2018年9月15日
第1524回
我らの「人間革命」の挑戦に
終わりはない
<余韻にひたらず、常に新たな前進を!>
今月八日、小説『新・人間革命』の新聞連載が、全三十巻をもって、完結の時を迎えた。
沖縄での前作の起稿からは、五十四年に及ぶ執筆となる。
「命の限り」と覚悟しての挑戦であったが、全同志の真心に包まれ「更賜寿命」の大功徳で、牧口常三郎先生、戸田先生にお誓いした世界広布の大前進の中、連載の区切りをつけることができた。
弟子として感慨は無量であり、感謝は言葉に尽くすことができない。
あの地震直後の北海道では、婦人部をはじめ、同志の祈りと関係者のご尽力で、最終回の載った八日付紙面が印刷・配布されたと伺った。
あらためて、陰に陽に支え続けてくださった、日本中、世界中の全ての皆様に心から御礼を申し上げたい。
ありがたくも、「連載が終わって寂しい」との声も多く頂いている。
しかし、師弟して歩む我らの「人間革命」の挑戦に終わりはない。
私は、可憐な鼓笛隊の演奏会で目に留めた光景を思い出す。それは、舞台の奥で真剣に打楽器を叩く乙女が、演奏の際、楽器にパッと手を添え、余韻が残らないように工夫していた姿である。
「余韻にひたらず、常に新たな前進を!」――日蓮仏法の真髄は「本因妙」だ。一つの「終幕」は、新たな戦いの「開幕」なのである。
まさに「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇ページ)である。
二十五年前、『新・人間革命』の執筆を始めた直後の九月、私はアメリカの名門ハーバード大学で、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して講演を行った。
そこで訴えた一点は、宗教をもつことが人間を
「強くするのか弱くするのか」
「善くするのか悪くするのか」
「賢くするのか愚かにするのか」――
この指標である。
変化の激流の中を生きることを運命づけられた人間が、より強く、より善く、より賢くなる――どこまでも成長していく原動力となってこそ、「人間のための宗教」なのである。そして、これこそが、我らの「人間革命の宗教」なのである。
この点、アメリカのデューイ協会元会長のガリソン博士も信頼の声を寄せてくださった。
“「人間革命」とは一人ひとりが、かけがえのない可能性を現実の中に開発し、社会全体に貢献していくのである。
ゆえに「人間革命」の理念を掲げるSGIは、「どこまでも成長する宗教」である”と。
誓願の旅は続く
『新・人間革命』に託した私の真情は、「戸田大学」で恩師から一対一の薫陶を受けたように、日本中、世界中の青年たちと、この書を通して命と命の対話を交わしたいということであった。
嬉しいことに、その願いの通り、今、いずこの地でも地涌の若人が「人間革命」の精神を学び、「山本伸一」の心を体して、人生と広布に、栄光の実証を威風堂々と勝ち示してくれている。
小説『人間革命』は、恩師が戦禍の暗闇を破って一人立つ、「黎明」の章で始まり、不二の弟子に受け継がれる「新・黎明」の章で終わった。
『新・人間革命』は、「旭日」の章で始まった。旭日が昇るように、創価の師弟は世界広布へ飛翔を開始したのだ。
恩師の分身として、仏法の慈光を世界へ届けるため、私は走った。
人間の中へ、民衆の中へ飛び込み、対話の渦を巻き起こしていった。そして、最後の章は、「誓願」として結んだ。
御書には、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(一五六一ページ)、「大願とは法華弘通なり」(七三六ページ)と仰せである。
師と同じ大法弘通の大願に立てば、力は無限に湧き出すことができる。それが、誇り高き地涌の菩薩の底力だ。
師弟の誓願の太陽は、母なる地球を照らし、未来永遠を照らす光源として、今、いやまして赫々と輝き始めたのである。
あの国にも、この天地にも、友がいる。民衆が待っている。
さあ、人類が待望してやまぬ「世界広布」即「世界平和」へ、新たな決意で、新たな出発だ。
我は進む。君も進め。
我は戦う。君も戦え。
我は勝つ。君も勝て。
我らは、共々に「人間革命」の大光を放ちながら、新鮮なる創価の師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ! 君と我との誓願の旅を、永遠に!
