2023年5月2日
2023年
5月度座談会拝読御書
顕仏未来記
御書新版610ページ5行目~6行目
御書全集508ページ2行目~4行目
世界広布を開いた創価の師弟の闘争
拝読御文
月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす。仏法もまたもってかくのごとし。正像には西より東に向かい、末法には東より西に往く。
万人照らす「太陽の仏法」
本年は日蓮大聖人の立宗宣言から満770年。立宗の頃、大聖人は自らを「日蓮」と名乗られました。そこには、御自身こそ、万人の闇を照らす「太陽(日)」との意味が込められていると拝せます。
拝読御文では、東天から太陽が昇るように大聖人の仏法が東の日本から広がり、西のインドへと伝わっていく――「仏法西還」には、「南無妙法蓮華経」の大法が必ず世界に広まる、との大確信が表れています。
同時に、大聖人の仏法が、あらゆる人々を救う普遍性をもった「太陽の仏法」であることが示されているといえましょう。
大聖人の御在世当時、大災害が起こり、疫病が流行。他国からの侵略の脅威も社会に暗い影を落としていました。
そのような状況の中、大聖人は敢然と南無妙法蓮華経の題目を唱え、語り広げ、無明の時代を照らしていかれました。大聖人の仏法は、自らの胸中に仏の境涯である太陽を昇らせるとともに、あらゆる人々の胸中に幸福の太陽を昇らせる仏法なのです。
池田先生は語られました。
「太陽の仏法は、万人の生命を等しく照らし、一人一人の生命を妙法の福田に変えていくのです。そして社会に、世界に、妙法の人華を爛漫と咲き薫らせていくのです。人間革命、立正安国、世界広宣流布こそ、太陽の仏法が目指すものです」
分断や対立――現代もまた、社会を無明の闇が覆っています。今こそ太陽の仏法を実践し、希望の光で人々を照らしていきましょう。
一人一人が後継者
本抄の題号の「未来記」とは、一面では「釈尊の未来記」を示します。しかし、日蓮大聖人が本抄を執筆した本来の目的は、「大聖人御自身の未来記」を明らかにすることにあったと拝せます。
拝読御文に続く箇所では、仏法を後世に伝え、持つ「伝持の人」(新610・全508)の重要性が述べられています。たとえ、経典や教えがあっても、その法を持ち伝える後継者がいなければ、木像や石像が法衣を着て、鉢を持っているようなもので、何の役にも立たない(同、趣意)と仰せです。
大聖人が描いた世界広布の未来像も、受け継ぐ人がいなければ虚妄となってしまいます。
大聖人の未来記を実現したのは創価学会です。創価の師弟によって、世界192カ国・地域にまで日蓮仏法は広がりました。
その上で、末法万年の民衆を救う広宣流布の戦いは永遠に続きます。妙法を流れ通わせるためには、「伝持の人」の存在が不可欠です。
では、私たちの日々の実践において、信心を「伝え」「持つ」とはどのようなことを指すのでしょうか。
「顕仏未来記」の講義の中で池田先生は、「一人一人が自身の生命の無限の可能性を信じて『人間革命』の実践を貫くことにほかなりません」と、教えています。
創価家族の一人一人が、仏法を未来に伝え、広げゆく伝持の人です。私たちが正しい仏法を信仰し、人間革命していくことで世界広布の未来が永遠に開かれていくのです。
<池田先生の指針>
我らこそ未来記の主人公
末法の無明の時代を照らすためには、根本的には信仰を自覚した一人一人が胸中に法性の太陽を昇らせるしかない。
万人が太陽と輝く以外に、末法の深き闇を晴らすことはできない。
そして、目覚めた民衆が、万人の胸中に太陽を赫々と昇らせていこうと立ち上がる。その目覚めた民衆のスクラムが広がってこそ、点から線、線から面へと慈悲の光明が拡大していく。
太陽の光明で百花が繚乱と咲き誇るように、仏法の光明は、人々の慈悲と智慧を育み、人間性の開花をもたらします。その「人間の善性のスクラム」が地球上に広がれば、人類の境涯が変革されていく。
日蓮仏法には、現実変革へ無限の可能性がある。万人の生命に仏や菩薩の境涯を確立し、真の平和を実現していくことが日蓮仏法の目的です。(『池田大作全集』第33巻所収、「御書の世界〈下〉」)
◇ ◇ ◇
(創価学会は)無数の地涌の菩薩を全世界に呼び覚まし、万年の未来にわたる堂々たる平和への大行進を続ける尊貴なる和合僧団であります。
戸田先生は「広宣流布のさきがけをしようではないか」と叫ばれ、「創価学会は宗教界の王者である」と宣言されました。
私は、私とともに戦ってきてくださった皆様とともに、「我らこそ御本仏の未来記の主人公なり」と、誇り高く宣言したい。
そして「私は勝った! 我らは勝ちに勝った!」と言える輝かしい人生を、愉快に、朗らかに、はるかな未来へ向かって共々に生き切っていきましょう。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第1巻)
2023年4月2日
2023年
4月度座談会拝読御書
呵責謗法滅罪抄
御書新版1539ページ4行目~5行目
御書全集1132ページ10行目~11行目
強き一念と勇気が不可能を可能に!
拝読御文
いかなる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給えと、湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり。
題目が結ぶ師弟の絆
“不可能を可能にするほどに、強盛にあなた方のことを祈っています”――門下たちは、遠く離れた佐渡の地から届いた、日蓮大聖人の大慈悲の御手紙に、“自分は一人じゃないんだ”と、ますます奮い立ったに違いありません。
本抄を送られた当時、佐渡にいる大聖人だけでなく、門下に対しても、激しい迫害が加えられていました。
そうした絶体絶命ともいえる状況下で大聖人は、決して諦めることなく、諸天をも揺り動かす祈りの大切さを教えられました。
師匠の御真情に触れた門下は、“どのような状況にあろうとも、我らには祈りがある”と、師の一念と合致する祈りを猛然と開始したことでしょう。
小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「勝ち鬨」の章では、障魔を勝ち越えてきた同志に、山本伸一が語っています。
「私の心には、いつも皆さんがいます。題目を送っております。皆さんも、題目を送ってくださっている。それが師弟の姿です。普段はお会いできなくとも、私たちの心はつながっています」
いかなる困難に直面しようとも、誓願を同じくした強盛な祈りによって、師匠と弟子の絆は、強く結ばれていくのです。
日蓮仏法は“師弟の宗教”です。故に、師弟の絆が強く結ばれてこそ、自身の生命に秘められた力を最大限に引き出していくことができます。
立正安国の凱歌へ、師匠と祈りを合わせ、自身の最高の生命力を湧き出しながら、進んでいきましょう。
最高の祈り、作戦、行動を
拝読御文で仰せのように、“濡れた木から火を出し、乾いた土から水を得る”のは、実際には不可能なことのように思われます。
しかし、そうした不可能とも思える、厳しい現実に直面していようとも、“必ず祈りは成就すると確信していくことが大事である”と、日蓮大聖人は、門下に教えられています。
何事も「無理だ」と思って諦めてしまえば、可能性はなくなってしまいます。しかし、諦めずに挑戦を貫けば、必ず困難を打開することができます。この確信の祈りこそ、信仰者にとって最も重要なものではないでしょうか。
小説『人間革命』第10巻「一念」の章では、1956年(昭和31年)、“まさかが実現”の「大阪の戦い」に臨むにあたって、山本伸一が、“戦いの要諦”について、語っています。
「戦いは、全関西の強盛な祈りから始まるわけであります。これが第一の要諦です。ただ、唱題して、祈りに祈っていけばよいかというと、それだけでは、どうにもなりません。第二の要諦は、最高の作戦、最高の行動です。これがなければ、勝機をつかむことは、絶対にできない。第一の要諦だけでも駄目であり、第二の要諦だけでも駄目です。この二つの要諦が調和した時、不可能も可能となり、勝利を得ることができると確信いたします。この調和をさせるものは何かというと、それが信心なんです」
どこまでも信心根本に、最高の祈り、最高の作戦、最高の行動を起こす時、勝利が開かれるのです。
<池田先生の指針>
わが舞台に勝利の旗を
(日蓮)大聖人は、法難の地・佐渡から、鎌倉の弟子たちに書き送られた。
「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(全1132・新1539)
この御聖訓を拝しつつ、私と妻も、「わが宝友を守り給え!」「わが同志よ負けるな!」と、諸天を揺り動かす一念で、題目を送り続けている。
(中略)どんなに深い苦悩と悲痛にあろうとも、我らには、妙法がある。同志がいる。学会がある。信心の光で打ち破れない闇など、断じてないのだ。(『随筆 平和への大道』)
◇ ◇ ◇
御聖訓には「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(全1132・新1539)と仰せである。
私はこの御文を命に刻み、強き祈りと行動で「不可能を可能」にしてきた。行くところ、行くところで勝利の旗を打ち立ててきた。
現実に勝利の歴史を残せなければ、真実の仏法者とはいえない。本物の弟子ではない。
古代ギリシャの大詩人ホメロスが綴った叙事詩『イリアス』。そのなかで、敵に囲まれた仲間の兵士たちに向かって、一人の勇者がこう叫ぶ場面がある。
「さあ、勇気を出せ」「戦うしか道はない。死にものぐるいで戦うのだ」(『〔完訳〕イリアス』小野塚友吉訳、風濤社)
大事なのは「勇気」だ。どんな劣勢をも、はね返してみせるとの「死にものぐるい」の強き一念だ。皆さんもまた、わが舞台で、断じて「師弟の勝利」の証しを打ち立てていただきたい。(2008年9月23日、秋季彼岸勤行法要でのスピーチ)
2023年3月5日
2023年
3月度座談会拝読御書
弥三郎殿御返事
御書新版2085ページ7行目~9行目
御書全集1451ページ10行目~12行目
“断じて勝つ”と 喜び勇んで戦う!
