介護

2022年12月14日

〈介護〉

 こころの絆

 読者の体験談

 

 

加計呂麻島へ

 大阪府岸和田市

 松浦八重子(主婦 68歳)

 両親は、鹿児島県の奄美群島の一つ、加計呂麻島で2人暮らし。雑貨店を営んでいました。母は腰が曲がると、家の中でも手押し車を使うようになり、要介護2の認定を受けました。転ぶ回数が増え、弟夫婦と交代で介護することにしました。

 私は3月から10月まで加計呂麻島で両親と暮らし、それ以外は大阪という生活を7年間続けました。

 母に優しく接しようと決めて介護を始めました。ところが、母がはさみやコップを持ち歩いたり、コンロの火を付けたりと、危ないことをすると、つい大声で怒ってしまいます。大阪に帰っては反省の繰り返しでした。

 母は「嫁は優しいが、娘はうるさいね」と言いながらも、「あんたが帰ってきて良かった。ありがとう」と、笑っていました。

 美容院でパーマをあてたり、父も一緒に島内をドライブしたり、私が行くと、母はとても喜んでくれました。

 「お父さんを大事にしてよ」と、いつも父のことばかり気遣っていた母。3年前の12月22日、朝食の後、いすに座ったまま、眠るように霊山へ旅立ちました。95歳でした。前日のデイサービスで、元気に歌うなどしていたので、信じられませんでした。

 母のことが大好きな父は現在、96歳。要介護2ですが、デイサービスに通いながら、弟夫婦と元気に暮らしています。

 7年間、自宅を留守にしての介護生活を支えてくれた夫と娘に、心から感謝しています。

 

24時間態勢で

 大津市

 藤吉美津子(71歳)

 8人きょうだいで長女の母は、小学校を卒業後、すぐ働きに出て弟や妹を養いました。結婚するも、父は病弱で、母が50歳の時に帰らぬ人に……。

 私は母を尊敬しつつ、若い時は、よくけんかをしました。仕事で中国に渡ってからは、母のことが心配で、頻繁に電話をかけました。娘を思う母の愛情を感じ、帰国して、再度、一緒に暮らすように。老人性うつ病発症後の母との生活は、約20年になります。

 昨年末、母が危篤状態に。医師からは“手だてがない”と言われましたが、諦められず、自宅で介護を続けました。

 身動きできない母に、水やアイスクリームを10分おきにスプーンで口に含ませました。

 母のベッドの横に布団を敷き、24時間態勢が3カ月続きました。兄も泊まって支えてくれました。

 介護関係者の支援のかいもあって、奇跡的に回復。今では、自分でトイレに行き、ミキサー食を食べ、テレビを見て大笑い。それを親族19人が見守ってくれています。

 100歳の誕生日には、友人や地域の方によるお祝いの飾り付けで、にぎやかな部屋になりました。

 母の介護をするという選択は、私にとって、一つの幸せな道だったと思います。のんきで愉快な母が、一日でも長く元気でありますように。

 

うらやましい

 岡山市北区

 山田久美(パート 64歳)

 最愛の母が、7月に97歳で旅立ちました。早くに父が亡くなり、私もシングルマザーになりましたが、母が家族を支えてくれました。

 90歳を迎えてから、大動脈弁狭窄症の手術、乳がんの手術、肺がんの放射線治療を2年ごとに経験。つらかったはずなのに、弱音を吐かず、一つ一つ病に打ち勝つ姿に、医師も驚いていました。

 気丈な母でしたが、足腰が不自由になり、「入院中も付き添って」と言うので、仕事を退職して4カ月間、毎日、朝から晩まで病院に。泊まり込む日もありました。

 看護師長さんから「仲がいいわね。うらやましい」と言われ、母はうれしそうでした。

 退院後の母は、家の中では手押し車を使い、外は車いすで移動。週2回はデイケアに通っていました。4世代同居のわが家で、かわいいひ孫に癒やされながら、にぎやかに過ごしました。

 今年になって、肺がんが再発し、治療をしていました。苦しい症状が全くないので、医師も不思議がっていました。

 医療関係者やデイケアスタッフ、地域の方々に守られ、天寿を全うすることができました。全ての皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。

 最後の最後まで、自分のことより人の心配ばかりしていた母。何があっても強く生き抜くことを教えてくれた母でした。

 お母さん、本当にありがとう。私もあなたのようになれるよう頑張るね。

 

夫が代わって

 東京都足立区

 伊藤加代子(主婦 65歳)

 私の兄が10月27日、74歳で亡くなりました。

 8月中旬に救急搬送され、診断は肺がんのステージ4。兄は独身のため、退院後は、わが家で介護することにしました。

 介護認定がおりるまで1カ月ほど。その間も日に日に弱って、1人で立ち上がることも難しくなりました。食事やお風呂、トイレの介助など、慣れない介護に、気持ちの余裕がなくなり、感情を兄にぶつけてしまうこともありました。