随筆 永遠なれ創価の大城 34「人間革命」の大光 2018年9月15日
小説「新・人間革命」研さんに当たって
2018年10月3日
池田博正主任副会長
「山本伸一」の精神を胸に
池田大作先生の小説『新・人間革命』の連載が9月8日、完結を迎えた。現在、各地では『新・人間革命』の研さん運動が活発に行われている。新連載「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」では、各巻を学ぶ上で、参考となる解説や資料を掲載していく。今回は「小説『新・人間革命』研さんに当たって」と題し、池田主任副会長へのインタビューを紹介する。(インタビューの内容は、創価新報の2017年2月1日付と3月1日付で掲載された記事に加筆し、再構成したものです)
池田先生が『新・人間革命』の執筆を開始されたのは65歳の時です。一般的には、“定年”という人生の一区切りの年齢でもあります。その時点で、先生は全30巻での完結という壮大な目標を目指し、新たな挑戦を宣言されました。
『新・人間革命』の「はじめに」には、小説の執筆は「限りある命の時間との、壮絶な闘争となる」と記されています。連載を待ってくれている読者、後継の弟子たちに、何を伝え残していくか。そこに、先生の人生を懸けた戦いがあるのだと感じてなりませんでした。
1993年(平成5年)8月6日の執筆開始から25年。『新・人間革命』の連載が、9月8日に完結を迎えました。振り返れば、『人間革命』の執筆が開始されたのは、1964年(昭和39年)12月2日です。
『新・人間革命』第10巻「言論城」の章には、「移動の車中などで、小説の資料となる文献を読み、構想を練り、早朝や深夜に、原稿用紙に向かう日が続いた」とつづられています。
54年にわたる『人間革命』『新・人間革命』の執筆は、海外訪問などの激務の中でも続けられた、寸暇を惜しんでの「闘争」でした。その激闘に、感謝してもしきれません。
「新」の一字の意義
池田先生が『新・人間革命』の執筆を開始されたのは、軽井沢の長野研修道場です。かつて私が研修道場を訪れた折、先生が記された「全三十冊の予定なり」との直筆原稿が展示されていました。
戸田先生は逝去の8カ月前、軽井沢の地で池田先生に語りました。「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先に立って、できないということだよ」と。この時、池田先生は、恩師の真実を残すために、“続編”の執筆を固く決意されています。
池田先生の『人間革命』は戸田先生の出獄の場面から始まり、戸田先生が逝去された後、山本伸一が創価学会の会長に就任する場面で終わります。
一方、『新・人間革命』の冒頭は、伸一の会長就任から5カ月後、海外初訪問のシーンから始まっています。
これは、『新・人間革命』が、単に歴史的事実を追うものでなく、「世界広布」を主題としているからではないでしょうか。戸田先生から託された広宣流布の壮大な構想を、弟子がいかに実現していくか。いかに新たな時代に、人間革命の哲学と実践を展開していくか。そこに「新」という一字の意義があると言えるでしょう。
『人間革命』『新・人間革命』には、「一人の偉大な人間革命」が、多くの人々の地涌の生命を呼び覚ますという、人間に対する限りない信頼と尊敬の思想が底流にあります。
『新・人間革命』では、宿命転換を通して人間革命を実現している体験が数多く登場します。この人間革命のドラマの急所が、「誓願」と「願兼於業」の法理です。
「願兼於業」について、池田先生は「仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、『宿命を使命に変える』生き方です。人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です」と述べられています。
今、自分が苦難を受けているのは、人を救う「菩薩の誓願」である――そうした学会員の力強い生き方が描かれているのが、『新・人間革命』です。
思いと行動の追体験
池田先生は『新・人間革命』の「はじめに」で、「私の足跡を記せる人はいても、私の心までは描けない。私でなければわからない真実の学会の歴史がある」と書かれています。小説は、人の心を描くには、一番適した形であると思います。
小説だからこそ、読者は、主人公の人生を追体験することができます。「山本伸一」は、あくまで仮名です。もちろん池田先生の生涯そのものですが、弟子の戦いが凝縮されたモデルとも言えます。
つまり、「山本伸一」の人生、心の奥底を追体験し、先生の思いに自分の思いを重ね合わせながら、共戦の道を歩むことができる。誰もが「山本伸一」として生きる可能性を持っているのです。
大発展するインド創価学会のメンバーの合言葉は、「アイ アム シンイチ・ヤマモト(私は山本伸一だ)」です。先生の『新・人間革命』を読み、インド広布に一人立った伸一の思いと行動を追体験しながら、“今こそ、自分が山本伸一の精神で戦おう”と立ち上がっています。
2010年(平成22年)以降、先生が直接、会合に出席されないようになったことで、『新・人間革命』の意義は一層、大きくなりました。先生は小説で、創価学会の精神の正史と、自身の心境をつづられながら、力強いメッセージを発信されてきたのです。
時代が進めば、小説で描かれている当時を知る人は減っていきます。もちろん、その証言は貴重ですが、『新・人間革命』によって、折々の広布史や学会精神が世代から世代へと、“先生の思いと共に”永続的に伝わっていく。ここが、より重要な点です。
言い換えれば、『新・人間革命』は、後世の学会員の依処となる“文証”とも言えるでしょう。だからこそ、私たちが今、しっかりと学んでいくことが大切です。それが、「学会の永遠性」の確立につながっていくのだと確信します。
