御書講義

2023年10月3日

2023年10月度

「御書講義」の参考

 

報恩抄

 

御書新版261ページ7行目~16行目

御書全集329ページ1行目~9行目

不惜身命の心で妙法弘通へ前進

 

 10月度「御書講義」の拝読御書は「報恩抄」。範囲は「例せば、風に随って波の大小あり……『我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等にその便りを得しむることなかれ』等云々」(御書新版261ページ7行目~16行目、御書全集329ページ1行目~9行目)です。ここでは学習の参考として、本抄の背景と大意、また、拝読範囲の理解を深める解説を掲載します。「大白蓮華」10月号とともにご活用ください。(御書講義の映像は今月10日から31日まで配信予定。「SOKAnet会員サポート」のほか、会館や個人会場、「モバイルSTB」〈インターネットを通してダウンロードが必要〉で視聴できます)

 

背景と大意

 本抄は建治2年(1276年)7月、日蓮大聖人が55歳の時、身延で御述作されました。安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺で仏教を学ばれた時の師である道善房の死去の知らせを受け、追善供養のために認められた御書で、修学時代の兄弟子であり、後に大聖人に帰依した浄顕房と義浄房(義城房)のもとに送られています。

 題号の「報恩」について、大聖人は、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩という、四恩の報恩謝徳を説かれました。「四恩抄」などでは仏教の四恩として、一切衆生・父母・国王・三宝が挙げられていますが、本抄で四恩の中に、「師匠の恩」を入れられているところに、深い意義を拝することができます。

 本抄では、まず、最高の人間の道は「恩に報いること」であり、仏法によって恩ある人を救っていくことが、真の報恩になることを示されます。

 続いて、日本の各宗の教義を検討・破折し、一代聖教に照らして、法華経こそが最も勝れた経典であり、その法華経の肝心が南無妙法蓮華経であることを明かされます。

 とりわけ、亡国の悪法である真言の邪義を厳しく破折し、日本天台宗の座主でありながら、真言に染まった慈覚・智証を強く糾弾されました。

 さらに、大聖人がただ一人立ち上がり、不惜身命で唱える三大秘法の南無妙法蓮華経は、大聖人の広大な慈悲によって未来永遠に流布し、一切衆生を救う大法であることを宣言されます。そして、妙法弘通の功徳の全てが、旧師・道善房に集まっていくと仰せになり、本抄を結ばれています。

 

日蓮が慈悲曠大

創価の同志に脈打つ精神

 南無妙法蓮華経が未来永遠に流布していくことは間違いない――日蓮大聖人は本抄で、その御確信を示されるに当たり、「日蓮が慈悲曠大ならば」と仰せです。

 この御文の直前では、「源遠ければ流れながし」との天台大師の言葉を引いて、“物事の成否は根本の源流の確かさや深さによって決まる”という「源遠流長」の原理を示されています。

 まさに、一切衆生の苦しみをわが苦しみとし、不惜身命で民衆救済の大法を弘通された大聖人の慈悲が広大であり、無量無辺であるからこそ、南無妙法蓮華経は未来永遠にわたって流布していくことを宣言されているのです。

 そして、大聖人は、妙法を弘める功徳は、伝教大師や天台大師、竜樹、迦葉といった正法・像法時代の正師よりも優れていると仰せになりました。

 伝教大師と天台大師は、それぞれ日本と中国において、仏の教えが形骸化する像法時代に法華経を宣揚した人物です。

 また、竜樹は八宗の祖師といわれる大乗の論師であり、迦葉は釈迦の十大弟子の一人で、ともにインドで仏教を弘めた正法時代の正師です。

 大聖人以前にも、さまざまな仏の教えが残されていますが、それらは衆生の機根や救える衆生の範囲、時代の状況などについて制約を免れることができず、正法・像法時代を経て、人々を救済する力が失われる時代(末法)になると功力はなくなります。

 しかし、大聖人が弘められた南無妙法蓮華経は、永遠不変の大法であり、宇宙と生命を貫く根源の法です。ゆえに、末法万年を超えて、いかなる時代になっても、一切衆生を救っていく偉大な力が失われることはありません。

 だからこそ、大聖人は、「正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」と仰せになり、正像の教えを長きにわたって修行する功徳よりも、妙法をわずかでも実践する功徳の方が、はるかに大きいことを教えられています。

 本年、完成10周年を迎える広宣流布大誓堂に設置されている「広宣流布 誓願の碑」には、本抄の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」との一節が刻まれています。