拝読御文
ただひとえに思い切るべし。今年の世間を鏡とせよ。そこばくの人の死ぬるに、今まで生きて有りつるは、このことにあわんためなりけり。これこそ宇治川を渡せし所よ。これこそ勢多を渡せし所よ。名を揚ぐるか、名をくだすかなり。
仏法の力を証明する時
“今まで生きてきたのは、この戦いに臨むためである!”――日蓮大聖人は、念仏僧との法論に臨む門下の弥三郎に励ましを送られました。
当時、四条金吾や南条時光ら大聖人の門下は、法華経を信仰するがゆえに競い起こった迫害等の難に直面していました。
そのさなかにあって、弥三郎が念仏僧との法論に勝つことは、日蓮門下の正義を示す意義があったといえます。
ゆえに大聖人は、重大な広布の使命を担う弥三郎に対して、“今まで生きてきた意味は、法華経ゆえの難である法論に臨み、勝利することにあったのだと思い切りなさい”と、深き使命を自覚し、全力を出して戦うように教えられたのです。
渾身の師の励ましに、弥三郎は、大きな境涯で法難を捉え返し、立ち向かう勇気が湧き出てきたことでしょう。
厳しい戦いの時こそ、自身が試されます。いざという戦いの時に、“広布のために”という大願に立ち返れば、これまで以上の大きな力を出すことができるのです。
小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章には「逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる」とつづられています。
眼前の困難な戦いもすべて、自身の広布への誓願によって、必ず乗り越えていける!――本抄に込められた、大聖人の力強いメッセージに心が奮い立ちます。
諸天をも動かす行動を
琵琶湖から流れる瀬田川とその下流の宇治川は、東国と畿内の境界に当たります。“戦いの急所”となるそれらの川を、先陣を切って渡った者の勲功は大きかったと思われます。
拝読御文では、その例えを用いて、“法華経ゆえの難と戦えば、境涯が開ける!”と、大聖人は仰せです。
続く箇所では、「『釈迦・多宝・十方の仏、来集して我が身に入りかわり、我を助け給え』と観念せさせ給うべし」(新2085・全1451)と、強盛な祈りで法論に臨むよう弥三郎に教えられています。
大聖人は迫害に遭われる中、御書の随所で、三世十方の諸仏や菩薩、諸天善神に“法華経の行者である日蓮を守護せよ”と厳しく諫められています。さらには、「諸天善神も日蓮を見捨てるなら見捨てよ。諸難に遭うなら遭おう。身命をなげうっていくだけである」(新114・全232、通解)とも仰せです。
困難を恐れて、諸仏や菩薩、諸天善神の守護を待つのではない。強き祈りで、「必ず勝つ」と行動を起こすことで、諸天をも動かしていくことができるのだ!――大聖人に連なる法華経の行者の魂は、ここにあるのです。
池田先生は「大事なのは行動だ。何もしなければ、何も変わらない。祈り、そして一歩を踏み出して、行動を起こしていくところから、すべてが始まる。智慧が生まれ、諸天が動く。状況も好転していくのである」と語っています。
広布の“急所”に直面した時こそ、勝利へ、喜び勇んで行動を起こしていきましょう!
<池田先生の指針>
真剣勝負の強盛なる祈り
(日蓮)大聖人は、「思い切れ」と仰せです。同じ戦うのなら、「断じて勝つ」と腹を決めて戦い切るのです。人は敵と戦う前に、己心の弱さに負ける。何よりもまず、その心中の賊に勝たねばならない。とともに勇気と蛮勇は違う。現実と真正面から向き合うところに真の勇気があります。そこから今、何を為すべきか、明瞭に見えてくるのです。
宇治川も瀬田川も、「源平合戦」「承久の乱」など、古来、激しい攻防戦を繰り広げた、歴史に名高い戦場です。ここで競り勝つか、後れを取るか、勝負を決せんと、勇者たちは必死でした。同じく、広宣流布の戦いにあっても、「ここが勝負」という急所がある。(『信仰の基本「信行学」』)
◇ ◇ ◇
戸田先生は語っている。
「魔が強いからこそ、勝てるのだ。信心が毅然として、そのうえで、魔が強いということは、必ず勝てるという証拠なのである。要は自分自身の信心の決心にかかっている」
魔が競い起こったときこそ、もう一歩も二歩も、大きく成長していくチャンスなのである。
大聖人は、大事な破邪顕正の戦いに挑む弟子に言われた。
「但偏に思い切るべし」(全1451・新2085)と。
そして、「『釈迦・多宝・十方の仏よ! 来り集まって、わが身に入りかわり、我を助け給え!』と祈念しなさい」(同、通解)と。
大事なのは「勝つための祈り」だ。真剣勝負の強盛なる祈りだ。
今こそ一人一人が、わが生命に、仏菩薩も、梵天・帝釈も、「入其身(其の身に入る)」させるのだ。そして仏の力、仏の智慧を思う存分に発揮していくのだ。(2010年1月、全国各部協議会でのスピーチ)
2023年2月7日
2023年
2月度座談会拝読御書
日女御前御返事(御本尊相貌抄)
御書新版 2088ページ8行目~10行目
御書全集 1244ページ14行目~15行目
強盛な信心の人に恐れるものはない
拝読御文
南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信をもって源とす。
祈りから一切は始まる
拝読御文では、南無妙法蓮華経の題目を唱えて、わが身に仏界の生命を開くことが最も大事であると仰せです。
拝読御文に続く箇所では、“李広将軍が、草原の中にある石を親の敵の虎だと信じ切って矢を射たところ、石に矢が刺さった”との故事に触れられています。“強き一念”で、不可能を可能にすることができると教えられているのです。
小説『新・人間革命』には、「行き詰まったら原点に返ることだ。唱題から出発するのだ。妙法は宇宙の根源の法なるがゆえに、妙法への祈りこそ、一切を動かす原動力となるのだ」(第22巻「潮流」の章)とつづられています。
私たちも、強き一念で題目を唱え、自身の人生の苦悩との闘争、広宣流布の大闘争に臨んでいくことが大切です。
池田先生は「二月闘争」の際、「祈りから始める」ことを同志と約し合い、広布拡大の突破口を開きました。
“まさかが実現”の大勝利を築いた「大阪の戦い」も、池田先生の御本尊への深き祈りから始まりました。
先生は教えています。
「唱題行こそ究極の若さと、無限の活力の源泉なのである。地涌の菩薩たる我らの題目は、誓願の祈りである。いわゆる何かに弱々しくすがる願いなどではない。自ら誓いを立て、その成就へ一念を定め、大宇宙の根本法則に合致し、全生命で轟かせゆく師子吼なのである。これほど強く、これほど荘厳な力はない」
「強き祈りから一切は始まる」と定め、広布に打って出ていきましょう。
迷いや弱さを打ち破れ
仏法の根本は信をもって源とする――大聖人は今回の拝読御文をはじめ、御書の随所で「信」の一字を強調されています。
釈尊の十大弟子の一人で“智慧第一”と言われた舎利弗でさえも、自身の智慧ではなく、ただ法華経への信によって仏の境涯を開きました。
「信」は、法華経の行者にとって成仏の根幹となる重要なものなのです。
ここで確認したいのが、“私たちはどのように、この「信」を深めていけばよいのか”ということです。
御書には「疑いなきを信と曰う」(新1047・全751)――“「疑いが無い」ことこそ「信」である”との言葉が出てきます。池田先生はこの言葉について、「疑問を明確にし、実践の中で徹底して考え抜いて、心の底から納得することが、信仰を深めていきます」と教えています。
「疑ってはいけない」のではありません。この信仰の実践に励み、仏法を探究していくならば、「疑いが無い」といえる確信を深めていくことができるのです。
また小説『新・人間革命』には、「信仰とは、不信、すなわち揺らぐ心との精神の闘争である。“自分など、幸せになれないのではないか。何もできやしないのだ”といった心の迷い、弱さを打ち破り、胸中の妙法を涌現させ、絶対的確信を打ち立てる戦いであるといってよい」(第26巻「法旗」の章)とあります。
自らの弱さや迷いと戦う信仰の実践の中で、妙法への確固たる「信」は深まっていくのです。
<池田先生の指針>
逆境を乗り越える師子王の心
多くの学会員が自らの体験で実証してきたごとく、“もう駄目だ”と思うような時にこそ、御書を開き、学会指導を学び、また同志の励ましを受けて、あらためて「信」を奮い起こしていくことです。胸中の妙法を確信して、御本尊に向かって真剣に唱題行を貫いていけば、必ず、わが胸中から変革が始まります。
自身の仏性が開かれて、歓喜と確信が込み上げ、挑戦する勇気が湧いてくる。そこに絶対勝利への仏の無限の智慧と力が現れるのです。
まじめに信行学を貫く学会員は、こうした体験を幾重にも重ねながら、また何度も困難を乗り越え、確固たる不撓不屈の自分自身を築いていける。もう何も恐れるものはない、何も怖いものはないという“多宝の友”の確信ある姿は、言うならば「仏の境涯」そのものです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第8巻)
◇ ◇ ◇
大願であった七十五万世帯成就が目前となった本部総会で、戸田先生は叫ばれました。
「学会には信心がある!」
多くの取材陣もいる場です。当時、学会の大発展の理由を皮相的に臆測する論評が多い中、“私たちは、信心で勝ったのだ”と断じられたのです。先生の師子吼は今も、耳朶に響いて離れません。続けて先生は烈々たる気迫で語られました。
「ただ信心が中心! 信心をやるんです。それさえ腹に入れたら、誰が何と書こうと、何を言おうと、驚くことなどは絶対にないだろう!」
信心とは、いかなる逆境をも乗り越えていく師子王の如くなる心です。
強盛な信心の人に、恐れるものなど何もない。信心さえあれば、不撓不屈の信念がこみ上げてきます。信心の強さは、豊かな人生を約束します。正しい信心を貫き通した時に、人生の幸福勝利が開けないわけがないのです。
先生は、学会員として、世間の毀誉褒貶などに右往左往することなく、どこまでも信心根本に進んでいく覚悟を、と訴えられました。「信心」こそ根本であり、「信」こそ源である。これが日蓮仏法の真髄です。(『信仰の基本「信行学」』)
