさまたげ、

 仏道修行を阻む働きをいう。

 

 医学では治せない「生命の病

 ――貪瞋癡の三毒に侵された生命を癒す力が、

 この信心にはあるのである。

 

 こうも述べられたことがある。

 われわれの姿は

 「″貧乏菩薩″や″病気菩薩″のように見えるが、

 それは人生の劇を演じているんだよ。

 正真正銘の地涌の菩薩なんだ。

 人生の劇なら、思いきって楽しく演じ、

 妙法の偉大さを証明してごらん」。

 

 現実の生活は、

 さまざまな行き詰まりの連続であるかもしれない。

 苦難もある。

 悲哀もある。

 病気の時もある。

 しかし、決して悲観することはない。

 すべては、信心の偉大さを証明するための「仮の姿」であり、

 幸福へと転換するチャンスなのである。

 これが仏法の究極の法則である。

 

 大変であればあるほど、思いきって戦う!

 「わが人生の舞台」で「広布の名優」として、

 晴ればれと「勝利の舞」を舞っていく!

 それが地涌の勇者の人生である。

2005.8.6各部合同研修会

2023.8.4整理

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No.017

自分がやるんだ!

信心で立ち上がった時、

最高の「智慧」に適った行動になる

 

真剣」であれば、必ず智慧はわいてくる>

 

 私は世界広宣流布を、

 一宗一派を広めようとか、

 そういう小さな考えでは、やっていません。

 

 地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど、

 必ず平和の方向へ行くのです。

 長い目で見ればわかります。

 

 もし核戦争が起きれば、地球は破滅です。

 とくに、冷戦時代、第三次大戦が起きないとは、

 だれも保証できなかった。

 

 口はばったいような言い方になるが、

 私は「法華経」という「生命の宝塔」の教えを、

 世界に広めてきました。

 まだまだ緒(ちょ)についたばかりだが、

 流れはできあがった。

 戸田先生は

 「二百年先のために今、戦っている」と言われたが、

 私も同じ気持ちです。

 

 今の人類を、その子孫を、

 どう幸福と安穏の方向にもっていけるのか──。

 地球を背負っているような気持ちで、行動してきた。

 その「青任感」に立った時、

 頭の中に「智慧の嵐」が吹き荒れてきた。

 次々と先手を打つこともできたのです。

 

 頭の“いい悪”いんじゃないんだよ。

 

 「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。

 法華経の一句一偈を忘れたら、

 普賢菩薩が「私が、必ず教えに現れます」と誓っていたでしよう。

 これは、このことです。

 智慧が出なかったら、

 普賢品は、法華経はウソになってしまう。

 

 「自分は真剣にやっているが、智慧が出ない」

 という人もいるかもしれない。

 しかし、たいていの場合、

 そういう人は、

 内心では自分は頭がいいと思っているのです。

 

 本当に頭が悪いと思ったら、

 「これでは皆に申しわけない」と思ったら、

 必死で題目を唱えるはずです。

 それで変わらないわけがない。

 

 「だれかがやるだろう」とか、

 「自分には関係ない」という一念が、

 奥底にあるのです。

 それがあるかぎり、

 「普賢菩薩の威神の力」は出てこない。

 

 「自分がやるんだ!」と信心で立ち上がった時、

 世間的な頭のよしあしを超えて、

 最高の「智慧」に適った行動になるのです。

 

 法華経の智慧 普賢菩薩勘発品 第二十八章

2023.7.24整理

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No.016

もっとも難しい勝利

 

 

 「もっとも難しい勝利」とは何か。

 それは、

 ”自分に勝つ”こと以外にない。

 

 試験でも何でも、

 ”自分に勝つ”という努力をしない人が勝てるわけがない。

 良い成績もとれるはずがない。

 天才、秀才といっても、

 努力の結晶である。

 

 すべて”自分”で決まる。

 

 自分らしく、まっしぐらに、

 力をつけていくことだ。

 

 "人の三倍、五倍やろう”と決めて、

 努力することだ。

 

 一生涯、学んだ人が

 進歩の人であり、勝利の人となる。

 

 向上の心を失ってしまえば停滞し後退し、

 ついには敗北の人生となってしまうであろう。

 

 大切なことは最後に勝つことである。

 今がどうであれ、

 その人が真の幸福者である。

 それまでは歯を食いしばっての、

 努力また努力である。

 

希望の明日へ 317、318頁

2023.7.24整理

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No.015

いかなる宗教の人をも、

尊敬をもって接していくのです

 

<万人成仏の仏法であるからこそ

  