 苦悩の友に寄り添い、同苦し、自他共の幸福のために勇んで行動する。喜々として献身の労をいとわない創価の同志にこそ、「慈悲曠大」なる仏の慈悲の精神は脈動しています。

 まさしく今、末法の現実社会において妙法を唱え弘めながら、「未来までもながるべし」との仰せを事実の上で証明しているのは、創価の三代会長に連なる地涌の同志をおいてほかにないのです。

 

「時」にかなった実践

太陽の仏法の大光を世界へ

 日蓮大聖人の御在世当時は、世相の乱れも相まって、誰もが「末法悪世」を感じていました。厭世観がまん延し、諦めや絶望が人々の心を覆っていたのです。

 これに対して、“末法だからこそ”最も力のある大法が出現する時であると立ち上がり、民衆の幸福を願う大慈悲によって、万人成仏の種子である南無妙法蓮華経をあらわされたのが大聖人です。

 “時がそうさせるのである”。まさに、末法という混迷の「時」をあえて選び、妙法流布の時は「今」なのだと命懸けで民衆救済の大闘争に一人立たれた、大聖人のやむにやまれぬ大情熱が胸に迫ります。

 御聖訓には「今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、ただ南無妙法蓮華経なるべし」(新1874・全1546)とあります。

 本抄で大聖人は、季節の移ろいに応じて変化が生じる自然界の摂理を通して、末法においては、あらゆる人々を直ちに成仏へと導く下種の大法こそが、最も時にかなった教えであることを示されました。

 時代の闇が深ければ深いほど、いよいよ、絶望を打ち破る太陽の仏法が興隆する時である――今や世界192カ国・地域に広がった創価のスクラムも、その淵源には、「今こそ立ち上がる時」と戦いを起こした、一人立つ地涌の勇者がいます。

 なかんずく、末法広布の「時」を現代において切り開いたのが、創価三代の師弟です。

 御書に「法自ずから弘まらず、人法を弘むるが故に、人法ともに尊し」(新2200・全856)とある通り、使命を自覚して「法」を弘める「人」がいてこそ、世界広布の「時」は創られます。

 目覚めた一人から次の一人へ、またその先の一人へ。自他共の仏性を呼び覚ます対話を広げていく先に、生命尊厳の慈悲の哲理が光る真の「人間主義の時代」が到来します。

 拝読御文の最後に、大聖人は、「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等にその便りを得しむることなかれ」との法華経薬王品の一節を引用されました。

 「第五の五百歳」の悪世末法において、全世界に妙法を弘通することは仏の御遺命です。

 学会創立100周年となる2030年へ――。

 私たちは、全人類を幸福に導き、世界広布の大道を永遠に開くという仏意仏勅の使命を胸に、いかなる試練にも屈することなく大前進していこうではありませんか。


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2023年5月7日

2023年5月度

「御書講義」の参考

 

法華証明抄

 

御書新版1931ページ2行目~15行目

御書全集1586ページ12行目~1587ページ8行目

 

何ものをも恐れぬ大確信で

 

背景と大意

 

 本抄は弘安5年(1282年)2月28日、日蓮大聖人が61歳の時に身延で著され、駿河国(静岡県中央部)の門下・南条時光に与えられたお手紙です。

 当時、時光は24歳。「熱原の法難」の頂点から3年後、迫害の矢面に立って同志を守り、強盛な信心を貫いてきた時光は、そうした心身の労苦から、命にも及ぶ重病を患いました。

 その報告を聞かれた大聖人御自身も、病を患っていましたが、自ら筆を執って、愛弟子を大激励されます。

 大聖人はまず、本抄の冒頭で、末法において法華経を信受し実践する人が、いかに大善根を積んだ人であるかを示され、病床に伏す時光に勇気と希望を送られます。

 続いて、悪世末法に信心を貫くことの困難さを確認された上で、時光が両親の純真な信心を受け継ぎ、障魔との戦いの中にあっても不屈の信心を貫いてきたことを称賛されます。

 そして、その強盛な信心によって成仏は間違いないからこそ、天魔や外道が病を起こし、時光の信心を脅そうと試みているのだと示されます。

 最後に、時光を苦しめる鬼神を厳しく呵責されるとともに、時光に対しては「法華経の行者」としての、何ものをも恐れない大確信を教えられています。

 

過去の宿縁深厚

いかなる宿命も使命に

 本抄の前半で日蓮大聖人は、末法に法華経を信じる者が、過去世からの仏法との宿縁がいかに深厚であるかを示されます。

 法華経法師品では、過去に十万億の仏を供養した人が、願って末代悪世に生まれてくることが説かれており、本抄では、そのことを釈迦・多宝・三世十方の諸仏が証明していると強調されています。