2023年1月8日
2023年
1月度座談会拝読御書
諸経と法華経と難易の事
御書新版1346ページ10行目~11行目
御書全集992ページ14行目~15行目
一人ももれなく平和の主体者に
拝読御文
仏法ようやく顚倒しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり。
生命尊厳を時代精神に
体が曲がれば影が曲がるように、根本とする思想が確かな、正しいものでなければ、現実社会にその負の影響を及ぼしてしまいます。ゆえに真実の教えである法華経を用いるべきであると仰せです。
拝読御文の前の部分には、「仏、九界の衆生の意楽に随って説くところの経々を随他意という。譬えば賢父が愚子に随うがごとし。仏、仏界に随って説くところの経を随自意という。譬えば聖父が愚子を随えたるがごとし」(新1345・全991)とあります。
法華経以外の教えは、人々の機根に合わせて説かれた随他意の教えであり、理解しやすいですが、説かれた真実は部分的です。仏の真実の覚りをそのまま説いた法華経は、生命尊厳を説く随自意の教えであり、難信難解です。しかし、信じることで仏の偉大な境涯を開くことができます。
ゆえに、民衆の幸福のためには、仏の真実の教えを知らない、迷い悩む人々に「随う」――合わせるのではなく、迷える人々を「随える」――すなわち、生命尊厳の思想へと導いていくことが重要です。
学会の伝統は「指導主義」です。指導とは、目指すべき方向へ、共に進むことで導いていくことです。池田先生は「一人だけでは、道をはずれる場合がある。絶対的幸福を目指して、互いに励まし合い、支え合い、正しい軌道を進んでいく。学会は、いわば『幸福と平和の学校』なのである」と教えています。
生命尊厳の思想を時代精神に――この心で、友に語り、安穏の世界を創り広げていくのが学会の使命なのです。
「人間革命」即「社会変革」
真実の仏法は、現実の社会や生活を離れて存在するものではありません。仏法は、民衆の幸福、つまり人々の日々の生活、人生のためにあるからです。
ゆえに学会員は、「信心即生活」「仏法即社会」と、一切を仏道修行の場と捉えていくのです。
「信心即生活」とは、個人の信心の姿勢が、そのまま生活に直結していることです。日々の生活全てが、信心の挑戦の舞台となっていくことを教えているのです。
また、職場や家庭、学校など私たちが日常を過ごす場は、すべて「社会」です。
私たちは、世界平和と立正安国を誓いながら社会で活躍し、貢献しようと奮闘を重ねます。これが「仏法即社会」です。私たちの信仰は、社会と調和し、世界をより良く変革していく力となるのです。
社会は、一人一人の人間が集まって構成されています。ゆえに、個々人の思想や生き方は社会に大きな影響を与えます。世界平和を目指し、生命の尊厳を第一とする日蓮仏法を持つ私たち一人一人の存在は、とても重要なのです。
池田先生は「一日一日の勝利が真の勝利です。その積み重ね以外に、人生の大勝利もありません。一人一人が、日々の生活を営むその場所で、人生の幸福と勝利の花を咲かせ、励ましの輪を広げる。それが、『人間革命』即『社会変革』への最も確かな道です」とつづられています。
本年も、日々の挑戦が、自身と社会の勝利を開くとの新たな決意で前進していきましょう。
<池田先生の指針>
根本は朝晩の勤行・唱題
とかく仕事が忙しいと、“いつか暇になったら、学会活動に励もう”と考えてしまいがちです。しかし、それは間違いです。どんなに多忙であっても、自分のできることを精いっぱいやっていくんです。というのは、信心が後退すれば、仕事の面でも、行き詰まりが生じてしまうからです。
日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(全992・新1346)と仰せになっています。体である信心が確立されてこそ、その影である仕事をはじめ、世間のことも、順調に進んでいくんです。また、たとえ、仕事等で困難に直面することがあったとしても、見事に乗り越えていく力が出るんです。(小説『新・人間革命』第26巻「奮迅」の章)
◇ ◇ ◇
(戸田先生は)「信心は一人前」とは、広宣流布をわが使命と定め、決然と「一人立つ」ことだと教えられた。決定した、この「一人前」の信心があってこそ、「三人前」といえる堂々たる仕事を成し遂げ、職場に勝利の旗を打ち立てることができる。(中略)
我々には、妙法という永遠不滅の宝がある。広宣流布という善の行為の宝がある。
ともあれ、妙法は円教である。欠けるところがない絶妙の調和の法則である。「自分のために」が「社会のために」なる。そして「広布のために」が「自分のために」なる――完璧な充実と満足の軌道なのだ。(『池田大作全集』第135巻所収「随筆 人間世紀の光」)
◇ ◇ ◇
「信心即生活」「仏法即社会」といっても、その根本は朝晩の勤行・唱題にほかなりません。「朝々仏とともに起き、夕々仏とともに臥す」(新1027・全737)です。私たちの勤行・唱題は生命変革の祈りです。
その祈りが、人間革命と宿命転換を力強く推し進め、立正安国と世界平和への着実な行動に昇華していくのです。混迷する時代にあって、学会員が、どれほど偉大にして尊い使命を担っているか。一人ももれなく全員が、「変革の主体者」であり、偉大な「平和の建設者」なのです。(『誰もが輝く「人間主義の世紀」へ!』)
2022年12月4日
2022年
12月度座談会拝読御書
新池殿御消息
御書新版2056ページ5行目~8行目
御書全集1435ページ3行目~5行目
広布の苦労は全て生命の大勲章に!
拝読御文
千里の野の枯れたる草に蛍火のごとくなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草二草、十・百・千・万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば、三千世界に雨をふらし候。小善なれども、法華経に供養しまいらせ給いぬれば、功徳かくのごとし。
一波は万波へと広がる
「枯れた草に、蛍火のような火を付けると、たちまち燃え広がっていく」――本抄では、信心の行動であれば、ささやかでも大きな功徳があることを教えられています。
起こした一波は、万波へと広がるのです。私たちの「立正安国」「世界広布」の戦いも同じです。混迷の世界を、安穏な世界へと変えていくのも、最初は小さな行動から始まるのです。それは目の前の一人を大切にすること、すなわち、心から励まし、ありのまま語らいゆくことです。
法華経には、法華経を聞いた人が他の人にその喜びを伝え、その人がまた別の人に伝え、50人目に至っても、法華経の功徳と法を聞いた歓喜は莫大であることを表した「五十展転」が説かれます。
これは最初の「一人」が一歩を踏み出して歓喜を語ることで、多くの人に広がっていくことを示しています。
大切なことは、私たち一人一人が信仰の喜びを生き生きと語っていくことです。
池田先生は「広布の拡大は、常に『一人への励まし』から始まる。そして団結もまた、『一人への励まし』が原点だ。一人また一人が師子となって、真剣に立ち上がり、偉大なる目標へ、一日また一日を勝って勝って勝ちまくるなかで、互いの生命の麗しき勇気と正義の絆が強く結ばれていくものだ」と語られています。
その最初の一人こそ、ほかでもない自分自身であり、目の前の一人への励ましこそ、地道な一歩となります。
今この瞬間から、率先の行動に打って出て、広布の大波を起こしていきましょう。
信心に無駄はない
「小善ではあっても、法華経に供養されるなら、その功徳は、計り知れない」と仰せです。「法華経に供養する」とは、財物などをささげることだけではなく、法を敬い、その法を自身の根幹として持ち、広めゆく行動をも含んでいます。
法華経では、自分にも、他者にも、仏と同じ尊極な生命があると説かれています。だからこそ法華経は、いかなる境遇の人も実践し、成仏していくことのできる「大善」の法なのです。
日蓮大聖人は、この法華経に、根本の一念が通じていれば、一見、「小善」のように思えるささやかな行動であっても、「大善」の働きとなり、その功徳は限りなく大きいと教えられているのです。
ゆえに大切なのは、法華経の行者として“全ては広宣流布のために”との気概を常に持って、どんなささいなことにも全力で挑戦することではないでしょうか。
その一念で動けば、私たちの日常の一つ一つの行動も、「大善」の働きとなって、おのずと自身の境涯も大きく開かれていくのです。
池田先生は、こう語られています。
「信心に、絶対に無駄はない。広宣流布のための苦労は、自身の生命の大勲章となって輝く。日蓮大聖人が、三世十方の諸仏・菩薩・諸天善神が、最大に御賞讃くださることは、間違いない」
今の苦労は、信心によって、必ず意味あるものに転換していくことができます。広布に生き抜く凱歌の人生を確信し、進んでいきましょう。
<池田先生の指針>
妙法のため真心尽くす
妙法のため、広宣流布のために真心を尽くすことが、どれほど尊いことか。どれほど偉大な功徳があるか。大変な時に護られる。一家も栄える。人間革命していける。生々世々、そして子孫末代まで豊かな福徳に包まれゆくことは間違いない。それこそ、世界一の王者のごとき境涯になれるのである。
広布のための行動は、結局はすべて、自分自身のためになる。その根本は「信心」である。「心」である。(2008年12月、各部代表協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
御本仏日蓮大聖人の仰せのとおりに、来る日も来る日も、広宣流布のために行動を続けておられる尊き皆さまの功徳は、計り知れない。学会活動が第一である。学会活動には、一分のムダもない。すべての苦労が、自分自身と一家・眷属の大福運に変わる。(中略)