連載の時期を確認
『新・人間革命』全30巻を、いきなり通して読むのは大変でしょう。その努力をしていくことは大切ですが、まずは、どの巻でも、どの場面でもいいので、自分が身近に感じるシーンや、現在、住んでいる地域・故郷などが描かれている部分を深く読み込んでいくことです。
例えば海外への足跡は、誰も知らないその国の“広布の第一歩”が記されています。日本国内でも、草創期の友の奮闘を通して、先生にしか書くことができない“原点”がとどめられています。その史実を学びながら、前後の背景を読み進めていくとよいでしょう。
また、連載された時期を確認することも大事です。なぜなら、先生は“執筆時”の真情をも記されているからです。
2011年9月1日から連載された「福光」の章は、同年3月11日の東日本大震災で被災した東北を中心に描かれています。先生は苦難に向き合う友へ光を当て、全精魂を込めて励ましを送り続けられました。その一文一文が、どれほど希望となったことでしょうか。
先月の11日から3日間にわたって掲載された「小説『新・人間革命』完結 記念特集」には、全30巻の「主な内容」が載っています。こうした記事を参考に、『新・人間革命』を開くのもいいでしょう。
わが誓願を果たそう
『新・人間革命』第1巻の「あとがき」に、こうつづられています。
「師の偉大な『構想』も、弟子が『実現』していかなければ、すべては幻となってしまう。師の示した『原理』は『応用』『展開』されてこそ価値をもつ」
これからの時代は、『新・人間革命』を、弟子の立場でどう深め、実践していくかが鍵となります。いかに自分たちの血肉とし、後世に正しく伝えていくか。その意味で青年部の皆さんは、使命ある“新・人間革命世代”と言えるでしょう。
8月22日付の「随筆 永遠なれ創価の大城」〈「誓願」の共戦譜〉で、先生は次のように述べられています。
「広宣流布という民衆勝利の大叙事詩たる『人間革命』『新・人間革命』は、わが全宝友と分かち合う黄金の日記文書なり、との思いで、私は綴ってきた。ゆえにそれは、連載の完結をもって終わるものでは決してない」
未来永遠に広布の「誓願」を貫き、自他共の生命を栄え光らせていく。師が託したこの思いに応えていく「使命」が、私たちにはあります。
一人一人が日々、『新・人間革命』の研さんを重ねながら、わが広布の「誓願」を果たし抜いていきましょう。
最終章を脱稿した長野研修道場で
1993年8月6日、池田先生が長野研修道場で執筆を開始した小説『新・人間革命』。起稿25周年の今年8月6日、同じ長野研修道場で、先生は最後の章を脱稿した。
広島原爆忌のこの日、先生は平和への祈りを捧げ、香峯子夫人と共に、研修の役員と出会いを刻んだ。
師は見守り続けている。
弟子の成長を――。
弟子の勝利を――。
「随筆 永遠なれ創価の大城」〈「人間革命」の大光〉に、先生は記した。
「我らは、共々に『人間革命』の大光を放ちながら、新鮮なる創価の師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ!」
さあ、きょうも新たな出発だ。師弟の誓願を貫き、“わが黄金の日記文書”を朗らかにつづろう。
2018年10月3日付 聖教新聞 3面
世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶII 6巻~10巻
世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶIII 11巻~15巻
世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶIV 16巻~20巻
第3巻
物語の時期 1961年1月1日~2月14日【挿絵】内田健一郎
基礎資料編 2018年12月5日
「仏法西還」の章
1961年の元旦、山本伸一は自宅で「元朝に 祈るアジアの 広布かな」と認め、妻の峯子に贈る。この1月には28日からの18日間、香港、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジアへの平和旅を控えていた。
学会本部で行われた初勤行の席上、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」との戸田城聖の和歌が紹介された。翌2日、伸一は、その東洋広布を熱願していた戸田の墓前で、アジア初訪問の出発を報告する。
アジア訪問の折、「仏法西還」の先駆けの証しとして、釈尊の成道の地であるインドのブッダガヤに、御書の「三大秘法抄」や、「東洋広布」の石碑などを埋納するため、同行のメンバーが準備に奔走する。伸一は渡航前の多忙な日々の中で、九州の3総支部合同の結成大会、両国支部、宇都宮支部、城西支部、都南支部、江戸川支部など、各地の支部結成大会を中心に指導に駆け巡る。
1月28日、香港に降り立った伸一は、座談会で、海外ではアジア初の地区を結成。「香港を東洋の幸福の港にしていこう」との期待を寄せる。
戸田先生の和歌
雲の井に
月こそ見んと
願いてし
アジアの民に
日をぞ送らん
この和歌を聞くと、伸一の心は躍った。それは、一九五六年(昭和三十一年)の年頭に、戸田が詠んだ懐かしい和歌であった。
――雲の切れ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遥かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
ここでいう「月」とは釈尊の仏法であり、「日」とは日蓮大聖人の仏法をさすことはいうまでもない。戸田は、「諫暁八幡抄」などに示された、大聖人の「仏法西還」の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