 その上で、大聖人は「いかなる過去の宿習にてかかる身とは生まるらんと悦びまいらせ候」と仰せです。苦悩が渦巻く末法において、法華経を持つことができる福運は計り知れません。

 その歓喜と確信のままに妙法を実践するならば、あらゆる苦難を乗り越えて、成仏という絶対的幸福境涯を開いていけるのです。

 また、悪世に生まれて苦労することは、過去世に謗法、すなわち法華経への誹謗があったからであると明かされます。しかし、福徳があるゆえに、今世で正法に巡りあい、最後は法華経の力によって成仏できると断言されています。

 これについて大聖人は、妙楽大師の『法華文句記』の文を踏まえ、大地に倒れた者は、かえってその大地から立ち上がることができるという原理を示されました。

 これは、たとえ法華経への誹謗によって悪道等に堕ちたとしても、法華経との縁が結ばれ、その法華経を実践することで必ず救われることを譬えたものです。

 法華経の題目には、ありとあらゆる衆生を成仏に導く「変毒為薬」「転重軽受」の力があります。日蓮仏法は、いかなる宿命も使命に変えていける希望の哲理にほかなりません。

 

「捨つる心なく」

勇気を奮い起こして挑む

 時光の病気の理由について、大聖人は本抄で“時光がもはや成仏しそうになったので”と洞察されました。

 この前段で大聖人は、殺生をなりわいとする武士の家に生まれた時光であっても、「心は善人なり」と、大聖人を外護し、妙法流布に懸ける純粋な信心を称賛されています。

 どれほどの困難に直面しても、「捨つる心なく」信心を貫き通したからこそ、時光が成仏の軌道に乗っていることは間違いありません。それゆえに大聖人は、時光の成仏を妨げようとする魔の働きとして、今回の病が生じたのだと教えられているのです。

 他の御書で大聖人は、「行解既に勤めぬれば、三障四魔、紛然として競い起こる」(新1235・全916等)との天台大師の言葉を引用されています。行学の実践に励むゆえに、信心を妨げる障魔が競い起こることは、仏法に照らして必然です。

 人生の試練に直面した時というのは、実は、自分自身の信心が試されている時でもあります。

 ゆえに、そうした時こそ勇気を奮い起こし、信心根本の決定した一念で挑んでいくことです。

 大聖人は「すこしもおどろくことなかれ」と仰せです。“妙法によって打開できない苦難などない”との大確信が胸に迫ります。

 何があっても恐れず、不退の信心を貫くことによって、全てを乗り越え、わが境涯を開き、一生成仏を果たすことができます。そこに、今世だけでなく、三世永遠にわたる幸福境涯も築かれるのです。

 

病魔に打ち勝つ

師弟不二の強盛な信心を

 “鬼神どもよ、わが弟子を悩ますとは何事か!”――病床の時光を何としても奮い立たせようと、大聖人は本抄で、天魔・外道を烈火のごとく呵責されています。

 「鬼神」とは、超人的な働きをするものです。御書には「鬼神に二つあり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す」(新2091・全1246)とあり、仏道修行者を守護する働きと、生命をむしばむ働きに大別されます。

 もともと、大苦の餓鬼道の衆生である鬼神は、法華経を持つ人を守護することで、その苦悩の境涯を脱することができます。

 ゆえに大聖人は、本抄で、悪鬼神に対して、「法華経の行者」の弟子である時光を苦しませることは、諸仏の「大怨敵」になると強く戒められます。そして、時光の病を速やかに治し、苦悩の境涯を脱していくよう厳しく命じられました。

 本抄を執筆された当時は、大聖人御自身も病と闘われているさなかでした。しかし、時光を心配された大聖人は、病を押して自ら筆を執り、命を削る思いで大激励されたのです。まさに、大切な門下を断じて病魔から守ろうとされる、気迫が伝わってきます。

 師匠の励ましに奮い立ち、病魔に打ち勝った時光は、その後、74歳で亡くなるまで半世紀もの間、広宣流布のために尽くすという偉大な人生を歩み抜きました。

 広布の師匠に心を合わせ、祈り抜く時、無限の勇気と力が湧き上がります。

 師弟不二の強盛な信心こそ、一切を勝ち開く要諦なのです。


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2023年2月5日

2023年2月度

「御書講義」の参考

 

日女御前御返事

(御本尊相貌抄)

 

御書新版2087ページ13行目~2088ページ8行目

御書全集1244ページ5行目~14行目

 

強き信心を貫き幸福境涯を開く

 

背景と大意

 本抄は、建治3年(1277年)8月、日蓮大聖人が56歳の時に身延で著され、女性門下の日女御前に送られたお手紙です。御本尊の相貌(様相・姿)等の深義が明かされていることから、別名を「御本尊相貌抄」といいます。