 覚悟の上で連れてきたのに、“何でこんなに動けないの”“諦めないで頑張ってよ”と、イライラした気持ちが出てしまうのです。

 そんな時、夫が代わって、兄に優しくしてくれました。感謝しかありません。

 兄は最後の10日間、緩和ケア病棟に入院。痛みが出ることもなく、穏やかに旅立ちました。最後の期間を兄と暮らせてよかった。兄も喜んでくれていたらいいな。

 

2022年12月14日 介護〉 こころの絆 読者の体験談

2022年8月24日

〈介護〉

 こころの絆

 読者の体験談

 

 

私も妻も幸せ

 和歌山市

 上辻正七郎(85歳)

 よく働いた妻が病に倒れた。私の定年後のことだ。

 「俺に任せろ!」と、主夫になって、妻の食べやすい物を買うために、スーパーマーケットに走る毎日。「おじいちゃんの料理、おいしいねえ」と、喜んで食べてくれると、私もうれしい。

 血糖値の高くなる病気だから、毎日が工夫の連続。でも、夫婦での生活。それはそれで楽しい。

 「おはようさん」と朝のあいさつ。返事で体調が分かる。

 「今日は何が食べたいの?」と聞くと、「お魚の煮付け。上手だから」と褒めてくれたり、「カレーライスがいい」と甘えてみたり。

 嫁いだ2人の娘も、静かに見守ってくれていたが、妻の人工透析や2度の救急搬送があり、“見ていられない”と心配してくれ、娘夫婦の家に同居することに。その後、妻は入院中に容体が変化し、眠るように霊山へ。

 顔を見ると、“おじいちゃん、ありがとう”と言っているような、きれいな顔。十数年介護ができて、私も幸せ、妻も幸せと、涙が止まらなかった。

 介護の時は、つらい。でも、今となっては、楽しい思い出となって浮かんでくる。60年間、ありがとう。安らかに眠ってください。

 

「明日も行く」

 奈良県橿原市

 筒井豊(71歳)

 「行ってらっしゃい」と、デイサービスの車に乗り込む母を最後に見送ったのは4年前――その年、94歳で霊山へ旅立っていきました。

 亡くなる数年前から少しずつ物忘れが多くなり、きょうだいや家族で、介護サービスを受ける相談をしていました。ところが、介護サービスを受ける話をすると、母は、かたくなに拒み、揚げ句には怒って、行き先も告げずに自宅を飛び出してしまうことも。

 何度説得しても、全く耳を貸さない。「私をそんな施設に入れるのか」と、大きな声で怒鳴り、自分の部屋に閉じこもり、食事もそこで取るように。市の担当者が来ても、話を聞こうともせず、怒るだけの毎日でした。

 そんな折に、母の先輩から電話があり、母は喜んで先輩宅を訪問しました。

 先輩から「じっと自宅にいるより、一度、私の通っている施設へ遊びにおいで。気が紛れるよ」と誘われて、初めて施設に足を踏み入れることになりました。

 あれほど嫌がっていた母が、施設の玄関先で先輩の姿を見ると、こわばった表情から笑みがこぼれて、そのまま一緒に半日過ごしてきました。

 帰ってから感想を聞くと、楽しかったらしく、「明日も行く」との言葉に、家族もホッと一安心。以来、デイサービスは母の楽しみになりました。

 「今日はこんな算数の計算もした」と、施設でのことを楽しく語る母の姿――今は見ることができませんが、近所の介護サービスの車を見るたびに、当時のことが鮮明によみがえってきます。

 

103歳の誕生日

 新潟県三条市

 栗山郁子(主婦 76歳)

 「ありがとう」と、いつも感謝を忘れずに頑張っている母が、先週、103歳になりました。

 父が亡くなってから、99歳までデイサービスに通い、「今日も楽しかった」と話していました。

 そんな母が、トイレで転び、大腿骨を折り、車いすの生活に。在宅介護をしていましたが、夜中に何回かトイレに起き、そのたびに補助が必要な日々。私が体力の限界を感じ、母は介護老人保健施設に入所することになりました。

 コロナ禍の影響で、会えないつらさもありますが、約4年間、介護や看護の優しい方々に支えられ、生き生きと暮らしています。

 先日、誕生日に会いに行くと、ちょうどお祝いをしてもらっていました。別室で、タブレット越しでしたが、うれしそうな母の姿を見て、安心しました。

 私がいつも手紙を書いて持って行くと、母は時折、返事をくれます。

 そこには「私もおかげさまでピチピチしています。まだ生きそうです。喜んでいます」などと書かれています。最近は力がなく、読めない字が多くなりましたが、返事をもらえるのは、うれしいものです。

 ばあちゃん、今日も元気で、生きてくれて本当にありがとう。なかなか会えないけれど、今日も転ばないで、元気で感謝の一日をね。

 

“二人三脚”で

 大阪市港区

 野田薫(60歳)