広宣流布の仏国土は、この大宇宙に限りなく広がっている。まじめな学会員の皆さまが、生々世々に、この大宇宙を舞台に、大指導者となり、大王のごとき威光勢力をもって活躍し、乱舞しゆくことは、法華経に照らし、御書に照らして絶対にまちがいない。その「永遠の大福徳」を受けきっていくための今世の闘争であり、今日のわが地域での戦いなのである。(1999年3月、全国県長会議でのスピーチ、『池田大作全集』第90巻所収)
2022年11月1日
2022年
11月度座談会拝読御書
千日尼御前御返事
(雷門鼓御書)
御書新版1746ページ4行目~6行目
御書全集1316ページ15行目~18行目
弟子の誓願で師弟不二は決まる
拝読御文
譬えば、天月は四万由旬なれども、大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども、打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡国におわせども、心はこの国に来れり。仏に成る道もかくのごとし。我らは穢土に候えども、心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候え。
常に師と共に
本抄を贈られた千日尼は、日蓮大聖人が流罪に処され、佐渡に移られた際に帰依しました。塚原の三昧堂で、満足な食事も衣服もない過酷な環境下にある大聖人のもとへ、千日尼は夫の阿仏房を送り出しました。阿仏房は監視の目をかいくぐり、何度も供養の品々を届けます。このことで夫妻は屋敷を取り上げられるなどの難に遭います。
千日尼は、大聖人が流罪赦免となった後も、佐渡から身延の大聖人のもとへ、約20日もの道のりを阿仏房に食料等を持たせて何度も送り出します。品物の中には、山中では手に入らないワカメなどもあり、大聖人の生活を配慮していたようです。
直接会えなくとも、まるで目の前に師匠がいるかのように、師匠の身を案じ、真心で尽くしたのです。だからこそ本抄で大聖人は「お顔を見たからといってなんになるでしょう」と、千日尼の心情を思いやり、心で結ばれていると強調されたのでしょう。
“師はどうしておられるだろう”――この千日尼の求道心こそ、弟子の模範の姿ではないでしょうか。
池田先生は「“私には師匠がある”と一生涯、胸を張って、堂々と言い切れる自分自身であることが、自分を無限に成長させるのだ」「師弟不二とは、弟子の側の決意、誓願によって決まる。創価学会は、師が創って弟子が続いたのではない。その最初から、師弟不二の尊き結晶なのである」とつづっています。
“心は常に師と共に!”との決心で、師弟不二の信心の道を開きましょう。
今いる場所こそ霊山
本抄で大聖人は、「私たちは穢土に住んではいますが、心は霊山浄土に住んでいます」と呼びかけられています。
“心は共に仏国土にありますよ”との師匠の温かな励ましがあったからこそ、千日尼は、その後の夫・阿仏房の死去などの苦難にも立ち向かい、信心を純粋に貫き通すことができたのでしょう。
池田先生は語っています。「強盛な信心を燃え上がらせて、広宣流布に戦う人は、来る日も来る年も、その生命の中に霊山浄土が実在する」
いかなる現実の苦闘の中にあっても、私たちの心は共に霊山にあります。御義口伝に「『霊山』とは、御本尊ならびに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(新1055・全757)とあります。御本尊に向かい、題目を唱え、広布に走る時、心が霊山にあるだけでなく、その人がいる場所もまた「霊山」となるのです。
さらに池田先生は、法華経の二処三会を通し、語っています。「『現実』から『悟り』へ、そして再び『現実』へ――法華経が示す、この壮大な生命のドラマを、わが生命に再現し、生き生きと生きゆくための源泉が、朝晩の勤行である。仏界の力を現して、悠然と、現実世界の苦難と戦い、勝利していくことができる。自分自身の生命に、仏界という巨大な力が満ち満ちてくるのだ」
私たちの広宣流布の戦いは、現実世界の「穢土」をわが使命の舞台として、常寂光土と照らしゆく戦いにほかなりません。日々の勤行・唱題で、生命力を漲らせて、進んでいきましょう。
<池田先生の指針>
信心強く、大満足の人生を
佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖人と共にあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。
どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみせる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人と共にあります。(中略)
さらに大聖人は、「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」(全1316・新1746)と仰せになっている。
私たちの住む娑婆世界は、穢土、つまり汚れた国土ではあるが、正法を持った人の心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。(小説『新・人間革命』第13巻「北斗」の章)
◇ ◇ ◇
汚れきった社会であり、人間の世界である。しかし、信心あるところ、そこが、じつはもう、胸中では「霊山浄土」なのである。「信心」を離れて、どこか別のところに浄土があるのではない。
そして、この「穢土」にあっても、信心の“心の王国”、胸中の“信心の宇宙”には、汚れた世の悪は一歩も侵入することはできない。させてもならない。その王国は、まっすぐに御本仏と結ばれているのである。
ゆえに、信心の「心」強ければ、人生は「自在」にして「安穏」である。一念どおりに開けてくる。「大満足」の“わが生涯”となる。(1991年4月、本部幹部会でのスピーチ、『池田大作全集』第76巻所収)
2022年10月2日
2022年
10月度座談会拝読御書
佐渡御書
御書新版1285ページ16行目~1286ページ3行目
御書全集957ページ7行目~10行目
“創価の誇り”胸に
人間革命の前進を!
拝読御文
畜生の心は、弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生のごとし。智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそる。諛臣と申すはこれなり。強敵を伏して始めて力士をしる。
悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これおごれるにはあらず。正法を惜しむ心の強盛なるべし。
何があっても前へ
“いかなる迫害があったとしても、信心を貫けば必ず成仏の境涯が開かれる”――。
流罪地の佐渡から、逆境の嵐と戦う弟子たちの勝利を願い励ます、日蓮大聖人の烈々たる御確信が拝されます。
当時、諸宗の僧たちは権力者と結託し、たったお一人で末法広布に戦う大聖人を侮り、大聖人とその門下に弾圧を加えてきました。そういった状況だからこそ、大聖人は「強敵を伏して始めて力士をしる」と、弟子たちの勇気を呼び覚まされます。
本抄の前半では、「身命に過ぎたる惜しきもののなければ、これを布施として仏法を習えば必ず仏となる」(新1284・全956)、「世間の浅きことには身命を失えども、大事の仏法なんどには捨つること難し。故に仏になる人もなかるべし」(新1285・全956)と仰せです。末法という時に、世間の毀誉褒貶に惑わされることなく、「不惜身命」の精神で折伏にまい進することこそが仏界涌現の道です。ただし、「不惜身命」といっても、仏法はいたずらに命を捨てるような、「殉教主義」ではありません。
池田先生は「不惜身命」についてつづっています。
「広宣流布のため、人々の幸福のために、自分の命を使うと決め、生命力を燃え上がらせて、生きて生きて生き抜いていくことなのです。
ゆえに皆さんは、何があっても尊い命を大切にしていただきたい。どんなに辛く苦しいことがあっても、絶対に負けないで、聡明に前へ前へ進んでいっていただきたいのです」
友に励ましを送る日々に、仏界の生命は輝くのです。
勇気を奮い起こす
迫り来る迫害に不安や恐れを抱いていた弟子たちも、日蓮大聖人のお手紙を拝し、“師と同じ「師子王の心」で立ち上がろう”と決意したに違いありません。
拝読御文の後には、「日蓮は、この関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり」(新1286・全957)と宣言されています。
これは、御執筆前年の「竜の口の法難」の際、大聖人の命を狙い、襲いかかってきた平左衛門尉らに「大音声を放って」(新1286・全958)諫暁された言葉です。
ここでいう「関東の御一門」とは北条氏一門を指し、幕府の中枢、ひいては日本国全体を指すとも拝されます。
大聖人は、御自身こそが末法の御本仏であることを示され、「聖人去らん時は、七難必ず起こらん」(新1286・全957)との、仁王経の経文に照らし、「日蓮捨て去る時、七難必ず起こるべし」(同ページ)と御断言されています。
実際に、大聖人が予言された、「自界叛逆難・他国侵逼難」という二難は、その後、現実のものとなります。
“絶対に戦乱を起こしてはならない”――。大聖人は末法の民衆の幸福と安穏のため、「師子王の心」で権力の魔性と戦い抜かれたのです。
大聖人直結の創価学会もまた、三代会長と共に「師子王の心」を受け継ぎ、平和の連帯を広げてきました。社会が困難や混迷に直面する今、「立正安国」「立正安世界」を目指す私たちの使命はいやまして大きいと実感します。
“創価の誇り”を胸に、今いる場所で勇気を奮い起こし、人間革命の前進をしていきましょう。
<池田先生の指針>
師子王の心で一人立つ
大聖人は、佐渡流罪という大難の中にあって「強敵を伏して始て力士をしる」(全957・新1285)と師子吼された。
敵がいるからこそ強くなる。迫害があるからこそ仏になれる。本物の人材が出てくる。
「難こそチャンス」。ここに仏法の真髄がある。境涯を開けるか、大福運を積めるか、本物の広布の指導者と立てるかどうか――魔が競い起こる時こそ、その重大な境目なのである。