 日女御前についての詳細は明らかではありませんが、信心と教養の深い女性であったことがうかがわれます。

 当時は蒙古襲来(文永の役)後の混乱期で、社会は騒然としていました。そのような状況の中でも、純真な信心を貫いていた日女御前は、大聖人から御本尊を賜ったことへの感謝を込めて御供養をお届けしました。

 その真心への御返事である本抄で、大聖人は、末法における「法華弘通のはたじるし」(新2086・全1243)として御本尊を顕されたことを示されます。

 次いで、法華経に説かれる「虚空会の儀式」の姿を用いて顕された御本尊の相貌について詳述し、この御本尊を供養することが、いかに広大無辺の功徳となるかを示された上で、純真な信心を持続するよう教えられています。

 そして、この偉大な功力をもつ御本尊も、決して他の場所にあるのではなく、御本尊を信じる衆生の生命の中にあることを強調され、信心こそが成仏の要諦であることを御教示になっています。

 

九識心王真如の都

生命を根底から変革できる

 日蓮大聖人は本抄で、御本尊は、妙法を信じて題目を唱える私たちの「胸中の肉団」(新2088・全1244)、すなわち、生身の生命の中にあると明かされ、それを「九識心王真如の都」と示されました。この「九識」とは、生命が物事を認識する働きである「識」を9種に分けたうちの、第9識のことです。

 仏法では、生命の九つの認識作用を「九識論」として体系化しています。

 最も表層にあるのが、五官に基づく認識作用である眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識です。

 その五識による知覚を統括し、分別・判断したり、記憶したりする働きが第6識の意識です。日常生活は、ここまで見てきた第6識までの働きで営まれています。

 その奥にある、根底の自我意識が第7識の末那識です。さらに深層にあるのが、私たちの善悪の行い(業)を蓄積し、影響を及ぼす第8識の阿頼耶識です。

 そして、生命の最も奥底に、無垢識ともいわれる、清浄な仏の生命そのものである、第9識の阿摩羅識があります。この清浄無垢の生命を涌現することによって、第8識に刻まれた、さまざまな業を浄化し、転換していくことができます。

 この第9識が心の働きの中心なので「心王」といい、仏の覚りの真実と一体であるので「真如」といいます。「九識心王真如の都」とは、私たちの仏界の生命を表しています。

 御本尊に題目を唱える時、この第9識が顕現します。十界論でいえば、仏界が顕現するのです。

 それにより、あらゆる生命の働きを幸福の方向へと転じることができます。生命を根底から変革できることを示すのが、仏法の九識論です。

 池田先生は語っています。

 「妙法を唱え、広布に走る皆さま方自身の生命こそが、最も尊極な存在なのである。

 わが胸中にある、この仏の生命の都を、広々と、悠々と開き、輝きわたらせていくことである」(2003年12月、各部・海外代表協議会でのスピーチ、『池田大作全集』第95巻所収)

 今こそ、強き信心で“わが胸中の御本尊”を輝かせながら、「幸福は私たち自身の中にある」との希望の励ましを、縁する友へ広げていきましょう。

十界具足の御本尊

誰しもが極善の力を発揮

 御本尊の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められ、その周りに、釈迦・多宝の二仏をはじめ、十方の諸仏・菩薩から地獄界の衆生まで、十界の一つも欠けずに全てが納まっています。

 日蓮大聖人は、法華経の「虚空会の儀式」を用いて、仏としての御自身の生命を、そのまま御本尊として御図顕されたのです。十界の全てが具わっているので「十界具足の御本尊」といわれます。

 本抄では、御本尊に認められた十界のどの衆生も、全て妙法の光明に照らされて「本有の尊形」(新2087・全1243)を現していると述べられています。

 つまり、十界の全ての働きが、仏界の智慧と慈悲の光に包まれて、生命本来のありのままの尊い姿、極善の力を発揮しているということです。

 それはまた、正しい信心をもって御本尊を拝することで、誰しもが、妙法の当体として輝き、尊い姿を現していけるということでもあります。どのような状況にあったとしても、万人が「本有の尊形」として、使命の光彩を放っていけるのです。

 例えば、地獄のような苦悩の渦中にあっても、御本尊に祈ることで、困難な現実に勇んで立ち向かう生命力が湧き上がります。

 すなわち、仏の生命力によって、いかなる人生の試練も、さらなる幸福境涯を開くための跳躍台としていくことができます。信心によって、私たちは苦悩の意味を百八十度、転換できるのです。