 4度の心臓手術をした父が、2017年に再度、心不全を起こして入院しました。10日後に退院し、自宅で療養。いよいよ明日から、また母と一緒にデイサービスに行こうと、散髪に行き、風呂に入り、新しい下着を身に着けて、いつものように、母と介護ベッドを並べて休みました。翌朝、父は静かに旅立ちました。

 「病院で最期を迎えたくない」と、生前から口にしていた父。まるで、最後に母と過ごす時間を与えられたようでした。

 亭主関白の父は、いつも母と一緒。苦難も“二人三脚”で乗り越えてきました。

 突然、夫を失い、心細く、落ち込んでいた母には、父と25年間暮らした埼玉を離れ、私の住む大阪に来てもらうことにしました。当時は80歳、要介護3でした。

 大阪で一緒に暮らし始めた翌年の秋、あめをなめたような母の話し方に違和感を覚え、救急病院に連れていくと、早期の脳梗塞が発覚。点滴治療で回復しましたが、持病のぜんそくもあり、弱気になることがよくありました。

 また、昨年、2度目の胃がんが見つかり、内視鏡で手術。今年の検診では、医師から「体力的に最後の胃カメラになる」と言われました。「娘や息子の重荷になるから、早く父ちゃんのところへ行きたい」と、父の遺影の前で涙する姿を何度も見ました。

 生前、父は「父ちゃんがあの世に行ったら、母ちゃんは頼むで!」と遺言のように言っていました。

 早いもので、母と同居して5年の月日が流れました。気が弱く、すぐ泣き、子どもに「ありがとう」を繰り返す母です。

 これからは私と“二人三脚”で頑張ろうな。長生きしてや。大好きやで。頑張れ母ちゃん!

2022年8月10日

〈介護〉

こころの絆

読者の体験談

 

 

介護を仕事に

 岩手県遠野市

 先崎信子(74歳)

 看取るまでの18年間、母を介護しました。

 認知症だった母は、窓ガラスを割って外に出たり、排せつ物を隠したりと、とても大変でした。気付けば、私も疲れて大声を上げて怒ってばかり……。

 このままではいけないと思い、介護のことを学ぶために図書館へ。勉強を重ねる中で、多くの人が介護について悩んでいることを知り、介護職になることを決意。58歳ごろからヘルパーとして介護施設で働き、先月末まで続けることができました。

 夜勤もある仕事と母の介護の両立は大変でしたが、訪問介護や訪問入浴などのサービスを利用。徐々に、自分なりのストレス解消法も分かるようになりました。ちなみに私の解消法は、趣味の温泉に行くことです。

 母を介護していたことは、仕事の支えにもなりました。“施設の利用者を、母と同じように大事にしよう”と思うこともできたのです。

 寝たきりで何年も話さなくなっていた母が、突然、私の名前を呼び、「ありがとう」と言ってくれました。私はびっくりして涙が止まりませんでした。それから1週間後、母は安祥として霊山へ。今でも母が、私のことを見守ってくれているように感じます。

 私が介護職に就いた影響は、家族にも。夫は58歳で漁師を引退し、介護の仕事に就職しました。娘も介護タクシーのドライバーとして毎日頑張っています。

 全部、母のおかげです。「お母さん、ありがとう」と、感謝を伝えたい気持ちでいっぱいです。

 

新しい土地で

 新潟市西区

 石川かほる(主婦 71歳)

 昨年8月、義母が104歳で天寿を全うしました。

 約40年前、夫の転勤に伴い、神奈川から大阪へ2人の娘と共に転居。この時、故郷の新潟で1人暮らしをしていた義母も呼んで、5人家族での新たな生活になりました。

 窓の外から聞こえるご近所さんの会話に、「外国に来たみたいだねー」と、義母は新鮮で楽しそうでした。新しい土地での刺激的な日々は、私たち家族にとってかけがえのない時でした。

 その後、一家で新潟に戻り、義母は98歳でデイサービスに通うようになりました。レクリエーションやランチ会に進んで参加するほど元気でしたが、その後、要介護4まで進み、ベッドでの介護が必要に。義母は体の痛みを訴え、私も腰痛を抱えるようになりました。在宅での介護に限界を感じ、102歳で介護施設に入所しました。

 コロナ禍で会うことも難しくなり、さみしい思いをしているかと心配しましたが、施設で一番の年長者だった義母は、他の入所者から親のように慕われていたようでした。心穏やかに過ごせたことに、ケアマネジャーさん、スタッフの皆さんには感謝しかありません。

 約3年前、夫と共に娘家族の住んでいる町の近くに越してきました。私は、義母が故郷を離れた年齢とほぼ同じ年齢になりました。今度は私が義母のように、新しい地での出会いを楽しんでいます。

 

2羽のスズメ

 埼玉県三郷市

 山本披露武(89歳)

 認知症の義父を介護していた時のことです。徘徊しないか心配しながら、見守りの介護。義父が少しでもさみしくないように、“小鳥が遊びに来てくれたら”と思い、小皿にご飯を入れてベランダに置いてみました。すると、2羽のスズメがやってきました。