ゆえに、勇気を奮い起こして戦う以外にない。そして皆を励まし、勝利の要諦を教えて、新しい人材をどんどん育てることだ。(2006年5月、「5・3」記念最高幹部協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
「師子」とは、仏の異名です。師が師子王であれば、弟子も師子王となるのです。何があっても負けない。師子となって戦っていく。これこそ、誇り高き創価の人間革命の真髄です。(中略)
いかなる苦難の嵐があろうとも、師子王となって一人立つ。この負けじ魂の勇者が「必ず仏になるべし」なのです。
さあ、我らの凱歌の大潮流が「民衆の世紀」を創ります。「新時代」の開幕です。私は全世界の地涌の同志に、なかんずく後継の青年たちに呼びかけたい。
「君たちよ、貴女たちよ、師子王の心で立ち上がれ! 今いる場所で、『わが人間革命の姿を見よ!』と、勝利の旗を掲げゆけ!」(『人間革命の宗教』)
2022年9月4日
2022年
9月度座談会拝読御書
経王殿御返事
御書新版1633ページ5行目~6行目
御書全集1124ページ10行目~11行目
「師子王の心」で 広布と人生を開く
拝読御文
ただし御信心によるべし。つるぎなんども、すすまざる人のためには用いることなし。法華経の剣は、信心のけなげなる人こそ用いることなれ。鬼にかなぼうたるべし。
“けなげなる人”に
拝読御文の前の箇所で、日蓮大聖人は、師子王はどんな獲物を捕らえる時も、万全の構えで全力を尽くすと述べられ、「御本尊を認めたことも、その姿勢は師子王に劣るはずがない」(新1632・全1124、通解)と御断言になっています。
大聖人が全生命を注いで御図顕されたのが御本尊です。だからこそ、この御本尊に強盛に祈念していくならば、成就しないことはありません。
ここで大事なことは、私たちが、「信心のけなげなる人」、すなわち「勇気ある信心の人」であるかどうかです。
いかに立派な剣でも、使う人が臆病では役に立ちません。「法華経の剣」も、勇敢な信心の人が振るうから、“鬼に金棒”でより大きな力を発揮するのだと教えられています。
“私には勇気などない”と思う人もいるかもしれません。しかし、大聖人は別の御書で「各々、師子王の心を取り出だして」(新1620・全1190)と仰せです。「師子王の心」とは“最高の勇気”ともいうべき仏界の生命です。その生命は、十界互具で万人に具わるからこそ「取り出だして」と仰せなのです。
池田先生は語っています。
「勇気は、特別な人だけがもっているのではない。だれでも平等にもっている。
しかし、どれほど多くの人々が、この無尽蔵の宝を封印して、臆病、弱気、迷いの波間に漂流していることか。これほど、もったいない人生はない。勇気を『取り出して』、胸中の臆病を打ち破ることだ」
勇気の信心こそ、幸福を勝ち開く源泉なのです。
強盛な祈りと行動
仏法には、祈りをかなえるための要の力である「四力」が説かれています。信力、行力、仏力、法力です。
「信力」とは御本尊を信じる心の強さのこと。「行力」とは教えの通りに実践する力のことです。
「仏力」とは仏が持つ力用のことであり、「法力」とは妙法に具わる広大深遠な利益のことです。
強盛な信力、行力を奮い起こしていく時、それに応じて仏力、法力が現れ、祈りが成就するのです。
池田先生は、分かりやすく語っています。
「『祈りが叶う』といっても、オカルト的なものではない。また人間とかけ離れた神仏が、“お情け”で願いを聞き届けてやるといった、神秘的な、いいかげんな話ではない。(中略)生命と宇宙の法則を研究したのが仏法です。その仏法の最高理論をもとに、日蓮大聖人が御本尊をつくってくださったのです。電気の理論で電灯ができたようなものです」
「こちらが一の信力、一の行力だと、一の仏力、一の法力となって現れる。百の信力・行力は、百の仏力・法力となって現れる。万の信力・行力は、万の仏力・法力となって現れるのです」
仏法は道理です。“必ずかなえてみせる”との強盛な祈りと行動――いわば“百千万の信力・行力”こそ、無限の仏力・法力を引き出し、広布と人生を開きゆく要諦です。
強き信心で勇敢な実践を貫く人は、限りなく境涯を開き、勝利、勝利の人生を飾っていけるのです。
<池田先生の指針>
日蓮仏法の魂は「勇気」
日蓮仏法の魂も、「勇気」であります。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(全1282・新1675)と、明快に断言されている通りであります。
あの身命にも及ぶ佐渡流罪の大難の渦中、大聖人は厳然と仰せになられた。
「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(全957・新1286)と。
「師子王の心」とは、どんな強敵が、群れをなして襲いかかってこようとも、恐れない。どんな大難が山また山となって立ちはだかろうとも、断じて負けない。その最極にして無敵の勇気が、「師子王の心」であります。
いざという苦難の時に、この勇気を奮い起こし、師匠と共に、思い切って戦い抜いた人が、仏になれる。勇気こそが、己心の無明を打ち破り、自他共に仏界の生命を開くのであります。(中略)
戸田城聖先生のもとで、女子部の「華陽会」が学んだ、『トム・ソーヤーの冒険』の作者である、アメリカのマーク・トウェインは語っている。
「どれだけ多くの人間が自分の力を知らないことか! 人間には宇宙を動かす力が秘められている」(ドロシー・クイック『マーク・トウェインと私』野川浩美訳、ほんのしろ)のだと。
人間生命に秘められた、この宇宙大の力を解き放つ鍵こそ、「勇気」であります。
そして、その極致こそが「勇気ある信心」なのであります。
戸田先生は「信心とは、要するに、どんなことがあっても必ず勝つと、心を決めることだ」と結論されました。
無名にして無冠の庶民が、この勇気ある信心に立ち上がって、いかなる悪口にも、いかなる圧迫にも、いかなる陰謀にも屈せずに戦い切ってきたからこそ、世界の柱たる平和と文化と教育の創価の大連帯が築かれたのであります。(2012年1月、新時代第55回本部幹部会へのメッセージ)
2022年8月2日
2022年
8月度座談会拝読御書
妙密上人御消息
御書新版1711ページ12行目~15行目
御書全集1241ページ2行目~5行目
「一人立つ」信心で新たな歴史を築く
拝読御文
日本国の中にただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり。二人・三人・十人・百人、一国・二国、六十六箇国、すでに島二つにも及びぬらん。今は謗ぜし人々も唱え給うらん。また上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品のごとく、一同に南無妙法蓮華経と唱え給うこともやあらんずらん。
創価の誇りを胸に
「須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露」との譬えからは、日蓮大聖人が、末法の一切衆生を救いゆく、法華経の題目を弘める“最初の一人”となられた誇りと御確信を拝することができます。
そして現実に2人、3人と伝え広げ、当時の日本全国に妙法を弘通され、今日まで続く、世界広布の流れを開かれたのです。
創価学会は、この大聖人の妙法流布の御遺命と、“一人立つ誇り”を継承し、三代の会長と共に、あらゆる障魔に打ち勝ってきたのです。
草創期には、“貧乏人と病人の団体”と悪口されることもありました。そんな世間の風評などに紛動されることなく、何があっても大聖人に連なる“創価の誇り”を胸に、信心の炎を燃やしてきたのです。
戸田先生はかつて、「今、威張っている人間が、しまったと思う時が広宣流布だよ」と語られました。
その言葉を現実のものとするため、学会員は、世間をあっと言わせるような勝利の姿を示してきました。“必ず幸せになってみせる”と一人立ち、懸命に題目を唱え抜きながら、岩盤に爪を立てるようにして幸福境涯を開き、広布を前進させてきたのです。
一人一人の宿命転換の実証が積み重なり、須弥山のような人材山脈が築かれ、“七つの海”に創価の連帯が広がったことは、仏法史上、未聞の快挙であるといえます。
下半期も“創価の誇り”を胸に、一人立ち、自分自身の新たな歴史を築いていきましょう。
真心は必ず伝わる
100人いれば、100通りの考え方があります。職場や地域において、時には意見が異なり、ぶつかることもあるでしょう。
その時、大切なことは、“あの人とは考え方が合わない”と決め付けないことです。そして、諦めずに対話を続けることではないでしょうか。
「あるいはののしられ、打たれ、あるいは傷を受け、あるいは流罪に二度遭い、死罪に一度定められた」(新1711・全1240、通解)――。日蓮大聖人は拝読御文の直前で、妙法流布に捧げられた二十数年間を振り返り、述懐されています。
それでも、大聖人は万人に具わる仏界の生命を信じ、大慈悲の御闘争を続けられます。その中で、「今は謗ぜし人々も唱え給うらん」とあるように、敵をも味方に変えながら、一人、また一人と正法に目覚めさせていったのです。
広宣流布といっても、「一対一の対話」から始まります。心を込めて語っても、相手から反発されることもあるでしょう。その時こそ、相手の幸福を祈り、粘り強く対話しつづけることが大切です。
池田先生は「信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で、笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」とつづっています。
一人から一人へ――今がどうあれ、相手を思う真心は、必ず伝わります。地道な対話によって、自他共の幸福境涯が開かれるのです。
<池田先生の指針>
“一対一”の伝統を継ぐ
「法」そのものは、無始無終の永遠の真理です。しかし、「法」を覚知した一人が立ち上がって伝え広めなければ、万人が「法」の利益に浴することは永久にあり得ません。