(「仏法西還」の章、9ページ)
「月氏」の章
香港を発ち、次の目的地に向かう機中、伸一は同行の幹部に、近い将来、アジアに総支部をつくりたいとの考えを打ち明ける。戸惑う幹部に対し、「まず構想を描く。そして、そこから現実をどう開いていくかを考えていくんだ」と、現状追随的な意識を打破することを訴える。
シンガポールを経由し、セイロンへ。そこでは、一人の青年を激励し、男子部の隊長に任命する。
いよいよインドに到着した一行は、イスラム王朝のクトゥブの塔や、デリー城などを視察。マハトマ・ガンジーを荼毘に付したラージ・ガートに立ち寄り、インドを独立に導いた非暴力の闘争に思いを巡らす。また、アショーカ大王の法勅を刻んだ石柱の下では、仏法を根底にした政治について語り合う。
タージ・マハルやアグラ城などを巡り、2月4日、ブッダガヤに入る。管理委員会の許可を得て、大菩提寺の境内に、「東洋広布」の石碑や「三大秘法抄」などを埋納する。戸田に誓った東洋広布へ、第一歩を踏み出した伸一は、仏教発祥のインドの地で、“出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”と心で叫ぶ。
「東洋広布」の石碑
1961年、インド・ブッダガヤに埋納された「東洋広布」の石碑は現在、ニューデリー近郊の創価菩提樹園にある。
2015年、インド創価学会(BSG)の地涌の陣列は、目標の10万人を突破。この年、「『東洋広布』の石碑を、この菩提樹園で、私たちが永遠に守っていきたい」とのインドの同志の発願によって、ブッダガヤから移設・埋納された。
本年、インドの同志は20万人超に。師が先駆けした東洋広布は今、加速度を増して伸展している。
「仏陀」の章
埋納を終えた一行は、大菩提寺の周辺を散策。釈尊ゆかりの場所を訪ねた伸一は、人類を生命の光で照らした、その生涯に思いをはせる。
釈迦族の王子として生まれた釈尊は、生後間もなく母を亡くす。万人が避けることのできない老・病・死の問題を解決するため、彼は王家の生活を捨て、出家の道に進む。
禅定や苦行に励むが悟りを得られなかった釈尊は、尼連禅河を渡り、菩提樹の下で深い瞑想に入り、思念を凝らす。次々と襲う欲望への執着、飢え、眠気、恐怖、疑惑と戦い、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、感動のなかに、永遠不変の真理である「生命の法」を覚知。ついに大悟を得て、仏陀となる。
彼は、悟った法を説くべきか否か、悩み苦しんだ末に、民衆の中に入って法を説くことを決意する。
六師外道たちからの迫害にも、提婆達多の反逆にも屈せず、愛弟子の舎利弗、目連との死別の悲しみをも乗り越え、最期の一瞬まで人々を教化した。
伸一は、その生涯を思い、自らも命の燃え尽きる時まで、わが使命の旅路をゆくことを誓う。
「平和の光」の章
ガンジス川を訪れた伸一は、居合わせた身なりの貧しい子どもたちとの交流を通して、世界各地の繁栄と平和を念じた戸田の遺志を継ぐ、自身の使命と責任の重さを感じる。その後、寺院や博物館等を見学した一行は2月7日、8日間滞在したインドを離れ、ビルマへと向かう。
伸一は、ビルマで戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行う。彼の胸には、長兄との思い出が次々と去来する。割れた母の鏡の破片を大切に分け合ったこと。出兵先から一時帰国した兄が、憤懣やるかたない様子で戦争の悲惨さを訴えたこと。その兄の戦死の報を受け、背中を震わせながら母が泣いていたこと――。戦没者の冥福を願う祈りは、恒久平和への強い誓いとなっていた。
その後、一行は、タイ、カンボジアを訪問。アジア各地で日本軍による戦争の傷跡を目にした伸一は、一人の日本人として、「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと決意する。東洋の哲学・文化・民族の研究機関や、音楽などの交流を目的とした団体の設立を構想。一切の行程を終え、2月14日、帰国の途に就く。
第2巻
物語の時期 1960年5月3日~同年末【挿絵】内田健一郎
基礎資料編 2018年11月7日
「先駆」の章
山本伸一は1960年5月3日、第3代会長に就任すると、恩師・戸田城聖の遺言である300万世帯の達成を4年後の七回忌までの目標として、新たなスタートを切る。
5月8日には、全国に先駆けて関西総支部幹部会へ。新支部長たちに励ましの言葉を掛けながら支部旗を手渡す。それまで8支部だった関西は、18支部へと陣容を拡大した。
東京に戻った伸一は、9日に女子部幹部会に出席。活動の柱は「座談会」と「教学」であることを訴える。10日の男子部の幹部会でも、「青年の手で座談会を大成功させていこう」と指導。青年部に先駆けの活躍を期して万感の激励を送っていった。
日蓮大聖人の「立正安国論」上書から、ちょうど700年になる7月16日。伸一は、アメリカの施政権下にあった沖縄を初訪問する。翌日、沖縄支部の結成大会に出席。学会のめざす広宣流布とは、この世から「悲惨」の二字をなくし、世界の平和を実現するものであることを訴える。
伸一は沖縄戦の戦跡を訪ね、戸田の伝記ともいうべき小説の筆を起こすのは、沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと思う。
「錬磨」の章
伸一は、7月22日、第2回婦人部大会に出席。「信心は行き詰まりとの永遠の闘争」との戸田の言葉を通し、勇敢に人生行路を開いていただきたいと訴えた。