 人間は――誰もが等しく、尊厳なる、かけがえのない存在である。

 誰もが等しく、幸福になる権利がある。

 誰もが等しく、平和に暮らす権利がある。

 本来、いかなる者も、人の幸福と平和を奪うことなどできない。
 これは、一切衆生が仏の生命を具えていることを説く、

 仏法の法理から導き出された帰結であるが、

 人間の救済をめざす一切の思想・宗教の立脚点にほかなるまい。


 戸田城聖が語ったように、

 キリストやムハンマドなど、世の賢聖たちは、

 宗教的・思想的信条の違いはあっても、

 人間の幸福こそ根本目的であるということには瞬時に合意しよう。

 そして、ここを起点として対話を重ね、

 複雑に絡み合った偏見、差別、反目、憎悪の歴史の糸をほぐし、

 共存共栄の平和図を描き上げていくにちがいない。


 人類の幸福と平和のために宗教者に求められることは、

 教えの違いはあっても、

 それぞれの出発点となった“救済”の心に対して、

 互いに敬意を払い、

 人類のかかえる諸問題への取り組みを開始することであろう。


 ましてや、

 日蓮仏法が基盤とする法華経は、

 万人が仏の生命を具えた、

 尊厳無比なる存在であると説く。

 ゆえに、いかなる宗教の人をも、

 尊敬をもって接していくのが、

 その教えを奉ずる私たちの生き方である。


 戸田が提唱した、

 人間は同じ地球民族であるとの「地球民族主義」の主張は、

 その魔性に抗する、人類結合の思想にほかならない。


 宗教者が返るべきは、

 あらゆる差異を払った

 「人間」「生命」という原点であり、

 この普遍の共通項に立脚した対話こそ、

 迂遠のようであるが、

 相互不信から相互理解へ、

 分断から結合へ、

 反目から友情へと

 大きく舵を切る平和創造の力となる。

 

 小説新・人間革命 29巻 第3章 清新52

2023.7.22整理

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No.014

法華経の修行の肝心

 

不軽菩薩の如く『人を敬い』

 賢き「人の振舞」を貫くこと>

 

 人の世はいかなる道にも修行がある。

 その修行に徹し、

 道を究めてきた人には、

 命の張りがあり、

 光がある。

 

 日蓮大聖人は

 『法華経の修行の肝心』を明確に教えてくださった。

 不軽菩薩の如く『人を敬う』ことであり、

 賢き「人の振舞」を貫くことである。※1崇峻天皇御書、新1597、全1174頁)

 

 それは、

 その人の仏性を信じ、

 礼儀と誠意を尽くして会うことから始まる。

 その時は反発されても、

 こちらの礼拝の一念は、

 相手の奥底の仏性には必ず通じている。

 

 とともに、

 庶民を傲慢に見下し、

 不幸に陥れる魔性の働きには、

 勇敢に聡明に忍耐強く立ち向かっていくのだ。

 

 御書には、その手本が幾重にも示されている。

 『日蓮は此の法門を申し候へば

 他人にはにず多くの人に見て候へ』(妙法比丘尼御返事、新2120頁、全1418頁)とも仰せである。

 他者とは比較にならないほど人と会われ、語り抜かれた。

 

 その上で、

 『いとをしと申す人は千人に一人もありがたし』(同頁)と率直に記されてもいる。

 御本仏の大慈大悲で包まれても

 ”本当に立派な人”は少ないと言われるのだ。

 

 いわんや凡夫の私たちが末法の衆生の只中で、

 どれほど苦心しているか、

 全て御照覧くださっているに違いない。

 

 まさに「立正安国の対話」は、

 至難の修行なのである。

 だからこそ、

 福徳もまた大きい。

 自らの境涯を開く人間革命とともに、

 一家眷属も、地域社会も大福運を積み、

 さらに国土世間の宿命まで転換していけるのだ。

 

「この世の悲惨をなくし、

 不幸をなくし、

 人権を、人間の尊厳を守り、

 平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある」とは、

 恩師の関西での宣言であった。

 

 ともあれ我らの語らいは、

 皆が幸せになるための修行である。

 一歩また一歩が、

 仏になりゆく道なのである。

 

 『法華経の行者は日輪と師子との如し』乙御前御消息、新1688頁、全1219頁)

 ゆえに、

 太陽の如く明るく大らかに、

 一人一人の心を照らし、

 仏縁を結び希望の連帯を広げゆこう!

 そして、

 師子の如く強く堂々と正義を叫び切って、

 「人の振舞」という人間主義の勝利の旗を掲げゆこうではないか!

 

 太陽と

  師子のいのちの

   君なれば

  照らせ 吼えゆけ

   凱旋かざれや

 

※1 『代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』

 

 大白蓮華2019年7月号№837 巻頭言

2023.7.22整理

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No.013

仏法は大きい!!

 

どんな差異も超えて全人類を包み込む大きさと、

縁を結んだ民衆一人一人の幸福をどこまでも祈り抜く深さ

 

 忘れ得ぬ戸田大学の研鑽の中で、

 恩師が「大作、仏法は大きいな!」と微笑み、

 示された御聖訓がある。

 

 日蓮大聖人が

 「其の国の仏法」を任せると信頼された、

 駿河国(静岡県)富士郡の高橋夫妻への一節である。

たすけんがためにこそ申せ、

 かれ等のあだをなすは・いよいよ不便にこそ候へ、

 まして一日も我がかたとて心よせる人人は、

 いかでかをろかなるべき』(高橋入道殿御返事、新1957頁、全1460頁)

 ――迫害してくる権力者などさえ不憫であり、

 導こうと仏法を語っているのだ。

 ましてや一日でも味方となり心を寄せてくれた人々を、

 どうして疎かにしようか、と。

 

 どんな差異も超えて全人類を包み込む大きさと、

 縁を結んだ民衆一人一人の幸福をどこまでも祈り抜く深さを、

 御本仏から受け継いでいるのが、

 創価の世界である。

 

 大聖人は、

 一切衆生の「異の苦」も「同一苦」も悉く

 「日蓮一人の苦」と仰せになられた。

 

 このお心に連なって、

 我らはたゆまず「立正安国」の対話に打って出る。

 

 信仰の有無や立場などを問わず、

 同じ時代に生きる仲間として、

 現実の課題を共に見つめ、

 よりよき社会の建設へ人間主義の連帯を築くのだ。

 

 信念と大情熱の語らいの中で、

 仏性という最極の善の生命を互いに輝かせ合うことができる。

 