思えば、仏教の創始者である釈尊は、菩提樹の下で覚りを得た後、この法を説くべきか否かと逡巡しました。あまりにも未聞の法だからです。しかし、遂に決断し、民衆のために一人立ち、法を弘め始めました。「一人立つ精神」は、仏教の誕生から変わることのない、根幹であるといってよいでしょう。(中略)
全ての人には本来、仏性が具わっています。ですから、どこまでも堂々と、そして誠実に、この仏法の偉大さ、学会の素晴らしさを語り抜いていけばよい。仮に無理解からの非難があっても、やがては、相手の仏性が発動していくのです。(『わが「共戦の友」――各部の皆さんに贈る』)
◇ ◇ ◇
ある時、牧口先生は、座談会よりも講演会形式にしたほうがいいと語る青年に、鋭くこう語られました。「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」
また、戸田先生も、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話によって成し遂げられる」とよく語っていました。
私も同じ信条で、常に一対一の対話を重ねてきました。どこまでも大切なのは、一対一の人間味ある励ましと信心の触発です。この伝統が継承される限り、学会は永遠に発展していくことは間違いありません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻)
2022年7月5日
2022年
7月度座談会拝読御書
四条金吾殿御返事
(世雄御書)
御書新版 1590ページ14行目~15行目
御書全集 1169ページ8行目~9行目
信心を貫き通し 幸福勝利の人生に
拝読御文
日蓮は少きより今生のいのりなし。ただ仏にならんとおもうばかりなり。されども、殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。その故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。
大願に生き抜く
本抄が送られる直前の建治3年(1277年)6月、四条金吾は、周囲からの讒言や中傷を信じた、主君の江間氏から“法華経の信仰を捨てなければ、所領を没収する”と命じられました。
今回の拝読御文の直前で、日蓮大聖人は、門下が大弾圧を受けた時も、一歩も引かずに戦い続けた金吾に、あえて「以前よりも、百千万億倍、用心していきなさい」(新1590・全1169、通解)と、所領を惜しむのではなく、強盛な信心に立つように教えられています。
信心を貫き通すことで、ものごとの道理として、必ず勝利していくことができるからです。
「ただ仏にならんとおもうばかりなり」とは、どこまでも万人の成仏を願われた、大聖人の誓願です。
目先の毀誉褒貶にとらわれず、師と同じ広宣流布の大願に立つならば、自身の悩みや願いなど「今生のいのり」も全て包み込むように叶えていくことができる――。弟子である金吾のために、呼び掛けられていると拝することができます。
池田先生は「自身の宿命転換を願い、広宣流布の実現を祈って、身命を惜しまず戦うところに、必ず幸福勝利の人生を開くことができる。生涯、素直に信心を貫き通した人が勝利の人です。最後に勝つ人です。ここに信心の極意があります」とつづっています。
師の教えの通りに仏法の実践を貫いた金吾は、「仏法は勝負」と仰せの通り、主君からの信頼を回復し、新たな所領を得ることになるのです。
皆が“宝の存在”
どんな時も信じてくれる壮年部、女性部の同志が支えになった――。
未来部・青年部時代に、そういった経験をした学会員は、多いのではないでしょうか。
日蓮大聖人は本抄で、苦闘する四条金吾のことを“絶えず祈っている”と仰せです。何があっても弟子の勝利を信じ、祈ってくださる師匠の存在に、金吾はどれほど感動し、心強く思ったことか、計り知れません。
末法に妙法を弘め、一切衆生の成仏の道を開かれた大聖人は、万人の幸福を実現するという“仏の願い”をよみがえらせました。その大聖人のお心を拝していく時、仏法に縁するだれもが、「法華経の命を継ぐ人」であるといえます。
大聖人の御精神に連なる創価三代の師弟も、“だれもが宝の存在”と、眼前の一人を大切にし、世界中に地涌の連帯を広げてきました。どこまでも「一人」の可能性を信じ、励まし、見守り続けることが大切です。
真心を込めた祈りは、たとえ時間がかかったとしても、必ず伝わります。その思いに立ち上がった同志の体験は、枚挙にいとまがありません。
池田先生は「たとえ諸君が、自分なんかダメだと思っても、私はそう思わない。私は信じている。私は諸君を尊敬している。必ず、あなたにしかできない使命をもった人だと信じている」と語っています。
師の心をわが心とし、未来部・青年部をはじめとした後継の友が、“自分自身が宝の存在”と、希望の前進ができるよう、励ましを送っていきましょう。
<池田先生の指針>
妙法の「師弟の道」を
皆、今世に妙法の力を涌現して宿命転換し、幸福の大境涯を開いて、活躍する使命がある。皆、広宣流布の誓願のままに、悪世末法に生まれてきた地涌の菩薩である。その人でなければ果たせぬ尊極の使命があるのだ。
良き友人となり、温かく接し、見守っていくことだ。自らが受けた恩と励ましを何倍にも変え、後輩に注いでいくことだ。手作りで「法華経の命を継ぐ人」を育てていくのである。
学会員に尽くすことは、広宣流布に尽くすことであり、仏に尽くすことだ。
まず、自ら一人立て! そして人材を育て、人材と共に進みゆけ!
君が開きゆく勇敢な勝利劇の舞台にこそ、一人また一人と、頼もしき人材が陸続と躍り出てゆくのだ!(『随筆 我らの勝利の大道』)
◇ ◇ ◇
人生の勝負は、長い目で見なければ分からない。ましてや、仏法という永遠の次元から見れば、移ろいゆく、さまざまな評価など、どれも、はかないものである。
我らの広宣流布は、人類の幸福の大道を開きゆく永遠の大事業である。この広布に生き抜く創価の師弟こそ、永遠の栄光と福徳に包まれる、生命の大勝利者なのである。(中略)
一日一日、生まれ変わったように生きる。その人生には感傷もない。愚痴もない。堅実な一歩一歩が、必ず偉大な使命の人生となっていく。これが「創価の道」であり、妙法の「師弟の道」である。(2009年9月、新時代第32回本部幹部会でのスピーチ)
2022年5月31日
2022年
6月度座談会拝読御書
四条金吾殿御返事
(法華経兵法の事)
御書新版 1623ページ9行目~11行目
御書全集 1192ページ15行目~1193ページ2行目
大確信の題目が障魔を打ち破る
拝読御文
なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし。「諸余の怨敵は、みな摧滅す」の金言むなしかるべからず。兵法・剣形の大事もこの妙法より出でたり。ふかく信心をとり給え。あえて臆病にては叶うべからず候。
師弟一体の祈り
苦難や宿命の壁にぶつかった時、ともすれば、厳しい環境や状況を前に、打つ手なく立ちすくんでしまうことがあります。目の前の課題を解決しようと、小手先の“策”に走って、結局は右往左往してしまうこともあるでしょう。
“師匠がいるじゃないか!”“信心があるじゃないか!”――。学会員一人一人は、困難に立ち向かう途上で、たとえどんなに打ちのめされたとしても、師との誓い、信心の原点に立ち返り、何度でも立ち上がってきました。
そしてわが心を奮い立たせ、「法華経の兵法」で人生の艱難辛苦を勝ち越えてきたのです。
「法華経の兵法」とは、“必ずかなう”との、大確信の祈りといえます。わが生命に湧き上がる無限の力で、不信の心を破る、絶対勝利の信心のことです。
拝読御文の直前には、「ただ、心こそが大切なのである。どれほど日蓮があなたのことを祈ったとしても、あなた自身が不信であるならば、濡れた火口に火を付けるようなものである」(新1623・全1192、通解)と仰せです。
門下の勝利を祈り待ってくださる、大聖人の大慈悲のお心を拝すことができます。そして、“師と同じ祈り、同じ心で立ち上がれ!”との師子吼が胸に迫ります。
あらゆる障魔を打ち破る「法華経の兵法」は、大聖人と同じ心、つまり「広宣流布の大願」に立った時に、わが身に脈打ちます。その心で御本尊に向かう“師弟一体の祈り”こそが、“最強の兵法”となるのです。
勇気の信心貫く
日蓮大聖人が、“生きて帰ることは望めない”とされる佐渡流罪から御帰還された後、四条金吾は歓喜の決意に燃えて、主君である江間氏を折伏します。
しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者でした。当時の状況を考えると、金吾の実践がどれほど勇気のいることであったのかは、計り知れません。
金吾は主君から法華経の信仰を捨てるように迫られ、同僚からも迫害を受けるようになります。
それでも金吾は、決して屈することなく、大聖人の御指導通りの実践を、勇敢に貫いたのです。
その後、江間氏からの信頼を回復し、新たな領地を受けるまでになった金吾を、嫉妬に狂う敵が襲撃します。
命の危機を乗り切った金吾に送られたのが本抄です。
大聖人は、法華経薬王品の「諸余の怨敵は、みな摧滅す」との文を引用し、一切の魔を粉砕する、妙法の偉大な力を示されます。
“どこまでも勇気ある強盛な信心で、邪悪な勢力の襲撃を防ぐのだ”との仰せです。
広宣流布は、仏と魔との闘争です。心に隙があれば魔が付け入ってきます。勢いよく前進している時こそ、より一層深く祈り、油断を排していくことが肝要となります。
その上で、あらゆる大難を悠然と勝ち越えられた大聖人は、「臆病であっては、何事も叶わない」と仰せです。
何ものをも恐れない、勇気ある信心を貫いていくならば、必ず勝利の実証を示すことができるのです。
<池田先生の指針>
師匠と共に戦う弟子へ
広宣流布の師匠と心を合わせて、法華経の兵法で戦えば必ず勝てる! 勇気ある信心を貫けば、必ず正義を宣揚できる! 異体を同心とする善の団結を築けば、いかなる悪をも打ち破れる!