伸一は、夏から秋にかけて青年たちの本格的な育成を開始する。7月30日には、千葉県の犬吠埼で行われた男子部の人材育成グループ「水滸会」の野外研修へ。彼は、この研修を、広布を担い立つ旅立ちの集いにしようと考えていた。しかし、その決意も情熱も感じられない参加者の姿を見て、厳しく指導。創価学会の中核として立つべき「水滸会」の自覚を促した。翌日は、女子部の「華陽会」の野外研修が行われている千葉県の富津の海岸へ。一緒にドッジボールに汗を流すなど、メンバーと金の思い出を刻む。
伝統の夏季講習会では「日興遺誡置文」を講義する。
この夏、伸一は、地方指導のほか、各地で行われた青年部の体育大会などに出席。9月に東京の国立競技場で開催された第3回全国体育大会「若人の祭典」では、恩師から受け継いだ広宣流布の“魂のバトン”を託すのは青年部であると語る。
「勇舞」の章
10月25日に北・南米の旅から帰国後、伸一は千葉、前橋の支部結成大会へ。千葉では、戦後の食糧難の時代に幕張へ買い出しに来て、農家の婦人が親切にしてくれたことを回顧する。11月6日には、横浜での第9回男子部総会へ。
さらに、支部結成大会の旅は沼津、甲府、松本、長野、富山、金沢へと続く。沼津では、支部長の妻に丁重にあいさつし、家族への配慮の大切さを自らの振る舞いで示す。松本から長野までの列車内では、女子部のリーダーの、事業に失敗したという父親と懇談し、激励する。長野では、旅館で支部幹部と懇談。学歴がないことを不安に思う男子部のリーダーに「自分らしく、自分のいる場所で頑張ることです」と語り、自ら「田原坂」を歌って励ます。
新設された各支部の幹部たちは、伸一の行動を通して「同志を、会員を守り、励ます」リーダーのあり方を学んでいった。
11月18日には、初代会長・牧口常三郎の十七回忌法要に参列。「信教の自由」という信念を貫いて獄死した先師をしのび、牧口を永遠に世界に顕彰しようと誓いの炎を燃やす。
「民衆の旗」の章
11月20日、第8回女子部総会に出席した伸一は、戸田の「女子部は幸福になりなさい」との指導を引き、広宣流布という真実の幸福の道を歩み抜くよう訴える。
11月下旬、東北各地の支部結成大会へ。山形、南秋田、岩手の大会に相次いで出席し、学会は「会員第一」「民衆根本」であることを強調する。帰京後は、第2回学生祭へ。「仏法」と「世界のさまざまな思想」の関係性に言及する。
12月に入っても、伸一の激闘は続く。4日は大分支部の結成大会に出席。場外で献身していた役員の青年たちに、10年後をめざしての前進を望む。5日は関西3総支部結成大会、6日は徳島支部の結成大会、7日は岡山での中国本部の落成式に臨む。
その後も、明年度の諸活動の検討など、一年の総仕上げに全力を注ぎ、年末のある夜、久方ぶりに、つかの間の家族だんらんを過ごす。
会長就任以来、片時の休みもなく走り続け、学会の総世帯は170万世帯を上回り、124支部の陣容に。伸一は“民衆の旗”を掲げ、勝利を誓い、決戦の第2幕に躍り出ようとしていた。
名場面編 2018年11月14日
師の偉業を永遠に
戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭の島・沖縄にも広がり、友の歓喜は金波となり、希望は銀波となったのである。
山本伸一は、その師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手がけねばならないと思った。
しかし、彼には、その前に成さねばならぬ誓いがあった。戸田の遺言となった三百万世帯の達成である。伸一は、それを戸田の七回忌までに見事に成就し、その勝利の報告をもって、師の伝記小説に着手しようとしていた。
戸田は「行動の人」であった。ゆえに弟子としてその伝記を書くには、広宣流布の戦いを起こし、世界平和への不動の礎を築き上げずしては、戸田の精神を伝え切ることなどできないと彼は考えていた。文は人である。文は境涯の投影にほかならないからだ。
伸一は、戸田の七回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った。
彼の周りに、見学を終えた友が集まって来た。伸一は、沖縄の友に語りかけた。「かつて、尚泰久王は、琉球を世界の懸け橋とし、『万国津梁の鐘』を作り、首里城の正殿に掛けた。沖縄には平和の魂がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、みんなの使命だよ」
(「先駆」の章、86~87ページ)
“行き詰まり”との闘争
伸一の話は、青春時代の自分の体験に及んだ。
「戸田先生が事業の再建のために苦闘されていた時代が、私にとっても、最も苦しい時代でした。健康状態も最悪であり、給料は遅配が続き、無理に無理を重ねていました。
そして、先生とお会いしていた時に、つい弱音を口にしてしまったことがありました。その時、先生が、厳しく言われた言葉が忘れられません。
『伸一、信心は行き詰まりとの永遠の闘争なんだ。魔と仏との闘争が信心だ。それが“仏法は勝負”ということなんだ』
人生には、誰でも行き詰まりがあります。事業に行き詰まりを感じている人もいるかもしれない。夫婦の関係にも、行き詰まってしまうことがあるでしょう。子育てでも、人間関係の面でも、あるいは、折伏や教学に励んでいる時も、行き詰まりを感ずることがあるかもしれません。
しかし、御本尊の力は広大無辺であり、宇宙大であります。ゆえに、私たちの生命も、無限の可能性を秘めています。
つまり、問題は私たちの一念に、行き詰まりがあるかどうかにかかっています。それを本当に自覚した時には、既に勝利の道が開かれているんです。