 池田先生は語っています。

 「尊極な妙法の生命を引き出し確立するための御本尊であり、引き出すための信心です。

 まさに、御本尊の相貌は、法華経の諸法実相の法理に基づくものであり、凡夫がそのままの姿にして、仏の偉大な生命を開き顕せることを教えられています」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻)

 縁する全ての人の幸福を祈り、励ましの対話を広げながら、一人一人の極善の生命力を触発し、引き出していく――。創価の人間主義の、不断の歩みによって、今や全世界に、多彩な地涌の人華のスクラムが大きく広がっています。

 


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2022年10月9日

2022年10月度

「御書講義」の参考

 

 佐渡御書

 

御書新版 1287ページ8行目~1288ページ2行目

御書全集 958ページ8行目~16行目

宿命を使命に変える生き方を

 

 

 10月度「御書講義」の拝読御書は「佐渡御書」。範囲は「日蓮もまた、かくせめらるるも、先業なきにあらず……ひとえに、先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(御書新版1287ページ8行目~1288ページ2行目、御書全集958ページ8行目~16行目)です。ここでは学習の参考となる解説を掲載します。「大白蓮華」10月号とともにご活用ください。(御書講義の映像が、SOKAチャンネルVODの番組として11日から配信予定。VODが利用できる会館等やモバイルSTB、SOKAnet会員サポートで視聴できます〈10月31日まで〉)

 

其罪畢已

 日蓮大聖人は、拝読範囲の冒頭で、「日蓮がこのように迫害されるのも、過去世からの業がないわけではない」と、大難を受けられている因を示されます。

 その上で、迫害の意味を、法華経の常不軽菩薩品第20に説かれる「其罪畢已」との言葉を通して、教えられます。この経文は「過去の罪の報いを受け終わって」との意味です。「過去の罪」とは過去世に法華経を誹謗した罪であり、「其罪畢已」は、過去の罪を受け終わって不軽菩薩が得た功徳も表しています。

 “常に人を軽んじなかった菩薩”である不軽菩薩は、全ての人々を敬いながら、「あなた方は皆、菩薩道の修行をすれば、必ず仏になることができる」との言葉をかける礼拝行を貫きました。この言葉は、経文では漢字24文字でつづられていることから「二十四文字の法華経」といわれています。

 対して、増上慢の人々は、その言葉を信じようとせず、瓦や石を投げたり、杖や木などで不軽菩薩をたたきました。不軽菩薩は、それを避けて、遠く離れながらも、礼拝行を止めることなく、人々の仏性を信じて敬い続けたのです。

 その実践は、生まれるたびに続きました。そうして不軽菩薩は、多くの仏に会い、多くの人のために法華経を説くことで、過去の重罪を一切消し去って、功徳を成就し、仏に成ることができました。

 同様に、幾重もの大難に立ち向かわれた大聖人の御闘争は、不軽菩薩に連なる仏法の実践です。

 ここに、宿命を単に堪え忍ぶのではなく、幸福境涯を築くために、自身の宿命に立ち向かう力強い生き方が示されているのです。

 

凡夫成仏

 本抄で大聖人は、御自身の身分などについて「貧しく卑しい身分の者であり、旃陀羅(低い身分)の家の出身である」「体は人間に似ながら畜生の身である」とつづられ、自身は一人の人間――すなわち「凡夫」であることを強調して述べられています。

 むしろ大聖人は、そのような身を誉れとし、一切衆生を幸福へと導く大法を説き、末法の御本仏としての御境涯を顕されたのです。

 ここに日蓮仏法の根幹を成す「凡夫成仏」の法理が示されています。これは、凡夫が自身に本来そなわっている仏界を顕現させて成仏することです。その一生のうちに、その身のまま成仏することから「一生成仏」「即身成仏」ともいいます。

 法華経の教えは、この「凡夫成仏」を説いたという点で、それ以前に説かれた爾前経とは大きく異なります。

 爾前経では、煩悩を断ちきり、九界を離れることによって初めて成仏できると説かれます。九界の衆生と仏は断絶しており、仏を人間離れした特別な存在として捉えているのです。

 一方、法華経における成仏とは、自身の内に本来具わる仏の生命境涯、すなわち仏界を開くことです。

 十界の生命はそれぞれ十界の生命を互いに具している(十界互具)ので、煩悩に覆われた、いかなる迷いの境涯の衆生であっても、正法の実践によって成仏することができると説いています。

 大聖人は、御自身があくまで庶民の出身であることを強調することで、そこに連なる弟子も皆、偉大な境涯に至ることができる道を開かれたのです。

 