 義父は、それを見て目を丸くしています。

 「お義父さん、右にいるのが『鈴』、左にいるのが『白』というのです」と、私が冗談で言うと、「名前があるのかよ」と、また目を丸くしました。

 「僕が名前を付けてやったんです」と言うと、さらに義父が驚き、「何? あのスズメがお前の子どもたち? わしの孫がスズメになってしもたと言うのかよ? これは大ごとじゃよ」と言ったまま、頭を抱えてしまいました。

 少し冗談が過ぎたかなと思って心配しましたが、しばらくすると、義父が顔を上げ、「けんどまあ、元気なのが何よりじゃ。『鈴』と『白』か。よしよし、さあ飯を食え。うんと食うて、早う大きゅうなるんやぞ」と言って目を細め、スズメを見続けているのです。

 20年以上も前のことですが、認知症になっても、思いやりの心を持ち続けている優しい義父の言葉に、強く心を打たれたことを今も覚えています。

 

「大丈夫か?」

 埼玉県朝霞市

 代田裕子(64歳)

 私の母は、現在91歳です。朝食の準備や服薬の補助のため、4、5年前から毎日、実家に通っていました。一人での生活が大変になってきた約1年前からは同居しています。

 週2回のデイサービスには、「いろんな人と出会えるから楽しいよ」と、母はいつも笑顔で通っていました。ところが徐々に、昼間から寝ている時間が多くなっていきました。母は「寝ている方が楽だから、元気で寝ているんだよ。大丈夫だ」と言っていましたが、本当は体調が優れず、起きるのもつらかったのだと思います。

 それでも、一日3食は、必ず起きて食べる母。私が「大丈夫か?」と聞けば、いつでも「大丈夫だ」と答えてくれました。

 2カ月に1回の通院の時は、渾身の力を振り絞り、タクシーで病院に行き、長い待ち時間もじっと我慢。この時も、「大丈夫か?」「大丈夫だ」の繰り返し。

 歩いている時、「長生きするのは、きつい」と、小声でこぼす母。私は祈るような思いで母の手を握り、「頑張っているよ、偉いよ、お母さん。すごい人だね」って語り掛けました。

 そんな母が、大きな手術を終えて、久しぶりに家に戻ってきます。ベッドも用意し、今までとは、また違った介護が始まります。

 私は今、母と一緒に生きています。母がとてもいとおしい。宝の時間です。

 ありがとう、お母さん。いつまでも一緒に暮らそうね。

2022年8月10日聖教新聞

2022年7月27日

〈介護〉

介護疲れ

 解消するためのポイント

  

介護者メンタルケア協会代表

 橋中今日子さん

 

 介護を続けるためには、疲れをためない工夫が必要不可欠です。㊤に続き、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんの登場です。㊦の今回は、介護疲れを解消するポイントや施設利用の考え方などについて聞きました。(㊤は7月13日掲載)

 

サービスの見直し  

 介護疲れに気付いたら、介護サービスの見直しから始めてみましょう。

 介護サービスには、大きく分けて、介護保険サービスなどの公的な「フォーマルサービス」と、地域のボランティアやNPO法人などによる「インフォーマルサービス」があります。大切なのは、“使えるものは全部使う”という考え方です。

 “自分でできているから大丈夫”と思っていても、いざサービスを利用すると、自身の疲れに気付くこともあります。

 多くの人は、「夜中のトイレ対応」など、大変なところから介護の負担を減らしたいと思うもの。ところが、ピッタリのサービスが見つからないこともあります。そこで諦めてはいけません。不必要に感じる小さなサービスから利用することで、負担は想像以上に軽減するものなのです。

 

家事の負担を減らす  

 買い物や食事の準備、洗濯、ごみ出し、庭の手入れ……家事は、本当に大変です。そこに、仕事や子育て、介護が重なれば、できないことが出てきて当然です。それなのに、家事が滞ると、自分を責めてしまいがちです。

 介護サービスだけでなく、ネットスーパーや家事代行など、家事の負担を減らすサービスを利用する視点も大切です。

 近くに頼れる人がいれば、介護は難しくても、家事をお願いするなど、役割分担できるといいでしょう。ただ、きょうだいや親族と、介護のことでもめる恐れがあれば、家事サービスをフル活用することも考えてみましょう。

 どのようなサービスを受けられるのか、調べるだけでも大変です。困ったときは遠慮せず、“助けてください”と、行政の窓口をノックすることから始めてほしいと思います。

 

睡眠時間は最優先  

 介護疲れを解消するために、やってほしいことを挙げたいと思います。

 

  ・起こされずに、ゆっくり眠れる日をつくる

  ・1日2時間、一人になれる時間をつくる

  ・週1回、文化的な活動

  ・週2~3回の適度な運動

  ・第三の場所をつくる

 これは、あくまで理想です。“そんなの無理”と思う人がほとんどではないでしょうか。ただ、どれも介護を理由に削りがちな時間です。こういった時間を確保できるように、サービスを追加したり、ショートステイを活用したりするのが重要なのです。