もし、行き詰まりを感じたならば、自分の弱い心に挑み、それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。戸田先生は、それが私たちにとっての『発迹顕本』であると言われたことがあります。(中略)何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの“闘争”だ、障魔との“闘争”だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのであります」
(「錬磨」の章、96~99ページ)
対立の壁を超えて
一人の青年が尋ねた。
「東西両陣営の対立は、ここに来て、ますます深刻化しつつありますが、これは日蓮大聖人が仰せの、自界叛逆難の姿ととらえることができますでしょうか」
「私(山本伸一=編集部注)も、そう思います。交通や通信の発達によって、現在の世界は狭くなった。もはや地球は一つの国です。そう考えていくと、東西の対立は、日蓮大聖人の時代の自界叛逆難といえます。
仏法を持った私たちが、世界の平和のために、民衆の幸福のために立ち上がらねばならない時が来ているんです。
イデオロギーによる対立の壁を超えて、人間という原点に返るヒューマニズムの哲学が、これからの平和の鍵になります。それが仏法です」
(中略)「いかに制度や環境を整えたとしても、人間の悩みを克服し、向上心や自律心を培うといった、内面の問題を解決することはできません。
もし、宗教をいつまでも排斥していけば、精神の行き詰まり、荒廃を招くことになります。ゆえに、人間の精神をいかに磨き、高めていくかを真剣に考えるならば、真実の宗教の必要性を痛感せざるをえないでしょう。
そのためにも、大事なことは各国の指導者との対話だと私は思っている。対話を通し、信頼と共感が生まれれば、自然に仏法への眼を開いていくことになります。三十年もたってみれば、今、私の言ったことの意味がよくわかるはずです」
(「錬磨」の章、126~128ページ)
日頃の振る舞い
女子部の幹部が質問した。
「私の母は信心していないので、家に帰り、母と顔を合わせると、歓喜が薄らいでしまいます。どのようにすればよいでしょうか」
「家のなかを明るくするために信心しているのに、あなたが暗くなってしまったら、意味がないではありませんか。また、お母さんを信心させたいと思うなら、あなた自身が変わっていくことです。『そもそも仏法とは……』などと、口で偉そうに語っても、お母さんから見れば、いつまでも娘は娘です。ですから、そんなことより、お母さんが、本当に感心するような、優しく、思いやりにあふれた娘さんになることの方が大切です。
たとえば、本部の幹部会で東京に行った時など、お土産を買って帰るぐらいの配慮が必要です。また、家に帰ったら、『ただ今帰りました。ありがとうございました』と、素直にお礼を言えるかどうかです。信心といっても、特別なことではありません。あなたの日頃の振る舞い自体が信心なんです。
お母さんから見て、“わが子ながら本当によく育ったものだ。立派になった”と、誇りに思える娘になれば、必ず信心しますよ。お母さんの心に、自分がどう映るか――それが折伏に通じるんです」
(「勇舞」の章、209~210ページ)
約束は必ず守る
山本伸一が父親として常に心がけていたことは、子どもたちとの約束は、必ず守るということだった。
伸一は、せめて年に一、二度は、一緒に食事をしようと思い、ある時、食事の約束をした。しかし、彼は自分がなさねばならぬことを考えると、そのために、早く帰宅するわけにはいかなかった。
そこで、学会本部から車で十分ほどのレストランで、ともに夕食をとることにした。
しかし、その日になると打ち合わせや会合が入り、取れる時間は、往復の移動も含めて、二、三十分しかなかった。だが、それでも伸一はやって来た。ものの五分か十分、一緒にテーブルを囲んだだけで立ち去らねばならなかったが……。
親子の信頼といっても、まず約束を守るところから始まる。もちろん、時には守れないこともあるにちがいない。その場合でも、なんらかのかたちで約束を果たそうとする、人間としての誠実さは子どもに伝わる。それが“信頼の絆”をつくりあげていくのだ。
峯子は、足早に去っていく伸一を見送ると、子どもたちに言った。
「パパは、来ることなんてできないほど忙しかったのに、約束を守って、駆けつけてくださったのよ。よかったわね」
まさに、子育ての要諦は夫婦の巧みな連係プレーにあるといえよう。
(「民衆の旗」の章、329~330ページ)
2018年11月14日付 聖教新聞 3面
第1巻
物語の場面 1960年10月2日~25日【挿絵】内田健一郎
基礎資料編 2018年10月10日
「旭日」の章
第3代会長就任からわずか5カ月後の1960年10月2日、山本伸一は、「君の本当の舞台は世界だよ」との恩師・戸田城聖の言葉を胸に、初の海外歴訪へ出発。その記念すべき第一歩を、ハワイにしるした。
しかし、連絡の手違いから、ホノルルの空港には、通訳と案内をするメンバーの姿はなく、一人の青年があいさつに来ていただけだった。
明くる日、一行は国立太平洋記念墓地とパール・ハーバー(真珠湾)を訪れる。伸一は、「太平洋戦争の開戦の島であり、人種の坩堝ともいうべきハワイこそ、世界に先駆けて、人類の平和の縮図の地としなければならない」と深く決意する。
出席した座談会では、言語や習慣の異なる異国での生活に苦悩する日系人メンバーを温かく励まし、勇気づけていく。また、海外初の「地区」を結成。座談会を終えた後も、宿泊しているホテルで、地区部長となった壮年に渾身の励ましを送り、ハワイ広布への大きな布石を打つ。
ハワイの滞在は、わずか三十数時間であった。だが、メンバー一人一人への激励を重ね、世界広布の第一ページを開いた。
「新世界」の章
平和旅の第2の訪問地サンフランシスコは、日本と連合国との講和条約と日米安全保障条約の調印の地である。伸一は、対立する東西両陣営と新安保条約を巡って紛糾した日本の状況に思いをはせる。