これが「絶対勝利の信心」の極意です。(中略)
全世界の皆さんが、和楽の道、幸福の道、栄光の道、健康の道、長寿の道、勝利の道を力強く歩んでいくことが、創価の三代の師弟の根本の誓願です。
創価学会は、永遠に師弟不二で絶対勝利の信心を貫き、凱歌の歴史を刻んでいくのです。(『創価学会 永遠の五指針』)
◇ ◇ ◇
どこまでも「師弟不二の心」で、「師弟一体の祈り」を貫き通していくことこそ、いかなる苦難や困難をも勝ち越えゆくための信心の要諦なのです。また、ここに「法華経の兵法」の肝要があります。
反対に、師弟の祈りが一致しなければ、真の力は出せません。(中略)
最初は“自分のための祈り”だったものが、そのまま“師と同じ誓願の祈り”へと発展していく。それは「師匠に守られる弟子」から、「師匠と共に戦う弟子」への一大転換劇ともいえるでしょう。
これは、「超越的絶対者に救済を求める宗教」とは異なります。「万人が民衆救済の慈悲(慈しみと同苦の仏の生命)の行動者」になるというのが、仏教の根幹の原理なのです。
「師弟」とは、目覚めた民衆の陣列を築く、師匠の「精神」と「行動」を共戦の弟子が継承していくことなのです。(『調和と希望の仏法――「人間の宗教」の時代へ』)
2022年5月1日
2022年
5月度座談会拝読御書
開目抄
御書新版 117ページ7行目~9行目
御書全集 234ページ7行目~9行目
仏性を呼び覚ます人間革命の劇を
拝読御文
『我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。』
苦難は“生命鍛錬”の好機
人生は、順風満帆な日ばかりではありません。宿命の嵐に遭った時には、“なぜ?”“自分にはどうすることもできない”と、疑いや諦めの心が生じることもあるかもしれません。
我ならびに我が弟子……。厳しい現実を前に、心が折れそうになった時。困難の壁を前に、信心の前進を止めてしまいそうになった時。多くの学会員が、自身の心を奮い立たせるように拝してきたのが、この御文です。
日蓮大聖人は、命に及ぶ大難を勝ち越え、末法の全民衆を救う妙法を弘められました。本抄には、諸天の加護を求めたり、難を避けたりするような生き方を突き抜けた、大聖人の、末法の御本仏としての大境涯がつづられています。
法華経の経文に照らせば、末法に正法を実践する人には、必ず三障四魔が競い起こります。その障魔に打ち勝つからこそ、自身の生命が鍛えられ、宿命転換していくことができるのです。つまり、法華経の行者にとって、苦難とは“避けるべきもの”ではなく、“生命鍛錬”の好機となるのです。
だからこそ、大聖人は門下に、いかなる難に遭ったとしても、妙法を信じ切っていくように呼び掛けられているのです。仏道修行を貫くならば、「自然に仏界にいたる」と仰せのように“誰でも”“必ず”仏の境涯を開くことができるとの御断言です。
学会員一人一人が、この一節を身で読んできました。何があっても朗らかに人間革命のドラマをつづる姿は、初夏の太陽のようにまばゆく、自他の仏性を呼び覚まします。
常に誓いに立ち返る
人生勝利の歩みを止めるのは、自分自身です。厳しい環境や、難しい境遇ではありません。自身の内に巣くう、不信や臆病の心によって人生を諦め、いつしか、自ら足を踏み出すことをやめてしまうのです。その根底には「元品の無明」があります。
「元品の無明」は、生命に対する根本的な迷いのことです。さまざまな形で法華経の行者の修行を阻み、責め立てる「第六天の魔王」の働きとなって現れるため、簡単に打ち破ることはできません。
御書には「元品の無明を対治する利剣は、信の一字なり」(新1047・全751)とつづられています。無明との戦いに打ち勝つには“信の利剣”が必要であるとの仰せです。
私たちに即していえば“必ず成仏の境涯を開く”“絶対に幸福になってみせる”という、強き一念といえます。
今回の拝読御書につづられている「約束せし事」とは、広布に挑む一念を合わせた“師弟共戦の誓い”と拝することができます。
その師との誓いを忘れてしまった時、無明に生命を侵され「つたなき者」となってしまうのです。
どんな人にも“無明の闇”は生じます。それを払うには、常に“師弟共戦の誓い”に立ち返り、広布への一念を、より深く強くしていくことです。その繰り返しが、自身に具わる仏界の生命を必ず輝かせていくのです。
師と共に生きる喜びを胸に、同志と励まし合いながら、きょうも心新たに前進を開始していきましょう。
<池田先生の指針>
不退の信心を貫く
「我並びに我が弟子」「自然に仏界にいたるべし」(全234・新117)と言われているように、大聖人の生命に本来的に具わる元初の仏の境涯は、私たち一人一人にも具わっているのです。
しかし、衆生は、自身の生命を覆っている迷いや苦悩にとらわれている限り、奥底の仏の境涯に気づくことができないのです。
そこで大聖人は、御自身のお姿、お振る舞いや御教示を通し、また、門下と対話するように手紙を書き続け、一人一人が御自身と同じ仏の境涯を開いていけるように激励を重ねてくださっています。
それは、門下が師子王の心を取り出して、どこまでも不退の信心を貫いた時に、本来自身が持っていた仏と同じ智慧と勇気と慈悲の大境涯を現していけるということです。(2021年9月号「大白蓮華」〈世界を照らす太陽の仏法〉)
◇ ◇ ◇
自分の仏性を信じ、人々の仏性をも信じて行動し抜いていく。
このような精神革命の時代を築いていくこと自体が、実は、広宣流布にほかなりません。私たちは、その偉大なる人類の宿命転換に率先して戦っているのです。
学会員は、自他共の幸福を目指して、広宣流布への「信心」を貫きます。大聖人が仰せのままの「信心の二字」「信の一字」です。(中略)
学会員の「信」には、大いなる真理に生きる智慧、不幸を根絶しようと戦う勇気、そして、“万人が皆、仏なり”との確信に満ちた慈悲が備わっています。永遠の幸福境涯を開いていく「信」が確立されているのです。(『信仰の基本「信行学」』)
2022年4月3日
2022年
4月度座談会拝読御書
四菩薩造立抄
御書新版 1341ページ3行目~4行目
御書全集 989ページ11行目~12行目
諸天を動かす師弟不二の信心
拝 読 御 文
『総じて、日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮がごとくにし候え。さだにも候わば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。』
◆求道の心を燃やす◆
本抄を与えられた富木常忍は、日蓮大聖人が建長5年(1253年)に立宗宣言をされて間もないころに入信したとされています。その後、門下の中核として活躍し、大聖人から、「観心本尊抄」をはじめ、30編以上の御書を頂きました。
本抄では、常忍が住む下総国(現在の千葉県北部などの地域)の門下の一部が、大聖人と異なる、自分勝手な教義を唱えていることを、厳しく戒められています。
慢心を起こし、大聖人の教えに背く己義を弘めれば、人々を惑わすことになります。それでは、自身も他人も、共に「無間大城に堕つ」(新1341・全989)ことになってしまうと仰せです。
だからこそ、拝読御文で大聖人は、「日蓮がごとくにし候え」と教えられています。長年にわたって師匠と共に広布に歩んで来た常忍に、あえて“師のごとく”と、信仰の根幹を教えられているのです。
“師弟不二の信心に立ち返れ”――。信頼を寄せる常忍だからこそ、誰よりも師匠の教えを貫き、周囲の門下の模範となるよう教えられていると拝されます。
私たちに即していえば、どれだけ広布に励んできたとしても、師匠を求める心を忘れてしまっては、正しい信仰は貫けません。また、“こういうことだろう”“もうこれくらいでいいだろう”という慢心があれば、信心が破られてしまいます。
“師匠ならばどうされるか”と、常に求道心を燃やし続ける師弟不二の実践の中に、行き詰まることのない、人間革命の前進があるのです。
◆味方に変える祈り◆
拝読御文の後半では、釈尊や多宝如来、十方の分身仏と並んで、諸天善神である十羅刹女までもが、日蓮門下を守るとつづられています。
諸天善神とは、正法を受持する人とその国土を守護する、種々の働きのことです。
十羅刹女は、法華経の陀羅尼品で、鬼子母神をはじめ、多くの鬼神たちと共に、法華経の行者を守護する誓いを立てています。ゆえに、真剣に広布に励む人は、必ず諸天に守護されます。
それは、強盛な信心の一念に諸天善神が感応し、人々を守護する働きとなって現れるからです。大切なことは、自分自身が広宣流布に戦っているかどうかです。
他の御書でも、「神の護ると申すも、人の心つよきによるとみえて候」(新1608・全1186)と仰せの通りです。
そのことを、日蓮大聖人は命にも及ぶ数々の大難を勝ち越えることで、厳然と示されたのです。
“我がごとく戦いゆけば、いかなる難に遭っても必ず諸天の加護がある”――。
本抄からは、門下への慈愛あふれる、日蓮大聖人の御確信が拝されます。
池田先生は記しています。
「師弟共戦の友は、『至誠天に通ず』の如く、あらゆる諸天を動かし、たとえ悪鬼魔民たりとも味方に付ける祈りで、見事な勝利劇を飾ってきた」
いよいよ春本番。一切を味方に変える強盛な題目を唱え抜きながら、自他共の幸福の花を咲かせゆく、立正安国の対話に、心軽やかに打って出ましょう。
<池田先生の指針>
大聖人がごとく大願に生き抜く
「日蓮が如く」との仰せを違えず、創価の三代は「不惜身命」「死身弘法」の決心で、「三類の強敵」「三障四魔」との大闘争を勝ち越え、「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の大難を乗り越えてきた。だからこそ、釈迦・多宝・十方の諸仏の守護も厳然と現れたのである。無量無辺の諸天善神も、じっとしてなどいられない、創価の師弟の如説修行の戦いであったのだ。(中略)
この崇高なる師弟に、学会の世界的発展の原点がある。「師弟不二」であれば、打ち破れない「壁」などない。「師弟不二」に徹しぬいていけば、今の何倍も、学会は発展していくことができる。(2006年10月、創立記念日祝賀協議会でのスピーチ)
◇ ◇ ◇
妙法弘通にあたって大聖人は、妙法を言葉や理論のみで“教えた”のではなく、妙法を確信し体現する御自身の姿、お振る舞いを通して“示された”のです。大聖人御自身の戦いの姿を離れて、仏法はありません。
したがって私たちが仏法を会得するためには、「日蓮がごとく」という実践が重要となります。どこまでも、妙法をわが身に体現し、生き抜かれた師匠の姿を通し、今度は、師匠の戦いの通りに自ら戦い、自身に体していく以外にないのです。すなわち師弟の脈動の中にこそ、仏法の真実の継承があるのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第9巻)