 “自分のためにサービスを使うなんて……”と、ためらう人もいるかもしれません。ただ、自分のケアがない介護は、基礎や柱のない家に住むようなもの。“いつ壊れるか分からない……”そんな不安を抱えたままでは、誰も幸せになりません。

 中でも、睡眠時間の確保は最優先です。その上で、映画館や美術館に足を運んだり、自然に触れたり、心が豊かになることをできるとよいでしょう。また、家庭の顔でも仕事の顔でもない、“自分の役割”から外れられる場所をつくることも大事です。

 

人に委ねられる力  

 “家族だから”との責任感や、相手の期待に応えるうちに、知らない間に介護負担を一人で抱え込んでしまいます。私もそうでした。

 介護は長期化しやすいものです。一人で頑張るだけでなく、“もし自分が倒れたら、要介護者の情報を誰も知らない”という、リスクを意識することも大切です。

 「いざとなったらショートステイ」と思っていても、実際の緊急時、利用できないケースもあります。事前情報がないことで、受け入れてもらえないのです。日頃から、デイサービスやショートステイを利用しておくことで、緊急対応の幅が広がります。

 「人に委ねる」ことを、ステップアップだと考えてみてください。「自立の上が、相互依存」だと、学んだことがあります。自分でしっかり立てるからこそ、お互いに助け合えるという考え方です。助けてあげられるのは、もちろん力です。一方で、助けを受け取れるのも、また力なのです。

 

施設入所は悪くない  

 サービス活用を検討し、ショートステイや施設入所を選択することもあると思います。

 中には、「施設入所は悪いこと」と考えている人がいるかもしれません。しかし、大事なのは、家族が要介護になった後、どのような時間を過ごし、どのような思いを分かち合うか、ではないでしょうか。日常的にイライラしたり、怒鳴ったりでは、本来の目的は果たせません。

 また、「施設に行ったら、最期まで施設」とは限りません。一時的に施設へ入り、自宅に戻ることもできるのです。

 自身の介護を振り返り、“本当にこれでよかったのか”と、後悔や罪責感を持って、悩んでいる人はいませんか? 頑張ってきた人ほど、自分を責めるからつらいです。介護者の皆さんは、どんなときも最善を選択してきたはずです。自分を責めないでください。

 誰かに届けてきたその優しさを、自分にも届けてあげてください。それが、目の前の人を幸せにすることにつながるのです。

 

 はしなか・きょうこ 理学療法士。公認心理師。リハビリの専門家として病院に勤務する傍ら、家族3人の在宅介護を21年間続けた。自身の介護疲れを機に、心理学やコーチングを学ぶ。現在は、介護者メンタルケア協会代表として、介護と仕事の両立で悩む人、介護することに不安を感じている人に「がんばらない介護」を伝える活動を全国で展開している。

 

2022年7月20日

〈幸齢社会〉

 意識を変化させ、

続けよう無事故ドライバー

 

実践女子大学教授

 松浦常夫さん

 

 車の運転中、道路脇の看板に気を取られ、前方に視線を戻した時には、前を走る車とぶつかる寸前だった――。若い頃であれば即座に反応し回避できたヒヤリハットも、年とともに大事故につながることがあります。高齢ドライバーが交通事故を起こさないため、注意したいポイントについて実践女子大学教授の松浦常夫さんに聞きました。

 

出合い頭や右折時に事故は起こしやすい

 世代によって、車の運転事故が起きやすい場所や原因の傾向は異なります。他の世代に比べて高齢ドライバーは、交差点での出合い頭や右折時に事故を多く起こしています。

 共通しているのは、短時間に多くの認知を必要とすることです。出合い頭の事故を防ぐには、交差点に一時停止の標識があることを認知して一時停止、左右から車や歩行者、自転車が来ていないことを確認するという多くの課題をクリアする必要があります。また右折には、対向車に加え、右折先を横断する歩行者や自転車にも注意を払わなければなりません。赤信号にならないうちに右折する時間的プレッシャーもある中、危険への素早い認知と判断が問われます。

 高齢者の事故には、老いが影響しています。若い時に比べ、注意力を働かせ、状況を認知したり、判断したりする力は衰えます。衰えるといっても日々の変化は、自分で認識できないほどささいなものです。

 無事故運転を続けるために、例えば65歳を超えた頃から、意識して運転を変化させるのはどうでしょう。運転寿命を長く維持することを目的に、私は運転技能が衰えた分を補う「安全ゆとり運転」(別掲)を提唱しています。

 速度を落として走行するのもその一つです。若い時に30キロで曲がっていたカーブを、同じスピードで走れば、状況を認知し、それを車の動きに反映させる力が衰えている分、安全走行が難しくなります。同じカーブでもスピードを20キロに落とせば、状況を判断する余裕ができ、事故を起こしにくくなります。