宿命転換

 佐渡流罪をはじめ、これまで多くの迫害に遭われてきたことを大聖人は本抄で、「過去世の業の重罪を今世で消し、後生の三悪道の苦しみを免れるためのもの」と仰せです。

 仏教では、過去世の行為が因となって今世に結果として現れ、同様に今世の行為が因となって未来世の結果を決定づけると説きます。自身の運命は自身の行いによって決まるのです。

 しかし、過去世の悪業の報いを今世で直ちに変革する方途がなければ、生死を繰り返しながら一つ一つの罪業を消滅させていくことしかできません。

 この従来の因果の法則を打ち破ったのが、大聖人の「宿命転換」の仏法です。

 大聖人は、万人を成仏へと導く法華経を信じず、誹謗することが、根本的な罪業であると明かしました。

 故に、法華経を信じ、守り広めていく正法の実践こそが、宿命を今世で転換する直道であると教えられたのです。その途上には、必ず難が競い起こります。その難は、過去世の重罪の報いを転じて軽く受けたもの(転重軽受)です。過去世からの罪業を一生のうちに軽く受け、転換できると教えているのです。

 その上で仏法では、菩薩が人を救うため、あえて宿業を背負い、願って悪世に生まれてくる「願兼於業」の法理も説かれます。

 池田先生は、この法理を「宿命を使命に変える」生き方であると教えています。大聖人が凡夫成仏の道を開かれたように、学会員一人一人が自らの宿命に立ち向かい、難を乗り越える姿はそのまま、苦悩に覆われた人々の希望になるからです。そうして励まされた人はまた、周囲の人々を励ます存在に変わっていきます。この励ましの連帯がより良い世界を築く原動力であることは間違いありません。

 宿命転換に挑む日蓮仏法の信仰によってこそ、限りない希望の未来が開かれていくのです。

 


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2022年2月20日

2022年2月度

一生成仏抄「御書講義」

 

仏とは広布に戦い続ける人

  

はじめに

 日蓮大聖人の仏法は、永遠に崩れることのない幸福境涯を築き、最高の人生を約束する希望の宗教です。

 私たちの信仰の根本的な目的は、成仏です。そして、日蓮仏法が明かす成仏観は、「一生成仏」にほかなりません。

 改めて、大聖人の仏法における「成仏」について確認します。成仏の「成」について、「御義口伝」には「『成』は開く義なり」(新1049・全753)とあります。つまり、成仏とは、自身の内に具わる仏の生命境涯、すなわち仏界を開くことです。

 法華経は、どんな人にも仏界が具わっていることを明かしています。そして、全ての人を成仏させようと、仏は願います。法華経には「若し法を聞くこと有らば 一りとして成仏せざること無けん」(法華経138ページ)とあります。

 一人も漏れることなく成仏するという意味です。現代的に表現すれば、誰一人として置き去りにすることはないということです。

 そのうえで、仏とは特別な存在ではありませんから、桜梅桃李のままに、それぞれの個性や、自分自身が本来もっている特質を生かしきって、自身を最も充実させていく生き方をすることが成仏となります。

 言い換えれば、成仏とは、生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮して、さまざまな困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。

 いつでも、どこでも、だれでも、内なる仏の境涯を開くことができるということです。私たちの実践でいえば、題目を唱えることで、自身の仏界が涌現するということです。

 それとともに、この仏界涌現を繰り返し、現実の人生の向上、社会の変革に不断に挑戦していくことが大切になります。

 成仏とは、到着点があるのではなく、妙法を受持して自他共の無明と戦いを続けていく境涯のことであり、間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏だといえる、ということです。この一生成仏の重要な法理と実践について明かされた御書が、今回学ぶ「一生成仏抄」です。

 夫れ、無始の生死を留めて、この度決定して無上菩提を証せんと思わば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経これなり。故に、妙法蓮華経と唱えたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。(御書新版316ページ1行目~3行目、御書全集383ページ1行目~2行目)

 

人類共通の願望

 本抄の冒頭は、一生成仏の根幹となる法理、すなわち、万人の生命に「妙理」(妙法)が具わっているという法理を明かして、その仏の生命をわが身に涌現することが成仏の本義であることが示されています。本抄の結論であり、日蓮仏法の本質が説かれている重要な一節です。

 ここでは、池田先生の『一生成仏抄講義』(『池田大作全集』第34巻所収)に沿って、御文を拝していきたいと思います。

 最初に「夫れ、無始の生死を留めて」とあります。先生は、この箇所は「人生の根本的な課題と宗教本来の役割が表現されています」と示されています。

 「無始の生死」とは、無限の過去から未来にわたって続く、永遠の生と死の果てしない繰り返しのことです。この連鎖からの解放を願うことは、人類に共通する願望です。

 「この度決定して無上菩提を証せんと思わば」と仰せです。この箇所は、仏教の大きな特徴が示されています。つまり、「無上菩提」、仏の最高の悟りを求めていくことが、仏教の目的ということになります。