 反発さえも、

 「立正安国論」に「咲み止めて」とあるように、

 笑顔で受けとめながら、

 幸の仏種を心田に蒔いていくのである。

 ここから、

 「人間革命」のドラマが幾重にも生まれる。

 

 法華経の妙荘厳王品は、

 邪見に囚われていた父王が、

 妻と二人の子によって正しき信仰に導かれる物語である。

 ひとたび目覚めた父王は大いに歓喜し、

 一挙に偉大な力を発揮する。

 王宮の幾多の群臣眷属を、

 仏のもとへ引き連れ、

 そして諸共に正義と功徳を拡大していくのだ。

 

 広布の最前線の地区やブロックでも、

 勇敢にして誠実な宝友の挑戦が、

 新たな地涌の眷属を呼び出している。

 祈りと真心を尽くす人間外交で、

 「一人」への励ましを広げ、

 幸福と平和の波動を起こしゆこうではないか!

 

 みな宝塔

  みなが仏子と

    誇らかに

   声を惜しまず

    励まし勝ちゆけ

 

 大白蓮華2019年3月号№833巻頭言

2023.7.22整理

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No.012

創価にしりぞく心なし

 

さあ、勇敢に、楽しく戦おうじゃないか!」

 恩師は、大変であればあるほど、

 悠然と言い放たれた。


 どんな断崖絶壁の苦境に追い込まれようと、

 一歩も退かないと決めた勇気ある信心で、

 必ず難局を切り開ける。


 苦難の中でこそ、

 偉大な創造が成されるのだ。

 

 思えば、

 聖教新聞の創刊も、

 最大の試練の渦中に構想された。


 御本仏・日蓮大聖人は、

 「広宣流布」「立正安国」とは、

 法華経の行者と第六天の魔王とが、

 生死の苦悩の逆巻く大海で、

 この娑婆世界を

 『とられじ・うばはんと・あらそう』(弁殿並尼御前御書、新1635頁、全1224頁)

 大法戦の舞台であると示されている。


 一切衆生を魔軍から守り、

 不幸の流転から救い切って行くために、

 大聖人御自身が戦い起こされて、

 『一度もしりぞく心なし』(同頁)と仰せなのである。


 この甚深の御書をいただいたのは、

 庶民の母である。
 度重なる大難に臆病な弟子らが退転しても、

 決して退かなかった健気な信心を、

 御本仏は

 『釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか』(同頁)

 と讃えておられるのだ。
 ”あなたこそ、私と同じ不退の心の法華経の行者だよ”

 ――それは、学会家族への御賞讃と拝されてならない。


 大聖人が開始なされた、

 人類に宿命を転換しゆく

 壮大なる平和と幸福の師弟共戦を、

 そのまま受け継いでいる地涌の陣列こそ、

 創価の父母たちであるからだ。


 いかに障魔が競い起こり、

 いかに災難が打ち続こうとも、

 我らは「立正安国」の旗を断じて降ろさない。

 強敵が立ちはだかるほどに、

 誓願同心の民衆がいやまして団結し、

 底力を発揮して一切を勝ち越えていくのだ。


 広布の大闘争から、

 一人一人の「人間革命」の劇が生まれ、

 それぞれの地域の「三変土田」の歴史が創られる。


 「御義口伝」には、

 『依報も正法も福運・智慧ともに無量であり、

 いわゆる南無妙法蓮華経とは福智の二法なのである』(御義口伝 二十八品に一文ずつの大事、新1104頁、全792頁、通解)

 と明かされている。


 個人も社会も妙法の福智の光で包みながら、

 幸と安穏の世界を広げゆこう!

 創価には「しりぞく心なし」と。

 

 久遠より
  共に誓いし
    この地にて
   皆が笑顔の
     勝利の旗ふれ

 

大白蓮華2019年4月号 №834 巻頭言

2023.7.22整理

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No.011

人類の大理想目指して

 

 日蓮大聖人は、

『代は羲農の世となりて

 今生には不祥の災難を払ひ

 長生の術を得、

 人法共に不老不死の理顕れん時を

 各各御覧ぜよ』

 (如説修行抄、502頁)と仰せであられる。


 大聖人は、

 戦乱のない平和な世界、

 災難にも負けない民衆の連帯、

 そして人類が生死の苦悩を打開し、

 幸福長寿の人生を謳歌しゆく時代を志向されて、

 広宣流布の大理想を私たちに託してくださったのである


 私たちが友に語る仏法哲理こそ、

 生死の闇を照らす太陽となる。

 私たちが広げる助け合いの絆こそ、

 共生の社会建設の土台となるのだ。


 本年(2014年)は

 第一次世界大戦の勃発から百年。

 今こそ、

 人類の宿命を転換し、

 「平和の百年」を創り開いていく時である。


 生命尊厳の思潮を

 全地球に広げる

 主役は我ら!


 誉れも高く、

 自他共の幸福を築きゆく、

 正しき人生の道を前進しよう!


 地域の同志と、

 仲良く朗らかに、

 励まし合いながら!

 

 世界の同志と、

 希望のスクラムも固く!

 

聖教新聞2014.8.14付 民衆凱歌の大行進 10 正しき人生とは

2023.7.21整理

 

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No.010

急がねばならぬ!

 

 人類は、

 黎明を待ちわびていた。

 眼を凝らし、固唾をのみ、

 漆黒の海を見つめる。

 暁闇を破って、黄金の光が走った!

 金波銀波が煌めく彼方に、

 雄々しく白光を放って、

 旭日が躍り出る。

 

 朝だ!