 また、加齢とともに頭では分かっていても、一つ一つの認知と判断に時間がかかる、右だけにとらわれるなど注意の配分がうまくできないことも起きてきます。それらは事故の原因になります。ちょっと見たつもりの「脇見」でも、実際は随分時間がたっていたなんてこともあります。

 

危険な状況では運転しない判断も

 「安全ゆとり運転」の項目には、運転前の心掛けについても取り上げました。運転を控えることや安全運転に向けた準備をすることは、技能が低下してもできることです。運転を全くしないというわけではありません。危険な状況を避け、安全な環境を選択することが、事故をなくすための基本となります。

 例えば――。「夜間や雨の日や長距離の運転を避ける」「移動時間が短くなるからとわざわざ危険なルートを選ばず、迂回しても、安全に走行できる道を選択する」

 どんなことにも言えますが、準備を怠れば、実力は発揮できません。運転に向けて、体調を整えておきましょう。

 また、車は運転者の心理的状況が大きく反映します。焦ることのないよう、時間にはゆとりを持つ意識が重要です。

 予定時間に間に合わせようと「急ぎ運転」をしても、実はさほど時間は短縮できません。走行実験では、急ぎ運転をしても12・5キロ移動するのに、平均2分45秒しか変わりませんでした。焦った状態で車に乗れば、時間短縮のメリットが少ないにもかかわらず、事故の危険性が増します。そういった状況に陥らないよう、余裕を持って出発しましょう。

 車両点検や、車内の整頓をしておくことも大切なポイントです。日頃からの心掛け次第で危険を回避することができます。

 サポカー(安全運転を支援してくれる車)を買う、安全をサポートしてくれる同乗者がいる。これらは誰にでもできることではないですが、こういった安全支援策があることを知っていただければと思います。

 乗車前の安全対策について3000人超の高齢ドライバーに調査したことがあります。雨の日の運転を控えたり、体調を整えたりといった準備は、半数から3分の2の人が実行していました。対策は、「知っているだけ」では効果を発揮しません。安全ゆとり運転を実践すると、交通事故に遭う危険を回避できるだけでなく、気持ちに余裕を持つことができます。その結果、運転寿命を延ばし、車と長く付き合うことができます。

 

安全ゆとり運転の項目

運転前の対処

 ◇運転制限

  1、夜間の運転を控える

  2、雨の日の運転を控える

  3、長距離の運転を控える

  4、安全に走行できるルートを選ぶ

 ◇運転準備

  5、安全運転をサポートする車を運転する

  6、時間に余裕を持って出発する

  7、体調を整えてから運転する

  8、車の点検や車内の整頓をする

  9、安全運転をサポートしてくれる同乗者を乗せる

 

安全志向運転

 ◇速度抑制

  10、制限速度を守って運転する

  11、以前よりスピードを出さないで運転する

  12、自分が優先であっても見通しの悪い交差点では徐行する

  13、しっかり止まって安全を確認する

 ◇注意集中

  14、イライラしたり、あせったりしないで運転する

  15、ながら運転をしない

  16、脇見をしないで運転する

 ◇防衛運転

  17、危ない車や人・自転車には近づかない

  18、車間距離を十分に取る

  19、後ろから車が来たら脇によけて先に行かせる

  20、狭い道で対向車が来たら停止して待つ

 

 調査から得られた「安全ゆとり運転」の具体例

 出典:松浦常夫著『高齢ドライバーの意識革命 安全ゆとり運転で事故防止』(福村出版)

 

2022年7月13日

〈介護〉

介護疲れ

 まずは気付くところから

 

介護者メンタルケア協会代表

 橋中今日子さん

 

 介護は“ゴールの見えない長距離走”に例えられます。だからこそ、日々の介護疲れをためない工夫が大切です。㊤の今回は、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんに、介護疲れに気付くためのポイントについて聞きました。(㊦は7月27日掲載予定)

 

気持ちを伝える

 私自身、3人の在宅介護を21年間、1人で続けました。認知症の祖母、寝たきりの母、重度の知的障害の弟の3人です。

 その経験から、介護を続ける上で、周囲の人に状況を知ってもらうことが、とても重要であることを痛感しています。

 しかし、相談すること自体、エネルギーを必要とします。トラブルの連続で、相談する余裕すらないこともあります。

 当時、働いていた私は、上司に「母が〇〇なので」「弟が△△な状態で」と、一生懸命、介護の大変さを伝えていたつもりでした。それでも、具体的な対応をしてもらえず、“なんで伝わらないんだろう”と思ったこともあります。

 ところが、ある時、私自身が限界を感じ、「疲れました」「もう頑張れません」と伝えると、すぐに親身になってくれ、対応してくれたのです。家族の状況説明だけでなく、自分の気持ちを率直に伝えることも大切なのだと知りました。

 