サンフランシスコでも地区を結成した伸一は、ネバダ州から来ていた夫妻と語り合い、ネバダにも地区を結成することを発表。アメリカ人の夫を地区部長に任命した。日系人以外の初の地区部長の誕生だった。
また、座談会で伸一は、アメリカ広布を担っていくために、「アメリカの市民権を取得し、良き市民に」「自動車の運転免許を取ること」「英語のマスター」という三つの指針を提案。それは、アメリカの同志の誓いの3指針となっていく。
さらに彼は、ミューア・ウッズ国定公園に向かう道中、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の構造を通して、同行していた新任のリーダーに、異体同心の団結の重要性を訴える。
公園からの帰途、コロンブス像の前で代表のメンバーと記念撮影するとともに、広布の新世界開拓の誓いを固くする。
「錦秋」の章
舞台はシアトル、シカゴ、そして、紅葉のカナダ・トロントへ。
シアトルのホテルに、大型のテープレコーダーを抱えた婦人が息を切らせて訪ねてくる。自分の地域のメンバーに伸一の指導を聞かせたいという熱意からの行動だった。伸一は体調を崩しながらも、出会った一人一人に励ましを送る。
シカゴの空港では、学会歌「威風堂々の歌」の合唱の出迎えを受ける。伸一は同行の幹部たちにアメリカ総支部の構想、インド、ヨーロッパ訪問の計画を語る。
リンカーン・パークで遊びの輪に入れてもらえない“黒人”の少年を目にした伸一は、人種差別の現実に心を痛め、万人の尊厳と平等を説く仏法流布の意義をかみ締める。一方、座談会には、さまざまな人種の人たちが和気あいあいと集い合っていた。
続いて、カナダのトロントへ。在住する会員はいないと一行は聞いていたが、空港に到着すると、一人の婦人が待っていた。彼女は、日本で入会していた母から、迎えに行くよう言われていた。誠実で思いやりにあふれる伸一の振る舞いに接し、後に彼女は信心を始める。
「慈光」の章
次の訪問地は、アメリカ最大の都市ニューヨーク。一行は国連本部を訪れる。伸一は、独立間もないアフリカ諸国代表の生き生きとした姿に触れ、「二十一世紀は、必ずアフリカの世紀になるよ。その若木の生長を、世界はあらゆる面から支援していくべきだ」と訴える。
彼は、ニューヨークでも、苦悩に沈む友に、「一番、不幸に泣いた人こそ、最も幸福になる権利があります」と烈々たる気迫で指導。また、首都ワシントンでの座談会では、メンバーの質問に答えながら、仏法のヒューマニズムの精神に言及する。
さらに、ニューヨーク・タイムズ社の見学に行く秋月英介に、聖教新聞を「世界一流の新聞に」と語り、恩師・戸田城聖の「日本中、世界中の人に読ませたい」との言葉を伝える。そして、聖教は“人間の機関紙”であり、「『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしなくてはならない」との思いを述べ、未来への展望を披歴する。
一方で、伸一の体調は悪化していく。ブラジル行きの中止を懇請する副理事長の十条潔に、戸田の弟子として断じて行くとの覚悟を語る。
「開拓者」の章
ニューヨークからサンパウロへの移動の折、伸一は機内で十条に対し、ブラジルに支部を結成する構想を述べる。最悪な体調にもかかわらず、激しく揺れる機内でブラジル広布に思いを巡らしていた、伸一の世界広布への強き一念に、十条は驚く。
サンパウロの空港に到着したのは、午前1時半過ぎであった。出迎えに来ていた友の半数以上が、日本から移住し、農業に従事していた男性だった。伸一はメンバーの真心に感謝し、ブラジル広布の夜明けを開くことを誓う。
次の日、現地の視察に出かけ、夕刻には勤行会を開催。その後も、ホテルで深夜まで支部結成の打ち合わせを行い、寝る時間も惜しんで日本の同志に激励の手紙を書く。
座談会では、日系移住者の過酷な生活状況が語られる。伸一は、広布誓願の祈り、「努力」と「工夫」の大切さを強調。支部結成が発表されると、友の歓喜と決意は最高潮を迎える。
その後、一行はロサンゼルスに入り、ここでも支部を結成。彼は、24日間の平和旅で、3カ国9都市を巡り、2支部17地区を結成。10月25日夜、帰国する。
2018年10月10日付 聖教新聞 3面
名場面編
2018年10月17日
皆の幸せのために
ヒロト・ヒラタは、瞳を輝かせ、真剣に耳を傾けていた。伸一は、確かな手応えを感じながら、幹部としての信心の姿勢を話していった。
海には、丸い月がほの白い影を映し、浜辺には、波の音が静かに響いていた。
「これからの人生は、地区部長として、私とともに、みんなの幸せのために生きてください。
社会の人は、自分や家族の幸せを考えて生きるだけで精いっぱいです。そのなかで、自ら多くの悩みを抱えながら、友のため、法のため、広布のために生きることは、確かに大変なことといえます。
しかし、実は、みんなのために悩み、祈り、戦っていること自体が、既に自分の境涯を乗り越え、偉大なる人間革命の突破口を開いている証拠なんです。
また、組織というのは、中心者の一念で、どのようにも変わっていきます。常にみんなのために戦うリーダーには、人は付いてきます。しかし、目的が自分の名聞名利であれば、いつか人びとはその本質を見抜き、付いてこなくなります」
ヒラタには、乾いた砂が水を吸い込むような、純粋な求道の息吹があった。伸一は、彼の手を握りながら言った。
「あなたを地区部長に任命したのは私です。あなたが敗れれば、私が敗れたことです。責任は、すべて私が取ります。力の限り、存分に戦ってください」
「はい! 戦います!」
ヒラタは伸一の手を固く握り返した。月明かりのなかで二人の目と目が光った。
(「旭日」の章、76~77ページ)
異体同心の団結で