「世界広布新時代」の大空へ、

 太陽の仏法は昇った。

 光は、刻一刻、

 一切衆生の無明の闇を払い、

 万人の生命の「仏」を覚醒し、

 幸と歓喜の光彩を広げていく。

 

 日蓮大聖人は、

 「天変地夭・飢饉疫癘」の蔓延する世に、

 「立正安国」の旗を掲げて一人立たれた。

 そのバトンを受け継いだ創価の師弟が今、

 地涌の大行進を開始するのだ。

 

 人心はすさみ、

 世界には、

 不信と憎悪の分断の亀裂が幾重にも走る。

 戦火は果てず、

 自然もまた、

 凶暴な牙を剝き、

 人びとは、

 不安と恐怖の濃霧のなかをさすらう。

 

 急がねばならぬ! 

 友の胸中に、

 人間主義の慈悲と正義の旗を打ち立て、

 世界を結ぶのだ。

 一個の人間の生命を変革し、

 社会、人類の宿命の転換を成し遂げ、

 崩れざる平和と繁栄を築くのだ

 ――これが、「立正安国」だ。

 これが、われらの尊き使命だ。

 

 さあ、心に太陽をいだいて、

 躍進の第一歩を踏み出そう!

 

 「躍進」とは、歓喜踊躍の前進だ。

 

 御聖訓には、

 「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く

 所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」

 (御書788ページ)と。

 

 私たちは、本来、仏である。

 その仏が、末法の衆生救済を誓願し、

 あえて悪業を担い、苦悩を背負って、

 この世に出現したのだ。

 

 それは、大仏法に巡り合い、

 宿命転換することをもって、

 仏法の厳たる功力を証明するためだ。

 ゆえに、打開できない宿命も、

 苦悩も絶対にない。

 この最極の真実に目覚め、

 わが使命を自覚し、

 自ら勇んで戦いを起こす時、

 生命は大歓喜に包まれ、

 悠々と苦悩に打ち勝つ大境涯へ、

 自身を高めていけるのだ。

 

 求道あるところに、歓喜はある。

 祈りあるところに、歓喜はある。

 実践あるところに、歓喜はある。

 信仰とは、

 あふれる歓喜の源泉なのだ。

 

新・人間革命 28巻 広宣譜36

2023.7.21整理

 

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No.009

地涌の菩薩に

「絶望」や「諦め」は断じてない!

 

<大悪起これば大善来る>

 

 ポーリング博士は、

 「他者への献身の行為こそ調和ある社会を

  築きゆくための規範となるべきである

 とも訴え、こう力強く呼びかけられました。

 

 「私たちは十界論のうちの『ナンバー・ナイン』

 つまり菩薩の精神に立って行動するよう努力すべきです!

 ――当時91歳の碩学による、

 まさに後世への師子吼でありました。

 

 確かに、分断と対立の世界を、

 調和と共生の世界へと転ずるには、

 人間の尊厳性を信じ抜く、

 菩薩の精神が不可欠でありましょう。

 

 今、直面する世界の現実が、

 どれほど苦渋と困難を極めても、

 「く心をきたわせ給うにや」(新1608,全1186)

 と賞讃された地涌の菩薩に、

 絶望や諦めなどは断じてありません。

 

 地涌の菩薩は、

 末法という最も大変な時代に、

 娑婆という最も困難な世界へ、

 そして、

 今日より明日へ、はるかな未来へも、

 喜び勇んで飛び込んでいく

 勇気と希望の菩薩です。

 

 涌出品には、その威徳が記されています。

 昼夜常精進ちゅうやじょうしょうじん(昼夜に常に精進す)

 如蓮華在水にょれんげざいすい(蓮華の水に在るが如し)

 志固無怯弱しこむこうじゃく(志固くして怯弱無し)

 巧於難問答ぎょうおなんもんどう(難問答に巧みなり)

 其心無所畏ごしんむしょい(其の心に畏るる所無し)

 忍辱心決定にんにくしんけつじょう(忍辱の心は決定す)

 

 こうした生命の輝きを、

 民衆自身が存分に発揮しながら

 地球を舞台に乱舞するのです。

 

 大聖人は仰せです。

 「大悪これば大善たる」

 「大正法、必ずひろまるべし。

 各々なにをかなげかせ給うべき」(新2145,全1300)

 「上行菩薩の大地よりいで給いしには、

 おどりてこそいで給いしか」(同)

 

 何があろうと、

 どんな時代の嵐が吹き荒れようとも、

 大聖人が教えてくださった、

 誉れある地涌の勇者の心意気を

 そして仏意仏勅の使命を、

 私たちはゆめゆめ忘れまい。

 

 さあ、わが友よ、

 人類の平和と幸福のために、

 『太陽の仏法』を抱いて、

 慈折広布に進む創価の地涌の陣列を、

 いよいよの決意で一段と強め、

 広げゆこうではありませんか!

 

2022年大白蓮華5月号№871 40頁~41頁

2023.7.15整理

 

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No.008

それでも「仲良くしていこう」

 

そこに、妙法が脈打っていく>

  

 ありのままの人間の集まりである。

 なかには付き合いにくい人もいよう。

 それでも、「仲良くしていこう」というのが、

 日蓮仏法の精神である。

 

 大聖人は、

 短気で一本気な四条金吾が、

 同志と思われる夜回り(警備)の人たちと

 協調できないことを心配し、

いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ

 (全1172・新1594)と御指導されている。

 

「異体同心」を祈って、

 努力していくこと自体が、

 尊き仏道修行となる。

 互いに尊敬し合い、

 仲良く前進していく

 ――そこに、妙法が脈打っていくからだ。

 

『随筆 出発の光』、248ページ

2023.7.14整理 

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No.007

現代は

末法の世相そのもの!