休業明けが一番

 介護は、大きく四つの期間に分けられます。けがや病気が発生した直後の「パニック期」。介護申請や生活環境を整える「環境調整期」。実際に介護生活をする「生活期」。最後に、看取りに備えた「看取り期」です。

 生活期になり、介護が軌道に乗った後、再度のけがや病気で、パニック期に戻る――看取り期以外の三つの時期を、ぐるぐる回るケースは少なくありません。

 そのため、何度も仕事を休み、周囲からは「またなの?」と、理解されないこともあります。

 介護休業を活用している人もいると思います。「介護休業」という名称ですが、介護者は休んでいるわけではありません。介護に追われ、心身をすり減らしながら頑張っています。この期間が終わって職場に戻った時期が、実は、一番疲れているということを知ってほしいと思います。

 

体からのサイン

 ある時、母から「そんな怖い顔して怒らないで」と言われ、ハッとした経験があります。感情のコントロールができず、怒鳴ってしまうなど、介護疲れが表面化することがあります。

 ・忘れ物をする

 ・約束を忘れる

 ・物をなくす

 ・よく食器を割る

 ・体をよくぶつける

 これらは、介護疲れがたまっている人の多くに当てはまります。

 自分がそそっかしいんだと思いがちですが、全て、体が教えてくれる、疲れがピークを迎えているサインなのです。“しっかりしなきゃ”と、自分を責めないようにしましょう。

 

音と臭いに敏感

 音や臭いに対して、敏感になっていませんか?

 食べている音やテレビの音量が気になったり、特に、要介護者が認知症の場合、物を探す音や、夜中に歩く音を聞いただけで、ぞっとしたり。これは介護疲れの典型で、“音疲労”と呼んでいます。

 また、排せつ処理が無理になってしまう人もいます。“自分の愛情が足りないから……”なんて思う必要はありません。嫌だと思っていいんです。例えば、どんなに愛しているわが子が相手でも、排せつ物を嫌だと思うのは当然のこと。絶対に自分を責めないでください。

 排せつ物専用の洗浄剤などの介護用品を活用しつつ、ケアマネジャーをはじめ、頼れる周囲の人に、「疲れているみたいです」と、SOSサインを出してください。

 

何げない言葉で

 何げない思考や言葉でも、介護疲れに気付くことができます。チェックリスト(別掲)にあるような言葉を思ったり言ったりしていませんか?

 一つでも当てはまる場合は、黄色信号ではなく赤信号。自分の限界を超えてしまっているので、立て直しの時期だと捉えましょう。一度ストップして、利用するサービスを追加するなど、介護の在り方を見直してください。

 周りの人が気付くこともあります。気付いた方はぜひ、「休んだ方がいいですよ」と、背中を押してあげてください。

 「もっと大変になったら相談します」という人もいますが、自分が考える“まだ大丈夫”は、信じてはいけません。実は限界を迎えていることがよくあるのです。

 

〈チェックリスト〉

余裕がないときの思考パターン

 両極端な判断しかできなくなる「白黒思考」、周囲の人のことを決め付けてしまう「確証思考」、自分のやっていることに自信が持てない「過小評価思考」など、リストに該当するパターンはさまざまですが、いずれも余裕がなくなっている証拠です。

 

□仕事を辞めるしかない

□お金はないから施設には入れない

□迷惑な人だと思われている……

□どうせうまくいかない

□ケアマネジャーは当てにならない

□誰も助けてくれない

□私をバカにしている

□大したことできていない

□もっと頑張らなきゃ

 

 はしなか・きょうこ 理学療法士。公認心理師。リハビリの専門家として病院に勤務する傍ら、家族3人の在宅介護を21年間続けた。自身の介護疲れを機に、心理学やコーチングを学ぶ。現在は、介護者メンタルケア協会代表として、介護と仕事の両立で悩む人、介護することに不安を感じている人に「がんばらない介護」を伝える活動を全国で展開している。

 

2022年6月29日

〈介護〉

 こころの絆 読者の体験談

 

 

バカ息子やぞ

 兵庫県姫路市

   細川 啓子

   (73歳)

 わが家では、101歳の義母を介護しています。

 100歳になった頃から、義母は、夫と私のことも分からなくなりました。また、101歳になる前までは、支えがあれば歩けましたが、現在は車いすの生活です。

 デイサービスの出発前、夫が義母をベッドから車いすに乗せて、自分を指さします。「これ、誰か分かるか?」と尋ねると、義母は首をかしげて、きょとんとします。

 夫がユーモアたっぷりに「おばあちゃまのバカ息子の賢信やぞ。言うてみ」と話すと、義母は「賢信」「バカ息子」と言うので、私たちは爆笑です。

 夫は、大切なわが子のように、義母をそっと抱いて、頭をポンポンと優しくたたき、「頑張ってこい」と送り出します。その光景を見ては、“なんと親孝行な夫だろう”と、涙が出る思いです。