 この一節に対して先生は、「宗教的な課題に対する仏教からの英知にあふれた回答です」と示されています。

 「無上菩提」の「無上」とは「この上ない、最高の」という意味です。「菩提」とは、「悟り」の意味であり、仏の悟りのことです。

 仏教は、一人の現実の人間が悟りを得ることによって、永遠の苦悩からの解放を目指したということです。根源的な永遠の「法」に目覚めるかどうかが、仏教の目的ということになります。

 

衆生本有の妙理

 それでは、この無上菩提を証する、得ようとするならば、どうすればよいか。それが、「すべからく衆生本有の妙理を観ずべし」との一節です。

 まさに、ここは仏教全般の中で、法華経の持つ特徴が示されている箇所です。先生は、仏教の立場を「法華経思想によって、さらに洗練・深化されたものです」と教えられています。

 「衆生本有の妙理」とは、あらゆる生命に本来的に具わっている妙理のことです。先取りしますが、この「妙理」が、南無妙法蓮華経になります。

 法華経は、それまでの爾前経に説かれている、仏と衆生との断絶を取り払った教えです。いうならば、それまでは、仏界と九界の間に断絶があった。

 成仏とは、“九界の生命を全部断じ尽くしていく”という考え方です。これでは凡夫成仏などありえません。仏とは、人間離れした特別な存在ということになります。これが爾前経です。

 ところが、法華経は万人成仏を説きます。爾前経で否定された悪人、女性、二乗が成仏できる経典です。その根拠が、「衆生本有の妙理」です。万人の中に仏の生命を見て、それを開いていく教えです。

 一切衆生、生きとし生けるものは、本来、妙理を具えています。そこで大事なのは、その妙理を「観ずる」こと。自分の中に妙理があると見ていくことです。

 ところが、この「観ずる」ための具体的な方法が説かれていません。そこで天台大師は、観念観法によって内なる仏界にたどり着く方法を説きます。しかし、これは、誰でも実践できるものではありません。

 まして、末法は、迷いや苦しみが充満している人たちが多い時代です。そこで、大聖人は、万人に開かれた修行を確立します。

 

成仏の根本原理

 「衆生本有の妙理とは、妙法蓮華経これなり」と仰せです。

 先生は「大聖人が開拓された道の第一歩は、妙理に名前を付けられたということです」と示されています。続けて先生は、「大聖人が開拓された大道の次の一歩が、『題目を唱える』という修行の確立です」と教えられています。

 御文で示せば「故に、妙法蓮華経と唱えたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」との一節です。

 唱題によって、自身の仏界が涌現する。この修行方法であれば、出家在家を問わず、また、老若男女誰人も実践することができます。

 今日の創価学会でいえば、民族、国境、文化の差を超えて、世界中でメンバーが題目を唱えて、その功徳の実証を示しています。まさに、世界中で24時間、途切れることなく題目が地球を包んでいる時代になりました。

 先生は、この一節をさらに「宗教的英知を万人が実践できるように大聖人が立てられた修行です。この実践化は、民衆救済を目指す大慈悲の結晶であり、日蓮仏法の深い革新性を示しています」とも示されています。

 まさしく、この一段は、私たちが実践している成仏の根本原理を説き明かしています。それとともに、日蓮仏法が、偉大な宗教革命を経て、万人が自身の生命の根本的な変革をもたらす最高の仏道修行を示すことによって、民衆仏法が完成したといえます。

 あらためて、私たちが日々実践している唱題こそが、仏界涌現の直道であり、一生成仏の根幹となるということです。

 

2022年2月20日森中教学部長「SOKAnet会員サポート」の講義から〉

 


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2022年2月22日

2022年2月度

一生成仏抄「御書講義」

 

自他共の幸福へ 胸中に仏界の太陽を

 

 文理真正の経王なれば、文字即実相なり、実相即妙法なり。ただ詮ずるところは、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく。故に、この経を「諸仏の智慧」とは云うなり。一心法界の旨とは、十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土、いずれも除かずちりも残らず一念の心に収めて、この一念の心、法界に遍満するを指して、万法とは云うなり。この理を覚知するを、一心法界とも云うなるべし。(御書新版316ページ4行目~7行目、御書全集383ページ3行目~6行目)

 