 

それを乗り越える特効薬は

「異体同心の団結」

 

 ここで、大東京の先達というべき池上兄弟への御聖訓を拝したい。

 池上宗仲・宗長兄弟は二人、力を合わせて信心を貫いた。そして、悪侶にだまされて信心に反対していた父・康光を、ついに正法に帰依させた。大聖人は、兄弟二人の仲良き団結の姿を「本当に不思議である」と賞讃され、こう述べておられる。

世が末になれば、

 聖人や賢人も、皆、いなくなり、

 ただ『讒言で人をおとしいれようとする人間』や

 『言葉巧みにへつらう人間』

 『表面は和やかだが、陰にまわって人をおとしいれる人間』

 『道理を曲げて我意を通す人間』ばかりが、

 国中に充満するようになると経文に書かれています

 (御書1095㌻、通解)

 

 正義の人がおとしいれられ、

 邪な人間が幅をきかせる

 ――この傾向は、現代に、おいていちだんと深刻である。

 

 大聖人は、続けて、末法の様相を、

 次のように記されている。

たとえば、

 水が少なくなれば池が騒がしく、

 風が吹くと大海の面が静かではないようなものです。

 こうした末法の代になると、

 干ばつや疫病が起こり、

 大雨大風が吹き重なり、

 そのため、

 心の広い人も狭くなり、

 真実の道を求める心のある人も

 邪見の者となってしまうのだと書かれています。

 それゆえに、

 他人とのことはさておいて、

 父母、夫婦、兄弟までが相争い、

 その姿は、

 猟師と鹿と、猫と鼠と、鷹と雉とが

 争うようなものであると経文に見えます

 (同㌻、通解)

 不信や争いが渦巻く。

 時代が乱れ、

 人間らしい心が失われていく

 ――今の社会も、そうである。

 

 こうしたなかにあって、

 わが創価学会の異体同心のうるわしい和合の世界は、

 不思議の中の不思議といってよい。

 だからこそ学会は妬まれる。

 だからこそ魔は、

 この崇高な同志愛、師弟愛を破壊しようとする。

 

 しかし、この尊き和合を崩して、

 善良な人間を苦しめ、

 広宣流布を破壊しようとすることは、

 仏法上の重罪に当たる。

 「破和合僧」の罪である。

 

 この罪を犯せば、

 無間地獄を免れない。

 その苦しみは

詳しく説けば、

 聞いた人は血を吐いて死んでしまう

 (御書447㌻、通解)ほどである。

 すさまじい大苦を、

 間断なく生命に受ける。

 まさに、その厳しき仰せのとおりに、

 広布破壊の反逆者が皆、

 哀れな末路をたどっていることは、

 ご存じのとおりである。

 

2005.6.6 牧口先生生誕記念協議会 

 

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No.006

地球に残された、驚くべき″資源″

 

<それは人間自身の「内なる富」>

 

 アマゾンとともに、

 地球に残された、驚くべき″資源″がある。

 それは、いったい何か。

 このテーマについて、

 私は″人類の頭脳″といわれる

 「ローマ・クラブ」創始者ペッチェイ博士と語りあった。

 

 地球の最大の″資源″とは、

 人間自身の「内なる富」である。

 人間の生命に秘められた、

 尽きることのない知恵とエネルギーを

 最大に開発しゆく「人間革命」の哲理こそが、

 人類の最高の希望となる。

 これを忘れてはならない――。

 

 この点で、

 ぺッチェイ博士と私の意見は一致した。

 博士は、創価学会の先見性と、

 人類に貢献する深き哲学に、

 大きな期待を寄せておられた。

 最大に讃嘆してくださった。

 思えば、

 ぺッチェイ博士との対談は、

 トインビー博士のすすめによるものだった。

 

2005.6.8第50回本部幹部会、第12回全国婦人部総会他

 

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No.031

生命とは何か

 

<永遠の生命と因果の理法>

 

 伸一は、笑いが静まると、力を込めて語り始めた。

 「これは極めて大事な問題です。

 死の解明は、

 人間の、そして、宗教の重要なテーマです。

 いくら語っても、

 語りつきない問題ですので、

 今日は、その一端だけ、お話しましょう。

 

 現代人のなかには、

 生命というのは、

 今世限りだと考えている人も多いようですが、

 もしも、生命が永遠でなければ、

 生まれながらの不公平を、

 どうとらえればよいのかという問題が残ります。

 

 日本の国に生まれる人もいれば、

 香港に生まれる人も、

 アメリカに生まれる人もいる。

 あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。

 さらに、金持ちの家に生まれる子もいれば、

 貧困の家に生まれる子もいる。

 生まれながらにして、

 不治の病に侵されていたり、

 不自由な体で生まれてくる子どももいます。

 生まれる境遇も、

 顔や姿も、千差万別です。

 まさにもって生まれた宿命という以外にありません。

 もし、神が人間をつくったのであるならば、

 皆、平等につくるべきです。

 

 また、生命が今世限りなら、

 不幸な星の下に生まれた人は、

 親を恨み、無気力にならざるを得ません。

 あるいは、何をしようが、

 おもしろおかしく生きていけばよいと考え、

 刹那主義に陥ってしまうことになる。

 