◇ ◇ ◇
「大聖人の如く、広宣流布の大願に生き抜く」――これが、五月三日を貫く我らの誓いである。(中略)
信心の根本は、どこまでいっても「自行化他」の行動である。慈悲の心をもって、折伏精神に燃え、友のもとへと足を運び、仏縁を結ぶことが、最も時に適った仏道修行なのである。
尊き同志が、生き生きと広宣流布のため、立正安国のため、東奔西走しゆくなかで、五月三日を祝賀してくださる。この姿こそ、戸田先生が何より喜んでおられるに違いない。(『随筆 希望の大道』)
2022年3月1日
2022年
3月度座談会拝読御書
妙一尼御前御消息
御書新版1696ページ1行目~3行目
御書全集1253ページ16行目~17行目
希望を胸に蘇生の活路開く
拝 読 御 文
『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを。経文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」ととかれて候。』
◆不屈の挑戦の人に◆
『日蓮大聖人御書全集 新版』の「序」に、池田先生は「どんなに厳しい『生老病死』の苦に直面しても、御書に触れれば、『胸中の肉団』から元初の太陽が赫々と昇り、『冬は必ず春となる』との希望の指針のままに、『常楽我浄』へ蘇生の活路を開きゆけるのだ」と寄せています。
草創以来、多くの学会員が「冬は必ず春となる」との一節を胸に刻み、“蘇生のドラマ”をつづってきました。
本抄を与えられた妙一尼は、信仰ゆえの弾圧にも屈せず、夫と共に信心に励んでいました。そんな妙一尼に、悲しみが訪れます。夫は、大聖人が佐渡流罪から赦免されたのを知る前に、亡くなってしまったのです。
頼みの夫に先立たれ、幼い病気の子らを抱え、生活も楽ではなかったと思われます。「生老病死」の苦に直面しても、妙一尼は、師への求道心を燃やして佐渡や身延へと従者を送り、純粋な信心を貫いていました。
大聖人は、試練に立ち向かう妙一尼に、亡き夫の成仏は間違いないとの確信と希望の励ましを送られたのです。
桜の花芽は夏に形成され、秋に休眠します。この花芽は、冬の寒さに鍛えられるように低温が刺激となって目覚め、成長が促されるといいます。
苦難の底にいる時は、先の見えない苦しさを感じるかもしれません。しかし、桜の花芽が厳寒の季節に成長を開始するように、人生の冬の時にこそ、信仰を深め、生命を強く鍛え上げることができます。
不屈の挑戦の人に“人間革命の春”が訪れるのです。
◆全ての友に仏縁を◆
拝読御文にある「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」とは、法華経方便品第2の文です。この文は、本抄だけでなく、他にもいくつかの御書で、門下への励ましとして記されています。
“もし法を聞くことがあれば、一人として成仏しない人はいない”との一節からは、法華経の功力の偉大さとともに、“一切衆生を必ず成仏させる”との、仏の熱願が伝わってきます。
大聖人は、この仏の大願を実現するため、末法の全民衆を救いゆく、「南無妙法蓮華経」の題目を確立されました。その大慈悲の御精神で、時の権力者にも、真正面から仏法を説き、あらゆる大難を悠然と見下ろされながら、万人の成仏を開きゆく偉大な御生涯を歩まれたのです。
この大聖人の御精神に連なり、人々に等しく具わる仏性を呼び覚ましていくのが、広宣流布の実践です。
私たちは、日々の生活の中で、多くの人と出会います。その全ての人に幸福の種を植える対話に挑んできたからこそ、創価の連帯は世界中に広がったのです。
池田先生は「ともすれば一度ぐらい話をしただけで、“あの人はだめだ”“この人は無理だ”と思い込んでしまう。でも、人の心は刻々と変わる。いや、執念の対話で、断じて変えていくんです」とつづっています。
一人も残らず成仏を開くことができる――真心は必ず伝わります。心軽やかに、関わる全ての人に仏縁を広げていきましょう。
<池田先生の指針>
“冬”は、すばらしい“春”のための充電と鍛えの時である。その時にこそ、永遠に崩れぬ「成仏」へのエネルギーは蓄えられ、宇宙大の広がりを秘めた生命活動の力が培われていく。
しかも、そのエネルギーは、難にあえばあうほど大きさを増す。そして、正しき法にのっとった人は、だれもが必ず“春の時”を迎えることができる。
しかし逆に、“冬”のたいへんな時に、信心の向上のための世界から逃げたり、疑ったりして、十分に力と福運を蓄えておかなければ、すべてが中途半端となってしまう。ましてや「満足」の人生を、送ることはできない。
“冬”の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る“春”を確信し、どう深く生きるかである。時いたれば、自然界には花咲く春が間違いなく訪れる。それが生命と宇宙のリズムである。(中略)
正しき信仰とは“永遠の幸福の翼”である。苦難を乗り越えるたびに福運を積み、境涯を高めていける。今世において一生成仏すれば、三世永遠に「所願満足」の生命の“大空”を悠々と羽ばたいていくことができる。これが仏法の法理であり、生命のリズムなのである。(池田大作先生の指導選集〈上〉『幸福への指針』)
◇ ◇ ◇
一字一句でも耳にした人は一人も残らず成仏に至る――これが法華経の偉大な力だ。
妙法を聞いた人が、すぐに発心しなくても、決して落胆することはない。妙法を語れば、必ず仏縁は結ばれ、相手の生命の仏性は、既に揺り動かされているからだ。
私たちが対話した分だけ、幸と希望のスクラムは大きく広がる。さあ、勇気凜々と行動を! 楽しく朗らかに!(聖教新聞2017・2・2付、「御書と歩む 池田先生が贈る指針」)
2022年2月1日
2022年
2月度座談会拝読御書
一生成仏抄
御書新版 317ページ12行目~17行目
御書全集 384ページ2行目~5行目
不退の信心貫き 幸福境涯を築く
拝 読 御 文
『衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。』
◆一念を転換する祈り◆
いかなる迷いの生命も、苦悩に満ちた環境も、自らの一念の転換によって、希望の方向へ、幸福の方向へと必ず変えていくことができる――その根幹が、南無妙法蓮華経の「唱題行」です。
拝読御文の直前で日蓮大聖人は、仏の住む国土である「浄土」といっても、苦悩が充満する「穢土」といっても、別々の国土があるわけではなく、そこに住む私たちの「心の善悪」によって、違いが現れると仰せです。同様に、「衆生(凡夫)」と「仏」も別々の存在ではなく、生命状態が、「迷い」であるか、「悟り」であるかの違いであると示されます。
その例えとして、拝読御文では「鏡」を挙げられています。曇っている鏡でも、よくものを映す鏡でも、鏡であることには変わりません。「これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし」と仰せのように、私たちは南無妙法蓮華経の唱題行を実践することで、無明に覆われた生命を磨き、本来具わっている悟りの生命を顕していくことができるのです。
そもそも、法華経以前の爾前経では、九界の迷いの生命を断じ尽くさなければ、成仏はできないとされていました。一方、法華経では、万人に等しく仏性が具わっていることが説かれ、凡夫がその身のままで、今世において成仏できるという、一生成仏の法理が明かされています。
成仏とは、自らの内に仏の生命を開くことです。
唱題行の実践を貫く中に、絶対的な幸福境涯を築く道はあるのです。
◆たゆまず題目を◆
本抄では、「唱題行」の姿勢として、「深く信心を発して」「日夜朝暮にまた懈らず」との二つの要点が示されています。すなわち、日蓮仏法においては、どこまでも“強盛な信心”を奮い起こすこと、そして“持続の信心”を貫くことが、成仏の何よりの肝要です。
とはいえ、日頃から信心に励んでいたとしても、時に思いもよらない試練に直面して、“自分には無理だ”と諦めて無気力に陥ることや、“信心しているのに、なぜ?”と葛藤することもあるでしょう。
大聖人は「月々日々につより給え。すこしもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」(新1620・全1190)と仰せです。広布も人生も、一日一日が、成仏を妨げようとする障魔との絶えざる戦いと言えます。
大事なことは、困難の時こそ、勇気を出して御本尊の前に座り、真剣に題目を唱えることです。そうすることで、「試練は宿命転換の好機」との確信が深まり、不退の心で困難に立ち向かい、乗り越えていけます。そして必ず、幸福をつかんでいくことができるのです。
池田先生は語っています。
「題目は『前進』の力です。題目は『勝利』の力です。あらゆる戦いは、まず祈ることから始まります。題目を唱えぬいた人には、誰もかないません」
栄光の人生を築く一切の原動力は、強盛な祈りである――。そう確信して、いかなる時も、たゆまず題目を唱えながら、日々、朗らかに前進していきましょう。
<池田先生の指針>
日蓮大聖人の仏法の唱題行は、自身の生命変革をもたらす最高の仏道修行です。また、題目を唱えることは、自身の仏の生命を呼び覚ますことです。唱題こそが仏界涌現の直道です。
涌現された仏の智慧と慈悲の生命は、自身の生命境涯を豊かにし、自他ともの幸福を実現していく。さらに、自行化他の唱題が広がっていけば、仏の慈悲の生命に彩られた民衆の連帯が可能になり、人類の宿命をも転換していけるのです。
◇ ◇ ◇
「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生ききるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、“いかなる苦難も乗り越えていける”“断じて幸福を勝ち取っていくことができる”との大確信で、すべてに向かって勇敢に挑戦していくことです。
「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現していけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があります。(中略)
どのような障魔が競い起こっても、一歩も退かない。驚かない。何事にも打ち勝っていけるのが、妙法蓮華経です。それを深く確信することが大事なのです。
(『池田大作全集』第34巻「『一生成仏抄』講義」)