一心法界の法理

 この段は、一生成仏の原理の裏付けとして、一念三千の原理を通して説明されている箇所です。

 まず、法華経は「文理真正」(経文も、その経文が表そうとしている内実の真理も共に真実で正しい)という点において、諸経中の王であると述べられています。いわば、文証も理証も、はるかに優れている経典だということです。

 学会員は、ここにさらに「実証」を付けると思います。法華経の実証は、創価学会の実践に尽きるといっても過言ではありません。

 続いて、「ただ詮ずるところは、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく」と仰せです。

 ここは、一心法界の法理を説き表している教えを「妙法」ということが示されています。

 以下、諸仏の智慧である「一心法界の旨」を詳しく説明されていきます。

 すなわち、誰もが自身の胸中に偉大なる仏の生命を現せることを説き明かした原理が「一心法界の旨」です。

 この「一心法界」には、“一念の心に法界が収まり具わっていること”と、“この一念の心が法界に遍満していくこと”との両面があります。この具足と遍満の両面は、まさに、三千諸法が一念に収まり、一念から三千に遍満するという「具遍」の原理を示しています。

 そして、大聖人は「この理を覚知するを、一心法界とも云うなるべし」と結論されています。大事なことは、私たち自身も、また誰人も、本来、この一心法界の原理を覚知することができるということです。

 まさに「心こそ大切」です。全ては私たちの一念から出発します。

 私たちが妙法の当体である――それは、一つの真理です。しかし、私たちが信心を発すことによって、私たち自身が妙法の当体として輝いていく、現実に価値創造していくのが、仏法の精神です。

 ただし、妙法蓮華経と唱え持つというとも、もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず、麤法なり。麤法は今経にあらず。今経にあらざれば、方便なり、権門なり。方便・権門の教えならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に、一生成仏叶いがたし。(御書新版316ページ8行目~11行目、御書全集383ページ6行目~8行目)

 

内在する尊厳性

 ここからは、私たちが実践するに当たって、一番、心掛けなければならないことを教えられています。

 すなわち、ここまで述べてきた「一心法界」、一念三千の法理の結論として、“妙法蓮華経は自分自身のことである”という一点を絶対に忘れてはいけないことを強調されています。

 反対に、この一点を忘れてしまえば、いかに題目を唱えても日蓮仏法の唱題行とは、かけ離れたものになってしまいます。

 本抄では、今回の御文の後に、重ねて「すべて一代八万の聖教、三世十方の諸の仏菩薩も、我が心の外に有りとはゆめゆめ思うべからず」(新317・全383)と仰せです。

 いわば、「法」といっても、「仏菩薩」といっても、自身に内在していることを忘れてはならないということです。どこまでも、自身の内なる尊厳性に目覚めていくことが、一生成仏の修行の肝心となるのです。

 一切は、自分自身の変革から始まります。

 反対に言えば、いわゆる「おすがり信仰」は、日蓮大聖人の仏法にはないということです。

 よく私たちは、「一切を御本尊にお任せする」という言い方をします。しかし、学会指導の本質は、全て成すべきことを成し遂げる。あらゆる努力や挑戦を尽くす。病気であれば、医学を最大限に利用する。

 そのうえで、一切を任せるという考え方です。自分自身を生かすための、究極の自力と他力です。

 自力だけということも、他力だけということもありません。だからこそ、最も深い信仰実践だと思います。

 故に、妙法と唱え蓮華と読まん時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づくるぞと深く信心を発すべきなり。(御書新版316ページ11行目~12行目、御書全集383ページ8行目~9行目)

 

一念の変革から

 ここは、自身の可能性への目覚めが説かれている箇所です。

 南無妙法蓮華経の唱題には、無量無辺の功力があります。その力を出すのは、どこまでも自身の一念の変革から始まります。

 日蓮大聖人の仏法の究極は、「我が身即日蓮大聖人」、「我が身即御本尊」です。

 池田先生は、次のようにも指導されています。

 「南無妙法蓮華経と唱えれば、胸中に仏界の太陽が昇ります。厚い雲のように太陽を覆い隠していた無明が晴れていくのです。胸中に仏界の太陽が昇れば、無明の闇は去っていきます。

 日蓮仏法は、大聖人御一人が太陽であるという宗教ではありません。大聖人御自身が胸中に太陽を昇らせたように、私たちの胸中に太陽を昇らせるための宗教です」

 日々の勤行・唱題という、一生成仏の信心によって、胸中に太陽を昇らせながら、私たちは自他共の幸福の実現を目指していきたい。そのためにも、広宣流布を前進させゆく対話の実践に、力強く走り抜いていきたいと思います。

 

2022年2月22日〈森中教学部長「SOKAnet会員サポート」の講義から〉

 

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