 この宿命が、

 どこから生じたのかを、

 徹底して突き詰めていくならば、

 どうしても、

 今世だけで解決することはできない。

 生命が永遠であるという

 観点に立たざるを得ません」

 

 伸一は、参加者に視線を注いだ。

 皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。

 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、

 この宿命の根本原因を明かし、

 宿業の転換の道を示しているのが仏法なんです。

 

 では、仏法では、

 宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。

 自分以外のものによってつくられたのではなく、

 過去世において、

 自分自身がつくり出したものだというんです。

 少し難しくなりますが、

 身・口・意の三業の積み重ねが、

 宿業となるのです。

 つまり、

 どのような行動をし、

 何を言い、

 何を思い、考えてきたかです。

 たとえば、

 人を騙し、

 不幸にしてきたり、

 命を奪うといったことが、

 悪業をつくる原因になります。

 

 さらに最大の悪業の因は、

 誤った宗教に惑わされて、

 正法を誹謗することです。

 これは生命の根本の法則に

 逆行することになるからです。

 (つづく)

 

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No.005

最初の一滴になれ!

 

<一人から万人の団結が始まる>

 

 一人一人の「個人」は、小さな存在かもしれない。

 しかし、それぞれが成長しながら、

 連帯と信頼の輪を結んでいくとき、

 個々の力は絶大なパワーとなり、

 信じられないような爆発力となっていく。
 ゆえに、団結が大切である。

 

 とともに、

 それ以上に“最初の一滴”が大切なのである。

 “最初の一滴”がなければ、

 連帯も、拡大も、決して生まれえないからだ。


 ガンジスの大河も、源の一滴に始まる。

 広大な広布の流れも、日蓮大聖人お一人から始まった。

 戦後の学会が戸田先生お一人からスタートしたことは、

 ご承知のとおりである。
 「一人」こそ「万人」の基であり、

 一切の根本である。


 ともあれ自分という「一人」には、

 それだけの使命と、力と、責任があることを知らねばならない。

 

  1989年12月20日第二十四回本部幹部会

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No.004 

信心は「行き詰まり」との永遠の闘争

 

<「魔」が勝つか、「仏」が勝つか。

そのことを「仏法は勝負」というのだ>

 

 伸一の話は、青春時代の自分の体験に及んだ。

 

「戸田先生が事業の再建のために苦闘されていた時代が、

 私にとっても、最も苦しい時代でした。

 健康状態も最悪であり、

 給料は遅配が続き、

 無理に無理を重ねていました。

 

 そして、先生とお会いしていた時に、

 つい弱音を口にしてしまったことがありました。

 その時、先生が、厳しく言われた言葉が忘れられません。

伸一、信心は行き詰まりとの永遠の闘争なんだ。

 魔と仏との闘争が信心だ。

 それが〝仏法は勝負〟ということなんだ

 

 人生には、誰でも行き詰まりがあります。

 事業に行き詰まりを感じている人もいるかもしれない。

 夫婦の関係にも、行き詰まってしまうことがあるでしょう。

 子育てでも、人間関係の面でも、

 あるいは、折伏や教学に励んでいる時も、

 行き詰まりを感ずることがあるかもしれません。

 

 しかし、

 御本尊の力は広大無辺であり、

 宇宙大であります。

 ゆえに、私たちの生命も、

 無限の可能性を秘めています。

 

 つまり、問題は私たちの一念に、

 行き詰まりがあるかどうかにかかっています。

 それを本当に自覚した時には、

 既に勝利の道が開かれているんです。

 

 もし、行き詰まりを感じたならば、

 自分の弱い心に挑み、

 それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。

 戸田先生は、

 それが私たちにとっての『発迹顕本』であると

 言われたことがあります。

 

 長い人生には、

 信心なんかやめて、遊んでいたいと思うこともあるでしょう。

 病気にかかってしまうこともあれば、

 家族の死に直面し、

 悲しみに沈むこともあるかもしれません。

 それは、煩悩魔という行き詰まりとの〝闘争〟であり、

 病魔という行き詰まりとの〝闘争〟であり、

 死魔という行き詰まりとの〝闘争〟といえます。

 

 それを唱題で乗り越え、

 絶対的な幸福境涯を開き、

 最高に意義ある人生を創造していくところに、

 仏法の最大の意味があります。

 

 ゆえに、何か困難にぶつかったならば、

 行き詰まりとの〝闘争〟だ、

 障魔との〝闘争〟だ、

 今が勝負であると決めて、

 自己の宿命と戦い、

 勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのであります」

 

<新・人間革命> 第2巻 錬磨 96頁~99頁

2023.7.8整理

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No.003

極限で闘う君よ!

 

「負けるな。

 断じて負けるな。

 あなたの生命の中に太陽がある

 

「希望をなくしてはいけない。

 人がどう言おうが、

 堂々と自分自身に生ききりなさい。

 何があっても強気で。

 楽しい人生を生きなさい」

 

仏法の眼で見れば、全部、意味がある。

 何があっても、微動だにしてはならない。

 生命は永遠なのだから。

 妙法を唱えていて、

 かりに不幸に見えることがあっても、

 それは、

 最大に幸福になる意義をはらんでいるのだから。

 どんなことがあっても、

 信心だけは微動だにしてはならない」

 

「御本尊に祈りきって、

 一歩も引かないで、

 悩みを突き抜けて進むのだ。

 どんな状況であっても、

 必ず幸福になれる信心だ。

 戦い続ける君に勝利あれ」

 