 義母と同居して40年。私も仕事をしていたため、3人の息子たちが、高校・大学を卒業するまで、義母が家事をしながら世話をしてくれました。

 恩返しをする思いで、介護しています。それでも、「介護は大変やなあ」と思う時もありますが、いつもは亭主関白の夫が「すまんな。えらい目に遭わすなあ」と、ねぎらいの言葉を掛けてくれるので、私の気持ちは前を向けるのです。

 夫のユーモアと優しさのおかげで、笑顔は絶えません。これからも「悔いなく、笑顔で介護、恩返し」をモットーに過ごしていきます。

 

一緒に見学へ

 東京都荒川区

   久木田 京子

   (主婦 73歳)

 今年の「母の日」、98歳で亡くなった母。認知症の症状が出始めたのは、5年前のことでした。要介護認定を受け、ケアマネジャーに相談しながら、介護生活がスタートしました。

 友人が多く、社交的だった母が、外出を嫌がるようになったので、一緒にデイサービスの施設を何軒か見学に行きました。

 実際に行ってみると、施設の充実具合やスタッフの雰囲気など、それぞれ違うことに驚きました。そして、私自身が“ここなら入りたい”と思える場所を見つけると、母も気に入ったようで、そこに通うことになりました。

 通い出すと、母は見る見る元気に。大好きだった服も買わなくなっていましたが、新しい服を着て、施設へ――「施設の友人から“すてきね”と褒められた」と、うれしそうに話す表情は生き生きしていました。

 母は偏食でしたが、少しでもおいしいものを食べてもらいたいと思い、西京漬けの魚やケーキなど、ことあるごとに持っていきました。すると、いろいろな食べ物に挑戦し、いつしか魚も肉も喜んで食べられるようになりました。体力も付きました。

 昨年、心不全で、入退院を繰り返しましたが、常に前向きな母。リハビリのために入所した施設でも、車いすで“自主トレ”をして、介護スタッフを慌てさせました。

 そんな母の口癖は「ありがとう」。最後まで、周りの人に感謝の心を伝える姿から、たくさんのことを学ばせてもらいました。お母さん、本当にありがとう。

 

回復を諦めず

 三重県鈴鹿市

   藤林 勇一

   (66歳)

 母は、90歳で霊山へ旅立ちました。6年前、脳出血を患い、半身不随に。近くの介護施設に入所することができ、人生の最終章をそこで迎えました。

 3年前に急性腎不全を発症し、意識障害で入院。話す元気もなくなり、とうとう食べることすらできなくなりました。医師からは、「食べられないと、長くはないでしょう」と伝えられ、介護施設での看取り介護をすることになりました。

 それでも、何とか食べられるようにならないか、試行錯誤。施設の方と相談していたところ、突然、母が「焼き芋が食べたい」と言いだしました。

 施設では焼き芋が作れないため、自宅で妻と焼き芋の裏ごしを作り、急いで施設に届けました。すると、少しずつ食べられるようになり、半年後には、通常介護に戻ることができたのです。

 しかし、喜びもつかの間。母が新型コロナウイルスに感染し入院。軽症で完治して退院しましたが、再び食べられなくなってしまいました。

 家族も施設の方も「おばあちゃんは、絶対にまた元気になる。大丈夫だ」と2度目の回復を信じ、一致団結。諦めず、介護を続けることができました。最後の最後まで、希望と固い絆を与えてくれた母に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

書き続けます

 東京都小平市

   山本 久実

   (主婦 55歳)

 大阪にいる89歳の父は、2年前に脳卒中になり、左半身まひになりました。今は、介護老人保健施設(老健)で暮らしていますが、コロナ禍の影響で会えなくなって、2年がたちます。

 東京に住む私は、父を手紙で励ますことしかできません。せめて、話好きな父とおしゃべりしているようにと、自分のことや子どもたちのことを詳しく書き、イラストを添えて楽しい雰囲気に。父の脳トレになるよう、なぞなぞやクイズなど、盛りだくさんの内容を心掛けました。

 施設のそばに住む姉に、手紙をファクスで送ると、姉は、父の喜びそうな聖教新聞の記事を切り抜き、私の手紙と一緒に届けてくれました。

 ただ、父からの返事はありません。手紙を理解できているのか、喜んでくれているのか……。とても心配でした。

 施設から、行事ごとに写真と父からのメッセージが渡されますが、父は無表情で、メッセージは、なんと書いてあるのか読めません。ただ、一生懸命に書かれた息子たちの名前だけは分かり、父の思いが伝わってくるようでした。

 なんと今年4月に渡されたメッセージには、しっかり読める字で、父の名前と一緒に「いつもお世話になります。ありがとう。手紙がうれしい。涙が出ます」と書かれていたのです。

 私たちの思いは、父に通じていました。こんなにうれしいことはありません。

 これからも、父に喜んでもらえるように、手紙を書き続けます。大好きな父が、毎日、笑顔で過ごせるようにと祈りながら。

 

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