市街を抜け、サンフランシスコ湾を右手に見ながら進んでいくと、行く手にゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の赤い鉄柱が見えた。それは、近づくにつれて、頭上にのしかかってくるかのようにそびえ立っていた。
一行は、橋の近くの広場で車を降り、休憩することにした。
広場には、橋を吊り上げているケーブルの一部が展示されていた。その直径は九十二・四センチメートルで、二万七千五百七十二本のワイヤを束ねて作ったものだという。
一行は、展示されたケーブルを、取り囲むようにして立った。
「ケーブルは太いけれど、中の一本一本のワイヤは意外に細いものなのね。これで、よくあの橋を吊り上げることができるわね」
清原かつが、驚きの声をあげた。
伸一は清原の言葉に頷きながら、前日、地区部長と地区担当員に任命になったユキコ・ギルモアとチヨコ・テーラーに向かって語り始めた。
「確かに、一本一本は決して太いものではない。しかし、それが、束ねられると、大変に大きな力を発揮する。これは異体同心の団結の姿だよ。
学会も、一人ひとりは小さな力であっても、力を合わせ、結束していけば、考えられないような大きな力を出せる。団結は力なんだ。これからは、あなたたちが中心になって、みんなで力を合わせ、サンフランシスコの人びとの幸せと広布を支えていくことです」
「はい!」
二人が同時に答えた。彼女たちは、自分たちが途方もなく大きな、崇高な使命を担っていることを強く感じ、身の引き締まる思いがした。
(「新世界」の章、134~135ページ)
会長就任「五月三日」の夜
伸一は、第三代会長として、一閻浮提広布への旅立ちをした、この年(一九六〇年=編集部注)の五月三日の夜、妻の峯子と語り合ったことを思い出した。
――その日、夜更けて自宅に帰ると、峯子は食事のしたくをして待っていた。普段と変わらぬ質素な食卓であった。
「今日は、会長就任のお祝いのお赤飯かと思ったら、いつもと同じだね」
伸一が言うと、峯子は笑みを浮かべながらも、キッパリとした口調で語った。
「今日から、わが家には主人はいなくなったと思っています。今日は山本家のお葬式ですから、お赤飯は炊いておりません」
「確かにそうだね……」
伸一も微笑んだ。妻の健気な言葉を聞き、彼は一瞬、不憫に思ったが、その気概が嬉しかった。それが、どれほど彼を勇気づけたか計り知れない。
これからは子どもたちと遊んでやることも、一家の団欒も、ほとんどないにちがいない。妻にとっては、たまらなく寂しいことであるはずだ。だが、峯子は、決然として、広宣流布に生涯を捧げた会長・山本伸一の妻としての決意を披瀝して見せたのである。
伸一は、人並みの幸福など欲しなかった。ある意味で広布の犠牲となることを喜んで選んだのである。今、妻もまた、同じ思いでいることを知って、ありがたかった。
(「錦秋」の章、156~158ページ)
師弟貫く不屈の闘魂
伸一は、背広のポケットにしまった恩師・戸田城聖の写真を取り出すと、ベッドで体を休めながら、その写真をじっと見つめた。
彼の頭には、戸田の逝去の五カ月前の十一月十九日のことが、まざまざと蘇った。それは恩師が病に倒れる前日であった。伸一はその日、広島に赴こうとする戸田を、叱責を覚悟で止めようとした。
恩師の衰弱は極限に達して、体はめっきりとやつれていた。更に無理を重ねれば、命にかかわることは明らかだった。
学会本部の応接室のソファに横になっている戸田に向かい、彼は床に座って頭を下げた。
「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
彼は、必死で懇願した。しかし、戸田は毅然として言った。
「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ。
伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ!」
その烈々たる師の声は、今も彼の耳に響いていた。
“あの叫びこそ、戸田先生が身をもって私に教えてくれた、広宣流布の大指導者の生き方であった”
ブラジルは、日本とはちょうど地球の反対にあり、最も遠く離れた国である。そこで、多くの同志が待っていることを考えると、伸一は、なんとしても行かねばならないと思った。そして、皆を励まし、命ある限り戦おうと心を定めた。胸中には、戸田の弟子としての闘魂が燃え盛っていた。
(「慈光」の章、265~266ページ)
肉体が限界を超えても
打ち合わせが終わったのは深夜だった。伸一の肉体の疲れは既に限界を超え、目まいさえ覚えた。
しかし、バッグから便箋を取り出すと、机に向かい、ペンを走らせた。日本の同志への激励の便りであった。手紙は何通にも及んだ。
彼は憔悴の極みにあったが、心には、恩師・戸田城聖に代わってブラジルの大地を踏み、広布の開拓のクワを振るう喜びが脈動していた。その歓喜と闘魂が、広宣流布を呼びかける、熱情の叫びとなってあふれ、ペンは便箋の上を走った。
ある支部長には、こうつづっている。
「今、私の心は、わが身を捨てても、戸田先生の遺志を受け継ぎ、広布の総仕上げをなそうとの思いでいっぱいです。そのために大事なのは人です、大人材です。どうか、大兄も、私とともに、最後まで勇敢に、使命の道を歩まれんことを切望いたします。
そして、なにとぞ、私に代わって支部の全同志を心から愛し、幸福に導きゆかれんことを願うものです」
日本の同志は、この時、伸一が、いかなる状況のなかで手紙を記していたかを、知る由もなかった。しかし、後日、それを知った友は、感涙にむせび、拳を振るわせ、共戦の誓いを新たにするのであった。人間の心を打つものは、誠実なる行動以外にない。
(「開拓者」の章、290~291ページ)
2018年10月17日付 聖教新聞 3面