 聖教新聞 2011年8月2日付 折々の指導4

2023.7.8整理

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No.002 

力の発揮できない理由など無い

師弟不二の自覚と祈りと実践>
  
 年が若いから、
 立場が与えられていないから、
 権限がないから、
 時間がないからなど、
 力を発揮できない理由をあげれば、
 常に、枚挙にいとまがないものだ。
 広宣流布という仏意仏勅の使命と責任を果たしゆくには、
 年齢や立場など、問題ではない。
 大宇宙を己心にいだく信心の世界、
 仏法の世界では、
 そんなことは、なんら障壁とはならない。
 それらを理由に、
 力が発揮できないという考えにとらわれた時、
 自らの無限の可能性を放棄してしまうのだ。
 それこそが、魔に破れた姿である。
 要は、
 師弟不二の自覚と祈りと実践
 あるかどうかである。
 
小説 新・人間革命 23巻 326頁
2023.7.5整理

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No.001 

「身近な人」こそ大切に

 

<ここに真の仏道修行がある>

 

 現代文明にあって、

 「対話の文明」の構築こそ、

 不可欠かつ緊急の課題である。

 その「対話の文明」とは、

 決して遠くにあるのではない。

 それは、身近な隣人の方々と、

 胸襟を開いて向き合い、

 語り合っていくことから始まる。

 誠実に、粘り強く、対話を貫き、

 新たな価値創造の道を、

 共に模索し、

 共に進んでいくことである。

 

 身近な家族や友人、

 地域を大切にして、

 人間とつながり、

 生き生きと活動する。

 社会や環境に積極的に関わり、

 学ぶことを怠らず、

 人のために献身する――

 ここに、豊かな心で

 幸福に生きるための要諦がある。

 私たちの日々の学会活動には、

 この全ての要素が含まれている。

 

 最も身近なところで、

 仏法を弘めていくというのは、

 地味で、それでいて

 最も厳しい戦いといえる。

 自分の全てを見られているだけに

 見栄も、はったりも通用しない。

 誠実に、真面目に、粘り強く、

 大情熱をもって行動し、

 実証を示しながら、

 精進を重ねていく以外にない。

 しかし、そこにこそ、

 真の仏道修行があるのだ。

(後略)

2017年11月26日四季の励まし(抜粋)

2023.7.8整理 

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No.031(つづき)

 

◆死ねばどうなるのか? 宿業とは?

 

 さて、人間は、

 死ねばどうなるのかという問題ですが、

 生命は大宇宙にとけ込みます。

 

 戸田先生は、その状態を、

 夜になって眠るようなものであると言われている。

 さらに、

 眠りから覚めれば新しい一日が始まる。

 これが来世にあたります。

 

 生命は、

 それを繰り返していくのです。

 

 ここで大事なことは、

 死後も、

 宿業は消えることなく、

 来世まで続くということです。

 

 たとえば、

 一晩、眠っても、

 昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。

 今世の苦しみは、

 また来世の苦しみとなります。

 

 今世で、

 七転八倒の苦しみのなかで死ねば、

 来世も同じ苦を背負って生まれてきます。

 

 人を恨み抜いて、

 怨念のなかで死を迎えるならば、

 来世も、

 人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。

 

 死んでも、

 宿命から逃れることはできない。

 ゆえに、自殺をしても、

 苦悩から解放されることはないんです。

 

 反対に、

 幸福境涯を確立し、

 喜びのなかに人生の幕を閉じれば、

 来世も、善処に生まれ、

 人生の幸福の軌道に入ることができます。

 

 こう言うと、なかには、

 来世も宿業で苦しむなら、

 生まれてこないで、

 ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、

 そうはいきません。

 

 生まれる前の、

 大宇宙にとけ込んだ状態であっても、

 生命は苦しみを感じているんです。

 

 ちょうど、

 大変な苦悩をかかえている時には、

 寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」

 

 彼は、生死という根本の問題を、

 わかりやすく、噛み砕いて語っていった。

 

 現代の思想や哲学は、

 今世のみに目を奪われている。

 それは、地表の芽を見て、

 根を見ないことに等しい。

 ゆえに、

 人間の苦悩の根源的な解決の方途を

 見いだせずにいるのだ。

 

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◆宿業転換

 伸一は話を続けた。

「それでは、

 その宿業を転換し、

 幸福を実現する方法はあるのか。

 

 あります。

 

 それを、

 末法の私たちのために説いてくださったのが

 日蓮大聖人です。

 

 そして、

 その方法こそ

 御本尊への唱題であり、折伏です。

 

 それが、

 生命の法則に則った最高の善の生き方であり、

 歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する

 唯一の道なんです。

 

 こう申し上げると、

 初代会長の牧口先生は、

 牢獄で亡くなったではないか、

 不幸ではないかと言う人がいます。

 

 しかし、

 一番大切なことは、

 死を迎えた時の心であり、境涯です。

 

 苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、

 獄中であっても、

 安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。

 

 牧口先生は獄中からの便りに、

 経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。

 

 また、学会員でも、

 病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、

 思う人もいるでしょう。

 その場合でも、

 信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、

 仏法には明確に説かれております。

 

 つまり、

 本来、何度も生死を繰り返し、

 長い苦悩を経て、

 少しずつ宿業を消していくところを、

 今生で過去世の宿業をことごとく転換し、

 成仏しているんです。

 

 その証明の一つが

 臨終の相です。

 大聖人は御書のなかで、

 経文のうえから、

 体も柔らかいなど、

 成仏の相について論じられています。

 

 戸田先生も、

 微笑むような成仏の相で亡くなりました。

 私は数多くの同志の臨終を見てきました。

 

 ともあれ、

 広布のために、

 仏の使いとして行動し抜いた人は、

 いかなる状況のなかで亡くなったとしても、

 恐怖と苦悩の底に沈み、

 地獄の苦を受けることは絶対にない。

 

 経文にも、

 千の仏が手を差し伸べ、

 抱きかかえてくれると説かれている。

 

 臨終の時、

 一念に深く信心があること自体が成仏なんです。

 

 まさに、

 生きている時は、『生の仏』であり、

 死んだあとも『死の仏』です。

 さらに、

 その証明として、

 残された家族が、必ず幸福になっています。

 

 だから、

 信心をし、難に遭い、

 いかに苦労の連続であったとしても、

 退転してはならない。

 難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなんです。

 

 永遠の生命から見れば、

 今世の苦しみは一瞬にすぎない。

 未来の永遠の幸福が開けているんです

 

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先祖供養と先祖の成仏の証明

  日蓮大聖人は

 「されば、まず臨終のことを習って後に他事を習うべし

 (妙法尼御前御返事<臨終一大事の事>、新2101・全1404)と述べられている。

 

 「死とは何か」の正しい究明がなければ、

 人間として

 「なんのために死ぬか」

 「いかに死ぬか」を考えることはできない。

 そうであれば、

 「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。

 

 生と死とは、

 本来、表裏の関係にほかならないからである。

 

 現代人は、

 葬儀の形式などには、

 強い関心をもち始めているが、

 死という問題自体を、

 徹して掘り下げようとはしない。

 実はそこに目先の利害や虚栄、

 快楽に流されがちな風潮を生み出している、

 根本的な要因が潜んでいるといえよう。

 

 山本伸一は、

 ここで、先祖供養に話を移した。

「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、

 どうしているかというと、

 既に生まれ、

 宿業に苦しんでいることもあれば、

 まだ、生まれていない場合もあるでしょう。

 

 あるいは、

 生まれていても、

 人間に生まれているとは限りません。

 宿業のいかんによっては、

 畜生、つまり動物に生まれることもある。

 これは、経文に明確です。

 むしろ、

 人間に生まれることの方が、

 はるかに難しい。

 

 しかし、

 先祖が何に生まれ、

 どこにいて、

 いかに苦しんでいても、

 生者が正しい信仰をもって、

 その成仏を願い、

 唱題していくならば、

 それが死者の生命に感応し、

 苦を抜き、楽を与えることができる。

 

 南無妙法蓮華経は

 宇宙の根本法であり、

 全宇宙に通じていくからです。

 

 ましてや、

 畜生などに生まれれば、

 自分では題目を唱えることはできないわけですから、

 私たちの唱題だけが頼みの綱になります。

 

 また、先祖が人間として生まれてきている場合には、

 私たちの送る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、

 仏法に縁し、信心をするようになるんです。

 

 したがって、

 先祖を供養するには、

 真剣に唱題する以外にありません。

 

 お金を出して、

 塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。

 もし、そうだとするなら、

 金の力で成仏できることになってしまう。

 

 一方、信心を全うし、成仏した人は、

 死んでも、

 すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、

 引き続き歓喜のなか、

 広宣流布に生きることができる。

 

 そして、

 先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、

 さきほども申しましたように、

 子孫である自分が、

 幸福になったかどうかです。

 それが、先祖の成仏の証明になります」

 

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一生成仏の千載一遇のチャンス

 人間は、

 過去世も未来世も見ることはできない。

 しかし、

 三世にわたる生命の因果の理法を知る時、

 いかに生きるかという、

 現在世の確かなる軌道が開かれる。

 そして、それが未来世を決定づけてゆく。

 

 伸一は、情熱を込めて訴えた。

私たちは今、

 人間として生まれてきた。

 しかも、

 大宇宙の根本法を知り、

 学会員として、

 広宣流布のために働くことができる。

 これは大変なことです。

 

 たとえば、

 森に足を踏み入れると、

 その足の下には、

 数万から数十万の、

 ダニなどの小さな生物がいるといわれています。

 さらに、細菌まで含め、

 全地球上の生命の数を合わせれば、

 気の遠くなるような数字になります。

 

 そのなかで、

 人間として生まれ、信心することができた。

 それは、

 何回も宝くじの一等が当たることより、

 遥かに難しいはずです。

 

 まさに、大福運、大使命のゆえに、

 幸いにも、

 一生成仏の最高のチャンスに巡りあったのです。

 

 ところが、

 宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、

 人間と生まれて

 信心ができたすばらしさがなかなかわからないで

 退転していく人もいます。

 残念極まりないことです。

 

 私たちにとっては、

 この生涯が、

 一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。

 どうか、

 この最高の機会を、

 決して無駄にしないでいただきたい。

 

 永遠の生命といっても、

 いっさいは『今』にあります。

 過去も未来も『今』に収まっている。

 

 ゆえに、

 この一瞬を、今日一日を、この生涯を、

 感謝と歓喜をもって、

 広宣流布のために、

 力の限り生き抜いていってください。

 ザッツ、オーケー?(よろしいですね)」

 

 伸一が英語で話を締めくくると、

 弾けるような声と明るい笑いが広がった。

 彼が、

 この質問に、

 かなり長い時間をかけて答えたのは、

 生死という人生の根本のテーマ

 明確にしておきたかったからである。

 

<新・人間革命> 第3巻 仏法西還 62頁~70頁

2023.9.12整理

2023.9.15整理

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